「一同、面を上げよ」
謁見の間に重々しい威厳に満ちた声が響いた。アルジャーク帝国皇帝ベルトロワ・アルジャークの声である。彼の目の前で膝をつき頭をたれているのは、モントルム遠征より今まさに凱旋したクロノワ・アルジャーク以下主だった将兵一同である。
「此度の遠征について、詳細は既に聞き及んでおる。いたずらに兵を損することなくかの国を平定した手腕、見事である」
褒めてつかわす、という形式的な褒め言葉に、クロノワも
「ありがたき幸せにございます」
と、これまた形式的に礼を返す。もとよりこの場でこうして謁見していること自体が、かなり形式的で儀礼的な行事なのだ。大筋が慣例に従った流れになるのは、むしろ当然のことといえる。
皇帝ベルトロワはクロノワの後ろに控えている者たちに視線を向ける。
「アールヴェルツェ将軍も大儀であった。軍の指揮経験のないクロノワが首尾よく遠征をおこなえたのも、ひとえに将軍の勲(いさお)であろう」
「恐縮にございます。殿下の助けとなれたのであれば幸いと存じます」
さらに決まりきったやり取りが幾つか続く。それからふいにベルトロワは話題を転じた。
「ところで見慣れぬご令嬢がおられるが、どなたかな」
まずはクロノワが答えた。
「はっ、こちらは独立都市ヴェンツブルグより参られた使者で、リリーゼ・ラクラシア嬢でございます」
「ああ、ヴェンツブルグの三家が一つ、ラクラシア家のご令嬢か」
三家がヴェンツブルグにおいて強い力を持っているとはいえ、それはたかだか一都市でのことである。にもかかわらず皇帝ベルトロワが、格下の存在であるラクラシア家を知っていたことにリリーゼは少なからず驚いた。
とはいえこれはある意味で当然のことであった。ベルトロワは不凍港を欲しており、そしてアルジャークに最も近い不凍港が独立都市ヴェンツブルグなのである。当然、その都市の情勢はすでに調べ上げている。
リリーゼが一歩前に出て挨拶をする。
「お初にお目にかかります、ベルトロワ皇帝陛下。リリーゼと申します。このたびは独立都市ヴェンツブルグの執政院より親書を持参いたしました」
「この場で目を通していただければ幸いです」
そういうクロノワにベルトロワも、
「拝見しよう」
と、答えた。
親書の入った木箱を手に、リリーゼはいそいそと皇帝の前に出た。ちなみに、このときクロノワは、
(転ばないでくださいよ・・・・)
と、極めて低次元の心配をしていた。そんなクロノワの心配を知ってか知らずか(いや、確実に知らなかったと思われるが)、リリーゼはそんな大ポカをすることなく、親書をベルトロワに渡した。
今、ベルトロワが親書に目を通している。
クロノワは先ほどとは別の意味で緊張してきた。あの親書はヴェンツブルグの執政官たちとクロノワの間で作成したものである。だが現時点では何の効力もない。この場でアルジャーク帝国皇帝たるベルトロワが承認して初めて、効力を発するのだ。彼が気に入らなければこの場で破り捨てられてしまうかもしれない。
(まるで目の前でテストの採点をされているようです)
なんともいえない嫌な緊張感だ。だがそれも長くは続かなかった。
「委細承知した」
その一言で、クロノワの肩の荷が一気に下りた。この瞬間、彼のモントルム遠征が本当に終わったといっていい。
「後日、返事の親書をしたため、リリーゼ嬢が帰路につく際に届けていただくとしよう」
そういってからベルトロワはクロノワに目を向けた。
「親書によれば執政官を一人アルジャーク側から送り込むことになっているが、クロノワよ、誰か意中の人物でもいるのか」
皇帝は試すような目をクロノワに向ける。
「私はヴェンツブルグに関して、なんら権限を持っておりません。どうぞ陛下がお決めになってください」
そう答えたクロノワに対しベルトロワは、
「ふむ」
といっただけで、それ以上は何も言わなかった。おそらくまた後日考えるつもりなのだろう。
「クロノワよ、此度の遠征、まことに大儀であった。褒美を取らせるゆえ、なにか希望があれば申してみよ」
ベルトロワの一言で、場が一気に緊張した。他人ならばいざしらず、皇子であるクロノワがこの場で何を求めるのか、それは多分にして政治的な意味合いと思惑を持つのだ。
この場合恩賞を断ると言うのは、かえって失礼にあたる。かといって分不相応な地位や権限を求めれば、皇帝の椅子を狙っているのではないかという、あらぬ疑いを掛けられるかも知れぬ。
(まがりなりにも皇帝の血をひいていると言うのは、なんとも面倒なことです)
そんなクロノワの内心に、周りにいる高官や武将たちは気づかない。
(さて、クロノワ殿下は何を求めるのか・・・・・)
ある者は目踏みをするように、ある者は見定めるように、それぞれクロノワを注視する。
無難なところで、屋敷だろうか。この宮廷がクロノワにとって決して居心地の良い場所ではないことは、周知の事実だ。精神的にも快適な生活空間を手に入れたいと思うのは、ごく自然なことに思える。
あるいは帝国に伝わる宝物や名剣、魔道具さらには名馬、といった選択肢も考えられる。つまるところ政治的に差障りのないものを願い出るだろうと、その場にいた人々は思っていたのである。
「では、アルジャーク帝国版図二二〇州の全ての行き来について、通行税やそれに類する税を課されないよう進言いたします」
クロノワは頭をたれる。
「この進言、お聞き入れくだされば、これに勝る恩賞はございませぬ」
