「お久しぶりです。ジルモンド陛下」
「そうですな、クロノワ殿下。………いえ、もはや“陛下”とお呼びすべきでしょうか」
通信用魔道具「共鳴の水鏡」の向こう側に映るその男は、以前に会ったときよりも幾分やつれたようにも見えた。クロノワとジルモンドがこうして言葉を交わすのは、カレナリアで顔を合わせて以来のことである。二人の関係に大きな変化はないが、その二人を取り巻く世界においては、変化は常に起こっている。
「お国の様子はすでにお聞きになられましたか」
「………昨日、窺いました」
ジルモンドの声は苦い。それも当たり前だろう。自分が異国の地で捕囚の身となっている間に、祖国では妻と長男夫婦が殺害され次男が王位を簒奪したのだから。しかもその新王は各地で自国を略奪している。これまで積み上げてきたものが、一気に崩れたようなものである。
ジルモンドは、少なくとも暴君ではなかった。それどころか内政における彼の評判は高い。自らの国を痛めつけそこから搾取を繰り返したとしても、長期的に見れば得るものはなにもないとわきまえていたのである。国民を愛し労わる、というほどに力を注いでいたわけではないが、土地が荒れることのないよう治水を行い、穀物の生産量が増えるように開墾を奨励した。
民が安定した生活を送れるということは、国にしてみれば安定した税収が入るということである。為政者の思惑は生々しいが、民にしてみれば平穏な生活を送れさえすればそれでよいのだ。
が、それをゼノスが全て無駄にしてしまった、と言っていい。各地を襲い略奪を繰り返しているゼノスは、ジルモンドが築き上げてきた国の基盤を破壊してしまったのだ。まったく、積み上げるのには長い年月がかかるが、壊すのは一瞬である。
ジルモンド個人としても、状況は最悪と言っていい。ゼノスが名実共にテムサニスの最有力者になり王を自認したということは、ジルモンドに国王としての価値が無くなったことを意味している。
これまではテムサニス国王であったがゆえに、一応の身の安全は保障されていた。無論、人質として使うためである。だが今の彼に人質としての価値は存在していない。
帰る国を失い、さらに生かされておくための理由も失いもはやいつ殺されてもおかしくはない。それが今のジルモンドの状況である。
さらに彼と一緒に捕虜になった、十万以上のテムサニス兵にとっても状況は良くない。国王であったジルモンドでさえ見捨てられたのである。ゼノスが彼らを気にかけてくれる保障など、どこにもない。もちろん見捨てられたと決まったわけではないだろうが、それは希望よりは願望に近い気がする。
「このままにしておくおつもりですか?」
「捕らわれのこの身に、一体何ができましょう?」
ジルモンドとて、できることならば今すぐに国に戻りたい。「馬鹿なことは止めろ」とゼノスを一喝してやりたいのだ。だが捕らわれのこの身には気をもむ以外、なにも許されてはいない。
「近く、アルジャーク帝国はテムサニスに軍を差し向けることになります」
「それは………!」
クロノワの言葉にジルモンドは焦ったような声を漏らした。ほとんど実態を失っているとはいえ、彼はテムサニスの王である。面と向かって自分の国を侵略するといわれては、動揺を隠し切ることはできなかったようだ。様々な事態や可能性が彼の脳裏に浮かんでは消えていく。だがしかし、ジルモンドの思考はクロノワの次の言葉で一瞬にして停止することになる。
「協力していただけませんか」
「………は?」
今、この若い皇帝はなんといった?
