結局、イストが見つけた共振結晶体の組み合わせは三種類だった。魔力伝導率や組み合わせる合成石の比率その他もろもろをレポートにまとめ、それと一緒にサンプルをセロンに提出したイストは、それで当初契約した仕事を全て果たしたことになる。後はコストや、実際に魔ガラスにしたときの影響などを考慮してセロンが判断を下すだろう。
イストの仕事は終わったが、だからといってセロンたちが開発する魔ガラスのことについてまったく関わらないわけではない。一度関わった身としては進捗情況は気になるし、相談されればそれに乗るのもやぶさかではない。今もまた、彼の部屋にセロンが相談事を持ってきていた。
曰く「魔ガラスの開発で、ガラス職人としてできることが何かないか」
「レポートに何か不備か不満でもあった?」
「いや、そういうわけじゃないんだが………」
セロンが少し言いにくそうに苦笑する。それを見てなんとなく事情を察したイストは、肩をすくめるとそれ以上突っ込んで聞こうとはしなかった。
「確認するけど、あんたが言う『何か』ってのは共振結晶体をどれだけ入れるとか、そういうことじゃないんだよな?」
「ああ、そうだ」
つまり、イストが行ったのとは別方向からのアプローチができないか、ということだ。もちろん共振結晶体を混ぜる方法で魔ガラスを作るのがメインになるのだろうが、この際だから色々と情報を蓄積しておこうと思ったのかもしれない。
「確か、シラクサのガラスの原材料は砂と海藻灰、それに石灰だったよな?」
「ああ。もちろんそれだけではないが」
その三種類を決まった分量で混ぜれば綺麗なガラスができるというような、簡単な話ではない。さらに売り物にするために、そこに鉄や銅などを少量入れることで色をつけたりしている。ちなみにガラスの原材料として使う砂は「珪砂」と呼ばれるもので、石英の粒を多く含んでいる。
「シラクサ近海で採れる海藻は何種ある?」
「種類だけなら幾つもあるが、ガラスの原材料として安定的に手に入るのは三種類くらいか」
「じゃあ、その三種類の海藻灰で、いろいろと組み合わせや比率を変えてサンプルを作ってみたらどうだ?」
そしてそのサンプルの魔力伝導率を測定し情報を蓄積していくのだ。つまり伝導率の高いガラスを作ろうということである。ちなみに砂と石灰はシラクサで調達できるものが一種類しかないので代えようがない。
「もちろん、砂と石灰、それに海藻灰の総量は固定。それとなるべくこの三種類以外に余計なものは入れないほうがいい」
条件を同じにしておかなければ、データを比べることができないからこれは絶対だ。
「それでは、そのまま売り物にすることはできないな………」
セロンは苦笑した。職人としての経験上、イストの言うような方法でガラスを作っても売り物にはならないと直感的にわかる。
「無駄だと思うならやらなければいい」
少し突き放したようにイストは言った。もとより自分の仕事は終わっている。相談程度ならいくらでも乗るが、最終的にどうするかを決めるのはセロンで、それは自分が手を出すものじゃないと割り切っている。
「いや、やる。こういうことは今のうちにやって置いた方がいいだろうしな」
参考になったと言って、セロンは椅子代わりに腰掛けていた寝台から立ち上がった。
「おっと、資料を踏まないでくれよ」
「………踏まないで欲しければ少しくらい整理したらどうだ」
セロンは苦笑しながら部屋を見渡す。イストの部屋はあちらこちらに資料が散乱し、「足の踏み場もない」という言葉を正しく体現していた。ただ、自分も行き来するからなのか、部屋の入り口と机の間だけはある程度整理されていて道(・)ができている。
「どこになにがあるのか、ちゃんと把握してるから大丈夫だよ」
イストは煙管型の魔道具「無煙」を吹かしながら笑った。そういう問題ではないとセロンは言おうとしたが、言っても無駄だと思い直しため息を吐くだけで結局何も言わなかった。正しい判断だといえるだろう。
代わりに、彼の視線はイストが吹かす「無煙」に向く。
「煙草のわりには臭いがしないが、それも魔道具なのか?」
「まあね。禁煙用魔道具の『無煙』だ」
「ほう。じゃあ、煙草の葉っぱは使っていないのか」
「そ。ちなみに煙は水蒸気」
「………一本、売ってくれないか?」
煙草は吸わないがちょっと格好つけてみたくてな、とセロンは少し恥ずかしそうに笑った。
「あいよ。今度用意しとく」
軽い調子でイストは答えた。こうして「無煙」愛好家は増殖していく。紫煙の代わりに水蒸気を燻らせて。
**********
(こんなモノ作って一体何になるって言うんだ………!)
出来上がったガラスのサンプルを目の前にして、紫翠(シスイ)は奥歯を噛締めて拳を強く握った。そのサンプルはくすんでしまっており、とてもではないが売り物にはならない。いや、こうなることは始めから分っていた。だからこれは別にシスイの失敗ではない。
ただ、失敗することが分っているのになぜこんなことをしなければならないのか、それがシスイには分らない。分らないから、シスイは今自分がやっていることに意味を見出せず苛立っていた。
(親父もなんでこんなことを俺にやらせるんだ………!?)
