シャトワールとブリュッゼを下したアルテンシア軍は、さらに東へと進む。その歩みは決して遅くはないが、シーヴァが起こしたアルテンシア同盟に対する革命の初期にあったような疾風怒濤の勢いもない。遠征軍は整然と進み、威風堂々としたその軍威を見せ付ける。
今のところ、アルテンシア軍は十字軍や独自に動く各国の軍などからの襲撃を受けてはいない。意見がまとまらず動けない、というわけではあるまい。逆に意見の統一がなされ、アルテンシア軍を迎え撃つ場所がすでに決まっているからこそ、先走って攻撃を仕掛けてくる部隊がいないのだろう。
(危機的状況は思惑を飛び越えて人々を協力させる、か………)
立場は逆になったが、そういう意味ではかつてのアルテンシア同盟が成立した状況に似ていると言える。十字軍はこれまで、各国の状況や思惑が異なるために意見が統一されず、仲間内で足を引っ張り合うような状態が見られた。しかしシーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア軍という圧倒的な侵略者(・・・)を前にして、ともかくは手を取り合い全力で協力し合うことができるようになったらしい。
(さて、どこで迎え撃つつもりなのか………)
心の中でそう問いかけつつも、シーヴァはすでに自分の中に答えを持っている。フーリギアにあるベルベッド城。十字軍はその城に集結し、アルテンシア軍に対して決戦を挑んでくるだろう、とシーヴァは予測している。
フーリギアはブリュッゼとサンタ・ローゼンの間にある国で、その版図は四三州。小国であり、神聖四国と教会の威光を笠に、というよりほとんど属国の立場を受け入れることによって、これまで国を維持していた。熱心な信者が多く、教会と神聖四国からすれば使い勝手のいい子分、といったところだろうか。
そんなフーリギアの中央からすこし西よりのところにあるのがベルベッド城だ。交通の要衝に置かれた城であり、完全に敵と戦うことを想定した造りとなっている。それもそのはずで、まだアルテンシア同盟が健全な組織だった頃、半島から出て西進する同盟軍を迎え撃つ目的で作られた城だった。役割としてはゼーデンブルグ要塞に似ていると言える。もっとも、規模は二段階程度劣っているといわざるを得ないが。
結局、同盟が遠征軍を催して半島から打って出ることはなかったが、こうしてシーヴァが軍を率いその城を攻略することになりそうである。ゼーデンブルグ要塞で十字軍を撃退したことといい、どうもアルテンシア同盟がやるはずだったことをシーヴァが肩代わりしているような気もする。もっともそれは彼にとって望むところだろう。シーヴァの根底にあるのは、やはり同盟が掲げた理想なのだから。
それはともかくとして。ベルベッド城でまずは十字軍と一戦交えることになるだろうと予測しているのは、なにもシーヴァだけではない。ガーベラント公とリオネス公、それに腹心とも言える女将軍ヴェート・エフニートも同意見だった。
古来より戦場の選定と言うのは、敵味方の予測が驚くほどの高確率で一致する。もっとも大軍を指揮して動かしやすい場所や、戦略的に価値のある要衝といったふうに条件付けをしていけばおのずと選択肢は限られてくるのだろう。
「さて、十字軍はどう戦うつもりなのか」
馬に揺られながらシーヴァは考える。ベルベッド城を拠点にして野戦を挑んでくるのか、それとも城に籠って守りを固めて戦うのか。あるいは城を拠点にして奇襲や挟撃を狙うのか。
敵がどのようなカードを切ろうとも恐れることはない。シーヴァはごく自然にそう思っていた。しかしだからと言って敵を侮っているわけではない。進軍の速度を上げすぎないのもそのためだ。疲れきっているところを襲撃されれば、どれだけの精兵を率いていようとも敗北は濃厚だ。ゆえに常に余力が残るようにしておかなければならない。
さらにシーヴァは本隊とは別に斥候のための部隊を組織し、常に周辺の状況を探らせていた。加えてこれまで大陸中央部で諜報活動をしていた人員をも連動させることで、彼はかなり広範な地域の情勢を馬上にいて知ることができていたのである。
鋭く前を見据えて進むシーヴァのもとに十字軍発見の報がもたらされたのは、彼がブリュッゼを出立してから五日後のことであった。
**********
シーヴァの読みどおり、十字軍はベルベッド城に集結していた。その数およそ十二万。十分に大軍であり、実際各国とも出し惜しみをしたわけではない。しかし教会の人間で、この数に不満を覚えるものは少なからずいた。
第一次十字軍遠征の際には、三十万を超える大軍が集結した。第二次遠征の際にも二十万を超えていた。それが今回はわずかに十二万である。
客観的な事実として、回を重ねるごとに十字軍の戦力は十万ずつ減っている。それがそのまま教会の衰退を表しているようで、教会の上のほうにいる人間ほど頭と胃の痛い思いをしていた。
