ビクリ、と身じろぎしてから、その人影は動き出した。体にかけていた外套を肩にかけなおし、イストは胡坐をかいて座った。ぼんやりと左右を見渡すと、彼に近くにさらに二人、横になって眠っている者たちがいる。彼の弟子であるニーナ・ミザリと、新たな旅の道連れジルド・レイドである。
焦点が定まらない瞳でイストがぼんやりと見つめる先には、煌々と赤い光を放つ石がある。これは「マグマ石」という魔道具で光と熱を放つ。この魔道具が放つ光と熱の強さはモノによってまちまちだが今イストが見つめているものは、だいたい焚き火と同じくらいの熱と光を発している。
焚き火と違い薪がはぜる音もせず静かに輝く「マグマ石」から少しはなれたところに、手のひらに乗るくらいの大きさの球体がおいてある。材質は水晶のようだが、その中には青い光がまるで液体のように対流している。魔道具「敵探査(エネミーサーチ)」。あらかじめ設定された条件に適合する物体が一定の範囲内に侵入すると警報が鳴り響く魔道具である。この魔道具のおかげで、三人は寝ずの番をたてることなく旅の夜を過ごせていた。
不審者を近づけないということであれば、「霧の迷宮(ミスト・ラビリンス)」という魔道具を使ってもいいのだが、こちらは持続時間が短く一晩中は使えない。
静かな夜だ。あの夜とは違って。
「また、赤い夢、か………」
彼の記憶が始まる場所、古い寺院のようなものを利用した孤児院が盗賊たちに襲われた、あのときの赤い悪夢。あのときの記憶はひどく断片的で、しかしそのせいか一コマ一コマは強烈に焼きついている。
轟々と燃え上がる炎。子どもを庇う大人の女性。年下の兄弟を庇う年上の子ども。コマが進むごとに、立っている人間に人数は減り血溜りに倒れこむ人数ばかりが増えていく。見開いたままの小さな瞳に、もはや生気はない。せめてあの目蓋を下ろしてやれば、穏やかな死顔になるのだろうか。
「埒もない………」
お酒の入った「魔法瓶」を取り出し、その中の琥珀色の液体を一口あおる。
あの事件はもう終わったのだ。盗賊団は壊滅し、復讐すべき仇などというものはもはやこの世に存在しない。
過去には涙と花束を。時間は残酷なまでに平等で優しい。あの日の少年は、いまだに夢の中を彷徨っているのに。
「なんとかしなきゃかねぇ………」
努めて他人事の調子で、イストは呟いた。
赤い悪夢との付き合いはもう十年来になる。特に生活や精神面での支障はない。悪夢を見た夜はそれ以上眠れなくて、酒を飲むくらいしか出来なくなるが、言ってしまえばそれだけで、それ以上引きずることはなくなった。
ただ、悪夢を見ることそれ自体が、精神的に問題があるといえなくもない。
師匠であるオーヴァと旅をしていた頃、一人で旅をしていた頃、そしてニーナやジルドと旅をしている今、いずれの場合も関係なく悪夢に悩まされてきた。いや、本人は悩まされるほど問題視はしていないのかもしれない。長い付き合いの中で慣れてしまったといえなくもないが………。
(それは………、ないか………)
慣れてしまったというよりは、諦めてしまったのだろう。イストはそう思った。慣れたのであれば悪夢を見て目が覚めた後、またすぐに眠ることが出来るはずだ。だがしかし、今自分はこうして酒を飲み日が昇るのを待っている。
「滑稽だな。滑稽だよ」
ククク、と弱々しい自嘲の笑い声が漏れる。
ああ、まったく滑稽だ。悪夢をさまよい続けるあの日の少年も。悪夢を乗り越えられそうにない自分も。酒に頼らなければそれを認められない自分も。全てが滑稽で無様で、笑うしかない。
「いいかげん、形だけでもケリ、付けとくかなぁ………」
それで何かが解決するとは思わないけれど。それでも十年、あれから十年だ。いいかげん一つの区切りを付けておいてもいいだろう。
「行ってみますか、焼け跡に」
**********
イストとニーナの師弟が引き受けた「ハーシェルド地下遺跡に遺された古代文字(エンシェントスペル)の解読」という仕事の期間は一ヶ月であったが、結局二人はもう一ヶ月ほどそこで発掘作業を手伝うことになった。
理由は二つある。
一つは、単純に古代文字(エンシェントスペル)の解読が終わらず、仕事の延長を依頼されたから。