ことの始まりは三日ほど前に遡る。
イストから共振結晶体のレポートとサンプルを受け取った後、ガラス工房「紫雲」の職人たちはにわかに興奮した。いよいよ魔ガラスという新しい商品を作り始めるのだと、胸が高鳴ったものである。
しかしその矢先、シスイは父親で工房主のセロンから別の仕事を言い渡される。それが今やっている「海藻灰の種類と配合比率を変えながらサンプルを作り、一つずつ伝導率を調べろ」という仕事である。
その仕事を言い渡されたとき、シスイはすぐに「なんでそんなことを」とセロンに尋ねた。
伝導率を調べるということは、これは魔ガラス開発のための仕事だろう。しかし、そのためにはすでに共振結晶体という切り札があるではないか。共振結晶体についてのレポートがイストから提出された以上、あとはどれをどのくらい使うかを決めてやれば、それでもう商品化できるはずである。
なのになぜ、今この段階になってガラスのサンプルなど作らなければいけないのか。その当然の疑問を、シスイはセロンにぶつけた。しかしセロンは「自分で考えろ」というばかりにで、シスイの疑問に答えようとはしない。
そうやって、分らないまま作り続けたサンプルはすでに二十個を超えている。言われたとおり一つずつ伝導率を測定し記録を残していく。単調で、実りのない作業だ。
工房の他の職人たちが魔ガラスの商品化に向けて嬉々と仕事をする中、シスイだけは目的の分らない、いや無駄としか思えない作業を繰り返す。嫌々行う作業は彼のうちにストレスを蓄積していき、そしてそれは怒りへと変換されていく。その矛先が向くのは、イストであった。
父であるセロンは優れたガラス職人である。そのセロンがシスイに無駄な仕事をさせるはずがない。しかし今彼がやらされている仕事は明らかに無駄である。ならばその仕事をさせるようにセロンを唆したのはイストだ。
魔ガラスに関しては何も知らない素人である父や自分に無駄なことをさせて、奴は影で笑っているに違いない。
そう考えたら、全身の血液が沸騰した。シスイは勢いよく立ち上がると、肩を怒らせて自分の家へと向かった。家の中ですれ違った母のシャロンが「どうしたの?」と声を掛けてくるが、事情を説明している暇はない。代わりにイストの居場所を聞くと、居間で休憩中だという。
シスイ本人はなるべく冷静であるように心がけていた。しかし傍から見れば彼の形相は険しかったし、やはり肩を怒らせるようにして廊下進んでいく。
「頭イタ………。知恵熱出そ………」
耳に入るイストの脱力しきった声が妙に癇に障る。テーブルに額をつけて突っ伏すその姿に、シスイは怒りにどす黒いものが混じるのを感じた。
「どういうつもりだ………!?」
「ん~?なにが?」
こちらの怒りをはぐらかすかのような間延びした言葉に、ついにシスイの怒りが爆発する。
「あんな無駄なサンプル作らせて、どういうつもりだって聞いてんだよっ!!」
テーブルを叩きつけシスイは怒鳴った。彼の剣幕にさすがにイストも頭を起こしたが、それでもはっきりと迷惑そうな顔をしており、それがまたシスイの怒りを逆なでする。
「ちょっと、シスイ、やめなさい!」
「姉さんは黙っててくれ!!」
台所でお茶を用意していた翡翠(ヒスイ)が、騒ぎを聞きつけて居間にやってくる。一方的に怒っているように見える弟を止めようとするが、あいにくとシスイの怒りは収まらない。
「でかい声だすなよ………、頭に響くんだ」
「貴様っ!!」
顔をしかめながらヒスイが持ってきたお茶を啜るイスト。こちらを挑発しているとしか思えないその言動に、シスイは頭の血管がまとめて何本か切れる音を聞いた気がした。しかし、シスイが再び何か言う前にイストが迷惑そうに口を開いた。
「サンプル作る理由ならセロンさんに聞けよ」
「サンプル作るように親父に指示したのはあんただろう!?」
「相談はされた。作ってみれば、とも言った。だけど作ると決めたのはセロンさんだ」
お茶を啜りながら、イストは淡々と事実を羅列した。しかしその言葉がいかに事実であっても、シスイにしてみれば責任逃れの言い訳にしか聞こえなかった。
「やっぱりあんたが言い出したんじゃないかっ!だったらあんたがやれよ!!」
「阿呆。オレがやったんじゃ意味ないだろうが」
その、いかにも全て分っている風な物言いが気に入らない。「お前は未熟だ」と面と言われているようで、腸が煮えくり返る。「自分で考えろ」とセロンに言われたその答えを、イストは分っているとでも言うのだろうか。
「何なんだよ!?いったい!!」
不満と苛立ちと怒りがまぜこぜになり、シスイは叫んだ。
「シスイ!」
シスイが感情のままにまくし立てるより早く、強制力のある声が彼を抑えた。父でありそして師でもあるセロンの声だった。どうやら突然工房を抜け出して家に帰ってしまったシスイを追いかけてきたらしい。
「一体どうしたんだ?」
そう問いかけられたシスイは、上手く言葉がまとまらないのか、苛立った様子でセロンから視線をそらした。その息子の反応に、セロンは今度はもう一人の当事者であるイストのほうに目を向ける。
「サンプル作る理由が分らなくてイライラしてるんだとさ」
