ゲゼル・シャフト・カンタルクは乱世の王である。少なくとも、本人はそのつもりでいる。
今のところ、彼の業績は輝かしい。
これまでカンタルク軍に何度も煮え湯を飲ませてきたブレントーダ砦を攻略し、そこに住まう二匹の守護竜を粉砕した。さらにポルトールの内乱に乗じて、いや積極的に内乱を煽ってかの国を事実上の属国とした。
因縁の敵国であるポルトールを完全に屈服させた王はカンタルク史上ゲゼル・シャフト以外にはおらず、ただこの一点をもってしても彼の名は歴史に残るであろう。
この際、「守護竜の門」を破壊してブレントーダ砦を攻略したのも、ポルトールの内乱を煽り結果としてかの国の国力を半減させ屈辱的な条件を飲ませたのも、全ては大将軍たるウォーゲン・グリフォードの手腕である、と指摘するのはナンセンスである。
彼がカンタルクという国に属している以上、その業績はすべてこの時代その国の王であるゲゼル・シャフトのものなのだから。
ここまでは、いい。が、ここ最近のエルヴィヨン大陸には、ゲゼル・シャフト・カンタルクにとって無視しえぬ大きな動きがある。
クロノワ・アルジャークとシーヴァ・オズワルド。東のアルジャーク帝国と西のアルテンシア。
二人の英雄に率いられたこの二つの国は、ここ最近で急速に勢力を拡大させている。特にアルジャーク帝国はカンタルクと近く、いやオムージュを併合したアルジャークはすでにカンタルクと国境を接しており、あらゆる意味で無視することの出来ない存在になっていた。
当然、カンタルクの王たるゲゼル・シャフトもアルジャークとその皇帝クロノワを意識するようになっていた。
現在、アルジャーク帝国はカンタルクに対して、少なくとも表面上は友好的な態度を保っている。しかしカンタルクの王宮内では帝国を危険視する声も多い。つまり、
「将来的には矛をこちらに向けるのではないか」
と心配しているのである。この危機感を共有しない者は、今のカンタルクの王宮内にはいないだろう。
しかし、同じ危機感を共有しているとはいえ、その対応は大きく二つに分かれている。
「こちらも国力と戦力を増強し、アルジャーク帝国に対抗すべきだ」
と唱える派と、
「アルジャーク帝国と敵対してもなんら国益にはならぬ。それよりも友好的な態度を取っている今のうちに積極的に協力体制を築き、争わないですむ道を模索すべきである」
と主張する派である。
主戦論と非戦論、と言ってしまえばあまりにもありきたりでつまらない表現になってしまうが、まあよくある意見の対立と思えばよい。どちらかが一方的に正しく、どちらかが一方的に間違っている、ということはない。両論どちらも聞くべき部分がある。そう考えるべきだろう。
しかしこの意見の対立は王宮を二分するには至らなかった。なぜなら国王たるゲゼル・シャフト・カンタルクが主戦論に傾いていたからである。
だが、彼の心のうちは他の者とは微妙に異なる。
彼らが共有した危機感、言い換えるならば恐怖をもとに主戦論を唱えるのに対し、ゲゼル・シャフトがそれを唱えるのは野心に起因していた。
「クロノワ・アルジャークが、シーヴァ・オズワルドがどれほどのものか。この余とて、いや余こそが乱世の覇者である」
そんな自負が、彼のうちにはある。
余談になるが、シーヴァ・オズワルドは王になるに際して「我」という一人称を選んだが、ゲゼル・シャフトは「余」という一人称を選んでいた。この辺り、二人の感性の違いであろうか。
それはともかくとして。動機の差はあれど、王が主戦論に傾いているのだ。自然、話はそちらの方向でまとまり動いて行くことになる。そしてその末の結果が、今一つの形になろうとしている。
それが、オルレアン遠征である。
オルレアンは西の国境をカンタルクやポルトールと接し、北の国境は旧オムージュ(現在はアルジャーク)、東の国境はカレナリアとテムサニスに接している。国土は五二州で、縦に細長い国であった。
現在カンタルクでは軍部が総力を挙げてオルレアン遠征に向けて準備を行っている。それは大将軍たるウォーゲン・グリフォードも同じで、ということは彼の副官であるアズリア・クリークも遠征に向けた準備に追われていた。
「大将軍は今回の遠征、どのように思われますか?」
書類の束を胸元に抱えながら、アズリアはウォーゲンに尋ねた。彼は部下が質問してきても決して嫌な顔をしない。
「遠征を行うことを前提に考えれば、正しい選択じゃろうな」
オムージュ領に出兵してアルジャーク帝国に喧嘩を売るには早すぎる。北のラキサニスやポルトールの西に位置するラトバニアといった国はほとんど神聖四国の属国のような立場で、遠征の対象とすれば神聖四国と教会が黙ってはいるまい。カンタルクは神聖四国の一国であるサンタ・シチリアナとも国境を接しているが、ここに遠征を仕掛けるのは愚の骨頂であろう。
となれば、消去法のすえに最後に残るのは東のオルレアンしかない。
