太陽が一番高くなるころ、ついに両軍は相対した。西側からやってくるのがシーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア軍。その数、およそ八万。
それに対し、アナトテ山を後方に置き東側で迎え撃つのは十字軍とアルジャーク軍の連合軍。その数、およそ十四万。ただし、精兵とよべるのはアルジャーク軍の九万だけであるが。
アルテンシア軍は、主翼と両翼の三つに分かれている。主翼三万、両翼がそれぞれ二万五千ずつである。主翼を率いているのは当然シーヴァ・オズワルドであり、リオネス公がその補佐についていた。左翼を率いるのはヴェート・エフニート将軍であり、また右翼を率いているのはガーベラント公だ。
まさに磐石の布陣である。「質実剛健」の言葉を体現し、アルテンシア軍は街道をアナトテ山にむけて進む。シーヴァは数で勝る連合軍に対し、一切の小細工なく真正面から戦いを挑んだのである。
数で劣るとはいえ、強敵と呼ぶべきはアルジャーク軍九万のみで、それを考えれば実質的な戦力はほぼ互角ともいえる。なによりも内部に問題をほとんど抱えていないというのが、このアルテンシア軍の最大の強みであると言えるかもしれない。
一方、アルジャーク軍もまた主翼と両翼を作り、その後ろに本陣を置いていた。さらに付け加えるならばそのさらに後ろ、アナトテ山よりも西の地点には補給物資の集積拠点があり、そこにはランスロー子爵率いるポルトール軍数百名がいる。ちなみにニーナが待機しているのもここだ。まあ、もとよりこのポルトール軍が戦闘に参加することはないが。
さて、主翼と両翼の戦力は奇しくもアルテンシア軍と同じであり、兵は全てアルジャーク兵である。主翼を率いるのはアールヴェルツェ・ハーストレイト将軍。右翼を率いるのはイトラ・ヨクテエル将軍で、左翼を率いているのはレイシェル・クルーディ将軍だ。
さてここまでは戦力、兵の練度、指揮官の能力いずれをとっても互角といえる。ゆえに本来ならば、本陣六万の戦力を余計に保有している連合軍のほうが圧倒的に有利であると言える。
連合軍の本陣は、アルジャーク軍一万、十字軍五万から成っている。この混合軍の指揮を執るのは、連合軍の総司令官でもあるクロノワ・アルジャークである。カルヴァン・クグニス将軍がその補佐につき、実質的な指揮を執ることになっていた。
普通であればこの本陣六万は戦場の趨勢を決定付け勝利を引き寄せる切り札になりえるのだが、この混合軍は内部に幾つかの問題を抱えていた。
第一に、兵の練度に差がありすぎる。兵個人の能力はもちろんのこと、連携や命令に対する即応性など、あらゆる面でアルジャーク軍と十字軍では隔絶しすぎていた。これでは共に戦うどころか、足手まといになりかねない。
役に立たない、信頼できない味方と言うのは、ある意味で強力な敵よりもやっかいな存在である。だからこそアールヴェルツェは主翼と両翼をアルジャーク軍だけで構成し、十字軍はまとめて本陣に置くことにしたのだ。ただしそのせいで本陣が動く際には十字軍にあわせなければならなくなり、その動きは随分と制限されてしまうだろう。
また命令系統にも若干の不安がある。クロノワが本陣を直接率いることに異論は出なかったのだが、十字軍の総司令官である聖女シルヴィアの指揮権をどこまで認めるかで、少し話がこじれた。
「十字軍五万は聖女様が指揮するべきだ」
という意見が十字軍の参謀たちから出たのだ。彼らにしてみれば戦いの主役はあくまでも自分たちで、アルジャーク軍は援軍であるという意識が抜けないのだろう。
聖女シルヴィアはあくまでも象徴的存在だ。彼女に大軍を指揮する能力はない。ゆえに実質的な指揮は十字軍の参謀たちが執ることになる。彼らにしてみれば、自分たちの自由に動かせる戦力を手元に残しておきたいという気持ちがあったのだろう。
しかしクロノワはこの意見を却下した。彼らの思惑はあまりにも見え透いていたし、またそれが名誉欲や自己顕示欲、ギトギトとした功名心に起因していることも明らかだったからだ。
クロノワは十字軍五万を自分の補佐でもあるカルヴァンの指揮下に置いた。少なくともアルジャーク軍の邪魔だけはさせるな、というのがその意図であった。また彼であるならば本陣のアルジャーク軍一万と十字軍を上手く連動させることが出来るのでは、という期待も込められている。
クロノワとアールヴェルツェにしてみれば、アルジャーク軍と十字軍、つまり連合軍全体を完全に掌握するためにもこの采配は譲れない。しかし十字軍内部にはこれを快く思っていない人間も居るだろう。土壇場でそれがどう響いてくるのか、やはり若干の不安が残る。
ちなみにカルヴァンは任された十字軍のあまり練度の低さに驚き、すぐさま再編と訓練に取り掛かった。参謀を含めた十字軍の兵士たちには「一年分を一日で叩き込むかのような」激烈な訓練が課され、阿鼻魔境の地獄絵図が繰り広げられたとか。
ベルベッド城の攻防戦にも参加していたとある十字軍兵士は、
「『|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》』を構えたシーヴァ・オズワルドよりも、訓練中のカルヴァン将軍のほうが恐ろしかった」
と後日漏らしたそうな。
まあそれはともかくとして。これらの布陣を考えたのはアールヴェルツェなのだが彼の思惑としては、本陣は動かさないつもりだったのだろう。九万のうち一万をクロノワの護衛として残し、アルテンシア軍とは互角の戦力でぶつかる。十字軍は邪魔にならないよう後ろにおいておき、いざという時にはクロノワの盾代わりになってくれれば御の字、と思っていたのかもしれない。
完全に意識の統一がなされているアルテンシア軍に対し、連合軍は完全な一枚岩になりきれてはいなかった。ただそれは二つの軍隊が連合を組む上で、仕方のないことであるとも言える。
お互いの内部事情がどうあれ、決戦のときは刻一刻と近づいてきている。これが歴史的な決戦になることは、その場にいる者ならば末端の兵士であっても理解していた。確かにこの戦いは歴史的な決戦になった。ただし、その場にいる誰もが予想しなかった形で。その結末をこの時点で正確に思い描けていたのは、この戦場にはいないただ一人だけであった。
**********
接近してきたアルテンシア軍は、連合軍の人影を目視できる距離まで近づくとそこで一度停止した。そして連合軍もまた、アルテンシア軍に近づこうとはしない。お互いがお互いの出方を窺い、また値踏みするかのように相手の陣形を観察していたからだ。
「見事だな」
アルテンシア軍を率いるシーヴァ・オズワルドはただ一言そういった。彼は自分の認めた強敵に対して賛辞を惜しまない男であったが、これはそのなかでも最上級の褒め言葉であった。
「そうですね」
主君たるシーヴァの言葉にリオネス公も頷く。彼はガーベラント公とはことなり軍勢の指揮に秀でているわけではないが、それでもこれまでの戦いの中で幾度となく敵味方の陣形を観察してきたのだ。連合軍の陣形がこれまで戦ってきた十字軍のそれと比べて、はるかに優れており見事であることは分った。
「布陣と構成はほぼ同じ。いえ、本隊が後ろに控えている分、敵のほうが有利でしょうか」
そう言うリオネス公の言葉には、若干の緊張が浮かんでいる。ただし恐怖で身をすくませるような、後ろ向きの緊張ではない。集中力は研ぎ澄まされ、四肢には力が満ちている。そしてそれは、アルテンシア軍全体に同じことが言えた。
(いい状態だな)
自分が率いる軍勢に、シーヴァは頼もしさを覚えた。こういう状態にあるとき、人は良い働きが出来るものなのである。
「さて、いつまでもにらみ合っていても仕方がないな」
「御意」
シーヴァがこうして軍勢を停止させていたのは、敵軍を観察するほかに接触があるかもしれないと思ったからだ。しかし連合軍の側から使者が来る様子はない。そしてアルテンシア軍のほうから使者を送るつもりは、シーヴァにはなかった。
(交渉や取引でどうにかなる段階は、もはや過ぎているのだ)
シーヴァはそう思う。二度行われたアルテンシア半島への十字軍遠征。そして三度目の画策。この先ずっと脅かされ続けるのかと思えば、統一王国としては教会を屈服させて無力化し、国民の安全を守るほかない。
仮にこの場で連合軍側から講和の使者が来たとしても、シーヴァは教会にとって屈辱的な条件を取り下げることは出来ないし、また教会がそれを飲むこともないだろう。
