悪夢を見た夜から数えて二日後、イストはカンタルク王国サンバント州のとある町に来ていた。
朝食が終わり、人々が本格的に働き出す時間帯だ。乾いた空気は心地よく、青く澄み渡った空は、人々の営みを祝福しているかのようだ。
イスト・ヴァーレはご機嫌だった。しかも、この清々しい陽気とはまったく関係のない理由で。
「・・・・本当に・・・・よろしいのですか・・・・・?」
呆れを通り越し、もはや驚愕の域に達した酒屋の店員の女性がイストに再度確認する。
「うん、よろしく~」
「はぁ・・・・」
彼女の前には空の魔法瓶が並べられている。
魔法瓶は中に入れた液体の温度や品質を一定に保つ効果のある魔道具だ。この時代、ガラスは比較的普及していたが、それでもある程度値が張った。つまり、お酒を買うたびにガラスの入れ物も買っていると、結構な出費になるのだ。そこで、魔法瓶などの容器を自分で用意して、酒屋に買いに来る客が多かった。
そういう意味では目の前のこの客も、一般的な部類に入るのだろう。
その、魔法瓶の数さえ考えなければ。
カウンターに並べられた魔法瓶は、軽く三十本はあるだろう。さらに彼の足元をのぞけば魔法瓶を納めた木箱が一つ二つ・・・・・。
どんだけ買う気ですか・・・・・・。
「では確認しますが、赤ワインと白ワインがそれぞれ十本ずつ、ブランデーとウィスキーが五本ずつ、残りはワイン以外の果実酒や各種リキュールを、でよろしいのですね」
「そそ、それでよろしく」
では、といって店員は奥に下がっていった。一人では手に余るから応援を呼びに行ったのだろう。すぐに複数の店員が出てきて作業を始めた。カウンターの奥にある酒樽から魔法瓶にお酒を移していく。
「いやいや、香りさえ久しぶり」
とは言っても三日程度の話だが。
「そういやさ~、町の外れに結構いいつくりの屋敷があるよな」
芳醇な香りを楽しみながら、イストは店員に声をかけた。
「ああ、ヴァーダー侯爵の別荘ですよ」
ヴァーダー侯爵と聞いて、イストは頭の端っこでホコリを被っていた情報を引っ張り出す。確か、カンタルクの魔導士の親分だったはずだ。
「親分って・・・・・。まぁ、似たようなものですが」
店員の話によると、ヴァーダー侯爵自身があの別荘に来ることは稀らしい。今のヴァーダー侯爵であるビスマルク卿は一度も来たことがない。
「じゃあ、あの屋敷は使ってないのか。もったいない」
「いえ、ご子息のフロイトロース様があの屋敷で暮らしておいでです」
ビスマルクとその夫人ノラの間に生まれた子供、それがフロイトロース・フォン・ヴァーダーである。魔道卿の子として生まれ、当然のことながら次期魔道卿そして次期ヴァーダー侯爵になることを期待される身である。だが今現在、彼には欠片の期待も寄せられていない。
なぜなら、フロイトロース・フォン・ヴァーダーは生まれながらに足が不自由だったからである。
ビスマルク卿は、というよりもノラ夫人は考えうる限りの手を尽くしたらしい。国中の名医を集めて息子の足を治療させようとした。だが、帰ってきた答えはいつも「治療は不可能です」という答えだった。
また、治せそうな魔道具も探した。だが、見つからなかった。夫たる魔道卿の情報網を用いてもフロイトロースの足を治せそうな魔道具は見つからなかったのである。
万策尽きたとき、ノラ夫人は自身の息子をこの王都から遠く離れたサンバント州の別荘に移した。いや、「移した」という表現は穏当すぎるだろう。「軟禁した」というべきであろう。少なくとも彼女は自身の「汚点」が一生涯人の目に触れないことを望んでいたのだから。
フロイトロースがあの町外れの屋敷で暮らすようになってから、今年で四年がたつという。今年で八歳というから、およそ人生の半分をあの屋敷で過ごしたことになる。だが、彼の感じ方は恐らくこうだろう。
「物心ついた頃からずっと」
幼い貴族に同情するように中年の女性が口を開く。
「きっと、ご両親のお顔もお声もご存知でないのだろうねぇ・・・・」
イストはただ肩をすくめただけだった。他人がどれだけ不本意な境遇にあろうとも、彼は興味を示さない。そこから抜け出すかどうか、そういう選択を含めそいつの人生だと割り切っているからだ。