カンタルクの版図は六三州。ただしポルトールを属国としているので、かの国の版図六七州も計算に含めることが出来るだろう。合計すれば一三〇州になる。単純に考えれば、オルレアンと比べて三倍近い国力を持っていることになる。
「政治的に考えても軍事的に考えても手ごろな相手。その評価は間違ってはおらぬと思うぞ」
そう言いつつも、ウォーゲンの言葉にはどこか棘があるようにアズリアは感じた。
「大将軍は、今回の遠征には反対ですか………?」
「………今回の遠征は陛下が決定されたことじゃ。である以上、軍人である儂はそのために己の職責を全うするのみじゃ」
ウォーゲンは言葉を濁して直接の答えを避けた。言葉を濁したこと自体、彼が今回の遠征に心のうちでは賛成し切れていないことの証拠だ。しかしウォーゲンの言うとおり国王たるゲゼル・シャフトが決定を下した以上、大将軍たる彼にはそれに従う義務がある。この時点で一人だけ反対するわけにもいくまい。
今、カンタルクは国を挙げて遠征に向かって突き進んでいる。軍はまだ動かしてはいないし宣戦布告もまだしていないが、外交交渉の席などではかなり高圧的な要求をしているとも聞く。
オルレアン遠征はまだ始まってはいない。しかし、もはや確定した未来として歴史に予定されている。ウォーゲンはそう感じていた。そして恐らくはオルレアンの人間たちも同じことを感じているのだろう。
(ならば、祖国にとって輝かしい未来にしたいものじゃな)
ウォーゲンはそう願う。そして恐らくはオルレアンの人間たちも同じことを願っているのだろう。
**********
カンタルクで遠征の準備が着々と進められていたとき、その対象であるオルレアンにおいてもその気配は感じ取ることが出来ていた。そしてその気配に気づいた以上は何なしらの決定を下さねばならないものだ。
「まず決めるべきはカンタルクの提案を受けるか否か、か………」
オルレアン国王、エラウド・オルレアンは会議室に居並ぶ国の重臣たちを前に、まずそうきり出した。
カンタルクの提案というものを簡単に要約すれば、
「カンタルク・ポルトール・オルレアンの三国で同盟を結び、近年急速に勢力を拡大させているアルジャーク帝国に対抗する」
というものである。
「素案だけ見れば、その内容は共感できる部分も多いのですが………」
そういって言葉を濁し、眉をひそめたのはこの国の宰相であるカストール・フォン・オルデン侯爵である。彼の言うとおり、カンタルクの使者がおいていった素案だけを見れば、この話はそう悪いものではない。
アルジャーク帝国はオムージュ・カレナリア・テムサニスというオルレアンに国境を接していた三カ国をすでに併合してしまっている。つまりオルレアンは国境線の半分以上をアルジャークと接しているわけで、いつどこから攻め込まれるのかと戦々恐々とした空気が王宮内に漂っていた。
現在アルジャーク帝国の版図は三四九州という広大なものである。仮に戦端が開かれた場合、到底オルレアン一国で対抗することなど出来ない。
そこで、三国同盟である。
カンタルク・ポルトール・オルレアンの三国の版図を合わせれば一八二州となり、勝てないまでも負けない戦いをすることは可能だろう。
加えて西方、つまり神聖四国を中心とした教会勢力の混乱がある。十字軍遠征がどうやら失敗したらしいという情報はすでにオルレアンにも届いている。この先教会勢力がどうなっていくかは分らないが、仮に混乱をきたした場合、その影響は確実にカンタルクやポルトール、さらにその東のオルレアンにも波及してくるだろう。
そうなった時、一国で対処することは難しい。だが三国同盟という一つの勢力圏が確立していれば、その影響も最小限に抑えることが出来るのではないだろうか。少なくとも一国で事に当たるよりもマシな結果が得られるであろう。
「そう、悪い話ではない。三カ国の発言力が同じならば、だが」
アルテンシア同盟においてもそうであったがこういった同盟の場合、その内部での発言力はそれぞれが保有する力に比例する。簡単に言えば国の版図に比例する、ということだ。
三カ国の版図は、カンタルクが六三州、ポルトールが六七州、そしてオルレアンが五二州である。おおよそ力は拮抗しているといえ、普通ならば同盟内での発言力も等しくなるはずである。
そう、普通ならば。
残念なことに三カ国の内の二つ、つまりカンタルクとポルトールの関係は普通ではない。ポルトールは今や事実上カンタルクの属国であり、それはカンタルクが一三〇州分の発言力を持っていることに等しい。
つまり三国同盟が成立した場合、カンタルクは事実上の盟主になる。そうなれば、オルレアンは対アルジャーク帝国の防波堤として無理難題を押し付けられ、使い捨てにされるのが目に見えている。
「カンタルクの交渉のやり方を見ていますと、是が非でも三国同盟を成立させたい、という意思は感じられません」
