結局、あの晩以降オリヴィアとイストがララ・ルーと顔を合わせることはなかった。年明けから一週間ほど経つと、「ララ・ルー・クラインの一団がベルラーシを離れて視察巡礼に戻った」という話が耳に入ったが、二人とも何も言わなかった。
年が明けると、十字軍遠征に関する噂も良く耳にするようになった。その内容は十字軍の連戦戦勝を伝えるもので、お祭り気分の抜け切らない人々は天に杯を掲げその勝利を祝った。
ただイストやオルギン、ジルドといった旅慣れた面々は、その噂の背後にある血生臭さを敏感に嗅ぎ取っていた。戦場における流血ではない。その外で起こる流血による、血生臭さである。
十字軍の兵糧が最初から不足しており、その不足分は現地調達でまかなうのが基本方針であるということは、少し情報に詳しい者なら誰でも知っている。そんな十字軍がアルテンシア半島の各地で連戦連勝しているとなれば、行く先々で略奪を働いているということは容易に想像がつく。そして血の猛った男たちがただの略奪だけで済むわけがないことも、また同様である。
「これ以上西に向かうのは、止めたほうがいいかもしれんな」
オルギンは混乱の中にこそ大きな商機が転がっている場合もあることは知っている。同時にリスクが大きいことも。彼は商人だが儲け最優先ではない。キャラバン隊のメンバーの安全を考えると、ここら辺りが潮時かもしれない。
「月が明けたら、進路を東にとる」
オルギンはそう決断した。すでにここベルラーシで結構な儲けを出している。リスクを犯して利益を出さねばならないほど、状況はひっ迫してはいない。
「じゃあ、護衛も月明けで終わりだな」
オルギンの決定を聞いたイストはそういった。ベルラーシはいくつかの巡礼道が交差する地点にある。当然ここからさらに東、つまり神聖四国へと巡礼道が伸びており、これを使えば比較的安全に東へと進路を取れる。もう護衛は必要ないであろう。
「結局、雑用の仕事のほうが多かったわね」
月が明けたら護衛の仕事を解約する、つまりイストたちと別れると聞いたオリヴィアは嘆息するようにそういった。イストは同じ孤児院の仲間で、顔の火傷痕を気にしなくていい相手だ。変に気を張らなくていい相手が身近からいなくなってしまうのは、やはり寂しいのだろう。素直に寂しいといわない辺りは、彼女らしいが。
「それも含めて護衛の仕事さ」
オリヴィアの表面だけの言葉に、イストもやはり表面だけの言葉で応じる。実際の別れまでにはもう少し時間があるし、なにより二人とも湿っぽい別れを演じるようなタチではなかった。
(義眼、早目に完成させておかないとだな………)
「妖精の瞳」と名付けたオリヴィア用の義眼は、すでに八割がた完成しており、あとは術式の最終調整と刻印を施すだけである。今はニーナが「狭間の庵」を使っているが、術式の見直しは工房にこもらずともできる。明後日か、その次の日の夜くらいには完成させられそうだと、イストは頭の中で計画を立てるのであった。
**********
アバサ・ロットの工房である「狭間の庵」は、腕輪に付けられた結晶体によって固定された亜空間の中にある。亜空間とは言っても、実空間の影響をまったく受けないわけではない。例えば、「狭間の庵」の中の明るさは、実空間の明るさ、つまり昼か夜かで随分と左右される。また、中の気温も同じであった。
静まり返った工房の中で、イストはただ一人目を閉じて集中力を高めていた。時刻はすでに夜半過ぎ。工房の中も真っ暗で、足元に置いた「新月の月明かり」がなければ、自分の手さえも闇に熔けて判別することはできないだろう。この時間を選んだのは意図的に、だ。刻印は最も集中力を要する作業で、可能な限り静かな環境で行いたかった。
そう、これから刻印を施し、魔道具「妖精の瞳」を完成させるのだ。
「さて、やるか」
目を開けたイストは、机の上におかれた小さな木箱をあけ、そして小さく苦笑をもらした。そこに収められているのは一個の義眼、つまり「妖精の瞳」の素体だ。箱の中に義眼、というより目玉が一つ収められている様子は見方によっては猟奇的で、分っていても苦笑をもらしてしまうのがこのごろの常であった。
義眼は複数の合成石を組み合わせて作ったもので、材質の差に由来する硬度の差に目をつぶれば、かなり正確に人間の眼球を模している。磨き上げられた合成石の表面は滑らかで、これらならば眼孔に入れても不快感はないはずだ。
(ガラスを使えればもっと楽だったんだけどな………)
生憎とガラスは魔道具素材としては劣悪だ。「鷹の目(ホーク・アイ)」のように直接魔力を流さないような部分であれば使ってもよいのだが、義眼ではそうもいかない。