「これから行うテムサニス遠征に、陛下のご協力を賜りたい」
そういってクロノワは満面の笑みを浮かべた。しかしジルモンドはその笑顔が業務用であることをすぐに直感する。そしてその直感が、彼の思考を再起動させた。
「………どういう、ことでしょうか」
「言葉通りの意味です。カレナリアで捕虜になっているテムサニス軍を率いて、遠征に参加していただきたい。ご協力いただければ、王都ヴァンナークを中心に五州を差し上げるつもりです」
クロノワの言葉にジルモンドは、動揺はしなかった。代わりに彼の内側に沸きあがるのは怒気であった。
「一国の王を傭兵扱いし、あまつさえ我が子を討てと申されるか!」
「その通りです」
クロノワは業務用の笑みを消し、ジルモンドの怒りの眼差しを真正面から受け止めた。はっきりと肯定の返事を返され、むしろジルモンドのほうがたじろぐ。その光景は、そのまま二人の力関係を表しているようであった。
客観的にみれば、この申し出はジルモンドにとって利のある話である。
この状況でゼノスがテムサニス王の称号を名乗るということは、彼がジルモンドを見捨てたとみてまず間違いない。新テムサニス王が旧テムサニス王のためにアルジャークと交渉を行うことはまずありえず、そうなればジルモンドは祖国に戻ることもかなわず、このまま死ぬまで捕囚の身分である。しかもその捕囚の身分すら危ういもので、この先状況が変化すればいつ殺されてもおかしくはない。ほとんど身から出た錆とはいえ、辛い状況であろう。
しかし遠征に協力すれば祖国に戻ることができ、しかもわずか五州とはいえ自分の手元に残る。今状況下で考えれば、むしろ僥倖であるとさえ言える。
無論、クロノワにはクロノワの思惑があろう。国を荒らしている新王ゼノスをテムサニスの民が快く思っているはずがなく、そこに内政では評価が高かったジルモンドが現れれば民は遠征軍を歓迎するだろう。侵略者ではなく解放者として受け入れてもらえるのだ。その上ジルモンドが王旗を掲げて先頭に立てば、新王軍の兵士たちは戸惑いその士気は下がるだろう。
しかしジルモンドが協力しなければしないで、アルジャークには単独でも遠征を成し遂げるだけの力がある。アルジャークの版図は今や二八三州。テムサニスの版図は六六州であるから、その国力差は四倍以上である。ましてテムサニスは今混乱の最中にあり、大きな隙を見せていると言っていい。
「もし協力はしない、と言ったらどうなさいますか………?」
「その時はアルジャークだけで遠征を行うことになります」
クロノワの返答は予想通りのものであった。アルジャーク単独でも遠征を決行できるのだから、遠征協力の打診はむしろクロノワの譲歩であるともいえる。そのことを承知しているジルモンドは苦慮の色を浮かべた。
先ほど彼は「我が子を討てと言うのか」と吼えた。しかしその我が子であるところのゼノスは簒奪者である。そう考えれば、ゼノスを討つことに否やはない。王位や帝位に関して肉親が争うという事例は歴史書の中に数多く記録されており、そのことを知っているジルモンドは息子を討つことにそれほどの忌諱は感じない。
「誰かがやらねばならぬのなら、私がやる」
ジルモンドの心情を言葉にして表現すれば、これが一番近いであろう。実態を失ったとはいえ彼はテムサニスの王である。王としては国と民に対して責任があり、父親としては子供に対して責任がある。その責任を果たした上で手元に五州が残るのであれば、それはやはり僥倖というべきだろう。
では何が彼の決断を妨げているのかといえば、それは“矜持”であった。
繰り返しになるが、今の彼は捕囚の身である。戦いに敗れ最大限の屈辱を味わっているといっていい。より具体的に言えば軟禁されている身の上で、軍を指揮して国を取り戻すどころか自身の自由さえままならない。
そんな彼にクロノワは協力を要請し、あまつさえ報酬さえ出すという。
そもそも捕虜にしたテムサニス軍の力を使いたいなら、ジルモンドを人質にして言うことを聞かせればいいのだ。そうすれば五州を支払うまでもなくテムサニスは丸ごとアルジャークのものになる。いや、それ以前にテムサニス軍を使う必要性さえ希薄だ。アルジャークには単独でも遠征を成功させるだけの力があるのだから。
だから、今回の申し出はクロノワの一方的な譲歩、いやもはや善意とさえ言っていい。情けをかけられた、と言い換えることもできるだろう。そしてそれを受けるということは、ジルモンドにしてみればクロノワに縋ることを意味している。