イストの言葉に嘘はない。嘘はないが、言葉や配慮も足りていないように感じたのは、きっとヒスイの思い違いでない。
「自分で考えろ、といったのだがな………」
呆れたようにセロンが頭をかく。それが気に入らなかったのか、シスイは乱暴に椅子に座ると不貞腐れたように頬杖をついた。
「説明してやれば?」
「………説明してやってくれないか、イスト君」
頼む、とセロンは軽く頭を下げた。イストとしてはお門違いのような気もしたが、セロンにはセロンの考えがあるのだろうと思い、軽く肩をすくめて了承した。
「いいか?『紫雲』が魔ガラスを売り出して、そのあと市場を独占していられるのは、恐らく十年が限界だ」
イストのその言葉に、不貞腐れていたシスイが反応する。しかしイストは反応したシスイのことは、恐らくは意図的に無視してセロンのほうに話を振った。
「ちなみにセロンさんは何年くらいだと思う?」
「五年。早ければ三年以内にライバルが現れると考えている」
「おや以外。オレより厳しい予想」
さも当然、といった調子でイストとセロンは言葉を交わす。しかしシスイはその話の内容を当然とは思えなかった。
「ちょっと待ってくれ!一体なんの話を………!」
たまらずシスイは二人の話にわって入った。魔ガラスは商品化するのは、工房「紫雲」が世界で初めてだ。つまりその技術や知識は「紫雲」が独占しているといっていい。それなのに早ければ三年以内にライバルが現れるとは、一体どういうことなのか。
「魔ガラスを売り出せば、そりゃ売れるだろう。大もうけだ。だけど売れれば売れるだけ真似をするところは増える。当然の話だな」
「そんな簡単に作れるもんじゃないだろう!?」
魔ガラスは大陸中で何十年、いや何百年と研究されてきて、それでもめぼしい成果が上がっていないのではなかったのか。そう説明したのは、他ならぬイストではないか。
「知識だの技術だのいったところで、そのほとんどは共振結晶体だ」
そして共振結晶体の基本的な作り方は、種類の異なる合成石を一定の割合で混ぜるだけで、つまり理論立った知識というよりはただの思いつきに類する。
「今この瞬間に、どこで誰が思いついたって不思議じゃない」
他の工房が共振結晶体の製法を発見すれば、その瞬間からライバルが現れるといってもいい。
「だけど、今まで誰も思いつかなかったじゃないか!」
「完成品が世に出て、しかもそれが売れるとなればみんなその秘密を探ろうと躍起になるさ」
その秘密を探るための努力が内向きであれば、つまり自力での研究開発であれば何も文句はないし、イストの言うとおり十年かあるいはそれ以上かかるかもしれない。しかし、まず間違いなく外向きの努力、つまり工房「紫雲」を探ろうとするものが出てくる。
教会が聖銀(ミスリル)の製法を秘匿していたように、巨大で力のある組織ならば共振結晶体の秘密を数十年単位で守ることができるかもしれない。しかし「紫雲」の規模でそれを期待するのは無理だろう。遅かれ早かれ情報は漏れる。
「それに情報が漏れなかったとしても、オレが他所で共振結晶体の秘密をバラしたらどうする?」
つまりどういう経路にせよ、いずれ情報は漏れる。そのつもりでいなければならない。そしてライバルとなる工房や商品が現れれば、それから始まるのは果てのない価格競争だ。そしてその競争において、品質が同じであれば「紫雲」に勝機はない。
「輸送に、金がかかるから………」
「その通りだ」
シラクサは大陸という消費地から離れた南の島である。物資の輸送には船と時間が必要になり、その分の輸送費が余計にかかる。大陸の消費地のすぐ近くの工房で魔ガラスが生産されれば、価格面ではまず太刀打ちできない。この構造は現在のガラス製品とまったく同じだ。
「対策は二つ。品質を上げるか、コストを下げるか」
そしてその二つを同時に達成すためにどうしても必要になるのが、伝導率の高い普通のガラスなのだ。
ガラス自体の伝導率が高ければ、同じ量の共振結晶体でも出来上がる魔ガラスの伝導率は高くなる。つまり品質を上げることができる。
また同じ伝導率でいいのであれば、混ぜる共振結晶体の量が少なくて済むので、コストを下げることができる。またガラスとして加工もしやすくなるだろう。
他にも、大量生産して価格を下げるという手もあるのだが、魔道具の生産量自体が多くないので、大量生産に見合う需要は期待できない。それに「紫雲」の経営規模では、大幅にコストを下げるほどの大量生産は難しいだろう。
「でもどうすればガラスの伝導率上げられるかなんて、『紫雲』にはノウハウがない。だから海藻灰の比率変えてサンプル作って記録つけて、やれるところから手つけて情報量を増やしていくんだよ」
やれることがある内はまだいい、とイストは言った。そのうちやれることも無くなってなにをどうすればいいのか分らなくなる。そうやって壁にぶつかったときに頼れるのは、それまで積み上げてきた経験と知識だ。サンプル作りはその二つを積み上げる第一歩なのである。
「だったらあんたがやったって同じじゃないか!」
そう喚くシスイを、イストは馬鹿にしたように鼻で笑う。
「阿呆。オレがやったんじゃ意味がないと、何回言えば分る」
