「暑いですねぇ~。まさに南の島って感じです」
「本当ですね………。日差しも強いし」
北国のアルジャークなどと比べれば遥かに強いその日差しは、ただそれだけでここが異国であることを印象付ける。ここはシラクサ。より広く言えば、シラクサという港があるローシャン島である。
アルジャークがテムサニスに宣戦布告した頃、フィリオもまた動いていた。リリーゼが戻ってきた頃から予定していたシラクサの現地視察の計画を、ついに実行したのである。ただフィリオには視察だけして戻るつもりはなかった。ヴェンツブルグからここまで、船旅で二十日以上かかっている。気楽に行ったり来たりできる場所ではない以上、今回の視察でこの地域の代表を務めているロン一族に、ある程度話を通してしまいたいと考えていた。話とは、無論シラクサをアルジャークの勢力圏に引き込むための話である。
余談になるが、「シラクサ」という言葉の定義をこの際だから広げておきたいと思う。シラクサとは本来、ローシャン島の北部に位置する港町の名前である。しかしこの先の時代、シラクサと大陸の間で船の行き来が盛んになると、「シラクサ」という名前はローシャン島とヘイロン島の二つの島をまとめた、この地方の名称としても使われるようになる。よってこの先「シラクサ」という名前は、こちらの意味でも使うことになる。どちらの意味で使っているかは、申し訳ないが文脈から判断していただきたい。
さて、今回の視察であるが、フィリオとリリーゼの二人だけというわけではない。彼らの他に後六人、総勢で八名の視察団となっている。
フィリオはまず、視察団を引き連れてシラクサの高台に居を構えているロン一族のもとへ、挨拶へ行くことにした。
一族、といっても「ロン」の姓名を名乗っているのは、ただ一家族のみである。というより、そもそもシラクサには姓名を名乗る習慣がない。ここに住んでいるシラクサ人とも言うべき人々は、ただ名前だけを名乗るのである。
ではなぜ、ロン一族がその姓名を名乗っているのかといえば、大陸の習慣に合わせたが故であった。
大陸とシラクサの間で交易が始まった頃、シラクサの人間は姓名をもっていないという理由で野蛮だの未開だの、そんなレッテルを貼られることがあった。それが特に顕著であったのが、いわゆる「上に立つ人間」の間で、だった。
政治的に下に見られた、といえば分りやすいだろうか。
そこで少なくとも対等な立場と認識してもらえるように、当時シラクサの代表格であった人物が「ロン」の姓名を名乗るようになったのだ。ちなみに「ロン」という言葉は「王」や「長」を意味するシラクサの古い言葉だ。だからシラクサの人間にとってそれは、姓名というよりは代表を示す称号としての意味合いのほうが強い。
何はともあれ、これからその“ロン”のところに挨拶に行くのである。
(いきなり出向くのは無礼と思われるかもしれませんね………)
本来であれば、事前に使者を送り挨拶に伺う日時を決めておくのが筋であろう。しかしシラクサはアルジャークから遠すぎる。まして船旅である。風や波の状態で日程などいくらでも変わってくる。
結局、いきなりお訪ねするほかない。
(ま、そのあたりは諦めてもらいましょう)
嫌な見方をすれば、アルジャークにとってシラクサは格下の相手である。多少の無礼は許容してもらうとする。交渉の席で礼を失するつもりは毛頭無いが。
シラクサの街を一望できる高台に造られたロン家の家は、これまで街中で見かけた家に比べれば確かに大きい。三階建てで、周りは兵と垣根で囲まれている。しかし、大陸で見る貴族の屋敷などと比べると、どうしても見劣りがする。
当然といえば当然である。ロン一家はシラクサの住民から取り立てた税で生活しているわけではないのだから。
