―――レヴィナス、動く。
余談になるが、この先クロノワの軍勢のことを「クロノワ軍」、レヴィナスの軍勢のことを「レヴィナス軍」とそれぞれ呼称する。
この報がもたらされたのは、フィリオたち補給部隊がケーヒンスブルグに到着してからおよそと十日後、ローデリッヒがベルーカに向けて旅立ってから三週間強経ってからのことだった。
その報告に、クロノワは人知れず嘆息した。
レヴィナスが軍を率いて動いているということは、ローデリッヒの説得は失敗したのであろう。そのことについて、どうこう思うことはない。もともと成功の見込みなど無いに等しく、対外的な正当性を証明するための使者だったのだから。
しかしその首すら送り返されてこないとは。
(ローデリッヒには、よほど無残な死に方をさせてしまったようです………)
生きている可能性は考えない。辛くなるだけだから。短い間ではあったが皇帝としての心構えを教えてくれた男に、クロノワは目をつぶり短く黙祷を捧げた。
目を開けると、クロノワは無理やりに意識を斥候からの報告に向けた。目の前の問題から目をそらしていては、ローデリッヒに顔向けができない。
「規模は二十万強、ですか………」
その数は呆れるやら感心するやら、だ。十万規模だとは思っていたが、まさかこれだけの時間で二十万もの数を集めてくるとは。兵の数において敵を上回ることは兵法の基本だが、随分と無茶をしたのではないだろうか。
「どうやって兵を集めたのでしょうか?」
「恐らく、半分近くは傭兵だと思います」
オムージュの全戦力は三〇~三五万と言われている。だがこの全てを動員できるわけではないし、なによりも領土全体から集めなければならないのだからもっと時間がかかるはずである。おそらく大盤振る舞いしてお金をばら撒き傭兵をかき集めたのだろう、というのがアールヴェルツェの予測だった。
「短期決戦、ですな」
十万規模と予測していた時でさえ、レヴィナスは軍勢を長期間養うだけの兵糧を確保できないとふんでいたのだ。二十万となれば軍を維持したまま新年を迎えることも難しいのではないだろうか。となればレヴィナスの、というよりアレクセイの思惑としては、数に物言わせて一戦し、そこで全ての決着を付けるつもりだろう。
「籠城したくなりますね」
レイシェルがそういった。
籠城して長期戦に持ち込めば、やがてレヴィナス軍は兵糧が尽きる。そうなれば軍勢の半分近くを占める庸兵の多くは愛想を尽かして逃走するだろう。そうでなくとも、軍勢を維持することはできなくなる。
それにこれから冬本番である。レヴィナス軍を構成する兵士たちのほとんどは、オムージュかその周辺諸国の出身であると思われる。北国であるアルジャークの厳しい冬は、彼らには辛いだろう。
「籠城はしません」
しかしクロノワはその案を却下した。籠城するとなれば籠もるのは帝都ケーヒンスブルグである。無論、ケーヒンスブルグは高い城壁によって囲まれているが、しかしここは戦いを目的として作られた要塞や城郭ではない。人々が生活する都市なのだ。
それにレヴィナス軍の兵士たちはケーヒンスブルグの住民に、同国民としての愛情など持っていない。万が一、城壁が破られレヴィナス軍の侵入を許した場合、ほぼ確実に略奪や暴行が起こる。それはクロノワにとって最も望まないことだ。
またこの戦いは内戦なのだ。勝つにしろ負けるにしろ、決着は迅速に、被害は最小限にしたい。ならば野戦で雌雄を決するのが一番いいだろう。
「今、敵軍はどの辺りにいると思いますか?」
机の上に地図を広げる。
リガ砦を見張っていた斥候がレヴィナスの軍勢を認めてから帝都ケーヒンスブルグに帰還するまで、昼夜を問わず馬を飛ばして三日かかったという。その三日間、レヴィナス軍は帝都に向けて進攻を進めているから………。
「恐らくは、この辺りかと」
アールヴェルツェが地図に描かれた街道上に、チェスの駒を置いた。ちなみに黒の騎士(ナイト)だ。同じく地図上のリガ砦の位置には黒の砦(ルーク)が、ケーヒンスブルグには白の砦(ルーク)と騎士(ナイト)が置かれている。
「こちらが出陣するのにかかる時間は?」
「一日あれば」
休息中とはいえ戦いが迫っていることを忘れている者などいない。本当はもっと早く全軍に臨戦態勢を整えさられるのだが、今回はまだ時間的に余裕がありそこまで急いでも仕方がない。
「ですから決戦の場はここになるかと」
そういってアールヴェルツェが白と黒の騎士(ナイト)を動かし、地図上街道脇のある一点で向かい合わせた。そこは………。