結局、一戦交えて雌雄を決する以外、道はないのである。
(世はまさに乱世………)
そして軍勢をもって意を通すのが、乱世の習いであろう。
(さて、往くとしよう)
シーヴァは短く目をつぶり、息を吐き出す。そして息を吸い込みながら目を開け、鋭い視線を眼前の敵軍に向けた。
「全軍、攻撃開始」
シーヴァの命令は伝令の兵を通して瞬く間に全軍に伝えられていく。そしてアルテンシア軍は動き始めた。
事前の予定通り、まず動いたのはアルテンシア軍の両翼だった。主翼はまだ動かず、元の位置で静止している。
アルテンシア軍両翼の動きに呼応するかのよう、連合軍の両翼もまた行動を開始する。そして、両翼と距離が開くことを嫌ったのか、連合軍の主翼もまた数瞬遅れて前進をはじめた。
「本陣は動かぬか………」
望遠鏡(ちなみに魔道具だ)を覗き込みながら、シーヴァはそう呟いた。戦術的な思惑があって動かないのか、はたまた動けないだけなのか。
「恐らくは動けないのでしょう」
リオネス公はそう断じた。先ほど観察したとおり、連合軍の主翼と両翼の陣形は見事で兵士と将官の質は非常に高いことが窺える。それはつまり、主翼と両翼はアルジャーク軍のみで構成されており、十字軍が混じっていないことを意味している。となれば十字軍はまとめて本陣に回されている、と考えるべきだ。
「まあ、我でもそうするが」
アルジャーク軍と十字軍では実力差がありすぎる。一緒に動かして連動させようとすれば、かえって足手まといになりかねない。
邪魔だけはしてくれるな、というアルジャーク軍の意図を正確に察し、シーヴァとリオネス公は揃って苦笑をもらした。
「さて、我々も前に出るぞ」
連合軍の両翼はヴェートとガーベラント公がそれぞれ抑えてくれる。本陣の主力は弱兵がメインの十字軍で、これを退けることは容易い。ならば目の前に迫り来る敵主翼を突破できれば、この決戦の趨勢を決することが出来る。
(分りやすくてよいな………)
果たすべき目標が簡潔なのはいいことだ。余計なことを考えず全力を尽くすことが出来る。そう思いながらシーヴァは主翼に前進の指示を出した。
動くのを遅らせたせいか、アルテンシア軍の主翼は両翼よりも後ろに位置している。両軍の両翼はすでに交戦状態に入っており、一進一退の攻防を繰り広げていた。そしてその二つの戦場の真ん中をアルジャーク軍の主翼がアルテンシア軍の主翼に向かって接近していく。それぞれが動いたタイミングの問題で、全体として見ればアルジャーク軍が凸形でアルテンシア軍が凹形という状態になった。
やがて両軍の主翼も激突する。その様子をシーヴァは注意深く観察していた。定石どおりのぶつかり方で、実力は両軍拮抗している。敵軍の主翼を率いているのはよほど優秀な将軍であると見えた。
ただ、シーヴァが最も気にしているのは、そこではない。
「魔導士部隊はいないようだな」
シーヴァが言うとおり魔導士戦につきものの派手な火炎弾や爆音が響くことはない。前回の戦いでガーベラント公の部隊に穴を穿った魔導士がいるはずだが、その魔導士は主翼にはいないらしい。恐らくだが本陣にいるのだろう。
強力な火力を誇る魔導士部隊を一般の部隊で相手取ることは難しい。敵に魔導士部隊がいるならば自分が真っ先に潰さねばならないと思っていただけに、これはシーヴァにとって僥倖だった。
アルテンシア軍に魔導士部隊はまだないのだ。アルテンシア同盟時代、同盟軍のなかにも魔導士部隊はなかった。同盟時代は各領主たちがそれぞれ個人的に魔導士を雇っているという状態だったのだ。
それが、同盟が崩壊したことで、領主たちに雇われていた魔導士たちは一時的にフリーになってしまっている。もちろん統一王国も国として彼らを再び雇用し魔導士部隊を編成しているのだが、如何せん建国以来まだ日が浅く動かせる状態にはなっていなかった。また、「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」という強力な魔道具と、それを操るシーヴァ・オズワルドという絶対的魔導士がいたため、部隊の編成を急ぐ必要がなかったという理由もある。
一方でアルジャーク軍である。アルジャーク帝国もまた、最近急速に版図を拡大したため、併合した国々が持っていた魔導士部隊の再編が間に合っていない、という事情がある。しかし帝国が元々持っていた魔導士部隊はいつでも動かすことが可能なはずで、つまり今回は意図的に連れてこなかったことになる。
今回の編成を考えたのはアールヴェルツェ将軍なのだが、彼がなぜ魔導士部隊を置いてきたのかといえば、それは保険のためであった。
アールヴェルツェが想定した事態。それはアルジャーク軍が大敗して、クロノワが少数の護衛のみで本国へ逃げ帰らなければならない、というものであった。この場合、アルジャーク軍の主要な将軍たちは全て討ち死にしているか、生きていたとしてもクロノワを守るための十分な戦力が手元にない、というのがアールヴェルツェの想定である。
アルテンシア軍がクロノワの後を追わないのであれば、特に問題はない。シーヴァの目的は教会であり、またアナトテ山の神殿だ。アルテンシア軍が敗走するクロノワの後を追う可能性は低いといえる。
しかし万が一そのような事態になった場合、クロノワの安全を守りアルテンシア軍を撃退することが可能なのは魔導士部隊だけである。ゆえにアールヴェルツェは切り札とも言うべき魔導士部隊をオムージュ西の国境付近に残すことで保険をかけたのだ。
アールヴェルツェのそうした思惑はシーヴァにとっては埒外だ。彼にとって重要なのは敵軍に魔導士部隊がいない、というただ一点である。
シーヴァは背中に背負った「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を引き抜くと、その魔剣に魔力を喰わせながら馬を駆って前線に向かって疾駆する。魔弾を四つ浮かせて魔力を注ぎ、敵軍が射程に入ったところで味方を巻き込まぬよう敵陣の少し奥を目指して打ち出す。
これが十字軍相手ならば、着弾し爆裂した魔弾は多数の兵を吹き飛ばして隊列を乱し、またその様子をみた兵士たちは戦意を喪失させるはずであった。
しかしアルジャーク軍はそのような醜態は曝さない。兵士たちは素早く着弾点を見極めると、そこから散って被害を最小限に収めた。そして暴風が収まると素早く隊列を整え、何事もなかったかのように戦闘を再開する。
「ははは、そう来るか」
知らず、シーヴァの口から笑い声がもれた。当たり前の話だが、これまでこのような仕方で魔弾を防いだ、いやいなして見せた軍勢は見たことがない。恐らくだが、十字軍から念入りに情報を聞き出し、それをもとに演習を繰り返したのだろう。
「が、その場しのぎの対処法に過ぎん。いつまで持つかな」
不敵に笑い、シーヴァは再び「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」に魔力を喰わせて魔弾を生み出す。しかし魔力を込めているその最中に、千数百本の矢が彼がいる地点めがけて飛来する。それを見たシーヴァは一瞬眉をひそめたが、すぐにそれらの矢に向けて魔弾を放ちその攻撃を防いだ。
「直接相対するのはこれが初めてだというのに、良くぞここまでやるものだ」
攻撃を防いだというのに、シーヴァの声は苦い。今の攻撃は防いだのではなく、防がされたのだ。先の戦いでシーヴァがどのように飛来する矢を防いだか、アルジャーク軍は知っているに違いない。
魔弾自体を無力化する手段はない。ならば別の標的を攻撃させることで無効化すればよい。それが敵将の考えであろう。
シーヴァがそう考えている最中にもまた第二波の矢が千数百本、彼がいる場所めがけて飛来してくる。同じようにして魔弾を打ち出してこれを防ぎ、それからシーヴァは舌打ちをもらした。
(埒が明かぬ………)
魔弾を放つことでシーヴァの位置は丸分かりである。魔弾を放つこと自体は馬を走らせながらでもできるが、今それをやろうとすれば味方の隊列を乱しかねない。
(となれば………!)
第三波の矢がまたしても千数百本飛来する。シーヴァはそれを防がなかった。敵陣に向けて駆け出したのである。
(魔弾を打ち出すだけが「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」の能ではないぞ!)