カンタルクとの交渉の責任者がそう発言する。相手方の交渉役の態度は横柄で誠意というものが欠けている。同盟の成立よりはこちらを怒らせることを目的にしているようだ。
カンタルクにとってこの同盟の提案は遠征の準備のための時間稼ぎと、宣戦布告のための材料集めに過ぎないのだろう。よしんばオルレアン側が屈し、屈辱的な条件を飲ませることが出来れば御の字、程度にしか思っていない。
「………仮にカンタルクと事を構えることになったとして、我が軍は勝てるのかね?」
老年の文官がテーブルの向こう側に座る武官たちに問いかける。その問いに答えたのは、オルレアンでも屈指の名将と名高いブッシェル・フォン・ギーレス伯爵だった。
「カンタルクだけならばやりようはありますが………」
仮に戦端が開かれたとして、実際に動くのはカンタルク軍だけであろうとブッシェルは考えていた。先の内乱の影響でポルトールの力、特に軍事力に限って言えば半分以下に減退しており、そのポルトールが遠征にしゃしゃり出てくることはないだろう。しかしその予測があるにもかかわらず、彼の言葉は苦い。
「アルジャークか………」
「御意」
エラウドの言葉をブッシェルは肯定した。
仮にカンタルク軍を退けられたとして、しかしそのためにオルレアン軍が疲弊しきっていれば、その隙をアルジャークが見逃すとは思えない。いや、それ以前に西でカンタルクと戦っている間に東からアルジャークに攻め込まれれば、その時点で終わりである。つまりオルレアンが主権国家としてこれまでどおり存続していくためには、カンタルクを退けなおかつアルジャークに手出しさせないという、神がかり的な綱渡りを成功させる必要があるのである。
「………カンタルク主導を承知で同盟に参加する、という手もありますが………」
文官の一人が思わずそういってしまうほど、この条件は厳しい。第一隙を見せなくてもアルジャークとの国力差は歴然なのだ。この綱渡りが成功する確率はほぼゼロと言っていいだろう。
同盟に参加することでアルジャーク帝国に対する防波堤扱いされたとしても、それはある面しかたがないとも言える。なにしろそういう位置関係なのだ。国の位置に文句をつけても始まらない。
また神聖四国で混乱が生じたときには、今度はカンタルクがその混乱に対する防波堤になる。そういう意味では対等であるとも言えるだろう。
「有事の際に協力を惜しまないでくれるならば、か………」
しかし、交渉に臨む今のカンタルクの態度を見るにそれは難しいように思えた。結局のところカンタルクが欲しいのは対等な同盟国ではなく、自由にこき使える属国か新たに併合した領土なのだ。
対等な関係でカンタルクと手を結ぶことは出来ない。そのことが再確認されると、会議室には重苦しい沈黙が広がった。
「宰相に聞きたいのだが………」
その沈黙に押しつぶされることなく声を出したのは、国王のエラウドだった。
「現状、我が国にとって最も良い結果とは、なんであろうか」
エラウドに問われ、カストールは考え込む。ひとまず現実不可能でもよい。オルレアンにとって最善の結果、それは………。
「………アルジャークと対等の同盟を結べるならば、それが最善です」
言いはしたものの、会議室の空気は軽くならない。「そんなことは無理だ」とこの場にいる全ての人間が理解しているからである。
現在、アルジャーク側からはなんの接触もない。かの国がオルレアンに対してどのような思惑を持っているかは定かではないが、少なくとも格下相手にわざわざ平等な同盟を結ぶ必要などない。
カンタルクがオルレアンを狙うこの状況下では、もはやこれまでどおりの独立を保つことは難しい。さりとて対等な同盟を結んでくれそうな隣国もない。
なかなかに絶望的な状況だといえるだろう。
「………仮に手を結ぶとして、カンタルクとアルジャーク、どちらがましかな」
「それはアルジャークでしょう」
思いがけず宰相のカストールが即答したことに、エラウドは驚いた。
確かにアルジャークの方が国力はある。しかしオルレアンから見れば、それは自国を安く見積もられるということだ。商売ではないが、売り込むのであればより必要としてくれるところ、より高く買ってくれるところへ売り込むのが筋ではないだろうか。この場合、オルレアンの力をより必要としているのは、カンタルクのほうのはずだ。
「さきのアルジャークによるテムサニス遠征は、皆様ご存知のことと思います」
カストールの言葉に、一同は頷く。隣国が侵略を受けて無関心でいられる国などない。当然オルレアンもこの時にはいつもより情報収集を密にして状況の推移を見守っていた。そのため事の始めから終わりまで、かなり詳細な情報を持っていた。
「あの遠征の際、アルジャークは連合軍を組織しました。恐らく、いえ確実に単独でも遠征を成し遂げるだけの力があるにもかかわらず、です」
捕虜にしていたテムサニス軍と連合しジルモンドを担ぎ出すことによって、確かに遠征は普通では考えられないくらい早期に決着し、しかもその後の混乱も小さい。しかしその代償としてクロノワはジルモンドに五州を与えることになり、領土内に一種特別な自治領が出来てしまった。
