シーヴァ・オズワルド、という人物がいる。
この人物が何を成したのか、ここでは書かない。読み進んでいただければ、いずれ筆を取る機会もあるだろう。
だが、この時代の歴史書を紐解くと、必ず彼の名前を目にする。ゆえに彼を舞台に登場させないことには、この物語も前に進まない。
彼を舞台に上げるにあたり、とりあえず彼の出身地であるアルテンシア半島について記述したいと思う。
アルテンシア半島はエルヴィヨン大陸の北西に突き出る形で位置している半島である。半島の先端の緯度はアルジャークよりも少し北に位置し、その付け根はオムージュやモントルムよりも南にあり、大陸の中央部にも近い。アルテンシア半島が巨大な半島であることは分かっていただけよう。
アルテンシア半島の歴史は悲惨である。
もっとも歴史書からさして独創的でもない言葉を引用するならば、
「歴史は流血のインクで記されている」
ということになる。だがそれでもアルテンシア半島における「インク」の量が他と比べて群を抜いていることは、多くの歴史家たちが認めている。
アルテンシア半島における「インク」の量が多くなるのは、多くの都市国家が乱立する頃からである。これらの都市国家はそれぞれが一州から多くとも五州程度の領地を支配し、それぞれ独自の文化を育んでいった。
支配単位が複数あれば、流血の交渉がもたれるのは、歴史としてはごく自然な流れである。
アルテンシア半島の版図は二三七州。この広大な版図の中で七十人強の領主たちが互いに凌ぎをけずり合ったのである。この頃の歴史を紐解けば、一日のうちに複数の戦場で流血がなされている事例を数多く見つけることができる。
どこかの村が消えてなくなった。どこそこの街が火の海になった。食料庫が襲撃を受けた。境界線があちらにこちらに書き変わった。これらのことはごくごく日常的なことであった。
アルテンシア半島の悲劇は続く。
この土地があるいは独立した島であれば、そのうち英雄が現れ統一を成し遂げたかもしれない。しかし残念なことにこの土地は大陸にくっついた半島であった。
半島の南や南東から、侵略者が押し寄せてきた。領地拡大と言う国家の欲望の前では、混乱をきたしている半島など格好の獲物でしかなかった。加えて、半島と言う地理的な立地は大陸とは異なる文化が育つ土壌となりうるが、アルテンシア半島の場合もそうであった。そして人は異文化に対し、時として想像を絶する蛮行をもってのぞむことがあり、それはこの半島において現実に行われた。
アルテンシア半島を脅かす侵略者は、大陸側からのみやってきたわけではない。
半島の先端のさらにその先に、ロム・バオアと呼ばれる大きな島がある。この島は冬が長く、土地がやせているため、穀物は育たない。同じ北国でもアルジャークなどは土地が肥沃で夏になれば奇跡のように実りを産するが、そのことと比べれば不幸な島であると言えるだろう。
だがそのような島でも人は住んでいる。大陸の人々が蛮族というところのゼゼトの民である。彼らは狩猟民族であった。
一般的な話であるが、狩猟民族や遊牧民族の直接的な収入源は動物の肉や毛皮である。では彼らが主食として肉を食べているかと言えば、実はそうではない。彼らの主食もまた穀物なのだ。ではその穀物をどうやって手に入れるかというと、早い話が肉や毛皮と物々交換するのである。
ゼゼトの民もまた同じであった。彼らは狩猟によって得た肉や毛皮をアルテンシア半島に持ち込み、そこで穀物などと交換していた。
そんな彼らが、大陸側からの侵略とほぼ時を同じくして、略奪を活発化させたのだ。
理由は幾つか考えられる。
まず第一にこの半島における混乱は彼らの目にも好機と映ったのだろう。略奪ならば思うままに欲望を遂げることができる。人の理性のたがは外れやすい。
加えて混乱により穀物を得ることができなくなったとも考えられる。穀物を手に入れなければ彼らとて餓えるしかなく(肉ばかり食べていてはすぐに獲物がいなくなってしまう)、それを避けるためにはあるところから奪うしかない。