馬を駆りながら漆黒の大剣に魔力を喰わせる。込められた魔力に反応して、刀身の周りに黒い風が渦を巻き始める。シーヴァは前線に躍り出ると十分に魔力を喰わせた魔剣を振り上げ、そして振り下ろすと同時に黒き風を解き放った。
魔弾とは違い、黒き風は比較的敵に近い位置から放たれ、また効果が及ぶ範囲もそれなりに広い。その上、放たれたその瞬間から破壊力をもっており、かわすことは非常に難しいといえる。
アルジャークの兵士たちは、まるで真っ黒な濁流が突然目の前に現れたかのように感じただろう。その黒き風が兵士たちを飲み込むその寸前。
「な………!?」
「ほう………?」
アルジャーク兵とシーヴァの口から、ほぼ同時に言葉が漏れる。アルジャーク軍の一画を飲み込もうとしていた黒き風が、まるで雨雲が一瞬にして晴れたかのようにして切り裂かれ霧散したのである。
アルジャーク兵たちが見たのはそれをなした人物の後姿で、シーヴァが見たのは鋭い眼光と口元に浮かべた獰猛な笑みだった。
「まさか、ここでお主が現れるとはな。ジルド・レイド」
白銀に輝く長刀を構えた剣士、ジルド・レイド。シーヴァが知る限り自分に比肩し得る唯一の強敵が、目の前にいた。
******************
「イストからの伝言だ」
抜き身の長刀を手にし全身から闘志をたぎらせながらも、ジルドはいきなり切りかかることはせずにまずはそう切り出した。
「ほう?聞かせてもらおうか」
イストの名前にシーヴァが反応する。今は決戦の最中。本来ならば長々と話を聞いている余裕などないが、イストからの伝言であれば事情は異なる。
イスト・ヴァーレは「御霊送りの神話には裏があるかもしれない」と言っていた男である。その彼がこの決戦の最中に、恐らくは最も信頼しているであろうジルド・レイドを伝言役として寄越したのだ。この戦い、ひいては統一王国と教会の関係に無関係であろうはずがない。いやがおうでも興味をそそられた。
「『戦いの最中に異変が起こる。どう対応するかはそちらの勝手だが、一度退いて原因を調べることを勧める』。以上だ」
「その異変とやらはイストが起こすのか?」
「『世紀のイベントには最高の舞台を』だそうだ」
なるほど、シーヴァは苦笑した。いかにもイストの、ベルセリウス老の弟子の言いそうなことである。「最高の舞台」とはこの決戦のことであろう。血を流し命のやり取りをするこの戦場を“舞台”呼ばわりするのは不謹慎なのだろうが、不思議とシーヴァがその事に怒りを覚えることはなかった。
「なるほど。覚えておこう」
そう答えるだけにシーヴァは止めた。“異変”とやらがどの程度のものなのかはっきりと分らないからだ。大きなものであれば軍を退くことも考えなければいけないが、些細なものであれば戦い続けることになるだろう。そもそも対応はこちらに任せるといっているのだ。確約を得ることなど、最初から求めてはいないはずだ。
「さて、ここからはワシの用事だ………」
そう呟いたジルドは長刀を両手で正面に構え、少し腰を落として臨戦状態を作る。抑えられていた闘志はもはや何の遠慮もなく解き放たれ、シーヴァの皮膚をピリピリと焼いた。彼は獲物を前にした獅子のように、獰猛な笑みを浮かべている。
(いや、獅子は獲物を前にして笑うまい)
獲物を、戦いを前に笑うのは、鬼か修羅の所業だろう。そしてシーヴァは自分がジルドと同じ笑みを浮かべていることを自覚した。
「存分に、付き合ってもらうぞ………!」
ゆっくりと振り上げられた長刀が、残像が尾を引く神速で振り下ろされる。間合いは明らかに遠く、刃はシーヴァに届いていない。しかし、鮮血が舞った。
大量の血を吹き上げ、馬が悲しげな鳴き声をあげながら倒れる。ジルドの放った斬撃により首筋を切り裂かれたのだ。倒れる馬の下敷きにならぬよう、シーヴァは素早く宙に身を躍らせ何とか二本足で着地する。
「ちぃぃ!」
着地したシーヴァは舌打ちをしながら漆黒の大剣を下から振り上げ、振り下ろされる長刀の刃を迎え撃つ。間合いを詰めたジルドが、着地のタイミングを狙って仕掛けてきたのだ。
着地で体勢が崩れ無茶な姿勢で刃を受け止めたせいか、だんだんとシーヴァのほうが押し込められていく。それでも彼は四肢に力を込め、全身のバネを使って下から突き上げて一瞬だけジルドを浮かせ、そして後方に押し戻した。
押し戻されたジルドは、あろうことか地に足がつく前にまるで風に乗るようにして再び間合いを詰めてくる。そして今度は鍔迫り合いを演じることなく、縦横無尽に動き回り全方位からシーヴァに襲い掛かる。
ジルドの動きは速すぎた。正面からの攻撃を防いだかと思えば、次の瞬間には後ろに回りこんでいる。神速の攻撃すべてに対処することは不可能で、シーヴァの鎧には斬撃痕が一瞬ごとに増えていく。ただシーヴァもさるもので、致命傷はもちろん動きに支障がでるような傷は一つも負っていない。
「リオネス公に伝令!指揮権を一時預ける!」
嵐のような攻撃に身を曝しながらも、シーヴァは声を上げてそう命令を出した。ジルド・レイドは自分を狙ってくる。彼を避け兵士たちに足止めさせるのも選択肢の一つだが、それでもジルドは自分を追ってくるだろう。逃げ回っていてはどのみち指揮など取れないし、そのような無様をさらすなどシーヴァの矜持が許さない。
そしてなによりも、この戦いを途中で放り出すことなどシーヴァには出来そうにない。迫り来る凶刃が彼の背筋を寒くする。全身の肌があわ立っているくせに、全ての感覚が極限まで研ぎ澄まされ体がいつもより軽い。間違いなく恐怖を感じているのだが、顔だけはなぜか笑っていた。
「ハアアアァァァアァアアア!」
シーヴァは漆黒の大剣に魔力を喰わせた。そのまま体を一回転させて黒き風で全方位をなぎ払い、ジルドの動きを牽制する。ジルドは「万象の太刀」の能力を使って黒き風の魔力に干渉しこれを切り裂いて霧散させるが、そのために一瞬だけ足が止まり攻撃に間隙ができる。その隙を見逃さず、シーヴァは黒き風を纏わせた「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を振り上げ足を止めたジルドに襲い掛かった。
黒き風を纏わせた一撃を防ぐには、シーヴァの魔力に干渉し霧散させ続けなければならない。しかしそのためには高い集中力を必要とし、足を止めなければならなくなる。
それを嫌ったのか、ジルドはシーヴァの一撃を受けることはせず後方に跳んでかわそうとした。しかし、「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」の刃がジルドの胸の高さまで振り下ろされた瞬間、シーヴァは纏わせていた黒き風を解き放ちジルドを襲わせる。その攻撃をジルドは「万象の太刀」を使って防いだが、勢いまでは殺せず吹き飛ばされてしまう。
ジルドはその勢いに逆らわず、体が浮いたらそのまま風に乗るようにして宙を駆け、シーヴァから距離を取った。アルテンシア軍からジルドめがけて矢が放たれるが、速すぎる彼を捉えることはできない。
(あの動き、やはり魔道具か………!)