シラクサにも税金は存在する。人が街や国という集団を形成して生活するために、それはどうしても必要だからだ。
集められた税金は、ロン(当主のこと)が最終的にその再分配について決定する。つまりロン家はいくらでも税金を懐にねじ込める立場な訳だが、この質素な家のたたずまいを見る限りでは、そのような不正は行っていないように見受けられた。実際、ロンは税金の再分配についてその詳細な明細書を毎年公表しており、街の商人と職人でつくる商工会などがそれをチェックしている。
ロンに選ばれた家系は、その当時代表格であっただけである。その家系が今もロンの名を名乗っているのは、いわば当時からの流れであって正当な根拠には欠ける。にもかかわらずこの一家が今もロンの名前を名乗っていられるのは、ひとえにこの清廉潔白さがシラクサの人々から評価されているからである。
ちなみにロン一家の収入源であるが、この家はローシャン島の大地主であり、それを小作人に貸すことで収入を得ている。そういう意味では名家に違いない。
「止まれ!何者だ!?」
家の前の門には二人の門番が立っている。見慣れない異国人の集団に彼らは警戒をあらわにし、手に持った昆をフィリオたちに向けた。
フィリオが彼らの警戒を煽らない位置で立ち止まると、他の視察団のメンバーもそれに習う。それからフィリオは優雅に一礼し、簡潔に用件を述べた。
「私はフィリオ・マーキス。アルジャーク帝国より使者としてまいりました。どうかガマラヤ・ロンにお取次ぎを願いたい」
**********
フィリオたちが通されたのは一階にある応接室であった。今室内には八人いるが、狭苦しさは感じない。壁際に飾られた調度品の数々はもちろんシラクサのもので、はじめて見るフィリオにはその良し悪しは判別できない。ただ素人目にも品のいい品物が飾られているように思えた。
「おや、これは………」
フィリオの目が、飾られていた調度品の一つにとまる。
「ガラス細工ですね………。綺麗………」
側に来たリリーゼも簡単の声を漏らす。実際見事な作品だ。南国らしく鮮やかな色彩の鳥で、色の違う薄くて細かいパーツを幾つも組み合わせて作られている。見るからに繊細そうで、下手に触れば壊れてしまいそうである。
シラクサはガラスの生産で有名である。その歴史は古く、大陸でガラスの製法が発見されるよりも前から、ガラス製品を作り大陸と交易を行い莫大な利益を上げてきたという。現在では大陸でもガラスの生産は行われており、輸送に費用が掛かる分シラクサのガラスはどうしても割高になってしまい、結果として大陸との交易はかなり廃れてしまった。
「見事でしょう。それは街の工房で造られたものなのですよ」
ガラス細工を観賞していると、部屋の入り口の方から声がした。振り返ってみると、一人の壮年の男が立っている。ロン家の当主、ガマラヤ・ロンである。恰幅が良く顔は角ばっているが、優しい目元のおかげで威圧感は感じない。
「ガラスは宝石などとは違ってそれ自体を生産できますからな。枯渇する心配のない、息の長い産業になります」
「反面、どこででも生産できるため競争が激しい」
フィリオの切り返しにガマラヤは「これは手厳しい」と苦笑した。しかし気分を害した様子はなかった。
「改めまして。ロン家当主、ガマラヤ・ロンです」
「ご丁寧に。フィリオ・マーキスと申します」
ガマラヤに促されてフィリオたち視察団のメンバーはそれぞれ手近な席に着いた。雑談を交えつつ簡単な挨拶を交わした後、フィリオは持参した贈り物をガマラヤに渡した。