「さて」
そう呟いてから、イストは左手に指輪をつける。「見えざる手(インビジブル・ハンド)」という魔道具で、手を使わずに物を浮かせ動かすことができる。イストがオリーブオイルの入った大樽を浮かせて移動させたときに使った術式は、この魔道具のものだ。
「ほいっと」
イストが「見えざる手(インビジブル・ハンド)」に魔力を込める。すると義眼が宙に浮かび上がり、ちょうど彼の胸の位置の高さで静止した。この手の魔道具は消費魔力が大きいのだが、小さな義眼程度ならば負担は大きくはない。
奇しくも、義眼の瞳がイストを見つめている。いや、ただの義眼に見つめることなどできないのだが、どうにもそんな気がした。
義眼の瞳の色は深紅。この色と魔道具としての効果に、イストは自分なりのメッセージと皮肉、そしてほんの少しの優しさを込めたつもりだ。わざわざ口で説明する気はない。どう受け取るかはオリヴィア次第であろう。
「………」
イストは無言でもう一度目をつぶり、最後の集中を行う。それからゆっくりと目を開き宙に浮かぶ深紅の義眼を見据えると、右手に持った「光彩の杖」に魔力を込めた。すると義眼を中心にして、半径一メートル程度の魔法陣が展開された。
魔法陣に魔力を込め、刻印を開始する。さらにイストは「光彩の杖」を操作し、魔法陣を回転させる。軌跡が球を描くような回転の仕方だ。これによって刻印される術式の粗密がなくなり、魔力をスムーズに流すことができる。
その場からまったく動いていないにもかかわらず、イストの額には汗が浮かび始める。背中が引きつるように感じ、全身の感覚が過敏になっているにもかかわらず、世界から切り離されたかのように余計な情報が遮断される。
緊張はしている。しかし足は震えていない。ただ立っている感覚が曖昧だ。時間の流れもあやふやで、ほんの少ししか経っていないような気がするが、長時間こうしているような気もする。
魔法陣はゆっくりと回転している。
呼吸がうるさい。心臓の鼓動がうるさい。血液の流れる音がうるさい。
気を散すな。没頭しろ。
魔法陣の回転がさらにゆっくりになり、残光が尾を引いていく。
時間があやふやになった世界の中で、魔法陣がついに一回転する。イストはそれを確認してから魔法陣を消した。
大きく息をつく。あやふやだった時間の感覚が正常に戻り、心地よい達成感が体を包む。緊張が解けたことで体から熱が一気に噴き出し、汗が背中に流れた。
椅子に座ってから「見えざる手(インビジブル・ハンド)」を操作し、宙に浮いたままになっている義眼「妖精の瞳」を左手に収める。ほんの数瞬、イストはその深紅の義眼を眺め、そしてなぜか自嘲するような苦笑を浮かべた。
(随分と偉そうなことをする………)
この魔道具を作ったのは、オリヴィアに「あの夜のことを乗り越えて欲しい」とか「顔の火傷痕を受け入れて楽になって欲しい」とか、言い方は様々にあるだろうが、そういう気持ちがあったからだ。
それに対し自分はどうなのだろうか。あの夜のことを乗り越え、あの赤い悪夢を克服できるのだろうか。そういう未来を思い描けずにいるヤツが、それがどれだけ難しいことか誰よりも良く知っているはずのヤツが、随分と偉そうなことを願っているものだ。
「まあいいさ。人の願いはいつだってエゴの塊だ」
そんな皮肉げな文句を口走り、イストは自分の思考から逃れた。左手に持ったままになっていた「妖精の瞳」を木箱に戻し蓋をする。
(渡すときは、それっぽく包装しないとだな………)
そんなことを考えながら、イストは「狭間の庵」を出て実空間に戻る。風が冷たい。工房の中の気温は実空間の気温に影響されるが、風を起こすような機能ない。風と一緒に運ばれてくる夜の臭いが、イストに現実を色濃く印象づける。
「狭間の庵」の扉が消えると、イストはキャラバン隊の馬車のほうに向かって歩き出した。
「一杯飲むか」
無性に酒が飲みたかった。
**********
大陸暦1565年の一月も、あと残すところ一週間をきっている。月が開ければオルギン率いるキャラバン隊は、巡礼道を使って東へ向かう。つまりこれ以上の護衛は必要なく、イストたち三人はキャラバン隊と分かれることになる。
当初はオルギンとイスト、そしてオリヴィアの間だけの話でしかなかったのだが、別れが近くなるとこの話はキャラバン隊の他のメンバーにも伝わり、少し早い別れの言葉をかけてくれる者もいた。特にジルドは若い連中に簡単な剣の手ほどきをしていた為か、その関係で別れを惜しむ人数は多かったし、女性が少ないキャラバン隊の中で“潤い”になっていたニーナなども同様であった。
