実の父であるコステア・フォン・アポストル公爵の名で送られてきた手紙の内容は、にわかには信じがたいものであった。
ブレントーダ砦が落ちた。しかもシミオン王子が戦死されたという。
その手紙を読んだとき、ランスローはさすがに内容を疑った。しかし手紙に押されている紋は、確かにアポストル公爵家のもので、その筆跡も父コステアのものだ。あの父親にユーモアのセンスがないとは言わないが、それにしてもこの状況でこんなウソをつく必要などどこにもない。それどころか危険でさえあるだろう。
「だとすれば………、まさか、本当に………?」
ジワリ、と嫌な緊張が体を支配する。
砦を落としたカンタルク軍の動向は?派閥のパワーバランスはどうなる?この国は一致して外敵に立ち向かえるのか?様々な懸念が頭の中を駆け巡る。
「くそっ!」
一つ悪態をついて無理やり頭を切り替える。手紙を読み進むと、すぐに領軍を率いて王都アムネスティアに来るように、との指示があった。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。なんにせよ情報が少なすぎる。今この場で性急に判断を下さないほうがいい。全ては王都アムネスティアで父たちに会ってからだ。
しかしこうなると国王であるザルゼス・ポルトール陛下が、病床に臥せっているとはいえ存命であることは不幸中の幸いであるように思われる。後継者を巡る派閥同士のイザコザも陛下の鶴の声によって解決する。
ふう、と息をつき動揺をひとまず自身の体の中に押さえ込む。それからランスローは執務机の端っこに用意してある二つのベルのうち、片方を鳴らした。
「お呼びでしょうか、ランスロー様」
すぐにティルニア家の執事であるテオドールが現れた。初老の男性で頭にはすでに半分以上白くなっているが、腰はまっすぐに伸びており声にも張りがある。
「テオドール、イエルガ将軍を呼んできてもらえるか」
イエルガ・フォン・シーザスはティルニア軍の将軍である。大まかな指示はランスローが出しているが、実際に軍を動かしているのは彼だ。ミドルネームが示すとおり貴族であるが、彼の家系は治めるべき領地を持っていない。
「かしこまりました。すぐに」
「ああ、それとカルティエは今どうしている?」
一礼して執務室を出ようとするテオドールに、ランスローは妻のことを聞いた。王都に行くことになればしばらく家を空けることになる。一声かけておいたほうがいいだろう。
(あまり気は進まないが………)
観光に行くわけではないし、それどころか権力闘争の真っ只中に飛び込んでいくのだ。心配をかけるに決まっている。
「お嬢様でしたら庭にいらっしゃるはずです。お呼びしましょうか?」
子どものころからカルティエのことを見守ってきた初老の執事は彼女のことを「お嬢様」と呼ぶ。カルティエ自身は止めるように言っているらしいのだが、現状改める気はないらしい。
「いや、いい。後でこちらから出向くことにする」
承知しました、とテオドールはもう一度腰を折ってから部屋を出た。
一人になったランスローは思考を巡らせていた。
(さて、どれほどの兵を連れて行くべきか………)
父であるアポストル公の派閥は文官の貴族が中心である。それぞれが領地に軍を持っているとはいえ、生粋の軍閥貴族が集まっているラディアント公の派閥と比べればその戦力差は如何ともしがたい。アポストル公としてはランスローが連れて行く兵をアテにしたいところだろう。とすれば兵の数は多いほうが良いのだろうが………。
(あまりに多くの兵を連れて行ってラディアント公を刺激するのは良くないな)
自分が原因で武力衝突が起きるなどという事態は、なんとしても避けなければならない。それに兵力をアテにされて権力闘争に巻き込まれなくない、というランスロー個人の願望もある。
(あと注意すべき点は………)
時間であろう。のんびりと構えている時間は当然ない。可能な限り速やかに王都アムネスティアに向かわなければならない。
さらに頭の中でグルグルと思考を巡らせていると、執務室の扉がノックされた。
「お呼びでしょうか、ランスロー様」
視線を上げると、腰に剣をさした一人の男が立っていた。その眼光は鋭く、彼が生粋の武人であることを如実に物語っている。
「急に呼び出してすまない、イエルガ」
ランスローが事情を説明すると、目の前の武人の表情は見る見るうちに険しいものへと変わっていった。
「ブレントーダ砦が落ち、しかもシミオン王子が戦死されたとは………、にわかには信じられませんな………」
