「では条件面はこれで合意と言うことで………」
「はい………、大丈夫です………。これでお願いします」
片や満足感を漂わせる張りのある声。片や疲れきったかすれた声。対照的な声が部屋に響いた。
「それではこちらの書類にサインを」
アルジャーク帝国宰相ラシアート・シェルパに促されるまま、教会の交渉役であるルシアス・カント枢機卿は渡された条約締結の書類にサインする。さらに両者はお互いの書類を交換して、もう一度サインをする。こうして二通の書類に二人のサインがそろい、正式に条約が締結されたのである。
東の大国アルジャークと教会が条約を締結したのだ。本来であれば盛大な式典でも開くべきなのだろうが、今回に限って言えばそのようなことをしている時間はない。アルテンシア軍はすでに神聖四国の一つサンタ・ローゼンの国内に侵入しており、目指すアナトテ山まで距離はもうそれほど残されていない。アルテンシア軍の侵攻を防ぐため、アルジャーク軍の派兵は一刻を争うのである。
そう、「アルテンシア軍に対抗するためアルジャーク軍を担ぎ出す」。それこそが、ルシアスが結んだこの条約の目的であった。
「そ、それで、援軍は………!」
ラシアートに縋り付くようにしてルシアスは尋ねる。条約の締結が目的なのではない。アルジャーク軍がアルテンシア軍を撃退して初めて、教会は生き延びることができるのである。つまりアルテンシア軍がアナトテ山を制圧してからアルジャーク軍が到着するようなことになれば、この条約にはほとんど何も意味がないことになってしまう。
「可能な限り速やかに」
心休まらない交渉を重ね心労で疲れ果てたルシアスの肩に手を置いて、ラシアートは言い聞かせるようにそういった。
「左様、ですか………」
ルシアスとしては納得できる答えではない。しかし軍をどのように動かすかはすべてアルジャークが自身の裁量で決めるべきことで、教会の枢機卿であるルシアスが口を挟むことはできない。ラシアートがそういうのであれば、それを受け入れるしかない。
「くれぐれも、よろしくお願いします………」
「はい、全力を尽くすことをお約束します」
少し休ませていただきます、と言ってあてがわれた客室に引き上げていくルシアスの背中を、ラシアートは苦笑気味に見送った。
(ずいぶん衰弱しておられるな………)
その責任はアルジャーク側の交渉役であったラシアートにあるだろう。ラシアートが必死の懇願とも言えるルシアスの要請をことごとくかわし続けてきたせいで、彼は加速度的にやつれていってしまったのである。
(未熟者の相手をするのは、楽なことは楽なのですが、少々心が痛みますね………)
苦笑しながらラシアートは廊下を歩く。彼の小脇には、先ほどラシアートとルシアスが署名した書類がある。彼が向かっているのは、皇帝であるクロノワの執務室だ。そして恐らくはアールヴェルツェもそこにいるはずである。
「陛下、ラシアートです」
「どうぞ」
部屋の前を守っている兵に軽く手を上げてから部屋の扉をノックすると、すぐに答えが返ってきた。兵が扉を開けてくれ、ラシアートは室内に入った。
「ルシアス枢機卿との交渉は?」
「今さっきまとまりました。ベルベッド城が落ちたと言う知らせがよほど利いたのでしょうね。こちらの要求をほぼ丸呑みさせることができました」
教会とアルジャークの交渉は、当初条件面での折り合いがなかなかつかなかった。金欠でできるだけ安くしておきたい教会に対し、援軍をだして傭兵扱いされるのならなるべく高く売りつけたいアルジャーク。両者の溝はなかなか埋まらなかった。
状況が動いたのは通信用の魔道具である「共鳴の水鏡」を用いた連絡により、ベルベッド城陥落の知らせが届いた時である。
「ベルベッド城に籠城してアルテンシア軍を防ぐ。そしてその間にアルジャークを動かし援軍を出させることができればなおいい」
それが今回のアルテンシア軍の侵攻における十字軍の基本的な方針であることは当然ルシアスも知っているし、アルジャーク側も「それ以外には無いだろう」と見ている。
それなのにベルベッド城がこうも簡単に落ちてしまった。それはつまり、なんとしてもアルジャーク軍を引っ張り出さない限り、もはや教会の生き残る道はないことを意味していた。結果、ルシアスはアルジャーク側の要求を丸呑みしてでも、早期に援軍を出してもらえるように決断したのである。いや、正確には「させられた」と言ったほうが正しいのだが。
「宰相殿も人が悪い」
「いえいえ。できるだけ高く売りつけてやれ、というのが陛下のご命令でしたからな」
「おや、私のせいですか?」
アールヴェルツェ、ラシアート、クロノワ。アルジャーク帝国を率いる三人は揃って苦笑した。
「とはいえこうも簡単にベルベッド城が落ちたのは、こちらとしても想定外ですな………」
「左様。これでアルテンシア軍とは、ほとんどサシで戦わなければならなくなりました」
ラシアートは決して、ベルベッド城が落ちるまで交渉を引き延ばしていたわけではない。最終的には援軍を出すことがほとんど決まっていたから、防衛の拠点としてベルベッド城は健在なほうがいいに決まっている。ただ長引けばそれだけ十字軍は苦しくなり、そうすれば交渉がアルジャークに有利になると踏んでいたに過ぎない。