ただ、雰囲気は今までで一番良いかもしれない。欲望丸出しだった第一次遠征や足並みが揃っていなかった第二次遠征とは異なり、今回は祖国を侵略者から守るという単純明快で誰もが納得する理由がある。その大義名分は国や思惑の違いを超えて兵士たちを団結させていた。
さらに今回、総司令官として十字軍を率いるのは、神聖四国の一つサンタ・ローゼンの第一王子であるラウスフェルド・サンタ・ローゼンであった。神聖四国の王族が十字軍を率いるのはこれが初めてで、それだけ情勢が悪いことの裏返しなのだが、それでも兵士たちは沸き立ちその士気の高さは間違いなく過去最高であった。
それに、これは皮肉なことなのだろうが、規模が小さくなったことで全体の統率が取れるようになっていた。これまでのようにサボったり怠けたりする兵士は見られない。一人ひとりの意識が高く、命令が末端にまで行き届いている証拠だ。
加えて、十字軍の兵たちの士気をさらに上げている要素がある。それは斥候によってもたらされたアルテンシア軍に関する情報である。それによると、どうも敵は攻城兵器を持ってきていないようだ、とのことであった。
第二次遠征の際に、攻城兵器が足りずゼーデンブルグ要塞を攻めあぐねたことは、十字軍の中でも記憶に新しい。ゆえに攻城兵器を持たないシーヴァはベルベッド城を攻めあぐねるだろう、ということは簡単に予測できた。
加えてアルテンシア軍は八万。守り手のほうが攻め手よりも数が多いのだ。一般的に敵の防衛拠点を落とそうする場合、敵に対して二倍から三倍の戦力が必要になるといわれている。それを考えればアルテンシア軍は明らかに戦力不足だった。
「なんでもかんでも力押しで何とかなると思ったのか。愚かなことよ」
「左様。シーヴァ・オズワルドは勝利に慢心し、さしたる準備もせず今回の遠征に踏み切ったと見える」
「奴らはこのベルベッド城を落とせず、疲れ果てて退却することになるじゃろう。その背中を襲うときが楽しみじゃ」
斥候がもたらした情報をもとに行われた戦況予測は終始十字軍に有利であり、指揮官たちは大いに胸をなで下ろした。さらにその予測は一般の兵士たちにも知れ渡り、十字軍の士気はさらに上がった。
「異教徒どもが神聖なる我らの祖国を踏み荒らすことを、神々はお許しにならなかったのだ」
「強欲な異教徒どもに神々の裁きを!」
三度目の対決で、ようやく勝機が見えてきたのである。話をする十字軍兵士たちの表情は明るい。
ゼーデンブルグという大要塞には及ばないが、ベルベッド城は十分に堅牢な城砦である。しかも数は十字軍のほうが多いのである。野戦では分が悪いかもしれないが、城に籠ってしまえば十字軍のほうが圧倒的に有利であることは誰の目にも明らかであった。
つまり、
「アルテンシア軍、恐れるに足らず!」
という十字軍内の雰囲気には一応の根拠があった。
しかし、その根拠には穴があったと言わなければならない。彼らは見落としていたのである。シーヴァ・オズワルドが操る漆黒の大剣「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」のことを。
古来より、たった一つの強力な魔道具が戦況を左右してしまった例は、少ないとはいえ確かに存在する。シーヴァの持つ漆黒の大剣がその類の魔道具であることを、十字軍はいやというほど思い知らされていたはずである。それが意識的であったのかあるいは無意識であったのかは分らないが、なんにせよ「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」という強力な魔道具を排除して考えていたことは迂闊だった、と言わざるを得ない。
もっとも、シーヴァがその魔道具を攻城兵器の代わりとして用いたことは無く、そこに関しては未知数だった、という面もあるのだろう。あるいは「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」について考えてはいたが、兵の士気を上げるためにあえて黙っていた、という可能性もある。それが正しい選択だったのかは、また別の問題になるが。
まあ、内部にどのような思惑があったにせよ、ベルベッド城に籠って防戦に徹する以外の選択肢は十字軍になかった。兵と兵がまともにぶつかり合う野戦では、兵の質で大きく劣る十字軍は勝ち目が薄い。兵の数でどれだけ上回っていようとも、だ。羊を千匹集めたとしても、一頭の獅子には敵わないのである。
また奇襲をかけるのも難しい。兵士たちの訓練が足りていないからだ。例えば夜間行軍したり、気づかれないように敵に接近したりするにはそれ相応の訓練が必要になる。しかし二度の遠征失敗により精兵の多くを失った十字軍には、それら必要な訓練を受けた兵士が絶対的に足りていない。
加えて指揮官の数も足りておらず、結局全軍をひとまとめにしてベルベッド城に立て籠もるのが最も確実な戦術であり、その方向で準備は進められた。
「いつでも来るがいい。返り討ちにしてくれる」
総司令官のラウスフェルドが豪語する。そう言えるほどに、十字軍は出来る限りの準備を万端に整えていた。
「人事は尽くした。後は天命を待つのみ」