バロックベアの毛皮、鮮やかな染料で染められたシルクの反物、中でも紫の布は最高級品だ。その他にも緻密な装飾の施された宝剣、大粒の宝石がはめ込まれた金細工や銀細工などがある。どれもこれも一級品である。
「さて………」
持参した贈り物を一通り説明し終えると、フィリオは表情を改めた。今日は贈り物を渡すためだけに来たわけではないのだ。フィリオの雰囲気から何かを察したのか、ガマラヤも真剣な表情を見せる。
「今日お伺いしたのは、アルジャーク帝国とシラクサの未来についてお話したいと思ったからです」
「なるほど……。アルジャーク帝国とシラクサの望む未来が同じであれば、そのお話は歓迎すべきでしょうな」
両者の視線が一瞬擦れる。しかし擦れて火花が散る前にフィリオの方が視線を外した。彼は外した視線をそのまま視察団の一人に向けて目配せする。目配せされたメンバーは一通の書類を取り出し、ガマラヤに差し出した。
「そこに大まかではありますが、我々の望む未来について記してあります。一度目を通してご検討いただけませんか」
「………分りました。拝見させていただきます」
ガマラヤのその返事を聞くと、フィリオは満足したように微笑んだ。「今日はこれで失礼します」と言って立ち上がった彼を、ガマラヤは呼び止めた。
「宿はすでにお決まりですかな」
「いえ、これから探すつもりですが」
「でしたら我々がご用意しましょう」
よい宿があるので是非そちらに、とガマラヤは勧めた。連絡を付けやすくしたい、という意図だろうとフィリオは察した。面子の部分もあるのだろうが、ガマラヤの表情を見ると好意の成分のほうが多いように思える。それならば、とフィリオはその好意をありがたく頂戴しておくことにした。
案内を命じた部下たちに連れられて出て行く視察団を見送ってから、ガマラヤはさっそくフィリオが置いていった書類に目を通し始めた。
一度読み、二度読み、そしてもう一度目を通す。
バサリ、と書類を机の上に投げ出し、ガマラヤは難しい顔をして考え込んだ。
書類に記されていたアルジャークの望む未来は、総括して考えればシラクサの望むそれとほぼ一致する。受け入れがたい点やより詳細な説明を必要とする箇所は多々あるが、それは今後の交渉の中ですり合わせていけばよい。
とはいえ、一人で考えて結論を出すのは危険だ。シラクサに住む全ての人々に関係する件なのだから、様々な立場の人から意見を聞いておく必要があるだろう。まずさしあたっては………。
「ハルバナを呼んでくれ」
古くからロン家に仕えてくれている大陸で言うところの“執事”に、ガマラヤはそう命じた。
シラクサには商人や職人の意見をまとめて調整する、「商工会」という組織がある。シラクサの商人や職人のほとんどがこの組織に属しており、そのため商工会はシラクサの経済に大きな影響力を持っていた。
その商工会の長老が、ハルバナという老人なのだ。
部屋から出て行く執事を見送ると、ガマラヤは大きく息をついた。シラクサの歴史、その中で変革の時期が来たことを、ガマラヤは悟ったのだ。
**********
案内された宿はいわゆる“宿屋”ではなく、迎賓館であった。整えられた中庭は大陸のそれとは違った風情があり、異国情緒を楽しませてくれる。迎賓館には十分な部屋数があり、視察団のメンバーにはそれぞれ一人部屋があてがわれた。
荷物の整理が終わったところで、メンバーは大広間に集まった。これからの予定を話し合うためだ。
「とは言っても、シラクサ側から連絡がない限りは、我々としてはやることがありませんね」
メンバーの一人が苦笑するように言う。実際、視察団内部での交渉のための準備はすでに終わっている。現状ではやることがない。
「では情報収集をしましょう」
「情報収集、ですか?」