「まあ、なんにせよアルテンシア軍とは野戦で雌雄を決することになったでしょうから、それほど問題はありませんよ」
クロノワは気楽にそういった。確かにベルベッド城が健在だったとしても、アルジャーク軍までそこに立て籠もることはなかったであろう。十字軍と合流し打って出るか、あるいは奇襲を狙って側面か背後を突くか。なんにしてもアルジャーク軍は野戦を挑むことになる。
「でもまあ、遅れて間抜けを曝すのは、遠慮したいところですね」
クロノワは静かにそう呟いた。さんざん交渉を引き延ばした挙句、援軍をつれて到着したとき、すでに教会が崩壊していたらそれは確かに間抜けであろう。
ただ、クロノワ個人としてはそれでもいいと思っていた。そうなったらさっさと逃げ帰るのみである。後世の歴史家からは「間抜け」のレッテルを貼られるだろうが、アルテンシア軍との正面衝突を避けられるのならそれでもいい。
しかしどのような思惑があるにせよ、教会との条約はすでに締結されたのだ。援軍を出す代わりに多大な見返りを貰うことを約束したのである。ならばそのために全力を尽くすのが筋と言うものだろう。
クロノワの口元には先ほどまでと同じく気楽そうな笑みがあるが、目は笑っていない。彼の鋭い視線が空気を引き締める。主君の雰囲気が変わったことを察し、アールヴェルツェとラシアートも表情を改めた。
「アールヴェルツェ、軍の準備は?」
「すでに整えてございます。主力部隊はすでにオムージュ領のラキサニア国境近くにて待機しております。我が軍がラキサニアを通過する許可もすでに取っており、あとは我々が合流すればすぐにでも動けます」
「後方部隊は?」
「万事抜かりなく」
「兵站については神聖四国も最大限協力してくれることになっています。普通に補給線を伸ばすよりは楽に済むでしょう」
アールヴェルツェとラシアートの言葉にクロノワも頷く。
「………本当に、親征なさるのですか?」
少し心配そうにアールヴェルツェはクロノワに尋ねた。彼の懸念はクロノワにも分かる。今回の遠征は今までのものとはわけが違う。敵はかの英雄シーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア軍である。これまでで最も危険な相手であると断言できる。
さらに、現在アルジャークの帝室はクロノワ一人である。万が一彼が戦死でもしたらアルジャーク帝国は内部分裂を起こしてしまう。危険な戦場には出ず、安全なところで待っていてほしいというアールヴェルツェの気持ちはクロノワにもよく理解できた。
「ええ、そのつもりです」
しかしそれでもクロノワの決意は翻らない。彼は今回どうしても親征すると決めていた。
それらしい理由はいくつかあげることができる。しかしそのような理論武装とは違った区別の部分で、クロノワは今回は親征しなければならないと感じていた。
一言で言えば、直感である。この戦いは何かが起こる。そしてその何かが起こったとき、シーヴァ・オズワルドと同格であるこのクロノワ・アルジャークがそこに居なければいけないような気がしたのだ。
とはいえ、クロノワに未来を見通す力などない。だからただの予感に過ぎないこの直感は誰にも話してはいない。ありきたりな理論武装でゴリ押しして、アールヴェルツェとラシアートの二人に親征を納得させたのだ。
アールヴェルツェが不承不承ながらも引き下がったのを見て、それからクロノワはラシアートのほうを向いた。
「後のことはラシアートに任せますので」
「は、お任せください」
後のこと、というのはもちろんクロノワが国を空ける間の内政のことだ。しかしクロノワがラシアートに任せたのはそれだけではない。
アルジャーク帝国は今回教会に援軍をだす対価として、教会が大陸の中央部に作り上げた物流網の使用権を獲得している。これはこの先、アルジャーク帝国が交易の分野で勢力を拡大していくのに大いに役立つと期待されていた。
そしてその物流網の基点となっているのが、エルヴィヨン大陸南西の端に位置する貿易港、ルティスである。
ルティスは大陸でも間違いなく三本の指に入る大きな貿易港である。実際、
「世界の富はルティスに集まる」
とさえ言われており、その繁栄ぶりには輝かしいものがある。ルティスがそれほどまでに繁栄できた最大の理由が教会との蜜月にあることは、周知の事実だ。
ルティスはもともとオークランドの一都市でしかなかった。しかし教会と強く結びつくことで半ば独立し、そして貿易港としても地位を不動のものにしていった。立ち位置としては独立都市ヴェンツブルグに似ていると言える。
ただ、ヴェンツブルグが現在はアルジャーク帝国によって自治権を保障されているのに対し、ルティスの自治権を保障しているのは教会である。つまり教会はルティスを押さえることによって大陸中央部における物流を支配していた、と言っていい。
そこへアルジャークはこのたび進出しようと言うのである。しかもラシアートがまとめた条約の中身は「使用権」などという生易しいものではない。実質的にこれまで教会が築き上げてきた物流網の乗っ取りに等しいもので、この先ルティスはアルジャークのもの、と言っても過言ではない。