今、その良し悪しを論じる必要はない。ここで重要なのは、
「クロノワは五州を与えてでも早期決着にこだわった」
ということである。
「つまりアルジャークには、いえ皇帝クロノワ・アルジャークには単純な領土拡大とは別の目的がある、と考えるべきです」
その目的が何なのか、今はまだ分らない。しかし、クロノワが領土拡大にこだわらないというのであれば、同盟を締結した際に何州か割譲させられる、という事態は避けられるのではないだろうか。
「しかし、不利な条件を飲まされることに変わりはないのでは………?」
領土拡大以外の目的があるというのであれば、その分野でアルジャークは自分に有利な条件を押し付けてくるだろう。ならばオルレアンの立場が不利であることに、結局変わりはない。
「何とかして共犯者になりたいところだな」
エラウドが呟く。弱者と強者という関係ではなく、一緒になんらかの目的を達成する共犯者の関係。
「………出来るかもしれません」
「まことか?カストールよ」
「はい。カンタルクが上手く踊ってくれれば、ですが」
この時代、攻守の関係などたやすく入れ替わる。カンタルクは肉食獣を自認しているだろう。しかしオルレアンは食われるだけの草食動物ではない。オルレアンにとて、牙はあるのだ。
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テムサニス遠征が成功しその後の事後処理も滞りなく行われている、という報告を帝都オルクスにあるボルフイスク城の執務室で聞いたクロノワは一つ安堵の息を吐いた。
捕らわれのジルモンドを見捨てテムサニス王位を簒奪したゼノスは、報告によれば自刎して果て旗頭を失った新王軍は降伏したという。ジルモンドが王旗を掲げているおかげか大きな混乱もなく各地の平定は進み、ゼノスが各地を略奪していた頃に比べれば随分と安定したといえる。
ゼノスに味方した貴族たちの処分は最初からジルモンドに任せるつもりで、そのことはクロノワが彼とかわした“契約書”にも明記されている。恐らくはこれがジルモンドにとってテムサニス国王としての最後の仕事になるであろう。彼の決定に口出しをする気は毛頭無いが、どんなに軽くても「お家取り潰し」の処分が下るはずで、先の内乱も合わせればテムサニスの貴族はこれでほとんど絶滅することになる。アルジャーク帝国としては申し分ない結果といえるだろう。
これらの報告を聞き、さらに宰相であるラシアートや腹心の将軍であるアールヴェルツェなどとも相談した結果、クロノワはテムサニスを視察することにした。これにはテムサニスの主権がもはやアルジャークにあることを内外に示す狙いがある。
「この機会にカルフィスクも見ておきたいですね」
クロノワにはそんな思惑もある。テムサニスの南端にあるその貿易港は、これからクロノワが拡大させる海上貿易の重要な拠点になるはずで、そこを視察することには十分に意味があるだろう。
そのような訳で、テムサニスに赴くにあたりクロノワは海路を選んだ。ヴェンツブルグから出航してカルフィスクに入り、そこから陸路でテムサニスの王都ヴァンナークに向かう予定である。
「カレナリアの様子も見ておきたかったのですが………」
カレナリアでなにか問題が起こっているという報告は無い。しかし、ベルトロワの時代に遠征軍を率いて併合し、その後ケーヒンスブルグに急きょ戻り、レヴィナスとの内戦を経て皇帝となり、その間まったくのノータッチでさすがに無責任な気がしていたのだ。が、海路で直接カルフィスクに向かうというのであれば、カレナリアは素通りどころかその地を踏むことも無い。
「カレナリアは帰りによることにしましょう」
行きがあれば当然帰りもある。帰りはレイシェルやイトラの軍勢と共に陸路を行き、その際にカレナリアの視察を行えばよかろう。
この時代、皇帝や国王といった身分のものが地方を視察しようと思えば、その一団はたいへんな大所帯となる。彼らは視察の間も執務をおこなわなければならず、いわば国家の中枢が丸ごと移動するような形になるからだ。
しかし、クロノワの視察団はそのようなものではなかった。総勢はわずか二百名。彼の皇帝という身分を考えれば、呆れるほど小規模である。
理由はいくつかある。
最大の理由はクロノワが視察を行っている間、彼の代わりに執務を取り仕切ることの出来る人物が帝都にいる、ということであろう。言うまでもなくその人物とは宰相ラシアートのことである。彼のおかげで「国の中枢が丸ごと移動する」という事態を避け、クロノワは随分と身軽に動き回ることが出来るのである。
加えて、クロノワは陸路ではなく海路を行く。当然船に乗っての旅となり、船の大きさや数によって人数は制限される。今回はクロノワが乗る大型船と中型の護衛船が三隻の予定である。ちなみに船の乗員は二百名の中には含まれていない。
