ノラ・フォン・ヴァーダーにとって自身を取り巻く昨今の状況は、決して面白いものではなかった。
「すべてフロイトロースが悪いのです」
自身の息子であるフロイトロースの足が不自由で、魔道卿になるのが不可能であることや、その後釜に座ったのがアズリアなどという、どこの馬の骨ともしれない娘であったことも、すべてが面白くなかった。
ノラの父はヴィトゲンシュタイン伯爵といい、カンタルク王国において由緒正しい家柄である。彼は自身の娘を愛してはいたが、貴族としてごく普通に彼女に政略結婚をするよう求めたし、またノラ自身もそのことを当然と思い受け入れていた。
ヴィトゲンシュタイン伯爵が愛娘の嫁ぎ先として目を付けたのは、政治と軍の両方に強力な発言力のある魔道卿、ヴァーダー侯爵家であった。当時結婚などするつもりのなかったビスマルクに、彼は強引に娘を娶らせ、またノラもおしかけるようにしてビスマルクのもとに来たのであった。
魔道卿の義理の父として権勢を振るうつもりでいたヴィトゲンシュタイン伯爵のもくろみは、しかしすぐに崩れた。ビスマルクは彼の介入を、政治であれ軍事であれ一切許さなかったのだ。
「これは魔道卿の責ゆえ、口出しは無用に願いたい」
そういうビスマルクのプレッシャーに押され、ヴィトゲンシュタイン伯は引き下がらざるを得なかった。ビスマルクにしてみれば、たかだか姻戚関係ごときを盾にして、国の行く末に関わる決定に口出しをされてはたまったものではなかったのだろう。魔道卿の権力は、有象無象の貴族どもがゲーム感覚で玩ぶそれとは図太い一線を画しており、それゆえに資格の無いものが関与することは許されないのである。
しかしヴィトゲンシュタイン伯は諦めなかった。目の前の権力を諦められないという意味で、彼は正しく有象無象の貴族でしかなかったわけだ。
「ノラよ、男の子を産むのだ。次の魔道卿をな」
彼が次に目を付けたのは、魔道卿の祖父という地位だった。幼い頃から自分の影響下に置き、魔道卿になった暁には傀儡にしようという魂胆だった。しかしここでも彼は浅はかであったと言うしかない。魔道卿とは血筋よりも実力が重視される役職だ。ビスマルク自身もそうして選ばれたし、またそういう基準で後継者を選ぶだろう。
今、後継者として育成しているアズリアでさえ、不適格と思えば躊躇なく切り捨てるに違いない。そもそも彼女が後継者として選ばれたのも、王立士官学校の魔道科を首席で卒業するという秀逸な成績を残したからであり、ただビスマルクの娘だからという理由ではないのだ。
だが、ノラやヴィトゲンシュタイン伯にはそれがわからない。フロイトロースの足が動かなかったから、次の魔道卿になれないから、これ幸いと自分が下働きの女に産ませた娘に後を継がせようとしていると、そう考えた。
「足さえ、フロイトロースの足さえ動けば・・・・・」
そう思うヴィトゲンシュタイン伯親子の思いは怨念に近い。
ノラはフロイトロースが次の魔道卿にならない限り、自分がビスマルクと政略結婚した意味がないと正しく理解している。ならば今の自分はただの役立たずではないか。そんなこと、彼女のプライドが許さない。
ヴィトゲンシュタイン伯にしてみれば、絶大な権力まであと一歩なのだ。少なくともそう思っている。ヴィトゲンシュタイン伯は有象無象の貴族らしく権力に対する執着心は人一倍で、そんな彼がこの現状で諦めが付くはずがないのだ。
ヴィトゲンシュタイン伯は早く次の子どもを産むようノラをせっついた。ノラはまだ十分に若く魅力に溢れた女性だ。二人目はすぐにできると彼は思っていた。しかし、彼女はどうしてもそうしようとはしなかった。
欠陥品も一人だけであれば偶然ですむ。そして自分は少なくとも人々から同情を受けることはできるだろう。だがもしも、もしも次の子供も、体が不自由な欠陥品であったとしたら・・・・?
(わたくしまで、まるで欠陥品みたいではありませんか・・・・!)
