片膝をついて跪いたシルヴィアの目には、神子ララ・ルー・クラインのつま先しか映っていない。今はシルヴィアの叙任式の真っ最中で、ララ・ルーが不慣れな様子で彼女の功績を称える詔を読み上げていた。
(聞いてきて背中が痒くなる………)
シルヴィアがこれまでに経験した戦場はたったの二つである。詔はその二回の戦いにおける彼女の活躍を、あらん限りの美辞麗句を駆使して褒め称えている。群集から顔が見えないのをいいことに、シルヴィアは苦笑を隠そうともしていなかった。
詔の中身自体は枢機卿の誰かが書いたものだと聞く。装飾に富んだ文章は確かに美しい。しかしそれは詩文的な美しさだ。そういったものに興味を示してこなかったシルヴィアにしてみれば、文章にするほどの功績がないために美辞麗句を駆使して埋め合わせをしているようにしか思えなかった。
(ならば聖女になど祭り上げなければよいものを………)
シルヴィアを聖女にするという教会の決定が、多分にして打算的なものであることを彼女自身は良く理解していた。
戦略的な価値はともかくとして、シルヴィアはこれまで負け続けてきたアルテンシア軍に二度も勝って見せた。教会や神聖四国の人々からしてみれば、彼女は救世主の如くにも思える存在だろう。そんな彼女にさらに「聖女」の称号を与えて求心力を高め、十字軍の戦力回復を図ろうという考えはあまりにも見え透いている。また「聖女」という称号は兵士たちの士気を高め、戦場で命を捨てて戦わせるのに大いに役立つだろう。
さらに戦場の外においても、「聖女」の名が持つ効力は大きい。
聖女という神秘的な存在がいれば、民衆は進んで十字軍に協力して多くのものを寄付してくれるだろう。露骨な言い方をすれば、十字軍が抱える物資不足という問題を解決するのに大いに役立つ。
加えて、アルテンシア軍の猛進に圧されて教会と距離を取り始めた国々においても、教会の信者たちは「聖女様に協力すべし」と立ち上がる。その流れは国としても無視できまい。国内の騒乱を鎮めるためにも、それらの国々は教会の傘下に戻らざるを得なくなるのだ。そうなれば教会は過去の栄光を取り戻すことができる、とそんなふうに思っているのかもしれない。
(なんとも幸せな夢じゃ………)
教会の、いや枢密院の思惑をほぼ正確に推測したシルヴィアは、呆れたように心の中で嘆息した。仮に枢密院の思惑通りになったとしても、それは結局一時的な熱狂に過ぎない。そして時間が経てば熱狂は冷めるものだ。聖女などというものは所詮幻想でしかなく、それで全てが解決することなどありえない。
また実際問題としてアルテンシア軍に勝てるのか、という問題もある。答えは明白である。たとえシルヴィアが聖女となり十字軍を率いたとしても、シーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア軍には勝てない。
(当たり前じゃ。現実は寓話のようにはいかぬ)
劣勢に陥った国に救国の聖女が現れ見事に敵国を撃退する。いかにも吟遊詩人が好みそうな寓話である。もしかしたら教会の信者たちはそんな寓話が実現することを無邪気に信じているのかもしれない。
彼らはそれでもよい。しかしどうにも枢機卿たちまで同じことを信じているような気がしてならない。それはつまり教会の舵取りをすべき者たちが思考を放棄してしまったということだ。
(教会はすでに内部崩壊を起こしておるのかもしれぬな………)
ララ・ルーが詔を読み終わり、シルヴィアに聖女の称号を与えさらに十字軍の総司令官に任命すると宣言する。一瞬の沈黙の後、シルヴィアは事前に決められている台詞を口にした。
「魔王シーヴァ・オズワルドの魔の手より、必ずや御身をお救いいたします」
魔王!ついにシーヴァは魔王になってしまった。
しかしシーヴァは魔王と呼ばれるようなことをこれまでしてきたであろうか。町や村を襲って戯れに人々を殺害し、ありとあらゆるものを略奪し、女を陵辱して泣かせてきたのは、むしろ十字軍のほうではなかっただろうか。
正義の定義は立場によっていくらでも変わる。教会が正義を主張し続けるのであればそれに敵対するアルテンシア軍は確かに悪であり、それを率いるシーヴァは魔王とも呼ぶべき存在だろう。しかし後世の歴史家たちは、はたしてシーヴァのことを「魔王」と評するだろうか。
シルヴィアの内心の苦さを無視するように、広場を埋め尽くした兵士たちは「聖女様、万歳!」と大声で歓声をあげる。内心の苦々しさを押し殺して必死に澄ました顔をつくるシルヴィアの頭に、ララ・ルーがオリーブの冠を乗せる。
この瞬間、シルヴィア・サンタ・シチリアナは聖女になった。彼女にできるのは、与えられた「聖女」という役を演じることだけである。
シルヴィアが立ち上がると、兵士たちの歓声がさらに大きくなる。マントを翻して兵士たちに向き直ったシルヴィアが手を上げると、その歓声が一瞬で静かになった。
その場の全ての視線がシルヴィアに集中していた。兵士たちは目を輝かせて彼女を見つめている。この全てを背負わなければならないのかと思うと、膝が笑って足元がおぼつかなくなった。
しかし、この場で倒れるわけにはいかない。なぜならシルヴィアは聖女なのだから。
「勇敢なる十字軍兵士諸君!今、この神聖なるアナトテ山が蛮夷の魔王によって脅かされている。神々に祝福された神殿と神子の御身が魔王の手に落ちることなど、あってはならない!