「ギルマード平原………」
イトラが呟いた。
この予想はレヴィナス軍の方でもしているだろう。古来より戦場の選定というのは、敵味方の両軍において不思議と一致する。
「できれば、陛下はケーヒンスブルグに残っていてもらいたいのですが………」
そういってアールヴェルツェは白の砦(ルーク)の隣に白の王(キング)をそっと置いた。
「いえ、私も一緒に行きます。兄上もご自分で軍を率いているのでしょう?」
そういってクロノワは白の王(キング)と黒の王(キング)を、それぞれ同じ色の騎士(ナイト)のそばに置いた。
確かに斥候の報告では、遠目にではあるがレヴィナス本人とアーデルハイト姫の姿が確認されている。自分の細君を戦場に同伴すると言うレヴィナスの行動が、彼の自信の大きさを表しているようだ。もっともクロノワの知るレヴィナスは、いつも自信にあふれていたが。
「一戦して破れても、陛下がご存命なら再起を図ることも………」
「いえ、この一戦で決着をつけます」
それはつまり、負ければ死を選ぶ、ということだ。
繰り返すがこの戦いは内戦だ。内戦を長く続けても得るものなど何も無く、ただ国力が磨り減っていくだけである。またアルジャーク帝国はここ最近で急速に国土を増した。泡のように膨れ上がった、といってもいい。それら新しい領地の足場固めさえ中途半端なこの状況で内戦が長引けば、泡は破裂し手痛いしっぺ返しをくらうだろう。
それを避けるためにはただ一戦のみで雌雄を決するしかない。負けるつもりなど毛頭無いが、内戦の早期終結を志している以上、目の前に迫った戦いで負けた場合クロノワは自決する覚悟でいた。
(イストには………、怒られてしまいそうですね………)
右手にはめている彼から貰った聖銀(ミスリル)製の指輪、魔道具「雷神の槌(トールハンマー)」を撫でながら、クロノワは友人の顔を思い浮かべ苦笑した。そういえばこの魔道具、いまだ実戦で使ったことがない。
「それに再起を図ることなど、不可能でしょう」
仮にクロノワが帝都ケーヒンスブルグに残っていたとしても、主力が野戦で負けてしまえばそれで趨勢は決する。敗残兵をまとめてケーヒンスブルグに籠もってみても、敵軍を防ぎきるのは難しいだろう。
ならば逃げ延びるしかないが、逃げ延びる先はモントルム領しかない。モントルム領の版図は三〇州で、アルジャーク本土とオムージュ領の合計一九〇州を手中に収めたレヴィナスには抗しきれまい。
だがさらに南、併合したばかりのカレナリアに行けば、捕虜にしたテムサニス軍およそ十万がある。故国に戻すことを約束すれば、この戦力は使えるかもしれない。さらに同じく捕虜にしてあるテムサニス国王ジルモンドの命を盾に取れば、さらなる援軍を引き出すこともできるかもしれない。
ここだけ考えれば、一戦して負けたとしても再起を図ることは十分可能なように思える。しかしこれは最大限上手くいったときの話だ。これまで日陰者であったクロノワに、しかも一戦して負けているクロノワに、最後まで力を貸してくれる奇特な人間が一体何人いるだろうか。身内に裏切られた者の末路は悲惨だ。もちろんアールヴェルツェたちは信頼しているし裏切られることなど考えてもいないが、しかし味方の全員が彼らのようであると楽観できるほどクロノワは世間知らずではなかった。
さらに、より簡単で単純な理由として、クロノワにはそこまで泥仕合を演じるつもりは無かった。早期決着。勝つにしろ負けるにしろ、それが彼の最大の望みである。
「………分りました。では、勝ちましょう」
クロノワの覚悟を感じ取ったのか、アールヴェルツェは折れた。
「ええ、勝ちましょう」
窓の外を見れば、雪が舞い始めている。
敵はレヴィナス・アルジャークと、アルジャークの至宝アレクセイ・ガンドール。これまでで最大の難敵が、クロノワの前に立ちはだかろうとしていた。
**********
その日、ギルマード平原には雪が積もっていた。とは言っても薄く、である。もとよりこの国で生まれ育ち、そして訓練を積んできたクロノワ配下のアルジャーク兵がこの程度の雪を障害に感じることはない。
「もう少し降ってくれると、こちらに有利だったのですがね………」
本陣でクロノワは一人でそうもらした。ここにはアールヴェルツェやイトラ、レイシェルといった主立った将軍たちはいない。彼らは自分の部隊を率いて、すでに隊列を整えている。