「可能な限り早く、フィリオをルティスにやるつもりです。」
フィリオ・マーキスはシラクサとの通商条約をまとめた人物で、現在アルジャークで海上交易の分野に最も通じている人材の一人である。一緒に机を並べて勉学にはげんたこともあるクロノワにとって、彼は数少ない同年代の友人であり信頼できる腹心だ。
「ルティスさえ掌握してしまえば、あとはどうとでもなります。フィリオには頑張ってもらいましょう」
ラシアートの言葉にクロノワも頷く。実際問題として、教会がどれほど|もつ《・・》のかは怪しいものがある。アルテンシア軍を退けたとしても、それで教会が持ち直すのかと言われれば答えは否だろう。遅かれ早かれ教会は組織としての呈を保つことができなくなって崩壊する。クロノワやラシアートはそう見ている。そうなったとき、貰った大陸中央部の物流網が使えなくなっては困るのだ。
そこで重要になってくるのが、物流網の基点となっている貿易港ルティスである。仮に物流網が使えなくなったとしても、そこさえ抑えていれば新たな物流網を築くことは容易である。
それにクロノワが特に力を入れているのは海上の交易であり、ルティスはそのための得がたい拠点でもある。ルティスをアルジャークのものにできるだけでも、今回援軍を出す価値があるかもしれない。
クロノワは一つ頷いた。後のことはラシアートに任せておけば何も問題はない。今時分が集中すべきはアルテンシア軍との、ひいてはシーヴァ・オズワルドとの戦いのほうである。
「では行くとしましょう、アールヴェルツェ。戦場へ」
「………御意」
まだなにか言いたそうではあったが、それは飲み込んだのだろう。アールヴェルツェは頭を下げた。彼はクロノワとは長い付き合いである。クロノワの決意が固く、なにを言っても無駄だと分ったのだろう。
「陛下の御身はこの帝国にとって何よりも大切なもの。なにがあっても生きてご帰還してください」
「ええ、分っています」
ラシアートの言葉にクロノワも頷く。仮にアルテンシア軍に負けて敗走したとしても、皇帝たるクロノワさえ生き残っていればアルジャーク帝国は安泰である。大国としての、また極東の覇者としての地位を失うことはない。
しかし、逆に勝ったとしてもクロノワが戦死するような事態になれば、帝国は内部分裂してしまうだろう。そうなれば全てを失うといっても過言ではいない。つまりクロノワの生き死には、戦場での勝敗よりはるかに重要なことなのだ。
「アールヴェルツェ将軍も陛下のこと、くれぐれも宜しく頼みましたぞ」
「この命に代えましても」
ラシアートの頼みに、アールヴェルツェも胸に拳を当てて答える。それで多少は安心したのか、ラシアートの表情が少し柔らかくなった。
そのおよそ二時間後、アルジャーク帝国帝都オルクスのボルフイスク城から五百騎ほどの軍勢が出立した。それらの軍勢は土煙を上げながら進路を西へと取る。目指すは教会の総本山たるアナトテ山。
舞台に役者が揃おうとしていた。
**********
教会とアルジャーク帝国の間に条約が締結されたちょうどその頃、サンタ・シチリアナの王女シルヴィアは三千のシチリアナ軍を率いてアナトテ山の近くまで後退してきた十字軍に合流した。十字軍の総司令官は未だにラウスフェルドの後任が決まっておらず、参謀長が一時的に全軍の指揮権を預かっていた。
十字軍に合流したシルヴィアは、しかし総司令官になることはできなかった。アヌベリアスが危惧し、そしてシルヴィア自身も覚悟していた通り、女性であるがゆえになめられたのだ。
シルヴィアを総司令官にしなかった十字軍は、その上総司令官の不在を理由に動こうともしない。そのような十字軍にシルヴィアはさっさと見切りをつけてシチリアナ軍を率いて独自行動を開始した。本来ならば許されないのだろうが、こういう時、神聖四国の王女という肩書きはなかなか便利である。
ただ、やはり印象は良くない。
「ふん。軍略を知らぬ小娘が、五千にも満たぬ寡兵を率いてなにができるというのか」
十字軍の上の方、特に年寄り連中がこの手の陰口を叩いていることはシルヴィアも承知している。しかしながら彼女に言わせれば、
「これまで大軍を率いながらも、三度にわたり敗北した者どもが何を言っても負け惜しみにしか聞こえぬ」
ということらしい。どうやら毒舌のやり合いではシルヴィアの方に分があったようだ。
さて、ふがいない十字軍に見切りをつけ独自行動を開始したシチリアナ軍は、南西の方向へ向かいアルテンシア軍を求めた。
「アルテンシア軍の様子はどうじゃ?」
アルテンシア軍の歩みは遅い。しかしゆっくりでありながらも、確実に前進してきている。サンタ・ローゼン国内の砦や城を一つずつ、まるで見せ付けるかのように落としながらアナトテ山へと向かっているのである。
いや、見せ付けるかのように、ではない。見せ付けているのだ。
アルテンシア軍の城砦の落とし方は、ひどく単純である。ベルベッド城の場合と同じように、シーヴァが「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を用いて城壁か城門を破壊し、そこから全軍が流れ込み敵の拠点を制圧するのである。