十字軍は、いやともすれば教会勢力全体がそういう心境であった。しかしそうなると、もしこの戦いで十字軍が敗北した場合は教会の滅亡こそが天命であることになるのだが、彼らは果たしてそれを理解していたのであろうか。多少の想像が許されていい。
**********
アルテンシア軍の先頭を行くシーヴァがベルベッド城とそこに翻る教会の旗を視界に収めたのは、十字軍発見の報が彼のもとにもたらされてからさらに三日後のことであった。
その三日の間にシーヴァはさらに詳細な情報を集めさせていた。ベルベッド城で待ち構えている十字軍の数、およそ十二万。ただしその多くは訓練の足りない新兵と体力のない老兵である。また総司令官としてサンタ・ローゼンの第一王子ラウスフェルド・サンタ・ローゼンがいることも掴んだ。
「ついに神聖四国から王族が出てきましたな」
ラウスフェルドの名を聞くと、ガーベラント公は少し意外そうな顔をして顎を撫でた。確かに彼ならば十字軍の兵士たちを団結させる象徴としては申し分ないだろう。兵の数と質に不安が残る以上、士気を上げるためにも神聖四国の王族を担ぎ出すのが効果的であるということはガーベラント公にも分っている。
しかしその一方で神聖四国の王族を担ぎ出さなければならないほど、十字軍にとっては分が悪いと言うことでもある。そのような分の悪い戦いに温室育ちの王族がはたして出てくるのか、とガーベラント公は少なからずいぶかしんでいたのだ。
まあ、結果としてラウスフェルドは戦場に出てきたのだから、もしかしたら彼は結構な傑物かもしれない。もっとも、さんざんぐずった挙句に尻を蹴り飛ばされてきただけかもしれないが。
「それで、ラウスフェルド総司令官殿はこちらに野戦を仕掛ける胆力をはたしてお持ちかな」
多少皮肉のスパイスを利かせてそういったのは、ガーベラント公と同じく五公爵の一人であるリオネス公であった。年長で優れた武人でもあるガーベラント公などと比べると線が細く一見して軽薄にも見えてしまうが、ユーモアのセンスがあり頭の回転は非常に速い。五公爵の中では最も早くに同盟に見切りをつけてシーヴァに協力しており、その先見性には卓越したものがある。
無論、リオネス公は十字軍が野戦を仕掛けてくることはないと確信している。少なくとも真正面からは。それは総司令官であるラウスフェルドの胆力の問題と言うよりは、むしろ十字軍の兵士の練度の問題である。
十字軍を構成している兵のほとんどは新兵と老兵だ。それに対してアルテンシア軍は精鋭の中でも選りすぐりの兵を集めてきた。数で劣っているからと言って、そう簡単に押し切られることはない。
「二倍程度までなら、問題なく勝てる」
アルテンシア軍の内部ではそういわれていた。決して敵を侮り楽観しているわけではない。経験と知識にもと基づく推測である。さらに「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を操るシーヴァ・オズワルドがいるのである。もしかしたら三倍近い数が相手でも問題ないかもしれない。
もっとも、敵もそれは承知しているはずで、だからこそリオネス公は野戦で真正面からぶつかることはないと考えているのである。
仮に十字軍がベルベッド城から出てくるとすれば、それは奇襲を仕掛けるためであろう。どれだけ精強であろうとも、油断しきっているところを襲われれば敗北は必至である。しかしシーヴァに気の緩みは無い。彼は斥候の数を増やして周辺をくまなく探らせ、警戒を強めて行軍した。
結果として奇襲を受けることなく、アルテンシア軍はベルベッド城に迫った。堅牢な城壁を持つその城には、教会の旗が数多くたなびいている。
「想定通り、といったところですね」
シーヴァの左隣でリオネス公が楽しそうにそういう。彼の口元は笑っているが、しかし目が笑っていない。
ベルベッド城の城門は固く閉じられアルテンシア軍を拒んでいる。二枚扉の城門は木製だが、その後ろには鉄でできた格子の鎧戸も下ろされていることだろう。城壁の上には沢山の兵士たちの姿が見える。
しかし、城から出て城門の前に展開されている部隊はない。十字軍は全て城内にいるようだ。
アルテンシア軍が攻城兵器を持っていないことは、十字軍にしてみれば僥倖であったろう。単純にベルベッド城の防衛が楽になるだけではない。攻城兵器を破壊するための部隊を城の外に展開し、局地的とはいえ野戦を戦う必要がなくなったのだ。十字軍にしてみれば、これはありがたいことであったろう。
もっとも、それはアルテンシア軍にとって始めから想定していたことだ。
「それで陛下、すぐに仕掛けますか?」
リオネス公がシーヴァに問う。日は高く、ちょうど正午といった時間だろうか。まだまだ日の長い季節だから、日暮れまではだいぶ時間がある。
「ガーベラント公、兵たちの様子は?」
「急いだわけではありませんからな、余力は十分に残っているでしょう。あとは陛下次第、でしょうなあ」
