イグナーツは焦っていた。
(どうなっている………!?)
すでに宣戦布告から二週間近くが経過しようとしている。にもかかわらず、いまだアルジャーク軍騎馬隊発見の報は入っていない。アルジャークの斥候らしき騎兵を遠目に見かけることはあれど、それ以上の集団を発見することはいまだどの隊も出来ていない。
(どうする………?早く次の手を考えねば………)
ただ単にアルジャーク軍騎馬隊の発見が遅れているだけであれば、イグナーツもここまで焦ることはないであろう。しかし彼はもう一つ厄介な問題を抱え始めていた。
――――兵糧が、足りなくなってきている。
決して兵站を疎かにしていたわけではない。しかし、なにしろ二五万の大軍を動員するのはカレナリア王国始まって以来初めてである。二五万人分の食料を確保し続けるには、この国は少しばかり能力が足りていない。なんとか量を減らしたりして食いつなぎ、その間に後方が必死に兵糧をかき集めてくれて今まさに輸送中というが、なんにせよこのままではジリ貧である。
早く次の手を打たなければならない。
なんにせよ動くのであれば三つに分けた部隊を集結させねばなるまい。ただ部隊を動かした途端にアルジャーク軍の騎馬隊が動くかもしれない。そう考えるとなかなか部隊を動かせない。そもそも兵糧が補給されるまでは大掛かりな動きは取れない。
結局、何も出来ない。
イグナーツは焦る。来るのがアルジャークの騎馬隊であれば十分に対応が可能である。と言うか、それに対応するための布陣である。
(だがもし………)
だがもし来るのがアルジャーク軍の本隊であったら?もしそうであれば部隊を広く展開させているカレナリア軍は各個撃破の危険にさらされる。敵軍が街道を使い、なおかつ伝令と連動が最大限上手くいけば包囲殲滅作戦ができるかもしれないが、それは楽観が過ぎると言うものだろう。
アルジャーク軍の騎馬隊なら早く来て欲しい。しかし本隊はまだ来ないで欲しい。イグナーツの心の内はなんともチグハグであった。
**********
「まさかこんなに上手くいくとは」
成功したというのにクロノワはどこか呆れた声を上げた。
何が成功したかと言えば、それはもちろんクロノワがアールヴェルツェから借りた騎馬五百騎を使ってしかけた悪戯である。
悪戯の内容は実に単純だ。騎馬五百騎を使ってカレナリア国境付近の情報を徹底的に集めさせた。加えて「クロノワは今回の遠征も騎馬隊を先行させるに違いない」という噂を流した。
情報収集は、文字通りの情報収集である。地図には載っていない地理情報など、集めうる限りの情報をクロノワは集めさせた。集められたこれらの情報は遠征の計画を練ったり、また実際に軍を動かすときにも大いに役に立った。
さて、悪戯の大部分は噂である。上のような噂を流し、さらに国境付近で斥候を動かし噂の信憑性を高めた。つまり、「斥候は騎馬隊を先行させるために情報を集めているのだ」と勘違いさせたのだ。
「来もしない騎馬隊を気にしているのであれば、それは隙になります」
クロノワが仕掛けたのは、いわば敵指揮官に対する心理戦である。前例を基にこちらの戦略をチラつかせ、対応を誤らせるのが目的だったのだ。
この悪戯、失敗しても特に問題はない。
集めた情報はそれだけで価値がある。敵が流言に踊らされなくとも、こちらが失うものなど何もない。いずれは大きな決戦をしなければならず、その時に少々有利になっていれば御の字。クロノワとしてはそう考えていた。
しかし、イグナーツはこの噂を気にした。いや、クロノワの影を気にした、と言ったほうがいいかもしれない。そして彼はアルジャーク軍ではなく、アルジャーク軍の先行してくるであろう騎馬隊に対応するため布陣を組んでしまったのだ。
「殿下の悪戯が思いのほか上手くいったのは、こちらにしてみれば僥倖。この幸運を最大限活用すべきでしょう」
アールヴェルツェはクロノワを「閣下」とではなく「殿下」と呼んだ。この場で遠征軍を率いているのはモントルム総督ではなくアルジャーク帝国第二皇子である、ということなのだろう。こういう生真面目なところはいかにも彼らしい。