レヴィナス軍の兵士たちにアルジャーク出身の者はほとんどいない。つまり彼らはクロノワ軍の精鋭たちと違い、雪原での戦闘訓練など受けていない。慣れない戦場に放り込まれればその力を十全発揮することはできないだろうが、今日のように薄く積もっているだけならばその影響は少ないと見るべきだろう。
ただこの予測さえもアルジャーク人の視点から見たものだ。オムージュ人がこの雪をどう感じているか、それはクロノワにとっては埒外のことであった。
「天候は予測できても思い通りにはなりませんからね。こればかりはどうしようもありません」
そうクロノワの独り言に反応したのは、本陣で彼を補佐している女騎士グレイス・キーアだった。彼女は先の南方遠征の際には、後方で後方部隊を実際に動かす仕事をしていた。その仕事は重要であり、グレイスも職責を全うしてくれていたが、彼女が本来望んでいたのは戦場での功績であった。久しぶりに感じる戦場の空気に、彼女の顔はまるで鋭利な剣のように引き締まっていた。
クロノワとしてはグレイスのように意気込みを外に表現できずにいた。胃の辺りに違和感を覚える。痛いわけではない。締め付けられているわけでもない。しかし、無視できない違和感があるのだ。
それはすなわち、緊張だろう。だがクロノワはその緊張を糧として意気込みを燃やし、それを外側に表現することが出来ずにいた。あるいは、もともとそういう性分なのかもしれない。彼にできることといえば、努めて普段どおりに振舞うことだけだ。
そんな、決して自信にはつながらないような思考から逃れるようにして、クロノワは敵味方の布陣に視線を向けた。
クロノワ軍の布陣は今までと同じである。つまり、主翼、両翼、そして本陣の四つに部隊を分けている。上空から俯瞰することができれば、横に広いひし形のそれぞれの頂点に部隊が配置されているように見えるだろう。数の配分としては、本陣一万五千、主翼五万五千、両翼それぞれ四万となっている。
本陣はクロノワ、主翼はアールヴェルツェが率い、右翼はイトラとレイシェルが率いている。左翼は他に信頼の置ける将軍に任せていた。
それに対しレヴィナス軍は軍を本陣と両翼の三つに分けている。部隊の配置としては、本陣を奥に引っ込め、両翼が突出している。凹字、あるいはU字といった感じ陣形だ。数の配分としては、本陣三万、両翼が八万五千ずつ、といったところか。
敵軍は両翼だけでクロノワ軍を数の上では凌駕している。改めて数の不利を思い知らされた。
「普通ならば、同じか逆の布陣の仕方になると思うのですが………。どう思われますか」
グレイスはそうクロノワに疑問を投げかけた。彼女の言いたいことはなんとなくだが分る。数の上では劣っているクロノワ軍のほうが、部隊を一つ多くしている、つまり兵力を分散しているのだ。悪くすれば確固撃破の危険がある。
ただクロノワ軍の布陣は奇抜なものではなく、よくある王道的なものといえる。レヴィナス軍の布陣も奇抜なものでは決して無いのだが、数的に有利な状態でわざわざ部隊数を少なくするのは不思議に思えた。
「こちらの数を見誤ったのでしょうか?」
「いえ、それはないでしょう」
あのアレクセイ・ガンドール将軍のことだ。事前に斥候を放ち、こちらの数を調べるくらいの事はしているはずである。
「むしろあの布陣は、あちらの内部事情によるところが大きいと思いますよ」
レヴィナス軍の半分近くは傭兵である、とアールヴェルツェは予測したし、クロノワもその考えに賛成だ。つまり、部隊数を多くしても綿密な連携は取れない、とアレクセイは考えたのではないか。ならば数の上では勝っているのだから、分散させずに正面から数をぶつければよい。そうアルジャークの至宝は考えたのではないだろうか。
「『戦術は単純なほうが良い』。アレクセイ将軍はよくそうおっしゃっていました………」
『戦略は複雑でも良い。しかし戦術は単純なほうが良い。なぜなら戦術は万人が理解し、そして動かなければならないからだ。そして単純な戦術というのは、隙が少ない』
これが、アルジャークの至宝と呼ばれる男の哲学であった。現在のアルジャーク軍のあり方はこの考えが基本になっているといってもいい。イトラやレイシェルといった若手の将軍はもちろん、アールヴェルツェのように比較的歳が近い将軍も影響を受けているのだから。
そのアレクセイ・ガンドールと今こうして戦場で相対しているとは。
「なんで、こんなことになったんでしょうね………」
そのグレイスの思いは、きっとこの場にいる全てのアルジャーク兵が共有していることだろう。
**********
(なぜ、このようなことになった………?)