戦おう、兵士諸君!私が、この私が諸君に勝利を約束する。教会と神子のために戦う我らに神々の祝福を!神聖なるこの地を汚さんとする魔王に正義の鉄槌を!たとえ戦いの中で我が身が果てようとも、神界へと召された我が魂は諸君らを導くだろう!!」
言った。言ってしまった。
この言葉もやはり、考えたのは枢機卿の一人だ。しかしこの場で語ったのがシルヴィアである以上、これはもはや彼女の言葉になってしまった。もう撤回することはできない。もう、後には引けないのだ。
(覚悟していたこととはいえ、他人に決められてしまうのはなんとも不快じゃ………)
負け惜しみのように、シルヴィアは心の中で呟く。
おそらく自分はアルテンシア軍との戦いの中で死ぬだろう。いや、死ぬまで戦うことになるだろう。それ自体は覚悟していたことだ。しかしその覚悟をこういう形で利用というか、強要されるのはたまらなく不快だった。
その上、教会はシルヴィアの死さえも利用しようとしているのである。戦場で果てた聖女シルヴィアは物言わぬ便利な象徴として、信者を戦場に送るために使われるだろう。シルヴィアはそんなことを望んで戦場に立ったわけではないのに。
その後、シルヴィアは用意された白馬にまたがって御前街の大通りを行進した。管楽器が演奏され花吹雪が舞う。
そのパレードの間中、シルヴィアは微笑み続けた。
微笑むしか、なかった。
**********
「聖女!聖女ときたか!」
シルヴィア・サンタ・シチリアナに聖女の称号が与えられたという話を聞いたとき、イスト・ヴァーレは腹を抱えて爆笑した。
御霊送りの儀式が奇跡などではなく、パックスの街を落とすことが可能であることを確認した後、イストら一行はアナトテ山と御前街を離れてフーリギアまで赴きベルベッド城を遠くから監視していた。
別にその城砦に興味があったわけではない。ここでシーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア軍が十字軍とぶつかると予想してのことである。
その予想は当った。ただ、流石にベルベッド城が半日足らずで落ちるとは思っていなかったが。
その後、イストたちは付かず離れずの距離を保ちながらアルテンシア軍の動向を監視し斥候の真似事を続けた。戦況を左右する力を持っているは、十字軍ではなくアルテンシア軍だからだ。パックスの街を落とす最上のタイミングを見極めるため、イストはアルテンシア軍に張り付いた。
そこから先は、なんと言うか衝撃的だった。サンタ・ローゼンの領内に侵入したシーヴァは、城砦を手当たり次第に破壊して行ったのである。
しかもまともな仕方で攻略したわけではない。漆黒の魔剣「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」の威力に物言わせて片っ端から破壊していくのである。
「昔の名将たちに謝って来い」
思わずそう突っ込んでしまったイストである。戦術とかセオリーとか、そういうものを一切無視したそのやり方にニーナは呆然としていたし、イストもあきれ果てていた。ただジルドだけは随分と物騒な笑みを浮かべていたが。
ただ逆の見方をすれば、戦術を無視しえるだけの力があるということである。その力を持っているのは「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」であり、またその規格外な魔道具を操るシーヴァ・オズワルドその人なのだろう。
さて、順調にアナトテ山に向けて進軍していたアルテンシア軍であったが、あと少しというところで撤退し始めてしまった。不審に思い少し調べてみたところ、どうやら十字軍の別働隊に補給部隊をやられたらしい。
「食料なんて現地調達すればいいのにな」
古来より多くの軍隊が、兵糧が足りなくなった時には現地調達してそれを補ってきた。しかしシーヴァはそれをよしとはせず、ベルベッド城まで戻って補給するという。
「潔癖だねぇ………」
呆れたように笑いながら、イストはそう言った。だがシーヴァがそういう人間だからこそ、イストは彼のことを気に入っているのだし、オーヴァも彼に「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を与えたのだろう。
それはともかくとして。ベルベッド城に戻るアルテンシア軍を、イストは追いかけなかった。アナトテ山からは遠ざかるのだから、追いかけてみたところで何か面白いことは起こらないだろうと思われたからだ。
「それよりも御前街に行ってみよう」
おそらく十字軍のほうでも動きがあったはずだ、とイストは言う。これまで十字軍はアルテンシア軍を撃退する、あるいはシーヴァ・オズワルドを討ち取ることに固執してきた。しかし補給部隊の強襲に時間稼ぎ以上の意味はない。いくら無能とはいえ十字軍の幕僚たちもそれは分っているはずで、であるならば戦略の主眼を変えさせる何かが内部であったと考えるのが自然だ。
そうしてアナトテ山の御前街にやってきたとき、イストたちはシルヴィアの活躍と彼女に聖女の称号が与えられたことを知ったのである。
「どう見る、イスト」
「ただの生贄だろう?聖女なんてさ」
ジルドの問いに、イストは彼らしく毒のある言葉で答えた。
「シルヴィア・サンタ・シチリアナを聖女にしてみたところで、両軍の戦力差はどうにもならないでしょ」
聖女シルヴィアを旗印として立てることは、十字軍にとって戦力や物資の回復など多方面においてメリットがある。さらに聖女が陣頭に立つとなれば、兵士たちの士気も上がるだろう。
しかし言ってしまえばそれだけである。それだけでは十字軍とアルテンシア軍の戦力差は埋まらない。それに聖女シルヴィア・サンタ・シチリアナは英雄シーヴァ・オズワルドの対抗馬として、どう考えても格が足りていない。
「それでもシルヴィアは戦わなければならない。聖女だからな」
毒のある口調でイストはそういった。彼の言うとおり、聖女になってしまったシルヴィアは戦い続けなければならない。アルテンシア軍を撃退するか、あるいは戦場で果てるその日まで。
そして必死になって戦う彼女を、教会はとことん利用するだろう。去っていった信者たちを呼び戻し、各国への影響力を再び強め、そして減ってしまった寄付金を増やすために。ありとあらゆる責任を聖女に押し付け、自分たちは甘い汁を吸おうというのである。
「きっと死んでからも利用されるんだろうな」
というより、死んでからのほうが利用されるだろう。死者は文句を言わないし、不祥事も起こさない。美談や逸話はいくらでも捏造できるし、さらに重要なこととしてその幻想が打ち壊されることはない。なぜなら本人はもう死んでいるのだから。
「まさに生贄、だろ?」
そういってイストは教会と聖女を嘲笑った。ただそこには怒りも含まれているように弟子のニーナには思えた。
「しかしそう上手くいくのか?」
「アルジャーク軍次第じゃないのか」
ジルドの問いにイストはそう答えた。アルジャーク軍が間に合えば援軍を得た十字軍はアルテンシア軍を撃退し、教会は聖女を利用し続けることが出来るかもしれない。しかし間に合わなければ、教会は聖女とともに滅ぶことになるだろう。
「あ、いやでもオレがパックスの街を落とせばどの道教会は滅ぶだろうから、そんなに関係ないのかな………?」
とはいえ、イストはまだどのタイミングで街を落とすのかは決めていない。舞台が盛り上がってさえいれば、アナトテ山がアルテンシア軍に占拠された後でもいいと思っていた。
「ふむ。大陸の歴史はアルテンシアとアルジャーク、シーヴァ・オズワルドとクロノワ・アルジャークによって決められる、か」
ジルドは感慨深げにそう呟いた。大陸の中央部が衰退していき、逆に西の果てと東の果てが栄えてくる。それはある意味、当然の流れだったのかもしれない。
「だけど、クロノワは来るんでしょうか?」
クロノワがアナトテ山まで来るとすれば、それはすなわち親征である。それが大変なことであるのはニーナにも分る。
「来るさ。アイツは必ず来る」
しかしイストははっきりとそういい切った。根拠などない。しいて言うならば勘である。アバサ・ロットとしての、そしてクロノワの友としての勘だ。
(さっさと来い、クロノワ。じゃないと、世紀の一大イベントに間に合わないぜ?)