試すように、そして面白がるようにガーベラント公はシーヴァを見た。シーヴァは視線を正面に戻し、ベルベッド城の城壁を鋭く観察する。それから彼は馬の腹を軽く蹴ると、ただ一騎で悠然と前へ進み出た。
迫ってきたアルテンシア軍が少し遠い位置で停止する。城壁の上からとはいえ、弓を射てもあそこまでは届かないだろう。そしてそこからただ一騎のみがベルベッド城に向かって歩を進めてくる様子を、城壁の上にいる十字軍の兵士たちは緊張して見ていた。
ゆっくりと近づいてくるその騎士は、黒で統一された鎧を身にまとっている。遠目だが、一般の騎士が装備している鎧と大差はないように見えた。ただ冑はかぶっておらず、無造作に伸ばした髪の毛が風にもてあそばれてなびいている。
そして何よりも目を引いたのは、その騎士が背中に背負っている大剣だ。鞘に納まっているため刀身は見えないが、アルテンシア軍の騎士で大剣を持っている人間となると、皆心当たりは一人しかいなかった。
「シーヴァ・オズワルド………」
誰かがポツリともらしたその呟きが、十字軍の中に広がっていく。シーヴァの名が囁かれると兵士たちの緊張はさらに高まり、彼らは落ち着かない様子で武器を握りなおしたり唇を湿らせたりした。
城壁の上で弓を構える兵士たちに、攻撃の指示はまだない。いかなシーヴァ・オズワルドとはいえ、ただ一騎のみでこのベルベッド城に攻撃を仕掛けるような無謀な真似はしないだろう、とその城にいる十字軍の誰もが思っていた。
「恐らくは何かしらの接触があるはず」
城門の真上、他の城壁と比べて一段高くなったところからシーヴァが進み出てくるのを見ていた総司令官たるラウスフェルドはそう思っていたし、他の十字軍の参謀たちも同じように考えていた。
彼らが予想していたのは、言葉による接触であったのだろう。戦いの前の宣誓かあるいは勧告か、そのようなものをシーヴァはするのでは、と彼らは考えていた。
両軍の大将同士が戦いに先立って言葉を交わす。そういう儀礼的な手順は、たとえば吟遊詩人が謳う物語の中ではよくある。
教会は形式美を重要視しているがその傾向は十字軍にもあるらしく、ラウスフェルドなどはまるで役者のように胸をそらして気取り、シーヴァの言葉を待っていた。彼にとってはそれが予定調和的に取るべき行動であり、常識的な対応であった。だからこそ敵の大将がただ一騎で前に出てくるという、因縁の怨敵を討ち取る絶好の機会であるにもかかわらず攻撃を命じていないのだ。
しかしシーヴァがした接触のしかたは、彼らが考えていたのよりもはるかに非友好的で、そして非常識だった。彼は背負った大剣を抜くと、その切っ先を空へと向けた。
その様子を、ラウスフェルドを始めとする十字軍の兵士たちは、半ば呆然としながら見つめていた。
「レヴァン、テイン………」
誰かがポツリと呟いた。しかし、あいにくとその認識は古い。シーヴァが今手にしている漆黒の大剣の名は「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」。魔道具職人オーヴァ・ベルセリウスが作り上げた、「|災いの一枝《レヴァンテイン》」を超える魔剣である。
漆黒の刀身に印字された黄金の文字が、陽光を浴びて輝いている。その文字が古代文字(エンシェントスペル)であることは見ている者全てが理解したが、あいにくとそれを読むことができた人間はいなかった。
――――万騎を凌ぐ。
そこにはそう記されていたのである。それを読むことはできなかったとはいえ、彼らはその意味を間もなく身をもって知ることになる。
漆黒の大剣を掲げたシーヴァは、一瞬だけ不敵に笑うとその魔剣に魔力を喰わせる。すると彼の周囲に風が巻き始め、さらに魔剣の周りに五つの黒い球体が表れて浮かんだ。十字軍が攻撃を仕掛けてくる様子は、まだない。
シーヴァが魔剣に魔力を込めるのを、ラウスフェルドはただ唖然としながら見つめていた。思い描いていた予定調和があっけなく崩れてしまった今、一時的とはいえ彼の思考は停止してしまっている。
今、シーヴァがしていることは見えている。彼が何をしようとしているのかも分る。だがその情報が行動へと繋がらない。シーヴァが放つ威圧感にのまれ、ラウスフェルドはただそこに立って見ていることしかできなかった。
シーヴァは「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を通して黒き魔弾へと魔力を注ぎ続ける。城壁の上から矢を射掛けられることも覚悟していたし、そうなったらなったで対処法も考えていたのだが、幸運なことに彼を邪魔するものは誰もいなかった。アルテンシア軍は言うに及ばず、十字軍にもなんら動きは見られない。まさにシーヴァの独壇場だ。
(楽ではあるが、興醒めでもあるな………)
内心でシーヴァはごちる。とはいえ激戦や手ごわい相手を求めるのは、彼のエゴだろう。シーヴァに心酔しているアルテンシア軍の兵士たちでさえ、楽に勝てるならそれが一番いいと思っているに違いない。もちろんシーヴァだって、王あるいは指揮官としてなら同じように考えている。