「一番人気がないのはイストみたいよ?」
オリヴィアは少し意地悪な笑みを浮かべながらそう言い、幼馴染との別れを惜しんだ。互いに旅から旅への根無し草。一度別れれば次に会えるのは、さていつになるのか見当もつかない。
「金ばっかり追いかけていきおくれるなよ」
あるいはもう一生会えないかもしれない。イストもオリヴィアもそれは十分に分っていた。分ってはいるが、湿っぽくなるのはどうにもガラではない。軽口をたたいて笑いあっているのが、どうやら二人にとっては最適の距離感らしい。
さて、こうしてオリヴィアとイストの二人は別れを受け入れたわけであるが、二人が別れてしまうことに単純ならざる思いを持つ者もいた。コンクリフト・クルクマスである。
クリフの一方的な認識によれば、イスト・ヴァーレという男は彼にとって恋敵であった。つまり本来ならば、いなくなれば嬉しいはずの相手なのだが、ここで素直に喜べないのがクリフという人間であった。
クリフはオリヴィアのことが好きだ。三年前、一目見たその瞬間からその気持ちに変化はなく、また嘘偽りもないと断言できる。だがしかし自身の性格のせいか話しかけることもままならず、あまつさえ顔の火傷痕を盗み見てしまったがために、彼女との距離はさらに遠のいてしまった。
そんな望まずして停滞してしまった関係の中現れたのがイスト・ヴァーレであった。オリヴィアの幼馴染で流れの魔道具職人であるという彼は、いとも簡単に彼女の隣に居場所をつくってしまった。それはクリフがこの三年間望み続け、そしてかなえることができなかったことだ。
楽しそうに会話する二人を見ると、クリフはいつも胸が締め付けられるように感じる。オリヴィアの笑顔が、自分には向けられることがないという絶望。自分にはできないことを簡単にやってしまうイストへの、憎悪と羨望と嫉妬。そして見ていることしかできない自分への憤りと惨めさ。
(………だけど!だけどさ!)
けれども、あんな風に屈託なく笑うオリヴィアを見たのは、初めてだった。
イストたちが来る前、オリヴィアはいつもどこか陰のある笑い方をしていた。ふとした拍子に寂しげな表情を見せたり、独りになったときに疲れたようにため息をついたりすることがよくあった。
それが、イストが来てからはそれが少なくなった。決して完全になくなったわけではないが、劇的に少なくなったのだ。見ようによっては、“はしゃいでいる”ようにも見えなくもない。
雰囲気自体も随分と変わった気がする。以前はどこか余裕のない張り詰めた表情をすることがあったが、今は表情にも余裕がある。
クリフの贔屓目かもしれないが、素敵になった、と思う。
けれどもその変化を促したのは自分ではなくイストなわけで。それを思うとなんとも言えない惨めな、有り体に言ってしまえば負けたような気分になるのだ。
負けた。そうつまりクリフはイストに「負けた」と感じているのだ。オリヴィアにふさわしいのは自分ではなくイストのほうだと、そう思っているのだ。
そのイストがキャラバン隊を、オリヴィアのもとを去るという。
「なんでだよ!?なんで彼女を見捨てるんだ!?」
気づいたら、クリフはイストの胸ぐらをつかんで叫んでいた。一瞬自分の行動に疑問を感じはしたが、後から後から湧いてくる言葉にその疑問は押し流されていった。
「あんたが来てからオリヴィアは随分変わったんだ。楽しそうだし幸せそうだし、良く笑うようにもなった。全部あんたが来てからだ。………悔しいけど、俺じゃあ何もできなかった。オリヴィアが好きなのはあんたなんだ。俺じゃあ無理なんだよ………。頼むから一緒にいてやってくれよ………」
言っているうちに情けなくなってきたのか、クリフの声はだんだんと萎んでき、胸ぐらをつかみあげる力も弱くなっていく。
「オレが来る前は、楽しそうでなければ幸せそうでもないし笑いもしなかった、ってことか?」
「………そうじゃないけどさ。ときどき凄く辛そうにするんだ………。ひとりになったときとかに」
このストーカーめ、と茶化したくなるのをグッと堪えてイストは問いを重ねる。
「なんで辛いのか分るか?」
「火傷の痕を見られたくないんだろ!?」
それぐらい分っているさ!とクリフは少し苛立った調子で答えた。だがイストはその答えにイラっときた。
「お前は何も分ってない」
その声は、思っていたよりもずっと冷たい声音だった。「ああ今オレはキレてるんだな」と頭の端っこで他人事のように考えながら、しかし口は勝手に言葉をつむいでいく。
