「その日、二本の王旗は相対し………」
アルジャーク・テムサニス連合軍とゼノス率いる新王軍の戦いについて記録したある歴史書は、冒頭部分をそんな言葉で始めている。ただそこにいる当事者にしてみれば、「相対し」という言葉から連想されるより発見時のお互いの距離はもっと開いていた。
「確かに王旗、だな」
魔道具ではない、ただの望遠鏡を目から離す。自分が掲げているのとまったく同じ(いや、少しくたびれているだろうか)王旗をこちらに向かってくる敵軍にも認め、ゼノスは呆れたような苦笑をもらした。ジルモンドに対してではない。この状況に対してだ。同じ国の王旗が敵味方に分かれて覇権を争うなど、一体誰が想像しえたであろうか。
(人の想像力など、当てにならん)
苦い思いと共に、ゼノスは心の中で呟いた。自分にもう少し想像力があれば、イセリアに死なれることなく彼女を手に入れることができたのだろうか。
「しかし共に掲げられているあの旗はテムサニスの国旗ではありませんな。恐らくは………」
隣で同じように望遠鏡を覗いていたカベルネス侯爵の言葉にゼノスも無言で頷く。あの旗は恐らくアルジャークの国旗であろう。深紅の下地に漆黒の一角獣(ユニコーン)が描かれている。
「先行部隊、でしょうか………」
言葉は疑問系であったが、カベルネス侯は内心でそれを確信していた。今目の前に迫ってきている部隊の数はおよそ六万。つまりアルジャーク軍全てである。ならばその後ろに反乱軍が本隊として控えている、と考えるべきであろう。
「しかし、なぜアルジャーク軍と共に………?」
ジルモンドの王旗の隣にたなびくアルジャークの旗。しかし、本来であればそこにあるべきはテムサニスの旗である。なぜジルモンドは反乱軍ではなくアルジャーク軍と共にいるのか。
「まともに考えるなら“宣伝”だろうな」
つまり「ジルモンド・テムサニスは健在である」ということと「アルジャーク軍は味方である」という、二つのことを宣伝しているのではないだろうか。
「まあ、相手の目的がなんであれやることは変わらん」
「御意。あそこに王旗が翻っているのであれば、我々にとってはむしろ僥倖。二倍近い戦力差がある内に敵の大将を討ち取ってしまいましょう」
敵の大将とは、言うまでもなくジルモンドのことである。余談になるが、このごろの新王軍ではジルモンドを名前で呼ぶのを避ける風潮があった。呼び捨てにするにはどうにも後ろめたい。しかしまさか「陛下」という敬称をつけるわけにもいかない。結果、「敵の大将」という表現に落ち着いたのだ。
ゼノスはその辺りの事情を察していたが特に何も言わず、酷薄な笑みと冷たい一瞥をくれるだけだった。
「全軍前進。本隊と合流される前に決着をつけるぞ」
その時、二人の王は相対し。
**********
ウスベヌ伯爵やノルワント子爵は、元来カベルネス侯爵のように武術や軍の指揮には秀でていない。というよりまったくの素人であるといったほうが正しい。それゆえ彼らの部隊は最後尾に置かれていた。
本来、最後尾には後ろからの襲撃を警戒して精鋭の部隊を置くだが、今回は後方からの襲撃はないだろうということで、精鋭部隊は全て前方に配置されている。
別に彼らが望んでその布陣を言い出したわけではない。普通、最後尾というのは手柄を立てることが難しいため敬遠される。しかしこの布陣は彼らにとっては都合のいいものであった。
(しかしまだ動くべきときではないな………)
ウスベヌ伯は心の中でそう判断した。恐らくノルワント子も同じように判断しているだろう。
現れた敵軍はアルジャーク軍のみがおよそ六万。数の上ではこちらのおよそ半分で、しかもなぜか王旗が混じっているという。
(ともすれば勝てるかも知れぬ)
ウスベヌ伯は軍事に疎い。だがそれでも敵に対して二倍の戦力を持つ新王軍が、現状圧倒的に有利であることは分る。
(何もせずに勝てるのであれば、それが最も良いが………)
勝ち戦で戦功を立てられないのは、少し悔しい。しかしもともと武家貴族ではないウスベヌ伯にとって、最も重要なのは戦場での功績ではなく勝ち組に入ることであった。
(見極めることだ………)
戦場の趨勢を。その決断は一度しかできないのだから。
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(これほどとは………!)