アレクセイ・ガンドールもまたその疑問を胸に抱いていた。レヴィナス軍を率いている彼の眼前に相対しているのはアルジャークの精鋭たち、つまりつい最近まで頼もしい味方であり部下であった者たちだ。
アレクセイがレヴィナスの軍勢を組織し、そして指揮しているのは、ただひとえに彼がその時ベルーカにいたからに他ならない。アルジャークの至宝たる彼以上の適任者など、一体誰がいるというのか。無論、アレクセイも自分以上の適任者がいないことを自覚していた。
だから、その仕事を引き受けた。
しかし言ってみれば彼がその仕事を引き受けたのは、状況に流された結果であり、レヴィナスこそ次の皇帝としてふさわしいと考えていたわけではなかった。
もちろんレヴィナスは皇太子である。皇太子という称号は帝位継承権第一位を表しており、その意味では彼が最も次の皇帝としてふさわしい。
しかし軍務大臣ローデリッヒ・イラニールは第二皇子であるクロノワを次の皇帝として認めるよう、使者としてベルーカを訪れたらしい。あいにくとアレクセイ自身はその場にいなかったが、軍務大臣たる彼がクロノワを推すということは、ベルトロワが遺書の中でクロノワを後継者として指名した可能性が高い。
もっともその遺書は宰相らによって偽造されたものであると皇后が宣言した。だがエルストハージたちがベルトロワの遺書を偽造したなどということは、アレクセイに信じられないことであった。さらに偽造であると判断した根拠が不明なのだ。そのことがアレクセイに一つの考えを抱かせ続けている。
「遺書の内容は皇后陛下にとって都合が悪く、それを認めたくないがために偽造であると言い張っているのではないか」
全ては憶測である。しかしどうにも真実が見え隠れしているような気がしてならない。もしこの憶測の通りであれば、正当性はクロノワのほうにある。皇帝が残す遺書は勅命とみなされるからだ。
しかし全ては憶測でしかない。確固たる事実のみを残そうとすれば、「皇太子はレヴィナスである」という事実だけが残る。
だが、自分は全てのことを知っている、などという幻想をアレクセイは抱いていない。つまり彼が知らない事実がどこかにあるかもしれないのだ。
アレクセイは、迷った。軍を組織し戦略戦術を練る一方で、レヴィナスとクロノワの一体どちらが正統な後継者なのか、悩み続けた。
悩み続け、しかし答えは出なかった。答えが出ないまま、彼は今敵軍と相対している。
**********
最初に動いたのは、クロノワ軍のほうであった。銅鑼の音が鳴り響き、主翼と両翼が静かに前進を開始する。それに合わせるように、レヴィナス軍の両翼も動いた。両軍とも本陣はまだ動いていない。
(さて、どう動きますかね………)
両翼同士がぶつかる展開になるのはほぼ間違いない。ならば鍵になるのはアールヴェルツェが率いるクロノワ軍の主翼五万五千の動きだ。
敵軍両翼の動きから察するに、アレクセイはまずこの主翼に狙いを定めたようだ。レヴィナス軍の両翼は真っ直ぐ進むクロノワ軍主翼に対して、斜め左右から襲い掛かるように進路をとる。
それを見たアールヴェルツェは、進路を斜め右、つまり敵軍左翼に向けた。さらにクロノワ軍の両翼は、敵軍の両翼の側面をつくように進路を少しずつ調整していく。
両軍の距離が少しずつ狭まっていき、銀色の矢の雨が双方から放たれ、また双方に落ちていく。
――――激突。
まずぶつかったのはクロノワ軍の主翼とレヴィナス軍の左翼であった。さらにレ軍左翼に対してその側面にク軍右翼が突き刺さる。さらにレ軍右翼がク軍主翼に襲い掛かり、そのレ軍右翼をク軍左翼が押し戻そうとする。