どこにいるのか分らない友人に、イストはそう語りかけるのだった。
**********
「助かりました、ファウゼン伯爵。ご協力に感謝します」
「いえいえ。クロノワ陛下をお助けできたのであれば、望外の喜びでございます」
そういって恰幅の良い壮年の男、ファウゼン伯爵は笑った。その笑みは儀礼上のものではなく、安堵とそして言葉通りの歓喜から来るものであった。
オムージュ領の西の国境近くで十字軍の援護に向かう遠征軍の本隊と合流したクロノワたちは、そのまま進路を西に取りアナトテ山に向かうべく、現在は隣国ラキサニアの地を進んでいた。事前に許可を得ていたためラキサニアとの間に問題が起こることもなく、アルジャーク軍は順調に行軍していた。
さて、行軍の中でクロノワはできるだけラキサニア国内の街に立ち寄るようにしていた。その第一の目的は食料の確保である。もちろん食料は足りているが、軍隊の飯というのは基本的に保存が利くもの重視で味は良くない。そこで、士気の維持もかねて兵士たちにうまいものを食わせてやろうとクロノワは思ったのだ。国から通達が出ているのか、住民や貴族たちも総じて協力的である。
とはいえアルジャーク軍は本隊だけで総勢九万の大軍である。当然、立ち寄るのはそれだけの人数に食料を供給できる街になる。今回アルジャーク軍が立ち寄ったのもファウゼン伯爵領の中心となっている都市で、伯爵の屋敷もここにあった。
「それで、今回供給していただいた食料の代金ですが………」
「それについては、こちらに明細をご用意してあります」
ファウゼン伯はあらかじめ用意しておいた明細の書類を、銀のトレイに載せて持ってこさせる。それを受け取ったクロノワは最後の合計金額だけ確認すると、さらにその書類を後ろに控えている女騎士グレイス・キーアに渡して確認させる。
アルジャークの大使として御霊送りの儀式に参加したストラトスは、御前街でサンタ・シチリアナの国王アヌベリアスと会談を行ったのだが、その席で彼が娘のシルヴィアをクロノワの妃にしたいという話が出た。その話を本国に報告する際、内容が内容であるとしてストラトスはその会談に同席したグレイスを使者として選んだのだ。
ちなみにこの人選について使節団内部では、
「厳しいお目付け役の監視から逃れるため」
というのがもっぱらの定説だ。
余談だが、彼女は現在皇帝の身辺警護を担当する近衛騎士団の騎士団長として、全軍がから選りすぐった精鋭二百名を率いている。
本来、アルジャークとラキサニアの力関係からいけば、食料を無料で供出させることも可能である。そうでなくとも今回のような事情であれば、その費用は教会に負担させても良かったはずだ。まあ、金欠の教会が素直に支払うとは思えないが。
しかしクロノワはそうはせず、自分たちでその費用を支払うことにした。これはファウゼン伯ら実際に食料を用意することになるラキサニアの貴族たちにとってありがたいことであった。ほとんど原価で利益は全くでないが、全て無料で供出させられたときの大赤字に比べればはるかにましだからだ。そしてその大赤字を最終的に押し付けられるはずだった住民たちにとっても、大変にありがたいことであったろう。
無論、クロノワにも思惑がある。それはラキサニアの王族や貴族と面識を得てパイプを作ること。さらに彼らとラキサニアの民衆にアルジャークに対する好印象を残すことである。
この先、教会と神聖四国の影響力は激減する、とクロノワは見ている。シーヴァによって教会が滅ぼされればもちろんだし、逆にアルテンシア軍を撃退できたとしても、周辺諸国に対する影響力はかなり弱まっているだろう。
そうなればラキサニアは強力な庇護者を失うことになる。その時、小国ラキサニアが庇護を求めるべき相手はアルジャークしかない。それを見越しアルジャークの印象を好くしておこうというのが、街に立ち寄る第二の理由であった。
つまりクロノワはラキサニスに対し、
「物分りのよい親分」
であろうとしたのだ。そうすれば「親分」であるところのアルジャークは、
「使い勝手のいい子分」
を手に入れることができるのだ。
グレイスが明細の数字を確認している間、クロノワはファウゼン伯爵と歓談を続けていた。行軍中となるとどうしても入ってくる情報量が少なくなる。こういった歓談のなかで必要な情報、特に戦況の様子などを聞きだすことも、こうして街に立ち寄る理由の一つである。
「そういえば、クロノワ陛下はすでにご存知ですかな?十字軍に聖女が誕生した、という話は」