一国の王が、隣国の皇帝に縋るのである。それはもはや膝を屈することと同義だ。受けたが最後、ジルモンドはもはやクロノワと対等の関係にはなれないであろう。
国を追われた王が隣国の皇帝に助けを求めるのであれば、まだ面子は保てる。その協力に対して対価を支払う側であるからだ。しかし今回は報酬を支払うのもクロノワの方である。
もはや面子も何もあったものではない。
ジルモンドの王としての矜持はクロノワの提案を必死になって拒否している。膝を屈し誇りを捨てたったの五州だ。それでいいのかと問いかけてくる。
一方で頭の別の部分にある打算はこう囁く。こままでは全てを失い無念のうちに死ぬことになる。ここで協力して五州を得ることと矜持を貫き身ひとつで果てること。後の歴史家たちは、どちらの選択を愚かとするだろうか。
ジルモンドの中で天秤が揺れている。その天秤が徐々に傾いていくのを、クロノワは何も言わずに見ていた。
**********
「これで良かったのでしょうか………」
ジルモンドは結局、クロノワの申し出を受け入れることになった。その結果を聞いたラシアートは、少し不安げな表情を見せた。
「確かにジルモンド陛下が陣頭に立たれれば、単独でやるよりも遠征は早期に終結できるでしょうが………」
代わりに帝国内に自治領という一種の治外法権が存在することになる。自治によって治めているといえば独立都市ヴェンツブルグもそうだが、五州分の領地と一都市では規模と影響力が段違いである。
ここ最近で急激に版図を拡大させたアルジャーク帝国は、今脱皮の時期にあるといえる。脱皮を終え、国家としての成熟を深めてから自治領が生まれるのであれば、ラシアートも不安に思うことはない。
しかし今は国の体制を急ぎ整えている最中である。混乱の五歩ほど手前にいるこの状況で国史史上初めての自治領ができれば、事態は自分の能力を超えるのではないかとラシアートは懸念していた。
時間はかかるかもしれないが、遠征自体はアルジャーク軍単独でもやり遂げることができる。ならばわざわざジルモンドを担ぎ出す必要はなかったのではないだろうか。
「領土拡大が最大の目的ではありませんから」
クロノワの最大の目的は、大陸東部で最大の貿易港カルフィスクを手に入れることである。カルフィスクは港であるから当然海、しかも南側の海に面している。つまりアルジャークがカルフィスクを手に入れるためには、テムサニスの国を南北に横断しなければならず、それは完全な併合を意味していた。
極端なことを言えば、クロノワはカルフィスクを手に入れるついでにテムサニスも併合するつもりなのである。いや、テムサニスを併合しなければカルフィスクが手に入らないから遠征をする、といったほうが正確かもしれない。
しかし、そうやって手に入れたカルフィスクが灰燼に帰した瓦礫の山では、なんの意味もない。クロノワが欲しいのはカルフィスクという港であって、カルフィスクという名前を持った土地ではないのだ。
戦いが長引けば、それだけテムサニスの国土は荒廃する。町々は焼かれ、農地は荒れるだろう。最南部にあるカルフィスクは主戦場からは遠いが、影響をまぬがれるという保証はない。クロノワにはその港を焼く気など毛頭ないが、ゼノスはどうか判断が付かない。まともな為政者ならば自国の町を焼くなどという愚行は決してしないと信頼できるが、少なくとも今現在ゼノスがやっていることはまともではない。
短期決着が望ましい。クロノワの頭がそう結論をはじき出すまで、そう時間はかからなかった。
ではどうやって短期決着を実現させるのか。そこでクロノワが目をつけたのが、テムサニス国王ジルモンドであったのだ。
ジルモンドが王旗を掲げてテムサニスに帰還すれば、ゼノスとしては捨て置けまい。ゼノスにとって彼は自分の王位を脅かす最大の敵だ。必ず排除しようと動く。
またゼノスが前線に出てくる可能性も高くなる。
テムサニスの王旗を掲げる手にと相対せば、新王軍の兵士たちが戸惑うのは目に見えている。その混乱と士気の低下を防ぐためには、ゼノス自身が王旗を掲げて前線に出てくるしかない。
「我の掲げる王旗こそ正当なり」
と主張するしかないのだ。
そしてゼノスが前線に出てきさえすれば、彼を討ち取ることも容易になるだろう。そしてゼノスさえ討ち取ればこの戦いは終わる。クロノワの望む短期決着である。
簡単に言えば、クロノワはゼノスを誘き出すためにジルモンドという“餌”を用意したのである。
「まあ、短期決着は私としても望むものですが………」