その様子をクロノワは冷静に観察していた。遠目にもかかわらず血しぶきが舞っているように見えるのは、薄く積もった雪のせいかもしれない。きっとあの戦場の雪は鮮血に染まっていることだろう。
最初は押しつ押されつ、一進一退の攻防が続いた。だが徐々に戦況はレヴィナス軍優位へと傾いていった。その要因は………。
「魔導士部隊、ですか………」
戦場のあちらこちらで爆発が起こり、閃光が光っている。魔導士が投入されると、戦闘の激しさはそれまでの比ではない。普通魔導士部隊というのは虎の子の切り札なのだが、遠目でも分る魔導士の数の多さがこの決戦が双方にとって後に引けない戦いであることを物語っている。
クロノワはこの戦いにあるだけの魔導士戦力を投入している。それはレヴィナスも同じだろう。だが、レヴィナス軍にはオムージュの魔導士部隊以上の魔導士がいるように思われた。
「傭兵、ですか………」
魔導士と言うのは欠員が出た場合それを埋めることが難しく、それが虎の子扱いされる一因となってきた。しかし庸兵の中には魔導士ライセンスを取得し、自前の魔道具を持っている者もいる。彼らのような戦力は雇う側から見れば使い捨てができる、実に使い勝手のいい魔導士戦力であった。
今回、レヴィナス軍の半分近くは傭兵であるというのが、クロノワ軍上層部の見解である。それはつまり正規の魔導士部隊と同数かあるいはそれ以上の“在野の魔導士”がレ軍に参加していることを意味していた。
ただ魔導士と言う存在は一般に我が強くて扱いにくい。在野の魔導士で傭兵などやっている者ともなればその傾向は一層顕著だと聞いたことがある。そんな荒くれ者どもをまとめ上げているアレクセイは流石であると言えるだろう。
「押されていますね………」
クロノワの横でグレイスがそうもらした。平静を保ってはいるが、不安の色を隠しきれてはいない。
現在の陣形はレヴィナス軍が凸字で、クロノワ軍が受け止める形になっている。しかしもともとの数が劣っているせいかク軍の陣形は半包囲のU字にはならず、不完全な半包囲(J字とでも言えばいいかもしれない)となっていた。
クロノワ軍はじわりじわりと後退させられている。それは同じだけレヴィナス軍が前進してきていることを意味している。
レヴィナス軍の攻撃はやはりクロノワ軍主翼に集中していた。最も戦力の多いここを喰いちぎって突破し、そのままク軍本陣を襲いクロノワの首を取る。それがアレクセイの思惑であろう。
アールヴェルツェはアレクセイの猛攻に良く耐え、よく凌いでいるといえた。彼が主翼を率いていたからこそ、クロノワ軍はいまだ全面崩壊には至らず、押され気味とはいえ戦線を維持することができていた。
しかし何ごとにも限界があり、そして終わりが訪れる。このまま戦況が進展すれば、いずれクロノワ軍は崩壊しレヴィナス軍の勝利で終わる。そうレヴィナスやアレクセイは思っていたし、クロノワやアールヴェルツェもそれを承知していた。
そう、このまま何もしなければ。
「風が、出てきましたね………」
確かに風が出てきた。そして雪が降り始める。風と雪。この二つが重なる現象を、人は吹雪と呼ぶ。風が強まり降雪が多くなるにつれて、吹雪は激しさを増していく。戦場の視界は一気に悪化し、クロノワのいるところからレヴィナスの本陣を視認することはできなくなってしまった。それはつまり、逆もまた同じ、ということである。
「そろそろ、動くとしましょう………!」
クロノワがそう声をかけると、グレイスは一瞬緊張で体を硬くし、しかしすぐに全軍出撃準備の号令をかけた。
一瞬にして、クロノワ軍本陣の臨戦態勢が整う。そんな兵士たちを心強く感じながら、クロノワは馬上から声をかける。
「これより我々は戦場を駆け抜け敵本陣を強襲する」
その声は決して大きくなかった。しかも吹雪の風が耳元でうるさく鳴っている。しかし不思議とクロノワの声を聞き逃した者はいなかった。