「やりたいことは誰かから許可を貰って、まして命じられてやるもんじゃない」
そう、イスト・ヴァーレという人間は考えている。
「最近、何か変わったことは?」
フロイトロースの話しに一区切りを付けて、イストは話題を転じた。
「そういえば・・・・・」
フロイトロースの腹違いの姉にあたる、アズリア・フォン・ヴァーダーがあの屋敷に来ているらしい。
「へぇ・・・・・」
彼女の話は、カンタルク王国に入ったばかりのイストも聞いている。さすがに貴族のゴシップは広がるのが早い。
(おもしろくなりそうじゃないか・・・・・)
イストは内心、ほくそ笑んだ。
ちょうど、魔法瓶にお酒を移す作業が終わった。代金は三八ミル(銀貨三八枚)で、およそ一シク(金貨一枚)だ。酒代に金貨を使うという、一般人には到底考えられないお金の使い方をして、イストは酒屋を後にしたのだった。
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「フロイト、入るぞ」
そう声をかけて部屋に入る。つい最近会ったばかりの弟は、大きなベッドから上半身だけを起こしていた。そして、こちらを見て満面の笑顔を浮かべた。
「姉上!」
まだ声変わりしていない、かん高い子供の声。同じ年頃の子どもと比べればおとなしい声だ。いや、「おとなしい」という評価は正しくない。「弱々しい」というのが正しい。
ビスマルクもノラも、アズリアのことを彼に知らせていなかった。彼女がヴァーダーの姓を名乗るようになってから、既におよそ一年半がたつというのに、だ。それでも、フロイトは数日前に突然できたこの腹違いの姉に、無邪気に懐いてた。
フロイトの満面の笑顔に、自然とアズリアの表情も緩んだ。
「ん、顔色はいいな。今日はどうする」
「庭に出たいです」
今日もまた、同じお願い。
八年という決して長くないこれまでの人生のほとんどを、ベッドの上で過ごしてきた少年にとって、ほんの数歩先の「外の世界」でさえ、驚きと発見に満ちた新世界であった。
「分かった。車椅子があるから、下まで行こうか」
はい、とフロイトが返事をする。弟の背中と膝に手を回し抱き上げる。フロイトもアズリアの首に手を回して体を固定する。
抱き上げたフロイトは軽い。特に動くことのない足は、本当に細く骨と皮だけだ。
「今日は天気がいいぞ。湖の方まで足を伸ばしてみようか」
一瞬胸の中に生まれた哀れみをフロイトに悟られぬよう、アズリアはことさら明るい声を出した。きっと、自分には彼を哀れむ資格などないのだから。彼女の提案にフロイトも喜ぶ。
車椅子は、屋敷の侍女が階段の下に用意していた。その車椅子にフロイトを座らせる。
「さあ、行こうか」
待ちきれない様子のフロイトに、後ろから声をかける。彼の興奮が、車椅子を押す手に伝わってきた。
**********
およそ二ヶ月前、アルジャーク帝国がモントルム王国とオムージュ王国を滅ぼして併合した。カンタルク王国はオムージュと北東の国境を接している。ともすればアルジャーク帝国の脅威が、このカンタルク王国にも及ぶかもしれない。
カンタルクの宮中は大騒ぎになり、人々は意味もなく右往左往した。アルジャークの版図は二二〇州。カンタルクの実に三倍以上だ。もしもアルジャークが牙をむけば、カンタルク一国で抗することは不可能だろう。
「この事態に際し、対応を協議する」
という名目で、王都フレイスブルグでは連日、主だった貴族たちを集めて会議がおこなわれている。
「このカンタルク一国でアルジャークと事を構えることは不可能である。いざ戦端が開かれる前に同盟を締結すべでござろう」
「馬鹿な。わざわざ格下の相手と同盟を結ぶ国がどこにある。よしんば結べたとして、それは属国の立場に甘んずるということだ」
「左様。ここは周辺諸国に呼びかけ、対アルジャーク同盟を締結することが最善であろう」
「それは南のポルトールにも声をかけるということか」
「馬鹿馬鹿しい!我がカンタルクとポルトールは因縁の間柄。かの国の力を借りるくらいならば、アルジャークの属国に甘んじるべきであろう!
