時間は少し遡る。レヴィナスとアーデルハイト姫の婚礼が無事に終わり、ポルトールの内戦が武力衝突の様相を呈してきた六月の初め、アルジャーク帝国もまた動き出そうとしていた。
「一通り終わったか………」
そういってアルジャーク帝国皇帝ベルトロワは手にした書類を机の上に投げ出した。それから軽く首を左右に曲げ、固まった筋肉をほぐしていく。
アルジャーク帝国帝都ケーヒンスブルグにある宮殿の一室、そこにベルトロワはいた。そしてさらに三人、同じ室内にいる。
アルジャーク帝国宰相、エルストハージ・メイスン。
同外務大臣、ラシアート・シェルパ。
同軍務大臣、ローデリッヒ・イラニール。
皇帝を含めたこの四人が、名実ともにアルジャーク帝国を動かす首脳である。
役職的にはもう一つ「国務大臣」というポストがあるのだが、今は宰相が兼務する形となっている。
アルジャーク帝国のヒエラルキーを上から記すと、皇帝・宰相・三人の大臣、ということになる。そしてこの五人がそのままヒエラルキーの最上部を占有している。
アルジャーク帝国において宰相という役職は、皇帝の代わりに政を行うのがその仕事だ。つまり細かい事情を四捨五入するならば、皇帝があまりに無能であったり政治に関心を示さなかった場合、宰相というポストが設けられて国を取り仕切るのだ。
しかし、今の皇帝であるベルトロワは極めて有能で政治にも熱心である。ではなぜ宰相職を設けているのかといえば、一種の名誉職であった。いや、国務大臣の仕事を兼務させているのだから、まったくの名誉職というわけでもないが。
ベルトロワ、ラシアート、そしてローデリッヒの三人が同年代であるのに対し、エルストハージは世代が一つ上である。年長者に敬意を示すのと、二人の大臣のまとめ役を期待して、ベルトロワはエルストハージに宰相職を与えたのだ。
今彼ら四人は月に一度(不定期に回数は増えるが)の会議を行っていた。この会議でアルジャーク帝国の行く末の大筋が決まるといっていい。
「ああ、少し待って欲しい」
その会議も終わり各々自分の執務室に戻ろうとする三人に、ベルトロワは声をかけた。
「実は遺書を書き直した。確認したうえでサインして欲しい」
アルジャーク帝国の法は、皇帝の遺書について明確な基準を定めている。戦場で遺したなどの例外的な場合でもない限りこの基準を満たしていないと、その遺書は法的な根拠にはならず、意思確認の参考程度にしかみなされない。
その基準について簡単に説明すると、以下のようになる。
一つ、直筆であること。
一つ、日付と署名、そして印が揃っていること。
一つ、皇帝自身の署名と印のほかに、宰相と三人の大臣のうち二人の署名と印が連名で記されていること。
一つ、未開封であること。
一つ、遺書を開封するときには二通の遺書を同時に開封し、その内容に差異がない場合のみ有効とする。
これ以外にも細かい規定が色々と設けられている。全ては遺書の偽造を避けるためだ。
遺書を書き換えることは珍しいことではない。これまでにもベルトロワは何度か遺書を書き換えている。月日が流れれば状況が変わる。そうなれば遺すべき遺書の内容が変わってくるのは当然だ。
エルストハージ、ラシアート、ローデリッヒの三人は用意された遺書を手にとり、その内容を確認していく。そして一様に目を見開いた。
「陛下………!これは………!」
ローデリッヒが驚いた様子でベルトロワを見つめる。その反応を予測していたベルトロワはどこまでも冷静だ。
「あくまで現状では、だ。現状ではこれが最善だと判断した」
「………そう、ですな………。今はこれが最善でしょう………」
どこか苦い調子で最年長のエルストハージがベルトロワに同意する。それをみた二人の大臣もまた皇帝の意見に同意した。
「では署名と印を頼む」
用意された遺書は四枚で、すでにベルトロワの署名と印は記されていた。残りの三人はそれぞれ二通ずつ署名して印を押し、そして各自が一通ずつ保管することになる。当然、古いものは破棄される。
署名を終え印が押された遺書は封筒に入れられ、さらに蝋で封がされる。蝋が固まると、三人はその遺書を大事そうに懐にしまいこんだ。
「そういえば南方遠征の件ですが、すでにレヴィナス殿下にお話になられたのですか?」
軍務大臣のローデリッヒが思い出したようにそう尋ねた。