「とはいえ父上がこのようなウソをつくとは考えられないし、事実なのだろう」
そういうランスロー自身、やはり心のどこかでは信じ切れていない。それほどまでにポルトールの国民は「守護竜の門」を信頼していた。イエルガの困惑も当然であろう。
「父上から軍を率いて王都に来るよう要請を受けた」
そう告げると、イエルガはひとまず困惑を自分の中に収めてくれた。
「数は二千。兵の選抜は貴方に一任するが、全て騎兵にするように。準備にどのくらい時間がかかる?」
「三日ほどあれば」
「二日で終わらせてほしい」
「了解しました」
その後細かい内容を話し合ってから、イエルガは執務室を後にした。再び一人になったランスローは一つ息をつき、そして気を引き締め直す。
「さて、もう一仕事」
どう考えても、これが一番大きな仕事のように思われるのだ。
*********
「お仕事はもうよろしいのですか」
庭に設けられた石造りの東屋にいたカルティエは、ランスローの姿を認め嬉しそうに微笑んだ。ランスローが勧められるままにカルティエの隣に座ると、彼女は手ずからお茶を淹れて差し出した。
(話したくないなぁ………)
差し出されたお茶を飲みながら、ランスローは心の中で弱音を漏らした。
とはいえ二日後には王都アムネスティアへ向けて出立しなければならない。ここで隠しておいたところで、バレてしまうのは時間の問題だ。ならば今のうちに自分の口からきちんと説明しておきたい。
「カルティエ、大切な話がある」
「大切なお話?何でしょうか?」
カルティエはそういってティーカップを机の上に戻すと、ランスローのほうに体を向けた。
「ブレントーダ砦が落ちた。シミオン王子も戦死されたらしい」
そう告げた瞬間、カルティエは大きく目を見開き、その顔から一切の表情が抜け落ちた。それから徐々に表情が険しくなっていき、口元を手で隠した。
「父上から軍を連れて王都に来るよう、手紙で指示を受けた。二日後には出立するつもりだ」
「………ではランスロー様は、カンタルク軍と戦われるのですか………?」
カルティエはランスローに体を寄せながら、震える声で尋ねた。そんな妻をランスローは抱き寄せた。
「着いてすぐに戦いになることはないと思う」
ポルトール軍がその全力を挙げてカンタルク軍に立ち向かうために兵を集めるのであれば、あの手紙はアポストル公の名前ではなく国王陛下の名前で署名がされていなければならない。そうでなかったということは、父であるアポストル公が期待しているのは派閥抗争における威圧力、ラディアント公に対抗するための武力のはずだ。
「この状況で内戦を起こすほど、父上もラディアント公も愚かではないさ」
そう言ってみても、まだカルティエの表情は硬い。
「ですが、いずれは戦場に立たれることも………!」
「ああ、十分に有り得る」
その可能性をランスローは否定しなかった。否定してみたところでカルティエが信じるはずもないし、なによりこの場限りのウソで妻を欺くようなことをランスローはしたくなかった。
少しの間、沈黙が流れる。抱き寄せたカルティエの温かさが今は胸に痛い。
「………わたくしも、貴族の家柄。………覚悟は、できております」
下から覗き込むようにカルティエが顔を上げる。その表情は幾分柔らかくなっていた。
「ですが、今夜は一人にしないでくださいね?」
************
目が覚めると、そこには味も素っ気もない天井があった。
(味や素っ気のある天井も嫌だけど………)
背中から伝わる感触は、自分が寝ているのが硬い地面の上ではなく、普通のベッドであることを教えてくれた。
(ということは、ここはブレントーダ砦の中か…………)
体を起こし、辺りを見渡す。アズリアが眠っていたのは、石造りの簡素な部屋だった。ベッドのほかにはタンスと小さな机しかない。ベッドの隣に置かれたその机の上に、白銀の魔弓「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」が矢筒と共に置かれている。どうやら捕虜になったという可能性は排除してよさそうだ。
(どうやらブレントーダ砦は落とせたらしい)
そのことに歓喜よりもまず安堵を感じる。今回の遠征でアズリアに明確な役割があるとすれば、それは「守護竜の門」の宝珠を砕くことだ。宝珠を砕き、砦を制圧した以上、この遠征における彼女の仕事の八割は終わったといっていいだろう。後はウォーゲン大将軍の副官としていつもどおり仕事をこなせばよい。
