ダーヴェス砦はアルジャークからモントルム王都オルスクにいたる街道の国境付近に位置している。街道というのは大雑把に言えば旅をしやすいように整備されている道のことである。歩きやすいよう、荷車や馬車が通りやすいようにされている。盗賊団などによってあらされることのないように警備がなされ、一日の行程ごとに宿が用意されている。当然、軍隊を移動させるのにも街道を使うのが一番やりやすい。
モントルムの王都を出立してダーヴェス砦に向かう一万の援軍も街道を用いていた。士気は可もなく不可もなくといったところだ。いまだ戦場となるはずのダーヴェス砦からは離れているからこれは仕方がない。しかし緊張感を欠いていたと言わざるを得ない。兵士たちは編隊を乱してバラバラに歩いており、同僚とのおしゃべりに興じている者が大多数だった。
ソレが起こったのは昼前のことであった。彼方から土煙が巻き起こり、ついで甲冑を着込んだ騎兵が姿を現した。このときですら彼らは突如として姿を現したこの騎兵隊が敵軍であるとは思わなかった。
なぜならばそんなことは彼らの常識としてありえないからだ。アルジャーク軍がまず攻撃を仕掛けるのはダーヴェス砦である。砦が健在であればそこを拠点に補給線を襲うことができ、そうなればアルジャーク軍はこの先戦うことができなくなるからだ。そんなことは初歩的なことは、敵軍も重々承知しているはずで、ダーヴェス砦よりも内側にいる自分たちの前に敵軍が現れるなどありえないことであった。
しかし彼らの常識は次の瞬間に無残にも打ち砕かれることとなる。騎兵三万の掲げる旗がアルジャークのものだったからだ。
「アルジャーク軍!!」
「敵襲!!」
絶叫は悲鳴となり、全軍から起こった。
それから始まったものは戦闘と呼べるようなものではなく、むしろ一方的な殺戮であった。アルジャーク軍騎兵三万に対し、モントルム軍歩兵およそ一万。三倍ちかい戦力差に加え、モントルム軍は逃げるところから戦闘が始まったのだ。まともに戦えるわけがない。
最初の一撃でモントルム軍は突き崩され、もはや集団として指揮されることが不可能になった。
武器を捨て甲冑を脱いで逃げるモントルム兵にアルジャーク軍は襲い掛かった。歩兵の足ではどうあがいても騎兵からは逃げられない。血しぶきが舞い、あちらこちらから断末魔が上がる。モントルム軍は散々に追い回され、もはや軍隊として用を成さないまでに追い散らされた。
モントルム兵がバラバラの方角に逃げ去り、もはや脅威とはなりえない事を確認してから、アルジャーク軍騎兵三万は悠々とその戦場を離れたのである。
このときのモントルム側の戦死者は五千とも六千とも言われている。戦力の三割を失えば大敗といわれることを考えれば、なんとも無残な負け方をしたといえる。一方アルジャーク側の損失はといえば、ただ一言だけが歴史書に記録されている。「軽微」と。
敗走したモントルム軍の代わりに街道をダーヴェス砦に向けて駆け上るアルジャーク軍の、その馬上でクロノワは青い顔をしながらこみ上げてくるものを必死に飲み込んでいた。
彼にとって先ほどの戦闘が初陣であった。いや、戦いを見たことがないわけではない。だが小さな小競り合いはここまで鮮烈で過酷な様相を呈することはなかった。国境沿いで戦闘が発生した際に派遣されたことは何度かあったが、それでも彼自身は後ろで控えていることが多かった。そもそもアルジャーク帝国はここ最近、大きな対外戦争をおこなっていない。だからクロノワにとってこれほどまでに大規模で生々しく凄惨な戦場は初めてで、そういう意味でこれが彼の、本当の意味での初陣であったと言える。
結局彼自身は誰一人として討ち取ることはなかったし、そもそも敵兵と剣を鳴り合わせて戦うことさえなかった。それでも眼前で展開された戦闘は十分すぎるほどに生々しく、衝撃的であった。
背中には嫌な汗が流れている。こみ上げてくるのは吐き気だけではない。寒気、不快感、罪悪感、恐怖。その全てを腹の中に押し戻す。
(逃げはしない。いや、・・・・)
逃げてはいけない。あそこで死んだ者たちの、その死の責任のおよそ半分は自分が背負うべきものなのだから。
「いかがしましたか」
アールヴェルツェがクロノワの顔をのぞき込む。
「いえ、なんでもありません。それよりも急ぎましょう。次はダーヴェス砦に周辺から集まってくる援軍を一つでも多く叩かなくては」
疾風が駆け抜ける。死をもたらす黒い甲冑の疾風が、北へ向けて疾風怒濤の字の如くに。
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アルジャークからダーヴェス砦まで歩兵の足にあわせて移動していては敵の援軍が集結しきってしまう。そうなれば砦を落とすのは至難となる。
だが、騎兵だけならば?騎兵だけならば行軍速度は飛躍的に加速する。歩兵に比べれば三分の一から四分の一、ともすればそれ以下になる。これならば砦に援軍が集結する前に各個撃破を仕掛けることができる。今回、クロノワたちはそれをやった。
奇策である。兵力を分散するため通常であれば各個撃破される危険性が付きまとう。しかし今回はモントルム側も兵力を集めている最中である。砦に一万。街道から一万。周辺から集まってくるものが二万。ただし、これは全てが砦に集まれば二万ということであって、砦までは百数十から千数百の単位で砦を目指すから、いわば小魚の群れである。
つまり、アルジャーク軍騎兵三万を凌駕するような戦力はこの時点では存在しない。であるならば、十分に実行可能な作戦であるといえる。
ちなみに砦を攻めなかったのは、そのための装備を持ってこなかったからだ。それは歩兵部隊が持ってくる。
無論、問題もある。砦が健在な以上、補給線を延ばすことはできない。とすれば活動時間に大きな制約がかかることになる。とはいえ、補給物資は歩兵部隊と一緒に来るので、そのときまでもてばよい。クロノワたちはあらかじめ国境近くに補給物資を用意しておくことでこの問題に対処した。
甲冑を身にまとった黒き風が駆け抜ける。
街道からやってくる一万の援軍を完膚なきまでに叩き潰した彼らの次の目標は、周辺から集まってくる小魚である。