また、通信用魔道具「共鳴の水鏡」を用いて連絡を送っておくことにより、クロノワが到着するカルフィスクにあらかじめ迎えと護衛の軍を配備しておくことが可能で、このため海上の護衛は最小限でいいであろうと判断されたのだ。
クロノワ自身が「大仰なのは嫌だ」と言ってごねた、ということは歴史書には残されていない。
慣れない、というよりもまったく初めての船旅で、クロノワはものの見事に撃沈した。有り体に言えば船酔いに苦しんだのである。海に目を向け、この先海上貿易によって国を大きく発展させる彼だが、「初めて船に乗ったときは散々だった」と晩年笑いながら語ったという。
テムサニスのカルフィスクでクロノワを出迎えたのはイトラ・ヨクテエルであった。今テムサニスにいるアルジャーク軍の将は彼とレイシェルだけだからどちらかが出迎えに来るとは思っていたが、どうやら外に出て動き回るのはイトラの仕事らしい。
「思っていたよりも活気がありますね」
つい最近大きな戦があり、しかも併合されたばかりだ。経済活動も下火になっているのではないかと思っていたが、カルフィスクには人と物が集まり活気に溢れていた。
「戦場になったのは国の北部ですし、この辺りは影響が少なかったのではないかと………」
イトラの言葉にクロノワも頷く。なにはともあれ、カルフィスクが貿易港として十分に機能していることは彼にとっては嬉しい誤算であった。これならばシラクサとの貿易も早い段階で始められるだろう。
(まあ、それはフィリオの結果待ちですがね………)
カルフィスクの街を一通り見て回ると、クロノワはイトラと共にヴァンナークを目指した。ヴァンナークを中心とした五州はジルモンドに与えられた“自治領”であり、皇帝であれど強権を盾においそれと手出しをするわけにはいかない。テムサニスの併合からさほど時間がたっていないこの時期に、皇帝であるクロノワがそこに足を踏み入れるのは色々と誤解や緊張を招きそうであるが、これまでこの国の政の中心はヴァンナークだったのだ。当然、重要な書類類はすべてそこに集約されており、また行政機能もここを中心にしている。テムサニスの領内が安定するまでは、アルジャーク軍はここに留まることになるだろう。
「ヴァンナークの機能をどこか別の都市に移したほうがいいかもしれませんね」
ヴァンナークはこの先、ジルモンドが治める自治領の中心都市となるだろう。ならばテムサニ領を治めるために必要な機能をどこかに移す必要がある。
「後でラシアートと相談することにしましょう」
ヴァンナークの城でジルモンドと会見をした後、クロノワは正式にテムサニスのアルジャークへの併合を宣言した。征服地で堂々と併合を宣言するというは、歴史上でもなかなか例が無い。
クロノワの宣言に歓声をあげて答えたのは、ほとんどがアルジャークの兵士たちだった。それはそうだろう。その他はついこの間までテムサニスの国民だった人たちだ。ただの平民たちにしてみれば「税金を納める相手が変わった」くらいにしか変化はないはずだが、今まで自分たちが住んでいた国がなくなるというのは、いい気はしないだろう。
(頑張らなければいけませんね………)
クロノワは心の中で決意を新たにする。
「少なくともこの時期、この国を併合したのがアルジャークでよかった」
そう言ってもらえるように。国を発展させ、そして豊かにしていこう。生まれの不平等はなくせないだろうが、それでも立身出世のチャンスは平等になるような、そんな国にしよう。きっとそれが征服者の責任だろうから。
テムサニスには視察に来たはずであったが、ヴァンナークで併合を宣言してからというもの、クロノワの仕事はもっぱらその併合の事後処理であった。
近年、アルジャーク帝国は急速にその版図を拡大させた。それ自体は(帝国にとっては)喜ばしいことで偉業として誇るべきなのだろうが、反面大量の書類仕事を発生させている。より分りやすく言えば、人手が足りないのだ。
「書類の山を見ているとこう………、燃やしたくなりますよね?」
クロノワがうつろな目でそんなことを口走るくらいには激務だ。
「せっかく視察にかこつけて仕事をラシアートに押し付けてきたというのに………」
ぶつぶつとそんな裏事情をつぶやくクロノワ。そんな彼のもとに一つの報告がもたらされる。それは、テムサニスの隣国オルレアンの国王、エラウド・オルレアンから「共鳴の水鏡」を用いた秘密裏の通信が入った、というものであった。
「失礼、お待たせしました」
「いえ、突然のお呼び立て、こちらこそ失礼いたしました」
通信用の魔道具である「共鳴の水鏡」は、通常地下に安置されることが多い。現在クロノワが用いているそれもその例に漏れず、蝋燭が設置されてはいるが室内は薄暗い。そのせいか宙に浮かぶエラウドの像もどこかぼやけているように見えた。
「それで、今日はどういったご用件でしょうか。秘密裏の通信とは、あまり穏やかな様子ではありませんが………」