(肩の荷が下りたな………)
それゆえの安堵だ。
「それはそうと、わたしはどれくらい眠っていたんだ?」
二つ目の宝珠を砕き、意識が遠のいたところまでは覚えている。そのまま気絶して、誰かがここまで運んでくれたのだろうが、一体どれほどの時間が経過したのか。
窓の外を確認すると、既に日は傾き始め、空は夕方に向かっている。砦の攻略を始めたのが午前中の日の高いころだったから、眠っていた時間は四・五時間といったところだろうか。
「にしても、矢を三本使っただけでこの有様か。なんとも凶悪な魔道具だな」
専用の矢である「流れ星の欠片」を「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」につがえて魔力を込めたときの、あの全身をねじ切られるかのような暴力的な感覚を思い出し、アズリアは思わず苦笑をもらした。以前試し撃ちをしたときからある程度覚悟はしていたが、いやはやそれ以上だった。
「一日に使えるのは三本まで。それ以上使ったら命の保障はしない」
そう語ったイスト・ヴァーレの言葉は正しかったわけだが、もう少し安全な魔道具を作って欲しいと思うのは、決して我儘ではないはずだ。
「まあそれでも、感謝しなければなんだろうな………」
白銀の魔弓の表面を指でなぞるようにして撫でる。この「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」はアズリアにとって間違いなく一番の宝物である。あるいは魔導士としての性かもしれないが、己の分身のように感じることさえあった。
自分のこの魔弓をめぐり合わせてくれたこと。弟であるフロイトロースを歩けるようにしてくれたこと。イストには色々と感謝しなければならないと思うのだが、あの「無煙」を吹かしている姿を思い出すと素直に感謝する気になれないのもまた事実であった。
(しかもそのことに罪悪感を覚えないし………)
その原因はもっぱらイストの側にあるだろう。と、アズリアがそんなことを考えていたその時。
――――コンコン。
誰かが、部屋の扉をノックした。
「あ、はい。起きてます」
扉を開けて入ってきたのは、ウィクリフ・フォン・ハバナであった。アズリアと同じくウォーゲン大将軍の副官で、先輩に当たる人物だ。
「気がついたか、アズリア」
ベッドの上で身を起こしているアズリアの姿を認め、ウィクリフは安堵したように息を吐いた。が、すぐに眉間にしわを寄せて厳しい顔をつくる。
「まったく、いきなり倒れやがって。心配したんだぞ」
「すみません、先輩。反省しています」
「そうだ。心から反省しろ」
腕を組み、ウィクリフは偉そうにのたまった。だがすぐに吹き出して自分で笑ってしまった。つられてアズリアも笑う。
「ま、体の調子もよさそうだし、なによりだ」
「ご心配をおかけしました」
アズリアがもう一度謝ると、ウィクリフは気にするなと言わんばかりに手をひらひらと振った。
「にしても、とんでもない魔道具だな、その魔弓は」
ウィクリフの視線が「夜空を切り裂く箒星(ミーティア)」に移る。軽いその口調とは裏腹に、彼の目は剣呑だった。
「たった三発ぶっ放しただけで三日も寝込むなんて、まともな魔道具じゃないな」
まさか一発につき一日寝込むとかそんなんじゃないよな、と彼は軽口を叩いた。しかし、あいにくとアズリアは彼の軽口には付き合えなかった。
「………先輩。今、なんと?」
「いや、だからこいつはまともな魔道具じゃないって………」
「その前!その前に何て言いました!?」
珍しく取り乱すアズリアを押さえるようにしながら、ウィクリフはその台詞を繰り返した。
「たった三発ぶっ放しただけで三日も寝込むなんて、って言ったんだが………」
どうやら聞き間違いではなかったらしいその言葉に、アズリアは呆然とした。
「三日も……、寝込んで……いた………?」
なんという失態だろう。砦を落とした後もろもろの雑事が山のようにあることは、これが初陣であるアズリアでも容易に想像できる。大将軍の副官という立場上、本来ならば忙しく働かなければならないその間中、自分はずっと呑気に寝ていたというのか。
「ま、まあ、気にするな。殺人的に忙しかったけど、お前が頑張ってくれなきゃ、そもそもこの砦落とせなかったんだから」
すっかり小さくなってしまったアズリアに慌ててウィクリフはそう声をかけた。しかし「殺人的に忙しかった」と言われたアズリアはさらに小さくなってしまう。そんな後輩の様子を見てウィクリフも自分の失言を悟って顔を引きつらせ、かけるべき言葉を求めて目をさまよわせた。