ジルモンドは瞠目した。
彼は今アルジャーク軍六万の中に、ただ護衛を百騎ほど連れて加わっている。その役目はいわゆる“餌”あるいは“囮”である。
新王軍の猛攻を見る限り、彼の“餌”としての役割は十分に成功したといえる。ただ彼が今驚いているのは、新王軍の猛攻の激しさについてではない。その猛攻を防ぎ整然と後退を続けるアルジャーク軍、ひいてはそれを指揮する二人の若い将軍の手腕に、ジルモンドは瞠目しているのである。
突出と後退を繰り返す。言ってしまえばそれだけのことだ。しかし時々刻々と変化していく戦況を見極め、最善のタイミングと選択で指揮し続けることがどれだけ困難か。しかも敵は二倍近いのである。一手間違えば状況は危機的な方向に転がっていくだろう。その重圧を撥ね退けあれだけの指揮をするとは、もはや脱帽である。
また二人の将の指揮と同じぐらいジルモンドを驚かせていたのは、アルジャーク軍の兵士一人ひとりの士気の高さである。
指揮官はともかくとしても、一般の兵士たちにとって撤退戦は辛い。どれだけ上手くやっても「有利だ、勝っている」という実感が得られないからだ。攻めるのは相手で退くのは自分。戦況とは別のところで、やはり精神的には辛い。
しかし、今ジルモンドが見ているアルジャーク兵には、その“辛さ”が見られない。これがもしテムサニス軍であったなら同じ結果は望むべくもない、というのが正当な見立てであろう。
「アルジャークの兵は精強を誇る」
そう言われていた言葉の本当の意味を、ジルモンドは今まさに理解していた。将の質と兵の質。その双方において、テムサニス軍はアルジャーク軍に及ばない。
後退していたはずのアルジャーク軍が突出し新王軍を押し戻していく。凄まじい圧力で攻勢に打って出たアルジャーク軍は、しかしレイシェルの号令一つで素早くまた整然と撤退を再開する。その際に数千の矢を射掛けて敵の隊列を乱し足止めするのを忘れない。両軍の間には、またたくまに空白地帯が出来上がった。
馬上にいるジルモンドはその分視点が高く、つまり周りの状況が良く分る。そして空白地帯が出来上がったことで、新王軍の前線の様子を見て取ることができた。
首筋を矢が貫通し絶命して倒れている兵士がいる。いや、あるいは彼は幸運だったのかもしれない。そのすぐ横には顔面に矢が突き刺さり、しかし致命傷にはなりえず痛みに苦しむ別の兵士がいた。
それを見るジルモンドの心中は穏やかではない。実態を失ったとはいえ、ジルモンドはテムサニスの国王であり本人もそのつもりでいる。つまりあそこで絶命しまた苦しんでいる兵士は、彼の臣民なのである。
新王軍が一瞬足を止めた隙に、アルジャーク軍は一気に距離を開ける。慌てたように追いかけてくる敵軍に、そのつど手痛いカウンターを食らわせて寄せ付けない。
思うように進まぬ戦況に焦れてきたのか、新王軍の指揮が荒くなってきた。ジルモンドを討ち取るという目的にのみ固執し、周りの状況が見えなくなってきたのだ。
(頃合か………)
レイシェルは周りの地形を確認する。この辺りに二つに分けたテムサニス軍が街道を挟む形で待機しているはずである。
レイシェルはこれまでと同じように前線部隊を突出させ、敵の足を止めて押し込む。そして敵の隊列が乱れたところですかさず後退させる。ただし、多少陣形が崩れてもいいので全力で後退させた。これまでは見せなかった本気の後退に、新王軍はやり込められながらも勢いづきその背中を追おとした。しかし彼らがその一歩を踏み出す前に、万を超えようかという数の矢が両側面に向かって飛来した。さらにその矢を傘に、左右からテムサニス軍が新王軍の側面を目掛けて突撃する。