フィリオの提案に、怪訝な反応が返ってくる。
「本格的な交渉の前に、シラクサの経済の実態を把握しておくのもいいでしょう」
そのために商店や港、工房などをめぐり情報を集めるのだという。当然、そんなやり方で機密に類する情報が手に入るはずもなく、ようは観光半分に聞き込みをするということだろう。そのことを理解したメンバーたちは揃って苦笑を漏らした。
「あ、お土産代を経費で落としちゃ駄目ですよ?」
「そんなことをするのはフィリオさんだけです!」
リリーゼのそのツッコミに、本人以外のメンバーは深く頷くのであった。
**********
「なるほどの、これは………」
ガマラヤから手渡された書類をハルバナは机の上に戻した。そこに書かれていたのは、フィリオが言うところの「アルジャーク帝国が望む未来」であった。
「ロンのおっしゃるとおり、大筋としてはシラクサに益のある話でしょうな。商工会としても、まず損をすることはないと思いますぞ」
アルジャーク帝国が望む未来。それはシラクサを拠点として、海上交易を拡大させることだ。これはシラクサと大陸の間だけの話ではない。シラクサのさらに南にはリーオンネ諸島があり、さらに西にはサルミネア諸島がある。こういった島々と交易を行う拠点として、アルジャーク帝国はシラクサを使いたいと思っているのだ。
もっともサルミネア諸島に関しては、シラクサよりもそこから北にある大陸有数の貿易港ルミティアスのほうが近い。シラクサ―サルミネア諸島間で交易が発達するかは未知数だ。
「では、商工会は今回の話、大筋賛成ということでいいのだな?」
「そうなりますな。この先、税率などを交渉する際には、相談していただければありがたく思いますがの」
ハルバナが、というよりも商工会が今回の話に乗り気なのは当然であろう。シラクサが海上交易の拠点となれば、真っ先にその恩恵にあずかるのは商人たちだ。莫大な利益を期待できるだろう。
「とはいえ、ロンとしてはここに書かれていることを全て飲むわけにはいかないですじゃろ?」
「当然だ。アルジャークの影響力を、少なくとも政治的には排除したい」
アルジャーク帝国がシラクサの政にまで口を出してきては、甘い果実、つまり交易で手にした莫大な利益は全てアルジャークに持っていかれてしまう。それでは意味がない。
「しかし、依存したほうがいい部分もあると思いますぞ」
「………どういうことだ?」
「甘い蜜に誘われてくるのは美しい蝶だけではない、ということですかの」
シラクサが海上交易の拠点として発達し、多くの船が富を抱えてやってくるようになれば、必ずや招かれざる客も現れる。
すなわち、海賊である。
「海賊対策には、海軍力が必要じゃ。シラクサだけで対処するには、ちと荷が重いかと思いますがのぅ」
現在シラクサには軍隊と呼べそうな組織は存在しない。アルジャーク帝国の影響力を排除したいというのであれば、海賊対策も自前でやらねばならず、それには膨大な資金と時間と手間がかかることが容易に想像される。またそうやって作り上げた海軍を維持していくのは、シラクサにとって負担が大きいだろう。
そこでアルジャーク帝国の力を使え、とハルバナは言う。
「しかしな、力を貸してもらっておいて口を出すな、というのは無理だろう」
「そこはほれ、ロンの手腕の見せ所、というやつじゃろう?」
さりげなく無茶な注文をする老人にガマラヤは苦笑する。
「さて、どうしたものかな………」
鋭い目で窓の外を眺めるガマラヤの目に、しかし風景は映っていなかった。