壁にぶつかったとき、頼りになるのは経験と知識だ。しかし、それは自分で積み上げてきたものでなければ意味がない。結論に至るまでの過程全てをひっくるめて経験と知識なのだ。
そしてさらに重要なこととして、イストは「紫雲」で働いているわけではない。遅くとも一年以内にはシラクサを離れて旅から旅への生活に戻るだろう。もしサンプル作りをイストが担当していれば、彼がシラクサを離れるときにそこで得られた経験やノウハウは全て失われることになる。
「でもだからってなんで俺が………!」
「んな簡単なことも分らないのか、この二流が」
「なに!?」
二流といわれ顔を真っ赤にして怒るシスイを、イストは恐らくは意図的に無視しセロンのほうに視線をやる。彼がわずかに頷くのを確認すると、イストはシスイに鋭い視線を戻した。
「お前は将来、工房を継ぐことになる。そしてお前が工房を経営する時代には、魔ガラスの価格競争が本格化しているだろう。その競争を生き残るために今のうちから経験を積ませて、お前がきちんと工房の中心になれるようにしようと、そう思ったんじゃないのか、セロンさんは」
イストにそういわれたシスイは、冷や水を浴びせられたかのように静かになり、脱力して椅子に腰を下ろした。さっきまで真っ赤だった顔が、今は少し青くなっている。ここで止めておけばいいのに、イストはさらに言葉を投げつける。
「大方、教えてもらった技術修めて、それで一流になった気でいたんだろ?典型的な二流だな。受け継いだ技術の上に何かを残せて、はじめて一流になれるんだ」
「………だまれ………」
「しかも、せっかくセロンさんが一流になるチャンスをくれたのにそれさえも分らないとは、もう二流未満の三流だな」
「黙れよ!!少なくともガラス加工のことで、俺よりも技術のない奴にとやかく言われる筋合いはないっ!!」
ボロクソに言われた挙句、二流から三流に格下げされたシスイはたまらずに叫んだ。ついさっきまで青かった顔は、怒りのために再び赤くなっている。ころころと顔色の変わる奴だ、と内心で苦笑しながらイストはさらにシスイを挑発する。
「お、言ったな?じゃあ、お前なんぞ及びもつかないガラス加工の技術を見せてやるよ」
ちょうど面白いアイディアもあるし吼え面かかせてやんよ、とイストは挑発的な笑みを浮かべて高らかに宣言する。高笑いするイストを見て、また何か良からぬことを企んでいるんだろうなぁ、とヒスイはそう思った。
***********************
「お前なんぞ及びもつかないガラス加工の技術を見せてやるよ」
高笑いしながら、イストは紫翠(シスイ)に対してそう宣言した。ただ、イストは魔道具職人でありガラス職人ではない。だから彼の言う「ガラス加工の技術」とは魔道具を用いたものであり、その魔道具をイストはつくることになる。シスイを挑発したその日から、イストは魔道具の製作に取り掛かった。
共振結晶体のレポートを提出した後、イストは個々の“四つの法《フォース・ロウ》”の解読と四つの術式の相互関係性の解明に全力を挙げていた。しかし、個々の解読はともかくとしてもその関係性を探るのは難航していた。イスト曰く「頭がゆだる」ほどに煮詰まっていたところに降って湧いたのが今回の騒動である。
行き詰っていたイストは「息抜きを兼ねて」と言い訳してこれに飛び乗った。そして嬉々としながら、いやともすれば少し暴走気味に魔道具の作成に取り掛かったのである。彼の頭脳はそれにストップをかけることなく、むしろ積極的に同調して思いつきのアイディアを論理立った術式にしていく。シスイほどではないにしろ、イストとて成果の上がらない作業に嫌気が差し始めていたのだ。自重する気などなかった。
「ガラス欲しいんだけど、いい?」
軽い調子でそう言いながらイストが工房「紫雲」にやってきたのは、彼がシスイとやりあってから四日後のことであった。共振結晶体のこともあり何度か工房に出入りしているイストは、すでに「紫雲」の職人たちとは顔見知りである。すぐに何人かの職人が気づいて、中に入ってこいと手招きした。
「何やら面白いことをやってるらしいな」
工房の職人たちはイストがシスイにけしかけた勝負(?)のことはもちろん知っている。もしもイストがガラス職人であったならば彼の言葉に少なからず反感を覚えたのだろうが、彼は魔道具職人である。今は彼が言うところの、自分たちが「及びもつかない」技術というのがどんなものなのか、それに対する興味のほうが強かった。
職人としての、そういう器量の大きい態度はイストも嫌いではない。自分の技術を馬鹿にされて腹を立てない職人はいないだろうが、それでも相手の技術に興味を持つのは大切だろう。そういう職人は、きっと年齢なんて関係なく成長できる。少なくともイスト・ヴァーレという職人はそう思っている。
「まあね。近いうちに驚かせてやれると思うよ」
少し冗談めかしてそう言う。それを聞いた「紫雲」の職人は「期待している」といいながらイストの背中をバンバンと叩き大笑いした。
「それで、どんなガラスが欲しいんだ?」
「透明な板状のガラスってある?」
「大きさは?」