餌に釣られた獲物が罠にかかるのを今か今かと待っていたテムサニス軍十二万が、一挙に戦場に流れ込んだのである。
まったく予想していなかった方向からの攻撃に、新王軍は浮き足立ち混乱した。そこへさきほどまでは撤退を続けていたアルジャーク軍が突撃し、その混乱に拍車をかけていく。
二倍の戦力で敵を追っていた新王軍は、今やその数的優位を失い半包囲されるという危機的な状況に追い込まれたのであった。
(祖国に攻め込むとは、こういうことか………)
一人また一人と倒れていく新王軍の兵士たちを見ながら、表情にも出さずジルモンドは心の中で自分をあざ笑った。戦争をすれば人が死ぬ。それは避けようのない、あまりにも当然過ぎることだ。ジルモンドとてこれまで大小あわせれば両手両足の指の数では足りぬほどの戦を経験してきている。そこでは味方が倒れ、敵が死んでいった。しかしこの戦場は違う。味方が倒れ、そして味方が死んでいく。
(見ておるか、ゼノスよ。これが我らのしでかしたことの結末よ………)
ジルモンドがカレナリアで捕囚の身になどならなければ、ゼノスがその機に乗じて簒奪など企てなければ、この戦場でテムサニス人同士が殺しあうことなどなかった。
王位を簒奪したゼノスを許すつもりはない。しかしこの戦の責任をゼノス一人に背負わせる気にもなれはしなかった。
連合軍の半包囲陣形が確たるものとなり戦いの趨勢が決した頃、両軍にとって予測しえぬことが起こった。新王軍の最後尾に位置していたウスベヌ伯爵とノルワント子爵が、突然味方に矢を射かけ始めたのである。
間をおかず、王旗を掲げるジルモンドのもとに二人の貴族から「内通する」旨を伝える密使が到着した。だが、それを聞いてもジルモンドは不快げに眉をひそめるだけであった。
「無視せよ!」
ジルモンドは二人の貴族についてそう命令を下した。その判断は彼の独断であったが、そばにいたイトラとレイシェルの両将軍は何も言わずにその判断を支持した。戦場での裏切りはこの二人にはなんら感銘を与えない。まして趨勢が決してから裏切り勝ち馬に乗ろうとするその性根は、まさに唾棄すべきものであった。
ジルモンドの命令もあり連合軍は内通した二人の貴族をまったく無視して戦闘を続けたが、彼らの裏切りはやはり戦況に変化をもたらしていた。ウスベヌ伯爵とノルワント子爵が裏切ったことでそれまで半包囲であったものが完全な包囲陣形に変わり、新王軍は文字通り逃げ道を失ったのである。
上手くいけば可能かもしれないと考えていた完全な包囲陣形が思わぬ形で実現し、レイシェルとしては苦笑する思いである。だからといって内通を申し出た二人のテムサニス貴族に対して感謝することなどありえなかったが。
誰の目にも、もはや勝敗は明らかであった。ならば早期にこの戦いを終結させ、両軍の損害をこれ以上拡大させないことが勝者の責任であるようにイトラには思われた。
「行くのか?」
同僚が覚悟を決めたのを雰囲気だけで察し、レイシェルはそう声をかけた。
「ああ、終わらせてくる」
レイシェルのほうには顔を向けず、ただ新王軍の只中に翻る王旗のみを見据えてイトラは答えた。彼がまとう気配は、触れれば切れそうなほどに鋭い。