「本当に……ご迷惑おかけしました………」
消え入りそうな声でアズリアが謝る。
「ああ、うんまあ、なんだ、気にするな」
うまい言葉が見つからず、結局ウィクリフは当たり障りのない言葉を選んだ。もちろんそんな言葉でアズリアを慰められるわけもなく、二人の間には沈黙が漂い部屋の空気は加速度的に重くなっていった。
「だ、だからそこでだな!ここ三日のことをかいつまんで説明してやろうと、こう思ったわけだ!」
その空気を打ち破るようにしてウィクリフが声を上げた。ただ、半ばヤケクソ気味だったことは否めない。
「これも仕事のうちだ。ちゃんと聞くように!」
アズリアの生真面目な性分を把握しているウィクリフは、「仕事」という言葉を使うことで彼女の気持ちを軽くした。それが功を奏したのか、部屋の空気が幾分マシになりウィクリフは胸をなで下ろす。
「ま、お茶でも飲みながらにしよう」
「………そうですね」
ウィクリフの軽い調子の提案に、アズリアもつい微笑んでしまう。部屋の雰囲気が随分と明るくなったその時。
――――クゥゥ………。
「あ…………」
遠慮のない腹の虫が、可愛らしく自己主張をする。三日間なにも食べていないのだから当然といえば当然だが、このタイミングはあんまりだ。
「お茶じゃなくてメシのほうがいいか」
ウィクリフが努めて軽い調子でそういってくれたのは、はたして救いか追い討ちか。
「………はい………」
真っ赤になったアズリアは頷くことしかできなかった。
**********
「それでは、ポルトールのシミオン王子を討ち取ったのですか」
「ああ、そうだ。まあ、あちらはあちらで箔を付けときたかったんだろうな」
ウチの新国王陛下と同じ思惑だったってことさ、とウィクリフは軽い調子で言った。その遠慮のない物言いに、アズリアは思わず辺りを見渡してしまう。この時間、食堂に人気は少ないとはいえまったくの無人ではない。
「人に聞かれますよ………」
小声で嗜めて見てもウィクリフは「かまうもんか」と意に介さない。今回従軍したカンタルク軍の兵士の中で、彼と意見を異にする者はアズリアを含めほとんどいないだろう。ただそれを公言するのはさすがにはばかられる。それを気にしないのはウォーゲンただ一人だと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。
「大将軍に似てきましたね………」
「朱に染まればなんとやら、ってやつさ」
ニヤリ、とウィクリフは笑った。その表情は誇らしげだ。ウォーゲン・グリフォードは間違いなく尊敬に値する上官である。部下に対しては公正で、怒鳴りつけたり暴力を振るったりすることはまったくない。外からの、つまり貴族たちからの圧力に屈することはなく、平民出身の兵士たちからの信頼も厚かった。豪快で大雑把な性格が玉にキズのように思われることもあったが、完全無欠の無味無臭な性格よりよほど親しみやすいとアズリアは思っている。
そんな大将軍に似てきたといわれて嫌な気分になるものは、この砦にいるカンタルク軍の中、特に一般の兵士の中には一人もいないだろう。
「それで、ポルトールからなにか接触はあったんですか?」
最後のパンの一欠けらを口に放り込み、ナプキンで口元を拭ってからアズリアは気になっていたことを尋ねた。
「まだ何も。ただ大将軍は『ラザール王子の名前で和平交渉を申し込んでくるだろう』と仰っていた」
「ラザール王子………。確かポルトールの第二王子でしたね………」
ポルトールの国王ザルゼス・ポルトールは病床にあり政を行えず第一王子たるシミオンが戦死した以上、第二王子のラザールが交渉の矢面に立つのは順当な配役だろう。シミオンにはマルト王子という子どもがいるが、こちらはあまりにも幼すぎる。
「大将軍はその交渉を受けるでしょうか………」
「受ける。だが、タダでは受けない」
「………どういうことですか………?」
ウィクリフの言い回しが良く理解できず、アズリアは首をかしげた。交渉を受けるにあたって、何か「条件」を付けるということだろうか?だが交渉というのはその「条件」を話し合うものではないのだろうか。
「なに、ウォーゲン・グリフォードの老獪な一手というやつさ」
ウィクリフはこの一手を「老獪な一手」と称したが、後の歴史家たちは彼とは異なる呼び名を与えている。
すなわち、「傾国の一手」と。