どの道、クロノワとジルモンドの間で話がついた以上、この件は確定事項である。泥沼化による戦費拡大を避けられるならば、それでよしとしてもいいだろう。
「どうかしましたか」
「いえ、何でもありません」
そう言いつつもラシアートは苦笑を浮かべている。それは教師が生徒に向けるような苦笑であった。
(変わられたな………)
以前のクロノワは自分の欲望を表に出すことなど決してなかった。悪く言えば、ここまで能動的に動くことはなかった。
(とりあえずは良い変化だな………)
無私無欲の世捨て人に、国は動かせぬ。欲をもつ身だからこそ理想を目指すのだ、とラシアートは思っている。
しかしやっかいなのはその欲望の制御が利かなくなったときだ。制御できない欲望は、それを抱く者と彼に連なる全てのものを破滅に叩き込むだろう。
(そうさせないために、私たちがいる)
自分の仕える若き主君は、諫言を受け入れるだけの器を持っている。ラシアートはその評価に、訂正の必要を感じていない。
*******************
テムサニス遠征のためにクロノワが動かしたアルジャーク軍は九万であった。この中には補給を担う後方部隊などは含まれていない。
この九万の軍勢を大雑把に分けると、三人の将軍が三万ずつ率いている。その三人の将軍とは、レイシェル・クルーディ、イトラ・ヨクテエル、カルヴァン・クグニスの三人である。この三人は皆同年代で、将来のアルジャーク軍を率いていくであろう俊英たちである。
最近の遠征の際には必ず軍を率いていたアールヴェルツェは、今回帝都オルクスに残っている。今頃は紙の束を相手に奮戦していることであろう。
今回動かしたこの九万の内、ジルモンド王率いるテムサニス軍と共にテムサニスに赴くのはレイシェルとイトラが率いる六万で、カルヴァン率いる残りの三万はカレナリアのベネティアナで留守居役となり、援軍が必要になった場合真っ先に駆けつけることになる。
またカルヴァンはある重要な書類をベネティアナまで運ぶ任務を任されていた。その書類はクロノワとジルモンドが今回の遠征に関して合意した、いわば「契約書」とも言うべき書類である。
書類は同じものが二通用意されており、どちらにもすでにクロノワのサインと印が入っており、後はジルモンドのそれを入れれば契約書は効力をもつ。
書類の一通はジルモンドが保管するが、もう一通はクロノワが持つことになる。
ベネティアナにはベルトロワ危篤のほうを受けたクロノワが北に戻る際に残していった南方遠征軍五万が駐留しているが、この部隊は長らく異国に駐留していたことを考慮し、カルヴァンの部隊が到着し次第故郷に帰還することになっている。そのため、この部隊は今回の遠征には参加しない。
そこで、この帰還部隊の指揮官がその一通をクロノワのところまで持ってくる手筈になっていた。
さて、アルジャーク軍はとりあえず六万の兵を出したわけであるが、ジルモンド率いるテムサニス軍は総勢でおよそ十二万となった。彼らはカレナリアで捕虜になっていたわけだが、クロノワの命令もあってかその扱いは人間味のあるもので、栄養不良や暴力によって衰弱している者はほとんどいなかった。さらにクロノワがジルモンドとの間で合意に至った時点で彼らは捕虜ではなく同盟軍という扱いになり、アルジャーク軍が到着するまでの間、十分に英気を養うことができた。
長らく離れていた祖国に帰れるとあってか、彼らの士気は高い。またクロノワはテムサニス軍の兵士たちにも報酬を与えることを約束し、また特別に手柄を立てた者にはそれに応じた恩賞を与えることも確約した。
二つの国の兵たちを対等に扱う、とクロノワは表明したのである。将来のことを見越していたのかは定かではないが、これによって少なくともテムサニス軍の一般の兵士たちのうけは良くなった。
遠征軍の総数は十八万であり、その内訳はアルジャーク軍六万、テムサニス軍十二万である。余談になるが、この先この軍のことは遠征軍とは呼ばず、連合軍と称することにする。
内訳から分るとおり、連合軍の三分の二はテムサニス軍が占めている。テムサニス軍を率いるのは国王のジルモンドでありクロノワは今回新征しないから、アルジャーク軍のほうが少し遠慮したともいえる。
ただ、連合軍内部における発言力は、この内訳に比例しない。
こういった場合、普通であればより多くの兵を出した国が連合軍の主導権を持つことになる。しかし今回の遠征に関して言えば、その主導権はジルモンド側ではなくクロノワの方にあった。
考えてみれば当然のことである。確かにテムサニス軍は十二万の戦力を持っているが、兵士の数が揃えば戦争ができるわけではない。その十二万人の兵士たちを支える後方支援部隊が、より広く言えば軍隊を支えるための国力が必要なのである。