「いや、まだだ。これから『共鳴の水鏡』を使って話そうと思っている」
「法が揺らぎますゆえ、強制だけはされませんように」
エルストハージの言葉にベルトロワも頷いた。
**********
「お待たせしました、父上」
皇帝であるベルトロワから通信が入っていると知らされたレヴィナスは、急ぎ城の地下に設けられた「共鳴の水鏡」の下へ向かった。
「久しいな、レヴィナス。息災であったか」
「はっ、父上のおかげをもちまして」
しばらく礼儀的な親子の会話が続く。本題を切り出したのはベルトロワのほうであった。
「実はこの度、南方遠征を行うことが決定した」
「………左様でございますか………!」
遠征というのは国家における一大イベントである。レヴィナスは一瞬緊張で体を硬くしたが、すぐに自然体に戻る。
「それで総司令官にお前を、という話が出ているのだが、どうだ?」
「私、ですか。ですが私は………」
アルジャーク帝国の法には「結婚して一年以内のものは兵役を免除される」というものがある。これは夫が子孫を残すことなく戦争で死ぬのを防ぐための法なのだが、この法は帝室にも適用される。つまりついこのあいだ結婚したばかりのレヴィナスは戦争へ行く必要がないのだ。いや、むしろ率先してこの法を遵守しなければならない。
かりにレヴィナスが遠征軍の総司令官として戦場に赴けば、「皇帝が皇太子の免除の権利を放棄させた」という前例が残ることになる。そんな前例を残しておけば、後の時代皇帝の強権により法が有名無実化してしまうかもしれない。
「そうなのだが皇后が是非に、とな………」
「なるほど、母上が、ですか………」
ベルトロワとレヴィナスの親子はそろって苦笑した。彼女としては愛すべき息子のために一つでも多くの箔を付けてやりたいのだろうが、こういう無理やりねじ込むようなやり方は迷惑でしかない。
「この件に関しては強制するつもりはない。断ってくれてもかまわん」
皇帝が一度勅命を出してしまえば、何人たりともそれに逆らうことは許されない。だからこそわざわざ「共鳴の水鏡」を使い、非公式かつ事前に意思確認を行っているのだ。
「そうでしたら、やはり私は辞退すべきでしょう。悪しき前例を残すわけにはいきません」
(悪しき前例か。今のオムージュ領の税制が悪しき前例になるとは思わぬのか、レヴィナスよ………)
レヴィナスがオムージュ領で増税を実施し、その増税分を過去にさかのぼって適用したことは、当然のことながらベルトロワの耳にも入っている。というよりもこれこそが、彼が貴書を書き換えた主な理由であった。
心のうちの考えをおくびも表情に出さず、レヴィナスの答えにベルトロワは一つ頷き了承の意を伝えた。
「それでレヴィナスよ、そなたの後釜には誰を据えるべきであろうな?」
試すような視線を、ベルトロワは自分の息子に向けた。
「………クロノワが適任かと存じます。無論、有能な前線司令官を付けて、ですが」
数瞬のうちに思考を巡らせ、レヴィナスは答えた。その答えを聞くと、ベルトロワは面白そうに顎を撫でた。
「ほう、クロノワか………」
「はい。あれも父上の子。矢面に立たせれば兵たちの士気も上がるでしょうし、分りやすい象徴ともなります」
まがりなりにも皇子の身分であるクロノワが陣頭に立てば、確かに兵士たちの士気は上がるだろう。さらに、遠征と言うのは戦場で戦うだけではない。もちろんそれが最も華々しく、また大仕事ではあるが、征服した版図を迅速に安定させることが求められる。前者は軍人の仕事で後者は文官の仕事である。つまり遠征軍の総司令官は両者を統率しなければならないのだが、この場合「皇子」という血筋は非常に分りやすい象徴つまりヒエラルキーとして作用し、軍人と文官という畑違いな両者の無用なイザコザを避けることができるのだ。
皇后がレヴィナスを推した背景には無論そういう側面もある。
またこの場でクロノワを推すことはレヴィナスにとっても実は利益がある。クロノワが遠征に成功すれば、他に推挙してくれる人間がいないであろう彼を推したレヴィナスの評価は上がるし、またクロノワに恩を売ることができる。逆に失敗したとすれば「皇子」としてのライバルが勝手につまずいてくれたことになり、レヴィナスの地位はさらに盤石なものになる。
「あい分った。ではその方向で調整を進める」
