ベニアム・エルドゥナス率いるカレナリア軍左翼を撃破したアルジャーク軍は、次にその矛先を街道上に陣取る本陣へと向けた。カレナリア軍の主将イグナーツ・プラダニトが率いる本陣の数は十二万。それに対しクロノワ率いるアルジャーク軍は、緒戦での戦死者や負傷者を除いてもまだ二一万を越える兵力を温存している。加えてクロノワは左翼の陣からカレナリア軍の配置図を入手していた。
イグナーツは右翼との合流を急いでいたが、後方から兵糧が送られてくる関係上動くに動けない。右翼に伝令を出して、本陣の位置で合流するしかなかった。
だが結局は間に合わなかった。
右翼と合流する前にアルジャーク軍に強襲されたカレナリア軍本陣は、数で押され崩壊した。さらには本陣と合流するために近づいてきていた右翼もまた、立て続けに襲われ壊滅。こうしてアルジャーク軍は理想的な各個撃破を実現し、カレナリア軍二五万は消えてなくなったのであった。
「今回の戦いに勝因などありませんよ。ただ敗因があるだけです」
クロノワの策略を賞賛する人々に、彼はそうそっけなく答えた。カレナリア軍の敗北で致命的だったのは、イグナーツがせっかく集めた戦力を分散させたことだ。実際アルジャーク軍は軍事的になんら突飛なことをしたわけではなく、その失策に最大限付け込んだだけである。
イグナーツが戦力を分散させたのは、先行してくるであろうアルジャーク軍の騎兵隊を気にしたからである。いや、策略家としてのクロノワの影を気にした、といったほうがいいかもしれない。
気にさせる、その種をまいたのはクロノワかもしれないが、それを己のうちで肥大化させていったのはイグナーツである。となればやはり彼の「深読みのしすぎ」こそがカレナリア軍の敗因であり、アルジャーク軍はその敗因を最大限利用したにすぎない。
まさしく、「敗因なくして勝因なし」である。
討ち取られたカレナリア軍主将イグナーツ・プラダニトは、劣勢の中でも良く戦っていた。兵を鼓舞してまとめ上げ、戦場の流れを見極めてよく戦った。局地戦とはいえ有利に立つ場面もあり、アールヴェルツェをはじめとするアルジャーク軍の将官たちを唸らせていた。
「優秀な将というのは、敵にもいるものなのだな」
戦いの後の食事時、イトラと雑談していたレイシェルは、ふとそんなことを呟いた。彼らにとって優秀な将というのは、アルジャークの至宝アレクセイ・ガンドールをはじめとする先達たちがまずそれに当たる。しかし身内に優秀なものが多くいると、それ以外が馬鹿に見えてくることがある。まるで敵には戦術も戦略も、なにも考えていないように思えてしまうのだ。
だがそれは敵を侮っているだけであり、敵には敵の戦術があり戦略があり思惑があるのだ。若い二人は致命傷を負う前にそのことに気がついたのであった。
しかしイグナーツがどれだけ頑張ろうとも全ては延命に過ぎぬ。むしろ彼が有能であったからこそ、延命に延命を繰り返すことができ、多くの兵士の命が失われることになった。結果論とはいえそう書くことができるのは、戦場の皮肉かもしれない。
戦場で倒れたイグナーツは全身傷だらけであり、どれが致命傷か分らない有様であった。胴体から切り離した彼の首はカレナリア国王の下に届けられ、体はカレナリアの国旗に包まれて丁重に葬られたのであった。
イグナーツ率いるカレナリア軍を完全に撃破したアルジャーク軍は、そこで二手に分かれた。クロノワはレイシェルに一軍を与えると、港や海軍拠点の制圧を命じたのだ。いうまでもなく、海路で補給物資を運んだ際の玄関口にするためである。もっともこちらは大した抵抗に遭うこともなく、じつに簡単に終わった。イグナーツは使える戦力をすべてかき集めて決戦に臨んでおり、逆に言えばそれ以外にまともな戦力は残っていなかったのである。