つい最近まで捕虜になっていたテムサニス軍には、それがまったく存在しない。戦力はあるがそれを持続させるための地力がない、といってもいい。そしてその地力の部分を、彼らはアルジャークにまったく依存しているのである。
さらにジルモンドには、自軍の兵士たちに報酬を約束することができない。彼が今もっているのは国王の称号だけで、それに付随するはずの富と権力の全てをゼノスに奪われているのだから。
誰だって、無報酬で命を賭けたくはない。
したがって報酬と恩賞を約束するのもアルジャーク側、ということになる。加えてジルモンド自身、クロノワに報酬を約束してもらっている身である。
後方支援と兵士の報酬、その二つをアルジャークに依存しているテムサニス軍は、国軍というよりは傭兵と言ったほうが、その実情を正しく表現できるかもしれない。そして傭兵の立場が雇い主よりも低くなるのは、当然のことである。
今まさに行われている軍議は、その力関係を如実に表しているようであった。
**********
アルジャーク帝国皇帝クロノワの名でテムサニスに対して宣戦布告が行われた後、カレナリア領とテムサニスの境を越えた連合軍は、街道上を王都ヴァンナークに向かって進んだ。
この連合軍は三つの旗を掲げている。一つはアルジャークの国旗、もう一つはテムサニスの国旗、そして軍の先頭を行くジルモンドの傍には王旗が掲げられている。
連合軍は街道上を特に急ぐこともなく進んでいる。その目的は宣伝である。つまりテムサニスの国民に対して、
「ジルモンド国王は健在である」
とアピールしているのである。
そのおかげか、これまでの住民たちの反応は協力的で、連合軍は順調に歩を進めることができていた。時には住民たちが食料を差し入れてくれることもあり、それを見たイトラなどは、
「ジルモンド王は国民に慕われておられるのだな」
と感心したのだが、彼の同僚であるレイシェルに言わせれば、
「ゼノス殿下のやりようがひどいだけだ」
ということになる。
どちらの意見が正しいにせよこれまでの行程を見れば、「ジルモンドを先頭に立てることでテムサニス国民の協力を得る」というクロノワの狙いは当たったといえるだろう。
さて、ジルモンドの傍に翻る王旗を見たのは、なにもその周辺の住民たちだけではなった。国境付近を監視していた新王軍の斥候たちもその旗を確認し、ゼノスに報告を持ち帰っていた。
父であり先(・)王のジルモンドが帰還したことを知ったゼノスはすぐさま行動を開始した。一つの玉座に二人の王はいらぬ。ジルモンドを排し一つしかない玉座に座るただ一人の王となるため、ゼノスは軍を率いて街道を北上した。
この新王軍の動きを、連合軍もすぐに察知した。各地に放っていた斥候が新王軍の動向を伝えると、すぐさま軍議が催された。
軍議の出席者は十八名である。しかし机の上におかれた地図を囲むようにして席についているのは、その内の七人だけであった。
イトラ・ヨクテエルとレイシェル・クルーディというアルジャークの両将軍。テムサニス国王ジルモンド。そしてテムサニス軍の将軍が四名である。他の十一人はそれぞれの上官の後ろに立って控えている。
数の上ではテムサニス側のほうが多い。しかし主導権を握っているのはアルジャーク側の二人であった。
「それでは本作戦について説明させていただきます」
そう言ってから立ち上がったのはレイシェルであった。彼は地図の上に白と黒の駒を置き、白の駒についてはそれを三つに分けた。
白の駒は味方を表しており、三つの集団はそれぞれ主翼、右翼、左翼を表している。主翼を構成しているのはテムサニス軍十二万で、両翼はアルジャーク軍が三万ずつである。
一方、黒の駒は敵である新王軍を表している。斥候の報告によれば、その数はおよそ十二、三万。詳しい陣形は把握していないので、黒の駒については一纏めにしてある。
余談になるが、こうして地図上で駒を動かし各部隊の動きをシミュレートするやり方を最初に始めたのは、かのアレクセイ・ガンドールであった。それまでは地図上に書き込んで動きを再現していたのだが、駒を使うとその理解度が格段に上がったという。また、万が一地図を奪われても、そこには何も書き込まれていないので、作戦が露見することも避けられる。
レイシェルの作戦を一言で要約すれば、
「街道の左右にあらかじめ兵を伏せておき、そこに敵を誘い込んで挟撃する」
というものであった。