「そうですね。敗因なくして勝因無し。敵の失策には最大限付け込みましょう」
今のクロノワは遠征軍総司令官である。彼の双肩に遠征軍二一万五〇〇〇の命が掛かっている。敵兵の命まで気にしている余裕はない。それをすべきなのは敵の司令官のほうであろう。
「レイシェルとイトラは上手くやってくれるでしょうか」
レイシェル・クルーディとイトラ・ヨクテエル。二人は共にアルジャーク軍の将軍で、今回の遠征でもそれぞれ部隊を率いている。二人ともまだ若いが現状でも十分に優秀だし将来有望であると、アールヴェルツェは二人の才をかっている。
二人は今、それぞれ一万五〇〇〇の部隊を与えられカレナリア軍左翼と思しき部隊へ接近している。その任務はカレナリア軍を本隊が待ち受けるこの場所まで誘導することである。
斥候の情報によると、補足したカレナリア軍の戦力は六万から七万。発見した位置や数から考えて街道の反対側に同程度の規模の部隊(右翼)がもう一つ展開しており、さらに街道上には本隊が陣取っているだろう、というのが遠征軍幕僚たちの一致した見解だ。正確な位置関係は分らないが、少なくとも目で見て見える範囲にはいないとの事だ。
今回のクロノワの戦術を簡単に要約すると、「我全力を上げて敵分隊を叩く」と言う言葉にまとめることが出来る。わざわざ敵が戦力を分散させてくれたのだ。これに付け入らない手はない。
ただ全軍で襲い掛かると、その笑い出したくなるような戦力さゆえに、戦わずに逃げられてしまう可能性もあるので、レイシェルとイトラの軍を餌にしておびき寄せようというわけだ。
(さて、少し緊張を高めておくとしますか………)
また、あの血生臭い殺し合いが始まるのだ。
**********
イグナーツ・プラダニトが焦っていたころ、彼の指揮下で左翼を任されているベニアム・エルドゥナスは苛立っていた。
「アルジャーク軍はまだ見つからんのか!?」
ベニアム・エルドゥナスは猛将として知られるカレナリアの将軍である。彼が指揮を執れば軍勢の破壊力は二割増しになると言われているが、その反面感情的で気の短いところがある男だった。
彼が苛立っている理由は、イグナーツが焦っている理由とほぼ同じである。敵は見つからない。食料は足りていない。動くに動けない。イグナーツとベニアムの二人の心情の差は、そのまま二人の性格の差異であろう。
ベニアムは苛立たしげに腕を組み、貧乏ゆすりをしながら何かを睨みつけている。彼の気が短いことを知っている部下たちは、その視界に入らないようビクビクしながら動いていた。まだ被害者は出ていないが、それも時間の問題のように思われる。
ベニアムの忍耐力が限界に差し掛かっていたそんなとき、その報告はもたらされた。
「アルジャーク軍を発見しました!」
偵察に出ていた斥候が転がり込むようにしてベニアムの前に出てきた。その報告を聞くと、ベニアムは猛然と立ち上がった。
「どこだ!?」
「真っ直ぐこちらに向かってきています!その数は三万程度かと!」
そこまで聞くと、ベニアムの興奮も少し収まった。そして彼はさらに詳しい情報を聞き出していく。
「敵軍の構成は?」
もともとアルジャークの騎兵隊に対応するための布陣だが、すでに開戦から二週間近くが経過しており、騎馬隊だけを先行させている可能性は低いとベニアムは考えていた。
「歩兵も混じっています。恐らくは普通の軍の構成かと」
一つ頷いてから、ベニアムは斥候を下がらせた。それから全軍に指示を出し臨戦態勢を整えさせる。さらにアルジャーク軍襲来の報を本陣に伝えるべく伝令を出す。その伝令には、敵軍の規模、構成などを必ず伝えるよう厳命しておく。
一通り指示を出し終えてから、ベニアムは自身の甲冑を着込んでいく。
血がわき立ち、心が躍る。
これから始まるのは、どう言いつくろっても殺し合いでしかない。それを楽しむわけでは決してないが、待ち望んでいたこともまた確かなのだ。
(あるいは人としては不謹慎なのかもしれぬが………)
ベニアムは武人でありこの国を守る剣だ。そしてその在り方に誇りを持っている。ならば自分を否定することなく、今に悲観することなく、将来に絶望することなく、己の職場である戦場に立ちたいと、ベニアムは思うのだ。
