神殿の中は、静まり返っている。ほんのつい最近、御霊送りの儀式の準備をしていた頃はうるさいほどに賑やかだったのに、今はそれが嘘だったかのように閑散としている。
例えばこれが学校などで、長期休暇のために学生の多くが帰省したためであるならば、この静けさからは安らぎや、あるいは達成感のようなものを感じることができたかもしれない。
しかし実際のところ、神殿が閑散として静まり返っているのは、迫り来るアルテンシア軍とシーヴァ・オズワルドに恐れをなし、多くの人が逃げ出した結果である。そのような状況であるから、神殿に残った少数の人々がどこか落ち着かない、漠然とした不安を抱えているのは当然と言えた。
それは神殿に残った二人の枢機卿の一人、カリュージス・ヴァーカリーにも同じことが言える。彼がその漠然とした不安を表に出すことはなかったが、腹の中になにかモヤモヤしたものが渦をまいているような、そんな不快感をこの頃感じている。
カリュージスが神殿に残ったのは、ひとえに教会を守るためであった。アルジャーク軍が間一髪間に合ったことで、神殿がアルテンシア軍によって占拠されてしまう事態はひとまず避けることができた。しかしその可能性が完全になくなったわけではなく、アルジャーク軍が敗退すればやはり神殿はアルテンシア軍の手に落ちることになる。
そうなったらその後は自分の仕事だ、とカリュージスは思っている。恐らくはシーヴァ・オズワルドとのタフで困難な交渉が待っている。
教会と神子を守ること。それがヴァーカリー家の務めである。そしてヴァーカリー家の現在の当主はカリュージスだ。ならばカリュージスは教会を、そして神子を守らなければならない。
(しかし、何のために守るのか………)
神殿を占拠したシーヴァは、アルテンシア軍の戦力を背景に教会を無力化すべく手を打ってくるだろう。シーヴァがどのような手を打ってくるのか、色々カリュージスなりに考えて対応策を検討してはいる。しかし、どうあがいても教会の発言力が地に落ちるのは避けようがない。
教会という組織に力がなくなれば、教会が今まで隠してきた御霊送りの真実も遠からず露呈することになるだろう。ヴァーカリー家はそれを隠し通すために、これまで教会と神子を守り続けてきたと言っても過言ではないのに。
何もかも無駄になる。カリュージスにはその予感がある。ならば何のために自分を奮い立たせなければならないのか。
のしかかる不安のせいか、あるいは慣れない状況からくる緊張のせいか、自分の思考が悲観的になっているのをカリュージスは自覚した。しかし自覚したからといって、事態が好転する要素がほとんどないのだ。楽天的に考えようとしても、カリュージスの中にいる冷徹な政治家はすぐさまそれを否定してしまう。今の彼は、教会を守ることに意義を見出せないでいた。
「カリュージス卿、テオヌジオです。少しよろしいでしょうか」
そんな時、ノックの音がカリュージスの執務室に響いた。来客は彼のほかに神殿に残ったもう一人の枢機卿、テオヌジオ・ベツァイらしい。彼を室内に招き入れて席を進めると、カリュージスは向かい合うようにしてソファーに座った。
「今日は、カリュージス卿に少しご相談がありまして………」
紅茶を用意してからカリュージスが座ると、テオヌジオは余計な前置きはせずに話を始めた。
「聖女様の護衛として、カリュージス卿子飼いの衛士を幾人か派遣していただきたいのです」
護衛としてであれば、ただ単に数を送ればよいという話ではない。やはり組織として動くことができる部隊でなければ意味がない。そして今神殿に残っているそういう部隊は、カリュージスの子飼いの部隊だけである。
「今更護衛を送っても、意味はないように思いますが………」
それはカリュージスの言うとおりであろう。すでに聖女の護衛は十字軍の中から、ともすればアルジャーク軍の中からも選ばれているはずで、今更神殿の衛士を派遣したところで役に立つとは思えない。
しかし、テオヌジオは身を乗り出し真剣な声でこういった。
「カリュージス卿、これは道義的な責任なのです」
枢密院は、いや教会はシルヴィア・サンタ・シチリアナに「聖女」という役柄を押し付けた。それはさまざまな思惑が重なった結果で、ある面仕方がなかったとも言える。しかしどんな思惑や事情があったにせよ、「聖女」という称号を与えたという事実は揺るがない。ならば教会は「聖女」に対し、それ相応の敬意を示さなければならない。それが道義的な責任というものである。
「道義的な責任、ですか………」
テオヌジオ卿の言いそうな言葉だ。カリュージスはそう思った。しかし嫌味を感じさせる言葉ではない。むしろ、いつのことからか忘れていた清々しさを感じた。
(損得勘定や思惑、事情だけで割り切ってはいけないものが、この世にはあるということか………)
それは、本来人間が持っているべきもの。それを持っているがゆえに、人は動物とは異なっていられるのかもしれない。
「………分りました。衛士を二十人、いえ三十人ほど見繕って聖女様の護衛として派遣しましょう」