**********************
次の日、視察団のメンバーは起きた順に朝食を食べ、おもいおもいにシラクサの街へと繰り出していった。久しぶりに地面の上の揺れないベッドで眠ったせいか、いつもよりも寝坊してしまったリリーゼも、朝食を食べ終え身支度を整えてから街へと足を向けた。今日は楽しい観光、もとい情報収集である。
リリーゼが歩いている通りは、それなりに活気に溢れていた。しかしその一方で、そこにいる人々の特徴は皆一緒である。すなわち、黒い髪の毛の黒い瞳、そしてシラクサ独特の衣装。つまり今彼女の目に映っているのは、すべてシラクサの住民である。
(少し、異様だな………)
独立都市ヴェンツブルグという交易の街で育ったリリーゼはそう感じた。シラクサの街はこの地域で唯一の貿易港のはずである。それなのになぜこうも外の人間がすくないのだろうか。ここは目抜き通りではないが、それなりの数の店がある。大きな商談を行うような店ではないのかもしれないが、貿易港にもかかわらず商店に異国人が見当たらないというのは異様な光景に思われた。少なくともヴェンツブルグではありえない。
(大陸との交易が廃れてきているというのは本当のようだな………)
確かにそれなりの活気はある。しかしそれは貿易港としての、あの一種混沌とした人種の坩堝のような活気ではない。
(港の、船着場のほうに行けばもっと活気があるかもしれないが………)
船着場は、いわばシラクサの玄関口だ。この通りよりも活気を期待できるだろう。後で足を伸ばしてみようと思いつつ通りを歩くリリーゼの目に、一見の小さな店が映った。
「ガラス工房『紫雲』直売店」
看板にはそう書かれている。窓辺の陳列棚には、色とりどりのガラス製品が置かれている。アクセサリーなどの細工品に加えて、カップやランプのかさなど実用的なものも置かれている。
興味を引かれて店内に入る。中に入ると、不思議な音色の音楽が流れていた。まるで悠々と流れる大河を連想させる、そんな演奏だ。
店の奥に目をやると、一人の女性がカウンターの奥で楽器を弾いている。弓を左右に動かしているから、恐らく弦楽器の類だろう。
「あら、いらっしゃい」
来客に気づいた女性が演奏の手を止めて微笑む。立ち上がろうとする彼女を、リリーゼは制した。かわりに一つ質問をしてみる。
「その楽器は………?」
「ああ、これ?『胡弓』っていうシラクサの楽器よ。聞くのは初めてかしら?」
「うむ。不思議な、だけど落ち着く音色だ」
「そう?気に入ってくれたのなら、嬉しいわ」
胡弓を弾いていた女性は翡翠(ヒスイ)と名乗った。リリーゼも自分の名前を名乗る。
ヒスイは典型的なシラクサの女性だ。瞳の色は黒で、長く伸ばした黒い髪の毛を背中に流している。肌は白く、磨かれた漆のように輝く髪の毛とのコントラストが印象的だ。顔にかかる髪の毛を払う仕草が、くやしいほど様になっている。
「商品を見せてもらってもいいだろうか?」
「ええ、ごゆっくりどうぞ」
リリーゼが店内を見始めると、ヒスイは胡弓を演奏し始め、店内は再び胡弓の音色に包まれた。ゆっくりと流れる川のようなその演奏は、異国情緒にあふれながらもどこか懐かしさを感じる。
リリーゼは店内の商品を眺めながら、内心で胸をなで下ろしていた。今店内にいる客は彼女一人だ。もしかしたらヒスイはぴったりと張り付いて熱心なセールストークを聞かせてくれるのではないかと思ったのだが、胡弓を弾く彼女からはそんな意思は感じられない。落ち着いて買い物ができそうだった。
商品を眺めるリリーゼの目が、ある棚のところでとまった。そこに置いてあったのはカップの一種である。ただ随分と小さくて可愛らしい。
「ヒスイ殿、これはいったい………?」
リリーゼの声がいぶかしげに途切れる。声をかけられたヒスイが胡弓の演奏をとめて笑っていたからだ。何か変なことを言っただろうか?