「これよりっ!イトラ・ヨクテエルは戦場を駆け抜け敵大将の首を狙う!我が旗に続け!!」
高らかにそう宣言すると、イトラ率いる三万のアルジャーク軍は敵軍の中にある王旗をめがけ、鋭いキリのように敵陣に突き刺さっていった。レイシェルもそれを絶妙に援護し、イトラの部隊は易々と敵陣を切り裂いていく。
猛進を続けるイトラの前に一人の男が立ち塞がった。ゼノスの傍らで新王軍の指揮をとっていたカベルネス侯爵である。
「我が名はレイグイット・フォン・カベルネス!ゼノス陛下の傍にあって軍を統率する者なり!そこにおられるはアルジャーク軍の将軍とお見受けする。一騎討ちを所望!」
「イトラ・ヨクテエル、その一騎討ちお受けする!」
イトラがそう答えると、カベルネス候は笑った。その決断のあまりの清々しさに、感謝を込めて笑った。
イトラにしてみればここで一騎討ちを演じるメリットはほとんどない。本来一騎討ちというのは味方の士気を上げるためのデモンストレーションであって(勝てばの話だが)、戦いの趨勢がすでに決している今連合軍の士気をさらに上げる必要はないのだ。
しかし、イトラは一騎討ちを受けた。それはひとえにレイグイット・フォン・カベルネスという武人に敬意を表したが故であった。
イトラは敵兵を貫きしかしそのせいで抜けなくなった槍を捨て、代わりに腰の剣を抜いた。カベルネス候もまた剣を抜きそれに答える。
一瞬のにらみ合いの後、二人の騎士は互いに向かって馬を走らせる。左手で手綱を操り、右手に剣を振るう。
――――ギィィイイィインンン!
二人の騎士が交差した位置で剣が鳴りあい火花が散る。速度の乗った強力なその一撃は、しかし互いに傷を負わせることもなく、ただ二人の実力が拮抗していることだけを証明して終わった。
すれ違った二人はすぐさま馬首を巡らし好敵手を求めて肉薄する。今度はすれ違いざまの一撃ではなく、互いに馬を寄せて鞍をぶつけ合い、激しく剣を鳴り合わせて戦う。二匹の馬もまた、背に乗せた主に呼応するかのように激しく嘶いている。
二人の騎士は円を描くように馬を操りながら剣を振るい続ける。イトラが突き出した剣はレイグイットのそれによって軌道を逸らされただ空を突く。レイグイットが横なぎに剣を振るえば、イトラはそれをはじき返す刃で敵の首筋を狙う。互いに一歩も退かず、一進一退の攻防が続いた。
何十合か討ち合った後、弾かれたカベルネス候の剣がイトラの馬の首筋にめり込んだ。激しい斬りあいで刃毀れしていた剣は、すぐに抜くことができない。致命傷を受けた馬は激しく身を震わせ、背中に乗っていたイトラをふるい落とし、そしてカベルネス候の手から剣を奪った。
馬から落ちたイトラは、しかしただでは落ちなかった。落ちる瞬間手に持っていた剣をカベルネス侯めがけて投げつけたのである。思いがけないイトラの反撃を、彼は身をよじってかわしたが勢いあまって彼自身もまた落馬してしまう。
結果的に二人とも馬と武器を失ったが、その後の行動もまた同じであった。二人はすぐさま手近にあった武器に手を伸ばし、そして再びお互いに相対したのである。手にした獲物はカベルネス侯が剣、イトラは槍であった。
「推して参る!」
剣を構えたカベルネス侯が前に出る。イトラは槍を突き出すがカベルネス侯はそれをかわし、しかも槍を引くのにあわせてスルスルと前に出てイトラの懐に入ろうとする。
(上手い………!)