ベルベッド城の場合と異なっているのは、シーヴァは落とした城砦を拠点として用いることはせず、完全に破壊しつくしているところだろう。
これは示威行動である、とシルヴィアは見ている。つまり圧倒的な力を見せ付けることで、教会勢力下にある国々を威嚇しているのである。
「これ以上教会に協力するのなら容赦せんぞ」
とつまりはそういうことであろう。
それに加え、わざと速度を落としてゆっくりと行軍することにより、シーヴァは各国に教会と手を切る時間を与えている。アナトテ山を制圧する前に、可能な限り教会の勢力をそいでおきたいのだろう。
このシーヴァの目論見は現在かなり成功していると言っていい。今では神聖四国だけが教会の味方をしているような状態だ。十字軍が動こうとしないのは、アルテンシア軍に野戦を仕掛けるのを躊躇っているのもあるが、各国からの兵の補充が思うように行かず数が足りていないのが大きい。
「どんなに小さくてもいい。まずは勝利を拾うことじゃ」
シルヴィアはそう考えている。十字軍はシーヴァにこれまで負け続けている。その上、一度として勝てたためしがない。そのせいで十字軍の兵士たちは、「アルテンシア軍には何をしても勝てない」と最初から諦めている節がある。
だからこそどんなに小さくても些細でもいいので勝利を拾い、「勝てるのだ」ということを証明しなければならない。勝てると思えれば兵の士気は上がるだろうし、また兵を出し渋っている各国もまた教会に味方をしてくれるかもしれない。
そしてなによりも、無敵のアルテンシア軍に土をつけたとなれば、シルヴィアは大きな武功を手にすることになる。その武功さえあれば、頭の固い十字軍の仕官どもを黙らせて総司令官になることができるだろう。なれなかったとしても、確実に十字軍内におけるシルヴィアの発言力は増す。
アルテンシア軍を足止めしアルジャーク軍がやってくるまでの時間を稼ぐには、どうしても十字軍の力が必要である。そのためにも、早く十字軍を動かせる立場にならなければならないのだ。
急く心を抑えてシルヴィアは手ごろな相手を求めて軍を進める。そんな彼女の前にまさしく手ごろと思える敵が現れたのは、シチリアナ軍が独自行動を開始してから四日後のことであった。
四方に放っていた斥候が持ち帰った情報によると、アルテンシア軍の分隊を発見したと言う。その数、およそ千。シチリアナ軍の三分の一程度だ。
「ちょうどよい規模の敵じゃな」
シルヴィアは目を輝かせた。敵の戦力が千程度ならば、勝つことはそう難しくはあるまい。なにしろシチリアナ軍は三千の兵を有しているのである。
ただ逆を言えば、同じ数であれば恐らく勝てないということでもある。それほどまでに兵の質が違うのである。そういう意味では、見つけた敵部隊が千程度であったことはまさしくシチリアナ軍にとっては僥倖であったと言える。
ちなみにこの部隊を率いていたのはガーベラント公であった。彼はシーヴァの率いる本隊から分かれ、先行するかたちでサンタ・ローゼンの地を進んでいたのだが、その時シルヴィア率いるシチリアナ軍とかち合ったのである。
当然、ガーベラント公はシチリアナ軍の接近を察知していたし、その戦力が自分の部隊の三倍近いことも知っていた。
敵部隊の接近に際し、ガーベラント公は迷った。
今、自分の部隊は本隊よりも先行しているが、それは戦略的に考えてこの先どうしても必要というわけではない。まして敵の戦力は、数だけ見ればこちらの三倍近い。ならば戦う前に撤退して本隊に合流したほうが良いのではないか。
しかし、アルテンシア軍は現在のところ連戦連勝で、非常に士気が高い。ここで戦わずに後退したとなれば、連勝に水を差すことになりかねない。また、十字軍ははっきりと弱い。三倍の敵と言えど、撃破は十分に可能なようにも思える。
あれこれと考えているうちに、ガーベラント公率いるアルテンシア軍はシルヴィア率いるシチリアナ軍に接近してしまった。彼は決して優柔不断な武将ではない。この場合、アルテンシア軍分隊の存在を知ってから神速果断に行動したシルヴィアとシチリアナ軍を褒めるべきであろう。
なにはともあれ、互いを視認できるほど近づいてしまっては、いきなり背中を見せて後退するのは危険である。ガーベラント公は慌てることなく、すぐさま全軍に戦闘隊形をとるように命じた。
ガーベラント公は勝つ気でいた。隙を見て撤退する、などということは考えていない。十字軍は弱い。それはこれまで戦ってきた中で十分に分っている。たとえ兵の数で劣っていようとも、十分に勝機はあると計算していた。
しかし実際に戦闘が始まってみると、ガーベラント公は考えを改めなければならなくなった。別にアルテンシア軍が劣勢になったわけではない。現状でも五分五分、いやそれよりも多少優位に立っているだろう。
しかし、シチリアナ軍は今までの十字軍のように簡単に崩れてはくれない。確かに兵は弱いのだが、士気の高さがそれを補っている。その点だけ見ればシチリアナ軍はアルテンシア軍を凌駕していると言っても過言ではない。そのせいで戦況では優位なはずなのに、精神的にはなんだか追い詰められているかのような、そんなチグハグな感覚さえ覚えてしまう。
(指揮官が変わったのか………?)