皇帝のその言葉に、レヴィナスは頭を垂れる。だからこそベルトロワは知ることがなかった。その時、レヴィナスが安堵の表情を浮かべていたことを。
**********
兄であるレヴィナスとアーデルハイト姫の婚礼から帰ってきたクロノワは、毎日を忙しく過ごしていた。そう、殺人的に忙しく。なにしろ帰ってきたとき、普段飄々とかまえているあの執務補佐官ストラトス・シュメイルが弱り果てていた、というのだからただ事ではない。
総督府の仕事がいきなり忙しくなった主な理由は、やはりオムージュ領に起因するものであった。クロノワとフィリオは披露宴の式場で流民対策を講じる必要があると話していたが、対策を講じる前にオムージュ領から流民があふれてきてしまった。
原因は言うまでもなく増税である。しかもただの増税ではない。増やした税率分を過去にさかのぼって適用している。
「一度に全て納めろ」
という横暴はさすがにしていないようだが、庶民の生活が苦しくなることは想像に難くない。しかも税を納められない者は、建設作業で強制労働させられていると聞く。
ただ、これだけであれば肥沃なオムージュの大地はその民を養えたかもしれない。しかしここに別の出費が重なった。貴族のもとに転がり込んだ僧職者たちの豪遊費である。彼らの遊ぶ金は貴族たちが出していたのだが、その貴族の収入はもとをたどれば庶民の血税である。豪遊費をまかなうために貴族たちは、至極当然のこととしてそのしわ寄せを庶民たちに求めたのである。
普通の増税分と、過去の増税分と、そして僧職者たちの豪遊費。明らかな容量オーバーであり、払いきれないことは容易に想像できる。しかも払えなければ待っているのは厳しい強制労働である。逃げ出したくもなるものだ。
またレヴィナスが建築計画へのテコ入れの資金源として、備蓄してあったオムージュの小麦を放出し始めたのも大きな一因である。放出された小麦は貿易拠点である独立都市ヴェンツブルグにも集まり、それを求めて商人たちもまた集まるようになった。また建物の装飾につかう貴金属や美術品をレヴィナスは集め、そういった商品を売ろうとする商人たちもヴェンツブルグに集まっている。
加えて、ヴェンツブルグを発展させるためにクロノワが色々と打ってきた手が、ここにきて効果を表し始めたことも大きい。
その結果、モントルム領はかつてないほどの賑わいを見せている。雇用も急増し、それを満たすための流民がいる。成長著しい代わりに仕事の増加率も著しく、書類の山ができるとはどういうことか、クロノワは身をもって思い知っていた。
「なぜ手は四本ないんだ!?」
大真面目にそんなことを叫んだとか叫ばなかったとか。
皇帝の勅命を伝える勅使が旧モントルム王都オルスクにある、総督府の置かれたボルフイスク城に来たのはそんな目の回るような忙しい日々のある日のことであった。
勅命の内容は簡単にいえば「南方遠征の総司令官にクロノワ・アルジャークを任命する」というものだ。クロノワはこの勅命を粛々と拝命した。彼は事前に「共鳴の水鏡」で皇帝であるベルトロワから直接に「総司令官に内定した」という話を聞いており、勅命の内容に驚くことはない。
今回の南方遠征のアルジャーク帝国が考えるシナリオを簡単に説明すれば、まずモントルムの南に位置しているカレナリア王国に宣戦布告しこれを征服する。次にさらにその南にあるテムサニス王国に宣戦布告し併合する、ということになる。
一度に二カ国を切り取ろうというのだから強欲のそしりは免れまい。もっとも強欲でない遠征など存在しないが。
ただ純粋に国力を比べてみれば不可能とはいえない。アルジャーク帝国の版図は去年の大併合により二二〇州となっている。これに対しカレナリア王国の版図は六三州でテムサニス王国は六六州である。二カ国合わせても一二九州であり、アルジャークには及ばない。しかもシナリオとしては二カ国同時にではなく、一国ずつ切り取るつもりなので成功率はさらに上がるだろう。もっともこれを機にカレナリアとテムサニスが同盟を結ぶことも十分に考えられるが。