「顔の火傷痕を見られたくない?んなこたガキでもわかる。なんで火傷痕を見られたくないのか、そこまで考えないのか?」
「それは………」
クリフが言葉を詰まらせる。その様子に、イストは自分が苛立つのをはっきりと自覚した。自分の衝動を押さえることをせず、クリフの胸ぐらをつかみ上げる。
「醜いって思われるのが嫌だから、目を背けられるのが嫌だから、必死になって隠してるんだろうがっ!」
隠して、隠し続けて疲れ果てて、それでも素顔をさらすことはできなくて。人の視線が怖い。醜いと思われるのが怖い。囁かれる言葉がすべて陰口に聞こえてしまう。街の中もそうだが、仲間であるはずのキャラバン隊のメンバーに対してさえも、そんなふうに感じてしまう。それがとても申し訳ない。
「オリヴィアがそういったのか………?」
クリフが呆然とした様子で尋ねてくる。
「見ていて気づかなかったのか?今まで何を見てきたんだ?」
イストの言葉は刺々しく、また冷たい。胸ぐらを放すと、クリフはその場に膝をついてうなだれた。悔しそうに奥歯を噛締め拳を握る。
「ああ、分らなかったよ………。だから、俺じゃあダメなんだ。頼むから一緒にいてやってくれよ。お願いだからさ………」
話が元に戻ってしまい、イストは苦笑した。苦笑したら、少し苛立ちが消えた。
「オレとアイツの仲がいいように見えるとしたら、それはきっとオレ達が同じ傷を持っているからだ。傷の舐めあいをしているようなもんさ」
その「同じ傷」というのは、イストとオリヴィアに共通する過去に由来するものなのだろう。オリヴィアの過去を知らないクリフは、そうとしか判断できなかった。
「今はまだいい。互いに気を使わない相手でいられる。だけどもう少し時間が経つと、今度は互いが疎ましくなってくる」
「同じ傷」を持っているから。相手の「傷」が見えるということは、自分の「傷」も見えているということなのだ。向き合うだけの気力と勇気、そして解決するアテがないから今まで放置してきたというのに、そんなものを毎日まざまざと見せ付けられるのだ。そのうちお互いに顔を合わせるのも嫌になってしまうのではないだろうか。
その上、どちらかがその傷を克服でもしたら、克服できないでいる方はなおさらいたたまれない。惨めな自分を嘆き、激しい自己嫌悪に陥るだろう。
「だからここらで別れるのがちょうどいいんだよ」
「だけど………っ!」
クリフは納得できない様子だ。しかしイストは「無煙」を吹かしながらそんな彼を、恐らくは意図的に無視して、小さな包装された包みを渡した。大きさは手のひらに収まるくらいだ。
「それ、オレたちと別れたらオリヴィアに渡しといてくれ」
「………自分で渡せばいいじゃないか」
そもそもイストがオリヴィアと別れること自体に賛成していないクリフは、苦々しい心のうちを隠そうともしない。が、その程度で怯むイストではなかった。
「お前さん、オリヴィアとまともに会話もできないんだろ?きっかけをくれてやるから、せいぜい有効利用しろよ?」
あそこで顔を真っ赤にしてしまったのは一生の不覚だ、と後にクリフは語ったという。
*******************
あの戦い、ギルマード平原でのクロノワ軍とレヴィナス軍の戦いは、レヴィナスの戦場からの逃走をもってその勝敗が決した。
本陣の崩壊に敗戦を悟ったアレクセイは一度軍を引き、戦闘行為を完全に停止させてから降伏を申し出た。
本来ならば降伏を申し出てから順次戦闘行為を停止させていくのが普通なのだろうが、このときアレクセイはそうはしなかった。その際の見事な引き際から、彼が動転して冷静な判断が下せなかったということは考えにくい。
アレクセイはその理由を語らずに自決したから本当のところは分らないが、あるいは降伏しても完全に戦闘が停止するまでの間に多量の血が流れることを憂慮したのではないだろうか、と言われている。特に命令系統がもはや機能しなくなっていたレヴィナス軍本陣は個人による無益な抵抗が続いており、仮に白旗を揚げたとしても距離が開いてしまっている本陣では無駄な血が多量に流れただろう。それをアレクセイは嫌ったのではないか。
ことの真偽について、歴史書は黙して語らぬ。アレクセイ・ガンドールは白旗をあげる前に兵を引いた。それが史実である。
さらにそれまで優勢であったにも関わらず兵を引いていくアレクセイの後を、アールヴェルツェは追わなかった。その理由について、彼は後にこう語っている。
「あの状況でアレクセイ将軍が引くということは、戦う理由がなくなったのだと、直感的に思った。無論、白旗をまだあげていなかった以上、追撃をかけるべきだったのかもしれないが、なんというか将軍が信頼してくれている気がしたのだ。その信頼を裏切りたくなかった」