「それは暴言が過ぎますぞ!そもそも・・・・・・」
まとまるはずのない会議だ。とはいえその立場上、魔道卿たるビスマルクはこういった会議に出席せざるをえない。
「しばらくはそちらにかかりきりになるだろう。お前がこの家に来てからまともな休みはなかったし、いい機会だ、しばらく休むといい」
国家の大事を「いい機会」とは不謹慎な気もするが、実際アズリアがヴァーダー侯爵家に来てからのおよそ一年半、文字通り休日など存在しなかった。
そんなわけで、アズリアは彼女の意思や都合とはまったく関係のない理由で、しばしの休暇を得ることになった。そして、休暇を取るのであれば、この機会に腹違いの弟に当たるフロイトロースに合っておきたいと、そう彼女は思ったのだ。
ゆえに、今彼女はここ、ヴァーダー侯爵家の領地であるサンバント州にある別荘に来ている。
**********
昼食の後、午前中にフロイトを連れてきた湖に、アズリアは一人で来ていた。魔道具の訓練をするためだ。
午前中のフロイトのはしゃぎようはすごかった。目を輝かせて視界に入るもの全てに興味を示し、なんにでも手を伸ばした。危うく車椅子から落ちそうになったことも、一度や二度ではない。
午後も来たいといっていたが、やはり疲れていたのだろう、お昼を食べたら眠ってしまった。幸せそうな弟の寝顔を思い出し、自然とアズリアも微笑を浮かべた。
「さて・・・・」
黒いケースから魔弓を取り出し、意識を訓練のほうに集中する。この魔弓はアズリアがヴァーダーの姓を名乗るようになったとき、彼女が自分で選んだものだ。以来、約一年半の付き合いになる。勧められて魔剣も一緒に選び、そちらも訓練を積んでいるが、やはり合っていると思えるのは魔弓のほうだ。
魔弓は二種類に分けることができる。矢を用いるものと、用いないものだ。前者は矢の飛距離や威力を上げる魔道具で、後者は使用者の魔力を練り上げて放つタイプのものだ。アズリアの使っている魔弓は後者に当たる。
「ようやく手に馴染んできたな」
そう実感する。
彼女がヴァーダーの姓を名乗るようになってから今日までのおよそ一年半、文字通り一日として欠かさず訓練を積んできた。いつも稽古を付けてくれるエルマーや、「時間があれば相手をしてやる」といったその言葉通りにしてくれているビスマルクといった教師たちは、いずれもアズリアよりも格上の強兵(つわもの)たちだ。彼らの稽古は厳しいが、確実に糧になっているという実感がある。
「ふぅぅぅぅ」
息を大きく吐き、集中に入る。余計な思考が消え、神経が研ぎ澄まされていく。
手ごろな大きさの石を湖の水面に向かって投げる。左手に持っていた魔弓をすぐさまかまえ、弦を引き魔力を練り上げて矢を形成する。石が水面に落ちる寸前を見計らって射る。
―――――ピィィィィン・・・・・
射抜かれた石は粉々に砕け、いくつもの波紋を水面に作り上げた。弦の奏でる音だけが余韻に残る。
同じ動作を何度も繰り返す。石を投げては射り、また投げては射る。石を投げる高さや距離を変えながら、何度も何度も同じ動作を繰り返していく。
「ふむ」
四十射ほどしてからアズリアは手を止めた。命中率は八割半ばといったところか。
「まだまだ甘い」
額に浮かんだ汗を拭う。大きく深呼吸してから、後ろに意識を向ける。
「それで?わたしに何か用か」
「あれ、気づいてたのか」
「なにを白々しい」
気配を隠そうともしていなかったくせに。
後ろを振り返る。そこにいたのは一人の男だった。年の頃は二十代の始めくらいで、背丈は170半ばといったところか。整った目鼻立ちをしているが、取り立てて美形というわけでもない。だが、黒にちかい藍色の瞳は皮肉っぽい光と強い意思を放っており、彼の存在に生気を与えていた。
