レヴィナスがリガ砦に着いたのは六月十五日のことであった。幾分ゆっくりと軍を進めているようだが、補給部隊に足を合わせているのでこれは仕方がない。それにクロノワがモントルムのダーヴェス砦を攻略してからオムージュに進攻するというのが元々の計画であった。
もっともレヴィナスとしては腹違いの弟にそれほど期待してはいない。たとえクロノワがダーヴェス砦を落とせず、モントルムからの援軍がオムージュ軍と合流して数の上で凌駕されたとしても勝てる、とごく自然に考えていた。
オムージュに対して宣戦布告するのは予定では六月二十日である。ただ既にこうしてアルジャーク軍が国境の砦であるリガ砦に兵を集めている以上、オムージュ側もそれに対抗すべく兵を集めているはずだ。モントルムに援軍の要請もしているだろう。
オムージュ方面軍の司令官は皇太子であるレヴィナスであるが、実質的に軍を動かすのはアレクセイ・ガンドール将軍である。
壮年を超えようかという年齢だが未だその眼光は衰えを知らぬ。常勝無敗を誇り、その輝かしい軍歴はモントルム方面軍を実質的に動かしているアールヴェルツェをも凌ぐといわれている。まさにアルジャーク軍にとって至宝とも言うべき武将である。
彼は今、これから進攻するオムージュの大地をリガ砦から遠望していた。どうその大地を切り取るかを考えていると思ったのだろう、部下たちは気を利かせて話しかけてこない。が、彼が考えていたのはまったく別のことであった。
(思いのほか思慮のある方であった)
今回の遠征に当たって彼が頭を悩ませていたのは戦略戦術のことではない。形式上とはいえ彼の上に立つことになる皇太子レヴィナスのことであった。
(いかに皇太子とはいえ行軍中に優雅だの風雅だの美だのいわれてはかなわんからな)
レヴィナスの「美しさ」に対する執着はアルジャークの万人の知るところである。今回彼が身に付けている甲冑や剣は全てレヴィナス自信が指示を出しながら製作された特注品で、凝った意匠の装飾が施されている。
(おそらくバカバカしいくらいの費用がかかっておるのだろう・・・・・)
骨の髄まで武人であるアレクセイとしてはため息もつきたくなる。
とはいえそうして作られた戦装束をまとったレヴィナスは神々しいほどに輝いていた。将として常に冷静でいることを心がけているアレクセイさえもが、
「英雄とはこういうものか」
とつい思ってしまったほどである。兵たちの間で信仰じみた人気が生まれたもの、頷けるというものだ。
(いや、あの甲冑はよいのだ)
レヴィナスはいわば象徴であって実際に剣を振るい戦うわけではない。であるならば兵たちの士気と結束を高めるために、着飾ることもむしろ必要であるといえる。
だから、アレクセイが心配していたのはそんなことではない。
レヴィナスの「美しさ」に対する執着は彼の手の届く範囲全てに及ぶ。普段着る衣服から身の回りの調度品。特に彼の住まう宮殿の一角は別世界かと思われるほどに他とは雰囲気が異なる。神々しく神秘的で荘厳。褒め称える言葉が陳腐に聞こえるほど、すばらしく整えられている。
それはいい。問題はそれを行軍中にされることである。
彼のこだわりのために「兵士の甲冑をかえろ」だの「この行軍は美しくない」だのアレクセイにはまったく理解できないことを口走り、軍の運用に支障をきたすことを恐れたのだ。さらにいえば数日滞在することになるリガ砦とりでについても、「こんな汚いところにはいられない」などと駄々をこねるのではないかと心配していた。
もっとも、この心配はアレクセイの気宇に終わった。レヴィナスは軍や砦が戦争のために存在しており、それに自分が求める「美」を要求するのはむしろ滑稽であると十分に理解していた。もっとも自らの使用する物品については品のよい一級品を用いていたが。
(この様子であればこの先の遠征も心配あるまい)
それでもアレクセイの胸には一抹の不安が残る。
もし、レヴィナスの手の届く範囲が劇的に拡大したら、それこそ一国の規模で自由にできるようになったら・・・・・・。
(殿下はどのような執政をしかれるのだろうか・・・・・?)
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前にも述べたが、アルジャークがモントルムに国交断絶を突きつけ、事実上の宣戦布告をしてから、ケーヒンスブルグのモントルム大使館は閉鎖され大使以下職員は軟禁状態となっている。そしてそれはモントルム王都オルスクにあるアルジャーク大使館においても同様であった。
「暇ですねぇ・・・・・・」
ストラトス・シュメイルはそういってもう何度目かわからないため息をついた。大使館が閉鎖され軟禁状態になってから既に十日近くが経つ。なかなか時間がなくて読めなかった本を読んだりして時間をつぶしてはいたのだが、いかんせん暇すぎる。
「まったく、何でこんなに暇なのでしょう?」
ストラトス・シュメイル、二十四歳。若輩ながら大使として外交の最前線に立つ秀才である。が、やる気を見せたがらない性格のためか、あるいは若輩者へのやっかみか、彼が赴任したのはアルジャークにとって格下の小国であるモントルムであった。
仕事に熱心な性質(たち)ではない。少なくともそう見せている。
窓から外を眺めると完全武装したモントルム兵が何人も大使館の周りを歩いている。決して狭くない大使館の四方全てを鼠一匹逃がさぬように固めているのだから頭が下がる。物々しい厳戒態勢だ。
「腕力のない文民相手にご苦労なことです」
とはいえ、やはりいい気はしないのだろう。言葉に軽い毒が混じる。
「大使、なにを暢気なことを言っているのです・・・・・。いつ殺されるかもわからないというのに・・・・・」
オロオロしながらストラトスの執務室に入ってきたのは彼の書記官である。優秀な男なのだが少々気が小さい。
「大使、戦況はどうなっているのでしょう・・・・?もしアルジャークが負けでもしたら我々は・・・・・」
「さて、書記官殿もご存知の通り外の情報はまったく入ってきませんからねぇ・・・・」
今にも泣きそうな書記官に対しストラトスの口調は他人事のようで真剣みに欠けた。
「大使!」
書記官が非難の声を上げるのを彼は聞き流す。いつものことだ。この大使館に留まっている者たちは多かれ少なかれ同じ不安を抱いている。頭でいくら理性的に考えてみても、やはり感情に引きずられる。
そんな中、ストラトスはどこまでも他人事のようにそしらぬ顔をしている。不安は多少なりともあるが、周りがあまりにも取り乱すので逆に落ち着いてしまったともいえる。まぁ、もともと飄々と構えていたがる男ではあったが。
それに自分たちが殺されることはまずないだろうとも思っていた。
アルジャーク軍が勝てばストラトスたちは戦勝国の人間ということになる。そんな人間を殺してアルジャークの心象を悪くする愚を冒すとは思えない。
負けたとしてもその確信は変わらない。モントルムに逆侵攻をかける余力があるとは思えないから後は外交処理となるだろう。となれば自分がそれに関わる可能性は高い。とはいえ・・・・・
「負ければこの国での仕事はやりにくくなるでしょうし、勝って併合されてしまえばそもそも大使館をおく必要がなくなりますし・・・・・」
どちらにしても私にとっては嫌な未来予想図ですねぇ、とどこまでも他人事に考えるストラトスであった。