「手のひら二つ分くらい」
できれば二つもらえると嬉しい、とイストがいうとその職人は「少し待ってろ」と言って工房の奥へ探しに行った。手持ち無沙汰になったイストが工房内を見渡していると、隅で黙々と仕事をしているシスイを見つけた。
イストにボロクソに言われたあの日以来、シスイは文句を言わずにサンプル作りを続けている。あの時以降、イストとシスイはお互いに言葉を交わしていない。どちらかというとシスイが一方的にイストを避けているような状況で、シャロンや翡翠(ヒスイ)がたしなめているらしいが今のところ状況は改善していない。もっともイストの図太い神経はその程度のことでは傷つかず、むしろ弟子であるニーナのほうが胃の痛い思いをしていた。
ただ、イストという人間の存在は気に入らないが、イストの言葉には少し考えるところがあったらしく、こうして黙々とサンプルを作っているわけである。
(目の色変えちゃってまぁ………)
内心でイストは生温かく笑った。どういう経緯にしろサンプルを作る目的が分ったのだ。自分で気づけなかった不甲斐なさの克服も兼ねて、シスイはサンプルを作りそのデータをまとめる作業に没頭していた。
ただ、シスイの歩む道のりは長く険しいだろう。例えば三種類の海藻灰のうち二種類を用い、その比率を十段階で区切って変えていったとして、作るサンプルの数は五四個にもなる(10:0の比率は除外してある)。
これがさらに三種類の海藻灰全てを用い、その比率を変えていくとなるとちょっとすぐには計算できないくらいの数になる。
しかもそれで終わりではないのだ。こうして魔力伝導率が高くなる配合比率を見つけたら、今度はさらに比率を細かくして詳細なデータを取っていくことになるだろう。そしてそれが終わったならば伝導率を上げるための、また別の方法を考えなければならない。きっとガラス職人としての歩みを止めるその時まで、シスイは頭を悩ませ続けていくのだろう。
その上、伝導率の高いガラスの開発というのは、それこそ何百年にもわたって研究者たちが取り組んできて、それでも目立った成果の出ていない分野だ。共振結晶体があるから、伝導率を1.5以上にする必要はないが、それでも沢山の難題が待ち構えていると容易に想像がつく。
職人たちはこういう果てのない階段を上り続ける。それはなにもガラス職人に限った話ではない。イストやオーヴァも分野は違えどやはり果ての無い高みを目指して階段を昇っている。ニーナもその階段を上り始めた。刀鍛冶のレスカだって、日々腕を上げようともがいている。
(ま、がんばれ)
心の中で無責任にエールを送る。他人の成長に責任を持てる人間など誰もいない。動くのはいつだって本人だ。
シスイの意思とはまったく関係のないところで一段落つけたちょうどその時、職人の一人がイストのところに布に包まったガラスの板を二枚持ってきた。縦二十センチ、横三十センチ、厚さは一センチくらいだろうか。布から出してみると透明度も問題ない。
「ん、ありがと。いくら?」
「バ~カ、金なんかいらねぇよ」
その代わり面白いものを期待してるぞ、とその職人は豪快に笑いイストの背中を強く叩いた。わりと痛かった。
**********
イストがガラスの板を「紫雲」に求めに来た日から二日後、彼はまたふらりと工房にやってきた。気負いや興奮は無く、いつもと同じ調子だ。
「“面白いもの”、出来たぞ」
そういってイストは小包を掲げて見せた。「紫雲」の職人たちは仕事の手を止めてイストのところに集まり始める。それを止める人間はいない。何しろ工房主であるセロンが一番楽しそうにしている。事の発端を作ったシスイも、集団の一番外側にいた。
イストから小包を受け取る。どうやら布を巻かれているのはガラスの板のようだ。イストがそれを求めたことは、セロンも工房の職人から聞いている。
(さて、お手並み拝見………)
布の中から、それを取り出す。それを見た瞬間、セロンは自分の目を疑った。数瞬それを見続けて、それが目の錯覚ではないことが分ると今度は驚愕がこみ上げてくる。彼の持ついかなる技術や知識をもってしても、どうやってそれを作り上げたのかさっぱり分らないのだ。
それはガラスの板だった。ガラスの板に、白い線で港の風景が描かれている。ここまではいい。問題は、絵が描かれている位置だ。
その絵は、なんとガラスの中に描かれていた。
ガラスの表面ではない。ちょうどガラスの板の真ん中にその絵は描かれているのである。もしかしたら二枚のガラスの板を重ねているのではと思い側面を見るが、そのような痕跡は見当たらない。つまりイストは、なんらかの方法でガラスの板の内部、つまり直接には手で触れられない場所に、しかし直接加工を施したのだ。
(一体、どうやって………)
少し呆然としながら、セロンは港の風景が描かれたガラス板を他の職人たちに手渡す。すると、すぐさま彼らの間にどよめきが起こった。
未知の技術に職人たちは興奮する。イストは普通のガラス職人が「及びもつかない」技術を見せてやると豪語していたが、たしかにガラスの内部に直接加工を施すことなどここにいるガラス職人たちには不可能だ。一体どうやれば可能なのか、職人たちはアイディアを出し合うが有効そうなものは出ない。