というよりそれ以外にあるまい。魔道具の力なくして翼のない人間が空中を移動することなどできないのだから。
(やっかいな………)
恐らくはイスト・ヴァーレの作であろう。ジルドの神速の動きが、あの魔道具によってさらに極みに至っている。
「奴に手を出すな!隊列が乱れるぞ!」
今戦っている主たる相手はアルジャーク軍である。ジルドに動きに翻弄され、隊列を乱したところをアルジャーク軍に狙われては本末転倒だ。それにジルドの狙いは自分のはず。周りが余計な手出しをしなければ自分に釘付けにしておくのは容易、とシーヴァは判断した。
ただそうするとシーヴァは自分で軍勢の指揮をとれなくなる。リオネス公がアルジャーク軍の将相手にどこまでやれるか、一抹の不安が残る。
「ちっ!」
距離を取ったジルドが、再びシーヴァに接近してくる。すかさず黒き風を放つが難なくかわされてしまう。が、それは織り込み済み。いかにジルドが神速を誇るといえど、回避する方向を限定しておくことで、その動きを御することはある程度可能だ。
予測どおりの方向に回避したジルドに向け、シーヴァはあらかじめ用意しておいた極小の魔弾を連続して放つ。この魔弾は黒き風を圧縮して威力を上げるのではなく、むしろ細分化して数を確保していた。威力が小さい変わりに魔力量の少なく、そのためチャージにかかる時間が短くて済む。「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」だからこそできる芸当、といえるだろう。
極小の魔弾を立て続けに放ちながらジルドを牽制し、さらにシーヴァはその間に本命の魔弾を用意する。本命に十分な魔力を込めると、シーヴァは用意していた極小の魔弾全てを使ってジルドの逃げ道を塞ぎ、地に足をつけて動きを止めたジルドめがけて本命の魔弾を打ち込んだ。
放たれた魔弾全てが炸裂する、まさにその瞬間。
「ハアァ!」
裂帛の呼砲と共に「万象の太刀」が振り抜かれ、全ての魔弾が切り裂かれて爆裂することなく霧散した。
――――霞切り。
ジルド自身がそう名付けた、「万象の太刀」を用いた剣技である。その技の冴えにシーヴァも感嘆の声をもらした。シーヴァはもちろんだが、ジルドもあのガルネシアでの仕合の後、さらに研鑽を積んだらしい。
太刀を構えなおしたジルドとシーヴァの視線がぶつかり合う。互いに視線は鋭いが、しかしそこには憎悪はおろか疎ましさや煩わしさもない。その目が表すものは歓喜。その口元に浮かべた笑みが意味するものは戦意。
二人は同時に強敵を求めて前に出た。吹き上がり撒き散らされる魔力は、それだけで物理的破壊力を持った暴風だ。二人の男がその中心で剣戟を演じる。
憎いからではない。邪魔だからでもない。いや、それどころか感謝さえしていた。自分が全力を尽くせる相手に。
結局のところ、二人は強すぎたのだ。これまで二人は共通する不満を抱えていたに違いない。
まず、武器がない。二人の腕についてこられる武器がないのだ。それでも、シーヴァはオーヴァ・ベルセリウスから「|災いの一枝《レヴァンテイン》」を、ジルドはイスト・ヴァーレから「光崩しの魔剣」を与えられ武器に対する不満はなくなった。
しかし今度は全力を尽くせるだけの相手がいなくなってしまった。手に入れた相棒と鍛え上げた力を存分に振るえないことは、彼らにとって呪いにも思えたかもしれない。
そんな中、シーヴァとジルドは出会い、そして立ち合った。全力を出し、それでもなお倒れない相手。自分を脅かすほどの強敵。最初の立ち合いで二人は共に武器を失ったが、それを差し引いておな余りある充足を彼らは感じていた。
そして今、二人は「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」と「万象の太刀」という新たな武器を手に、二度目の相対の最中にいる。渇きを癒すかのようにして、二人は戦いに没頭していく。出会えた幸運に、感謝しながら。
**********
「おお、凄いな、こりゃ」
アナトテ山の中腹、戦場を向いた斜面でイストは「光彩の杖」を操り空気のレンズを作って戦況を覗いていた。今彼が覗いているのは、シーヴァとジルドの戦いだ。
彼らの最初の仕合は、武器が壊れたことで中途半端な結果に終わってしまった。そのおかげでイストとしては“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”への手がかりを得ることが出来たのだが、それとは別の問題として、自分の作った魔道具が仕合の中で使い手の意思に反して壊れてしまったのは、職人として少し悔しい結果だった。
今、ジルドの手には新たに造り上げた魔道具「万象の太刀」が握られている。この太刀ならばジルドの全力に耐えられると自負する魔道具だ。その魔道具を、自分が認めた使い手が思う存分に振るうのを見るのは、やはり職人として嬉しい。
(それに………)
それに、相対しているシーヴァが持つ「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」はイストの師であるオーヴァの作品だ。つまりこの仕合はイストとオーヴァの師弟対決でもあるわけで、そういう意味でもどこか感慨深いものがある。
(オレも成長できてるってわけだ………)
かつてイストとオーヴァの間には隔絶した差があった。それは経験の差であり、知識の差であり、つまりは技術の差だった。オーヴァに拾われたときイストはまだ子供だったから、その差は今のイストとニーナの差よりもさらに大きかった。
イストにとって、オーヴァの存在は絶対的だった。アバサ・ロットの称号を譲られ、一人前と認めてもらいはした。いつか越えてやると意気込みながらも、それでもどこかで無理だろうなと諦めている部分があった。
それが今、互角のところまで上り詰めたのである。昔、弟子になりたての頃、月よりも遠くに思えた場所に到達したのだ。
「なんのまだまだ」
無意識のうちにイストはそう呟き、そして苦笑した。師匠の言いそうなことだ、と思ったのである。
「さて、勝負の行方に心惹かれはするが、オレもそろそろ行くとしよう」
禁煙用魔道具「無煙」を吹かしながら、イストは腰を上げる。どちらが勝つのか、どのような形の決着になるのか、もちろん気になる。ジルドに勝ってほしいとは思っているが、その反面彼が負けて死んでしまったとしても、それはそれでいいと思っている。
イストとしては、あの二人の戦いが後々の語り草になってくれればそれでよいのだ。自分が魔道具を与えて人物が大事を成す。それがアバサ・ロットとしてのイストの願いだ。そして二人の戦いを見ていれば、その願いは十分に果たされたといえるだろう。
最後にもう一度、イストは二人の戦いを遠目に眺める。二人の動きはよく見えないが、二人の周囲に強風が吹荒れていることは分る。まったく、尋常ではない二人だ。
「じゃ、あの二人並みに尋常じゃないことをしに行きますか」
呑気な口調でそう呟く。だが、イストの口元にはシーヴァやジルドと同じ獰猛な笑みが浮かんでいた。
**********
(今頃、外では戦が始まっているのでしょうか………)
神殿の最奥、神子の住まう一画、そのなかでもプライベートな私室に神子ララ・ルー・クラインはいた。母であり先代の神子でもあったマリアがかつて座っていた椅子に、今は彼女が座っている。
テーブルの上に置かれた紅茶に手を伸ばすが、結局口はつけず受け皿に戻す。ならばと今度は隣に用意された大好きな菓子類に手を伸ばすが、やはりどれをつまむこともなく、結局ララ・ルーは手を膝の上に戻した。今は、どんなものも体がうけつけてくれそうにない。
「ああ、もう………」
ララ・ルーはテーブルの上に突っ伏してだべる。いつもであれば世話係の侍女たちからお小言が飛んできそうだが、あいにく彼女たちはいない。決戦が始まる前に全員避難させた。
「最後まで御側に!」
とほとんどの侍女たちが言ってくれたが、あいにくと「神子」がそこまで尽くされるべき存在ではないことを、ララ・ルーは知ってしまっている。むしろ神子のために神殿に残った彼女たちが、何かしらの悲劇に巻き込まれてはそれこそ申し訳ない。
泣いて残ると言い張るものもいたが、丁寧に説得を重ね最後には全員分ってくれた。そのせいで自分のことはすべて自分でしなければならないが、ララ・ルーにとってそれはつい最近まで当たり前のことで苦にはならない。周りに人の気配を感じられないこの静けさは寂しいが、しかしそんなことで自分の行く末に誰かを巻き込んではいけない。
「死ぬのは、自分ひとりでいい」
口に出したことはない。しかしララ・ルーは内心でその覚悟を固めていた。自分が死ねば、魔力の供給を断たれた亜空間は存在を維持できなくなり、パックスの街が落ちることになる。それで教会は終わりだ。いざとなれば自分の死を持って教会の歴史に終止符を打ち、この戦いを終わらせるつもりだ。
