大陸暦一五六三年九月始め、クロノワ率いるアルジャーク軍五万は帝都ケーヒンスブルグへの帰路にあった。オルクスには一万の兵を残してあり、これを元モントルム駐在大使のストラトス・シュメイルが指揮している。
本来、彼はそのような地位にはいないのだが、彼を除けばクロノワしか旧モントルム領の政を掌握できる人物が居らず、かといってクロノワを残してアルジャーク帝国帝都ケーヒンスブルグに凱旋しても意味がない。
「猫の手も借りたいときに、立派な人の手があるのです。使わないわけにいかないでしょう?」
そういってクロノワはストラトスに万事を押し付けたのであった。もっともこれは暫定的な処置であり、旧モントルム領をどのように扱うかは、アルジャーク帝国皇帝ベルトロワが最終的に決めるだろう。
モントルムにおける戦闘は終止アルジャーク軍が優位に立っており、クロノワはその兵力をほとんど損することなく此度の戦争をおえた。そのことは既にアルジャーク本国にも報告されており、これで日陰者だったクロノワ殿下もようやく正しい評価を受けられるとアールヴェルツェなどは、我がことのように喜んでいた。
特に急ぐ理由もないため、移動の速度は比較的ゆっくりとしたものだった。それが、旅に慣れていない人たちには幸いしたらしい。
「使者団の方々の様子はいかがですか、リリーゼ嬢」
「皆疲れてはいますが、一晩休めば大丈夫です。クロノワ殿下」
そう、独立都市ヴェンツブルグの使者団もクロノワたちと一緒に帝都ケーヒンスブルグを目指しているのだ。彼らは基本的に文官でいくら馬に乗っているとはいえ、アルジャーク軍の本気の行軍についていくのはとてもではないが無理だ。
行軍中にリリーゼとクロノワは何度か話をしたのだが、そのとき共通の知人がいることが判明した。すなわちイスト・ヴァーレという知人が。
「なるほど。あいつはそんなことをしていたんですか」
こらえきれず笑いながら、クロノワは楽しそうに言った。リリーゼからヴェンツブルグでの聖銀(ミスリル)にかかわる一連の騒動について聞いたのだ。
「あの・・・・殿下・・・・、聖銀(ミスリル)の製法のことは・・・・・・」
話の勢いとはいえ、極秘であるはずの聖銀(ミスリル)の製法について喋ってしまったリリーゼは、かなりあせった様子だ。「やらかした!」と全身で表現している。
「ええ、分かっています。他言はしません。それに、なにか手伝えることがあるかもしれませんね」
聖銀(ミスリル)の製法を大陸中の不特定多数の工房に売る。それが独立都市ヴェンツブルグの、比較的上にいる人たちがやろうとしていることだ。だが如何せん一都市だけの力では限界がある。大国アルジャーク帝国の助力があればかなりやりやすくなるだろう。
「それにアルジャークが後ろにいれば、万が一教会にバレても、一方的な干渉を受けずにすみますしね」
此度の大併合の結果、アルジャーク帝国の版図は二二〇州になった。このエルヴィヨン大陸でも一、二を争う大国になったのだ。その大国に教会が真正面から対抗してくるとは思えない。
「はぁ・・・・・、そうですね・・・・・」
リリーゼも何とか納得したようだ。
「それにしても・・・・・・」
気を取り直すようにしてリリーゼが話題を変える。
「殿下とあの男が友人同士だったなんて・・・・・」
リリーゼの言う「あの男」とはもちろんイスト・ヴァーレのことだ。
「面白いヤツでしょう?」
「面白いって・・・・・。製法を独り占めするような男ですよ?」
いくら古代文字(エンシェントスペル)が用いられておりリリーゼには読めなかったにせよ、確かにあの時彼女はその場にいたのだ。あの壁に刻まれていた物が聖銀(ミスリル)の製法だと教えてくれてもいいではないか。
「しかもそれらしい宣誓文を捏造してまで・・・・・・!」