制圧した港や海軍拠点をレイシェルは大過なく収めた。無用な流血を避け、また部下には暴行と略奪を硬く禁じ、民衆の敵愾心と恐怖を鎮める。その一方で妨害行為や混乱に乗じた犯罪などには、断固とした態度で臨んだ。
彼は住民を必要以上に萎縮させることなく、また経済を停滞させることなく、補給の玄関口を整えていった。補給部隊を指揮しているグレイス・キーアやヴェンツブルグの執政官オルドナス・バスティエとの連携も見事で、この先アルジャーク軍がカレナリア国内で補給に窮することはまずないであろう。
拠点を制圧したカレナリア海軍については、ひとまず全ての乗員を陸に挙げ武装を解除させた。仕官以上の者については拘束したが、それ以外の兵士たちは名前を登録した上で開放した。海軍はクロノワが直々に再編するということをレイシェルも知っており、これ以上は自分の分ではないと判断したのだ。
「流石はレイシェルだ。俺には真似できぬ」
後にレイシェルの処置について聞き及んだイトラはそう言って友人を賞賛した。無論、彼の手腕はクロノワにとっても満足のいくものであった。
「海岸部はレイシェルに任せるとして、私たちはゆっくりと行きましょう」
兵糧も十分にあることですし、とクロノワは笑った。イグナーツが後方部隊から受け取った補給物資は、今やすべてアルジャーク軍の手中に収まっている。カレナリアの血税を丸ごと横取りした形になるが、捨て置いて腐らせてしまうよりはよほどいい。
クロノワ率いる本隊は街道上をカレナリア王都ベネティアナに向けてゆっくりと行軍した。これは示威行動であると同時に、送られてきたイグナーツの首を見たカレナリア政府から、なんらかの接触があるのでは思ったからだ。
無論、なにも動きがなくてもかまわない。アルジャーク軍が王都ベネティアナに到着してしまえば彼らは嫌でも動かざるを得ず、その時対応がまとまらず混乱していれば、恐慌状態のまま降伏へと傾いていくだろう。
なによりも、もはやカレナリアにまともな戦力は存在しない。南のテムサニスとの国境付近には、国境防衛のための砦である「ルトリア砦」がありそこにはある程度の兵が詰めていると思われるが、それを動かすとも思えない。動かしてしまえば南の国境ががら空きになるし、なによりも戦力の差がありすぎる。砦の戦力をおよそ一万と見積もっても彼我の戦力差はおよそ二十倍以上で、戦わせるだけ金と命の無駄である。
そんなことはカレナリア政府も重々承知しているはずで、つまり王都ベネティアナに向かうまでの間に野戦を仕掛けられることはまずないといっていい。ならば悠然と構えて歩を進めればよい。
**********
結局、カレナリア国王エルネタード・カレナリアは降伏を選択した。
実際それ以外に選択肢などないだろう。カレナリア国内にアルジャーク軍に対抗できるだけの戦力はもはや存在しないのだ。ならば敵軍と事を構えるためにはよその国の軍をアテに知るしかない。
南のテムサニスか西のオルレアンか。だが今更助けを求めたところで時間的に間に合わないであろう。となれば国を捨て亡命するしかない。
しかしどちらに助けを求めたとしても、アルジャークに抗することができるとは思えない。アルジャーク帝国の版図は去年の大併合によって二二〇州となり、そしてこの度カレナリアを併合すればその版図は二八三州となる。テムサニスにしろオルレアンにしろ一国で対抗するのはまず不可能である。
さらに言えば亡命を受け入れた国は、それを理由にアルジャークから侵攻を受けるだろう。あまりにリスクが高く、そもそも亡命を受け入れてもらえない可能性のほうが高い。国境を越えた途端に捕縛され、そのままアルジャーク軍に引き渡されたとあってはいい笑い者である。
であるならば他者に運命を預けることなく、王者の誇りを保持して降伏を選んだほうが体面は良い。幸いなことにアルジャーク軍の総司令官はクロノワ・アルジャークである。彼はモントルム遠征の際に、降伏した王族を処刑することはなかった。降伏しても命が残るのであれば、それは最上の選択ではないだろうか。