(それでも心のどこかで強敵を求めるのは、あるいは私の業かも知れぬ………)
ジルド・レイド。「|災いの一枝《レヴァンテイン》」を砕きシーヴァと互角に戦って見せた、あの男。心踊り魂が吼えた、あの仕合。この先ああいう戦いにめぐり合うことは、果たしてできるのだろうか。
それを望むのは、アルテンシア軍を率いるものとして間違っている。だがこのまま西進を続ければあるいは、とも思ってしまう。
(そのためにも、まずはこの城を落とす)
この遠征が順調に行き問題なく終わるのであれば、それは国王として非常に望ましいことである。しかし仮に強敵が立ち塞がるのでことがあれば、それはシーヴァ個人として嬉しいことだ。
つまりどちらに転んでも良い。そう結論付けると、シーヴァは改めてベルベッド城の城門と城壁に鋭い視線を向けた。黒き魔弾には、すでに十分な量の魔力を喰わせている。あとはこれを叩き込むだけである。
無造作に、シーヴァは漆黒の大剣を振り下ろした。それに呼応して、宙に浮かんでいた五つの黒き魔弾が一斉に打ち出される。
城門に一つ。そしてその左右に二つずつ。着弾した黒き魔弾は封じ込められていた黒き風を撒き散らして爆裂し、その威を存分に発揮した。
アルテンシア軍が攻城兵器を用意してこなかった理由がこれである。いや、彼らは攻城兵器をきちんと用意していた、といったほうがいいだろう。シーヴァ・オズワルドが操る魔道具「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」。それこそが、アルテンシア軍が用意した最強の攻城兵器だったのである。
その時、ベルベッド城の城壁はまるで巨大な地震に襲われたかのように激震した。激しい振動はそこに立っていた兵士たちを振り落とす。立っていられた兵士は一人もいなかった。
城門の上にいたラウスフェルドもまた、立っていることができずに倒れこんでしまった。振動が収まってから何とか立ち上がり、城壁の様子を見て彼は絶句する。
先ほどの一撃で城門が吹き飛ばされている。木製の二枚扉だけではない。その後ろにあった鉄製の鎧戸までもひしゃげてしまい、もはや敵軍の侵入を防ぐ能力を失っていた。万が一のことを考えて、城門の後ろに待機させていた部隊にも被害が出ているだろう。大きく口を開けた城門は、アルテンシア軍を招いているようにさえ見えた。
被害は城門だけではない。打ち込まれた魔弾によって城壁は左右に二箇所ずつ大きくえぐられた場所ができている。貫通にはまだ至っていないが、さらに何発も魔弾を打ち込まれれば、城壁自体が崩れてしまう。
ラウスフェルドは恐る恐る城壁からその向こう、シーヴァ・オズワルドのほうへ向ける。その視線の先で、シーヴァは再び黒き魔弾を宙に浮かべてそこに魔力を注いでいた。
「あ……、ああ………、あ、ああ、ああ………」
それを見たラウスフェルドは腰を抜かせて尻餅をつくと、そのまま目頭に涙を浮かべて後ずさった。そして大声でこう喚いた。
「こ、殺せ!!は、早くアイツを殺すんだ!!」
しかし彼の命令に従いシーヴァに矢を射掛ける兵士は一人もいなかった。皆、シーヴァの攻撃の、その理不尽な威力を前にして恐怖で身がすくんでいるのである。
そこに再び黒き魔弾が打ち込まれる。先ほどとは違い、一箇所に集中して打ち込まれた魔弾は、ついに城壁の一部を破壊し城砦内部への通り道をこじ開けたのだ。
それを見て頷いたシーヴァは、「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を振り上げそして振り下ろす。それを確認したガーベラント公は声を張り上げた。
「全軍突撃!!」
アルテンシア軍の兵士たちは鬨の声をあげてベルベッド城に突進していく。彼らの士気はすでに最高潮に達している。彼らを阻むはずだった城壁はシーヴァに破壊されてもはや用をなさない。
アルテンシア軍が動いたことを確認したシーヴァは、自身もまた「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」を構えてベルベッド城に向けて駆け出した。黒き風をまとい、十字軍の雑兵を文字通り撥ね飛ばしながら猛進する。さらにその後ろから、破壊された城門や城壁を通ってアルテンシア軍の兵士たちが次々に城内に侵入していく。
そこから先は、もう一方的な展開だった。
一度乱戦になってしまえば、アルテンシア軍の兵士のほうが圧倒的に強い。その上、士気が違った。士気が最高潮に達しているアルテンシア軍に対し、十字軍は城壁とともに戦う意思さえもシーヴァによって砕かれてしまったようだ。
一人、また一人と逃げ惑う十字軍の兵士たちが倒れていく。ゼゼトの巨兵たちは鉈をそのまま巨大化したかのような大剣を振り回して敵兵を真っ二つにしていく。一振りで三人の敵兵を吹き飛ばす者さえいた。返り血を浴びて不敵に笑うそれらの巨兵たちは、味方にとってはまことに心強く、敵にとっては脱糞するほどの恐怖であった。