そのときの怒りを思い出したのか語尾が震えている。
「感動したのに・・・・・・!」
それが口からでまかせで、しかも製法を隠すための方便だったのだ。あの時味わったなんともいえない寂しい落胆と激しい怒りは、決して忘れることが出来ないだろう。
「でも、宣誓文についてはまるっきりの捏造ではありませんよ」
ヴェンツブルグ付近の反乱を指揮していたのはベルウィック・デルトゥードだが、彼の掲げた理想が確かそんな内容だったはずだ。
「下調べの際に見たのを覚えていたのでしょうね。相変わらず芸が細かい」
仮にリリーゼがベルウィック・デルトゥードの反乱について詳しく知っていても、宣誓文の内容に疑問を感じないように、きちんと考えてつくっている。
むぅ、とリリーゼは不機嫌そうに唸った。そんな彼女の様子を見てクロノワはクスリと微笑みをこぼした。
「・・・・何でしょうか」
「いえ、なにも」
ギロリと睨むリリーゼを軽く受け流す。
どうにも新鮮な体験だ。十五歳から宮廷で暮らすようになってからというもの、クロノワが親しく付き合ったのは皆彼より年上で、しかも感情よりも理性や責任を優先させる人たちばかりだった。だからリリーゼのような感情を素直に表現する年下の女の子(彼女が聞いたら怒りそうな評価だが)とこうして話しているのはとても新鮮に感じられた。
「失礼します。お二人とも食事の準備が整いました」
そういって近づいてきたのはアルジャーク軍の女性士官グレイス・キーアだった。
「ありがとうございます、グレイス殿」
女同士のためか、リリーゼとグレイスはすぐに仲が良くなった。二人で色々と男にはいえない話もしているらしい。
クロノワも礼をいい、立ち上がった。空をみればもうすっかり夜の帳が下りている。雲もなく月が良く見えた。
(さて、イスト。君はどこでなにをしているのだろうね・・・・・)
珍しく話題に上った友人をおもい、クロノワは月を見上げた。
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クロノワが月を見上げていた頃からさらに数時間後、イストは行商のキャラバン隊の馬車の中にいた。勝手に乗り込んだわけではない。護衛の仕事を請けたのだ。
こういった仕事の場合、それほど報酬はよくない。だが目的地までは馬車に揺られて移動ができ、しかも一日三回の食事の心配をしなくていいとあって、イストの様に魔導士ライセンスをもつ旅人にはうってつけの仕事であった。
既に夜半を過ぎている。見張り番は起きているだろうが、大半は寝静まっていた。壁にもたれかかり眠っていたイストが、僅かに身じろぎそして目を開けた。よく見れば薄く汗をかいている。
「・・・・また・・・・悪夢・・・・・か」
小さく呟くイストの声に動揺は見られない。ただ寂しさと苦さだけが含まれていた。
イストの記憶は孤児院から始まる。人里はなれた孤児院で、古い寺院のようなものを利用していた。
イスト・ヴァーレは己が身の素性を知らない。両親のことを知らず、誕生日も分からない。自分が今何歳なのかさえ、正確にはわからない。
ただ、それを気にしたことはなかった。気にするような年齢でもなかったこともあるが、回りにいる兄弟たちは皆同じような身の上で、それでもたくましく生きていた。そう思う。
幸せだったのだろう。少なくともあのときまでは。
孤児院を襲ったのは、なんてことのないただの盗賊だった。しかし成人男性のいない、女子どもだけの孤児院には十分すぎるほどの脅威であった。
みんな、殺された。
ついさっきまで暮らしていた家は轟々と炎のなかで朽ちていき、駆けずり回って遊んだ広場には兄弟たちが血を流しその屍をさらしていた。
小さな口が僅かに動く。
「助けて」
と、言ったのだろうか。目から命が消えていく。