「実は、陛下に一つお願いがありまして、今日の場を設けさせていただきました」
「願い、ですか………」
クロノワの声に乱れは無い。が、彼の頭のうちでは幾つもの可能性が浮かんでは消えていく。体は適度に緊張し、彼の目つきは若干鋭くなった。
この場の話し合いは非公式のものである。ここで話し合われたことが表に出ることは恐らく無い。しかし一国の王が一国の皇帝に願いがあるという。非公式である以上、それは突っぱねてもかまわないし、相手もそれは覚悟しているだろう。しかし、だからといって事の重大さが薄れるわけではない。
「実は、オルレアンに対して宣戦布告をして欲しいのです」
**********
併合したばかりのテムサニスを視察していた時期、クロノワはさらに隣国のオルレアンに対して圧力を掛け始めた。
いきなり宣戦布告をするような真似はしなかったが貿易や関税、港の優先的使用権などかなり一方的で不平等な内容の条約を締結するよう迫ったのである。
アルジャークがオルレアンと貿易などに関する条約を結ぶこと自体は突飛なことではない。
アルジャークはこれまでオルレアンとは国境を接していなかった。接していたのはオムージュやカレナリア、テムサニスといった国々でこれらの国は独自に、というよりもバラバラにオルレアンと通商条約を結んでいた。
これら三カ国は最近まとめてアルジャークに併合されてしまったが、アルジャークとオルレアンの間に通商条約が無かったため、それらの地域とオルレアンの間の貿易はこれまで古い通商条約に基づいて行われていた。
それを一本化しようというのである。しかしそのためにアルジャーク側が提示した条件は、先ほども述べたとおりあからさまに不平等なものであった。
これに対しオルレアンは態度を鮮明にせず、返答を先延ばしして時間を稼ぎ状況が変化するのを待とうとした。
しかし、クロノワ・アルジャークはそれを許さなかった。腹心中の腹心であるアールヴェルツェ・ハーストレイト将軍に命じて、軍を整えさせ南下を命じたのである。将軍がやってくる前に返答しなければ、そして提示した条件を飲まなければ、そのまま宣戦布告するという構えであった。
この時、アールヴェルツェ将軍が動かしたのは総勢で六万の軍であった。ただし、このうち半分の三万はいわゆる補給部隊であり、実際に戦力として想定しているのは三万だけであった。
これに加えて、クロノワは虎の子の魔導士部隊を連れてくるよう、彼に命令している。このことを、クロノワが本気であった証拠と見ている歴史家は多い。
これだけでは少ないような気もするが、しかしアルジャーク軍の戦力はこれだけではない。カレナリアのベネティアナにはテムサニス遠征の際に動かしたカルヴァン・クグニス将軍率いる三万の部隊が無傷でいる。またテムサニスのヴァンナークにはイトラ・ヨクテエル将軍とレイシェル・クルーディ将軍の両部隊も控えている。先の遠征による死傷者を除いたとしても、合計で十一万以上の軍勢を誇っている。加えて、動かそうと思えばジルモンドが率いていた旧テムサニス軍を動員することも可能で、そうなれば二十万を超える大軍も用意することが可能だった。
オルレアンのほうも慌てふためいているだけではない。宣戦布告回避と条約の内容で譲歩を引き出すべく外交手段を駆使しながら、その一方で兵を集め戦端が開かれてしまうその事態に備えた。
その様子を、獰猛な笑みを浮かべながら眺めていたのがカンタルクである。アルジャークがオルレアンに圧力を掛け始めたこの頃、逆にカンタルクはオルレアンと距離を取り始めた。その代わり国境付近ではカンタルク軍の斥候の動きが活発化した。それはカンタルク軍がもうすぐで動き出すことを予感させる。そのタイミングは、はたしていつになるのであろうか。
**********
カレナリアのベネティアナに着いたアールヴェルツェはその晩、カルヴァンを晩酌に誘った。談笑しながら赤ワインを一本空けて酔いが回ってきた頃、アールヴェルツェは唐突にこう言った。
「アレクセイ将軍を殺した、私やクロノワ陛下を恨んでいるか?」
「将軍、それは………」
カルヴァンが困ったように笑う。ただ、その目は笑っていなかった。
「酒の席だ。表沙汰にしようとは思わぬし、本気にもせぬ」
だから腹のうちに溜め込んだものを吐き出してしまえ、とアールヴェルツェは言外にそう言った。途端、カルヴァンのまとう空気が変わった。
「………師父は!」
吐き出すようにして、カルヴァンは叫んだ。「師父」というその言葉のとおり、彼にとってアレクセイ・ガンドールは正しく師であり父であった。
しかし、カルヴァンは最初からアレクセイのことを敬愛していたわけではない。むしろかなり長い間、彼はアレクセイのことを恨み憎んでいたし、少し成長して語彙が増えてからは「無能者」と罵っていた。
理由は、彼の父であるバルト・クグニスがアレクセイの指揮する部隊で戦い、戦死したからである。