「イスト君、そろそろ種明かしをしてくれないか?」
職人たちが興奮気味に意見を交わす様子を、得意げにニヤニヤしながら見ていたイストにセロンが苦笑気味にそういう。
「おやおや、もう降参か?」
「ああ、さっぱり分らん」
芝居がかった仕草でセロンは両手をあげた。もちろん何かしらの魔道具を使ったのだろう、ということは分る。とはいえどういう原理で、なにをどうすればこんな加工ができるのか、さっぱり見当がつかない。
「こいつを使ったのさ」
そういってイストが取り出したのは、一本の万年筆だった。ちなみにシラクサでは毛を束ねた筆が主流で、万年筆を使う人間はそう多くない。
イストが取り出した万年筆は軸胴部が光沢のある黒で、凝った細工の彫られたペン先は銀色に輝いている。合成石と思われる小さな石が軸胴部に取り付けられていて、その万年筆が魔道具であることを無言のうちに主張していた。
――――魔道具「蜃気楼の筆」
それがこの魔道具の名前だとイストは言った。ガラスの内部に直接加工を施すための、見えはするが触れることのできない絵を描くための魔道具だ。
「それで、この魔道具をどう使うんだ?」
「少し魔力を込めてみろ」
言われたとおり魔力を込めてみると、工房の床に小さな赤いシミが一つできた。万年筆を動かすと、そのシミも動く。
「見た目では分らないけど、今その魔道具からは二種類の光ができている」
波長が異なる二種類の光である。まず基本となる一つ目の光を利用してガラス板の厚さを測定する。次に、ガラス板の厚さの半分のところ、つまりガラス板の真ん中で二つの光波が重なり合って強めあうように、二つ目の光の波長を調整する。すると、強められた一点において光波の力が強くなり、そのエネルギーがガラスに傷を付けるのである。その傷が白い点として、連続していれば白い線として見えるのだ。
「とは言っても、使い方としては魔力を込めながら普通の万年筆と同じように使うだけなんだけどな」
説明を聞いても理解できているかどうか怪しい職人たちに、イストは笑いながらそういった。そして彼らにとってはそちらが重用だったようだ。
「な、なあ!使ってみていいか!?」
すでにガラスの板も用意してあり、準備のいいことである。「どうぞどうぞ」とイストが許可を出すと、職人たちは我先にとガラス板にためし描きをしていく。
「思ったよりも引っ掛からずに描けるな………」
ためし描きをしていた職人の一人が感心したようにそう漏らす。「蜃気楼の筆」のペン先は聖銀(ミスリル)製だ。実際にインクを通すわけではないので、実際の万年筆よりもペン先は丸く、そして滑らかに仕上げてある。
「思い通りには描けるが、自動で絵を描けるわけじゃないんだな」
「そ。絵は使う人間の腕次第」
「あの港の絵はイストが自分で描いたのか?」
「いや、人に頼んで描いてもらった」
オレに絵心を期待するな、と言いながらイストが偉そうにふんぞり返ると、職人たちの間に笑いが起こった。
「………違う………」
職人たちの笑い声が響き渡る工房内で、ポツリと呟かれたはずのその言葉はしかし妙にはっきりと聞こえた。イストを含めた職人たちの視線が、自然と呟いた本人であるシスイのほうへ向かう。
「なにが違うって言うんだ?」
ニヤニヤと面白そうに笑いながら、イストはシスイに問いかける。その挑発的な視線を避けるように、シスイは顔を俯かせた。
「………こんなの、ガラス加工の技術じゃない」
たしかに「蜃気楼の筆」は魔道具としては優れているのかもしれない。けれどもガラス加工の分野で優れているとは認めたくない。現に「蜃気楼の筆」さえあれば、誰だって同じことができるではないか。
「ガラス加工ってのはもっとこう、ガラス自体を変形させて色々な形を作ったり、そういうのを言うんであって、これは違うと思う………」
最後のほうは尻すぼみになりながら、シスイはそう主張した。イストのほうは相変わらず面白そうに笑っているが、その目つきが若干鋭くなっている。
「だから?だから自分は技術力で負けてない?だから自分は間違ってない?だから自分は正しい?」
小馬鹿にしたような口調でイストは矢継ぎ早に言葉を浴びせる。シスイが何も言い返せないのを見ると、ふとイストは目つきを緩め苦笑した。
「さもしいプライドだなぁ」
「………くっ!」
逃げるようにしてシスイは自分の作業に戻っていった。それを合図にしたかのように、職人たちも自分の仕事に戻っていった。何人かの職人はイストに「面白かったぞ」と声をかけていく。
「………憎まれ役をやらせてしまって、すまなかった」
職人たちが解散し周りに誰もいなくなると、セロンがポツリとそういった。彼の視線の先ではシスイが一心不乱にサンプルを作っている。
「これであいつは職人としてもっと大きくなれる」
「オレは魔道具を作っただけ。面白かったから満足してるよ」
イストは肩をすくめてそう言った。実際、今回のことはイストの側からしてみればただの息抜きだ。だたその“息抜き”からシスイが何かを感じ取るのは勝手で、それを糧に職人として成長したというのであれば、それは全て彼自身の手柄だろう。