そしてもう一つは、新たに旅に加わることになったジルド・レイドの護衛の仕事が、もう一ヶ月分残っていたからである。
ジルドが一緒に旅をしたいと申し出たとき、イストとニーナは少なからず驚いた。二人の師弟は流れとはいえ魔道具職人であり、腕っ節で渡り歩いてきたはずのジルドとは仕事が畑違いである。イストとニーナからしてみれば護衛として心強い存在ではあるが、ジルドのほうには理由が無いのではなかろうか。
「一緒にいなければ、驚かせることはできまい?」
確かにそんな約束をした。「光崩しの魔剣」をジルドに贈った際、「その魔剣を使ってオレを心の底から驚かせてくれ」とイストが条件を出したのだ。
とはいえこの条件、もとはと言えばジルドが魔剣を無料で受け取るとこを渋ったから出したのであって、イストとしては軽く考えていた。しかしジルドのほうはそうではないらしく、律儀にも条件をクリアするまでは一緒に旅をすると決めているらしい。
「おっさんも律儀というか固いというか」
もとよりイストに断る理由はない。武人らしいその考え方に少し呆れながらも、イストは彼の申し出を了解した。
「師匠もジルドさんを見習ったほうがいいと思います」
そうすればもう少しまともな人間になれるはずですから、とニーナは真顔でそういった。彼女としてもジルドの同行は歓迎すべきことだ。彼女は師匠であるイストがジルドから精神的感化を受け、真人間になることをわりと真面目に期待していた。逆にジルドがイストから影響を受ける可能性もあるのだが、どうやらそちらには気づいていないらしい。
ちなみにイストがアバサ・ロットであることは、三人で旅をするようになって少ししてからジルドに教えた。旅の中で魔道具を作るには「狭間の庵」にある設備を使わなければならない。旅の同行者を仲間はずれにしては、満足に本業が行えないのだ。
アバサ・ロットというのはもはや伝説と化している魔道具職人の名前だが、そんなビックネームを聞いてもジルドはさほど驚かなかった。
「あれだけの魔剣を作れる職人が、無名であるよりは説得力がある」
照れくさかったのか、イストは煙管型禁煙用魔道具「無煙」を吹かし、肩をすくめただけで何も言わなかった。
ハーシェルド地下遺跡はジェノダイトと神聖四国の一つサンタ・ローゼンの国境近く、トロテイア山地の巡礼道を少し外れたところにある。発掘作業の手伝いという依頼を終えた三人は、報酬をもらうとそのまま巡礼道を通ってサンタ・ローゼンに入り、国境線に沿うようにして北西に進路をとった。
地理的にほぼ大陸の真ん中に位置し、そのためか歴史の中にあって主役となることが多い神聖四国であるが、それでも辺境部は政治的な喧騒からは程遠く、のどかな雰囲気が漂っている。しかしこのごろは物騒な単語を良く耳にする。「十字軍」とか「遠征」とかいう単語である。
神聖四国とその周辺諸国が兵を出し合って十字軍を組織しアルテンシア半島へ遠征するという話は、その始まりにおいてからさえ機密でもなんでもなく、かなり早い段階から噂という形で一般に広がっていた。それがどうやら、いよいよ本格的に動き出すらしい。集まった兵の数は三十万規模で、遠征の開始を今か今かと待ちわびているという。
遠征の開始が少しばかりまごついている理由は、十字軍に対して神子の祝福を与えるかどうかで、枢密院が意見の調整に手間取っているからだという。神子の祝福が十字軍に与えられれば、遠征に参加する兵士たちの士気は大いに上がるだろう。しかしその一方で祝福が与えられてしまうと、遠征の中で行われるであろう略奪や暴行にまで、いわば「お墨付き」が与えられてしまうことになる。また万が一にも十字軍が敗北した場合、それは「神子が祝福した軍が負けた」という汚点を教会に残すことになる。
とはいえ、「祝福は与えられるだろう」というのが大方の予想だ。勝てば官軍。勝ってしまえば略奪や暴行の事実などいくらでも揉み消せる。何も問題はない。負けるつもりで遠征を行う愚か者がどこにいるというのか。
「神子も信仰も、全ては戦争の道具というわけだ」