降伏を伝える使者が陣に到着したのは、アルジャーク軍が王都ベネティアナにあと一日程度のところまで迫ったときのことであった。カレナリア政府内でどのような駆け引きと水掛け論がなされ、何人が胃の痛い思いをしたのかなどクロノワの知ったことではないが、とにもかくにも王都への攻撃布陣を整える前に相手が降伏してくれたことにクロノワは胸をなで下ろした。
(まあ降伏勧告はするつもりでしたが………)
純粋な軍事拠点への攻撃ならば否やはないが、人々が生活している都市への攻撃はクロノワの気分を重くさせる。率いているのが大軍である以上、どれだけ徹底しても戦場となる都市で略奪や婦女子への暴行が行われるのは目に見えており、それでは住民との間に軋轢が生じ占領後の統治に支障が出てしまう。
いや、そんな頭でっかちな理由はどうでも良いのだ。ごくごく単純な感情的問題として、クロノワは略奪や暴行といった戦場での行為が大嫌いで、それを収めることができないであろう自分の無能さに腹が立って仕方がないのだ。
軍規を犯した者を処刑し粛然とさせてみても、それはどこか自分の無能を棚上げした八つ当たりじみていて、さらにクロノワの気を重くさせた。
余談になるが、純軍事的な観点から考えると略奪や暴行を禁じることに大したメリットはない。そういった行為を黙認していれば兵士たちの士気は自然と上がるし、傭兵を雇う際に大金を用意する必要がない。
「戦って勝手に奪え」
と、つまりはそういうことだ。だから歴史的に見て、略奪や暴行を完全に禁じていた軍というのは少数である。
しかし今回はエルネタードが早期に降伏を決意したため、王都ベネティアナが戦場になることはなかった。双方にとって幸運な事と言えるだろう。すでにエルネタードの名で勅命が発せられているのか、王都内に混乱は見られなかった。ただ住民の多くは都市の中を往くアルジャーク軍に不安そうな眼差しを向けている。侵略者を歓迎できるわけもなく、こればかりは仕方がないだろう。
王都ベネティアナの王城に入ったクロノワの意識は、すでに次のテムサニスへの遠征に向いていた。占領したカレナリアの統治については、事前の予定通り連れてきた文官たちに任せればよい。略奪と暴行の禁止については、重ねて厳命していたが。
やっておかなければならない幾つかの大きな仕事を片付けると、クロノワは王城の地下にある「共鳴の水鏡」のある部屋へと向かった。
「お待たせいたしました、クロノワ殿下」
「いえ、お気になさらずに」
通信の相手はカレナリアの南の国境を守るルトリア砦の指揮官、ロフマニス・コルドムである。
「私がこの場にいることから分ると思いますが、エルネタード陛下は降伏を選択されました」
「承知しております。すでに話だけは聞いておりますので」
ロフマニスの態度は堂々としていた。敗戦国の将であることに引け目を感じている様子はなく、その立ち振る舞いは自然で目には力があった。
「正式な勅書が届き次第、カレナリアの国旗を降ろし、門を開けるつもりです」
その言葉からは己の職責に忠実であろうとするロフマニスの気位が窺えた。
「ロフマニス殿、カレナリアの国旗はまだ降ろさないでいただきたい」
クロノワはごく自然にそういった。しかし言われたロフマニスは明らかに動揺を見せた。
「それは………、どういう、意味でしょうか………」
カレナリアの国旗を降ろさないということは、アルジャーク軍と敵対するという意味である。それをクロノワが言い出すということは、つまりアルジャーク軍はどうあってもルトリア砦を攻撃するつもりなのか。降伏して砦を明け渡すといっているのに、アルジャーク軍はあえて戦って奪うというのか。