敵ながらその動きにイトラは瞠目する。これまでは国が離れていたせいで名前を聞くことはなかったが、このレイグイット・フォン・カベルネスという男はかなりの使い手である。
イトラとてただ懐に入られるのを見ているつもりはない。槍をクルリと回転させ、石突でわき腹を狙う。それをかわすために相手の足が止まったところで、一旦後ろに飛びのいて距離を取る。
槍の真ん中辺りを持ち、今度はイトラから距離をつめる。
槍の真髄とは“突き”ではない。その長さを生かした縦横無尽にして連続性の高い攻撃こそ槍の真髄であるとイトラは思っている。そのモットーのもと磨き上げた技で、イトラはカベルネス侯を追い詰める。
上から刃が襲い掛かってきたかと思えば、今度は下から石突が跳ね上がる。ときに払いときに突き、イトラは休むことなく攻め続ける。対するカベルネス侯は防戦一方である。しかしいまだに有効な一撃をもらっていないことが、彼の力量を証明していた。
(肉を切らせねば骨は断てぬか!)
カベルネス侯は覚悟を決める。左から襲い掛かってくる一撃を選んで、前に出る。
「グゥ………!」
槍の一撃はカベルネス侯の右のわき腹に直撃する。しかし鎧を着込んでいるため、致命傷にはならないし、恐らく骨も折れてはいない。左足を踏ん張って体勢を崩すことなく持ちこたえ、剣を振るう。
イトラは下がらなかった。いや、むしろ彼は前に出た。槍の間合いから剣の間合いに詰めてきたカベルネス候のさらに懐へ、剣の間合いから無手の間合いへと距離を詰める。
左手でカベルネス候の剣を持つ右手を払いのけ、槍を手放した右手を顔面めがけて振り抜く。
体重を十分に乗せた一撃が、カベルネス候を吹き飛ばす。仰向けに倒れた彼はすぐに立ち上がろうとするがそれはかなわなかった。手放した槍を素早く拾い上げたイトラが、彼の右腕を踏みつけ動きを封じていたからだ。
「覚悟っ!!」
イトラは槍を逆さにし刃を好敵手に向ける。それを見たカベルネス候はただ穏やかに一笑し、その刃を受け入れた。
そばを離れたカベルネス候とアルジャークの将軍が一騎打ちを演じる様子を、ゼノスは馬上から眺めていた。そしてその結末に、一つ嘆息を漏らす。
「ここまで、か………」
カベルネス侯は死んだ。敵軍に包囲され、その上指揮の要であったカベルネス侯を失っては、もはや起死回生の策はない。かくなる上は、自刎するのみ。
「クロノワ・アルジャーク。貴方に直接引導を渡して欲しかったと思うのは、我儘なのだろうな………」
剣を抜き、首筋に添える。そして何のためらいもなく、ゼノスは自分の首を刎ねた。新王軍が王旗を降ろし代わりに白旗を掲げたのは、そのすぐ後のことだった。
**********
掲げられた白旗を見た新王軍の兵士たちは、次々と武器を捨て降伏の意思を示した。完全に包囲されている状況でなければ逃走を図るなりしたのだろうが、今はそれも難しい。結局、武器を捨て降参することが、命を長らえる唯一の選択であった。
「大手柄だな」
戻ってきたイトラをレイシェルはそういって迎えた。彼がレイグイット・フォン・カベルネスという貴族を討ち取ったという話は、すでにレイシェルのもとまで届いている。その名前をジルモンドに確認したところ、テムサニスの有力な貴族で、軍事と武芸に秀でた家柄だという。新王軍の主要人物だったことは間違いなく、彼を討ち取ったイトラは大手柄を立てたことになる。
「大したことじゃない。むしろ、お前のほうが功績は大きいだろう?」
イトラは別に嫌味を言っているわけではない。倍近い敵を相手に撤退戦を演じきることができたのは、やはりレイシェルの冷静な指揮によるところが大きい。それは、華々しさはなくむしろ地味ですらあるが、今回の作戦において最も重要な部分である。それを完遂して見せたレイシェルの功績は大きい。