「各自が日ごろの訓練の成果を発揮し、自分の務めを全うすることを期待する」
そこまで言ってから、クロノワはふと表情を緩めた。
「誰が国を治めるのかなどということは、そこで暮らしている人々の生活に比べれば些細な問題です」
このクロノワの発言は暴言に類するだろう。少なくともこれからその「国を治める誰か」を決める戦いに臨もうとする、兵士をその戦いに臨ませようとする者の言う台詞でない。グレイスが慌て、兵士たちがざわめく。クロノワは片手を上げてそれを制した。
「それでも私に賭けてみたいと思ってくれるなら!それでも私に夢を見てみたいと思ってくれるなら!」
半瞬の、空白。
「どうか、私に力を貸してほしい」
その声は、やはり大きなものではなかった。しかし本陣にいる全ての兵士たちの耳に、その言葉は届いた。
一瞬の沈黙。その沈黙が見えざる斧となって空気を割る前に、大歓声が起こった。全ての兵士たちが手に持った武器を掲げ、歓声を上げてクロノワの言葉に答えた。
クロノワは馬首をひるがえして戦場に向けた。彼の後ろからはいまだ歓声が響き鳴り止むことがない。
「全軍出撃!」
一際大きな歓声が、それに答えた。
**********
レヴィナスは本陣から戦況を眺めていた。始めこそ互角であったが、今は味方が押している。それを認めると、レヴィナスは満足そうに頷いた。
風が、出てきた。加えて雪も降り始めている。この分では吹雪になりそうである。
「寒くはないか?」
レヴィナスは自分の右に控えているアーデルハイトにそう声をかけた。彼女は厚手の防寒具を着込んでいたが、それでも慣れない吹雪は辛かろう。
「戦況は我がほう有利だが、終わるまでには今しばらく時間がかかるだろう。後ろに下がって休んでいてはどうだ」
レヴィナスの声は穏やかで優しい。心からアーデルハイトを大切に思い、彼女の身を案じていることが分る、そんな声であった。
「いいえ、殿下。大丈夫ですわ」
アーデルハイトもまた、そうやって気にかけてもらえるのが嬉しいのか、幸せそうな笑みを浮かべてそう応じた。
レヴィナスとアーデルハイト。この二人の結婚は完全な政略結婚でしかなかったはずだが、これまでの夫婦仲はきわめて良好である。
風と雪が強くなっている。吹雪は激しさを増し、さっきまではっきりと見えていた戦場は、今は白くかすんでいる。まるでこの本陣だけが戦場から切り離されてしまったかのようにレヴィナスは感じた。
吹雪は肌を切りつけるかのように冷たい。しかしレヴィナスは内心に安心感を覚えていた。耳元でうるさく鳴り響いている風の音も、戦場から響く悲鳴と喧騒を遠ざけてくれる。目を閉じれば、そこはもはや戦場ではない。
つまるところ、レヴィナスは戦場と言う場所が嫌いだった。決して怖いわけではない。そう自分に言い聞かせている。
(もう少しで終わる………)
そうすれば、皇帝の椅子は正しくレヴィナスのものとなる。そう、レヴィナスが求めているのは皇帝の座のみである。それをあの愚弟が宰相や大臣たちと共謀し、不遜にも己がものにしようとしている。兄のものを弟が掠め取ろうなど、万死に値する。
そして極めつけは、あのローデリッヒとの会見だ。あの愚か者はよりにもよって自分よりも愚弟のほうが皇帝にふさわしいとぬかしたのだ。今思えば、犬に食わせるにしても、生きながらにそうするべきであった。
「クロノワを捕らえ私の前に引きずり出せ」
戦いが始まる前、レヴィナスはアレクセイにそう命じた。人が考え出した処刑法のなかで、最も残酷な仕方であの不届き者を始末するためだ。そして先ほどまでの戦況を見るに、その時は近いように思われた。
(早く………!早く早く早く!)