「それはそうと、イスト君。あの万年筆型の魔道具のことだが………」
セロンの声の調子が少し変わる。加えて目つきも子供を見守るものから商人のそれに早や変わりしている。
「ん?気に入ったんならやるよ。どうせオレが持ってても使わないし」
セロンにしてみればあの魔道具「蜃気楼の筆」は欲しかろう。この魔道具が一本あれば、魔ガラスとはまた違う新しい商品が作れるのだ。板状だから船で輸出した際に割れてしまうことも少ないだろうし、「蜃気楼の筆」がなければ同じものは作れない。イストがこの魔道具をばら撒かない限りは市場を独占できる。そしてなによりもこれは売れるとセロンの工房主としての直感が告げている。
「そうか。では後五、六本同じものを頼む」
「………やっぱりアンタはヒスイの父親だよ」
堂々と無茶な要求をするセロンに、イストは呆れたように肩をすくめる。ただ、その口元は楽しそうに笑っていた。
**********
音は、無い。無音の世界で、ただ炎だけがまるで生き物のように蠢いている。視線を下に向けると、小さな骸が幾つも転がっている。ほんの数時間前までは元気に走り回っていたというのに、あの子達が起き上がって遊び、泣いて笑うことはこの先もはや無い。
赤い、赤い炎。赤い、悪夢。
何か終われるようにして暗い森の中へ走りこむ。逃げなければ、逃げなければ逃げなければ。その気持ちだけが肥大化し恐怖を煽る。
森の中を走っていると、何かに足を取られ視界が回転した。体を起こし周りを見渡すと、小さな兄弟たちの骸が転がっている。
――――ヒッ!
漏らしたはずの声は、しかし耳には届かない。そのことに違和感を覚えるよりも前に、体は勝手に後ずさり血を流すその小さな体から離れようとする。小さな瞳に移る自分は、怯えた情けない顔をしていた。
赤い血を一筋流している小さな口が、わずかに動く。
――――助けて。
そう、言いたかったのだろうか。
思わず手を伸ばしたその矢先、小さな瞳から命の光が消えていく。
――――絶叫。
声の限りに叫ぶ。しかし音は聞こえない。喉が痛くなるほどに叫んでも、やはりこの世界に音は響かない。
そこで、目が覚めた。
体が熱い。まるで激しい運動をした後のようである。着ているものは汗を吸ったのか少し湿っぽくなっており、背中にもつめたい汗を感じる。
体を起こす。月が出ているのか、部屋の中は妙に青白い。そこでようやくイストは、自分が呼吸を乱し肩で息をしていることに気がついた。
「悪夢、か………」
油断したな、とそう思った。ここ最近見ていなかったものだから、油断していた。昼間、工房「紫雲」で新しい魔道具の「蜃気楼の筆」を披露し、みんなの反応がよかったからすこし調子に乗っていたのかもしれない。頭を振って少し自嘲気味に笑うと、ようやく気分が落ち着いてきた。
とはいえ、寝なおそうという気にはならない。
「酒でも飲むか………」
いつものことだ。悪夢を見た夜は、酒を飲みながら朝日が昇るのを待つしかない。朝が来れば、またいつもの日常が始まる。あの日の少年は朝露と一緒に消えて、魔道具職人の自分に戻れる。
だから、仕方がないのだろう。
(あの時、逃げていなければ………)
そう考えてしまうのは。もっと別の未来があったんじゃないのか、そう考えてしまうのは。
「埒もない」
分っている。そんなことは分っているのだ。分っているのに考えてしまう。だからなおのこと鬱になる。
「ああ、もう………」
早く酒を飲もう。酒を飲んで誤魔化そう。きっと美味い酒ではないのだろうけれど。
**********
庭に面した縁側で、柱にもたれかかりながらシラクサ酒を喉に流し込む。月明かりに照らされた庭は幻想的で、昼間とはまた違った趣を見せている。
(少し、明るすぎる………)
お猪口に注いだシラクサ酒を飲み干しながら、イストは心の中で愚痴る。明るい光は何もかも暴いていくかのようで鬱陶しい。情けない自分を闇の中に隠しておきたいと思うのは我侭だろうか。
(どうでもいい………)
酔いがまわってきた。鈍くなった頭は余計な思考を放棄し、イストはただぼんやりと庭を眺める。静かな夜だが、かすかな音は絶えない。それが、妙に優しく感じた。
「どうしたの?こんな時間に」
どれだけ庭を眺めていたのだろうか。声のしたほうを見ると、寝巻き姿のヒスイがいた。月の光に照らされたからなのか、真っ直ぐに伸びた綺麗な黒い髪の毛に星が散っているように見える。肌はさらに白さを増したようで、黒い髪の毛とのコントラストがひどく印象的だ。
情けないところを見られたな、と思い苦笑する。それでもどうにかしようという気にならない。体は脱力しているし、心は脱力させている。そこに力を入れようという気にはならなかった。
「なにか、あったの?」
うつろに笑うだけで答えようとしてないイストを心配そうに見つめながら、ヒスイが言葉をかけてくる。そういえば、誰かに心配されたのはいつぶりだろうか。
(ああ、現実じゃない………)
酒が入っているせいもあるのだろう。ひどく現実感が希薄だ。その希薄な現実に、むしろイストは積極的に思考を堕とした。
(現実じゃないなら、話してもいいよな………?)