こうしてアルテンシア半島は南北双方から侵略を受け、その混乱と惨状たるや悲惨なものであった。ここの領主たちが足並みを揃えることなく、個々に対処を試みていた時期はとくにそうであった。
ことここに至りついに、アルテンシア半島の領主たちは団結という選択に踏み切ることとなる。アルテンシア同盟の結成である。この同盟に参加した領主は当初十三人で、最終的には五十六人にまで増えた。
同盟の締結により状況は好転した。
細かい記述は避けるが、侵略軍の中で最も兵力が多かった(十三万五〇〇〇人と記録されている)軍を打ち破ったのを皮切りに、アルテンシア同盟軍は各地で勝利を積み重ねていった。
同盟軍が強いと見るや、侵略者たちは内輪もめを始めるようになった。彼らの目的はあくまでも侵略と略奪で、奪う相手はなにも同盟軍なくともよかったのだ。
混乱に付け込み、付け込まれる関係は、ここにおいて逆転した。侵略者たちはあれよあれよと言う間にアルテンシア半島から追い出されたのである。
残るは蛮族のみである。もっともこちらはすぐに終わった。混乱が収束するのと比例するように、ゼゼトの略奪隊はなりをひそめていったのである。
侵略者はいなくなった。しかしアルテンシア半島の人々の心には大陸人とゼゼトの民への言いようのない恐怖が残っている。その恐怖は克服されねばならず、彼らはそのために行動を起こした。
大陸側に関しては半島の付け根に堅牢な要塞を築き、いわば半島の出入り口に栓をした。この要塞はゼーデンブルグ要塞といい、なんと常時十万の兵を駐在させ大量の兵糧を抱え込んだ大要塞であった。
ゼゼトの民に対しては、要塞を築く場所が問題となった。彼らの略奪隊はいわばゲリラであり、不特定多数の場所に出現する。半島内のどこか一箇所に要塞を設けたとしても意味がない。設けるのであればロム・バオアに設けなければならない。
同盟軍は兵を催し、ロム・バオアに出兵した。そして破竹の勢いでロム・バオアの南半分よりゼゼトの民を駆逐し(多くのゼゼトの民は北のほうに逃れた)、そしてそこにゼーデンブルグ要塞と同規模の要塞である、パルスブルグ要塞を建設した。これによりアルテンシア同盟は、半島とロム・バオアのあいだの制海権を獲得し、ゼゼトの民を北へと追いやったのである。
これだけの事業を、侵略によって痛めつけられたアルテンシア半島の人々がやってのけたのである。いかに彼らの恐怖が深刻であったが、慮ることができる。
二つの大要塞に守られて、アルテンシア半島はようやく侵略者から解放された。領主たちも同盟の必要性を重々認識しており、内輪もめもひとまずは収まった。こうして半島に住まう人々は安息を手に入れたのである。
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以下、シーヴァを舞台に上げるため、続けて記す。
ゼーデンブルグ及びパルスブルグの両要塞はもちろん、建設工事用の魔道具が存在するとはいえ、完成までにそれなりの年月を費やしている。だがその基礎となる部分は比較的早い段階で完成した。
このときより、アルテンシア半島の人々は血みどろの戦争から解放されたと言っていい。そして次に始まるのは復興である。
あるいはこの時代が、アルテンシア半島の人々にとって最もよい時代だったのかもしれない。
領主と領民は等しく被害者であり、また復興を志す同志であった。今日の努力が明日には報われ、流した汗の量だけ幸せになれると、人々は本気で考えることができた。苦難の先には成功と豊かさがあり、十年二十年先の未来は輝かしいと、ごく素朴に信じることが許される時代であった。
だが、そんなよき時代もいずれは終わりを告げる。
復興を果たし豊かになった土地をただ受け継いだだけの領主たちの時代になると、半島の住民たちの上に再び暗雲が立ちこみ始めた。
アルテンシア同盟への参加により、領主たちは外敵に警戒する必要がほとんどなくなったといっていい。半島外の侵略者は二つの大要塞(この時期にはすでに完成している)がこれを防ぐだろう。他の領地を侵略することなどできないが、逆に自分の領地を侵略される恐れもない。