カレナリアを征服した後、間を空けずにテムサニスに宣戦布告するというのが今回の遠征の筋書きである。したがって征服後のカレナリアを安定させるためには、文官の随行員が必要になる。その文官の選定も帝都ケーヒンスブルグで進んでいると聞く。さらに今回はテムサニスも随行する文官たちが征服後の執政を担うそうだ。彼らは皇帝直属という身分になり、つまり併合後のカレナリアとテムサニスには総督を置くことなく、皇帝が直接に支配することになる。
ただ両国の海軍についてはクロノワがその再編の裁量を任されていた。彼が海にいろいろと手を伸ばしているのをベルトロワが聞きつけたのだろう。
「まあ、まずは遠征を成功させることですね」
獲ってもいない毛皮を数えて妄想の幅を広げるのは確かに楽しいが、重要なのはそれを実現させることである。総督執務室に集まった面々を前にして、クロノワは頭の中を現実へと引き戻した。
執務室には総督府の主だった人物で、今回の遠征に関係する人々が集まっていた。総督であるクロノワ。その主席秘書たるフィリオ。執務補佐官のストラトス。モントルムの軍事一切を司っているアールヴェルツェ。そしてその幕僚である女騎士グレイス。おまけとしてお茶くみ係のリリーゼ。
余談であるが、アールヴェルツェはモントルム総督府の正式な武官ではない。彼の身分は皇帝ベルトロワ直属の目付け役であり、その任命及び罷免権はモントルム総督たるクロノワにはない。その直属部隊である騎馬五千騎とともに、クロノワとしてはある意味最大限警戒しなければならない相手なのだが、如何せん彼以外にモントルムの軍事を司ることの出来る人物がいない。そのためクロノワは、目付け役に自身の武力の全てを預けるという、ヤケクソとも暴挙とも取れる選択をしたのである。
ただ純粋な人間関係としては、アールヴェルツェはクロノワが冷遇されていた時代からの味方である。双方に強力な信頼関係があってこその選択だったのだろう。アールヴェルツェにしても、
「モントルムの兵をアルジャークの兵に負けない精鋭にしてみせる」
と、日々調練に力を入れている。ひとまずは一万の歩兵を選んで、直属の騎馬隊との連携を叩き込んでいるらしい。
――――閑話休題。話を執務室に戻そう。
遠征に関係してくる人材はアルジャーク帝国本国から供給されるが、モントルム総督府からも、特に今執務室に集まっている人々は遠征に関わってもらうことになる。
「今回の遠征で私は総司令官を務めることになりました。私が不在の間のモントルム領の切り盛りはストラトスにお願いします」
皇帝の勅命について簡単に触れたあと、クロノワはそう言って留守にするモントルム領の一切をストラトスに任せた。いや押し付けた。クロノワとしては一種暴力的な量の仕事から、一時的にとはいえ逃げられることに安堵さえ感じている。それに対し、仕事量が少なく見積もっても倍増すると告げられたストラトスは大仰に嘆いて見せた。
「ああ、また仕事に撲殺される日々がはじまるのですね。知ってます?紙って重いんですよ?積み上げた書類が崩れてきたら、アレはもう鈍器ですよ鈍器。全身打撲で入院したいっていったら『病室でもお仕事してくださいね』って笑顔で宣告されましたし。このままだと棺桶の中にまで書類を詰め込まれそうで、私としては逃げるのが最善策かなぁ~と思ってみたり…………あ、ちょ、ま、イタ…………!」
延々と続くストラトスの愚痴をグレイスが実力行使で黙らせる。そんな二人の様子を、恐らくは意図的に無視してクロノワは話を続ける。
「次にフィリオですが、他の秘書たちと一緒に補給の一切を担ってもらいます」
今回の南方遠征でカレナリアと直接に国境を接しているのはモントルムであるから、補給物資は自然とモントルムに集まることになる。その補給物資を過不足なく前線に送るのがフィリオの仕事である。言うなれば遠征軍の命綱を任されたようなもので、さすがのフィリオにも緊張の色が見える。
「ヴェンツブルグのオルドナス執政官と協力しつつ事に当たってください」
クロノワは海路での補給物資輸送も考えている。カレナリアだけならば陸路で補給線を伸ばしてもいいが、さらにその南に位置しているテムサニスまで陸路で運ぼうとすると、どうしても補給線は長く伸びてしまう。そこで船を使って補給物資を運ぶことを考えたのだ。直接テムサニスに輸送するか、征服したカレナリアの適当な港に集めそこからさらに陸路で運ぶのかそれはまだ分らないが、なんにせよ出発点として使える拠点はヴェンツブルグしかない。