そもそも十字軍はベルベッド城の堅牢な城壁を頼りにアルテンシア軍と戦うつもりだったのだ。攻撃を防いで防いで防ぎきり、敵が疲弊して撤退するのを待つという戦術だった。それなのに頼りの城壁があっけなく破壊されてしまった。勝利の大前提が崩れ去ってしまっては、戦うための意思を維持することさえ難しい。城壁が崩れた時、十字軍の勝利も一緒に崩れてしまったといえる。
結局、十字軍はそのまま本格的な壊走に移った。兵士たちは無秩序にバラバラの方向へと逃げ去っていく。その先頭に立って逃げていくのは、なんと総司令官たるラウスフェルドだ。まるで死人のように顔を青白くして逃げていく彼が感じているのは、屈辱でも怒りでもなく、ただ圧倒的で暴力的な恐怖だ。
「一秒でも早く、一歩でも遠く、あのシーヴァ・オズワルドから遠ざかりたい」
その原始的な願望が、ラウスフェルドの体を何とか動かしていた。震える膝は鐙(あぶみ)の上に彼の体を支えることができず、ラウスフェルドは馬の首にしがみ付いてベルベッド城から遠ざかっていくのであった。
*********************
「ベルベッド城において十字軍はアルテンシア軍と戦い、そして惨敗した」
その知らせは瞬く間に広がり、そして教会勢力の国々を激震させた。この敗北がそのまま教会勢力の敗北であるかのような、そんな気さえしていただろう。それほどまでに彼らはベルベッド城がアルテンシア軍を押しとどめ、そしてはね返すことを期待していたのである。
さらに詳細な報告が続く。
「ベルベッド城の城壁はシーヴァによって破壊された」
「十字軍の戦死者は少ない。しかし壊走した際にそのまま逃げてしまった兵士が多数いるため、現在戦力として数えることができるのは五万程度」
「対してアルテンシア軍の損傷は軽微と思われる」
「総司令官ラウスフェルドが遁走。十字軍は現在、総司令官が不在」
加えて兵糧と物資の不足が深刻だった。ベルベッド城での籠城は長期にわたることが予想されていたため、集められた兵糧や物資のほとんどはそこに運び入れられていた。しかし見込みは外れてベルベッド城はわずか半日足らずで陥落してしまった。十字軍の兵士たちは逃げることに精一杯で、そこにあった兵糧と物資のほとんどは持ち出すことも処分してしまうこともできなかった。結果としてそのほぼ全てがアルテンシア軍の手に落ちたことになる。
なによりも、「敗北した」という事実そのものが重大だった。
教会勢力はいわば「命運を賭けて」ベルベッド城での籠城戦を戦うつもりでいた。「人事を尽くした」と言えるほどに準備を整え、「後は天命を待つのみ」という心境でいたのである。
それなのにベルベッド城はあっけなく陥落してしまった。この敗北を「戦局の一面における敗北」と捉えることができず、アルテンシア軍と戦う意思そのものを挫かれてしまった国さえあるかもしれない。
話は意思や士気だけに留まらない。当初から十字軍は野戦では勝ち目が薄い、ということを認めていた。だからこそベルベッド城に籠城し、守戦に徹してアルテンシア軍が根負けして撤退するのを待つつもりだったのである。
しかしこの戦いで敗北したことで、籠城して守りを固めたとしてもアルテンシア軍には勝てない、ということが分ってしまった。
野戦では勝てず、さりとて籠城しても勝てない。それはつまり、十字軍はどうやってもアルテンシア軍には勝てないと宣告されたようなものである。
戦う意思は挫かれ、実際問題としてアルテンシア軍には勝てそうにもない。ならば早い段階で教会に見切りをつけ降伏したほうがいいのではないか。そうと考えるのはある意味当然の流れであった。
ここへ来て、シーヴァが教会勢力に打ち込んだ楔が効果を発しようとしている。
シーヴァは真っ先に降伏してきたシャトワールとブリュッゼをかなり好意的に扱った。そこにはもちろん打算や思惑が多量に混じっていたが、それでもその二カ国の扱いがきわめて良かったことに変わりはない。
もしもシーヴァがシャトワールとブリュッゼに対して極悪非道の限りを尽くしていたのであれば、教会勢力の各国も降伏することなど考えず最後まで抵抗の構えを見せるだろう。しかし戦うよりも失うものが少なくて済むのなら、降伏という選択肢は選びやすいものになる。
さらにアルテンシア軍はすぐそこまで来ているのだ。これまで教会勢力の足並みが図らずも揃っていた理由の一つは、
「造反した国が十字軍の標的にされるのではないか」
という恐れがあったためだ。しかし、今であれば十字軍のほうはアルテンシア軍を気にしているはずだから、造反したという理由で攻め込まれることは恐らくない。仮に攻め込まれたとしても、アルテンシア軍が援護してくれるだろう。
ただ、ベルベッド城の敗戦の後、各国がこぞってアルテンシア軍に降伏したかといえばそうではなかった。言うまでもないことだが、降伏した相手をどう扱うかはシーヴァ・オズワルドの一存で決まる。つまり好意的に扱ってもらえるかどうか。シャトワールとブリュッゼの例を見る限り可能性は高いだろうが保証は無い。二度十字軍遠征を行いさらに三度目の遠征を画策していた教会勢力に対して、シーヴァがいい感情を抱いていないということは容易に想像でき、なかなか踏ん切りがつかないというのが実際のところだった。