右手で抱えるようにして、杖を寄りかかった木に立てかけている。彼の身長より少し長いくらいの杖で、先端の歪曲した部分にはところどころ金属のコーティングがなされている。そして左手には、なにやらパイプのようなものが白い煙を吐き出していた。
「タバコは遠慮してもらいたい」
アズリアはタバコ嫌いだ。臭いはしていないが、それでも気持ちのいいものではない。
「ん?ああ、これか」
そういって男は左手に持ったパイプのようなものをもてあそんだ。
「こいつは煙管型禁煙用魔道具『無煙』。タバコじゃないから大丈夫だよ」
煙も水蒸気だしな、と男は笑った。そういう問題ではないと言おうとしたがやめた。なにを言っても無駄な気がしたのだ。
内心ため息をつく。
そんなアズリアの心のうちを、恐らくは意図的に無視して、男は「無煙」とかいう煙管型の魔道具を吹かした。白い煙(本人の言を信じるならば水蒸気)を吐き出す。忌々しいがその姿は様になっている。
「それで、お前は何者だ」
少々うんざりしながら、男に正体を尋ねる。
「イスト・ヴァーレ。しがない流れの魔道具職人さ」
肩をすくめて男は飄々と答えた。頭が痛くなってくる。こういう手合いにはさっさとお引取り願うとする。
「ここはヴァーダー侯爵家の私有地だ。関係のない者は立ち去ることだ」
「お前がそんなことを言うのか?アズリア・クリーク」
「・・・・・・もはや意味のない名だ」
アズリアは答えるまでに数瞬の沈黙を先立たせた。そうかい、と言ってイストは肩をすくめ、白い煙(水蒸気らしいが)を、フゥ、とはいた。彼が手に持った「無煙」とかいうらしい魔道具の火皿からも同じものが立ち上っている。
なぜこの男は、今更私を「クリーク」の姓で呼ぶのだろう。ヴァーダーの姓を名乗るようになっておよそ一年半。ようやく違和感がなくなってきた。だが、それは同時にクリークの姓を名乗っていた頃の自分が、消されていくかのような、そんな気持ちになることがある。
名の否定は、存在と過去の否定だ。
ヴァーダーの姓を呼ばれるたびに、過去の自分が、思い出が、消えて聞くように感じる。母が精一杯育ててくれたことも、自分が努力したことも、全て消されて無かったことになるようで、虚しさと寂しさを感じることがある。
だからと言うのは変かもしれない。けれどもクリークの姓で呼ばれることに、鈍い痛みが伴うのは、どうしようもない事実だ。
「そういや、お前の弟・・・・」
「フロイトがどうかしたのか」
言葉に険がこもる。フロイトには会ってからほんの数日しかたっていないが、アズリアは事情を良く知らない他人が彼の話をするのを嫌っている。足が動かなくてかわいそうとか、そういう安っぽい同情はたくさんだった。
だが、イストが口にしたのは、アズリアが予想しなかった言葉だった。
「足、動かすだけなら方法はあるかもしれないぞ、と」
「フロイトの足を治せるのか!?」
アズリアは思わずイストに詰め寄った。
「治すのは無理だ。オレは医者じゃないからな。だが、結果的に動くようになるだけなら、意外と方法はあるもんだ」
実際に見てみないとわかんないけどな、とイストは付け足した。
「なんだっていい。あの子の足が動くのなら・・・・・」
きっと、喜ぶだろう。日陰者扱いの生活も変わるに違いない。
「嬉しそうだな」
意外そうにイストはそういった。アズリアとしては、彼がなぜそんな反応を示すのか、そのほうが意外だった。
「嬉しいさ。嬉しいに決まっている」
「本当に考えてないのか、考えないようにしているのか・・・・・・。まぁいい」
無煙を吸い、白い煙(水蒸気らしいが)を吐き出す。それから誰にともなく、呟くようにしてこういった。
「フロイトロース・フォン・ヴァーダーの足が動くようになるとはどういうことか、一度良く考えてみることだ」
そういって、イストは背を向けて去っていった。アズリア・フォン・ヴァーダーに、意味深な言葉を一つ残して。