その言い訳のできない欠点を、彼女のプライドは恐れる。故に彼女は二人目の子どもをつくらない。否、つくれない。
それぞれが、それぞれに思惑を持っている。複雑に絡み合ったそれは、一見どうしようもなく堅牢そうに見える。そういう現状の上に、アズリアとフロイトロースの姉弟は立っている。
**********
フロイトロースが目を覚ますと、そこには見慣れた天井があった。窓からは光が差し込んでおり、まだ十分に明るい。
(お昼を食べて、そのまま・・・・・)
寝てしまった。寝起きのぼんやりとした頭でもそれはすぐに分かった。
体を引きずるようにして起こす。枕を重ねて背もたれにし、体重を預ける。
窓に目をやる。ほんの数メートルしか離れていないはずの窓が、ひどく遠く感じた。姉上に頼めばすぐに外に連れて行ってくれるだろう。いや外に出るだけなら、この屋敷の侍女に頼めば出られるだろう。
(でも、僕一人じゃ、できない・・・・)
その事実は少年の心を重くする。
姉のアズリアが来てからは楽しかった。毎日外に連れて行ってもらい、たくさんのものを見た。けれでもそんな毎日は、押し殺したはずの夢を思い出させる。
歩こうと練習したことはある。だが、結局一度として立つことすら出来なかった。どれだけ念じても願っても、彼の両足はそれを無視した。あざと失望ばかりが増え、歩くことを諦めるまでにそう時間はかからなかった。
(でも、本当は・・・・)
歩きたい。自分の足で立って、歩き、そして走りたい。そうすればきっと・・・・。
俯き奥歯を食いしばり掛け布団を握り締めて、フロイトロースは小さな体を震わせた。
無性に、叫びたかった。
「歩きたいか?」
突然、声をかけられた。誰もいないはずなのに。
驚いて顔を上げると、魔法使いがいた。たぶん魔法使いだ。なにしろそれっぽい杖を持っている。だけど黒いローブも着ていないし、細長いパイプのようなものを吸っている。
フロイトは自分の直感を信じ切れなかった。
「あの、どなたでしょうか・・・・?」
「ああ?そうだな、魔法使いだ」
男はそう答えた。それからニヤリ、と笑って、
「それも、極悪非道で意地悪な」
と、付け加えた。
はあ、と答えるしかない。どうやら自分の直感は間違っていなかったらしいが、最近の魔法使いはみんなこうなのだろうか。お話に出てくる魔法使いたちは、もっと真面目と言うか、こんなに軽いキャラではなかったように思う。良いヤツか悪いヤツなのかは別としても。
「魔法使いなんてこんなもんだぞ。みんな自己中で軽いヤツばっか」
そうなのか、とフロイトは納得した。何しろ魔法使い本人がそういうのだから間違いない。
こうして極悪非道で意地悪な魔法使いことイスト・ヴァーレは、純朴な少年を騙した、もとい、からかったのであった。大きくなってこの世に本当の魔法使いなどいない、ということを悟ったとき、彼は自分がからかわれたことに気づくのだろう。
「それはそうと、歩きたいか?」
魔法使いは最初の質問を繰り返した。
「治せるんですか!?」
魔法使いならあるいは、とフロイトは期待のこもった目で彼を見た。
「治すのは無理だ。なにしろ極悪非道で意地悪だからな。オレは」
男はフロイトの期待をバッサリと切って捨てた。
「が、ただ動くようにはできるかもしれん」
フロイトが失望するよりも早く、魔法使いはそういった。ただフロイトには「治す」ことと「ただ動く」ようにすることの違いは良くわからない。
「分かんなくていいよ。結果的に同じだから」
とりあえず足を見せてみな、と言って魔法使いはフロイトの足を見た。フロイトは思わず目をそらした。動かない自分の足を見るのは嫌いだった。
「ふむ、外傷は特になし。関節も正常。痩せすぎていることを除けば、特にへんなところはないな」
膝や指を曲げながら魔法使いはそう呟いた。
「触られているのは分かるか?」
軽く叩くようにして、魔法使いはフロイトの足に触れた。
「はい」
触覚は正常、と呟いた。そして、
「痛っ」
つねられた。
「痛覚も正常、っと」
恨みがましい目を向けるが、恐らくは意図的に、魔法使いはスルーする。白い煙のようなものを吐きながら、なにやら考えているようだった。
「・・・・・動くようになりますか・・・・・」
一縷の望みを込めて、尋ねる。
「過去は未来を保障しない。そして否定も」
「・・・・・よく、分かりません・・・・・」
「諦めるな、ってことさ」
寝具をフロイトに掛けなおし、魔法使いは彼の頭をワシワシと撫でた。少し痛い。
「じゃあな」
そっけなくそう言うと、魔法使いはフロイトに背を向けた。その背中はだんだんと透けていき、そして唐突に魔法使いは部屋からいなくなった。なんともそれらしい帰り方だと思った。
寝具の下の、自分の足を見る。何も変わってはいない。けれども、フロイトの心は少し軽くなっていた。
「諦めるな・・・・・か・・・・・」
可能性を否定されなかった。今は、それだけでいい。そう思った。
さっきまでいた、フロイトロース・フォン・ヴァーダーの部屋を外から見上げている男がいる。魔法使いことイスト・ヴァーレである。
「ありゃ、本当に動かないだけ、だな」
なぜ、動かないのかはさっぱり解らない。が、イストはそんなことは微塵も気にしない。なぜなら彼は医者ではなく、魔道具職人だから。そして、
(治すことは無理でも、動かすだけならできる。そういう魔道具なら造れる)
そう考えているから。
(でもまぁ、歩けるようになるかは、結局フロイトロースの手の届かないところで決まるんだけどな)
そういう魔道具を作ることはできる。イメージは既に頭の中で出来上がっているし、そもそもアバサ・ロットの名を持つ彼にとって、それほど難しい魔道具ではない。
だが、出来上がった魔道具をフロイトロースに、あの歩くことを渇望している少年に、直接わたす気は、毛頭ない。そう、なぜなら彼は極悪非道で意地悪なのだから。
(すべてはアズリア・フォン・ヴァーダーしだい・・・・・)
彼女はどんな決定を下すのだろうか。そして、その過程で何を思うのだろうか。
(楽しくなってきたじゃないか・・・・・!)