そうやって何かをせき立てる自分の心を、レヴィナスは少し持て余している。自分はこんなにも性急で器の小さな男だっただろうか。否、断じて否である。
「どうかなされましたか………?」
目を閉じたままのレヴィナスを怪訝に思ったのか、アーデルハイトが声をかけてくる。レヴィナスは目を開けると、彼女を安心させるように微笑んだ。
「案ずるな。大事無い」
なんにせよ戦いはもうすぐ終わる。そして皇帝となれば戦場に出ることもなくなるだろう。
(美しき私に、戦場は似合わぬのだ………)
その思いは、心の底からスッと出てきた。
吹雪はいよいよ激しさを増している。視界は極端に悪くなっている。先ほどまでかろうじて見えていた戦況も、今は白いベールの先に隠れてしまっている。
ふと、風の音のほかに、別の音が混じり始めた。それが何であるか確認する前に、レヴィナス軍本陣に一筋の閃光が突き刺さり、そして爆ぜた。
――――敵。
その単語がすぐに頭に浮かんだ。
誰が?どこから?どうして?
まとまらない思考は単語で走り、混乱に拍車をかけていく。
それらの疑問に一つも答えが出ないまま、再び閃光が突き刺さり爆ぜる。続けて千数百はあろうかという矢が雪に混じって飛来し降り注ぐ。
この攻撃で、逆にレヴィナスの頭は冷えた。一瞬の混乱から立ち直ると、ともかく防ぐように指示を出す。それから一度陣の奥まで戻り、そこでアーデルハイトと別れ彼女をさらに後方に遅らせる。
レヴィナスが白馬にまたがると、三度閃光が輝き爆音が響く。吹き飛ばされたのか、人が宙をまっている。レヴィナスの足が、震え始める。
吹雪の中、白く濁った視界の向こうから、クロノワ軍が現れた。
**********
レヴィナスは知りようもないことだが、彼の本陣に突き刺さった閃光は、イストがアズリアに贈った魔弓「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」が放つそれとまったく同じものであった。それもそのはずである。少し前にイストがクロノワに贈った魔道具は、この魔弓の簡易版なのだから。
――――「雷神の槌(トールハンマー)」。
それが、イストがクロノワに贈った指輪型の魔道具の名前である。
この魔道具の最大の特徴は、その使い勝手の良さにある。
まず使用者は指輪に魔力を込める。するとまずは魔法陣が展開される。ちなみにこの魔法陣は、一度展開すれば魔力の供給を断ってもしばらく出っ放しである。魔法陣が展開したところでさらに指輪に魔力をこめると、展開された魔法陣に魔力が充填され閃光が放たれるのだ。
技術的な話をするならば、指輪に刻印されている術式は「魔法陣を展開するための術式」である。つまり、刻印されている術式自体に攻撃能力はない。言ってみれば余計なステップを一つ踏んでいるのだ。しかしそのおかげで、指輪という小さくて装備が容易な形状で、人を吹き飛ばすような馬鹿げた威力を実現しているのである。
アズリアが使っている魔弓「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」とは異なり、「雷神の槌(トールハンマー)」の射程と威力は固定である。その点、自由度は下がっていると言わざるを得ない。しかし逆を言えば射程と威力について考える必要がない。使用者はただ指輪に魔力を込めればよい。そうすれば、後は自動的に閃光の一撃が指輪を向ける先に放たれる。
レヴィナス軍本陣の隊列には、「雷神の槌(トールハンマー)」の二度の攻撃により穴が開き、そしてその穴は続けて降り注いだ矢の雨によって広がっている。クロノワはすかさずそこに突撃をかける。準備が出来ていないのか、敵の抵抗は少なく脆い。浮き足立った敵兵を蹴散ら、敵陣をまるで紙切れか何かのように切り裂きながらクロノワ軍は進む。
奇襲は成功した。