煙管型魔道具「無煙」を吹かし白い煙(水蒸気らしいが)を吐き出しながら、皮肉をこめてイストはそう評して見せたのだった。もっともそんなふうに気楽に批評していられるのも、彼らが傍観者だからだろう。十字軍も遠征も彼らにしてみれば他人事でしかなく、関わる予定もつもりもない。
目下、彼らの目的地は「プーリアの村」である。
プーリアはサンタ・ローゼンの辺境部に位置するのどかな村である。この村ではオリーブの栽培が盛んで、そこから得られるオリーブオイルを求め多くの商人たちがこの村を訪れる。そのためか、村の規模からは不釣合いな宿泊設備を持っていた。
季節は収穫期のはじめごろ。オリーブの実は手摘みで収穫するため村にとっては忙しくなってくる時期だが、油を求めて買い付けにやってくる商人たちの姿はまだ少ない。今はまだ個人の行商人が中心のようだ。
とはいえイストたちの、いや、イストの目的はオリーブオイルではない。プーリアの村の近くの小高い山には古い寺院を利用した孤児院があったのだが、十年ほど前に盗賊に襲撃されて以来、廃墟となっていという。いうまでもなくイストがオーヴァと出会う前にお世話になっていた孤児院の跡であり、そここそイストがこの村を訪れた理由であった。
宿泊施設の大部屋(個室などという設備はないらしい)はまだスカスカで、なんとなく居心地の悪さを感じさせる。端っこの壁際に荷物をまとめ道具袋からクッションを取り出し、とりあえずの場所を確保するとようやく人心地ついた。
「夜には帰ると思うから」
それだけ言うとイストは「無煙」を吹かしながら、さっさと外に出て行ってしまった。クッションの上に座り込み、少し前に買い込んだクッキーをパクついていたニーナは少しばかり呆けた様子でその背中を見送った。
「………この村って、なにかめぼしいものありましたっけ?」
プーリアは本当にただの“村”だ。オリーブという特産品はあるが、それ以外で目立ったものは何もない。師匠であるイストが何を目的として外に出たのか、ニーナとしては見当がつかなかった。しかも夜までだと、時間的にも結構長い。
もちろんイストはお世話になっていた孤児院の跡へと向かったのだが、彼は詳しい事情をニーナとジルドにはまだ教えていなかった。
「さてな。ワシらにはなくともイストにはあるのかもしれん」
そういいながらジルドはティーセットを取り出し、お茶の用意をしていく。こういう時、火を使わない「マグマ石」は便利だ。
それもそうか、とニーナは納得した。もとよりイストがどこで何をしようとも彼女がやることは変わらない。ニーナは今まとめている資料を取り出し、読み漁っていく。
ハーシェルド地下遺跡の発掘作業を手伝う傍らにレポートをまとめていた「光彩の指輪」は、いまは彼女の指で輝いている。この魔道具は理論的な部分は比較的早くまとまったのだが、刻印を施した合成石をはめ込む指輪の台座(つまり魔道具の性能にはまったく関係のない部分)を作るのに手間取ってしまった。ただ、手がかかったせいか、なかなかお気に入りである。
(でもまあ、これで満足してるわけにはいかないし………)
ニーナの夢は立派な魔道具職人になって実家の工房「ドワーフの穴倉」を継ぐことだ。その夢のためには、たった一つの魔道具で満足しているわけにはいかないのだ。
ジルドが入れてくれた紅茶を受け取り、手に持った資料に目を走らせていく。何日ここに滞在するか分らないが、まとまった時間が取れるのならそろそろレポートを書き始めたい。
「ジルドさん………」
「ん?どうした」
「クッキー、それ以上食べられるとわたしの分が………」
「む………」
勉強には糖分が必要なのだ。
**********
道は随分と荒れていた。プーリアの村の近くにある小高い山、その山を少し登ったところにある廃墟がまだ寺院として利用されていた頃の名残らしい石畳は、あちらこちらにヒビが入り割れている。踏みつけるとぐらつくようなものもあり、石畳の上を行こうとすると、かえって歩きにくいくらいだった。
さっきまで吸っていた煙管型禁煙用魔道具「無煙」はカートリッジが切れてしまったため、今は道具袋の中にしまってある。そのせいか口元が少し寂しい。まあ、カートリッジを交換すればいいだけなのだが。
「十年………。近づく人もいなければ当然か………」