言うのは簡単だが、この作戦はなかなか難しい。敵の進路を予測して部隊を伏せておくわけだが、敵がこちらの思うように動いてくれる保証はなく、ともすれば左右に分けた軍を各個撃破される危険が付きまとう。
そこでレイシェルはゼノスが確実に食いつく餌を用意した。その餌の名前は、ジルモンド・テムサニスという。彼とその王旗を見れば、ゼノスは必ずや喰いついてくる。
「主翼はこのまま街道上を南下。敵軍と接触した後、来た道を引き返して両翼が伏せている地点まで敵を誘導してください」
そういいながらレイシェルは地図上の駒を動かしていく。
これならば敵の進路の予測は容易である。敵軍は撤退する主翼を追ってくるから、相手の進路をこちらで決めてやることができる。さらに、実際には街道上を撤退するわけだから、両翼も待ち伏せがしやすく、後ろを取られるなどという間抜けな事態も避けられるだろう。
「敵を十分にひきつけた所で両翼が左右から挟撃。この時点で主翼も攻勢に転じてください」
地図上では白の駒が黒の駒を半包囲している。両側面を強襲されれば敵軍は混乱する。ここまでくれば、後は煮るなり焼くなり好きにできるといっていい。ここでは半包囲にとどめておいたが、上手くいけば完全に包囲してしまうことも、あるいは可能かもしれないとレイシェルは考えていた。
「いかがでしょうか」
説明を終えたレイシェルは一同を見渡した。すぐに発言をもとめる者はおらず、議場は沈黙した。そしてその沈黙は一秒ごとに重さを増していく。
「………主翼の………」
その沈黙を破り、重い口を開いたのはテムサニス軍の将軍の中で最年長である、ギルニア・フォン・フーキスだった。彼は一度言葉を切り、視線をレイシェルのほうに向けてからさらに続けた。
「………主翼の負担が大きすぎるのではないか」
「ですがこれが最善の配役であることは、ご理解いただけるかと」
レイシェルは何も、負担の大きな役回りを恣意的にテムサニス軍に押し付けたわけではない。敵の数が十二、三万であるというならば、単独で拮抗できるのは主翼だけである。主翼が競って牽制していればこそ、比較的数の少ない両翼が自由に動けるのである。それにジルモンドのいない部隊が動いたとしても、囮としては役者不足であろう。
「しかし、な………」
発言したギルニアは納得のいかない様子で腕を組み、そして再び沈黙した。論理的な反論が出ないところを見ると、彼もこれが最善の配役であると理解はしているのだろう。しかし納得し切れていない。その証拠に、彼の目には疑心暗鬼の色がある。いや、彼だけではない。ジルモンドをはじめ、テムサニス側の人間全てがその色を浮かべていた。
アルジャークの人間で、それに真っ先に気づいたのはイトラであった。そして彼はすぐにその理由にも思い至る。
「レイシェル、その囮役は俺たちでやろう」
議場の思い雰囲気を吹き飛ばすように、イトラはそう言った。ジルモンドやテムサニス軍の将軍たちは虚をつかれたように顔を上げ、レイシェルは怪訝な表情を浮かべる。
「イトラ………」
「俺たちなら撤退戦の経験もある。上手くやれるさ」
言うまでもなく、カレナリア遠征の際にベニアム・エルドゥナス率いる部隊を相手にしたときのことである。あの時は倍近い敵を相手に撤退戦を演じたが、今回も両翼合わせて六万に対し敵軍は十二、三万であるから、同じような状況といえる。
確かに経験と実績があることは無視できない。レイシェルは一瞬考え込んだが、しかしすぐに否定の言葉を口にする。
「駄目だ。王旗がなければゼノス殿下は喰いついてこない」
王旗、とレイシェルは言葉を選んだが、要はジルモンドのことである。彼がいればこそゼノスは全力で囮を追ってくると予測できるのだ。
それにアルジャーク軍六万のみが単独で街道を南下していれば、敵にすればそれは分隊に見えるだろう。そうなれば本隊つまり主翼の動向を気にして、撤退する両翼を追ってこないことも考えられる。
「ですから、ジルモンド陛下には我々と一緒に来ていただきます」
イトラは視線をレイシェルからジルモンドに移しこともなさげにそう言った。その言葉に反応したのはレイシェルでもジルモンドでもなく、ギルニアを始めとするテムサニス軍の将軍たちであった。
「馬鹿な!」
「駄目だ!そんな策は認められない!」
ジルモンドがテムサニス軍を離れアルジャーク軍と行動する。それは彼らにとって主君を人質に取られるようなものである。過剰な反応もするというものだ。しかしそのことを十分に承知しているはずのジルモンドの反応は違った。
「………よかろう」
