独立都市ヴェンツブルグからオルクスに戻ったクロノワは、すぐに部下たちに帝都ケーヒンスブルグに凱旋するための準備をさせた。アールヴェルツェの話ではあと三日ほどで準備は完了するそうだ。
その日の夜半過ぎ、クロノワは一人謁見の間にある石造りの玉座に座っていた。謁見のまの天井はガラス張りになっており、月の光が室内をほのかに明るくしていた。
月に向かって手を伸ばす。
「石の玉座の座り心地はどうだ」
突然聞こえてきた声にクロノワは苦笑をもらした。動揺も戦慄もしない。彼の良く知る声だったからだ。
「硬いよ。クッションが必要だね」
正面に視線を戻すと、月明かりに照らされた友人の姿があった。赤褐色のローブを羽織、身長よりも少し長いくらいの杖を手にしている。最後に会った二年前よりも、精悍さがましたように思われた。
「君はいつも突然に現れる、イスト」
「いちいちアポ取るのも面倒だからな」
肩をすくめながら、イストはそういった。それから急に真剣な表情になる。
「お前、このままいくつもりか」
クロノワは何も言わない。
「これが最後の機会だと、そう思うんだがな」
全てを放り出し、この広い世界を旅するための。だがクロノワは、はっきりと否定した。
「それは違うよ、イスト」
自然、視線が月に向いた。満月は過ぎ欠けてゆく、それでもまだ十分に明るい月がガラス越しの空に煌々と輝いている。
「この遠征に出るまでが最後の機会だった。私はそう思っている」
イストは何も言わない。月を見ているから表情も分からなかった。独白するようにクロノワは続けた。
「この戦争でたくさんの血が流れた。その少なくとも半分は私が背負うべきなんだ。それを放り出すことは出来るとは思わないし、したいとも思わない」
視線を戻す。イストは何か言いたそうに顔を歪めていた。しかしすぐに諦めたように首を振った。
「ああ、まったく。言葉はいつだって多すぎる。そのくせいつだって、言いたいことは言えやしない」
そういってイストは何かをほうった。受け取ってみると手のひらに収まるくらいの木箱であった。あけてみると指輪がおさめられていた。恐らくは聖銀(ミスリル)製で、幅が広く細かい透かしの細工が施されている。
「婚約指輪?」
「三点」
「・・・・低い・・・・」
冗談とはいえ、間髪入れないイストの辛口な採点に、がっくりと肩を落とす。
「魔道具『雷神の槌(トールハンマー)』。なかなかいい魔道具ができてな、そいつの簡易版だ」
「指輪なのに槌(ハンマー)?」
イメージとしてはなかなか結びつかない。
「ああ、なかなかいい威力だからな。試し撃ちをするなら、人と物のないところをお勧めするぜ」
彼の口調からは自分の作品への自信が窺える。こうなるとこの「簡易版」の元になった魔道具が気になった。
「魔弓だからな、お前には向かないよ。それに『簡易版』といったが『劣化版』といった覚えはないぞ」
「・・・・・・いいのか・・・・・?」
自分はこの友人との約束を破るのだ。
子供の頃に軽い気持ちでかわした約束だ。今となってはお互いに立場が違う。だから仕方がない。もっともらしい理由なら幾らでも浮かんだ。
だがそんな薄っぺらい理由が浮かべば浮かぶほどに、心苦しくなっていく。自分はこの大切な友人を裏切ってしまった。それなのにイストは自分に怒るでもなく、こうしてまだ友人として接してくれている。
それが、どうしようもないほどにつらかった。
「お前のために作った祝いの品だ。要らないなら捨てるしかないな」
肩をすくめながらイストはそういった。まるで、
「馬鹿なことを言うな」
とでも言う様に。
「ありがとう」
あらゆる思いを詰め込んで、クロノワは礼を言った。それに満足したのか、イストは笑顔で頷いた。
「じゃあな」
「イスト!」
背を向け暗がりに溶け込むようにして去ろうとする親友を、クロノワは呼び止めた。
「私は、いや、俺はこの世界を狭くしてみせる」
玉座から立ち上がり、月光を浴びながらクロノワはそう宣言した。これが、彼が自分の野望を口にした最初であった。
イストの顔は暗がりに隠れてよく見えない。だがクロノワは彼がニヤリと笑ったのが分かった。
「楽しい時代になりそうじゃないか」
そういい残して、イストの気配は消えた。
クロノワは再び月に視線を転じた。
彼の胸の中には、はじめての野望が確かにある。ふつふつと湧き上がる気持ちの名前を彼は知らない。だが彼は、今までにない高揚を感じていた。
―第二話、完―