「ありがとうございます、カリュージス卿」
笑みを浮かべたテオヌジオが頭を下げる。それから彼は、用意された紅茶にようやく手をつけた。
それから二言三言言葉を交わした後、テオヌジオはカリュージスの執務室を辞した。再び一人になった部屋の中、カリュージスはソファーの背もたれに身を預ける。
「道義的な責任、か………」
つい先ほど聞いたテオヌジオの言葉を思い出す。「教会には聖女に対して道義的な責任がある」と彼は言った。
「ならばヴァーカリー家も、教会と神子に対し道義的な責任を負っているのかもしれぬ」
ヴァーカリー家は御霊送りの真実をこれまで守り続けてきた。それはつまり、これまで何人もの神子を見殺しにしてきた、とも言える。カリュージスが、ヴァーカリー家が直接手を下してきたわけではないが、秘密を知りながらもそれを秘匿し犠牲を黙認してきたことは事実だ。
その事に関し、ヴァーカリー家には道義的な責任がある。
その考えは、カリュージスの中に抵抗なく収まった。なぜ神殿に残り教会と神子を守らなければならないのか。それは御霊送りの真実を知りながら、これまで犠牲を黙認してきた家の人間として道義的な責任があるからである。
胸の中のわだかまりが一つ解け、カリュージスは決意を胸に立ち上がった。真実が暴かれ教会が万人から非難されるその日にも、自分だけは教会と神子の味方でいよう。そして自分が全てを背負い、自分の代で全てに決着を付けよう。
(割に合わない仕事だ………)
カリュージスは苦笑した。しかし彼の表情に悲壮さは微塵もない。むしろこれまでにない清々しさがあった。
テオヌジオ卿のおかげだ、とカリュージスは思う。彼は宗教家らしく迷える子羊に導きを与えたのだ。
――――しかし、カリュージスは知らない。
テオヌジオは「聖女に対する道義的な責任を果たすため、衛士を護衛として派遣して欲しい」と言った。その言葉に嘘はない。嘘がなかったからこそ彼の言葉はカリュージスの心に響いた、ともいえる。
しかし、それが全てではない。テオヌジオには「裏の目的」とでも言うべきものがあったのだ。
(これで、神殿の警備は手薄になりますね………)
ただでさえ神殿に残っている衛士は少ない。その上さらに三十名もの衛士を派遣すれば、神殿の警備はもはやザルといってもいい。さらに居なくなるのはカリュージス子飼いの衛士たちで、テオヌジオにしてみれば労せずして邪魔者を排除できたとさえいえる。
(計画も実行しやすくなります………)
救いのための計画だ。なんとしても成功させたい。そのためには少々の汚れ仕事も必要だろう。拙い計画だと自覚してはいるが、それでもここまで順調に進んでいるのは、神々も計画の成功を望んでいるからではないだろうか。
「ああ、楽しみです。とても………」
神界の門が開く、その時が。
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――――アルテンシア軍、接近ス。
早朝、その知らせを受けたとき、シルヴィアは一瞬困ったような顔を見せてから、すぐに表情を引き締めた。一人の少女から十字軍を率いる聖女へと、彼女は自分の存在を置き換える。その変化が、ニーナには痛々しく思えてならない。
唯一の救いは、シルヴィアの表情に若干の余裕が見受けられることだろう。目の前に迫った戦いは絶望的ではない。アルジャーク軍九万がいる。これまでほど易々と打ち払われはしないだろう。
「ここも騒がしくなる。ニーナ殿は、アルジャークの陣に戻られるがよかろう」
そういってシルヴィアはニーナに優しい目を向けた。ニーナの肩に乗せたシルヴィアの手が震えている。
「シルヴィア様………」
緊張しないはずがない。恐ろしくないはずがない。震える手がシルヴィアの心の中を無言のうちに語っている。
「ご武運を、お祈りしています」
震えるシルヴィアの手を両手に包み、ニーナはそういった。途端、目頭と鼻の奥が熱くなる。こぼれそうになる涙を、ニーナは必死に堪えた。
「感謝する、ニーナ殿。また必ず会おうぞ」
その言葉を残し、シルヴィアはテントから出て行った。一人残ったニーナも、目頭にたまった涙を拭くとすぐに外に出る。テントから出ると、シルヴィアがキビキビと兵士たちに指示を出していた。その顔は完全に聖女のものである。
『貴女が一度もわたしのことを「聖女」とは呼ばなかったからじゃ』
銀の髪留めを貰ったとき、シルヴィアはニーナの耳元でそう囁いた。シルヴィア自身、聖女の名前が重くともすれば煩わしくさえあると吐露したのである。だからニーナと二人だけで居る時間は、彼女が「聖女」ではなく「シルヴィア」でいられる時間だったのだろう。
「そんなつもり、なかったんだけどな………」
ポツリと、ニーナは呟いた。ニーナがシルヴィアのことを「聖女」と呼ばなかったのは、師匠であるイストが「ただの生贄だろう?聖女なんてさ」と身も蓋もないことを言っていたからである。つまり彼女自身、この状況下で持ち出された「聖女」という単語にあまりいい感情を抱いていなかったのだ。