自然、彼らの目は自分たちの領地に向く。
領主たちは互いに競い合うようにしながら、自分たちの周りを豪華絢爛に飾り付けていった。壮麗な城と屋敷をいくつも建て、何人もの愛妾を囲い込んだ者がいる。黄金と宝石を溜め込んだ者がいる。珍しい魔道具を買い漁った者がいる。
これらの出費はすべて、領民たちの血税によってまかなわれていた。小幅ながら繰り返し行われた増税によって、税率はついに六割を超えている。
役人たちも腐敗した。賄賂を贈らなければ何もできない。貧しい者が無実の罪で獄へと引いていかれる。犯人捜査の名目で略奪が行われることも度々あった。
アルテンシア同盟と言う「家」を支える、いわば「柱」が腐りもはや腐臭さえ放っている時代。それがシーヴァ・オズワルドという男が舞台に上がる時代であった。
アルテンシア同盟には二種類の軍隊がある。
一つは同盟軍と呼ばれ、同盟に参加している領主たちが資金を出して運営し、半島全体から兵を募っている。同盟を一つの国と考えれば国軍に相当する存在である。
もう一つは警備隊と呼ばれている。これは各領主が自身の領地におくもので、軍隊と言うよりも警察機構を想像したほうが、役割としては近い。ただ実質的に領主の私兵であり、それゆえに腐敗するスピードも速かった。
シーヴァは同盟軍の将軍であった。役職名はパルスブルグ要塞司令官及び要塞常備軍司令官。パルスブルグ要塞を預かり、ロム・バオアにてゼゼトの民からアルテンシア半島を守る、北方の守護者であった。
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一人の男が城壁の上から雪原を眺めている。長身痩躯で、歳の頃は三十と少しといったところか。無造作に伸ばされた黒い髪の毛をもてあそぶ風は、刃にも似て鋭く冷たい。
「ここにおったか、シーヴァ」
その声を聞いてシーヴァはすぐに相手を察した。この要塞の中で彼を呼び捨てにする人間など一人しかしない。
「珍しいですな。ベルセリウス老がここに来るとは」
城壁に現れたのは一人の老人であった。その眼光は鋭く、この人物が曲者であることが傍目にも良く分かる。
「お主に少し用事がな」
そう言ってから、ベルセリウス老と呼ばれた老人は身を震わせた。
「しかし、ここは寒いな」
その言葉にシーヴァは苦笑する。要塞の一角に設けられたベルセリウス老の工房は、要塞内いやロム・バオアで間違いなく最も暖かい部屋である。兵士たちが老人の工房に温みにいって捕まり、そのまま強制労働させられていた事件は記憶に新しい。開放された兵士たちは、
「助かりました!もうサボりません!」
と、泣きながら言ったそうな。厳しい訓練を積んだ屈強な兵士たちに、トラウマじみた恐怖を植えつけた強制労働について、シーヴァは深く考えないことにしている。
「して、要件は何ですかな」
要塞内で起こった珍事件についての記憶はひとまずおいておき、シーヴァはベルセリウス老に尋ねた。
「依頼のあった魔弓『とく速き射手(アルテミス)の弓』注文通り三十張、完成した」
「そうですか。ありがとうございます」
シーヴァが礼を言うと、ベルセリウス老はつまらなそうに「ふん」と鼻を鳴らした。
「退屈な仕事だった。二度とやらせるな」
あまりに率直過ぎる物言いにシーヴァは再び苦笑した。
「そうするとしましょう。なにせ老公を怒らせると後が怖い」
シーヴァは肩をすくめるようにしてそういった。ベルセリウス老は特に何も言わなかった。あるいは自覚しているのかもしれない。
「・・・・・・もうすぐか」
「ええ、老公に造って頂いた魔道具のおかげでかなり戦力に余裕ができた。ゼゼトの民を引き込めれば御の字」
シーヴァの目に危険な光が宿る。
「お主は好きにやれ。儂は儂の作品が世界と歴史を動かす様子を見物させてもうとする」
アルジャーク帝国がそうであったように、この時代歴史は極寒の大地から動く。