意外と冷静だ。イストは自分の状態を慮り、そう判断を下した。あの赤い悪夢を見るたびに酒に頼っているような有様だったから、現地を訪れれば涙の一つでも流すのかと思っていたが、今のところそういう感情がわきあがってくる様子はない。
「昼間だから、か………?」
この場所で最も強烈に焼きついている場面は、言うまでもなくあの晩のこと、盗賊に襲われたあの日の夜のことだ。夜の暗闇と轟々と燃え盛る炎は脳裏に焼きつき離れないが、そのせいかまだ日の高いこの時分、ここは同じ場所なのにどこか別の場所のようにさえ思えた。
歩きにくい石畳の上を歩いていく。しばらくすると、焼け落ちた廃墟が見えてきた。焼け落ちたとはいえ、まだ建物の様相は残っている。その姿を見て、そういえば石造りだったな、とイストは思った。
視線を正面に戻すと、一人の人物が視界に入った。
後姿だが女性だと分る。蜂蜜色の髪の毛を伸ばした彼女は、焼け落ちた廃墟の前で跪き祈りを捧げているようだ。
(さてどちら様だ………?)
生憎と心当たりはない。場所が場所だけに孤児院の関係者かその辺りだろうと見当は付けたが、その関係者はあの夜の襲撃であらかた死んだはずである。
まあ誰でもいいか、とそこで思いイストはそこで詮索をやめた。跪いている女性の隣に、ひと一人取り分くらいのスペースを開けて立つ。
「墓………?」
土を盛り、その上に石を二つ乗せただけの簡単なものだが、これはお墓だろう。蜂蜜色の髪をした女性は、このお墓に祈りを捧げているらしい。見れば花も手向けてある。彼女が供えたのだろう。
「プーリアの村の人たちが作ってくれたようです。十年前、ここで盗賊に殺された子どもたちのために」
祈りを捧げていた女性が立ち上がり、そう説明してくれた。どうやら兄弟たちの屍は葬ってもらえたらしい。そのことは素直に良かったと思えた。
イストは道具袋から「魔法瓶」を取り出し、中の琥珀色の液体をそのお墓に注ぐ。辺りには芳醇な香りがたちこめた。本来であれば隣の女性のように花でも手向けるのが良いのだろうが、生憎と性に合わなかった。
しばしの間、目を閉じ黙祷を捧げる。これで悪夢を含めたその他諸々の問題が解決するなどと期待しているはではないが、それでも一つの区切りにはなるだろう。いや、区切りにするためにここに来たのだ。
閉じていた目を開ける。当然のことだが、何も変わってなどいない。馬鹿なことしているなぁ、と思ったが、そう気楽に考えていられる自分に少し安心したりもする。
「失礼ですが、こことはどういった関係でしょうか」
目を開けたことで内向きの用件は終わったと判断したらしく、隣の女性が話しかけてきた。
女性の顔立ちは整っているといえるだろう。蜂蜜色の髪の毛に青い瞳の目は良く映えている。だが容姿以上に目を引くのは、右の目を隠すように伸ばされた髪の毛だった。眼帯でもしているのか、髪の毛の下から黒い帯が伸びている。
「十年前の生き残りだ」
あの時は死体を見るのが怖くて逃げ出しちまったからようやく墓参りが出来た、とイストは少し茶化すように、しかし間違いなく自嘲気味にそういった。
「十年前の………!?あの、お名前は………?」
「イストだ」
イストは名前だけを名乗り、姓は名乗らなかった。孤児院にいた子どもたちには姓がなかったからだ。孤児院を巣立つ日に姓名を贈っていたらしい。
「イスト!?本当にイストなの!?」
女性はそれまでのポーカーフェイスを崩して満面の笑みを浮かべる。その変わり身の速さにイストは少し苦笑をもらす。
「わたし、オリヴィアよ」
覚えてる?とオリヴィアと名乗った女性は心配そうな表情をしてイストを覗き込んだ。イストが十年前の記憶を引っ張り出すと、その名前はすぐに出てきた。
「ああ、覚えてる。蝶々の腕輪を持っていた………」
そう言うとオリヴィアは嬉しそうに笑顔を浮かべ手を叩いた。そして右腕を掲げて、蝶があしらわれている腕輪を見せる。
「昔はデカくてはめられなかったのにな」
「十年よ。子どもが大人になるには十分な時間だと思わない?」
まったくその通りだと、イストは思った。十年経てば子どもは大人になる。少なくとも体だけは。赤い悪夢を見る度に酒で紛らわしている自分は、果たして大人になれているのだろうか。