その場にいた一同は唖然とした。
国境の行き来は言うまでのなく、国内に通行税やそれに類するものが存在すること自体はさほど珍しいものではない。貴族たちが自分の領地に入るものに税を課すことは良くあることだし、自治権を持つ都市(例えばヴェンツブルグのような)においても同様の税をとることが普通だ。
今回の大併合で、アルジャーク帝国はオムージュとモントルムの版図を得た。それは国境線が三つ消えたことを意味している。それぞれの国境で課されていた入国税や通行税などは、ひとまず減額されるが当面は(名目は変わるだろうが)残るだろう、というのが大方の予想であった。
クロノワはそれを、一度に廃止せよという。
クロノワした進言の意味はわかる。これは帝国国内の行き来を自由にせよ、ということだ。その目的は物流の拡大と商業の活性化だろう。人やモノの往来を自由にすることによって経済を発展させるというのは、古来より用いられてきた手法だ。
だからその場にいた一同は進言の目的を図りかねたのではない。そう進言したクロノワの意図を図りかねたのだ。
ただ一人、ベルトロワだけはクロノワの意図をほとんど察していた。
(人やモノが動けば、すなわち道ができる)
大量の水を流すためには大きな川が必要なように、大量の人やモノそして金が動けば、そこには自然と太い道が出来上がるのだ。もちろん整備や安全維持のために多額の資金が必要になるだろうが、それは活性化した経済が補ってなおお釣りが来るであろう。
(そうやって出来上がった道は、経済だけではなく軍事にも有用だ)
切り開かれていない森や整備されていない荒れ野を移動するよりも、人が踏み固めた街道を行くほうがはるかに容易だ。そしてそれは軍の移動にも当てはまる。いや、集団で行動しなければならない以上、個人の旅人と比べ時間的な差はより顕著に現れるだろう。さらなる覇道を求めるベルトロワにとって、これは無視できない要素(ファクター)だ。
(恐らくクロノワが太くしたいと思っている道は二つ・・・・)
一つは帝都ケーヒンスブルグから独立都市ヴェンツブルグに至る道。そしてもう一つはオムージュの旧王都ベルーカからヴェンツブルグに至る道だろう。
有事の際には前者は軍の移動に、後者は補給物資の搬送に用いることができる。そして独立都市ヴェンツブルグは帝国唯一の不凍港として、軍と補給物資の集積と移動のための拠点となるのだ。
つまりクロノワは、
「さらなる覇道を求めるならば、そのための下地を作るべきだ」
といっているのである。無論、経済の活性化による税収の増加もその一つだろう。
(広い視野を持つようになったな)
もっともベルトロワもクロノワの考えの全てを察したわけではない。彼は独立都市ヴェンツブルグを人とモノと金が集まる一大拠点とすることで、ここを訪れる船の数を増やそうと考えたのだ。これはベルトロワの覇道のためというよりはむしろ、友人であるイストに語った、
「この世界を小さくして見せる」
という己の野望のための第一歩である。
「その言、確かに聞き入れた」
ベルトロワが宣言する。帝国国内の移動については、通行税やそれに類する税は一切課さない、と。さらに、
「クロノワよ、そなたを旧モントルム領総督に任命する。また独立都市ヴェンツブルグの執政官の選出についてはモントルム総督に一任する」
場がざわめいた。モントルム遠征軍を任されたとはいえ、クロノワは未だ正式な役職を持っておらず、そういう意味では彼はまだ日陰者のままであった。が、此度の功績により彼はモントルム総督に任命された。この帝国内において、一種独立した権限を任されたのである。これはベルトロワが、クロノワのこれまでの仕事や功績を鑑みて、重責に耐えうると判断したと言うことでもある。そう考えるならば、先ほどの問いかけは皇帝が最後の試験をした、とも考えられる。
「謹んで拝命いたします」
片膝をつき頭をたれるクロノワの声を聞きながら、その場にいた人々は正しく二つのことを理解した。
クロノワ・アルジャークはもはや日陰者ではなく、国を支える柱の一つになったということ。そして、
(旧オムージュ領の総督になるのは、レヴィナス皇太子か・・・・・)
ということであった。
クロノワのことはともかく、レヴィナスが旧オムージュ領を任されるであろうことは、この遠征の前からある程度予測されていた。それがこの瞬間、確信へと変わったのである。あのクロノワがモントルム総督に任じられたのであれば、オムージュを平定したレヴィナスがそれ以上の恩賞を受けるのは至極当然な流れであり、であるならば自らが切り取ったオムージュの土地を任せるのが最も無難なのだから。
それにこれならば皇后も文句は言うまい。同じ総督であっても、レヴィナスが任された旧オムージュ領は七〇州であり、クロノワが任された旧モントルム領三〇州の倍以上ある。力関係は歴然だ。
ただ、クロノワとしては任されたのが旧モントルム領でよかった、否、旧モントルム領でなければならなかった、と思っていた。なぜなら旧オムージュ領は内陸であり、海に面していないのだから。彼の野望のためには、海が、港が、船が、どうしても必要だからだ。そのため、独立都市ヴェンツブルグという良港をもつモントルム領の総督に任じられたのは、彼にとって最大の僥倖であったといえる。
このときより、彼の野望が動き出したといっていい。