邪悪に、彼は笑う。これから起こるであろう、苦悩に満ちた喜劇を思い、彼は笑う。
全ては、彼がアバサ・ロットであるがための、その名を継いでいるが故の、茶番だ。けれどもそれはアバサ・ロットが、アバサ・ロットであるためにどうしても必要な茶番なのだと、そうイストは考える。
(さて、お前は認めさせてくれるのかな)
すべては彼女しだい。「アバサ・ロット」とはそういう名で、そういう存在なのだから。
**********
「姉上、どうかしましたか?」
フロイトロースのその声で、アズリアは我に返った。視線を落とすと、膝の上に座ったフロイトがこちらを見上げている。
「あ、ああ。すまない。考え事をしてしまった」
今、二人は屋敷の書庫にいる。夕食後にフロイトがねだったので、ここで本を読んでやっているのだ。
フロイトは既に絵本を卒業したらしく、今読んでいるのは子供向けの小説だ。文字が大きく平易な言葉で書かれており、絵本ほどではないが挿絵も多い。船乗りの少年が宝の地図を手に入れ、仲間と協力しながら海賊たちと戦い、ついには財宝を手に入れて恋人と幸せに暮らす、という内容だ。
この屋敷に来てから、毎晩少しずつこうして読んでやっている。
「『水平線の彼方から、黒い帆を張りドクロマークの海賊旗を掲げた船が、こちらに向かってすごい速さで近づいてきます。・・・・・・・・・』」
続きを読む。けれどもアズリアの思考は、別のところへと離れていく。
『フロイトロース・フォン・ヴァーダーの足が動くようになるとはどういうことか、一度良く考えてみることだ』
あの、イスト・ヴァーレとかいう魔道具職人が去り際に言ったその言葉は、彼女の心に言いようのない影を落としている。
気にする必要はない。無視すればいい。そう分かっている。けれども、彼が語った言葉はそれを許さない。
『足、動かすだけなら方法はあるかもしれないぞ、と』
治すことは無理だ。けれども動かすだけなら、意外と方法はある。彼はそういったのだ。
ゆえに、アズリア・フォン・ヴァーダーは考えねばならない。
フロイトロース・フォン・ヴァーダーの足が動くようになったとき、自分にはどのような影響があるのか、ということを。
「『・・・・・船乗りたちは船の積荷を次々と海に捨てていきます。少しでも船を軽くして、海賊たちに追いつかれないようにするためです。・・・・・・』」
昨日、この屋敷の侍女長に泣かれた。
「アズリア様がいらしてから、お坊ちゃまは本当によく笑われます。あんな楽しそうなお坊ちゃまを見るのは初めてです・・・・・!」
そういって、侍女長は泣きながら自分に礼を言ったのだ。
歩けるようになれば、フロイトは喜ぶだろう。そして、もっと笑うようになるに違いない。恐らくは、王都フレイスブルグのヴァーダー侯爵家の屋敷で生活するようになるのだろう。今現在のように、日陰者扱いされることもなくなる。
足さえ動けば万事うまくいきフロイトは幸せになれる、などと安直に考えられるほどアズリアは子どもではない。足が動こうがそうでなかろうが、苦労も苦痛も後悔も苛立ちも、経験していかなければならない。けれども少なくとも歩ければ、その苦労も苦痛も後悔も苛立ちも、前向きにしていけるのではないかと思うのだ。
「・・・・・突然、空に黒い雲が現れました。風が強くなり、雨が降り始めます。雷の鋭い光と大きな音が響くと、雨がさらに激しくなりました。・・・・・・」
フロイトの足が動くようになったら、ビスマルクは喜ぶだろうか。
アズリアがヴァーダーの姓を名乗るようになってからおよそ一年半。ビスマルクは一度として父親の顔を見せはしなかった。彼は良くも悪くも厳格な魔道卿で、その領分を越えてアズリアと接することはなかった。
だから、フロイトが歩けるようになったからといって、ビスマルクが感情を表に出して喜んでいる姿をアズリアは想像できない。もっともこれは、多分にして彼女の独断と偏見に基づく予想だが。
まあ、それでも、嬉しいか嬉しくないかの二択を突きつけられれば、嬉しいと答えるのだろう。彼とて人の親。それくらいの感情は持ち合わせているはずだ。これもまた、多分にして彼女の独断と偏見に基づく予想だが。