馬にまたがり陣頭に立つ。彼が見据える先には、非友好的な一団が迫ってきている。
「全軍戦闘隊形を整えろ!」
一方には遅すぎた戦端が今、開かれようとしている。
**********
アルジャーク軍の戦い方は、なんともベニアムをイライラさせるものだった。
まともに戦おうとしない。
最初の一撃こそ苛烈を極め、「さすがはアルジャーク軍」とベニアムも唸ったのだが、それ以降は消極的な攻撃と撤退を繰り返すばかりで、まともに戦おうとしない。軽くいなされているかのような感覚に、頭に血が上っていく。
「腰抜けが!精強を誇る兵が泣いておるぞっ!」
苛立ちを隠そうともせず、ベニアムは叫んだ。そしてその勢いのままに、二つに分かれているアルジャーク軍の一方に兵力を集中させる。だが絶妙のタイミングでもう一方に邪魔をされ逃してしまう。先程から万事この調子だ。
二つの部隊を率いている二人の将は、疑うことなく有能な用兵家だ。兵の動かし方やそのタイミング、さらに隷下の兵士たちの士気を見ていればすぐに分かる。優れた用兵家と雌雄を決するのはベニアムとしても望むところなのに、肝心の敵がまともに組み合おうとしない。彼のイライラは募るばかりだ。
ただベニアムは苛立つばかりではなく、焦ってもいた。戦闘が始まってからの様子を見るに、一手間違えれば敵は手の届かないところに逃れてしまうだろう。それではまずいのだ。敵に対して二倍以上の数を揃えているこの局地戦を何としてもモノにし、敵の絶対数を減らし意気を挫かねばならない。
「足を止めるな、前に出ろ!敵を逃すな!!」
猛将ベニアムに指揮されたカレナリア軍の勢いは凄まじい。「彼が指揮を執れば軍の破壊力は二割増しになる」と言われるだけのことはある。カレナリア兵は半ば狂ったようにアルジャーク軍に襲い掛かっていく。
「まるで猪だな………」
背中に感じる冷たいものを無視しながら、レイシェル・クルーディはそう呟いた。彼は若いながらも隙のない用兵家として知られており、アレクセイやアールヴェルツェといった年長で経験豊かな将軍たちからも高い評価を得ている。
迫り来るカレナリア軍をレイシェルは猪と評したが、ただの猪ではあるまい。人を跳ね飛ばし木々をなぎ倒す、巨躯にして獰猛な猪だ。反面、ただ前に進むことしか知らぬ、という評価も含んでいる。
「凄まじい喰い付きだな」
そう言って馬を寄せてきたのはレイシェルの同僚であるイトラ・ヨクテエルだった。陽気な男で、レイシェルと比べると用兵の精密さには欠ける。だが彼が指揮する部隊は逆境でも士気が下がらず、その逆境を幾度となくはね返してきた。
「単純に逃げても追って来るんじゃないのか?」
レイシェルとイトラの任務は、現在交戦中のカレナリア軍をアルジャーク軍本隊が待ち構えている場所に誘導することである。二人は消極的な攻撃と撤退を繰り返してカレナリア軍をここまで誘き出してきたのだが、敵軍の様子を見るにこのまま全力で撤退しても追って来てくれそうである。
「いや、全力で撤退すれば敵がつけ上がる。このままいくべきだ」
戦術的撤退とはいえ、背中を見せて逃げれば敵は調子に乗るだろう。それに攻撃の仕方から敵将はかなり苛立っていると見える。出来れば完全に理性を吹き飛ばしてから本隊とご対面させてやりたい。
「………ヒドいな、お前………」
「緒戦は派手に勝つに限る」
真顔でそう言い切るレイシェルにイトラは呆れたように了解を伝えてから自分の部隊の指揮に戻った。イトラが指揮する部隊の士気は高い。将官はともかく、一般の兵士には精神的に辛い撤退戦であるにもかかわらず、だ。
(相変わらず、だな)
士気が高い部隊が味方にいるのは頼もしい。
(この作戦は上手くいく)
馬上で味方を鼓舞し指揮をとる、同僚にして友人の姿を認め、レイシェルはそう確信した。
**********
逃げるアルジャーク軍を追うカレナリア軍、その将であるベニアム・エルドゥナスの理性はもはや完全に吹き飛んでいた。彼の指揮する軍はもはや一個の狂気と化し、そこには戦術や組織としての整然さといったものは見当たらない。兵士たちは集団の狂気に身を任せひたすら前進していく。本来それを統御すべきベニアムは、むしろ進んでその狂気を煽っていた。