「ご、ごめんなさい。『ヒスイ殿』なんて言われたの、初めてだから可笑しくって………」
笑いを堪えながら(上手くいってはいなかったが)ヒスイは自分のことは呼び捨てでいいと告げ、再び胡弓を弾き始めた。
「ああ………、それではヒスイ、これは一体何に使うのだ?」
「それは『お猪口』ね」
シラクサ酒、というお米の地酒を飲むときに使うのだという。どうやらお酒を飲まないリリーゼには縁のない品物のようだ。
「むう……。綺麗だし可愛いと思ったのだが………」
「お土産にするなら、アクセサリーのほうがいいと思うわよ」
残念そうにお猪口を棚に戻すリリーゼに、ヒスイが胡弓を弾きながらアドバイスした。が、アクセサリーといわれたリリーゼはなんともいえない顔をした。
「どうしたの?」
「いや、どういうアクセサリーが自分に似合うのか、良く分らなくてな………」
お洒落に興味がなかったわけではない。ただそういう方面の話は、母であるアリアのほうが熱心で、リリーゼは母親に任せてしまうことが多かった。
「もしよければ、一緒に選んでもらえないだろうか?」
いいわよ、と気さくに答えたヒスイは、胡弓を座っていた椅子の背もたれに立てかけて立ち上がった。顔に浮かべた微笑は、やんちゃな妹を見守る姉の微笑みに似ている。
「どんな種類のが欲しいとか、希望はある?例えば腕輪とかブローチとか………」
「………すぐには思いつかないな………」
そう広くはない店内のちょうど真ん中辺りに、アクセサリーを置いた棚がある。そこには様々な種類の色鮮やかなアクセサリーが飾られていて、どれも綺麗だとはリリーゼも思う。しかし、その中から何が欲しいかといわれると、すぐに答えることはできなかった。
「う~ん、そう言われてしまうと、選ぶのも大変ね………」
そう言いつつも商品を選ぶヒスイの目は真剣だ。ともすると、いや確実に当事者であるはずのリリーゼよりも真剣だ。
「あ!それじゃ、これなんてどうかしら?」
ヒスイが選んだのは髪飾りだった。髪の毛に止める部分は金属製だが、そこに青い花のガラス細工があしらわれている。
「これなら、リリーゼの綺麗な髪の毛に良く似合うと思うわ」
そう言ってヒスイはその髪飾りをリリーゼの髪に挿し、鏡を見せた。彼女の見立てどおり、青い花のガラス細工はリリーゼの金髪に良く映える。
「うん、思った通り!良く似合うわ」
満足したようにヒスイは頷く。リリーゼとしても似合うと言われ、まんざらでもない様子だ。値段も手ごろだったので、この髪飾りを買うことにした。
「それにしても………」
商品を包むヒスイに、リリーゼは店に入ってから疑問に思っていたことを聞いてみた。
「随分と客が少ないようだが、いつもこうなのか?」
実際、今店内に客はリリーゼ一人しかいない。彼女が店内を見ている間に新たな客が来ることはなかったし、彼女が来る前に客がいた様子もない。
「ええ、大体いつもこんな感じよ」
特に気にした風でもなく、ヒスイは答える。その言葉と表情からは、悲壮な様子は感じられない。
「………大丈夫なのか?」
客が来なければ物は売れず、物が売れなければ収入には結びつかない。生活していけるのだろうか。
「大丈夫よ。うちは直売店だから」
なんでもヒスイの家はガラス工房を営んでいるらしく、この店はその直売店だという。そういえば店の看板にも「ガラス工房『紫雲』直売店」とあった。
「工房で作った製品はそれぞれのお店に卸していて、収入はそっちがメインよ。このお店も、奥と二階は倉庫になっているの」
はいどうぞ、といってヒスイは包装の終わった髪飾りをリリーゼに渡す。リリーゼも財布から代金を取り出してヒスイに渡した。つり銭を計算しながら、ヒスイは「でもまあ」と思い出したように呟いた。
「工房の仕事は、減っているかもしれないわね………」
ガラス工房「紫雲」で働いている職人の数は、建物の大きさに比べれば少ないという。それはつまり昔はもっと大勢の職人がいて、仕事もその分多かったということだ。
「もっとも、それはわたしが生まれる前の話だけどね」
少し暗くなった空気を吹き飛ばすように、ヒスイは片目をつぶって笑った。そんな彼女の様子を見ていると、リリーゼの表情も自然に綻んだ。