「聖女、ですか」
聖女の名はシルヴィア・サンタ・シチリアナ。アルテンシア軍を神聖四国から追い払った功績を称えられ、聖女の称号を授与されたという。
ただ、詳しく聞けば補給部隊をシルヴィアの部隊が強襲し、補給が続かなくなったアルテンシア軍は撤退した、とのこと。ベルベッド城に大量の物資がある以上アルテンシア軍の再襲来はほぼ確実で、つまり完全に撃退したわけではない。
(貧乏くじを押し付けられた、ということですか。かわいそうに………)
聖女うんぬんの話を聞いてクロノワの最初の感想がこれであった。これでシルヴィアは戦場から逃れられなくなった。アルジャーク軍が間に合わなければ、まず間違いなく戦死することだろう。
(急いだほうがいいんでしょうけどね………)
聖女シルヴィアを戦死させたくないのであれば、急がなければならない。だが彼女が生き残ったとして、それがアルジャーク軍にとって利となるかは微妙だ。「聖女」などという訳の分らないものに、主導権を握られアルジャーク軍がいいように使われてはたまったものではない。
(ま、その辺りは私の力量次第なんでしょうけど………)
ファウゼン伯と談笑しながら、クロノワは心の中でそんなことを考える。
「そういえばシルヴィア様は陛下のお妃候補として名前が挙がっておられるとか」
確かにそんな話があった。御霊送りの儀式に出席したストラトスからその旨を伝えるためにグレイスが来たし、その直後にはサンタ・シチリアナからも正式な使者が来た。アルテンシア軍の襲来により話は停滞しているが、この戦いが終われば良かれ悪かれ話を前に進めなければならない。
(しかしそうなると………)
仮にシルヴィアを皇后に迎えるとして、その時の彼女は聖女である。必然的にアルジャークと教会の関係は深くならざるを得ない。しかしクロノワにとってそれは望ましいことではない。かといって「聖女」を袖にするとなると、それ相応の理由が必要になる。例えば「聖女」とつりあうほかの相手がいるとか。
(そんな都合のいい相手がそうそういるわけでもなく………)
なんだか勝ったとしてもうまみがないような気がしてきましたねぇ、とクロノワは内心でごちる。
「陛下とシルヴィア様がご結婚なされれば、それは大変に喜ばしいことですなぁ」
ファウゼン伯の言葉にクロノワは曖昧に笑って言葉を濁す。ちょうどその時、グレイスが金額の確認を終えた。
グレイスから明細を受け取ったクロノワは、最後にもう一度合計金額を確認してからサインを入れる。そしてかつてイストから貰った「ロロイヤの腕輪」に魔力を込めて、そこに収納しておいた金貨を取り出す。
「クロノワ陛下は便利な魔道具をお持ちですなぁ」
「ええ。以前、友人から貰ったものです」
そういってクロノワは屈託なく笑った。「ロロイヤの腕輪」は亜空間設置型の魔道具で、小さな部屋一つ分くらいの空間の中に物を収納しておくことが出来る。そう多くのものを入れておくことはできないわけだが、それでも非常に便利な魔道具だ。
支払いを終えたクロノワは席から立ち上がる。ファウゼン伯から晩餐と宿泊を勧められるが、クロノワは「兵に野宿をさせておいて自分だけ優雅に過ごすわけにはいかない」と言って断った。これまで同じように誘いを断ってきたことを知っているのか、ファウゼン伯もそれ以上は誘ってこなかった。
馬に揺られながらグレイスと連れだって街の外、アルジャーク軍の宿営に向かう。数日振りの上手い食事に、兵士たちも喜んでいる様子だ。
(聖女、聖女ねぇ………)
そんな兵士たちを視界の端に納めながら、クロノワは振って湧いた「聖女」という新たな要素を、さてどうしたものかと考えるのだった。
*********************
シルヴィア・サンタ・シチリアナに聖女の称号が授与された、という情報をアルテンシア軍が得たのはベルベッド城に到着してからのことだった。
「だとすると、あの襲撃部隊を指揮していたのはやはりシルヴィア姫か………」
そう呟いたのはヴェート・エフニート将軍だった。補給部隊の護衛に向かうも一足遅く、煙に紛れて遁走していく敵部隊の姿は今でもはっきり覚えている。あの時も「もしかしたら」と思っていたが、どうやらその勘は当っていたらしい。
「そのシルヴィア姫が聖女、か」
何を大げさな、とも思うがこうして実際にベルベッド城まで後退してきているのだ。敵の思い通りになってしまったことは否めない。
(あと一日、いや数時間早く後方部隊と合流できていれば………!)