悲鳴、振り上げられる凶刃、赤く染まった兄弟たち、血の臭い、炎の熱、激痛、鉄の味、うつろな瞳・・・・・・。
不思議と、盗賊どものことはあまり覚えていない。
あのときの記憶はひどく断片的で、しかしそれだけに一コマ一コマは強烈に焼きついている。
赤い、赤い悪夢だ。
盗賊があの孤児院を襲った理由は後で知った。なんでも大昔の魔道具が封印されているという情報を掴んでいたらしい。そして結局デマだったそうだ。
あの時、イストは逃げた。逃げて逃げて逃げて森の中をさまよい、そしてその当時のアバサ・ロットであるオーヴァ・ベルセリウスに拾われ、そのまま弟子として魔道具製作のイロハを教わることになった。
それはいい。あの時オーヴァに拾われたのは、望みうる最大の幸運だった。だが、それゆえに考えてしまうのだ。
(あの時、逃げていなかったら)
と、そう考えてしまう。
埒もないことだと分かっている。逃げていなければ、殺されていただろう。逃げることは、あの時できる最善の行動だった。生き残ったことを喜びこそすれ、責める人間などいない。死んでしまった兄弟たちの分も精一杯生きることが、自分にできる最大のことだ。運よく魔道具職人としての才能にも恵まれた。自分なら出来ることがたくさんある。そういう仕事をしていけば、きっとみんなうかばれる。
正当化する言葉なら、いくらでも浮かんだ。でも同時に分かってしまうのだ。その言葉がどうしようもなく軽くて薄っぺらなことが。そしてその言葉を、自分はどうしても信じられないということが。
(あの時、オレにはできることがあったんじゃないだろうか・・・・・・)
分かっている。それは傲慢な想像だ。
だが分かっていても、考えるのを止められないのだ。あの時自分には出来ることが、やるべきことがあって、それをしていればもっとマシな未来になっていたのではないか、と。どうしてもそう考えてしまう。
そういう思考はいい。だが、そういうことを考え続けている自分を想像すると、鬱になる。
「酒が・・・・・飲みたいな・・・・・」
あいにくと、切らしている。
悪夢を見るようになったのは、オーヴァに拾われてからすぐのことだ。そして悪夢を紛らわせるために、酒を飲むようになったのも。以来、十年以上の付き合いになる。元々酒に強い質ではなかったことが幸いしたのだろう。ギリギリの綱渡りは、足を踏み外すことなく今日まで続いている。
酒を飲めば現実から離れることができた。夢と現の間を漂えば悪夢の痛みを、たとえ一時的にとはいえ忘れることができた。靄のかかった鈍い思考でなら、全てを皮肉っぽく眺めることができた。
悪夢で起きた夜は、いつも酒を飲んだ。
オーヴァは何も言わなかった。深い思慮があったのかもしれないが、あの師匠は判断基準が吹っ飛んでいたから、子どもの飲酒を問題視していなかった公算が強い。自分から飲み比べを挑むような人だし。
孤児院を襲った盗賊たちは、その国の国境警備隊によって壊滅させられたらしい。事件は既に解決され、もはや過去のことになったのだ。
過去には涙と花束を。時間は残酷なまでに平等で優しい。
もはや、手を伸ばすことさえできはしない。風化していくはずの傷跡は、赤い悪夢を見るたびに新しくなっていくというのに。
盗賊どもを自分の手で殺せていたら、この悪夢は自分から離れるのだろうか。
(それは・・・・・ない、な・・・・・)
悪夢を見た後、盗賊どもへの憎悪は残らない。そもそも、あの悪夢に盗賊ははっきりとは出てこない。恐怖は随分前になくなった。今残っているのは、無力で滑稽な自分だけだ。
「ああ、まったく・・・・・」
イストは考える。自分はこの悪夢を克服できるのだろうか。乗り越えてその先に進めるのだろうか。
そういう自分が、まったく想像できない。
目を閉じる。今夜はもう眠れそうにない。