「リリーゼ、シラクサはいいところよ。ぜひ、楽しんでね」
南の島の、空は高い。
**********
ガマラヤからアルジャークの視察団に会談の申し入れがあったのは、フィリオたちがシラクサについてから三日後の夜のことであった。次の日の午前から、本格的な交渉に入りたいという話が伝えられ視察団もそれを了承した。
「どうなると、思いますか?」
久しぶりに視察団のメンバー全員がそろった夕食の席で、リリーゼはそう問いかけた。あまりにも漠然とした問いであったが、その分答えるほうも大まかに答えることができた。
「多分、真っ向から反対することはないと思うよ」
そう答えたのは、視察団でも最年長のメンバーだ。ちなみにフィリオの年齢は視察団の平均よりも下である。
「海上交易の拠点になるという話は、シラクサにとっては願ってもない話だ。そこから拒否するということは絶対にありえない」
その意見にはリリーゼも、というより視察団全員が賛成だ。
髪飾りを買った後、リリーゼは港まで足を伸ばした。シラクサの港は、設備の面だけを見ればヴェンツブルグなどと比べても遜色がない。しかしそこに停泊している船は少なく、設備が立派な分閑散とした雰囲気が強かった。
落ち目である、といえば分りやすいかもしれない。
しかしアルジャーク帝国が主導する海上交易の拠点となれれば、状況は一変する。シラクサを訪れる船の数は段違いに増加し、ともすれば今の設備でも手狭に感じるくらいになるだろう。そして莫大な富が生まれるだろう。
「基本的には賛成。これはもう間違いない。ではどこが交渉の一番の論点になるか、といえば………」
「シラクサの主権のあり方、でしょうね」
アルジャークとシラクサの力関係は歴然だ。しかしだからといってその力に物言わせて利益を横から掠め取られては、シラクサとしては面白くないだろう。その一方で拠点となっているシラクサにばかり富が集まっていては、今度はアルジャークの方が面白くない。どこまでアルジャークの関与、つまり影響力を認めるか、それが一番の論点になるだろう、というのがフィリオの予測だった。
「なんにせよ相手の出方次第ですよ」
そう言ってフィリオは紅茶を啜った。その言葉に視察団のメンバーは頷き、あらゆるケースを想定して明日の交渉に向けて準備をするのであった。
**********
次の日、交渉のためにロン家の屋敷を訪れた視察団一行が通されたのは、最初と同じ応接室であった。ただ、あの時と違い室内にはすでに複数人の人影があった。フィリオの姿を認めたガマラヤは立ち上がり、簡単な挨拶をしてから彼らを紹介していく。商工会の長老を始めとする、シラクサの有力者たちであった。
一通りの紹介が終わると、お互い向かい合うようにして全員が席に着く。まず最初に口火を切ったのは、ガマラヤであった。
「まずこの度のアルジャーク帝国からの申し入れですが、シラクサ側としても歓迎すべきものと考えております」
基本的には賛成するというガマラヤの発言。昨日の夜の予測と同じだ。
「それはこちらとしても何よりです。では、お渡しした書類の内容は大筋合意、ということでよろしいでしょうか?」
「いえ、それは少し待っていただきたい」
ガマラヤは苦笑気味にそう言ってフィリオをとどめた。それはそうだろう。彼に手渡した書類に書いてある内容は、アルジャーク帝国の利益を最大限に追求した内容になっている。シラクサ側がそのまま飲むなどありえない。
「ふむ、ではどうしましょうか」
「まず、シラクサの主権についてだが、これは完全な形で保障していただきたい」
シラクサの主権。やはりそれが最大の焦点になるようだ。フィリオが浮かべる微笑に表面上変化はない。しかし視線と雰囲気が鋭くなった。
「書類の中にも『シラクサには自治を認める』と明記しておいたはずですが」
「いかにも。そして『アルジャーク帝国の宗主権を認めるならば』という但し書きもありましたな」
アルジャーク帝国の宗主権を認める。それはすなわち、合法的な「天の声」を認めるということだ。