誤解の無いよう記しておくが、バルトが戦死した戦いにおけるアレクセイの部隊指揮には、なんらまずいところは無かった。味方の損害は最小限にし、逆に敵には最大限の損害を与えた。
しかし、戦死者の家族にそのような頭でっかちな理論が受け入れられるわけも無い。むしろ家族の流した血の上に戦功を積み上げているようにすら見えるだろう。
少なくとも幼い頃に父親を失ったカルヴァン少年はそうだった。アレクセイが世間でどれだけ賞賛されようとも彼はその評価を頑として受け入れず、父を戦死させたというただその一点をもってアレクセイを無能者と罵った。
そうやっていつしか軍人そのものを嫌うようになっていたカルヴァンだが、しかし彼が入ったのは士官学校であった。理由は単純だ。「金が無かった」からである。
アルジャーク帝国においては、戦死者の家族に対し相当額の見舞金が国から支給される。クグニス家もその見舞金を受け取っており、金銭的に困窮していたわけではないが、間違っても裕福とはいえない。
アルジャーク帝国では国民の学習意欲が高い、という話は前にした。しかしだからといって国民の全てが望む教育を受けられるわけではない。情熱の前にはいつだって経済が立ちはだかる。高い教育を受けようと思えば、それだけ金がかかるのだ。
そこでカルヴァンが目をつけたのが士官学校であった。この学校は国が助成金を出しており、卒業後一定年数軍役に着くことを条件に、安い学費で高度な教育を受けることが出来のである。
士官学校に入ったカルヴァンは精力的に勉強した。しかし彼に軍人として身を立てる気は毛頭無い。ではなぜかというと、成績上位者には奨学金が出るのだ。学費が安いとはいえ、必要な金は学費だけではない。貧乏学生であるカルヴァンにこの奨学金はありがたかった。
動機がいささか不純であるとはいえ、カルヴァンは学業に打ち込んだ。彼の頭も、どうやらその情熱に応えうるだけの作りをしていたらしく、カルヴァンは卒業まで成績上位者(奨学金給付者)名簿の中に名前を連ね続けた。
カルヴァンが初めてアレクセイと言葉を交わしたのも士官学校だった。
カルヴァンが入学してから二年目の初夏のある休日、彼は士官学校の図書館で本を読んでいた。周りには同じように本を読んでいる学生が大勢いたが、カルヴァンは彼らとは異なっていた。大多数の学生たちが軍人の卵らしく戦略や戦術の本を読んでいるのに対し、彼は歴史書を読んでいたのである。
「なぜ君は歴史書を読んでいるんだい?」
そうカルヴァンに話しかけたのが、実はアレクセイ・ガンドールであった。彼はずっと国境の近くで部隊を率いていたのだが、その働きが評価されて一軍を任されることになり、帝都ケーヒンスブルグに呼び戻されていたのだ。
少し空いた時間を利用して、アレクセイにとっても母校である士官学校を見学していたところ、一人だけ歴史書を読んでいる学生を発見し興味半分に声を掛けたのだ。
カルヴァンは話しかけてきた声の主を一瞥し、それが大人であることを確認すると、この学校の教師だろうと当たりをつけそれ以上の詮索はしなかった。視線を本に戻し、つまらなそうにこう答えた。
「軍人になるつもりが無いからです」
「軍人になるつもりが無いのなら、なぜ士官学校に?」
男が面白そうに問いを重ねる。カルヴァンは一瞬目つきを鋭くし、それから口元に嘲笑の笑みを浮かべた。まるで、自分の身を切るような笑い方だった。
「父が無能な指揮官の下で戦い戦死したので、金が無いんですよ」
「その無能な指揮官の名前は?」
「アレクセイ・ガンドール」
むしろ淡々と、当時すでに名将と言われていた男の名をカルヴァンは口にした。
「なぜ、無能だと?」
「自分の策で死んだ部下のことを忘れてる奴は、みんな無能だ」
吐き捨てるようにしてそういったカルヴァンはそのまま席を立ち、そばに立っていた男に顔も見ないまま一礼してその場を去った。
こうして二人は互いに名前も名乗らないまま別れた。これが、カルヴァンとアレクセイの最初の邂逅であった。
二度目の邂逅は、カルヴァンが士官学校を卒業してから一年後のことであった。卒業後、部隊に配属された彼は、やる気がない割にはそこそこの功績を挙げ、それが評価されて配置換えとなった。
そして新たな転属先がアレクセイ・ガンドール将軍の副官だったのである。
(まさか、あの男がアレクセイだったとはな………)
初めて上官としてのアレクセイに会ったとき、カルヴァンは内心の動揺を顔に出さないよう多大な努力をしなければいけなかった。かつて「アレクセイ・ガンドールは無能だ」と吐き捨てたその相手こそ、まさか本人だったとは。
(では、なぜ俺を副官に………?)
人事を担当する部署が勝手に割り振った結果の偶然なのか、それともアレクセイ本人がカルヴァンを副官にと望んだのか。だとすればなぜ自分に暴言を吐いた相手を副官にしたのか。
(部下にして嫌がらせでもするつもりか………?)