敵将の理性がはじけとんだことはイトラ・ヨクテエルの目から見ても明らかであった。なにしろ逃げるアルジャーク軍のほうが整然としているくらいである。ただその迫り来る圧力はさすがに凄まじく、下手な手を打てばすぐにでも喰いちぎられてしまう予感があった。
(そろそろ頃合か………)
二重の意味で。そして自分よりも戦術眼が優れている友人もそのことに気づいているに違いない。
敵の指揮官は感情的になりもはやその用兵に脅威を感じることはない。敵兵の勢いは確かに凄まじいが、言ってしまえばそれだけでなんら獣と変わらない。獣と言っても獰猛極まる野獣だが、怖気づくことさえなければ対処して見せる自信はある。
そしてさらに、そろそろ本隊との合流地点だ。もう少しすれば数の上でも上回る事ができる。しかも圧倒的に。
イトラがそう考えていた矢先のことであった。アルジャーク軍分隊を猛追するカレナリア軍の左側面からアルジャーク軍本隊が現れたのは。
後で知った話だが、この時突如として現れたのは本隊の全軍ではなく、歩兵ばかりが五万程度だったと言う。もっともそう遠くない位置に残りも控えていたそうだが。
その軍隊はあまりにも突然に現れた。なにしろもうすぐ合流できると知っていたイトラで、さえも思いもかけぬ場所から現れ驚いていた。あとでレイシェルに確認したところ、彼も驚いたと言う。見晴らしは良いが、何もない草原というわけでもない。よほど上手く隠れていたのだろう。
「さすがはアールヴェルツェ将軍。年季が違う」
後に若造二人は酒を飲みながらそう唸ったそうな。才能ではなく年季のせいにしたのは、いずれは追いつきそして追い越して見せるという自負のゆえだろうか。
アルジャーク軍の二人が驚いていたというのだから、カレナリア軍の驚愕はそれ以上であった。目の前の敵を追うべきか、それとも新たに現れた敵に対処すべきか。あるいは逃げるべきか。将たるベニアムは頭に血が上っていたところで意表をつかれ、すぐさま指示を出すことができない。結果、カレナリア軍はその場に立ち尽くしてしまった。
「反転攻勢!!この機を逃すなっ!!」
その隙を逃すレイシェルとイトラではない。作戦上、最初の一撃以外まともな攻撃をしてこなかった二人の部隊は、今までの鬱憤を晴らすかのように猛然とカレナリア軍を攻め立てた。新たに現れた援軍とカレナリア軍の間には、まだ若干の距離があり接触には至っていない。敵を逃さぬためにも二人は苛烈な攻撃を仕掛けた。
カレナリア軍は今まで敵を追い逃がさないことに集中するあまり、隊列は乱れもはや組織ではなくただの集団に成り下がってしまっている。加えて足を止めてしまったことで、唯一の脅威であった勢いもなくなっている。そんな敵軍をアルジャーク軍の二人の将軍は紙でも切り裂くが如くに蹂躙して行った。
水平に放たれた矢が死者と負傷者を量産していく。馬上から振り下ろされる斧は兜ごと敵兵の頭を叩き割り、槍は喉を貫いて血に濡れる。イトラが敵兵を切り捨てれば、レイシェルも槍を一閃させて雑兵をなぎ払っていく。
この時のベニアム将軍の対応について批判するのは酷であろう。確かに将軍は頭に血が上り細かな指示が出せる状態ではなかったが仮に冷静であったとしても、いや指揮官が誰であったとしても、アルジャーク軍が突撃してくる前に隊列を組みなおしこれを防ぐことは無理であったろう。それほどまでに二人の将軍は迅速に動き、アルジャーク軍の動きは速攻を極めた。
今まで獲物でしかなかったはずのアルジャーク軍から反撃を受け、しかも新たに現れた敵援軍が左側面に襲い掛かられ、カレナリア軍は一気に恐慌状態に陥った。さらに敵援軍の後ろにはさらに十万以上のアルジャーク軍が控え、猛然とこちらに突進してくるのである。
誰かが言った。「逃げよう」と。しかし………。
「貴様らぁぁあ!逃げるなっ!!逃げるヤツはワシが斬るっ!!」