味方であったときには誰よりも頼りにされ、敵になっても尊敬された男。それがアレクセイ・ガンドールであった。
本陣と合流したアレクセイは白旗を掲げさせ、降伏の意思を示した。それから単騎で進み出、後ろで座り込んでしまっている兵下を示して声を張り上げた。
「クロノワ殿下!戦場で相対したとはいえ、彼らもまたアルジャークの民!どうか寛大な処置をお願いしたい!」
「委細承知!武装解除が終わり次第、故郷に帰すことをお約束する!」
この戦いは内戦である。つまり敵は同国民である。併合から日が浅く、アルジャーク人もオムージュ人も同じ国の民であるという意識はまだあまりないかもしれないが、これから国を安定させていく上で、この認識は非常に重要なものだ。
あるいはこれがアレクセイのクロノワに対する、最初で最後の教えだったのかもしれない。クロノワの答えに彼は満足したように穏やかな笑みを浮かべた。
「将軍!貴方もです!戻ってきて力を貸していただけませんか!」
あの時もう少しマシな言葉はなかったものか、と後にクロノワは悔やんだという。彼の言葉を聞いたアレクセイはもう一度穏やかに微笑み、それから愛剣を自分の首筋に当て自らの首を刎ねて自決した。
それが彼なりの責任の取り方であったのだろう。偉大な将を惜しみすすり泣いたのは、勝ったはずのクロノワ軍の方であった。
「あの、陛下。将軍の遺体は………」
言いにくそうにしているのはアールヴェルツェである。彼にとって、いやクロノワに従った全てのアルジャーク兵にとって、アレクセイはいまだに「アルジャークの至宝」であり、その遺体を捨て置くことなど考えられないことである。
しかしその一方で、アレクセイは最後に敵となった。しかもベルトロワの遺言、つまり最後の勅命を無視してクロノワに相対した反逆者である。彼がどれほど事情を把握していたか、それを確認する手立てはもうないが、だからと言って軍を統率する者が「知りませんでした」で責任を逃れられるわけがない。その遺体は無残にさらし、見せしめにすることだって考えられる。
「アルジャークの至宝」として尊敬する一方で、正統な皇帝に刃向かった反逆者。それが今のアレクセイ・ガンドールである。この辺りが、アールヴェルツェが言いよどまねばならない理由であろう。
「丁重に埋葬してください。特に葬儀を行うつもりはありませんが、最後の見送りをしたい者にはさせてやってください」
クロノワのその言葉に、アールヴェルツェは深々と頭を下げた。
この日の夕刻前、アレクセイ・ガンドールの“葬儀”が行われた。喪主はおらず、別れの言葉をかける者もいない。場所も荘厳な式場などではなく冷たい風が吹き荒ぶ雪原で、立派な墓や棺が用意されることもない。
しかし、クロノワに従って彼と戦った全てのアルジャーク兵が、アレクセイ・ガンドールの最後を見送った。ある者は槍を掲げ、ある者は剣を捧げ、偉大な将を見送ったのである。
この時の様子について、後の歴史書はこう描写している。
「勝者であるはずの兵士たちが泣いている。彼らは整然と隊列を組み、死者を見送った。見送られる死者は、先ほどまで敵であったはずの男だ。その男を見送るために、兵士たちは誰に命じられるでもなく最上位の敬礼を行った。槍を掲げ道を作り、剣を捧げて冥福を祈る。敵にこれほどの敬意を持って見送られた男は、アレクセイ・ガンドールの他にはいないだろう」
さて、降伏したレヴィナス軍の兵士たちについてである。レヴィナスが逃走しアレクセイが自刎した今、金で雇われた傭兵を含め全ての兵士たちにもはや戦う気力は残っていなかった。また彼らはクロノワの「武装解除が終わり次第、故郷に帰すことを約束する」という宣言を聞いており、生きて故郷に帰れるならばここで戦う理由はもはやなく、消極的ではあるが従順な態度で武装解除に応じた。
クロノワにとって意外であったのは、降伏した者たちの中にレヴィナスの妻であるアーデルハイト姫がいたことである。
クロノワがアーデルハイト姫に会うのは結婚式以来これで二度目だが、彼女がここにいるということはレヴィナスに置いていかれたということである。両者にとって思いがけずまた不幸な形での再会であったわけだが、二人ともそれを表情に出すことはしなかった。クロノワの前に現れたアーデルハイトは落ち着いているというよりは淡々としていた。ただ以前に同じ状況になった皇后のように喚きたてることはせず、それがクロノワの好感を上げた。クロノワは貴婦人としての待遇を約束すると、彼女は何も言わずただ一礼のみを返すのだった。