砦の兵を預かる身としては看過できないことだ。
「少しばかり悪巧みに付き合ってもらおうと思いまして」
ロフマニスの動揺にクロノワはもちろん気づいていたが、特に斟酌することもなく普通の調子で言葉を続ける。
「我が軍はこれからテムサニスへ遠征をします。詳しい日程はまだ決まっていませんが、近いうちに宣戦布告もなされるでしょう」
そのクロノワの言葉にロフマニスは今度こそ言葉を詰まらせ息を呑んだ。クロノワは、いやアルジャーク帝国は今まさにカレナリア王国を切り取ったばかりではない。にもかかわらずその矛先をすぐさまテムサニスへと向けるのか。
それを強欲というべきなのか、覇気と称するべきなのか、ロフマニスは判断を付けかねた。それに今彼が考えるべきはそのようなことではない。
「それでテムサニス遠征と我が砦がカレナリアの旗を降ろさないことに、どのような関係があるのでしょうか」
彼が今気にかけるべきは、隣国の行く末やアルジャークのあり方などではない。彼が命を預かっている砦の部下たちのことだ。
「ルトリア砦が旗を降ろしていない状態でアルジャーク軍が南に進路をとれば、多くの人は『ルトリア砦攻略のための行軍だ』と判断するでしょう」
それはそうだろう。繰り返しになるがカレナリアの国旗を降ろさないということは、それはつまりアルジャークに敵対するという意思表示である。カレナリアという国を平定し安定した統治を行うためには、そのような反乱分子を放って置くわけには行かない。
「つまりテムサニスは、アルジャーク軍が国境に迫って来ても警戒を示さない」
まったくの無警戒、ということないだろう。偵察を活発にするぐらいことは、当然してくるはずだ。しかしそれ以上の事はしないだろうと、クロノワはふんでいた。
「なるほど。確かにテムサニスは軍を召集しており、いつでも動かせる状態ですからな」
テムサニスはアルジャークがカレナリアに宣戦布告した辺りから軍を召集し始め、現在では十五万規模の軍が臨戦態勢で待機している。これはどこかを侵略するための軍ではなく、アルジャークのカレナリア遠征による火の粉が飛び火してきた場合、それに対処するための軍だ。
この軍の初動が遅れれば、アルジャーク軍はテムサニス遠征において先手を取ることができる。
「我が軍がルトリア砦に接近したところで砦は降伏。ルトリア砦討伐軍はそのままテムサニス遠征軍に早代わり、というのがこちらのシナリオです」
そこまで説明を聞くと、ロフマニスは納得したように頷いた。クロノワの言う“悪巧み”とは、降伏するタイミングを次の遠征に利用させてくれ、とつまりはそういうことだ。アルジャーク軍に、というよりはクロノワにルトリア砦を力ずくで攻略する意思がないことを知り、ロフマニスは安堵の息を漏らした。
「承知いたしました。遠くからでも良く見えるように、大きな白旗を用意しておきます」
冗談をいう余裕も戻ってくる。クロノワも軽く微笑んで「それではよろしく」といい、通信を切った。
しかし、クロノワの思惑は外れることになる。ルトリア砦がカレナリアの国旗を降ろさないことに真っ先に反応したのは、南のテムサニスだったのである。
****************
テムサニス軍が北上していく。
カレナリアの南の玄関口とも言うべきルトリア砦を通り抜けて、テムサニス軍十五万は北上していく。
その様子を城壁から苦笑と共に見下ろす人物がいる。ルトリア砦の指揮官、ロフマニス・コルドムである。
「よろしいのですか。将来に汚名を残すかもしれませぬぞ」
「私が汚名を被って砦の兵たちが助かれば安いものだ」
話しかけてきた副官に、彼は苦笑したままそう答えた。ロフマニスの眼下を往くテムサニス軍の先頭には国旗と共に王旗が翻っており、これが親征であることを無言のうちに物語っていた。つまりこの軍を率いているのは、テムサニス国王ジルモンド・テムサニスその人なのだ。