今日のような展開にはなっていなかっただろう。そう思うと、どうしても悔いが残る。そしてそれは、シルヴィア姫に初めての勝利を献上してしまったガーベラント公も同じであろう。
二回の敗北とベルベッド城までの後退。このなかでアルテンシア軍が失ったものはそう多くはない。人的損害は軽微だし、物資の損失も取り返しのつかない量ではない。手ごろな拠点を確保し、敵の拠点はあらかた破壊してある。戦略的に見て、アルテンシア軍の優位は揺らいでいないのだ。
しかし教会と十字軍の受け止め方は違う。どれだけ小さくとも勝利は勝利。再襲来するのだとしても、敵軍を神聖四国の外に追い出したことは事実。それを前面に出して強調し、戦力的な不利を隠そうとしている。
虚構に縋り付いて大騒ぎしているようにも見えるが、その大騒ぎの度合いが半端ではない。教会という、国家とは異なる一種神秘的な権威がそれを主導しているせいで、根拠が貧弱でも信者たちはそれを疑わない。停止した思考と集団心理のおかげで、馬鹿騒ぎは目下拡大中だ。
まあ、敵陣営の人間がどれだけ騒ごうがかまわない。それより問題なのは、その騒ぎが大きすぎるせいなのか、「聖女」が実像よりも大きく見えてしまうことだ。現に将軍であるヴェートでさえ、「聖女」の名を前にして身構えてしまう。一般の兵士たちの動揺はまだ表には出ていないが、それでも各自が焦りのようなものを感じていることだろう。
そんな中、変わらずに泰然としているのはシーヴァ・オズワルドただ一人である。
「いつの間にか魔王になってしまったな」
聖女にまつわる一連の話を聞いた後、シーヴァは面白そうに笑いながらそういった。さらに主君を魔王呼ばわりされて憤る臣下たちを、彼はこういって宥めた。
「魔王なれば魑魅魍魎のほうから我を避けていくだろう。我が軍に災厄は降りかからぬと教会が保障してくれたようなものだ」
以来、シーヴァに聖女を気にした様子はないし、彼のほうからその話題を振ってくることもない。淡々と再進攻に向けた準備を行っている。
実際のところ、兵士たちに表立った動揺が見られないのは、シーヴァのこの泰然とした態度によるところが大きい。兵士たちの中には、
「陛下が気にされないのであれば、そういうことだ」
などと自分に言い聞かせて落ち着こうとしているものもいた。
まあ、それはともかくとして。ベルベッド城に戻ったアルテンシア軍は、十分な休息を取り万全の準備を整えてから進攻を再開した。ただし今度は見せ付けるような、意図して速度を落とした進軍ではない。もちろん兵が疲れ果てて戦闘に支障が出るほどの速度は出さないが、それでもシーヴァが「全力で」と宣言していたように、疾風と呼ぶに相応しい速さであった。
もっとも、最古参の兵士たちによると、
「革命の初期に比べればまだまだぬるい」
ということらしい。
遮るものも敵対する軍勢もいない国境を破り、アルテンシア軍はサンタ・ローゼンに再び侵入する。シーヴァが破壊しつくした、もとは砦であった廃墟の脇を通り抜け鉄(くろがね)の軍勢は疾駆する。
目指すはアナトテ山。
「そこで決着をつける」
シーヴァはそう決めていた。
**********
――――アルテンシア軍、動く。
その報告がもたらされた時、十字軍の幕僚たちは殴られたわけでもないのに腹に衝撃を感じた。
(ついに来たか………)
慌てふためく幕僚たちの中、最も落ち着いていたのは十字軍の総司令官にして聖女たるシルヴィアだった。しかしこれは彼女の胆力が特別に優れていたためではない。幕僚たちが、ベルベッド城まで後退したアルテンシア軍がそのまま撤退してくれるのはでは、という淡い願望を抱いていたのに対し、シルヴィアは必ず再襲来すると覚悟していた。彼女と幕僚たちの差は、そのまま心構えの差であるといっていい。
実際、こうして早い段階でアルテンシア軍の動きを察知できたのもシルヴィアの備えがあればこそだった。彼女は斥候を出してベルベッド城を監視させていたのである。また国境近くに伝書鳩を用意しておくことで、かなり速く情報の伝達がなされた。
(アルジャーク軍は、間に合わなかったか………)
アルテンシア軍が再び動き出すまでの間にアルジャーク軍が到着するというのが、シルヴィアが思い描く最上のシナリオであった。しかし今現在、アルジャーク軍はまだ十字軍と合流してはいない。つまり十字軍は単独で、迫り来るアルテンシア軍を迎え撃たねばならないのだ。
(まあ、まだアルジャーク軍が間に合わぬ、と決まったわけではないが………)
聞くところによれば、随分と近くまでは来ているらしい。もしかすると、ラキサニアを抜けてすでにサンタ・シチリアナに入っているかもしれない。アルテンシア軍との決戦までに合流してくれれば、シルヴィアの作戦は成功したことになる。
(結局アルジャーク軍頼みというのが、情けないかぎりじゃがの………)
聖女だのなんだの言われたところで、精兵が湧いてでてくる魔法の壷などシルヴィアは持っていない。肩書きばかりが大きくなって中身が伴っていないのが、今のシルヴィアと十字軍の実態であった。
「まあ、嘆いてばかりいても仕方がない」
幕僚たちに冷静さが戻ってきた頃合を見計らって、シルヴィアはそういった。今はアルジャーク軍が来ると信じて戦うほかない。
「参謀長、営塁の建設はどうなっておる?」
アルテンシア軍がベルベッド城に撤退していった間、シルヴィアは何もしていなかったわけではない。御前街から街道を西に三十キロほど行った地点に最終防衛線とも言うべき拠点を築かせていたのである。
実は、防衛用の拠点を築くのとはべつに、街道を駆け上ってくるアルテンシア軍に対して奇襲を仕掛ける、という案も出ていた。ただこの案は、十字軍に実行能力がないために採用されることはなかった。実際、未熟なシルヴィアでは十万近い軍勢をシーヴァに気づかれないように移動させることなど出来ない。途中で発見されて逆に奇襲を受けるかもしれないと思うと、その案は採用できなかったのである。
そのため街道に上にアルテンシア軍を向け打つための防衛拠点を造ることになったのだが、この短期間で出来ることなど限られている。柵を立ててその前に壕を掘り、さらに土嚢や石を積み上げて防塞を作った。いかにも急造な拠点であり、当然のことながら立派な城壁などない。もっとも、立派な城壁があってもシーヴァに破壊されて終わりだろうが。
「すでに計画の八割ほどは完成しております」
参謀長の答えにシルヴィアは頷いた。それだけ完成していれば、時間稼ぎぐらいは出来るかもしれない。