一つの区切りをつけようとしてここに来た。この思いがけない再会は、きっとその“区切り”を思いがけない形にしてしまうのだろう。その予感は、小さな痛みを伴った。
******************
「じゃあ、イストはそのお師匠さんに助けられて………」
「ああ、そのまま弟子入りした」
イストとオリヴィアは、盗賊に襲撃されたあの日から今日までのことを、それぞれ簡単に報告しあっていた。
「じゃあ、『ヴァーレ』の姓はお師匠さんの?」
「いや、師匠の姓は『ベルセリウス』だ。名前はオーヴァ・ベルセリウス」
とはいえ「ヴァーレ」の姓名をイストに与えたのはオーヴァである。つまりオーヴァは自分の姓名を弟子に与えなかったわけだが、後にその理由を人から尋ねられたとき、彼はこう答えたという。
「そんな気色悪い」
それでイストが深い心の傷を負ったかといえば、そんなことは全然ない。むしろ当然だと言わんばかりにこう言い返したという。
「クソジジイと同じ姓名なんてゾッとするね。それじゃあオレまで変人みたいじゃないか」
ニーナがその場にいれば「師匠は十分変人です!」力一杯宣言してくれただろうが、生憎とこの時二人はまだ出会っていなかった。
「………仲がいいのね、二人とも」
オリヴィアは呆れたように苦笑する。イストは肩をすくめ、「それはそうと」といって少々強引に話題をそらした。
「そっちはどうだったんだ?」
「わたしの方も似たようなものよ」
強引に話をそらしたことには何も触れず、オリヴィアは自分のことを話し始めた。
盗賊に襲われたあの日の晩、オリヴィアはイストと同じように逃げ延びた。そして、当時個人の行商人だったオルギン・ノームに助けられ、その後彼の養女となった。オルギンは今現在商人としてそこそこ成功したが、自分の店を持つことはまだせず行商のキャラバン隊を率いているという。
「じゃあ、プーリアにはオリーブオイルを仕入れに?」
「ええ、そうよ」
なんでも収穫期のはじめごろはそもそも油の生産量がまだ少ないので、大きな商会は仕入れを始めておらず比較的簡単に仕入れが出来る穴場の時期なのだという。
「まあ、仕入れる量が違うせいもあるんだけどね」
キャラバン隊を組んでいるとはいえ、行商人と商会では商いの規模に雲泥の差がある。行商人の軽いフットワークが今回は幸いしたといえるだろう。
「じゃあ、オリヴィアも村の宿泊施設を使っているのか」
「いいえ、わたしたちのキャラバンは村の外れにいるわ」
オリーブオイルを仕入れるかたわら、露店も開いているらしい。村の中では露店を開くスペースが取れなかったため、村の外れにキャンプを張ったようだ。
「良かったら見に来て」
そういって露店の宣伝をするオリヴィアの顔は間違いなく商人のそれで、彼女のこの十年を少しだけだが垣間見せていた。
「それで、右目はどうかしたのか」
そういった瞬間、オリヴィアは目を見開いて言葉を詰まらせた。数瞬の沈黙の後、苦い笑みを浮かべて頭を振った。
「ひどい人ね。聞かれたくない、触れられたくないと分っているのに、見てみぬ振りをしない」
「いつ聞かれるのかと、怯えつづけるよりはいいだろう?」
イストがそう言うと、オリヴィアは諦めたようにため息をついた。そして右目を隠している髪の毛を手でどけて、その下の肌をさらした。
「あの夜、逃げるときに、ちょっとね」
オリヴィアの顔の、右目とその周りには火傷のあとが残っていた。黒い大きい眼帯をして隠してはいるが、隠し切れない火傷のあとが眼帯の下からのぞいている。恐らくだが、右目の眼球も失っているだろう。
「まあ、火傷をするような所にいたから逃げ切れた、て部分もあるんだけどね」
髪の毛をどけていた手をおろし、火傷のあとを隠す。それからオリヴィアは、視線をそらすように俯いた。
「………醜い、と思う………?」
しぼり出すような、聞きたくないけれど聞かずにはいられないような、そんな声だった。視線を合わせたくないのか、あるいは顔を見られたくないのか、オリヴィアは俯いたままだ。
「外面の美醜にそれほど興味はないさ」
考え込む一瞬の間を惜しんで、イストはそういった。
