その日、リリーゼ・ラクラシアはヴェンツブルクの都市の郊外から少し行ったところにある湖に来ていた。小さな湖で名前などはない。いや、調べれば分かるのかも知れないが、あえて調べようという気にもならなかった。近くに300年ほど前の小さな遺跡があるが、すでに調査は終わっており近づく人もいない。
静かで人気がなく、そして大量の水があるこの場所は父であるディグスから貰った「水面の魔剣」の修行には絶好の場所であった。
「水面の魔剣」を両手で持ち眼前に掲げる。眼を閉じ魔剣に意識を集中し魔力を込めると、刀身が蒼白色に淡く輝いた。しだいに湖に変化が現れる。大きく渦を巻くように水が動き始め、そして段々と速くなっていく。
リリーゼが「水面の魔剣」に込める魔力を増やす。刀身の蒼白色の輝きが強くなり、湖からは一本の水柱が重力に逆らって立ち上った。さらにその水柱は上下左右に、まるで生き物のように縦横無尽に動き回った。
二分弱ほど水を操ると、リリーゼのほうに限界が来た。魔剣の放つ蒼白色の輝きが弱くなり、動き回っていた水の蛇もただの水に戻り湖に落ちた。
「随分と慣れてきたな・・・・・」
大量の魔力を放出し、肩で息をしながらもリリーゼの顔は満足そうだった。最初は湖の水を少し動かすのが精一杯だったが、この三日でかなり上達しかなり思い通りに水を動かせるようになってきた。もっとも大量の水が近くにある状態なので、やりやすい環境なのは間違いない。が、父も兄も上達が早いと褒めてくれるのは嬉しい。この「水面の魔剣」と自分は相性がいいのかもしれない。
(いや、水の魔道具と、かな・・・・?)
まぁどちらでもいいか、と思考を切り替える。と、そのとき・・・・。
―――グァアアギャァアアアアア!!!
耳を劈(つんざ)くような獣の呼砲があたりに響いた。近くの茂みから1人の男が飛び出し、それを追って現れたのは、
「バロックベア!?」
バロックベアは大陸に広く生息する熊の一種である。気性が荒く、獰猛なことで知られている。土を食べる(主食ではない)習性があり、そのためか爪には希少な金属が含まれている。バロックベアの爪は鋭く安物の鎧などは紙切れの如く切り裂かれるとのことだ。一方でその爪は魔道具の素材などとしても用いられている。
今、リリーゼの前に現れたバロックベアは体長2m、体重300キロはあろうかという大物だ。純粋な野生の狂気に血走った眼をしており、その獣の発する殺気にリリーゼは身をすくませた。
幸いなことにバロックベアの獲物はリリーゼではなく、茂みから飛び出してきた男のほうであった。物理的圧力さえ感じる呼砲を撒き散らしながらバロックベアは自慢の爪を男に突き立てようとした。
「たく・・・・」
男は手にした杖を眼前に突き出しその爪を防いだ。いや、杖とバロックベアの爪の間には魔方陣に似た幾何学模様が描かれており、それが鋭い凶器を防いでいた。
「たく・・・・、少し鼻先蹴り飛ばしたくらいでブチ切れやがって。獣風情が!」
「いやそれは怒るだろ!!」
バロックベアの放つ殺気のプレッシャーも忘れ、リリーゼは名も知らぬ男にツッコんだ。それがきっかけとなり彼女の体は自由を取り戻す。そして「水面の魔剣」に全力で魔力を注ぎ込む。
「さがれ!!」
ツッコミの勢いそのままに叫ぶ。男が後ろに飛びのくのと同時に大量の水をバロックベアに叩きつけ押し流す。しかし相手の体が大きいせいか、数メートルの距離を開けることしかできない。
「くっ・・・」
もう一度魔剣に魔力を注ぎ込み、今度は意識を集中して水の刃を作り出そうとしたそのとき。
―――ブベチ!!
すさまじい打撃音がした。男が持っていた杖をフルスイングしてバロックベアの鼻に叩き込んだのだ。
「はぁ!!?」
あまりの行動にリリーゼの思考はついていくことができず、全ての行動が一瞬フリーズする。だが彼女が固まっている間も事態は進行する。
バロックベアは己の鼻先に打撃を叩き込んだ無礼者を許しはしなかった。凄まじい雄たけびを上げると、男を切り裂かんとその鋭い爪を振り上げた。が、男の行動はそれよりも速かった。懐からなにやら小さな小袋を取り出すとそれをバロックベアに投げつけたのである。なにやら赤い粉末が広がったかと思うとバロックベアは狂ったように悲鳴をあげ、転がるようにして茂みの奥へと消えていった。
「はーはっはっはっはっは!善良な一般市民様に手ェ上げるとどうなるか分かったか!獣風情が!」
そして後には馬鹿笑いをしている男がひとり残っていた。
「・・・・・さっきの赤い粉末は何なのだ・・・・?」
リリーゼとしては色々思うところもツッコミたいこともあったが、とりあえず一番気になっていることを聞いてみる。
「赤唐辛子、レッドペッパーの粉末だ」
こともなさげに男は答える。そして男はリリーゼに向き直り名を名乗った。
「イスト・ヴァーレだ。なにはともあれ助かったよ」
これが、緊迫していたのにどこか滑稽な感じがする、二人の出会いであった。
**********
リリーゼとイストがどこ間の抜けた出会いをしていたその頃、ラクラシア家の次男であるクロード・ラクラシアは騎士団の本部でここ最近のヴェンツブルクにおける入出国記録を調べていた。その中で何かしらの魔導士ライセンスを提示した者を調べていく。ジーニアスが受けた報告の通り、彼はその中にあの「水面の魔剣」を持ち込んだ人物がいると当たりをつけている。
(さすがにこれは骨が折れる・・・・)
多くの国や都市がそうであるように、ここヴェンツブルクにおいても入国に際し入国税というものが発生する。魔導士ライセンスを提示するとこの税金が減税されたり、種類によっては免除されるのだ。そのため行商などを生業としていてもライセンスを持っている、という者も多く、該当者は膨大であった。
ざっと流しながら記録を確認していると、ここに三日で頻繁に出入国を繰り返している人物がいた。その名前は、
「イスト・ヴァーレ」
提示したライセンスは魔導士ギルドのもので、備考の欄には「遺跡探索・趣味」と書いてある。
自分の妹が今現在その人物と、気の抜けた邂逅を果たしているなど、クロードは知る由もない。しかし、その名はなぜか彼の記憶の片隅に残ることになるのだった。