レヴィナスがオムージュの王都ベルーカに入る少し前、クロノワは緊急を要する戦後処理を何とか終わらせた。
有体に言えば粛清である。
クロノワはこのような方法をもとより好みはしなかったが、一部の貴族たちによる彼に対する暗殺計画(お粗末なものだったが)が明るみに出ると、もはや彼個人の好き嫌いを言っていられなくなった。
計画に加担していた貴族や領主の処刑執行令状にサインし、さらに彼らの財産は全て没収する。こうしてボルフイスク城内は粛然としたのである。
クロノワは粛清の大鎌を一振り二降りしたがそれをボルフイスク城内だけにおさめ、市民生活にはそよ風程度の影響も及ぼさなかった。それができたのは元モントルム駐在大使ストラトス・シュメイルの協力があったからに他ならない。
アールヴェルツェは優秀な将軍であったが、彼とその幕僚たちにはモントルム軍を掌握するという別の大仕事がある。そこでクロノワはストラトスに行政面でのサポートを依頼したのである。
彼の働きは得がたいものだった。モントルムが戦後すぐのこの時期に、大した混乱もなく治まった功績の半分近くは彼のものであろう。
それに大きな混乱がなかったからこそ、クロノワは思いがけず早い時期にこの遠征の“仕上げ”に取り掛かることができた。それはアルジャーク帝国の求める不凍港を持つ都市、独立都市ヴェンツブルグの“説得”である。
アールヴェルツェに事情を話し、騎兵を五千騎ほど用意させた。率いているのはグレイス・キーアだ。若輩ということもあり、なかなか重要な仕事を先輩の幕僚からまわしてもらえず無聊を託っていたのだ。
だが、彼女はあるいは運が良かったのかもしれない。ヴェンツブルグはこれより先クロノワの政略上、重要な位置を占めることになる。その都市を恭順させるための会談、まさにその場に居合わせることができたのだから。
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街道の彼方に騎兵の巻き上げる土ぼこりを見たとき、独立都市ヴェンツブルグの門を警備する門兵は、血の気を失うかのような緊張に襲われた。事前にこの事態が訪れるであろうことを教えられていても、足が震え、暖かい陽気にもかかわらず寒気がした。
同僚たち顔を見合わせる。皆、青い顔をしていた。きっと自分もそうなのだろう。それを確認したら少し気が楽になった。あらかじめ指示されていた通り、自衛騎士団本部に事態を知らせるために何人かが足早にかけて行った。
知らず知らずの内に唾を飲み込む。あの土ぼこりを巻き上げている騎兵はアルジャーク軍だ。モントルムを平定した彼らは、ついにその矛をこの独立都市ヴェンツブルグに向けたのだ。
「いきなり攻撃してくることはないだろう」
門兵の所属する大隊の隊長であるクロード・ラクラシアはそういっていた。だが、不安と恐怖を消し去ることなどできはしない。正直なところ、逃げ出したかった。
だが彼の職責に対する責任感と、生まれ育った都市への思いはそれを許さなかった。結局、彼は使いのアルジャーク兵に事情を説明するまで、極度の緊張にさらされ続けることになるのだった。
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使いに出した兵は報告を済ませるとすぐに下がった。
「ふさわしい者が来るまで待って欲しいとのことでしたが、時間稼ぎではないのですか」
ここに来ているアルジャーク軍は騎兵ばかりが五千騎だけだが、それでもヴェンツブルグを落とすには十分すぎる。それを恐れて時間稼ぎをしているのではないかとグレイスは思った。
「あなたならこのような形で時間稼ぎをしますか?するとして何の為に?」
「・・・・・そうですね、時間稼ぎではない。失礼しました」
無意識とはいえ自分の驕りをたしなめられたようでグレイスは恥じ入った。