(やれやれ、妙なことになったな………)
いや、“妙なこと”というほど事態は複雑ではないのだろう。しかしそれがロフマニスの正直な感想であった。
時間は少し遡る。
**********
事の発端は、ルトリア砦がカレナリアの旗を降ろさなかったことだ。
カレナリアの旗を降ろさないということは、それはすなわちアルジャークと敵対する意思表示である。
無論、ロフマニスにその意思はない。彼はどこまでいってもカレナリア王国と国王に仕える武将であり、エルネタードが降伏を決意した以上、それに従い剣を置くのが筋だと思っている。
ではなぜ旗を降ろさなかったのかといえば、アルジャーク軍総司令官クロノワ・アルジャークが言うところの“悪巧み”に加担したからである。
この悪巧みは、ひどく単純なものだ。作戦などと片意地を張るのも馬鹿らしい。クロノワもそれを承知して“悪巧み”という言葉を選んだのだろう。
アルジャーク軍はテムサニスに侵攻する際、当然のことながら南に向かわなければならない。この時、ルトリア砦がカレナリアの旗を降ろしていなければ、南進する軍は砦の討伐軍だと多くの人は思うだろう。しかしアルジャーク軍が接近してきたところで砦は降伏し討伐軍は遠征軍に早代わり、というのがその内容である。
先手を取るための小細工、というのがこの悪巧みに対するロフマニスの評価であった。成功すれば御の字。失敗しても問題が起こるとは思えず、悪巧みや悪戯の域を出るものではあるまい。
(あまり好きではないが………)
ロフマニスの好みからすれば、こういった小細工は好きではない。自分が作戦指揮官であれば、このような手は使わないだろうと思う。しかし今の彼は敗者の地位にあり、クロノワは勝者の地位にいる。ならばその命令には従う義務があろう。好きでないが拒否反応を示すほどでもない。それに目下彼の最大の目的は、自分が預かっている砦の兵士たちに無駄な血を流させないことで、それと矛盾するわけでもない。短い時間でもそこまで考え、ロフマニスはクロノワに了承を伝えたのであった。
こうしてロフマニスはクロノワの悪巧みに乗ったわけであるが、彼はその話を自身の幕僚たちのところまでで止めていた。その性質上、あまり多くの人間に知られるのは好ましくないと判断したからなのだが、砦の兵士たちは思いのほか敏感に反応した。
今ルトリア砦に詰めている兵士の数は一万と少し。アルジャーク軍との決戦に向けてイグナーツが兵士をかき集めたことを考えれば、かなり多くの兵士が残っていると言えるだろう。しかし当然のことながら、たったこれっぽっちでアルジャーク軍と戦えるわけがない。砦に籠もっていたとしても同じである。そんなことは末端の一般兵に至るまで承知しており、それゆえにカレナリアの旗を降ろさないというロフマニスの行動は、彼らの目には自殺行為に思えた。
「いざとなれば私の首を差し出せばよい」
今すぐに降伏するよう詰め寄る兵士たちに、ロフマニスはそういった。その言葉で指揮官には指揮官なりの考えがあることを知った兵士たちは引き下がったのであった。
さて、このようにして砦の内部は納まったわけであるが、次の厄介事は砦の外、しかも南の方からやってきた。テムサニス国王ジルモンド・テムサニスの親書を携えた使者がやってきたのである。その内容を簡単に要約すると、次のようになる。
曰く「ルトリア砦にいる兵士たちを、亡命者としてテムサニスに受け入れても良い」
この親書を読んだとき、ロフマニスは生まれて初めて笑うのを堪える努力をした。
(なるほどテムサニスからはそう見えるのか………)
テムサニスからすれば、カレナリアの旗を降ろさないルトリア砦は、玉砕覚悟でアルジャーク軍と戦う決意をしたように見えるのだろう。