ガーベラント公はそう思った。指揮を見る限り、戦術面においてはまだまだ未熟な指揮官であろう。しかし兵に命を捨てさせる、捨ててもいいと思わせる指揮官だ。シーヴァ・オズワルドという英雄を間近で見てきたガーベラント公は、そういう将が一番危険であることを良く知っている。
(退くか)
ガーベラント公はそう決断した。最後まで戦えば、勝つことはできるだろう。しかしここでの勝利は、戦略的に考えてあまり意味がない。ならば無意味に兵を失う前に後退するべきであろう。
ガーベラント公はまず、自分の周りに精鋭を集めた。それからその精鋭部隊を率いて突出して敵を押し戻し、その隙に後ろの兵から順に後退させていく。そしてそれを数度繰り返して全軍を後退させ、シチリアナ軍との距離が開くと一気に撤退を開始した。
シチリアナ軍はその後を追わなかった。いや、追えなかった、と言ったほうが正しい。整然と後退していくアルテンシア軍に隙はなく、うかつに手を出せば手痛い反撃をくらうことが容易に想像できた。
また戦場に横たわる死体は、アルテンシア兵よりもシチリアナ兵のほうが多い。あのまま戦っていれば恐らく最後には負けていたであろうということは、シルヴィアにも良く分っていた。
(それでも勝ちは勝ちじゃ)
たとえそれが譲られたものだったとしても。兵たちの歓声を聞きながらシルヴィアはそう思った。
勝てるのに退いたということは、先ほどのアルテンシア軍の指揮官はこの場での戦いに意味を見出さなかったのだろう。確かにアルテンシア軍にとってはそうかもしれない。しかしシチリアナ軍、ひいては十字軍にとってこの拾った勝利には大きな意味がある。
敵にしてみればすぐにでも取り返せる負けだろう。いや、むしろ戦略的には撤退したほうが良かったとさえ考えているかも知れない。しかし十字軍にとっては幸運のすえに拾った得がたい勝利なのだ。
(せいぜい利用させてもらうかの、シーヴァ・オズワルドよ)
シルヴィア自身のため、ひいては教会と神聖四国のために。
シルヴィアが十字軍を率いても、おそらくアルテンシア軍には勝てないであろう。それは今日の戦闘からも分ってしまう。見せ付けられた、と言ってもいい。しかし、シルヴィアの目的は勝つことではない。アルジャーク軍が到着するまで時間を稼ぐだけならば、やりようはある。
後に“聖女”と呼ばれる少女の戦いが、始まった。
*******************
「申し訳ございません」
ガーベラント公は主君であるシーヴァ・オズワルドの前で片膝をついて頭をたれた。彼が謝罪しているのは、シチリアナ軍との遭遇戦において撤退してきたことについてだ。無論、ガーベラント公にはそれなりの理由があって撤退したのだが、それでも形式上アルテンシア軍が敗北した、という事実は動かない。彼はそれを謝罪しているのだ。
「かまわぬ。公の判断は適切であった」
しかし、シーヴァはそれを咎める狭量な王ではない。鷹揚に頷くと彼はガーベラント公を立たせて席に着かせた。この話はもう終わった、という意思表示である。
実際、ガーベラント公がそう判断したように、あの場での戦いに戦略的な価値はない。そうである以上、無意味に兵に損害を出す前に撤退したガーベラント公の判断はシーヴァにとっても好ましいものであった。仮にシチリアナ軍が本隊の前に立ちはだかったとしても、三千程度であればこれを破ることは造作もない。もっとも、敵もそのような無謀な真似はしないだろうが。
それよりもシーヴァとしてはガーベラント公が話した、シチリアナ兵の士気の高さのほうが気になっていた。シチリアナ軍が単独で仕掛けてきたことといい、十字軍内部で何かしらの変化が起こっているのかもしれない。
「ガーベラント公、敵部隊の指揮官はどのような人物であった?」
「は。兵の動かし方を見る限りでは、指揮官としてはまだまだ未熟でしょう」
ただ兵士たちの士気が高かったということは、それだけ慕われているということで、そういう意味ではやっかいな相手であるともいえる。ガーベラント公はそう分析した。
「それと、遠目に見ただけですのでなんとも言えませんが………」
「まだ何かあるのか?」
「は。敵の指揮官は、どうも女であったように見えました」
ほう、とシーヴァは面白そうな声をもらした。サンタ・シチリアナに女性の将軍がいただろうかと記憶を探ってみるが、なかなか出てこない。
「もしや、王女のシルヴィア姫ではありませんか?」
そういったのは、シーヴァの腹心の女将軍であるヴェート・エフニートである。女性の指揮官だったと聞いて、彼女も興味が出てきたのかもしれない。
「どのような人物だ、そのシルヴィア姫とやらは」
「確か今年で十七だったはず。聞いた話では弓と馬術に秀でているとか」
なるほど、とシーヴァは頷いた。たしかに自国の王族、しかも王女が先頭に立っているとなればシチリアナ軍の士気が高いのは当然と言える。