「陛下!?」
まさか本人が了承を示すとは思ってもみなかったテムサニス軍の将軍たちは、皆焦ったような声を漏らし一様に主君を仰ぎ見た。彼らはそれだけはやめるよう促したが、ジルモンドの決意は固い。
「レイシェル殿もそれでよろしいな?」
「………分りました」
話の流れ上、了解するしかない。その後、各部隊の配置や動きを再確認して軍議はお開きとなった。
「イトラ、さっきのアレは何だ」
自陣に向かって歩き、周りに人がいなくなったところでレイシェルはイトラに先ほどの真意を問いただした。囮役を買って出た彼の真意を、である。
自分の主張した通りの配役にならなかったことに、レイシェルは怒りを抱いてはいない。ただイトラのあの発言の意図を図りかねているだけである。レイシェルはこの同僚が優秀であることを知っており、そんな彼が意味もなくあんな発言をするとは考えられない。
「あちらさんは俺たちを疑っていたのさ」
「疑う………?ああ、そういうことか」
アルジャーク軍は新王軍とテムサニス軍を戦わせてお互いを消耗させ、両軍が疲弊したところをまとめて叩き潰し、漁夫の利を得るつもりではないのか。ジルモンドやテムサニス軍の将軍たちはそう考えたのである。
レイシェルが一言でそこにたどり着けたのには訳がある。彼自身、その策についても考えていたからだ。
実際、それが一番アルジャークにとって利のある勝ち方なのだ。ゼノスとジルモンドが戦場で互いに倒れてくれれば、テムサニスの国は丸ごとアルジャークのものとなる。ジルモンドにわざわざ五州をくれてやる必要もない。
が、レイシェルはその策を放棄した。いかにアルジャーク軍が精強を誇るとはいえ、六万だけでは数が足りない。それに皇帝であるクロノワはそのような勝ち方は好まないであろう。
「よく気づいたな」
作戦を練るに当たってレイシェルはイトラにも相談している。だがその策については話していない。話す前に放棄したからだ。策について知らなかったイトラが、あの重い空気の理由に真っ先に気づいたことにレイシェルは素直に感心した。
「たまたまだよ」
そういってイトラは謙遜するが、レイシェルはそうは思わなかった。自分の見落としていたものをこの同僚は見ていた、そういうことなのだろう。
(理論にばかり気を取られ人を見ていなかった。そういうことか)
まだまだアレクセイ将軍やアールヴェルツェ将軍の高みには届かぬ。そう思い身を引き締めるレイシェルであった。
**********
「これはノルワント子爵、ようこそ我が陣へ」
そういってウスベヌ伯は夜分に訪れた客人を歓迎した。
ゼノス率いる新王軍は北の国境を破って現れた連合軍を撃退するため、街道上を北上している。敵軍との接触にはまだ二日以上かかると予測されており、それぞれの陣はまだ緊張した空気に包まれてはいない。
もともとウスベヌ伯やノルワント子は武家貴族ではなく、つまり軍事には疎く普通ならば戦場には出てこない。しかし王であるゼノスが自ら戦場に赴くとあっては、臣下としては軍を率いて供をせざるを得なかったのだ。
ノルワント子が持参した土産である白ワインを飲みながら、二人の貴族はしばらくの間当たり障りのない談笑を続けた。だがそのような中身のない話しをするために、ノルワント子はウスベヌ伯を訪ねてきたわけではなかった。頃合を見計らって、低く潜めた声でこう尋ねた。
「最近のゼノス陛下のご様子について、どう思われますかな」
アルジャークから宣戦布告が行われると、ゼノスはすぐさま自分に味方した貴族たちに命じて軍を整えさせた。敵対した貴族たちについては、すでに存分に痛めつけて粛清してあり後顧の憂いはない。さながら新たな獲物を求める貪欲な狼のように、ゼノスは牙を研いでいたのである。
しかし、実際に侵略軍が国境を侵してテムサニスに侵入してきたとき、そこに翻っていたのはなんとテムサニスの国旗とその王旗であった。
無論、アルジャークの国旗もたなびいている。しかし全軍のおよそ三分の二はテムサニス軍であろうというのが、国境を監視させていた斥候からの情報であった。
現れたテムサニス軍は、年が変わる前にカレナリアに進攻しそのまま捕虜になってしまった軍であろうと推察された。が、新王軍にとって最大の問題はそこではない。
「王旗は王と共にあり」
侵略軍の先頭には王旗が確認されている。それはつまり、ゼノスが見捨てたはずの先(・)王ジルモンドが祖国に帰還したことを意味していた。
「やることは変わらぬ。いや、むしろ簡単になった。ジルモンドを討ち取る。ただそれだけだ」