ここで勘違いしてはならないのは、受け入れを申し出たテムサニスの思惑である。彼らを受け入れれば、当然ルトリア砦もテムサニスのものになる。国境の砦をタダで手に入れられるのだ。これは大きなメリットだろう。
加えてカレナリアは今混乱している。侵略者たちが我が物顔で闊歩するカレナリアを救世主として救い、ついでに十か二十州くらい切り取りたい。そして行軍をスムーズにするためには、ルトリア砦を味方に引き込むのが一番良い。そんな思惑もあった。
「少し考えさせてもらいたい」
ロフマニスは使者にそう伝え、とりあえずのお引取りを願った。帰っていく使者を見送ったロフマニスはその足で「共鳴の水鏡」がある部屋へと向かい、王都ベネティアナにいるクロノワへと事の次第を連絡したのである。
「そう来ましたか………」
話を聞いたクロノワは苦笑するようにそういった。彼にしてみれば意図せずして大きな獲物が食いついた、といったところだろう。
「連絡をいただけたのはありがたいですが、貴方はそれでよかったのですか?」
ロフマニスからしてみればテムサニスと手を組むという選択もあったのだ。テムサニス軍を引き込み、なにも知らずに近づいてくるアルジャーク軍を強襲すれば、緒戦はまず間違いなく勝てるであろう。
「私はカレナリアの軍人です」
その短い言葉に、ロフマニスはありったけの誇りと気位をこめた。彼のその言葉に、クロノワも満足したように頷いた。
「それで、貴方はどうするつもりですか」
「無論断ります。テムサニス軍が北上するのであれば、戦ってこれを防ぎます」
ロフマニスが戦うのはアルジャークのためではない。カレナリアのためだ。この状況下でテムサニス軍がカレナリア領内に乱入してくれば、納まりかけてきた混乱に拍車がかかり、安定が遠のくことは目に見えている。
「かりに戦うとして、我々が間に合わなければ全滅ですよ」
「覚悟の上です」
一瞬の逡巡もなくロフマニスは答えた。その答えを聞くと、クロノワは何かを思案するように顎を撫でて黙り込んだ。
「………汚名を被る覚悟はありますか?」
より確実に、かつ被害を抑えてテムサニス軍を撃退する方法がある。しかしそのためにはテムサニス軍を騙す必要があるのだが、その騙し方は後の世から顰蹙(ひんしゅく)をかうかもしれない。そしてその騙す役回りはロフマニスなのだ。
「………詳しくお聞かせいただきたい」
ジルモンド・テムサニスが軍を率いてルトリア砦を通過したのは、その五日後のことであった。
**********
ジルモンド・テムサニスの新征は順調に進んでいた。不気味ではあるが、順調に進んでいた。
なにしろそう表現するしかない。これまでに一度も戦端は開かれておらず、ただ歩を進めしかない。略奪の対象になりそうな町や村はいくつかあったが、住民の大部分は避難しているらしく特に若い娘や子どもは影もない。それに伴い物資も引き上げられているらしく、略奪するのも馬鹿馬鹿しい有様であった。
結果、テムサニス軍はなにもせずただ前進するしかない。問題が起きているわけではなく順調であることは間違いないが、どこか仕組まれた策略の気配を感じそれが不気味でならない。
(どこで仕掛けてくる………?)
策略を仕掛けているのがクロノワ・アルジャークであることはまず間違いない。となればどこかでアルジャーク軍の襲撃が必ずある。
(ままならぬ………!)
これまでに見てきたカレナリア領内の様子は、ジルモンドの思惑がかなり外れたことを意味している。当初彼は混乱に乗じて事を運ぶ腹積もりあったが、整然とした避難の様子からは混乱は見受けられない。先手を取るつもりであったのに、その先手がいつまでたっても取れない。
遠征そのものは順調である。しかし思惑を外されたジルモンドは、いい様のない不気味さを感じる。
嵌められたのではないか?嵌められたのであれば、どのように?今自分はどんな状況下に置かれているのか?