イトラのような手柄の立て方は確かに華々しくて目立つ。しかし将であるならば、その功績の立て方はレイシェルのようであるべきだと、イトラは思っていた。
そしてクロノワやアールヴェルツェも、その辺りのことはきちんと評価してくれるだろう。それが分っているから、レイシェルにイトラを妬むような雰囲気はない。
アルジャークの若い将軍二人が互いの功績を称えあっていると、先ほどの戦いで内通を申し出たウスベヌ伯爵とノルワント子爵がジルモンドに謁見を申し込んでいる旨が報告された。
二人の将軍の笑みが消え、目は鋭く光った。
「どう思う?」
「いい気はしないな。俺個人としては、だが」
ゼノスを裏切った二人の貴族に対して、である。何はともあれ、その二人がジルモンドに謁見するのであれば、イトラとレイシェルもその場にいたほうがいいであろう。イトラとレイシェルは、この連合軍にあってアルジャークの利益を主張する役目もあるのだから。ジルモンドが勝手に大きな恩賞を与えるとも思えないが、どういう対応をするかは二人とも興味があった。
二人がジルモンドのところに着くと、すでにギルニア・フォン・フーキスをはじめとするテムサニス軍の将軍も何人か控えていた。アルジャークの二人の将軍が揃ったところで、ジルモンドがウスベヌ伯爵とノルワント子爵を連れてこさせた。
二人の表情は明るい。なにか大きな恩賞がもらえるものと思い込んでいる様子だ。しかしそんな二人にジルモンドが投げつけた言葉は冷ややかで剣の鋭さを持っていた。
「うれしそうだな。主君を、それも二度も裏切ったことがそんなにも自慢か」
二人の貴族の笑顔が凍りつく。自分の尺度でしか人をはかれない彼らは、ジルモンドの思わぬ反応に意味もなく口を開閉させた。勝ち組になれて上気していた顔色が、だんだんと青ざめていく。
一度はゼノスの戴冠を認めてジルモンドを裏切り、そして先ほどは劣勢と見るやゼノスを裏切った。こうも軽々しく、しかも戦場で主君を裏切るような臣下を信頼することなどできるはずがない。そういう輩は、旗色が悪くなればまた裏切ると容易に想像できる。そういう意味では、劣勢ながらも最後までゼノスに味方した他の貴族たちのほうが、よほど信頼できる。
「報奨が欲しいか、貴様ら」
吐き捨てるようにそう言うと、ジルモンドは右に控えているテムサニスの将軍たちのほうを見てギルニア将軍の名前を呼んだ。
「この裏切り者たちの首を刎ね、営門に晒せ!」
御意、と短く答えると彼はすぐに動いた。腰間の剣を抜き、歳に似合わずすばやく一閃させてウスベヌ伯の首を刎ねた。
ウスベヌ伯が首を失いそこから血が吹き上がるのを見て、ノルワント子は「わ、わっわわ」と意味をなさない言葉を漏らす。凶刃を下げて近づいてくるギルニアから少しでも離れようと尻餅をつきながらあとずさるが、ほんの十数秒命を長らえることしかできなかった。ギルニアに命じられたテムサニスの兵士たちが槍で彼を滅多刺しにしたのである。
「ぐ……は………」
口から血を吐きながらノルワント子爵が呻く。そしてそのまま絶命した。
二人が絶命したのを見て取ったジルモンドは、アルジャークの二人の将軍に向き直った。
「見苦しいところをお見せした」
「いえ、適切なご判断かと」
独断と偏見が混じっていることは否定できないが、イトラとレイシェルもこの手の裏切り者には嫌悪感を覚える。ジルモンドの判断に異を唱えるつもりはなかった。
この二人、ウスベヌ伯爵とノルワント子爵を最後に死者の列に加えることで、新王軍と連合軍の戦いは終わった。ついにジルモンドはテムサニスへの帰還を果たしたのである。クロノワは約定通り彼に王都ヴァンナークを中心にして五州を与え、また連合軍の兵士たち全てに報奨を与えた。
そしてついに、クロノワはカルフィスクを手に入れたのである。