ギルマード平原における再編と戦後処理を終わらせると、クロノワはそのまま進路を西に取った。戦場から逃走したレヴィナスを追うためである。オムージュとの境にあるリガ砦にいるのではないかと思われたが、いざ砦についてみると門は開いており事を構える意図がないことを主張していた。
「どうやらレヴィナス殿下はいないようですな」
アールヴェルツェはレヴィナスに対して「殿下」という敬称をつけたが、それ以外には敬語を用いなかった。レヴィナスは今や皇帝に反抗する反逆者であるから、本来ならば敬称や敬語を用いる必要はない。が、それでも彼はさきの皇帝ベルトロワの長子であり、アールヴェルツェなどにしてみれば呼び捨てにするのは心苦しい、ということなのだろう。クロノワはそう思っていた。
もっともクロノワにしても、レヴィナスのことをまだ「兄上」と呼んでおり、人のことは言えないが。
リガ砦にいた兵士たちについてだが、クロノワは彼らを断罪しようとは思わなかった。彼らにしてみれば、アレクセイ将軍に命じられれば従わざるを得ない部分が確かにあるからだ。ならばわざわざ内戦の傷を大きくする必要はない。
さて、リガ砦に入ったクロノワはそのままオムージュ領の総督府がおかれているベルーカに行き、行政機能を掌握するつもりでいた。が、彼がリガ砦にいる間に、思いもしなかった知らせが舞い込んできた。
レヴィナスが死んだという。討ち取ったのは、なんと数人の農民であるという。その知らせを聞いたとき、クロノワが感じたのは喜びではなくなぜか脱力であった。
クロノワがベルーカを目指そうと思ったのは、オムージュ領の行政機能を掌握するためであったが、同時にそこを拠点としてレヴィナスを探すためでもあった。探し出し捕らえたならば、つぎは処刑しなければならない。そこまでしてはじめてクロノワの治世はスタートラインに立てるのである。極端なことをいえば、レヴィナスの首が落ちるのと同時に、クロノワの治世が始まる。
つまりクロノワにとってレヴィナスは、いずれは死んでもらわねばならない相手であり、そのことについて覚悟はとっくの昔にできているはずであった。
(甘かった、ということでしょうか………)
達成感も何もない、ただの倦怠感に全身を蝕まれながらクロノワはぼんやりとそう考えた。
とはいえクロノワはそうやって脱力していられる立場ではない。レヴィナスを討ち取ったという農民たちとも会わねばなるまい。
「貴方たちですか?兄上を討ち取ったというのは」
「へ、へぇ!そうでございます」
クロノワの前で地面に額をこすりつけて平伏している農民たちの数は五人。あるいはもっと大勢いるのかもしれないが、ともかくこの五人が代表なのだろう。
「兄上の遺体は?」
クロノワが尋ねるとそばに控えていた兵士が「こちらに」と言って、白い布が被せられた担架を示した。その布をのけると、血にまみれたレヴィナスの遺体があらわれた。
遺体の状態は悲惨だった。腐敗が進んでいるわけではない。全身が傷だらけなのだ。恐らくだが、なぶり殺しにされたのだろう。
ただ、それもある意味では仕方がない。農民たちは槍や剣のような武器は持っていないだろう。武器代わりになる、例えば鉈や手斧を持っていたとしても、訓練を受けていない素人がそれで人間を、しかも抵抗する人間を殺すのは手間だろう。結果として一つでは致命傷とならない傷ばかりが増え、遺体は傷だらけの悲惨な状態になる。
クロノワは開きっぱなしになっているレヴィナスの目を閉じてやる。死顔が少し穏やかになったと思うのは、彼の自己満足だろうか。
クロノワはレヴィナスを殺さなければならなかったし、また遠からず殺すことになったであろう。つまり農民たちがレヴィナスを殺してくれたことは、彼にとって本来は喜ばしいことであるはずだった。が、そういった感情は一切湧いてこない。変わりに胸にあるモノは怒りにも似ていた。
兄レヴィナスはクロノワの目から見ても美しい麗人である。クロノワの知っているレヴィナスは、いつも自信にあふれて堂々としそして輝いていた。
それにレヴィナスはクロノワを積極的に迫害したことはない。彼の母親である皇后はクロノワに対するイジメと悪意の急先鋒であったが、レヴィナス自身はそれに加わったことがない。レヴィナスにしてみればクロノワなど眼中になく、ごく自然に無視していただけなのだろうが、当時まだ日陰者であったクロノワにとってはそれだけでも十分にありがたいことであった。
(もう少しふさわしい死に様はなかったのでしょうか………?)