敵と味方。その両方を探りながら生き残りを模索する。教会勢力下にあった各国はそういう状況であった。
子分のそういう空気を感じ取って大いに焦っているのが教会である。これまで教会は各国に数多くいる信者たちと潤沢な資金を盾に、それらの子分に対して絶大な影響力を誇っていた。
「言うことを聞かなければ、信者たちが反乱を起こすぞ」
と、大げさに言えばそういう脅しをかけていたのである。
しかしその絶大な影響力も、最近ではすっかりと翳ってしまった。そして影響力の低下はそのまま教会勢力の団結力の低下に直結する。今の教会はどこが裏切るのか、あるいは裏切ろうとしているのか、とすっかり疑心暗鬼になってしまっている。疑われていると知れば、そのまま降伏になびく国も出てくるだろう。つまり教会は、楔によって生じたひび割れを、自らの手で大きくしているようなものだった。
一方シーヴァである。彼は教会勢力内部のゴタゴタに興味は無い。ベルベッド城という拠点とそこにあった大量の兵糧を手に入れたアルテンシア軍は、その三日後に東への進軍を再開した。
本来ならば、三日もベルベッド城に留まるつもりはなかった。そこに残されていた大量の物資の確認のために一日程度だけ留まるつもりだったのだが、その間にフーリギアの王都から降伏を伝える使者が来たのだ。
フーリギアはベルベッド城の攻防戦に強い関心を持っていた。その勝敗がそのまま国の命運を左右すると言っても過言ではないのだから当然だ。そこで斥候を出して攻防戦を監視させていたのだ。
ベルベッド城の攻防戦は半日もかからずにアルテンシア軍の勝利で終わった。十字軍の壊走とラウスフェルドの遁走を確認した斥候たちは、その結果をすぐさま王都にいるフーリギア王へと伝えた。
ベルベッド城の陥落と十字軍の敗走を知ったフーリギア王は、すでに夜半過ぎであったにもかかわらず全ての重臣を招集し緊急会議を開いた。朝日が昇るころまで続けられたその会議でアルテンシア軍に降伏することが決定され、すぐさまベルベッド城にいるシーヴァに対して使者が送られた。
フーリギア側の使者として選ばれたのはハウクエーゼン伯爵である。未明から夜明けにかけて行われた会議に出席し、そのまま使者として馬を飛ばしベルベッド城にやってきた彼の目元には大きな隈があったと言う。
停戦する旨をしたためたフーリギア王の親書を確認すると、シーヴァはハウクエーゼン伯と降伏条件についての大まかな条項について話し合った。シャトワールとブリュッゼと同じように主権と領土を安堵するという内容であり、ハウクエーゼン伯は大いに胸をなで下ろし、そのまま極度の疲労のため倒れこんでしまった。
ただ、「戦う前に降伏した国」と「戦いに負けてから降伏した国」を同じように扱うのは不公平ではないか、という意見も出された。ベルベッド城に籠城していた十字軍にはフーリギアも軍を派遣していたからだ。そこでアルテンシア軍の遠征費の一部負担、ということで折り合いがつけられた。国土の割譲や長期的な賠償が盛り込まれなかったのは、やはり破格と言っていい。
そして後の細かい調整と正式な調印をリオネス公に任せ、シーヴァはベルベッド城を発ったのである。二千の兵をベルベッド城に残し、残りの七万八千を率いての西進再開であった。
この時、シーヴァはブリュッゼにいるイルシスク公とゼーデンブルグ要塞にいるウェンディス公にそれぞれ使者を送り命令を伝えている。
イルシスク公に対しては、降伏の正式な調印後をリオネス公から引き継ぎ、シャトワール・ブリュッゼ両国と共にフーリギアの監督もするように命令を出した。
ウェンディス公に対しては、ゼーデンブルグ要塞にいる予備部隊の中からベルベッド城に詰める兵を送るように命令した。さらにリオネス公には予備部隊が到着し次第、城に残した二千の兵を率いて本隊に合流するよう命令してある。
ちなみにベルベッド城に入った兵たちの仕事は、城の防衛、物資の管理、そしてシーヴァが破壊した城壁の応急的修理、であった。
そしてついにシーヴァ・オズワルド率いるアルテンシア軍は、教会勢力の中枢とも言うべき神聖四国へと侵入したのである。
**********
「父上、お話があります!」
「………シルヴィアか、何のようだ?」
そう言いつつも、アヌベリアスには娘の考えることなど手に取るように分っている。そのせいか、彼の声は少し苦い。
「ベルベッド城が落ち、ラウスフェルド殿は遁走されたとか」
「………そうだ」
教えた覚えのないことをシルヴィアが知っていることに、アヌベリアスは小さく舌打ちした。ベルベッド城の陥落と十字軍の敗退についてはすでに広く知れ渡っている。事が事だけに伝わるのが早いのは分るが、それにしても早すぎる気がする。まるで誰かが意図的に広めているようにさえ思えた。
(いや、これは被害妄想か………)