「兵士たちに準備を整えさせるのじゃ。一時間後に出る」
シルヴィアの言葉を合図に、出陣を伝える号令が鳴り響く。厳しい戦いになる。それは十字軍の全員が分っていた。しかしそれを最も重く受け止めていたのは、聖女シルヴィアであった。
**********
「なかなか立派な拠点を築いたものだな」
馬上から望遠鏡を覗きこみ街道を塞ぐ形で造られた十字軍の営塁を見て、シーヴァはそう呟いた。敵拠点の存在自体は斥候の報告によって知っていたが、こうして実際に見てみると、短期間で作られた割にはなかなかいい規模である。
「人数に物言わせて急造したのでしょう」
ヴェートの言葉にシーヴァも頷く。繊細で精密な作業があるために熟練の職人が必要になるわけでもない。十字軍の戦力のうち数万を投入して、もしかしたらさらに周辺からも人手を集めて造り上げたのだろう。こういう時、聖女という存在は便利だ。
「ですがそこに籠っているのは所詮弱兵。今日中に片が付くでしょう」
ガーベラント公が冷たく言い放つ。斥候の情報によれば現在の十字軍の戦力は十万弱。聖女効果もあってか、数的優位は回復したことになる。しかし言ってしまえばそれだけで、兵の質は下がり続けている。
目の前の敵拠点には壕があり、柵があり、防塞がある。しかしそれだけではアルテンシア軍の侵入を完全に防ぐことなど出来るわけがない。そして一度侵入してしまえば、その後の趨勢はアルテンシア軍に傾く。
「時間も惜しい。いくぞ」
「はっ!」
アルジャーク軍が援軍としてアナトテ山に向かってきている、という情報はシーヴァも得ている。ことさら恐れるつもりはないが、十字軍などよりはるかに手ごわい相手であることは間違いなく、できることなら戦いたくない相手ではある。
(到着するより前に神殿を制圧してしまえば、アルジャーク軍が戦う意味はなくなる)
そんなことを考えながら、シーヴァは全軍に前進を命じた。アルテンシア軍が近づくと、すかさず柵の向こう側から万に届くかという数の矢が一斉に放たれる。それを見たシーヴァは「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」に魔力を食わせ、威力の低い漆黒の魔弾を幾つも打ち出しそれらの矢を叩き落していく。主君の活躍に兵士たちは歓声をあげた。
十字軍に呼応するようにアルテンシア軍からも矢が放たれるが、柵があるため思うほどの効果はでない。こういう場合、矢の射掛け合いではやはり防御側に分がある。今アルテンシア軍の被害が少なく済んでいるのは、ひとえにシーヴァのおかげだ。
弓矢が飛び交うその下をシーヴァは馬を駆って敵陣に接近していく。そして柵を射程に捉えると魔弾を撃ち出して、その柵を後ろの弓兵ごと吹き飛ばす。柵の前には深い壕が掘られているが、シーヴァは馬を止めない。そのまま馬を疾駆させ、巧みな手綱さばきで壕を飛び越え敵陣に突入した。
主君の後ろに続いて、アルテンシア軍の騎兵部隊が次々と壕を飛び越え敵陣に突入していく。彼らは何も言われずともそこからさらに左右に別れ、柵のすぐ近くにいる敵兵を駆逐し味方の突入を援護する。
まだ柵の外側にいるアルテンシア軍の歩兵たちが、壕に丸太を二本まとめた即席の橋をかけ、柵をよじ登って陣内に突入していく。さらにゼゼトの戦士たちがその怪力をいかんなく発揮して柵を引っこ抜きそれを壕に橋として架けると、兵士たちは歓声をあげながら敵陣に突入して行った。
柵の内側には、土嚢や石を積み上げて造られた防塞が幾つも並んでいる。そして二つの防塞の間には、その隙間を生めるようにして柵が立てられていた。いわば第二防衛線である。そこから十字軍の兵士たちが出てきて、次々に壕を乗り越えて侵入してくるアルテンシア兵に襲い掛かる。たちまち乱戦になった。
「なるほど。考えたな」
馬上から戦況を俯瞰しつつ、シーヴァはそう呟いた。敵味方が入り乱れて乱戦になってしまえば、おいそれと「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」は使えない。その魔道具は強力すぎて、味方を巻き込んでしまうからだ。防塞に籠らずあえて打って出てきたのは、「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を封じるためと見てよさそうだ。
「着眼点は間違っていない。だが………」
だがこの場合、襲い掛かったほうより襲われた方が強力であった。当初こそ数の差と援護射撃のおかげで十字軍は優位に立っていたが、突入してくるアルテンシア兵の数が増えるにつれ、趨勢の天秤はあっけなくアルテンシア軍のほうに傾いていった。
ただ、戦いにくいのは事実だ。柵や防塞が邪魔で騎兵が思うように動けない。実際、シーヴァと共に突入した騎兵部隊は、主君の周りを囲うようにして待機している。また防塞に籠っている敵兵ももちろんいて、アルテンシア軍はその防御を一撃で突き崩すことはず、優勢ながらも粘り強く戦うしかない。
今のところ、突入した後のシーヴァは黙って戦況を見守っているだけだ。しかし有能なアルテンシア軍の部隊指揮官たちは、言われずとも何をすべきかを理解しそして行動している。
アルテンシアの兵士たちは盾を構えて矢を防ぎながら柵へと近づき、格子状の隙間からやりを突き入れて後ろの敵を串刺しにしていく。さらに防塞を乗り越えてその内側に侵入し、そこにいる十字軍兵士を蹴散す。
アルテンシア兵の接近を許した十字軍の弓兵たちは悲惨だった。矢をつがえるよりも速く槍で顔面を強打され、地面に倒れたところを別の兵士に突き殺される。弓を捨てて剣を抜くものもいたが、彼らは接近戦の訓練など受けていない。たちまち斬り捨てられて死体をさらした。
防衛線を突破したアルテンシア兵たちは、主君のために道を作る。邪魔な柵を撤去して騎兵が通れるように道を明ける。それを確認したシーヴァは「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を背中に戻して槍を受け取り、無言で馬の腹を蹴って駆け出した。周りを固めていた騎兵部隊がそれに続く。
まとわり付く雑兵を槍で払いのけ、横たわる死骸を馬のひずめで踏みつけながらシーヴァは突き進む。そうするとすぐにまた柵が横一列に立てられているのが見えた。ただ、後退する味方に配慮したのか、その柵の前に最初の場合のような壕が掘られてはいない。
(無用心だな。利用させてもらうぞ!)