体を起こし、左腕にはめた腕輪を撫でる。その腕輪にはめられた「世界樹の種」は、今も鈍い光沢を放っている。
これが、この「世界樹の種」こそが教会そのものだ、とも言えるだろう。「世界樹の種」と御霊送りの神話に隠された秘密を守るため、教会と神子は存在している。いっそ今この瞬間に全てを暴露してしまえば、戦争も何もかも終わり新たな時代が幕を開けるのではないだろうか。
その新たな時代にララ・ルーの居場所はないのだろうけれど、いつまでも秘密を隠し続けることなど不可能なのだ。ならば多くの命が救えるかもしれないこのタイミングで決断することは正しいことではないだろうか。
(それでもわたしは………)
教会を滅ぼすことに、抵抗がある。この教会は母であるマリアが守ろうとしたものだ。どれだけ汚れていたとしても、それは変わらない。その教会を、子供である自分が滅ぼしてしまうことにはやはり抵抗がある。
(お母様は、きっと気にしないといってくださるのでしょうけれど………)
いや、教会を滅ぼすことに抵抗があるのではない。御霊送りの秘密が暴かれてしまえば、教会の評判は地に落ちる。その存在そのものが人々の悪意と敵意に曝され、これまでの全てが否定的な評価に書き換えられていくだろう。
ララ・ルーにとっては、自分のことなどどうでも良い。しかし先代の神子の、母マリアの誇りと名誉を傷つけ、彼女が成し遂げた功績に泥を塗りつけてしまうのが最も恐ろしくて申し訳ないのだ。
「身勝手、ですね………」
本当に身勝手なことだとララ・ルーは思った。自分が死者を守っているがために、今外では軍勢がぶつかり合い多くの血が流されているのだ。どうしようもないあの真実を隠すためにこの戦いを避けることができなかったのだと知れたとき、人々はどんな断罪の言葉を口にするのだろうか。
『それじゃまるで神々が子供たちを殺したみたいじゃないか』
不意に、イストという人物から言われた言葉が耳に響いた。彼の物言いに習えば、神々がこの戦いを望み、流血を欲したことになる。
しかし、ララ・ルーは教会が教える神々など、本当は存在しないことを知っている。少なくとも、教会は神々の祝福など受けていない。ならば戦いを望み流血を欲したのは一体誰なのか。
ララ・ルーは頭を振った。考えることが柄にもなく哲学的になりすぎている。観念的なことを論じる段階は、すでに過ぎているのだ。誰か一人が責任を取って終わるほど、この戦争は簡単でもなければ単純でもなくなってしまった。しかしそう分ってはいても、彼女の頭は考えることを止めてはくれない。
『なあ、なんでなんだ?なんで、あいつらは死ななきゃいけなかったんだ?』
かつて問い掛けられた言葉が、今も頭を離れない。死に対する理由。問い掛けられたあの日からずっと、考え続けているが答えは出ない。それが求められているのは、この戦いも同じだというのに。
――――コンコン。
不意に、ノックの音が部屋に響いた。その音で妙な思考を断ち切れたことにララ・ルーは少し安心する。しかし、扉の向こうにいるであろう人物の顔を想像して、さっきまでとは別の意味で億劫そうにため息をついた。
――――コンコン。
二度目のノックが響く。できるならば居ないことにしたいがそうもいくまい。仕方なく入室を許可すると、入ってきたのは思ったとおりの人物だった。
「失礼いたします。神子様」
「テオヌジオ卿………」
テオヌジオ・ベツァイ枢機卿。ここ最近、何度もララ・ルーの元を訪れてくる客人である。用件はいつも同じで、それゆえララ・ルーもいつも同じ拒否の返答を返す。それでもめげずにこうしてやってくるのだから、内心では辟易もしているララ・ルーである。
まあそれはともかくとして。枢機卿たる人物を立たせたまま話をするわけにもいかない。テオヌジオに席を進め、さらにお茶を入れて彼の前におき、さらに自分用にもう一杯用意する。
ララ・ルーが席につき、お茶を一口飲んで喉を湿らせてから、テオヌジオは迂遠な言い方をせず率直に用件を言った。
「………もう一度、考え直してはいただけませんか」
やはりその話か、とララ・ルーは思った。口元が歪みそうになるのを、ティーカップに口をつけることで隠す。そうやって数秒時間を稼ぎ、その間に神子としての心構えを持ち直す。
「何度来ていただいてもわたしの答えは同じです、テオヌジオ卿。『世界樹の種』が赤い光を放っていない今、神界の門を開くことは出来ません」
神界の門を開き、神殿に残った敬虔な信者たちを神々の住まう天上の園に導いて欲しい。それが、テオヌジオが最近ララ・ルーに求め続けていることであった。
「彼らは救われるべき人々です、神子様」
自分の頼みごとが拒否されても、テオヌジオの態度と口調は変わらず穏やかであった。しかし同時に彼の目に光る、強い意思の光もまた変わってはいない。
「それはもちろんその通りでしょう。ですが、救われるべき敬虔な方々は大陸中におられます。神殿に残ってくださったからと言って、彼らだけを特別扱いしてよいものでしょうか?」
それに、もしそうやって神界の門を開き彼らを迎え入れることが神々のご意志であるならば、「世界樹の種」が赤い光を放っているはずである。そうでないということは、テオヌジオ卿の求めていることは神々のご意志ではない、とララ・ルーは説いた。
詭弁である。「世界樹の種」が放つ赤い光にそのような意味はない。秘密を隠すため嘘を塗り重ねることに、ララ・ルーは罪悪感を覚えた。しかしだからといって神界の門を開きテオヌジオの願いをかなえるわけにはいかない。そんなことをしてみたところで、救われる人など誰もいないのだ。
「枢密院をご覧ください、神子様。私とカリュージス卿のほかは、誰も神殿には残っておりません。そんな中でも彼らは残ってくれたのです。他の誰にもまして、彼らは救われるべきではないでしょうか」
「救いは神々が与えるもの。人の身でそれを成すなど、おこがましいことです」
その言葉を言ってから、ララ・ルーは内心で盛大に顔をしかめた。神々などいはしない。では、一体誰が救いを与えてくれるというのか。
「………どうしても、聞き入れてはくださいませんか」
「残念ですが………」
そうですか、とテオヌジオは頭を振った。それを見てララ・ルーは内心でほっとする。今までの例からすれば、テオヌジオはこれで退席する。
「本当に、残念です」
しかし、そういって立ち上がるテオヌジオの気配は、明らかにいつもとは異なっていた。彼の尋常ならざる気配に圧されるようにして、ララ・ルーも席から立ち上がる。
「どうしようというのです、テオヌジオ卿。そんなものを取り出して………」
テオヌジオが懐から取り出したものを見て、ララ・ルーの顔が強張る。彼が取り出したのは「ミセリコルデ」。戦場で重傷を負った騎士を苦しませないよう止めを刺すための短剣で、別名「慈悲の剣」とも呼ばれている。
その短剣について、ララ・ルーはおろかテオヌジオさえも詳しいことは何も知らなかったであろう。もとよりこの場において重要なことはただ一つ。それが短剣であり、人の命を奪い得るものだということだ。
「早まったことはお止めなさい、テオヌジオ卿」
後ずさりながらララ・ルーがそういうと、テオヌジオは悲しそうに頭を振った。
「もはや、時間がないのですよ、神子様」
言い終わるが早いか、テオヌジオは意外な素早さを見せてララ・ルーの眼前に迫った。そして彼が右手に握った短剣が低い位置から突き出される。
次の瞬間、ララ・ルーは腹部に灼熱を感じた。「刺された」と理解するより前に、血を吐いて崩れ落ちる。受身も取れずに床に倒れこむが、不思議と痛くはない。お腹に感じる痛みが、全てを凌駕していた。
「……テ、テオ、ヌジ、オ、きょ……う……」
「罪深いことだとは、分っています………」
血を吐き出して声を上げるララ・ルーを見つめながら、悲しみを滲ませた声でテオヌジオがそう呟く。彼の右手に短剣は握られていない。ララ・ルーの腹に突き刺さったままになっている。
「ですが、神子様の協力が得られないのであれば、もはやこれしかないのです」
テオヌジオは沈痛な声でそう語る。しかし彼の声に後悔はいささかも感じられない。言葉を選ばなければ、「罪を犯してまでも人を救う」という行為に彼は酔っていた。
「全ての罪は、私が背負いましょう………」
そう呟くとテオヌジオはララ・ルーの傍らにしゃがみこみ、彼女の左腕から「世界樹の種」がはめ込まれた腕輪を外した。
「おお!これは………!」
腕輪を手にしたテオヌジオが歓声をあげる。ララ・ルーが渾身の力を振り絞って視線を上げると、彼が手にした腕輪、そこにはめ込まれた「世界樹の種」が煌々と赤い光を放っていた。
「これはまさに神々が私の信仰と誠意を祝福してくださった証!」
神々が神界の門を開いて信者たちを救うようにと私に命じているのです!とテオヌジオは喜びの声を上げた。
(ちがう………、それは………!)