「………如何なさいますか」
「どうもせぬ」
シーヴァがこともなさげにそういうと、そこにいた一同は皆一様に呆けたような顔をした。
「弓と馬術に秀でている戦士ならば、我が軍にも多くいる。何も恐れることはあるまい」
シーヴァの言葉に、その場にいた一同は納得したように頷いた。指揮官として優れているわけではないことは、ガーベラント公の話から分る。もしかしたらその才能はあるのかもしれないが、それが開花するまで待ってやる義理はない。
そしてなによりも、アルテンシア軍を率いるのはシーヴァ・オズワルドである。シルヴィアが十字軍内でどのような位置にいるのかは分らないが、仮に全軍を率いる立場であったとしても、彼女はシーヴァには遠く及ばない。
損傷が軽微とはいえ、今回の遠征で初めての敗北に多少浮き足立っていた人々に、冷静さが戻ってくる。この瞬間、アルテンシア軍に対するシチリアナ軍の今回の勝利の意味は完全に消えたといえる。
しかし、十字軍内部における今回の勝利の意味は、アルテンシア軍が、いやシーヴァが考えていたよりもはるかに大きなものだったのである。
**********
アルテンシア軍の分隊との戦いに辛くも勝利を収めたシルヴィアは、その余韻に浸る間もなく十字軍の駐屯地へと取って返した。
シチリアナ軍が再び合流したときには、十字軍の士官たちはすでにシルヴィアが収めた勝利について知っていた。どうやら独自に斥候を放ち、戦況を監視していたらしい。
あまりいい気はしないとはいえ、これはシルヴィアにとっても都合のよいことであった。たとえ彼女が「アルテンシア軍に勝利を収めた」と主張したとして、それが実際に事実であるにもかかわらず、頭の固い十字軍の士官たちはあるいは信じようとしなかったかもしれない。しかし自分たちが放った斥候による情報であれば、彼らも信じざるを得ないだろう。
実際、士官たちのシルヴィアに対する態度は明らかに丁重になっていた。ようやくか、と内心で舌打ちしつつもシルヴィアはそれを表には出さず、美辞麗句を並べて彼女を称える士官たちにこう言った。
「すぐに主だった面々を集めていただきたい。お話があります」
彼女の要望どおり十字軍の主だった人々が大きなテントの中に集められた。そこで真っ先にシルヴィアは口を開く。彼女が話をしても、侮るような雰囲気は生まれない。たった一度の、それも譲られた勝利が、シルヴィア・サンタ・シチリアナに対する評価を一変させてしまったのである。
「まず、十字軍の現在の戦力を教えていただきたい」
「七万と少し。神聖四国以外に兵を出す国がないのだ………」
参謀長が苦々しくそう言う。ちなみに十字軍内部の序列では、まだ彼のほうが立場が上なので、敬語を使われなくてもシルヴィアは気にしない。
(ついに十万を切ったか………)
シルヴィアは内心で盛大に顔をしかめた。アルテンシア軍の戦力はおよそ八万。ついに数的優位さえ失ってしまったことになる。これでどこを見渡しても十字軍がアルテンシア軍に勝てそうな要素がなくなってしまった。一応「地の利」というものがあるが、それは攻め込まれていることの裏返しでもある。
「十字軍の戦略目的は?」
「それはもちろん、敵軍を打ち破りシーヴァ・オズワルドの首を上げること………」
「本当にそれが可能であると思っておられるのですか?」
シルヴィアの鋭し視線を受けて、参謀長は黙ってしまった。ベルベッド城が落とされ戦力の回復もままならないこの状況で、アルテンシア軍を破りさらにシーヴァの首を取ることなど不可能であると、その場にいる誰もが分っていた。
「では、シルヴィア姫にはどのような策がおありなのか、お聞かせいただきたい」
参謀の一人が少し気色ばんでシルヴィアに尋ねた。シーヴァには勝てない、と言われプライドが傷ついたのかもしれない。そんな参謀の態度に影響されることなく、シルヴィアは静かに口を開いた。
「まず、戦略の主眼を変える必要があります」
これまで十字軍は、アルテンシア軍を撃退し教会の勢力圏から追い出すことを目的としていた。しかし初戦で大敗し拠点と戦力を失ってしまったため、この目的はほとんど達成不可能になってしまった。
そこでシルヴィアは新たな目的として、援軍、すなわちアルジャーク軍が到着するまでの時間を稼ぐことを提案した。しかし、その場にいた仕官や参謀たちは、最初その案に否定的であった。
「何時来るのか、いやそもそも本当に来てくれるのかも分らない援軍をアテにして戦うと言うのか」
「左様。時間を稼ぐのであれば、確実に援軍が来るという保障が欲しい」
「それに、アルジャーク軍であればアルテンシア軍に確実に勝てる、というわけでもあるまい」
次々に反対意見を口にする参謀たちを見て、シルヴィアは腹の中に怒りを感じた。
(ぬるい………!ぬるすぎる!)