シーヴァは槍を逆手に持ちかえると、そのまま投擲する。柵の格子状の隙間をすり抜けたその槍は、柵の後ろにいた一人の兵士の顔面を貫通し、さらにその後ろにいた兵士までも仕留めた。
それを見た十字軍の兵士たちに動揺が走る。その一瞬の隙を見逃さず、シーヴァは加速して柵に肉薄した。
背中に手をやり「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を引き抜く。そのまま魔力を喰わせて、シーヴァは黒き風を呼んだ。
黒き風の直撃を受けた柵と、その後ろにいた敵兵が吹き飛ぶ。さらにシーヴァは壕がないのをいいことに、黒き風を巻き起こしながら柵に向かって並走し、柵と兵士たちをなぎ倒していく。あっという間に防衛線は破られ、巨大な口が開いた。
シーヴァが力技でこじ開けたその突破口を、すぐさまアルテンシア軍の一軍が隊列を整えて駆け抜けていく。その先頭にガーベラント公の姿を認めたシーヴァは、一瞬だけ頬を緩めた。
(乱戦のなか兵をまとめて、間髪入れずに突破口を駆け抜けるか。さすがだな)
ガーベラント公が率いているのは、全部で一万弱の戦力だ。ただこれは先鋒とも言うべき部隊で、少し遅れてアルテンシアの全軍がこれを追いかけていくだろう。
ガーベラント公を見送ったシーヴァは、合流して先陣を駆けたい気持ちを押さえ、周りにいる騎馬隊を指揮して残った敵を駆逐していく。飛び出した部隊の後ろを襲われないようにするためだ。馬を駆って駆け巡ると、十字軍の兵士たちは瞬く間に散らされてそのまま逃げていった。
敵の多くは歩兵だ。騎兵隊ならばこれを追って殲滅することもたやすい。しかしシーヴァは逃げていく兵をことさら追おうとは思わなかった。今重要なのは敵軍を殲滅することではなく、ここを素早く突破することだからだ。
遁走した敵兵が聖女シルヴィアの下に合流して、再びアルテンシア軍の前に立ち塞がるかもしれないが、大規模な防衛拠点をここ以外にも用意しているとは思えない。純粋な野戦ならば、十字軍を破ることは赤子の手を捻るようにたやすい。
柵を取り除けあるいは防塞を乗り越えて、乱戦を制したアルテンシア兵がぞくぞくと集まってくる。それらの兵を素早くまとめ隊列を整えさせると、シーヴァはガーベラント公を追って駆け出した。
さてシーヴァがこじ開けた突破口のその向こうには、十字軍の本隊と思しき一軍がいた。その数、およそ三万。そしてそこには聖女シルヴィアがいる。
ガーベラント公は思わずほくそ笑んだ。彼はかつて一千の兵でシルヴィア率いる三千の兵と戦ったことがある。彼はその時そこでの戦闘に意味を見出さず撤退したが、あろうことかそれが聖女シルヴィア誕生のきっかけになってしまった。
(今度は退かぬぞ………!)
ガーベラント公は好戦的に笑う。今彼が率いているのは一万弱の兵だ。それに対し敵は三万。規模は十倍近くになったが、奇しくもあの時と同じく三倍の敵を相手にすることになる。
「聖女を捕らえるぞ!それでこの戦いは終いだ!」
ガーベラント公は声を張り上げてそう指示を出す。下手に聖女を殺せば、教会は喜んでその死を利用するだろう。しかし捕らえることが出来れば、その影響力を封殺し同時に敵の意気を挫くことができる。そうすればこの先、十字軍がアルテンシア軍の前に立ち塞がることなどなくなるだろう。
「突撃!!」
あの時とは違い明確な戦意をたぎらせて、ガーベラント公は突撃を命じた。
**********
(早い………!早すぎる!)
最後の防衛線が黒い暴風によって吹き飛ばされ、さらにアルテンシア軍の一軍がそこから飛び出してきたのを見たとき、シルヴィアは氷刃を差し込まれたかのような寒気を感じた。
急造とはいえ、防衛線は三重になっていた。それがこうも容易く喰いちぎられるとは。十字軍の弱さだけでは説明できない速さである。
(結局、なにもかも無駄だったわけじゃ………)
シルヴィアは自嘲気味に心の中で呟いた。
祖国を守りたいと思い、戦場に立った。有効と思える作戦を考えて実行し、そして一定の効果を上げもした。
その結果、聖女に祭り上げられたのは不本意ではあったが、それでもその肩書きの力はシルヴィアが祖国を守るために有用でもあった。信者たちの協力も得られたし、十字軍の戦力も回復できた。国の異なる兵士たちを鼓舞し協力させるのに、確かに「聖女」という肩書きは便利だった。
だが、その結末はどうか。
聖女として、また十字軍総司令官として、全ての力を注ぎ込んで準備してきた三重の防衛線はアルテンシア軍にあっけなく食い破られてしまった。戦力として残っているのは、シルヴィアが自ら率いているこの本隊のみである。
その本隊に、アルテンシア軍が襲い掛かろうと迫ってきている。数はおよそ一万弱でこちらの三分の一程度。しかし総合的な戦力では向こうのほうが上だろう。しかもシルヴィアがこれまで直面したことのない戦意と殺気をたぎらせ、猛然と近づいてくる。その圧力たるやすさまじく、シルヴィアはまるで見えない手に体を押さえつけられたかのように感じた。
血の気が引いていくのがわかった。背中に寒気を感じ、唇と手足が震える。逃げられるものならば、逃げたかった。
「………全軍、戦闘用意」
しかし、シルヴィアに逃げるという選択は許されていない。なぜなら彼女は聖女なのだから。「教会のために命を賭せ」と命じられているのだ。明確な言葉によってではない。人々から向けられる態度と期待によって、シルヴィアはこの短い間にそれこそ数え切れないくらい、命じられてきたのだ。