「ヴェンツブルグも帝国の宗主権の下にあります。シラクサだけ例外的な扱いにしているわけではありません」
「失礼ながら、ヴェンツブルグとシラクサでは条件が異なりますでな」
口を挟んだのは、商工会の長老ハルバナだった。彼の言う通りヴェンツブルグとシラクサでは、特に地理的な条件が異なる。ヴェンツブルグが陸続きなのになのに対して、シラクサは海を隔てた彼方にある。
「シラクサにはシラクサの文化があり歴史があり価値観がある。現地のことは現地の住民に任せてもらうのが一番じゃと思いますがのう」
陸続きであるということは、文化や歴史や価値観といったものを共有しているということだ。簡単に言えば、ヴェンツブルグの場合、帝国の一部であるという認識が双方にある。
しかし、シラクサにはその共有項がない。シラクサはあくまでも海の向こうの“異国”でしかなく、その結果宗主権を盾に体のいい植民地扱いをされるのではないか、とガマラヤたちは危惧しているのだ。
そうなれば待っているのは搾取だ。どれだけ海上交易が盛んになろうとも、その恩恵がシラクサにもたらされることはない。それどころか、今もっているささやかな富さえも搾り取られてしまうだろう。
そのような未来を、黙って受け入れるわけには行かない。主権の確保は、そのためにどうしても必要なのだ。
「クロノワ陛下はそのようなことはされません」
「クロノワ陛下はそうでしょう。しかし後の方々はどうでしょうか?」
未来のことを持ち出され、フィリオは苦笑した。未来はいつだって不確かで見通すことなど出来はしない。まして次の皇帝はまだ生まれてすらいないのだ。
無論、主権を確保したからといって、アルジャーク帝国とシラクサが対等な関係になれるはずがない。地力、つまり国力の部分で差がありすぎるからだ。しかし建前の上だけでも平等な条約を結び、理不尽な“要請”を拒否する根拠を持ちたい。それがシラクサ側の切実な言い分だろう。
そのことはフィリオも理解している。しかし宗主権はアルジャーク帝国にとっても簡単には譲れない一線だ。
アルジャーク帝国がシラクサの内政に関与する正当な理由をもたなければ、シラクサには「帝国以外の国と組む」という選択肢が存在することになる。もしそんなことになれば、アルジャーク帝国は成果だけを横取りされた大間抜けになってしまう。そうでなくとも、よその国がシラクサにちょっかいかけてくることは大いにありえる。他の国の影響力を可能な限り排除するためにも、宗主権の確保は外せない条件であった。
そもそも、この「宗主権」からして譲歩した結果なのだ。
アルジャーク帝国にとって最も後腐れのない選択は、シラクサを完全に併合してしまうことである。しかしラシアートと相談し諸々の事情を考慮した結果、「宗主権を認めさせる」というのが最も現実的な線だと判断したのだ。
「ただ、一方で助力をお願いしたい分野もあります」
海賊対策です、とガマラヤはいう。
「アルジャーク帝国には、一個艦隊をシラクサに駐屯させて海賊対策を行うことをお願いしたい」
それはフィリオにとっても、いや視察団のメンバー誰もが予想していなかった提案だった。
アルジャークが宗主権に拘るのは、ひとえにシラクサにおける権益を確保し、他国に手を出させないためだ。逆を言えば、それさえ達成できれば宗主権に拘る理由はない。
ガマラヤは「海賊対策」と言葉を選んだが、今重要なのは「シラクサにアルジャークの一個艦隊を駐屯させる」という点だ。シラクサにアルジャークの戦力が駐在していれば、他国に対してよい牽制となるだろう。つまり権益を確保し、他国の政治的な影響力を排除できる。
シラクサにしても身を守るための戦力を確保できるし、何よりも軍事的な分野で依存する代わりに政治的な分野では自立を保てる。
「艦隊の費用の一部は、シラクサにも負担をお願いすることになりますが………」
「承知しています」
結構です、とフィリオは頷いた。細かい数字については、これからさらに詰めることになるだろう。
「では、艦隊の拠点となる母港ですが………」
話し合いは夜遅くまで続き、その日だけでは終わらなかった。タフな、しかしやりがいのある交渉になりそうだ。