現状に対する認識が。それを何とかしようという決意が。そのためには命を賭けなければならないという覚悟が。その全てが甘く、薄弱で、そしてぬるい。彼らのそのなっていない心構えのせいで、一体何人の兵士たちを死なせてきたのか。
「かつて勝利が約束されていた戦争があったとでもおっしゃるのか」
シルヴィアの怒りは声音に滲んだ。小娘と侮っていたはずの彼女の声に押されるようにして、士官たちは口をつぐむ。
「勝利が確実と思われていた側が敗北した例は、歴史上に数多くあります」
ゆえに絶対などというものはこの世に存在しない。とくに戦争においては。そこで保障や確証を与えることなど、誰にもできないのだ。
「それに、保障を欲しがっていられるような状況なのですか?今の十字軍は」
そうではないはずだ。自力でアルテンシア軍を追い払うことができそうにない以上、他者の力を借りるしかない。そしてアルテンシア軍に対抗できるのは、大陸広しと言えどもはやアルジャーク軍しか残されていないのだ。
「教会もアルジャークに援軍の要請をされている。今はアルジャーク軍が動くと信じて時間を稼ぐほかありませぬ。ほかに策があると言うのであれば、教えていただきたい」
シルヴィアの言葉に、その場にいた一同は黙ってしまった。不確実だ、といって反対するのは簡単だ。しかし反対するなら対案を出さなければならない。そして有効と思える案がなかったからこそ、十字軍は今まで動くことができなかったのだ。
「………アルジャーク軍が動かなかった、あるいは動いたとしても間に合わなかった場合は、どうなるのかね?」
「滅ぶだけです。教会も、神聖四国も」
参謀長の問いかけに、シルヴィアは突き放したように答えた。援軍が来なければ十字軍は負ける、と彼女は断言したのである。無論、先ほど彼女が言ったとおり、戦場に絶対はない。しかし十字軍がアルテンシア軍に勝てる可能性は、万に一つ、いや億に一つくらいなものであろう。天変地異が重なってようやく勝てる、と言ったレベルだ。
「………どう時間をかせぐのか聞かせてもらいたい、シルヴィア姫」
重苦しい空気の中、参謀長が口を開いた。絶望にも似た雰囲気の中、しかしシルヴィアはそれに侵されることなく凛とした声を響かせる。
「敵の補給線を断ちます」
シルヴィアは簡潔に答えた。寡兵が大軍を相手にする場合、とるべき戦術は大きく分けて二つ。敵の大将首を取るか、敵の補給線を寸断するか。そういう意味では、シルヴィアの提案は常識的であった。
「具体的には?」
「まず四万程度の兵を残し、のこりを三千から五千の部隊に分けます。そしてそれらの部隊には単独で動いてもらい、敵軍の注意をひきつけます」
無理だ、と言う声が上がった。仮に三万の兵を五千ずつに分けたとすると、六つの部隊が出来上がる。当然、部隊指揮官も六人必要になる。しかし、十字軍には単独行動の指揮が取れるような者は、ほとんど残されていないのだ。
「別に戦う必要はないのです。敵軍に十字軍のそういう部隊が幾つも動き回っている、という印象を与えることができれば」
見つかったらすぐに逃げればよい、とシルヴィアは言った。実際に戦わなくて良いのであれば、指揮はそれほど難しくはないだろう。
「そして、それらの部隊に混じった精鋭部隊が敵軍の背後に回りこみ、敵の補給部隊を強襲するのです」
つまり、陽動に紛れさせて精鋭部隊をアルテンシア軍の後ろに回りこませようというのである。同じような規模の部隊が周りで無意味に蠢動していれば、明確な目的を持っている精鋭部隊も同じように見えてくる。地の利は十字軍のほうにあるのだから、敵が油断してくれれば後ろに回りこむのはそう難しいことではあるまい。
「補給が続かなくなれば、いかに精強な兵といえども後退するほかありませぬ」
そして後退してくれれば、その分時間がかせげる。後退にあわせて追撃をかけられれば一番良いのだが、そんなことをすれば手痛いしっぺ返しを喰らって崩壊させられるのは十字軍のほうであろう。
「アルテンシア軍はどう動くと思う?」
「複数の部隊が周囲で蠢動するのを気にしてなんらかの対応に出てくれれば、その分時間がかせげます。逆に無視してこれまでどおり侵攻するのであれば、背後に回りやすくなります」
最も困るのは蠢動している部隊を全て各個撃破されることだが、こちらから積極的に攻撃を仕掛けない限り、アルテンシア軍はゆっくりとアナトテ山を目指すだけだろう。
つまりシーヴァには自信があるのだ。なにをされても対応できると自信が。その自信は実力と実績に裏打ちされており、実際十字軍がどんなちょっかいを出したとしてもはね返されるのがおちだろう。