そうだとしてもカルヴァンは一向にかまわない。それこそアレクセイが無能者であるという何よりの証拠になるからだ。
しかし、カルヴァンの偏見に満ちた憶測は外れた。一ヶ月たっても二ヶ月たっても、アレクセイは上司の権力を傘に着てカルヴァンに迫害を加えるような真似は一切しなかったのだ。それどころか彼は考えうる限り最高の上司であったといっていい。
(いっそ自己申告してやろうか………?)
自分が暴言を吐いたことをアレクセイは忘れているのではないか。そう思ったカルヴァンはあの時「無能者と罵ったのは目の前のこの自分である」と自己申告することも考えた。憎い相手が目の前にいれば報復したくなるのが人間というものであろうから。
(しかしだからといって………)
しかしだからといって、アレクセイの能力を否定できるわけではない。こうしてそばで仕事をしていれば自分の憶測か外れたこと、そして彼が有能な上司であることをカルヴァンは認めざるを得ない。いくら「アレクセイは無能者である」という偏見を持っていても、いや、そういう偏見を持っていて評価が辛くなっているからこそ、アレクセイが際立って優秀であることを認めざるを得ないのだ。
(なんなのだ………!)
無能であって欲しい者は、実は極めて優秀。粗暴で横暴であって欲しい上司は、実際には温厚で人の出来たよい上司。カルヴァンが独断と偏見によって作り上げていたアレクセイ像は、実物を前にすると音を立てて崩れてしまった。
客観的にみれば誰もが羨むはずの職場で、カルヴァンは悶々とした日々を送っていた。そんな彼に変化が訪れたのは、あの日と同じ初夏のある日のことであった。
アレクセイの執務室の片隅には、表題の書かれていない本が何冊かまとめて置いてある。すっかり紙が黄ばんでしまって年代を感じさせるものからまだ新しいものまで、結構な分量がある。
ちょうど執務室に一人しかいなかったカルヴァンは、前々から気になっていたその本を手にとって開いてみた。
「これは………?」
その本の内容は不思議なものだった。いや、内容というほど中身のある物ではない。戦役の名前と、その下に人の名前がずらりと列記されているだけなのだ。筆跡はアレクセイの物で、彼が自分でこれを書いたということは推測できたが、その目的はカルヴァンにはさっぱり分らなかった。
首をかしげながらも、カルヴァンは幾つかの本をパラパラとめくっていく。そしてある所で目がとまった。そこには、彼の父が戦死した戦役の名前が記されていた。
(まさか………!)
カルヴァンの心臓が激しく脈打つ。「そんなわけはない」と内心で激しく否定しながらも、「そうであって欲しい」と心のどこかが囁いている。思考が停止した頭の中に鼓動の音だけがうるさく響くのを聞きながら、カルヴァンはそこに記されている名前を一つずつ目で追っていった。そして………、
――――バルト・クグニス。
「あ………」
声が漏れた拍子に、涙も一緒に零れ落ちカルヴァンの頬を伝った。そこに記されていたのは、確かに戦死した彼の父の名前であった。
「つまり、これは………」
つまりアレクセイはこの本に戦役とそこで戦死した部下の名前を記録していたのである。しかも時間を割き、自分の手でそれを行っていたのだ。
黄ばんでしまった紙や本から香る古書独特のにおいは、十年単位の時間の流れを感じさせる。「自分の策で死んだ部下のことを忘れてる奴は、みんな無能だ」とカルヴァンに罵られてからやり始めたわけではあるまい。ずっと昔から、恐らくは初めて部下を死なせてしまった日から、アレクセイはこの作業を続けて来たのだ。
「――――いつか謝らなければいけないと、そう思っていた」
その声に驚き入り口のほうに振り返れば、そこにはアレクセイ・ガンドールその人が立っていた。そしてあろうことか彼は部下に対して深々と頭を下げたのである。
「君のお父さんを生かして帰すことが出来ず、本当に申し訳なかった」
カルヴァン・クグニスがアレクセイ・ガンドールのことを「師父」と呼んで慕うようになるまで、そう時間はかからなかった。
「………アレクセイ・ガンドールは、ベルトロワ陛下のご遺言を無視した大罪人です」
赤ワインを飲み干したグラスを両手に包みながら、カルヴァンは声を絞り出した。
「にもかかわらず、師父の最後の誇りを守っていただけたこと、どれだけ感謝してもしきれません」
その言葉と裏腹に、カルヴァンの表情は辛そうだ。彼は身を切るようにして言葉をつむいでいた。
「しかし!それでも!それでも私は………!」
カルヴァンの頬を涙がつたう。それを隠すように、彼は俯いた。
「それでも私は………、二人目の父を、失ったのです………!」
喉を詰まらせ声を押し殺すようにして、カルヴァンは泣き続けた。
(今宵は雨、か………)
アールヴェルツェが窓の外を眺める。その視線の先には、月が煌々と光を放っていた。