だからニーナが「聖女」という単語を使わなかったのは、彼女の側からしてみれば自己満足というか我儘にも似たものでしかない。シルヴィアを救いたいとか、助けたいとか、そういう気持ちは全くなかったのだ。
それなのに。シルヴィアはそのことを喜んでくれた。そしてそれが、逆にシルヴィアにとって「聖女」の名前がどれほど重いのかを、ニーナに教えることにもなった。そして彼女はその名を一生背負い続けなければならないのだ。
「街が、落ちるのに………」
イストがやると言う以上、パックスの街は落ちるだろう。その時、聖女シルヴィアの身に何が起こることになるのだろう。
「ニーナさん、シルヴィア姫の様子はどうでしたか?」
気がつくとニーナは十字軍の陣を出て、隣にあるアルジャーク軍の陣の外れに来ていた。そんな彼女を見つけたクロノワが声をかけてきたのだ。
「陛下………!よろしいのですか?」
アルテンシア軍が接近し慌しいのはアルジャーク軍も一緒だろう。そんな中、皇帝たるクロノワがこんな場所で自分と話し込んでいて良いのだろうか。しかし心配するニーナにクロノワはこう答えた。
「優秀な部下が揃っていますから」
それは末端の兵士も含めて、と言う意味である。アルジャーク軍の精兵たちは、一度クロノワが号令をかければ後は自分たちで準備を整えてくれるし、細かい指示等は四人の将軍たちが出す。だからクロノワは号令さえかけてしまえば、準備が整うまでは結構暇なのである。
「それより、シルヴィア姫の様子はどうでしたか?」
「………気丈に振舞っておられました」
繰り返された問いに、ニーナはそう答えた。指示を出すシルヴィアの姿は、まるで大きすぎる服を必死に着こなそうとする子供のようにニーナには思えた。そして、それさえも他人には悟られないよう、シルヴィアは二重の仮面をつけているのだ。息苦しいしその二つの仮面に、シルヴィアはいずれ絞め殺されてしまうのではないか、とニーナは心配していた。
「なるほど、そうですか………」
ニーナの話を聞いたクロノワは、そう呟いて顎を撫でた。そのまま、何か考えているのか彼は黙り込んだ。
「あの………、陛下」
畏れ多い、と感じながらもニーナはクロノワに声をかけた。どうしても気になることがあるのだ。そしてそれに答えられるのは、恐らくアルジャーク帝国皇帝のクロノワしかいない。
「ん、何ですか?」
「パックスの街が落ちたら、その後、シルヴィア様はどうなってしまうのでしょうか………?」
一緒に居たのは本当に短い時間だ。先入観とひいき目もあるだろう。そもそもシルヴィアが良くしてくれたのは、ニーナがクロノワの客人という身分だったことが大きいことくらい彼女自身も分っている。
それでも、聞かずにはいられなかった。必死になって「聖女」の役を演じるシルヴィアの行く末を決めてしまうだけの力をクロノワは持っているのだから。
「そうですね………。街が落ちれば後ろ盾である教会は力を失うわけですから、『聖女』の称号は有名無実のものになるでしょうね」
クロノワは顎に手を添え、少し考え込んでからそう答えた。しかしそれだけでは済むまい。教会にとって「聖女」は現在、神子と並ぶかそれ以上の象徴的存在である。御霊送りの真実が暴かれたとき、欺かれていたことへの信者たちの憤怒が「聖女」に向かうのは、想像に難くない。
「今度は『魔女』呼ばわりされるかもしれませんねぇ………」
「そんな………!」
クロノワの予測にニーナは言葉を失う。「聖女」から「魔女」への転落。教会は己の滅亡に、一体何人の人々を巻き込むというのか。
「何とかしたいですか?」
クロノワはニーナに問い掛ける。彼の今の顔は、間違いなく皇帝のそれだ。街が落ちた後、アルジャーク軍がどういう評価を与えるかによってシルヴィアの運命は決まる。そして皇帝たるクロノワにはシルヴィアの運命を左右するだけの力があるし、彼自身それを自覚している。しかしニーナは臆することなく真正面からクロノワの目を見た。
「シルヴィア様は、報われていい人だと思います」
なるほど、とクロノワは表情を緩めて微笑を作った。
「ニーナさんがそういうなら、そうしましょうか」
「………え………?」
あまりにあっさりとしたクロノワの答えに、ニーナは一瞬呆ける。そしてだんだんとクロノワの言葉の意味が分ってくるにつれて胸が熱くなってくる。
「ありがとうございます!!」
勢い良くニーナは頭を下げた。そんな彼女にクロノワは柔らかく笑いかけると、「それじゃ」と残してその場を離れた。
「そうそう」
二、三歩行ったところで何か思い出したようにクロノワが振り返った。どうしたのだろうかと思うニーナに、クロノワは悪戯を思いついたような顔をしてこういった。
「さっきの物言い、イストにそっくりでしたよ?」
それだけいうと、今度こそクロノワは陣のほうに戻っていった。残されたニーナはクロノワの言葉に頭を抱える。
「似てきた………。師匠に似てきた………」
絶望的に身悶えるニーナであった。