行動を開始したクロノワ軍本陣は、まず味方の主翼と右翼の陰に隠れるようにして戦場を迂回し、敵本陣を目指した。
この時、吹雪いていたことがクロノワにとって幸いした。彼の配下にいるアルジャーク兵はみは冬季行軍訓練を受けており、吹雪の中でも問題なく進軍し目的に至ることができる。しかしレヴィナス軍の兵士たちは違う。彼らにとって吹雪とは慣れない劣悪な環境であり、このような見通しの利かない中進軍してくる敵など、彼らにとっては完全に埒外であった。
アレクセイは、この動きに気がつかなかった。本陣で全体の戦況を見守っていたのであれば、予測し対応策をとることができたかもしれないが、今彼は最前線で戦っているのである。吹雪の中、敵軍の影を別の部隊が移動していることに気づけなくとも、仕方がないであろう。
さらにレヴィナス軍は両翼が前進したにもかかわらず本陣が動かずにいたため、双方の間に距離が出来てしまった。それはつまり、レ軍本陣が孤立したということを示していた。しかもこの吹雪である。優位な戦況に油断した部分もあるのだろうが、レ軍本陣は敵の襲来に直前まで気づかず、態勢を整える前に先制攻撃を許し戦いの主導権を握られてしまったのだった。
クロノワは右手にはめた指輪「雷神の槌(トールハンマー)」に魔力を込め、閃光を放つ。至近で直撃を受けた敵兵が胴体に大穴をあけ、内臓を飛び散らして絶命する。貫通した閃光は、さらに何人かの敵兵を吹き飛ばした。
(すまない、イスト………!君がくれた魔道具で人を殺した………!)
きっとあの友人は、そんなことを気にはしないだろう。しかし、クロノワは無性に謝りたかった。
奥歯をかみ締めながら、クロノワは「雷神の槌(トールハンマー)」に魔力を込め続け、立て続けに閃光を放ち続ける。この連射性能こそが、「雷神の槌(トールハンマー)」の真髄であるといえた。
「雷神の槌(トールハンマー)」の射程はそれほど広くはない。しかし槍を振るえば敵に当たるような状況ならば、そもそも射程に意味はない。加えて一撃で人を殺してなお余りある威力の閃光を連射できるのだ。そんなものを集団の中で使えばどうなるか。敵軍はもはやただ逃げ惑うことしかできずにいた。
しかも一撃放つごとに轟音が響くのだ。その射程外にいるはずの兵士たちも、幾つもの轟音が鳴り響くのを聞き、さらに四肢をあらぬ方向に曲げた人間が宙をまうのを見て、戦わずして戦意を喪失させていった。
この轟音とその光景にもっとも肝を冷やしたのが、レヴィナスであった。
轟音が響くたびに腹に鈍い衝撃が走る。顔から血の気が引いて体温が下がり、歯が震えた。足が震えているのが分る。いや、足だけではない。全身が震えている。
恐怖。そう、それは恐怖であった。
閃光が一つ輝くたびに、自分の死が近づいて来る気がする。轟音が一つ響くたびに、心臓を鷲づかみされるような悪寒を覚える。
ドサリ、とレヴィナスの前に死体が降ってきた。閃光の直撃を受けたのか四肢をあらぬ方向に曲げ、顔面がつぶれて眼孔から目玉が飛び出している。
その死体に、レヴィナスは自分の未来を重ねてしまった。
自分もこんな死にざまをさらすのか。こんな美しくない死に方をするのか。その様子を想像し、レヴィナスは激しい吐き気に口元を押さえた。
そこにさらに轟音が響く。着弾地点は、かなり近い。
限界だった。恐怖の、限界だった。
レヴィナスは、逃げた。
馬首をひるがえし、部下を見捨て、さらには妻であるアーデルハイトを置き去りにして、レヴィナスは戦場から逃げ出した。恥も外聞もかなぐり捨てて、迫りくる恐怖から彼は逃げた。
レヴィナス軍を実質的に動かしていたのは、アレクセイ・ガンドールである。しかし総大将であり次の皇帝になろうという者が戦場から逃げ出し、兵の士気に影響を与えないはずがない。
戦場に置き去りにされた兵士たちは、次々に武器を手放し降伏していった。
趨勢は、いや勝敗は、決した。