フィリオが了承すると、クロノワは次に視線をグレイスに移した。
「指示はフィリオが出すとして、実際に補給部隊を動かすのはグレイスにお願いしたい」
クロノワがそういうと、グレイスは一瞬不満げに眉をひそめた。次の瞬間にはいつも通りの表情に戻っているが、クロノワはその一瞬を見逃さなかった。
「不満ですか?」
詰問というよりは面白がるようにしてクロノワは尋ねる。彼女が戦場での功を求めていることをクロノワは知っている。
「いえ、決してそのような………」
グレイスは少し慌てた様子で、クロノワの言葉を否定する。だが、それが彼女の本心でないことはクロノワも良く知っている。
「補給は今回の大遠征を成功させるための必要条件です」
戦争の勝敗というヤツは、実は始まる前から決まっている。一度大きな遠征を経験したクロノワはそう考えるようになった。攻める場合は特にそうだ。綿密に勝つための準備を行い、勝てる状態にしてから事を起こす。それこそが戦略家として正しい姿だとクロノワは思っている。
理想論だと分っている。けれども人の命がかかっている以上、いくらでも理想を追うべきだと思う。
補給は勝つための大前提だ。ここが揺らいでは戦力で圧倒していようとも勝利を得ることはできない。現実問題として理想をそのまま実現することは不可能だが、少しでもそこに近づけなければならない。グレイス・キーアはそのための起用だ。
「フィリオは部隊の具体的な動かし方は分りませんから、彼の意図を汲んで部隊を動かせる人物が必要になります」
それは恐らくグレイスでなくともできるだろう。しかしグレイスならば上手く(・・・)やれる、とクロノワは思っている。
「期待しています」
「………了解しました」
そういって頷くグレイスの眼から不満の成分が少なくなっているのを見て、クロノワは内心で安堵の息をついた。フィリオとグレイス。この二人に任せておけば、補給は磐石だろう。
「総司令官は私ですが、実際に兵を動かすのはアールヴェルツェにお願いすることになります」
最後にクロノワはアールヴェルツェに目を向けた。
ちなみにアルジャークの至宝、アレクセイ・ガンドールはレヴィナスの目付け役として今はオムージュ領にいる。彼もまたオムージュ領の軍事一切を任されており、そのせいか今回の遠征には参加しない。
アレクセイがオムージュ領の軍事一切を任された経緯を大雑把に説明すれば、レヴィナスが建築計画に全力を傾けるために雑事を彼に押し付けた、ということになる。無論、アレクセイ自身が非常に優秀だったこともその一因なのだが、レヴィナスにしてみれば「そんなことをやっている時間はない」というのが偽る必要のない本音であった。
ともかくアレクセイ・ガンドールは今回の遠征には参加せず、よってアールヴェルツェ・ハーストレイトが遠征軍の実質的な指揮を執ることになる。彼がクロノワの下で軍を指揮するのはこれが二度目だ。
「兵の総数は二十万から三十万規模になるそうですが、編成等は全て将軍に一任します。急ぎ帝都に帰還し、準備を進めてください」
「御意」
アールヴェルツェはただ一言だけ短く答えた。彼の頭の中では、すでに遠征軍の細かい編成や彼の手足となり軍を動かす部隊司令官の名前が連ねられているのだろう。
「ああ、それとアールヴェルツェ、直属の騎馬隊から五百騎ほど貸してもらえませんか」
思い出したようにクロノワがそういった。アールヴェルツェは一瞬不審がるような表情をしたが、クロノワの様子を見てすぐにそれは苦笑へと転じた。
「なにか、悪巧みでも思いつかれましたかな?」
「ちょっとした悪戯ですよ。成功すればよし。失敗しても遠征に影響は出ませんよ」
それを聞いてアールヴェルツェはさらに苦笑した。どうやら今回もなにやら面白いことを考えているようだ。
「分りました。幕僚の一人に五百騎を預けておきましょう。悪巧みはその者と」
悪巧みの詳しい内容をアールヴェルツェは聞かなかった。無意味なことをするとは思えないし、クロノワが「失敗しても遠征に影響はでない」というのであれば、そうなのだろう。
それに直属部隊騎馬五千騎全てを伴って帝都に帰還する必要はなく、そうなれば部下が暇を持て余すことになる。無駄飯を食わせるくらいなら働かせたほうが良かろう。そんな次元の低い思惑もあったりするのだった。