血走った目で剣を振り上げ、ベニアム将軍がそう大音声を張り上げた。カレナリア兵たちは知っている。自分たちの指揮官であるベニアム・エルドゥナス将軍ならば、本当にやりかねないことを知っている。そして微妙な判定の結果、指揮官への恐怖がアルジャーク軍への恐怖に勝った。忠誠心などではなくベニアムへの恐れのために、兵士たちはアルジャーク軍と戦っていた。
結論から言えば、このベニアムの対応こそが致命的であった。
カレナリア軍は隊列を組みな直して組織的な反撃を試みることができず、一人また一人と倒れ損害ばかりが大きくなっていく。ベニアム将軍が徹底抗戦でなく戦術的撤退を選択していたら、あるいは背後を襲われカレナリア軍左翼は半数以上を失ったかもしれない。しかし三万程度であろうとも本陣と合流し、さらにそこに右翼が加わればカレナリア軍は二一万五〇〇〇となり、アルジャーク軍と数の上では拮抗できる。しかしベニアム将軍が徹底抗戦を選択したがために彼が戦死するまで抵抗は続いた。そして彼が戦死したために組織的な撤退と本陣への合流をすることができず、結果としてカレナリア軍は牙六万五〇〇〇をほぼ丸ごと失ったのである。
とはいえ全ては結果論である。なんら役に立つものではあるまい。
ベニアム将軍は数騎を率い自ら敵軍へと突撃した。敵騎士から奪った槍を振り回し敵を撃殺しながらひたすら前に進んでいく。この戦いに勝つにはもはや大将を討ち取るほかないと彼は思っていた。
悪鬼羅刹のごとくに敵兵をなぎ倒しながら進んでいくベニアムを仕留めたのは、一本の矢だった。首に矢が突き刺さった彼は落馬し絶命した。その矢を射た者の名を歴史書は伝えていない。
ベニアムが戦死したことでカレナリア軍は一挙に崩壊へと向かった。ベニアム将軍配下の幕僚たちがなんとか兵をまとめようとするが、それもかなわない。結局、生き残ったカレナリア軍のほとんどが武器を放り出し甲冑を脱ぎ捨てて逃亡し、この戦いの幕は下りたのである。
**********
カレナリア軍の崩壊を見届けたクロノワは、イトラとレイシェルの案内で敵陣が張ってあるところに来た。敵将が全員連れて行ったのか、はたまた残っていた者たちはこちらの軍勢を見て逃げたのか、陣の中は無人であった。日はすでに傾き、空は赤くなっている。今日はここで野営をすることになりそうだ。
決して多くはないが残っていた物資は戦利品としていただくとして、その中でクロノワが最も喜んだのは、陣の最奥の大きな机の上に放置された一枚の地図であった。
「これは、カレナリア軍の配置図、ですな」
地図上には三つに分かれたカレナリア軍がどこに配置されているかが記されていた。国境線に底辺を向けた二等辺三角形の、それぞれの頂点に軍が配置されていると思えば分りやすい。
本陣は街道上に配置され、街道を挟んで左右に両翼が置かれている。両翼と本陣の間の距離は馬を走らせて半日、両翼間は一日といったところであろうか。
この地図を見て、クロノワは思わず苦笑した。カレナリア軍の分隊と思しき一団がこの位置にいたことから、自分の悪戯が成功したことは分っていたが、こうして改めて見ると想像以上だ。
(文字通り、「ここまで上手くいくとは思わなかった」、ですね………)
とはいえこの状況はアールヴェルツェに言われたとおり、アルジャーク軍にとっては僥倖である。せいぜい楽に勝たせてもらうとしよう。
「敵の残りはどれほどだと思いますか?」
地図上で見るところの左翼は壊滅させた。残りは右翼と本陣である。どれほどの兵がカレナリア軍には残っているだろうか。
「そうですな、右翼の規模は左翼とほぼ同じでしょうから六~七万。本陣はその二倍を想定して十二~十四万と言ったところでしょうかな」
腕を組み顎を撫でながらアールヴェルツェは答えた。合計すれば十八~二一万になる。いささか幅が大きいように思われるが、どうやら敵に数で上回られることはなさそうだ。
「左翼と我々が接触したことを、本陣は知っていると思いますか?」
アールヴェルツェの答えに一つ頷き、次にクロノワはそう尋ねた。
「知っている、と考えて動いた方がよろしいかと」
そう答えたのはレイシェルであった。仮にレイシェルとイトラの囮部隊を発見してからすぐに本陣に伝令を出したとすれば、そろそろ着く頃だろう。