ノラ夫人はどうだろう。アズリアとノラにはほとんど接点がない。この一年半の間、姿を見かけることは稀だったし、挨拶程度の簡単な会話でさえ、あるいは両手の指の数ほどもしていないかも知れない。
アズリアとしては積極的に彼女を避けたつもりはないが、あるいはノラのほうがアズリアを避けていたのかもしれない。
ゆえに、アズリアはノラ夫人の人となりを知らない。だが、なぜ彼女がヴァーダー侯爵家に来たかは耳に入っている。そういう類のゴシップは、たとえ耳を塞いでいても聞こえてくるものだった。
だからきっと、ノラ夫人はフロイトが歩けるようになれば喜ぶだろう。彼女の父であるヴィトゲンシュタイン伯ともども、狂喜すると言ってもいいはずだ。
喜んで、狂喜して・・・・・・、どうするのだろう・・・・・。
「『・・・・・突然の嵐を切り抜けると、海賊船の姿は見えなくなっていました。船員たちはほっと安心しました。さらに、嬉しいことがおきました。鳥が見つかったのです。その鳥は、陸地の近くにしか住んでいない鳥でした。・・・・・』」
では、翻ってわが身はどうだろう。この、アズリア・フォン・ヴァーダーは。
もちろんフロイトが歩けるようになれば嬉しい。嬉しいに決まっている。
アズリアがヴァーダーの姓を名乗るようになった、そもそもの理由の一つはフロイトが生まれつき歩けなかったからだ。少なくとも彼女はそう思っている。そして、その意識は常に小さな痛みをアズリアに与え続けている。フロイトロース・フォン・ヴァーダーの不幸と苦しみの上に今の、少なくとも世間一般には恵まれているといえる、自分がいる。そういうふうに考えてしまうのだ。
これは、はっきりと分かる。
(わたしは、フロイトに負い目を感じている・・・・)
フロイトが歩けるようになれば、この負い目から解放される。だから嬉しいのだろうか。そう考えると鬱になる。なんだか、彼を純粋に祝福できていないようで。
(自分が楽になりたいがために、フロイトの足が動くことを望んでいるみたいだ・・・・・)
それは、嫌だ。
「『・・・・・・その日の夕方、彼らは島に着きました。どうやら、ここが宝の島のようです。急ぐ必要はないと思った船長は、みんなにキャンプの準備をさせました。ですが、彼らは知りません。海賊たちもまた、この島に流れ着いていることを』」
そこまで読んでパタンと本を閉じる。
「今日はここまでにしよう」
フロイトは「もっと」せがんだが、夜も更け彼にはもう寝る時間だ。不満げなフロイトも、また明日と約束すると納得してくれた。
弟を部屋に送ってから、アズリアも自室に下がる。本来は客室なのだが、ほんの数日でもそこで生活すれば愛着が沸く。
(そういうことにこだわるタチではないと、自分では思っていたのだがな・・・・・)
思えば士官学校の寮を出るときも寂しく感じた。
ベッドに腰を下ろし、再び考え始める。
フロイトの足が動くようになり、彼が歩けるようになれば、自分は彼を祝福できるだろう。しかし、その祝福はともすれば自分の負い目からくるもので、心から喜んでいることにはならないかもしれない。
「心から祝福してあげたいのだけれど・・・・・」
そのために、何か理由がほしいと思った。けれども何も浮かばない。いや、そうやって理由を求めること自体が、なにやら不純な気がするのだ。
ふと、思う。
歩けるようになったフロイトを、心から、負い目とか関係なく祝福してあげたいと思うこと。それは我儘なのだろうか。
(そうかもしれないな・・・・)
結局それはアズリアの問題であって、フロイトの問題ではない。
歩けるようになるのも、それによって環境ががらりと変わるのも、全てはフロイトの問題だ。わたし、アズリア・フォン・ヴァーダーは結局それを外から眺めていることしかできない。わたしが何を思っていたとしても、それでフロイトが歩けるようになるわけではないし、その逆もまたしかりだろう。
二つの違う問題を、ごっちゃに考えていたから悪かったのだ。そう思うと、なにやら気が楽になった。
(フロイトの問題が解決したことを喜べばいい。わたしのほうは、まぁおいおい・・・・)
ひとまず結論らしきものが得られたことに、アズリアは満足した。