そんな彼の疑問の答えは後方からもたらされた。
―――――ルトリア砦が、門を閉じているという。
それはつまりテムサニス軍の補給路が寸断されたことを意味していた。
「おのれ謀ったな!!」
ジルモンドはすぐさま軍を取って返した。これはなにも謀られたことに対する、感情的な理由による行動というわけでもない。補給線が寸断されたということは、テムサニス軍にしてみれば生命線を切られたことと同じである。大半が避難しもぬけの殻となっている近くの村や町から略奪したとしても到底足りるまい。ゆえにすぐに対処しなければ軍が干上がってしまい、戦わずに敗北することになる。
街道を南に進み、ルトリア砦の姿を認めたジルモンドはすぐさま総攻撃を命じた。砦にいる兵士の数は一万と少し。それに対しテムサニス軍は十五万である。恐らく一日とかからずに陥落するであろう。
ルトリア砦にカレナリアの兵を残しておいたのは失策であったろう。ただ反面彼らがこのような大胆な行動に出るとは考えていなかったのだ。カレナリアはすでにアルジャークに併合され、彼らに帰る場所などないのだから。
それに、そもそも兵の数が圧倒的に少なかったからこそ、カレナリアの兵を砦に残しておいたのだ。それはつまり敵に回られたとしても、簡単に叩き潰すことができる自信があったということである。失敗はしたが、まだ十分に挽回できる。
テムサニス軍に攻撃を仕掛けられたルトリア砦は必死に抵抗した。だが、如何せん数が違いすぎる。このままならばそう時間はかからずに落ちる。敵味方を含め、その戦場にいる誰もが始まる前からそう思っていた。
テムサニス軍有利の戦場の流れが一変したのは、攻撃開始からわずか約三十分後のことであった。
堂々たる陣容を誇るアルジャーク軍が、テムサニス軍の背後に現れたのである。
この時点でクロノワの策略が完成したといっていい。
ルトリア砦はテムサニス軍を通過させてから、その門を閉じ敵の補給路を寸断する。略奪にあいそうな村や街はあらかじめ避難させておき、敵に物資を渡さないようにする。孤軍になったテムサニス軍が目指す場所はただ一つ、ルトリア砦である。この砦を攻略し補給路を再び繋げるのが、状況を打破する最善の方法であろう。幸い戦力差は歴然で、砦を落とすのにさしたる時間はかからない。
ここまで読めればアルジャーク軍の行動は簡単である。テムサニス軍との距離に気を付けながらルトリア砦を目指せばよい。敵軍が砦に攻撃を仕掛けているその背後を取れば、チェックメイトである。
ただこの策略には汚れ役が必要であった。ルトリア砦の指揮官、つまりロフマニスがこれに当たる。一度はテムサニスに味方しておきながら、後になって裏切るのだ。正々堂々とはとても言えまい。
戦場での駆け引きにおいて相手を騙すことは良くあるが、今回の策略は「約束を破る」という類の騙しだ。それさえも良くあることなのかもしれないが、“卑怯”とか“低俗”とか、そういう評価は免れないように思える。
クロノワの言う「汚名」とはそういうことであった。
ただロフマニスとしてはなんら恥じるところはない。彼はカレナリアの軍人でありルトリア砦の指揮官であり、彼が守るべきはカレナリアの国民と砦の兵士たちである。クロノワの策略に乗るならばこの二つを高確率で守ることができ、その代償として自分が汚名を被るだけならば安いものだと、本気でそう思っていた。
軍の最後尾というのは、得てして脆いものである。それは単純に背後という位置関係だけが原因なのではない。そもそも軍というのは前方に精鋭を後方には弱兵を配置する。特に一番最初に敵と接触する先鋒は、強ければ強いほど良い。後ろから襲われることに対する恐怖心は大きいだろうが、弱兵が精鋭に襲われるのだ、脆いのは当然だろう。
テムサニス軍は崩れた。本来であればそのまま全面壊走となるのだろうが、悪いことに逃走すべき前方はルトリア砦がその行く手を阻んでいる。逃げるに逃げられず恐慌状態に陥った。