「敵はどう動くでしょうか」
候補としてはいくつかある。
一つ、左翼の援護に向かう。右翼には伝令を出して、左翼の位置で合流させる。
二つ、敵が三万程度であれば負けることはないと考えて、右翼と合流する。
三つ、動かず、その場で右翼と合流する。
「我々にとって一番嫌なのは、右翼と合流されることですな」
アールヴェルツェの言葉にその場にいた一同は頷いた。敵軍が合流してしまえば、各個撃破ができなくなる。敵の残りの全軍と真正面から戦って負けるとは思わないが、楽に確実に勝てるならばそうしたい。
「………ともかく、今日はここで野営しましょう。知らない土地で夜動き回るのはできれば避けたい。」
そして明日以降はとりあえず地図上の敵本陣の位置へ向かうとする、とクロノワは言った。敵本陣が左翼の援護に動いているとすれば、途中で鉢合うだろう。動いていなければ、恐らく右翼と合流される前に叩ける。移動していても最低限街道を抑えることができ、優位には立てるだろう。
「分りました。その方向でいきましょう」
そう言うとアールヴェルツェは微笑んだ。まるで正解を出した生徒を褒める教師のようだ。実際、クロノワと彼の関係はそんな感じだが。
「斥候を出しますか?」
そう尋ねたのはイトラだ。
「ええ、お願いします。周りに敵が潜んでいてはゆっくり休めませんから」
蹴散らしたカレナリア軍左翼の崩壊の様子からすると、近くに伏兵がいる可能性は低そうだが、警戒するに越したことはない。
(さて、戦局は動きました。貴方はどう動きます?)
空を見上げれば、太陽はすでに沈んでいる。夜と昼の曖昧な境界を見上げ、クロノワはまだ見ぬ敵の主将に思いをはせた。
**********
左翼がアルジャーク軍の先鋒と思しき一団と接触した、という報がカレナリア軍本陣にもたらされたのは日が傾いた夕方のことであった。聞けば敵の規模は三万程度で、その編成は通常の軍と変わらぬという。
(騎馬隊の先行ではなかったか………)
一通り報告を聞いてから伝令を下がらせ、イグナーツは一人考えを巡らせる。ただ、騎馬隊ではなかったにしろ先行部隊が来たのだから予定通りともいえる。なんにせよいきなりアルジャーク軍本隊と鉢合わせしなかったのは僥倖だろう。
(さて、どう動く?)
敵の規模は三万程度と言う話だから、左翼が負けることはあるまい。後ろに控えているであろう本隊がどの辺りにいるのかは気になるが、なんにしてもあのベニアムが率いる左翼がそう簡単に負けることはないだろう。
イグナーツは知らない。この時点でベニアム・エルドゥナスがすでに戦死し、左翼が崩壊していることを、イグナーツは知らない。知らないまま、彼は思考を重ねていく。
(左翼を呼び戻すべきか………?)
そう考え、しかしすぐに否定する。先鋒は問題なく退けられるだろうが、一戦して全滅させられるわけではないだろう。ならば押さえとして左翼があの位置に必要だ。ベニアムは嫌がるだろうが、防御に徹しさせて時間を稼いでもらうとする。
(右翼はどうする………?)
敵が左翼のほうに現れたと言うことは、右翼のほうに敵が現れることはあるまい。ならば早急にどこかに合流させないと、右翼が丸ごと遊軍になってしまう。
(一番堅実なのは………)
一番堅実なのは本陣と右翼をその中間地点で合流させ、左翼の援護にむかうことだろう。別々に左翼に向かわせると、右翼がアルジャーク軍本隊に捕まる可能性がある。
(しかし、な………)
しかし、それはできない。散々せっついてようやく用意できた兵糧が、今まさに本陣のこの位置へと向かっているからだ。本陣がこの位置から動いてしまうと、補給物資を受け取ることができなくなってしまう。
仕方なく本陣は動かさず、右翼に本陣と合流するよう伝令を出す。左翼との合流にかなりの日数を要してしまうが、仕方あるまい。ベニアムには敵本隊が現れたら、無理をせず引くように命令しておこう。
(さて、戦局は動いた。貴殿はどうするのかな)
アルジャーク軍を率いるクロノワ・アルジャークにイグナーツは思いをはせた。ただ心中は苦い。自分の対応がどうして後手後手に回っているように思われてならないのだった。