赤い光、それは「世界樹の種」に亜空間を維持するための十分な魔力が供給されていないことを示す警告だ。しかしララ・ルーの口は血を吐き出すばかりで、言葉をつむぐことが出来ない。それに、今のテオヌジオに何を言っても無駄であろう。
「早く彼らにも教えてあげなければ!」
全身で歓喜を表現しながらテオヌジオが神子の私室を出て行く。もはや彼の目には血を流すララ・ルーの姿は映っていない。
テオヌジオが出て行ってしまうと、部屋は痛いほどの沈黙に包まれた。床に力なく横たわるララ・ルーの耳に入るのは、やたらと大きな自分の心臓の鼓動だけである。一つ鼓動が響くたびに、短剣が刺さったままのお腹から血が流れ出ていくのが分る。死が這い寄って来る気配をララ・ルーは感じた。
(お母様………、今、御側に………)
不思議と、死への恐怖は感じない。また看取ってくれる人がいないことも寂しいとは思わない。母マリアも、一人で寂しく死んだはずだから。
ゆっくりと目を閉じる。床が冷たいのか、それとも自分が冷たくなっているのか、それももう良く分らない。
コツコツコツ、と足音がする。幻聴だろう。それとも死神の足音だろうか。
「随分と、予想外の展開になってるじゃないか」
その声に驚いてララ・ルーは目を開けた。かすんでしまった視界の中、それでもかつて出会った人物の姿を認める。はっきりとは分らないが、その顔は苦笑しているように見えた。
「イ、スト、さん………?」
「おや、覚えていたか」
意外だな、とイストは呟いた。だがララ・ルーからすれば忘れられるわけがなかった。あの日からずっと、あの問い掛けの答えを探してきたのである。
「お伝え、したいことが………、あります……」
「ああ、聞こう。いや、聞かせてくれ」
そういってイストは片膝をついてララ・ルーを抱き起こす。
「あなた、から、言われた………問い、かけを、ずっと………考えて、きました……」
『なあ、なんでなんだ?なんで、あいつらは死ななきゃいけなかったんだ?』
その問い掛けへの答えは結局出せなかった。けれども考え続け、その中で感じたことはある。それを伝えなければならない。
「子供、たちが………。死ななければ、いけなかった理由は、私には………、分りませんでした」
それでもその子供たちがあなたと一緒に笑い、泣き、怒り、喜んだことは決して無意味でも無価値でもないと思います。死んでしまったことに意味はなくても、生きていたことにはきっと意味があると思います。
息が絶え絶えになりながらも、ララ・ルーは必死に言葉をつむいだ。自分のこの死に意味はなくとも、自分が遺すこの言葉にはきっと意味があると信じて。
「そうだといいな。そう考えれば、救われた気分にもなる」
少し困ったように笑いながら、イストはそういった。どう見ても助けが必要なのはこの少女だろうに、ララ・ルーはイストのために言葉を遺した。
「………はい………!」
いや、それでも彼女は救われたのかもしれない。最期に涙を流し、ララ・ルーは満面の笑みを浮かべた。そして彼女の体から力が抜け、冷たい顔がイストの腕にもたれかかる。
(まさか神子を二代続けて見取ることになるとはね………。しかも親子だ………)
まったく奇妙な縁だな、と苦笑しながらイストはララ・ルーの亡骸を横たえる。ともすれば自分が殺していたかもしれない相手だと思えば、数奇というかなんと言うか、ともかく苦笑するしかない。やはり運命の女神は相当な暇人で悪趣味だ。
ララ・ルーの髪を整え、腕を組ませる。その遺体で目を引くのは、やはり腹部に刺さったままになっている短剣、ミセリコルデだ。
(果たしてそれは慈悲だったのか………?)
埒もない、と呟いてイストはその短剣を引き抜き、ティーカップが出しっぱなしになっているテーブルの上に置く。
「あいにくと葬送の花は用意してこなかった。代わりと言ってはなんだが、墓標を用意しよう」
気に入ってくれるかは分らんがね、とイストは呟く。最後に短く黙祷を捧げると、イストはその部屋を後にした。
神子にふさわしい墓標。それは、すなわち――――。
*******************
(まずいですね………)
戦況を眺めながら、リオネス公は内心で冷や汗をかいていた。はっきり言って、状況は良くない。
両翼同士の戦いは拮抗している。ヴェート・エフニート将軍率いる左翼は、連合軍(とはいっても純アルジャーク軍だが)の右翼と交戦している。ヴェート将軍が優秀なことはリオネス公も知っているが、敵右翼を率いる将も彼女に劣らぬ名将であるようで、双方一進一退の激しい戦いを繰り広げている。何よりも双方とも兵の士気が高い。おそらくこの戦場で最も兵士の士気が高いのはここであろう。
一方、アルテンシア軍の右翼を率い、連合軍の左翼と交戦しているのはガーベラント公だ。こちらは左翼に比べると随分静かな戦場だった。しかし、それは決して緩いという意味ではない。むしろこの戦場の空気は指で触れれば切れてしまいそうなほど張りつめている。
ガーベラント公と敵将はまるでチェスを指すかのように兵を動かしていく。相手の動き方からその思惑を推測し、それに応じて部隊を動かす。決して派手さはないが、見るものが見れば唸り声を上げずにはいられない素早さと正確さである。そしてどちらかが悪手を打った瞬間にこの均衡は崩れ、戦場の趨勢は一気に決するであろう予感を二人の将は共有していた。
アルテンシア軍と連合軍の両翼同士の戦いは拮抗しており、悪く言えばこう着状態に陥っている。そんななか今まさに趨勢の天秤が傾きつつあるのは主翼同士の戦いだ。そしてこの戦いは、そのままこの決戦の趨勢さえも決しようとしていた。
現在アルテンシア軍主翼の指揮を執っているのはリオネス公である。しかし、彼はもともとシーヴァの補佐役であり、ヴェート将軍やガーベラント公のように用兵に秀でているわけではない。
連合軍の主翼を率いているのはアルジャーク軍のアールヴェルツェ将軍なのだが、百戦錬磨の名将の相手をするのにリオネス公では力不足であった。時々刻々と押し込められていく戦況を見ながら、彼は内心で焦りを募らせていく。
戦闘を開始する前、シーヴァは「敵主翼を破れば、それでこの決戦の趨勢は決する」と考えていた。もちろん彼は自分が敵主翼を突破することでこの決戦の趨勢を決定付けようとしていたのだが、思いもよらぬ要素がここで加わることになる。
それが、今シーヴァと死闘を演じている剣士、ジルド・レイドである。リオネス公自身もガルネシアの古城で何度か彼の姿を見かけている。まさか戦場で、しかも敵味方として再開するなど、あの時は思いもしなかったが。
彼が登場したことで、シーヴァとアルテンシア軍の予定は大幅に狂ってしまった。シーヴァがジルドとの決闘に没頭することで、主翼の指揮をとることができなくなってしまったのである。
(どうする………?部隊を割いて陛下の援護に回すか………?)
そう考えては見たものの、それが現実的ではないことはリオネス公にも分っていた。連合軍主翼の猛攻を受けているこの状況で、シーヴァの援護に避ける戦力はない。それにアルテンシア軍がシーヴァの援護に部隊を回せば、連合軍とてジルドの援護に部隊を回すだろう。あちらにしてみればジルドがシーヴァを釘付けにしている現状こそが最大の好機なのだから。
それに、シーヴァが自由に動けるということは、ジルドも自由に動けるということだ。あのシーヴァ・オズワルドと互角に戦える剣士が自由に動き回ったとして、アルテンシア軍にどれほどの被害が出るか想像も付かない。もちろん使っている魔道具の差があるから単純にシーヴァ相当として考えることはできないが、動き回られて厄介な相手であることは確かだ。
そもそも二人の周りに兵を近づけること自体が困難なように思われる。二人の周りには放出された魔力が強風の如くに渦を巻いており、何人をも近づけさせぬ領域ができあがってしまっているのだ。
(しかしこのまま陛下が指揮に戻られなければ………!)
アルテンシア軍主翼は、連合軍主翼に敗れることになる。そして両翼同士の戦いが膠着している以上、その勝敗がそのままこの決戦の勝敗に直結する。
リオネス公は奥歯を噛締める。自分が醜態を曝すだけならば別にかまわない。しかしそれが原因でこの遠征が失敗に終わるようなことになれば死んでも死にきれない。その上、ここで負ければ教会が再び西へ手を伸ばしてくるかもしれないというのに。
(どうする………!?)