しかし、シーヴァ・オズワルドといえど体が二つあるわけではない。遠く離れた場所での襲撃に対応できるわけではないのだ。どれだけ自信があろうとも、彼の手の届く範囲は決まっている。彼の自信に根拠はあるだろうが、兵士たちの自信に彼ほどの根拠はあるまい。シルヴィアの狙いはそこだった。
「後退するとはいっても、ベルベッド城までであろうな………」
「その通りかと」
参謀長は難しい顔をして腕を組んだ。ベルベッド城を攻略したアルテンシア軍は、そこを自分たちの拠点として使っている。またベルベッド城には十字軍が持ち込んだ大量の物資がそのまま残っていたはずで、アルテンシア軍にしてみれば城まで後退できれば補給には事欠かない。
またベルベッド城があるのはサンタ・ローゼンの隣の国であるフーリギアである。つまりそう遠くまで撤退してくれるわけではない。またアルテンシア軍が撤退した後、サンタ・ローゼンの国境付近に防衛線を引けるわけでもない。そのために必要な拠点はほとんど全てシーヴァによって破壊されているからだ。
ようするに、補給線を断って一度アルテンシア軍を後退させたとしても、再侵攻を防ぐ有効な手段はないのである。時間がたてば今と同じ状況になることは目に見えており、本当に時間稼ぎの意味しかない。
(いや、ともすれば時間稼ぎすらできないかも知れぬ………)
シルヴィアは心の中だけでそう思った。
補給が続かなくなれば、アルテンシア軍はベルベッド城までとはいえ後退する。それは間違いないだろう。しかしその後、これまでと同じペースで侵攻してくる、という保障はそれこそどこにもない。
補給線を断たれ、いわば“してやられた”シーヴァが本気になる可能性は十分にある。そうなった時、アルテンシア軍の進軍速度はこれまでとは桁違いになるだろう。攻略すべき敵拠点がないこともあわせて考えれば、これまでの三から四倍、ともすれば五倍以上になってもおかしくはない。
その場合、はたしてアルジャーク軍は間に合うのか。
(保障など求めている場合ではない、と啖呵を切ったのは誰じゃ!)
情けない、とシルヴィアは心の中だけでかぶりを振って自分を叱った。なんにしても一度後退させればその分時間がかせげるのは間違いないのだ。その間にアルジャーク軍が来ることに賭ける以外、教会と神聖四国が生き残る道はない。
シルヴィアは自分の懸念をここで口にはしなかった。話してみたところでどうにもならないからだ。アルテンシア軍の動き方は、結局シーヴァ・オズワルドにしか決められない。ならばわざわざ自分で反対意見を出して自滅するような真似をしても仕方がない。そんなことをするためにシルヴィアは戦場に出てきたわけではないのだ。
「敵軍が撤退しなかった場合はどうする?」
ふと、参謀の一人がそんなことを言い出した。
「シルヴィア姫の作戦は、補給線を断たれた敵軍はベルベッド城まで撤退する、という前提で成り立っている」
しかしアルテンシア軍が撤退せず、全力でアナトテ山を目指し始めたらどうなるのか。戦力を分けている十字軍は敵を満足にとどめることができず、アナトテ山は簡単にシーヴァの手に落ちてしまうだろう。
そうでなくとも、周りの村や町を略奪することで兵糧を確保するかもしれない。そうなった場合、当初予定していたような時間はかせげないだろう。
「それは今この瞬間にも可能性のあることです」
シルヴィアは反論する。アルテンシア軍が圧倒的優位にある以上、アルテンシア軍のほうが選択肢が多いのは当然のことである。十字軍にできるのは、敵が撤退する可能性の高そうな作戦を選ぶことだけだ。
「この策は他のどんな作戦よりその可能性が高いと、自負しております」
それにシーヴァはこれまで兵士たちに対して一切の略奪を禁じてきた。これまでに降伏したシャトワールやブリュッゼ、フーリギアにおいてもアルテンシア兵の素行は良かったと聞き及んでいる。
シーヴァの戦場におけるモラルは相当高い。たとえば第一次遠征時の十字軍など比較にならぬほどに。である以上、シーヴァは補給線が切れればベルベッド城まで戻るだろう。その程度の手間を彼は厭うまい。妙な話だが、シルヴィアはシーヴァがそれだけの器を持っていると信じている。
シルヴィアがそういうと、反対意見を述べた参謀も黙った。彼にしてもシルヴィアの策を超える対案は持ち合わせていないのだろう。真の批判とは相手の欠点をあげつらうことではない。欠点を指摘した上で相手を上回ることなのだ。
「他に対案のある者は?」
参謀長が居並ぶ面々の顔を見渡す。対案は出てこなかった。この瞬間、シルヴィアの作戦にしたがって援軍を待つことが決定した。