「………少しは、あるんだ?」
「そこは否定しない」
「否定してよ。ひどい人ね」
呆れたように苦笑しながら、オリヴィアは顔を上げた。左目の端に溜まっている涙は、見てみぬ振りをすべきなのだろう。
「でもまあ、疲れないかとは思う」
「………疲れる?」
意味が良く分らなかったのか、オリヴィアは小首をかしげる。その様子キョトンとしたがやけに幼くて、イストは笑いを堪えるのに少しばかりの努力を要した。
「隠したら隠し続けなきゃだろ?疲れないか?」
「………疲れるわ………」
オリヴィアは顔をそむけて目を伏せた。しかし俯きはしなかった。
「でもそれ以上に怖いのよ」
この火傷を見た人の反応が怖い。向けられる視線が怖い。そしてなにより自分の顔を見るときが一番怖い。視線を逸らし何かにおびえるように、オリヴィアはそう言った。
イストはただ「そっか」とだけ呟き、それ以上は何も言わなかった。それ以上言うべき言葉は持ち合わせていなかったし、また言うべきではないと思ったのだ。これはオリヴィアの問題であり、ついさっき再会したばかりの人間が軽々しく何か言うべきではないだろう。まして薄っぺらな慰めの言葉で解決できるような問題とも思えない。
「………イストは、なにかある?」
「今でもあの夜の悪夢を見る。見たあとは二度寝もできないから、朝が来るまで酒を飲んで誤魔化してる」
オリヴィアもまた「そう」とだけ呟き、それ以上は何も言わなかった。会話が途切れ、風が木の葉を揺らす音だけが耳に届く。
ふと、思う。
心の傷と体の傷は、どちらが重いのだろうか。
イストが見る悪夢は、心の傷に分類されるだろう。オリヴィアの火傷は言うまでもなく体の傷だ。同じ夜に負ったこの二つに傷は、さてどちらが重いのだろう。
(体の傷に決まってる………)
オリヴィアは女性で、しかもその傷があるのは顔だ。あの火傷が原因で、心にまで傷を負っているのは想像に難くない。
なら、より重症なのは間違いなくオリヴィアのほうだ。
ここまで考えて、ふと自分の思考に疑問がわく。
(なんでこんなこと考えるのかねぇ………)
傷の程度など、比べてもしょうがないというのに。自分のほうが軽傷なんだから頑張らなくちゃ、とか自分より重傷でかわいそう、とかそんなふうに考えたいのだろうか。そんなふうにして自分を慰めたいのだろうか。
(ゾッとするね)
本当にゾッとする。虫唾が走る、というやつだ。人が苦しんでいる傷の大小を比べて喜ぶだの不幸自慢をするだの、それは本当に下種な考え方だ。そんな思考はさっさと放棄するに限る。
「ところで、イストがプーリアに来たのはお墓参りだけが目的?」
イストの脳内葛藤が一段落着いた頃、見計らったわけではないだろうがオリヴィアが話しかけてきた。見た限りの様子は、平静に戻っている。
「ああ、オレは別に行商をしているわけじゃないからな」
今年の生産が始まったオリーブオイルを求めてプーリアの村に来たわけではない。孤児院の跡、つまりここに足を運んでいろいろと区切りをつけることだけが目的だった。油を買うにしても、個人で使う分量だけだろう。
「じゃあ今後の予定は?どこに行くとか、もう決めてあるの?」
「いや、特に何も」
強いて言えばさらに西に行こうかと思っているが、明日になれば気分が変わっているかもしれない。また頭の別の部分では、大きな商会の仕入れが始まって騒がしくなるまで、この村にいるのもいいかもしれないなどとも思っている。
つまりまったくの白紙状態、無計画な有様である。
「だったら、ウチのキャラバン隊の護衛をしない?」
魔導士ライセンスはもってるんでしょ?とオリヴィアはイストの顔を覗き込んだ。
聞くところによると、彼女らのキャラバン隊はこれから北西に進路をとるらしいのだが、北西の方角に進めばその先にあるのはアルテンシア半島である。これから十字軍遠征によって戦場になる半島に首を突っ込む気はさらさらないが、それにしても遠征の思わぬ影響でキャラバン隊に物騒な来客があるかもしれない。そこでできれば護衛を雇いたいと、オリヴィアの養父オルギンは考えているらしい。
「進路を東に修正すればいいだけじゃないのか?」
「混乱の中にこそ商機はあるものよ」