考えろ、とリオネス公は自分に命じる。しかしながら彼はもともと策士であり軍師だ。つまり通常、彼の仕事の大半は決戦が始まる前に終わっている。実際に兵を指揮して作戦を実行するのは、本来ならばまた別の人間の仕事なのだ。
だが現状はそのようないい訳を許してはくれない。シーヴァが動けない以上、アルテンシア軍主翼の指揮を執ることができるのはリオネス公しかいないのだから。
「リオネス公、我らが行こう」
焦りを募らせるリオネス公に声を掛けたのは、ゼゼトの戦士ガビアルだった。彼が率いるゼゼトの戦士五千はシーヴァ直属の部隊として主翼に編入されている。ただ、現在シーヴァがジルドによって足止めをくっているため、今までのところこの部隊は待機状態が続いていた。
いや、シーヴァから指揮権を預けられていることを考えれば、ゼゼトの戦士五千を動かす権限は、今はリオネス公にあると言える。しかし権限などよりももっと根本的な部分、つまり感情や器量の問題でリオネス公はこの部隊を動かすことを躊躇っていた。
つまりリオネス公は、
「陛下でなければ、ゼゼトの戦士たちを使いこなすことはできない」
と、そう考えていたのである。
その考え自体は間違ったものではない。実際、ゼゼトの戦士たちはシーヴァ以外の大陸人から頭ごなしに命令されたとしても、そんなものは頑として聞き入れないであろう。そしてそのようなことが続けばアルテンシア軍は内部に不和を抱えてしまい、この遠征自体が失敗してしまう可能性さえある。そうでなくとも、せっかく改善され始めた統一王国とロム・バオアの関係が再びこじれてしまうだろう。
遠征軍幕僚の一人として、なにより統一王国を支える五人の公爵の一人として、リオネス公はそのような危険を犯すわけにはいかなかったのである。
しかし、ガビアルのほうから「自分たちが行く」と言ってくれれば、話は違ってくる。それであれば「使いこなせないかも」などと心配をする必要もない。
恐らくだが、ガビアルのほうも自分たちが扱いにくい存在であることを自覚していたのだろう。それで自分から動くと言うことで、彼らなりに「信」を見せたのではないだろうか。
少なくとも、リオネス公はそう感じた。そして相手が「信」を見せたのであれば、自分のもまた「信」を見せなければならない。
リオネス公は馬から降りるとガビアルの正面に立った。ゼゼトの民である彼はリオネス公よりも頭一つ分ほど大きく、肩幅にいたっては二倍以上もあるように見える。敵であれば、本当に恐ろしい巨人兵だ。リオネス公など拳の一振りで殺されてしまうだろう。しかし、今目の前にいる彼は敵ではなく、心強い味方だ。
「よろしくお願いします、ガビアル殿」
そういってリオネス公は右手を差し出す。ガビアルは一瞬とまどったような顔を見せ、そのあと照れくさかったのか厳しい笑みを見せて差し出された右手を握った。
(そういえばガビアル殿と、いやゼゼトの民とこうして握手するのは初めてだな………)
壁を作り遠ざけていたのは自分のほうかと思いリオネス公は反省した。そして恐らく、その思いはガビアルのほうも同じなのだろう。
握手を終えて手を離すと、途端にガビアルの顔つきが戦士のものになる。
「では、行ってくる」
「ええ、お願いします」
一度仲間たちの下へ戻るガビアルの背中を見送ると、リオネス公は再び馬にまたがり戦場を見渡す。戦況は依然アルテンシア軍不利。しかし先ほどまでの焦りは、もはや彼の中にはなかった。
「ゼゼトの戦士たちが前線に出る!押し返すぞ!!」
おお!と周りの兵士たちが答える。そんな彼らに、リオネス公は頼もしさを覚えた。
**********
(あの男の言葉は、決して誇張ではなかったか………)
アールヴェルツェのいう「あの男」とは、先日アルジャーク軍の陣内に侵入してきた不審者のイスト・ヴァーレのことだ。彼は一緒にいたジルド・レイドという剣士に、敵主将シーヴァ・オズワルドを「斬っちゃっていい」と話していた。あの時はジルドが発する凄まじい覇気に圧されて何もいえなかったが、一度冷静になればそれはどう考えても不可能なように思えた。
まあ、仮にジルドがシーヴァにあっさりと破れ死んでしまったとしてもアルジャーク軍には何の影響もない。もとより自分たちだけでアルテンシア軍を何とかするつもりでここまで来たのだ。邪魔にならなければそれでよい。多少なりともシーヴァの足止めをしてくれれば御の字。アールヴェルツェはその程度に考えていた。
しかし、アールヴェルツェの予想は外れた。今まさにジルド・レイドは戦場のど真ん中でシーヴァ・オズワルドと死闘を演じている。それもアールヴェルツェが考えていたのよりもはるかに高い次元の戦闘だ。その戦いは速すぎて目で追うことができない。武人としては軽く嫉妬さえ覚えてしまう。
(いずれにしても、シーヴァが「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を自由に振るえぬこの状況は好機………!)
加えてシーヴァの代わりに指揮を執っている敵将は、用兵家として二流。アールヴェルツェの指揮する連合軍主翼(純アルジャーク軍だが)は敵主翼に対して優位に立つことができている。
始めに見せ付けられた「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」の力は想像以上だった。それだけにジルドがシーヴァを抑えてくれている間になんとしても戦場の趨勢を決めてしまいたい。それがアールヴェルツェの思いだった。
とはいえ、そうなにもかも上手くはいかないのが戦場という場所である。敵軍より今まで温存されていたと思しき歩兵部隊およそ五千があらわれ、猛然とこちらへ突進を開始したのである。
新たに現れた歩兵部隊。彼らがただの歩兵であれば、そう警戒する必要などない。しかし彼らはただの歩兵ではなかった。全員が巨躯を誇るゼゼトの民なのだ。その威圧感と迫力たるや、一万の兵に勝るとも劣らない。
「まさに巨兵だな………。あれがゼゼトの戦士たちか」
戦場に雄叫びを響かせながら突進してくるゼゼトの戦士たちを見て、さすがのアールヴェルツェも背中に冷たいものを感じる。だがこの程度のことで彼の指揮能力が奪われることはない。
「接近させるな!弓矢を集中させろ!」
アールヴェルツェの命令にしたがって数千本の矢が突っ込んでくる巨兵めがけて放たれる。しかしゼゼトの戦士たちは盾で頭部を守りながら速度を落とさずに向かってくる。中には防ぎきれずに矢が首筋に刺さって倒れる者もいたが、彼らは一切の躊躇や動揺を見せずに突っ込んでくる。
弓矢の雨を防いだゼゼトの戦士たちは、勢いそのままに敵へと襲い掛かる。鉈のような大剣を振り回し鎧ごと敵兵をほふっていく。槍を突き出されればそれを素手でつかみ、そしてそのまま放り投げて道をこじ開ける。彼らの太い腕や脚には何本も矢が突き刺さっているのだが、そんなものは彼らにとって蚊に刺された程度にしか感じていないのだろう。敵兵の血霞を巻き上げながら、ゼゼトの戦士たちは前進していく。
(ちっ………!厄介な………!)
アールヴェルツェは舌打ちをもらす。ゼゼトの戦士たちの戦闘能力は、その見かけどおり凄まじい。しかしそれだけならば対処の仕方はいくらでもある。ましてここにいるのはアルジャークの精兵たちだ。巨躯や怪力、見慣れない武器などで腰が引けるような者たちではない。
ゼゼトの戦士の厄介なところ、それは怯まないことだ。まるで恐怖という感情がごっそり抜け落ちているかのようである。自らが傷つくことを恐れず、また味方が倒れればその死体を踏み台にして彼らは向かってくる。
そしてさらに厄介なのは、彼らのそうした獅子奮迅の戦いぶりが、アルテンシア軍主翼全体を奮い立たせ士気を高めることである。つまり一部の部隊の働きが、全体の戦闘力を底上げすることに繋がるのである。
(さて、どうするか………)
無論、このまま好き勝手にやらせておくわけにはいかない。かといって彼らに対処しようとして兵を集めて手薄な場所を作ってしまえば、士気が高くなった敵軍にそこを突かれかねない。そうなれば戦場の流れが逆転してしまうことになりかねない。
(となれば………)
敵が温存していた部隊を出してきたように、こちらも温存しておいた部隊で対応するしかない。そして現在、連合軍主翼において自由に動かせる待機中の部隊は、アールヴェルツェの直属部隊しかない。
「あの巨兵どもは私の直属部隊で抑える!各員奮起せよ!これで趨勢を決めるぞ!」
おお!と味方から声が上がる。頼もしいその反応に一つ頷いてから、アールヴェルツェは馬の腹を蹴って駆け出した。
アールヴェルツェの直属部隊は騎兵ばかりが三千。数の上ではゼゼトの戦士たちに劣るが、歩兵の一人と騎兵の一騎は異なる。定石どおり騎兵一騎につき歩兵三人と計算することは出来ないかもしれないが、互角かそれ以上の戦いは可能だとアールヴェルツェは踏んでいた。
そしてなによりも………。