時間稼ぎをしたいのであれば、もっとうまいやり方が幾らでもある。こんな瀬戸際までアルジャーク軍が迫っているこの状態で時間稼ぎをしても意味はない。彼らは都市を捨ててどこかに逃げるわけには行かないし、またどこかの国に応援を頼むこともできない。
グレイスが今この場で思い至る程度のことだ。ヴェンツブルグの執政官たちが頭を悩ませ考え付かないわけがない。
つまりグレイスは彼らのことを侮ったのだ。無意識とはいえ、政でそれは危険だ。
「ですがこのような都市を相手にわざわざ交渉の席に着く必要があるのですか」
いぶかしむようにグレイスは言った。
アルジャーク帝国と独立都市ヴェンツブルグの力の差は、いわば「月と砂粒」で本来まともに相手をする必要はない。武力を持って押しつぶし制圧してしまったほうが、後腐れがなくてよいと思ったのだろう。
「ヴェンツブルグは独立の気風がつよい都市です。力ずくで恭順させようとすれば住民全てレジスタンスに、なることはないでしょうが、非協力的になっていろいろとやり難くなるでしょうね」
武力制圧したほうが、後腐れがあるのだ。
「それに最悪、不凍港が使えればそれでいいわけですし」
「そんなものでしょうか・・・・・」
純粋な武人であるグレイスにとって、こういう思考は迂遠なものに感じられるのだろう。クロノワ自身だってそうだ。彼自身、自分の思考に疲れることがあった。
そうこうしているうちに、ヴェンツブルグから騎影が二つ、こちらに近づいてきた。一人は初老の男で、年のころはアールヴェルツェよりも一回り程度上かと思われた。もう一人は二十代初めと思しき男だ。二人とも自衛騎士団の所属らしく、鎧を着込んでいるが剣は持っていない。戦うつもりはない、という意思表示らしい。
「自衛騎士団騎士団長、アッゼン・ウロンジです」
「同じく、第三大隊隊長、クロード・ラクラシアです」
二人とも名前は知っている。というよりもある程度事前に調べてある。
自衛騎士団騎士団長たるアッゼン・ウロンジは一兵卒から、いわば「叩き上げ」で騎士団長まで上り詰めた人物で、それゆえに騎士団員や都市の住民からも信頼が厚い。大柄な体格と豪胆な気性ゆえに万事に大雑把と思われがちだが、細かい心配りを忘れない人物だと報告されている。
クロード・ラクラシアについては、それほど詳細な報告は上がっていない。ただ一点、三家の一つ、ラクラシア家の次男ということだけが載せられていた。
「アルジャーク帝国モントルム方面遠征軍司令官、クロノワ・アルジャークです」
儀礼的な挨拶を交わした後、アッゼンが本題を促した。
「それで、本日はいかなるご用件でこのヴェンツブルグにいらしたのですかな」
「アルジャーク帝国と独立都市ヴェンツブルグの今後のお付き合いの仕方について色々とお話をしたいと思いまして」
極上の笑みを浮かべてクロノワは応えた。自分の意思でこういう表情ができる辺り、修行の成果といえるだろう。
「五千騎ちかい騎兵を引き連れて、ですか・・・・」
クロードが後ろに控えている騎兵たちを見て言った。その口調は若干苦々しい。話し合いといっておきながら武力で威圧するとはどういう了見だ、と思っているのだろう。
だがクロノワはそんなことは意に介さない。もとより外交交渉とはそういうものだ。
「護衛ですよ。モントルムを平定したとはいえ、まだ日が浅い。まさか身一つでここまで来るわけにもいかないですから」
「でしたらこの先は必要ありませんな。我々が責任を持ってお守りいたしますゆえ、護衛の方々はここでお待ちいただけますかな」
このアッゼンの言葉に反応したのはグレイスだった。
「それは承服いたしかねます。殿下の護衛は我々の任務。いかなる理由があるとはいえそれを放棄するわけにはいきません」
交渉のすえ、クロノワの護衛として都市に入るのは二十人となった。
アッゼンとクロードを先頭にして一同は都市の中を、執政官の合議がおこなわれる執政院に向けて歩いていく。