殺そうとしていた相手にそんなことを思うのは自己満足に過ぎないと、クロノワは知っている。知っているが、感情や思考というものはなんとも御しがたい。自然とその矛先はレヴィナスを討ち取ったという農民たちに向いていく。
「あ、あの!!」
クロノワの胸のうちに黒いのもが生まれ始めたとき、それまで平伏していた農民の一人が頭を上げた。「無礼者!」と怒鳴る兵士を制し、クロノワはその農民に声をかけた。
「どうかしましたか?」
クロノワの声は少しばかり冷たい。その声に農民は怯えたように身をすくませたが、伊を決し顔を上げた。その目が思いがけず強い光は放っていることに、クロノワは内心で驚く。
「オムージュを、お願いしますっ!!」
その短いが強い言葉で、クロノワはなんとなくだが理解してしまった。
レヴィナスがオムージュ領の総督になってから、領内の生活は一気に苦しくなった。増税したことや、それを過去にさかのぼって適用したこと、また貴族たちのもとに転がり込んだ聖職者たちの豪遊費を負担させられたことなどが主な原因だが、他にも色々と要因はあるだろう。
モントルム領の総督であったクロノワは、自分の領内になだれ込んでくるオムージュからの流民が激増したことで、その生活がいかに苦しいのか想像できる。また十五になる年まで一般市民として暮らしていた彼は、その厳しさについて実感もできるのだ。
(兄上は、恨まれていたのですね………)
そしてその責任は、最終的に全て総督であったレヴィナスのものなのだ。民草にとって為政者の容姿が麗しいかなど、どうでもいい問題だろう。それにふさわしい死に様など、さらにどうでもいい問題である。もちろん恨んでいたからなぶり殺しにしたわけではないだろうが、
「こいつが生きていたら、自分たちに未来はない」
と、それくらいのことは考えていたかもしれない。それほどまでに彼らも追い詰められていたのだ。
「はい。任されました」
努めて穏やかな声音で、クロノワはそう応じた。胸の中にある黒いものはなくなってはいないが、それは表に出すべきではないと考えられるようになっていた。目の端に涙を浮かべた農民が再び頭を垂れると、クロノワはそばにいた兵士に命令を出した。
「彼らには金貨で一万枚を与えてください」
それから平伏している農民たちに視線を移し、
「分配は貴方たちに任せます。いいですね?」
と聞いた。彼らの返事を聞いてから、クロノワはその場を後にした。
次にクロノワが向かったのはリガ砦内の一室、アーデルハイトが軟禁されている部屋であった。彼女の部屋の前には、護衛と監視をかねた兵士が二人控えている。
クロノワは部屋の扉をノックし、返事を待ってから中に入る。アーデルハイトは窓辺に座り、ぼんやりと外を眺めていた。クロノワが部屋に入っても視線を動かそうとはしない。クロノワはその無礼を咎めはしない。ただ、単刀直入に用件を切り出した。
「兄上のご遺体が届けられました」
その話を聞いたとき、アーデルハイトの表情には一切の変化がなかった。首を軽く回して顔をクロノワから隠した。
「お会いになられますか?」
「………結構です。光を失ったあの方に、会いたくはありません」
アーデルハイトは、声だけを聞けば平静だった。そしてクロノワには回り込んでその表情を確認するだけの勇気はなかった。見えていないことを承知で一礼してから、彼女の部屋を出た。
アーデルハイトが自決したという報告がクロノワのもとにもたらされたのは、それからおよそ三十分後のことであった。髪を止めていた簪(かんざし)で喉を突いたのだという。
(まさか後を追うとは………)
このタイミングでの自決は、それ以外には考えられない。人払いをして一人になったクロノワは、虚脱感にさいなまれながら天上を見上げた。
(愛していた、愛し合っていた、のでしょうか………?)