そんな甘い思考が、濁った頭をよぎる。
「イスト?」
「ああ、悪い。少し嫌な夢を見てな………」
そう言ってから「しまった」と思った。しかしその一方で「どうでもいい」とも思っている。
「………嫌な、夢?」
「そ。オレが孤児院の出身で、そこが盗賊に襲われたってことは話したよな………?」
話の流れに身を任せる。頭は鈍いくせに言葉は妙にはっきりとしており、それがなんだか可笑しかった。
「その時の夢をな、何度も見るんだ………」
もう十年以上の付き合いだよ、とイストは笑った。笑ったつもりだったが、うまく笑えていたのか自信がない。ヒスイは静かに腰を下ろすと、何も言わず話を聞いてくれる。
「夢自体は、別にいいんだ」
夢を見ることは、自分の思い通りにはならない。確かに見ていい気はしないが、自分ではどうしようないことで悩んでいても、それこそ仕方がない。
「たださ、見た後にどうしようないこと考えて、そんで鬱になって酒に逃げて………」
そこまで言ったイストはヒスイから視線を逸らし、空になっていたお猪口にシラクサ酒を注ぐ。そしてそれを口元に運び、一気に飲み干す。
「なんとか、なんないもんかねぇ………」
お猪口を唇からはなし、ため息混じりにそういう。言ってから、愚痴ってしまったな、と心の中で悔やむ。すまない、と謝ろうとしたらそれより早くヒスイが口を開いた。
「………仕方ないものは、仕方ないよ」
どうしようないこと考えるのも、鬱になるのもお酒に逃げちゃうのも、みんな仕方がない。ヒスイは柔らかい口調でそういった。
「だからね。できること、しましょ?」
「………例えば?」
「例えば………、そう、お月見とか」
お月見、と言われて流石にイストも目を丸くした。その反応が嬉しかったのか、ヒスイは軽く手を叩いて微笑んだ。
「だって、こんなに月が綺麗なのよ?」
イストは、笑った。額に手を当て、喉の奥を鳴らすようにして笑った。
「新月だったらどうすんだよ?」
「あら新月だっていいじゃない。きっと星が綺麗よ」
ヒスイのその、妙に自信たっぷりな言葉に、イストはまた笑った。
なんとなく、分ったのだ。ヒスイは自分を慰めようとしているわけではない。ただ悪夢を見たというその事実に、新しい意味を与えようとしている。これまでイストが思いもしなかったような意味を、だ。
「悪夢を乗り越えられなくたっていいじゃない」
そう、言われた気がする。
「………一杯、付き合ってくれないか?」
空になったお猪口をヒスイに差し出す。ヒスイがそれを受け取ると、イストはそこになみなみとシラクサ酒を注いだ。注がれたお酒を、ヒスイは一口で飲み干した。
「お注ぎしますね」
空になったお猪口をヒスイから受け取ると、今度は彼女がシラクサ酒を注いでくれる。イストもまた、それを一口で飲み干した。
「………美味いなぁ」
自然と、そう思えた。悪夢を見た夜に酒を飲んで、美味いと思えたのは初めてかもしれない。
「美人に注いでもらうと美味しいでしょ?」
「ああ、まったくだ」
得意げに笑うヒスイに、イストは苦笑気味に答える。それから視線を空に移す。そこには見事な満月が浮かんでいた。
「………いい夜だ………」
ポツリと呟く。気づくとヒスイが胡弓を奏でていた。悠々とした川の流れのような胡弓の音を聞きながら、お猪口にシラクサ酒を注ぐ。酒の水面に月を浮かべ、それを一息で飲み干す。
「いい夜だ、本当に」
悪夢を克服したわけではない。きっとこの先も悪夢を見て跳ね起きる夜があるのだろう。だけどそのたびにこの夜のことを思い出すのだ。それはたぶん、とても幸せなことではないだろうか。