都市の様子は思ったよりも活気に満ちていた。戦争中だっただけに、この都市にやってくる商人の数はすかなかろうと思っていたのだが、どうして彼らはたくましい。それにヴェンツブルグは貿易港だから、船でやってくる貿易商も多いのだろう。
しかし、これからどうなるかは分からない。街道を行き来する人々の邪魔にならないように野営場所を移動させてきたとはいえ、この独立都市ヴェンツブルグのすぐ外にアルジャーク軍の騎兵五千が目を光らせているのである。人々が萎縮しても仕方がない。
(心苦しいかぎりです・・・・)
クロノワは心の中でこの都市の人々に謝った。
武力を背景にして交渉ごとを有利に進めるのは、この時代の外交の常套手段である。それにヴェンツブルグはもともとモントルムの宗主権の下におり、アルジャークにしてみれば、いわば敵勢力の一部である。
武力を用いるのは理にかなっている。そう頭では割り切っている。だが感情面ではどうしても心苦しさをぬぐえない。
(私は甘いのでしょうか・・・・・)
そうなのだろうと思う。そして、それでもいいと思ってしまう。
案内された執政院は、白塗りの壁で四階建ての建物だった。執政官たちの合議だけでなく、この都市の行政に関わる中枢がこの建物の中に詰まっていることになる。
一行はひとまず待合室に通された。
「執政官方が揃われるまで、こちらの部屋でおくつろぎください」
そういってクロードは出て行った。部屋にはティーセットとちょっとしたお茶菓子が置かれている。勝手にどうぞ、ということらしい。
護衛についてきた騎士たちは、皆それぞれに談笑している。クロノワは今窓辺に椅子を置き、ぼんやりと外を眺めていた。
「なにをご覧になっているのですか」
そう言いながらお茶と菓子を差し出したのは、紅一点のグレイスだった。こういう気遣いはいかにも女性らしい。クロノワは礼を言って受け取った。
「海を、見ていました」
比較的高い場所に位置しているらしい執政院の、さらに三階にあるこの部屋からは海を臨むことができた。帆船の白い帆が幾つか見え、ここが良い貿易港であることを無言のうちに証明している。
「初めてですか」
「いえ、宮廷で暮らすようになる前に一度だけ。友人と彼の師匠と三人で二ヶ月ほど旅をしたのですが、その時に」
「あのイスト・ヴァーレとかいう男ですか・・・・」
グレイスの口調は苦い。どうやら彼女はイストにいい感情を持っていないらしい。そんな彼女の様子にクロノワは苦笑した。
イストは権力におもねるということをしない。というより嫌っている節がある。権力嫌いというよりは、それを既成特権としてしか考えずもてあそぶような輩に嫌気がさしているのだろう。その感情はもはや憎悪と言ったほうがいいのかもしれない。
なにが彼をそうしたのか、イストは話そうとはしなかったからクロノワは知らない。だが彼のそういう態度は、軍という規律と上下関係の厳しい世界に身をおいているグレイスにとっては不遜と映り、それゆえに相容れない。
クロノワはとくに友人のことを弁護しなかった。イストのあの飄々とした皮肉っぽい態度は確かに彼の一面だが、それだけが彼の全てではないことをクロノワは知っている。だが同時に誰かに弁解してもらうことを、あの変わり者の友人が嫌がるであろうことも分かっていたからだ。
グレイスはまだ渋い顔をしている。本当は付き合いをやめるように言いたいのかもしれない。だが、クロノワには味方が少ないことを知っているため、あまり強く言いたくもないのだろう。
クロノワは素知らぬ顔でお茶を啜った。執政官たちが揃いましたと知らせが来たのは、それから少ししてからだった。
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「はじめまして。アルジャーク帝国モントルム方面遠征軍司令官、クロノワ・アルジャークです。本日はこのような場を設けていただき感謝しております」