シルヴィアと同じくらい顔を青くした兵士たちが、しかしそれでも逃げ出さず命令にしたがって戦闘隊形を整えていく。
(彼らはなぜ逃げないのだろうか………)
兵士たちの様子を眺めらながら、シルヴィアは回りきらない頭でそんなことを考える。聖女のために命を賭けようと決めているのだろうか。あるいは聖女ならばこの逆境をはね返し奇跡的な勝利を収められると信じているのだろうか。それとも聖女と共に戦って死ねば、天上の世界へいけると信じているのだろうか。
『勘弁してくれ!』
シルヴィアはそう叫びたかった。命を賭けるほどの価値がないことぐらい、シルヴィア自身が一番良く知っている。ここから逆転する秘策など、自分には考え出せない。天上の世界に連れて行くことなど、自分には出来ない。
聖女とは結局、シルヴィア・サンタ・シチリアナという一人の小娘でしかないのだ。つい最近まで一兵卒さえ率いたことのない小娘なのだ。歴史や地理は好きだったが、戦術を専門に学んだことなどない。弓と馬術に秀でてはいても、本格的な軍事訓練など受けたこともない。
戦争などとは程遠い世界にいた、一人の少女なのだ。
肩書きが変わったからといって、中身が変わるわけではない。いや、そもそも肩書きとは中身がそれに相応しくなってから与えられるはずのものだ。しかしシルヴィアはそういうものをすっ飛ばして聖女になってしまった。「聖女」の肩書きはシルヴィアを置き去りにして肥大化し、もはや一個の人格となりおおせてしまっている。
「暴れ馬の背に括り付けられてしまったようなのものじゃ」
珍しく一人になれたとき、シルヴィアはそんなふうに漏らしたことがある。独り歩きを、いや暴走を始めた「聖女」の肩書きは、多くの人を自らの幻想に巻き込んでいる。そしてその幻想は、ついに現実さえも動かしてしまった。
しかし、幻想は幻想でしかない。避けようのない現実、変えられない現実を目の前に突きつけられたとき、人は痛みとともに思い知らされるのだ。
「ああ、はかない夢だった」
と。
そして今、その現実が目の前に迫ってきている。アルテンシア軍という名の現実が。
十字軍の戦闘隊形が整う。盾を並べて槍を突き出し、拒絶の意志を表明する。弓兵部隊は弓矢を引き絞り、攻撃の合図を待っている。
(すまない。そして、ありがとう)
そんな兵士たちの姿を見て、シルヴィアは心の中で謝りそして感謝した。結局、幻想にしかなれなかったことへの謝罪。それでも自分に付き合ってくれることへの感謝。ごちゃ混ぜになった頭の中で、最後に残ったのはこの二つだった。
「放てぇぇぇぇええええ!!!」
十字軍から矢が放たれる。ほぼ同時にアルテンシア軍からも矢が放たれ、銀色の二つの流れは空中で交差し、そしてお互いに降り注いだ。
敵も味方も、降り注ぐ矢に射抜かれて一人また一人と倒れていく。しかし十字軍が一人倒れるごとに戦意を喪失していくのに対し、アルテンシア軍はむしろ戦意をたぎらせていく。放たれる矢がだんだんと水平になっていき、そして両軍はついに激突した。
十字軍が示す拒絶の意志をはねのけてアルテンシア軍は進む。振り下ろされたメイスは兜ごと頭をかち割り、馬に倒された兵は起き上がるより前に槍で刺し殺される。抗戦の意志を失った十字軍の兵士は武器を捨て盾を両手で構えて必死に耐えるが、ほんの数十秒だけしか寿命を延ばすことはかなわない。
濁流が大地を削りながら進むように、アルテンシア軍は十字軍の戦力を削り取りながら前進する。数の少ないアルテンシア軍が、三倍近い数の十字軍を押し込めて後退させていくのである。
趨勢は完全にアルテンシア軍に傾いている。しかしそれでも十字軍の兵士たちは逃げなかった。圧倒的劣勢の中、何が彼らを支えているのか。
(考えるまでもないことじゃ………!)
彼らを支えているのも、それは幻想だ。「聖女」という名の幻想。なんら確たるもののないその幻想を支えに、彼らはこの戦場に踏みとどまっている。あやふやで世界を変える力など何もない「聖女」。その幻想が兵たちを駆り立てて戦場に立たせ、そしてその血を飲み干している。
「もういい!逃げよ!」
そう叫びたいのを、シルヴィアはずっと堪えている。「聖女」のせいで、自分のせいで兵士たちが死んでいく。それは戦場においてごく普通のことなのかもしれないが、彼らには逃げるという選択肢があったはずなのだ。それを奪ったのは、「聖女」という幻想だ。死ぬのはその幻想だけで十分だ。
(私が、私が死ねば………!)
兵たちは幻想から解放され、逃げられる。押しつぶされそうなストレスの中、そんな刹那的な考えが頭をよぎる。それは毒。人を酔わせて殺す、甘美な毒だ。普段のシルヴィアならば見向きもしなかったはずだ。しかし圧倒的に不利な戦場という極限状態が、彼女から正常な思考を奪っている。悪魔の甘い囁きにシルヴィアが身をゆだねようとした、まさにその時。
「シルヴィア様!」
脇に控えていた参謀の一人が、声を張り上げた。意外なことに、喜色が浮かんでいる。しかしシルヴィアはその事に気づいていない。
「邪魔をしないでくれ………」
とシルヴィアがそういう前に、参謀は満面の笑みでそれを指差した。
アルテンシア軍とは逆の方向から迫り来る、騎兵の一団。彼らが掲げているのは、深紅の下地に漆黒の一角獣が描かれた旗。
「アルジャーク………軍………」
それは天が、聖女ではないただ一人の少女のために与えた、奇跡。