大切なのはどこまで大丈夫なのかを見極めることよ、とオリヴィアは商人の顔で力説した。アバサ・ロットとして似たようなことを考えることもあるイストは、特に反論もできず肩をすくめるしかない。
「………それに、せっかく十年ぶりに再会したのにここでお別れなんて、寂しいわ」
オリヴィアの目が少し潤む。
「………考えとくよ」
肩をすくめたイストがそういうと、オリヴィアは「そう、ありがとう」言って、と断られる可能性をまったく考えていない笑顔を向けた。
「わたしはそろそろ行くけど、イストはどうするの?」
「もう少し黄昏ていく」
「………似合わないわよ?」
「知ってるよ」
後でキャラバン隊に顔を出してね、と言ってからオリヴィアは孤児院の焼け跡をあとにした。それを見送ってから、イストは「無煙」を取り出し、雁首を取り外してカートリッジを交換してから口にくわえた。
フウ、と白い煙(水蒸気らしいが)を吐き出す。
「それで?何のようだ?」
誰にともなく、独り言のようにイストは呟いた。しかし反応があった。ガサガサと茂みゆれ、そこから出てきたのは………。
「我に気づいていたとは流石だにゃ。なんで分ったのかにゃ?」
「………お、おお、おおお」
「どうかしたかにゃ?」
「その渋い声と猫語尾のギャップが………」
「………猫が喋ったことに関しては驚いていないんだにゃ………」
茂みを揺らして、その奥から現れたのは一匹の黒猫であった。全身の毛は黒だが、瞳の色は青だった。
「どうせ魔道具か何かだろう?その程度のことでいちいち驚いていられるか」
イストが「無煙」を吹かしながらそういうと、黒猫は「フム」と頷いてからチョコンと座り込んだ。前足で顔を洗うその仕草は、どこからどう見ても本物の猫だ。
「で、話を戻すがなんで我に気づいたにゃ?」
「そりゃ、あれだけ魔力を放出してればイヤでも気づくさ」
オリヴィアに名前を名乗った辺りから濃い魔力を感じてはいた。ただ、何もする気がなさそうだったので放って置いたのだが、まさかこんな珍客がいたとは。
「フム。当代のアバサ・ロットもなかなかやるようだにゃ」
「へえ、オレがアバサ・ロットだって知ってるのか」
イストの目がスッと細くなり、警戒を示した。だが相変わらず「無煙」を吹かしているその口元には、面白がるような笑みが浮かんでいる。
「簡単な話しだにゃ。その腕輪『狭間の庵』を持っていれば、だいたいの想像は付くにゃ」
「コイツのことまで知ってるのか。とすると黒猫さんを作ったのは、歴代の誰かってことか?」
イストが右腕につけた腕輪、「狭間の庵」を擦る。顔を洗い終わったのか、黒猫は前足をそろえてきちんと座った。その背中の後ろで、黒いシッポがゆらゆらと揺れている。
「改めて自己紹介をしておくにゃ。我の名はヴァイス。アバサ・ロットの名を継いだ魔道具職人、セシリアナ・ロックウェルの作り上げし魔道人形だにゃ」
セシリアナ・ロックウェル。その名前は「狭間の庵」の二階に保管されている資料の中で見たことがある。たしか二〇〇年ほど昔の人物だったはずだ。しかし黒猫に「白(ヴァイス)」と名付け、あの渋い声と可愛らしい猫語尾のギャップである。どうやら彼女もアバサ・ロットの名にふさわしく性格のねじくれた変人だったようだ。
「ご丁寧にどーも。で、オレに何の用だ?」
「………オリヴィアを、なんとかして欲しいんだにゃ」
ヴァイスと名乗った黒猫、もとい魔道人形は単刀直入にそういった。物事を婉曲的に伝える頭脳が無いのかもしれないが。
「なんでオリヴィアが出てくるんだ?」
「あの子が今のマスターだにゃ。マスターのために何か出来ることがあれば、したいと思うのが魔道人形の性にゃ」
魔道人形に嘘をつかせることができるのかという技術的な問題はさておくとしても、イストはヴァイスの言葉から嘘は感じなかった。しかしイストが聞きたいのはそういうことではないのだ。
「じゃあ、なんでオリヴィアをマスターに選んだんだ?」
「………あの子は、セシリーに似ているにゃ」
セシリー、というのはセシリアナ・ロックウェルの愛称だろう。「似ている」と呟いた黒猫の目は今この時間ではない、別のどこかを見ている。
(寂しかった………とか?)