「行くぞ!!日ごろの訓練の成果を存分に発揮せよ!」
「「「「は!!」」」」
この騎兵たちはアールヴェルツェ子飼いの部隊だ。彼直々に厳しい訓練を施した、アルジャーク軍の中でも最精鋭と呼ぶに相応しい部隊である。個人の能力、部隊としての連携、そしてクロノワとアールヴェルツェへの忠誠心。そのどれもが最高水準であると言って間違いない。
「弓隊、援護!!」
アールヴェルツェの命令に呼応して千数百本の矢が騎兵隊の頭上を飛び越えゼゼトの戦士たちに降り注ぐ。それを防ぐために攻撃が手薄になった瞬間、アールヴェルツェは直属部隊を敵部隊に突撃させる。
アールヴェルツェ直属部隊の働きはめざましい。敵の進行方向に対して斜めから突撃した彼らは一撃を加えた後、数百程度の部隊に分かれて縦横無尽に駆け巡り、敵部隊を翻弄し切り裂き分断していく。
怪力を誇るゼゼトの戦士たちに、力勝負を挑んでも勝ち目はない。そこでアールヴェルツェは騎兵の機動力を存分に発揮して彼らをかく乱していった。決して足を止めず、すれ違いざまに攻撃を仕掛ける。致命傷を与えることにはこだわらず、ただ相手の足を止め、できることならば地面に倒れさせ、この部隊を無力化していく。
アールヴェルツェの主要目的はこの部隊に壊滅的被害を与えることではない。この部隊をかく乱して無力化し、ゼゼトの戦士たちが思うように戦えないようにすることで、この戦場の流れを相手に渡さないことが、彼の目的だった。ここさえ抑えておけば、全体としては連合軍有利なのだ。このままであれば、押し切ってしまうのはそう難しいことではない。そして全体の趨勢が決まってしまえば、一部の部隊がどれだけ頑張ったところで意味はない。
しかし、被害を与えることが目的ではないとはいえ、攻撃を仕掛けているのは大陸最強と名高いアルジャークの騎兵隊、しかもその最精鋭部隊である。末端の一兵士に至るまで意識の統一がなされ、その連携行動たるやもはや芸術の域である。
それに対しゼゼトの戦士たちは個人の能力は凄まじいが、集団での戦闘については経験が浅い。極端なことを言えば真正面から突撃していくことしか出来ない。ただその攻撃力は絶大で、彼らの突撃に耐えられる部隊など十字軍には存在しなかったから、これまではそれでも問題なかったのだ。
しかし連合軍(の主力たるアルジャーク軍)は違う。たとえ個人の能力で及ばないとしても、それを補って余りあるだけの連携能力を有しているのだ。そしてその最高峰たるアールヴェルツェの直属部隊の前に、ガビアル率いるゼゼトの戦士たちはいい様に翻弄されていた。
ゼゼトの戦士たちは迫り来る騎兵を恐れてはいない。それどころかタイミングを合わせて反撃しようと待ち構えている。騎兵相手に動き回っても勝負にはならないから、盾を構えて腰を落とし、すれ違うその一瞬に斬りつけるのだ。
だが、それができている戦士はほとんどいない。振り上げた大剣は先頭の騎兵によって打ち払われ、体勢を崩したところを後続の騎兵によって喉もとを槍で一突きにされる。致命傷をまぬがれたとしても劣勢は変わらない。次々に襲い掛かる騎兵たちによって地面に倒され、そこを馬に踏みつけられてへい死する者たちが続出した。
(ち、厄介な………)
しかし、アールヴェルツェの内心は苦い。劣勢ながらもゼゼトの戦士たちは未だに抵抗を続け、その戦いぶりがアルテンシア軍全体を鼓舞しているからだ。
これだけいいようにやられれば、普通の部隊であれば撤退する。それが無秩序な敗走なのか、それとも戦術的な撤退なのかはさておき、ともかく一度下がるというのが常識的な行動である。
しかしゼゼトの戦士たちは下がらない。隣で同胞が倒れようとも、そんなことは気にもかけず戦い続けている。幾つもの傷を負い全身を紅に染め上げながらも好戦的に笑うその姿は、アールヴェルツェでさえうすら寒いものを感じずにはいられない。
かつて、アールヴェルツェはアレクセイ・ガンドールにこう尋ねたことがある。
「最も優秀な兵士とは、どのような兵士だろうか」
それに対しアレクセイはこう答えた。
「逆境にあっても踏みとどまり粘り強く戦うことができる兵士。それが最も優秀な兵士である」
目立つことを好む兵は、一騎打ちなど戦場の華とも言うべき局面においては無双の力を発揮するだろう。しかし戦場において輝かしいのはほんの一部で、それ以外は辛くて厳しい局面ばかりである。そのような兵は逆境に陥れば驚くほど脆い。そんな兵は幾らいても戦力になどならない。
それよりも、逆境にあっても命令を遵守し踏みとどまれる兵は貴重である。そのような兵士がいればこそ、劣勢を撥ね返して最後に勝利を掴むことができるのだ。それに逆境で力を発揮できる兵は、優勢なときにはさらなる力を発揮してくれる。
(アレクセイ殿がこの場におられれば、彼らこそ最も優秀な兵士たちである、とそう言われたかも知れぬな………)
かつて共に切磋琢磨した男のことを、アールヴェルツェは少しだけ思った。
それはともかくとしても、ゼゼトの戦士たちのなんと屈強なことか。彼らは自分たちの命を塵あくた程にも気にかけていない。ほんの一瞬でも隙を見せれば状況をひっくり返されてしまうだろう。
「攻撃の手を緩めるな!」
馬を走らせながらアールヴェルツェは檄を飛ばす。その様子を射抜くように見据える一人の男がいた。ゼゼトの戦士、ガビアルである。
満身創痍。今の彼の姿を形容するとしたら、この言葉しかないであろう。腕と脚には矢が突き刺さり、全身の傷から血が流れ出ている。それでも彼は力強く大地を踏みしめ、その目は抗戦の意志を失ってはいない。
とはいえ、このままでは負けることも承知している。
死ぬこと自体はそれほど惜しくはない。シーヴァ・オズワルドという最強の戦士と戦場を駆け抜けその果てに死ねるというのであれば、それはゼゼトの戦士にとってむしろ僥倖である。
(だが何もできずにただ死ぬわけにはいかん!!)
死ぬならば同胞(はらから)のために。それがゼゼトの戦士たちの教えだ。そしてガビアルにとって同胞とはもはやゼゼトの民だけではない。この戦場にいるアルテンシア軍の戦友たち全てが、彼にとっては同胞というべき存在であった。
そして彼は見つける。将と思しき男が指示を出しているのを。彼こそ自分たちを翻弄し圧倒していく敵騎兵隊の指揮官であろう。
「その首、もらったぁぁぁぁあああああ!!!」
絶叫と共に、ガビアルは右手に持っていた大剣を投げつけた。振りぬいた腕から舞い上がった血しぶきが、彼の視界を淡く紅に染め上げる。
アールヴェルツェは突然投げつけられた大剣を紙一重のところでかわしたが、その代償として落馬してしまう。
「ぐっ!」
地面に叩きつけられたアールヴェルツェの体は悲鳴をあげる。また彼が率いていた騎兵たちは急に止まることができず、アールヴェルツェは孤立してしまう。
馬から落ちた敵将が孤立したのを、ガビアルは見逃さなかった。彼は盾を投げ捨てると近くに落ちていた武器を両手に拾う。右手にはゼゼトの戦士が用いる大剣を、左手には普通のサイズの剣を。両の手に二つの剣を持ち、ガビアルは敵将に迫る。
「アアァァァアアアアァアアアアア!!!」
ガビアルはまず左手を振りぬいた。重く激しいその斬撃を、アールヴェルツェは腰を落として姿勢を低くし、槍を両手で持って受け止める。
一瞬の拮抗の後、アールヴェルツェのほうがだんだんと押し込められていく。ついに彼が片膝をついたとき、ガビアルは凶暴な笑みを浮かべて右手を振り上げた。
「将軍!!」
しかしガビアルが右手に持つ大剣がアールヴェルツェを襲うことはなかった。一度通り過ぎていってしまった騎兵たちが舞い戻ってきたのである。
先頭を行く騎兵が、今まさに振り下ろされたガビアルの大剣を受け止め、そして勢いそのままに弾き飛ばす。そして後続の騎兵が彼の喉もとに狙い済ました一撃を放った。
自分の喉もとめがけて迫りくる穂先を、ガビアルはあろうことか得物を失った右の手で迎え撃った。彼は穂先の根元をつかむと、手のひらに刃が食い込むのを気にもせずにそれを振るい、槍を持っていた兵士を馬ごと強引に払いのける。思わぬ反撃に、騎兵隊はそれ以上ガビアルに攻撃することができなくなった。
しかし、この援護のおかげでアールヴェルツェを抑え込むガビアルの力が弱まった。彼は全身の筋肉を駆使してガビアルを押し戻し、さらに腹に蹴りを入れて一瞬だけ相手の体勢を崩す。
「舐めるな!!若造がぁああ!!」
アールヴェルツェが槍を突き出すのと、ガビアルが左手に持った剣を振るったのはほぼ同時。防御をかなぐり捨てた互いの一撃は、そのまま互いの命を奪う致命傷となる。
アールヴェルツェが突き出した槍はガビアルの喉もとを貫いている。ガビアルが振るった剣の刃はアールヴェルツェの右肩を砕きそのまま心臓にまで達していた。
先に絶命し倒れたのはガビアルだった。槍を引き抜いたアールヴェルツェは、そのまま穂先を天に掲げる。
「アルジャーク帝国と陛下に、栄光あれぇぇぇぇぇぇ!!!」
それが、彼の最後の言葉になった。