レヴィナスとアーデルハイトの結婚は第三者的に見れば政略結婚であったし、クロノワもそう思っていた。だが当人たちの関係は、あるいはアーデルハイトの見方はそうではなかったのかもしれない。
「それにしても………、みんな死んでしまいましたね………」
母もベルトロワも皇后のレヴィナスもアーデルハイトも、家族と呼べそうな人はみんな死んでしまった。無論、母を除けば彼らとの間に家族らしい情があったわけではないが、それでも縁者が皆死んだという事実はここにある。
「『玉座は孤独なり』か………」
さして独創的でもない歴史書の一節を思い出す。さて、玉座に座ると孤独になるのか、玉座に座るために孤独になるのか。
「無性に、君に会いたいよ。イスト」
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コンクリフト・クルクマスがイストから託された品物をオリヴィアに手渡せたのは、彼らがベルラーシを発ってから三日後のことであった。できればイストたちと別れたあとすぐにでも手渡したかったのだが、タイミングと気力の折り合いが付かず、ずるずると時間だけが過ぎてしまった。
さすがにこれ以上間を空けるのはまずい、と危機感を感じたクリフは、なけなしの気力を振り絞ってオリヴィアに話しかけたのである。
「あの、これイストから『オリヴィアに渡してくれ』って預かったんだけど………」
「イストから?なんで自分で渡さないのよ、あいつは」
「さ、さあ。そこは聞かなかったから………」
まさか会話を始めるきっかけにしろ、といわれたなどと言えるわけもなくクリフは言葉を濁した。
クリフから綺麗に包装された手のひら大の包みを受け取ると、オリヴィアはすぐに中身を確認した。その中に入っていたのは………。
「義眼………?いや、でも………」
このとき、クリフは初めて中身を知った。木箱の中に収められていたのは、深紅の瞳を持った義眼であった。だがオリヴィアの瞳の色は青だ。瞳の色が違っていては、義眼として役に立たないのではないだろうか。
「まったく、意地悪な人ね」
クリフが疑問に頭を捻っている隣で、オリヴィアは手を口元に沿えて苦笑していた。
「でも、優しい人」
一緒に入っていた紙に、その義眼の詳細について書かれていた。
義眼の名は「妖精の瞳」。なんでも人の感情の揺らぎを可視化する魔道具らしい。つまり人が隠す内心の嘘や動揺を見抜けるということだ。普段の生活では使い道はあまりなさそうだが、商談の場では重宝しそうな魔道具である。
だが義眼である以上、使うためには顔の火傷痕をさらさなければならない。眼帯を外すだけではない。恐らくは前髪もどかさなければいけない。つまりこの魔道具はオリヴィアが火傷痕をさらすことを前提にしているのだ。
「疲れるくらいなら、もう隠さなくたっていいじゃないか」
そう言われた気分である。なんとも意地悪なメッセージの伝え方だ。今までは顔を見られる恐怖のほうが勝っていた。しかし同時に早く楽になりたいという気持ちも確かにあったのだ。この魔道具はそのきっかけを与えてくれる。
ただその与え方が優しい言葉などではなく、商人にとって重要な実利を全面に押し出したやり方なのだ。乱暴で意地悪。それがオリヴィアの評価だ。あの幼馴染はもう少し女の子の扱い方を学んだほうがいい。
そしてあの瞳の色である。義眼の瞳の色は深紅。繰り返すがオリヴィアの眼の色は青である。左右の瞳の色が違っていれば、それは珍妙な光景だろう。いらぬトラブルの原因になることも考えられるから、普段は隠しておくのが得策だろう。
義眼を隠すのなら眼帯がよい。そうやって眼帯で義眼を隠せば、なぜか火傷痕も隠れてしまう。そう、あくまでも結果論的に。眼帯の大きさは好みのものを選べばよい。大きいのを選んだっていいではないか。
「火傷を隠すのではない、義眼を隠すのだ」
なんとも言い訳じみていて遠まわしで皮肉れた優しさだ。隠すなといいたいのか、それとも隠せといいたいのか。しかしその両方を両立できるようになっている。
「そうね………。これも一つの区切りなのかしら」
まさかこの義眼一つで全ての問題が解決するとは、イストだって思ってはいまい。だからこの義眼は彼が与えてくれた一つの区切りでありきっかけだ。
立ち直るだの歩き始めるだの傷を癒すだの、それらしい言葉は数多い。しかしその主体は全てオリヴィアだ。厳しいかもしれないが、自分から動かなければ状況は何も変わらない。あるいはイストは、そう言いたかったのかもしれない。
(そしてきっと、自分にもそう言い聞かせているんでしょうね………)
きっとイストは義眼を作りながら自分のことも考えていたに違いない。オリヴィアにトラウマから抜け出して欲しいと願う彼は、自分自身だってトラウマから、あの赤い悪夢から抜け出したいともがいているはずなのだから。
(わたしは先にいくわ。早くしないと、置いていっちゃうわよ?)
解放への道のりはまだ遠い。恐怖が勝る時だってあるだろう。けれども一歩を踏み出した先にある景色は、今とは違うものだと信じたい。
オリヴィア・ノームは次の日、火傷痕を隠していた前髪を切った。動揺したのはむしろキャラバン隊のメンバーで、彼女自身は慌てる彼らを眺め苦笑していたという。ちなみに髪の毛を切った後のオリヴィアの第一声は、
「軽くなった」
だったそうな。
―第七話 完―