報告を聞いたゼノスはそう言い放った。確かにジルモンドを討ち取れば旗頭を失った反乱軍(ジルモンド率いるテムサニス軍のことをゼノスはそう呼んだ)は瓦解するであろう。仮に組織を保てたとしても、一度国境を越えて撤退し、態勢と兵の士気を整えねばなるまい。アルジャーク軍単独では遠征の完遂は難しく、やはり撤退することになるだろう。
ジルモンドを討ち取れば、少なくとも一度は敵軍を国外に退けることができる。それが分っていながら軍議に出席した貴族や将たちの顔色は優れなかった。
彼らにしてみれば、後ろめたさがある。
敵は、つい最近まで主君として仰いでいた方なのである。仕えていた時間はゼノスに対するそれよりも圧倒的に長い。ゼノスに付くことを選択した時点でジルモンドのことは見捨てたも同じなのだが、それでも見捨てた相手が目の前に立っていると、どうしても後ろめたさが先にたつ。
「何を今更」
そんな臣下たちに、ゼノスは冷笑を向けた。本当に「何を今更」、である。ゼノスは彼らが自分に味方した理由を、権力闘争のパワーバランスを計算した結果であることを理解している。有り体に言ってしまえば、忠義や忠誠などではなく、利を計算した結果なのである。ジルモンドに対する忠義や忠誠などといったものは、むしろルーウェン公たちのほうが持っていたのではないだろうか。
ジルモンドの帰還を待つよりもここでゼノスに付いたほうが自分たちにとって利がある。そう判断したからこそ、彼らはゼノスに味方したのだ。そしてその選択はジルモンドを切り捨て裏切るものであると、十分に理解していたはずである。
無論、誤算はあった。国から見捨てられたジルモンドが、まさか軍を率いて帰還してくるなどゼノス自身思っていなかったはずである。
「降伏してみたところでジルモンドが貴様らを許すはずもない。万が一許したとしても、クロノワがそれを認めるわけがない。皇帝である彼にとって貴族という存在は邪魔でしかないからな」
命と財産を守りたければ戦って勝つしかない。軍議で冷ややかにそう宣言したゼノスの姿を、ウスベヌ伯は思い出した。
「おっしゃることは正しいのだろうが………」
その時、ゼノスの目には鋭い光が宿っていた。鋭すぎるその光は、紙一重の狂気を宿している。
またゼノス自身の雰囲気は、なんと言うか不安定であった。
有無を言わさぬほどの圧力と存在感を見せ付けることもあれば、そこにいることも忘れてしまうほどに存在が希薄になることもあった。
ゼノスの言動に、今のところ問題はないように見える。指示は的確だし理にかなっている。だから貴族たちも彼に従っているのである。しかしこの頃のゼノス本人を見ていると、それでも不安を感じずにはいられなかった。
ただその不安は、かなり利己的な不安であるといわざるを得ない。ウスベヌ伯やノルワント子が最も心配しているのは、この戦にゼノスが負けたときに自分たちの命と地位と財産が脅かされることだ。敵対した貴族たちの領地を略奪したことで、彼らの懐はかなり暖かくなっているし、新たな領地を得ることもほぼ確実だ。一戦して負け、それらが全てふいになるのは、やはり惜しい。
その不安に拍車をかけているのは、新王軍と連合軍の戦力差だ。単純に数を比べた場合、連合軍のほうが多い。しかも精強を誇るアルジャーク軍がいるのである。これまでアルジャークとテムサニスは大陸東部の北と南の端であったため、両軍の戦端が開かれたことはここ百年ほどない。しかしその勇猛果敢な戦いぶりはテムサニスまで届いている。
「同数の戦力で戦えば恐らく負ける」
テムサニスの王宮内では、そう言われてきた。その評価は、無論ウスベヌ伯やノルワント子も知っている。そのアルジャーク軍が、今敵として目の前に迫っているのである。
(負ける、か………)
少なくとも、確実に勝てるとは思えない。ゼノスが負けたとき、さて自分たちはどうすべきであろうか。共に敗北を甘んじて受け入れ、何もかもを失わなければならないのだろうか。それが嫌だというのであれば………。
「頃合を見て降伏するか、いやあるいは………」
その先は言葉を濁す。軽々しく口にする言葉ではない。風はどこにでもふいており、その風が言葉を人の耳まで運ぶのだから。
それに、音にしなかったはずのその言葉は、しっかりとノルワント子には伝わっていた。彼は固い表情をしたまま、一つ頷いた。
ゼノスの言うとおり、ただ降伏するだけではジルモンドやクロノワは自分たちを許さないだろう。しかし、もし手土産があれば?
暗い笑みを浮かべた二人の貴族がともに杯を傾ける。杯からは、陰謀の匂いがした。