ヴァイスの製作者であるセシリアナ・ロックウェルがアバサ・ロットとして活動していたのは、保管されている資料の記された年号から計算して、およそ二〇〇年前である。この黒猫がいつ彼女の手から離れて行動をするようになったかは分らないが、それでも一五〇年以上は確実に経っているはずである。
その間にヴァイスが何人のマスターを持ったのか、イストにそれを知る術はない。しかしその時間の中で、あるいは製作者でありまた最初のマスターであったはずのセシリアナを懐かしく思ったのではないか。
目の前の黒猫さんは否定するかもしれない。だがイストは魔道具職人としてそう思いたがっている自分がいることを自覚した。
「『なんとかして欲しい』っていうのは顔の火傷のことか?」
心のうちの想像はひとまず脇においておくとして、イストは話を進めることにした。オリヴィアのことで「なんとかして欲しい」というのであれば、顔の傷以外には見当がつかない。
「隠すことはできても、治すことはできないぞ」
イストは魔道具職人である。火傷の傷跡を隠して気づかせないようにする、綺麗な素肌のように見せかける魔道具なら作れるだろう。しかし火傷を治療し、隠す必要そのものをなくすことはできない。それは医者の領分だ。
「で、隠すだけなら今と同じだ。意味が無いとは言わないが、『なんとかした』ってことにはならないんじゃないのか?」
どれだけ精巧に隠してみても、それは決して治ったわけではない。隠したからには隠し続けなければならず、そしてオリヴィアは怯え続けるだろう。「醜い素顔が露になりはしないだろうか」と。
「ヒトの心の機微は我には分らないにゃ………。でもあの子は時々とても辛そうな顔をするんだにゃ」
そんな顔は見たくないにゃ、とヴァイスは言った。
(それはとてもヒトらしい心の機微だと思うがね………)
堪え切れなかった微笑を、イストは「無煙」を吸う事で誤魔化した。
「まあいい。やるだけやってみるさ」
「恩に着るにゃ」
そういって黒猫の魔道人形は頭を下げた。そういう仕草はどうにも人間臭い。
「しっかし、良くできてるな」
それはイストにとって魔道具職人としての最大級の賛辞だった。今の時代、イストは間違いなく最高レベルの魔道具職人である。そのイストの目から見ても、セシリアナの技術はすさまじいものがある。
「『持てる全ての技術を詰め込んだ』。セシリーはそう言っていたにゃ」
「じゃあ彼女の最高傑作だったわけだ」
「我もそう言ったことがあるにゃ。そうしたら………」
そうしたら、セシリアナはこう言ったという。
『勝手自由に動き回って、あまつさえ口ごたえまでする。そんなのが最高傑作のわけがないでしょ。失敗作もいいところだわ』
その、あまりにも“アバサ・ロット的”な物言いにイストは思わず噴き出した。脈々と続く変人の系譜、その一端を見た気がする。
「失敗作が勝手気ままに出歩いているのはいいのか?」
「それも聞いたことがあるにゃ」
黒猫さんによればその時セシリアナは片目をつぶり、実に楽しそうにこう言ったという。
『厳重に猫被せといたから大丈夫よ』