目の前に居並ぶ八人の執政官たちを前に、クロノワはまずそう挨拶した。
「前置きはいい。早速だが用件を窺おう」
やや苛立った様子で口を開いたのは、選出された五人の執政官の一人であるブレンステッド・テームである。
「それでは単刀直入に申します」
クロノワは一旦そこで間を取った。
「独立都市ヴェンツブルクにアルジャーク帝国の宗主権を認めていただきたい」
それはこの独立都市ヴェンツブルクにアルジャーク帝国の一部になれということだ。執政官たちは一様に押し黙った。これまでモントルムに対して、そうしていたことを考えれば同じといえば同じだ。だが、新たになにを要求されるか分かったものではない。
「これまでここヴェンツブルクは、モントルムの宗主権の下に自治を認められてきました」
これはただの事実確認だ。執政官たちも何も言わない。
「ですが、もはやモントルムという国は存在しません。我々アルジャークが併合しました。ならばヴェンツブルクはモントルムの代わりに、アルジャークの宗主権を認めるべきではないでしょうか」
クロノワの主張には一応の理が通っている。
「認めない場合はどうする?武力行使かね?」
そう言う執政官の声には皮肉の色が混じっている。
ヴェンツブルクの住民は独立の気風が強く、彼らは力で押さえつけられた支配を良しとはするまい。だいいち武力制圧したとしても、破壊されたあるいは焼き払われた港が何の役に立つというのだろう。
無論、そのことはクロノワも承知している。
「武力行使をするつもりはありません。ですが、色々と制約をかけることは必要になるでしょう」
行き来する人々の荷物の検閲、貿易品の関税の引き上げ、もっと単純に高い通行税をかけることもできるだろう。
執政官たちの顔が青ざめた。
(そんなことをされれば・・・・)
そんなことをされれば、この独立都市ヴェンツブルクは干上がってしまう。
ヴェンツブルクはあくまでも「都市」なのだ。良港を持ち貿易によって栄えてはいても、そこは生産の場所ではない。人為的にとはいえその立地条件が崩されれば、個人の行商人を含め貿易商たちはこの都市を訪れなくなる。そうなれば自然とヴェンツブルクは衰退していく。
そして住民たちの不満は、アルジャーク帝国にではなく執政院に向くだろう。そうなればアルジャーク帝国がこの都市に介入する余地が生まれる。そこまで計算しているのだろう、このクロノワ・アルジャークという皇子は。
「無論、そのような策は我々としても好ましくありません。せっかくの不凍港、有効に使いたいですから」
そう言われて執政官たちは思い出した。アルジャークには不凍港がないことを。港がないわけではない。だが地形の問題も絡んで北よりの地域にしか港がなく、そういった港は冬になると海水が凍ってしまうのだ。
今回の遠征で併合したモントルムも貿易港として使える港はヴェンツブルクだけだし、オムージュにいったっては内陸国のため、そもそも海に面していない。
(アルジャークにとってこのヴェンツブルクは、一年を通して使える唯一の港、というわけだ・・・・)
「オムージュは落ちたも同然です。そうなればアルジャーク帝国の国土は二二〇州。商人の方々にとっては魅力的な市場でしょうね」
そしてその商人たちの拠点となるのが、この独立都市ヴェンツブルクなのだ。当然人が集まるところには、物と金もあつまる。
執政官たちは視線を合わせ、頷きあった。
「アルジャーク帝国の宗主権を認めること、我々としてもやぶさかではない」
「だが、それは今までと同程度の自治が認められるならばの話だ」
「その点、アルジャーク帝国としての立場はいかがか、クロノワ殿」
ここまでで大筋では合意したことになる。
「そうですね・・・・・」
さらにこれから細かい詰めの協議に入るのだ。