一方ロフマニスはルトリア砦から打って出ることはせず、城壁の上からひたすら矢を射かけ続けた。なにしろ本来弓兵でない兵士にまで、弓を持たせて矢を射させていたというのだからその必死さが窺える。当然狙いなどでたらめで、敵軍の中に落ちればいい、といった程度のものだった。しかしその分矢の数は多く、テムサニス軍の恐慌状態に拍車をかけていった。
逃げることもできなかったテムサニス軍は、結局ほとんどの者が武器を捨て投降した。投降のみが命を拾うほぼ唯一の選択だったのだ。その内、一人の男がクロノワの前に引き出されてきた。身につけている甲冑の装飾は豪華で、男の身分が高いことを証明している。さらにマントに施されている刺繍は、掲げられた王旗と同じ紋様であった。
「テムサニス国王、ジルモンド・テムサニス陛下とお見受けします」
「お、お前たちはカレナリアだけでは満足できないのかっ!!」
左右の腕をアルジャーク兵に拘束されているジルモンドは、自由になる舌を必死に回転させた。
「ア、アルジャークは余の国を、テムサニスをも狙っているのであろう!?」
余の目は誤魔化せぬぞ、とジルモンドは喚いた。彼の言葉には理論的根拠はまったくなく、その場の思いつきに等しいものであったが、偶然にも真実を言い当てていた。
「これ異なことをおっしゃる」
クロノワはさも驚いたような声を上げて見せた。実際にテムサニス遠征を緻密に計画し、もう少しすれば宣戦布告していたであろうことはおくびも出さない。
「いつ我が軍が国境を破って貴国に侵入しましたか」
ここはカレナリア領であり、つい先日アルジャークに併合された土地である。そこに侵入してきたのはお前たちで、つまり侵略者はお前たちのほうである、とクロノワは明快に断じた。
その言葉を聞いてジルモンドはがっくりとうな垂れた。反論する余地がなかったからである。しかし後ほんの数日、彼らがカレナリア領に入るのが遅れていれば、侵略者と被侵略者の立場は逆転していたはずで、そのことを考えるとなんとも皮肉なものである。
それはともかくとして、ジルモンド・テムサニスは高貴な捕虜としてアルジャーク軍に遇されることとなった。クロノワにしてみれば最高の手札を手に入れたことになり、テムサニス遠征が始まる前から圧倒的な優位を獲得したのである。
ルトリア砦は引き続きロフマニスに任せることにした。ルトリア砦は国境の砦である。本来であれば彼を解任し、アルジャーク軍の中から適任者を選ぶのが筋なのだろうが、今回の一件でロフマニスは功績を挙げたし、また十分に信頼できる人物であるとクロノワは判断したのだ。自分の都合で汚名を被らせたロフマニスに対する、クロノワなりの配慮だったのかもしれない。
投降してきたテムサニス兵は武装解除した上で、その周りをアルジャーク軍が囲っている。彼らの処遇は一度カレナリア王都ベネティアナに戻ってから決定するつもりである。解放するにしてもテムサニス政府との交渉があるし、その間はなんらかの強制労働に服させることになるだろう。ただあまりにも劣悪な環境で労働させることはしないよう、関係各所に指示を出しておかなければならないだろう、とクロノワは考えていた。
(これでテムサニス遠征の半分はすでに成りましたね………)
テムサニスは十五万の軍勢を丸々失い、そのうえ国王ジルモンド・テムサニスを人質に取られているのである。この先、交渉で主権を譲渡させるのか、あるいは改めて軍を派遣するのか分らないが、そう高い壁はもう残っていないと見ていいだろう。
(計画が狂ってしまいましたねぇ………)
クロノワは苦笑する。確かに計画は練り直さなければならないだろうが、それは「どこまで省略できるか」ということで、厄介な問題に頭を悩ませるわけではない。計画が狂ったとはいえ、事態は良い方向に転がったのであって、それは喜ぶべきことだろう。
そう、予定は狂った。クロノワにとっては良いほうに。しかしこの狂いが悪いほうに転がっていった者もいるのである。
アルジャーク帝国皇后、その人である。