意図的に情報を広めているとしたら、それはアルテンシア軍の仕業だろう。アルテンシア軍の諜報員が神聖四国内に紛れ込んでいるのは、ほぼ間違いないのだろう。しかし自分たちに都合の悪い事柄をすべて敵の仕業にして片付けてしまうのは、戦時にありがちな思考の停止であるようにアヌベリアスには思えた。
なんにしても統制が弱まっている、という事実は否定できない。つまりそれだけ教会勢力の力が弱まってきている、ということだ。一般の民衆にさえ広く知れ渡ったベルベッド城の陥落と十字軍の敗退の知らせは動揺と混乱を生じさせ、それは厭戦気分を高める結果となっている。
「アルジャークの方はどうなっていますか」
「交渉を継続中だ」
交渉とは言うまでもなく派兵の交渉のことだ。アルテンシア軍に対抗できそうなのはもはやアルジャーク軍しかない。逆を言えばアルジャーク軍を引っ張り出さない限り教会の滅亡はほぼ確実で、まさに命運をかけた交渉の真っ最中であった。
「つまり、今はまだアルジャーク軍は動かない、ということですね」
しかし交渉の進行状況は思わしくなく、未だアルジャーク軍の派兵は決まっていない。もともと教会や神聖四国は格上の立場から命令することにしか慣れておらず、同等かあるいはそれ以上の相手と交渉するのはほとんど初めてであると言っていい。そのため交渉役の人間は不慣れでまた稚拙であり、なかなか望むような合意が得られないのだ。
それでも、交渉の最初はまだ余裕があった。ベルベッド城がアルテンシア軍を防ぐと期待されていたからだ。戦況で優位に立てれば、あるいは優位に立てるという見込みがあれば、それはアルジャークとの交渉においても有利に働く。
しかしベルベッド城があっさりと陥落してしまったために事情が変わってしまった。この先、十字軍がアルテンシア軍に勝てる見込みはほとんどない。教会勢力が、いや教会と神聖四国が生き残るためには、なんとしてもアルジャーク軍に動いてもらわなければならなくなったのだ。今頃、交渉役を押し付けられたルシアス・カント枢機卿はなりふり構わず相手にすがり付いていることだろう。もっとも、そのせいで足元を見られているのかもしれないが。
それはともかくとして。アヌベリアスにしても交渉の進行状況になど興味は無い。重要なのはその成否だ。そしてアルジャーク軍を未だに引っ張り出せないということは、交渉は失敗続きである、と見ていい。
「ラウスフェルド殿の後任は決ったのでしょうか?」
「………まだだ」
シルヴィアは淡々と事実を確認していく。そしてそれはアヌベリアスにとって、少しずつ外堀を埋めていかれることに等しいものだった。
ベルベッド城から遁走したラウスフェルドは、もう|使い物にならない《・・・・・・・・》。シーヴァへの恐怖をトラウマとして刷り込まれてしまった彼は、自室から出てこないそうだ。
そのため、新たな総司令官を決めなければならない。新たな総司令官もやはり神聖四国の王族かその血筋にある者が望ましいが、なり手がいないのが現状だった。
理由はいろいろある。
まず、能力的になり手がいない。つまり戦術に通じ軍を指揮できる人材がそもそもあまりいないのである。とはいえ、総司令官に神聖四国の王族を求める最大の理由は、兵士たちの団結の象徴にするためなので、能力が足りていないのは決定的な理由にはならないだろう。
だから一番大きい理由は、十字軍にもはや勝ち目が無いことだろう。負けるのが決まっている、あるいは敗北が濃厚な軍の指揮など誰もやりたがらない。当然である。
さらに国内の混乱がある。教会勢力の国々では、第一次十字軍遠征以来負けが続いているためなのか、国家の権威が揺らぎ国内で混乱が見られるようになっていた。それは犯罪の増加であったり、不穏分子の活動が活発になったりと、いろいろな形で現れている。そしてそれは神聖四国においても同じであった。そのため国内の引き締めに信頼できる人材が必要になり、十字軍の必要にまで手が回らないのが現状だった。
「父上、ここはやはりわたくしが………」
「駄目だ。お前が戦場に立つ必要はない」
アヌベリアスは娘の言葉を遮った。シルヴィアは現在、国内での役職は持っていない。そして自ら望んで十字軍の総司令官になりたいという。彼女の指揮能力がどれほどのものか、それはまだ未知数でおそらくはたいしたことはないのだろうが、それは補佐する人間がいれば解決する問題でもある。
確かにシルヴィア・サンタ・シチリアナはラウスフェルドの後任としてそれなりに適した人物であろう。それはアヌベリアスも承知している。承知した上で、それでも彼は娘を敗北が濃厚な戦場になどやりたくは無かった。
戦場で戦うのは、男の仕事だ。今の時代、歴史を動かしそして作っているのは、ほとんどが男性である。国を興し、戦場で戦い、政を行う。その全てが、男性の主導で行われている。自分の才覚を存分に発揮する場が、男性には開かれているのだ。
それに対し、女性の個人的な人格や能力が必要とされることなど、ほとんど無い。彼女たちに求められているのは多くの場合、血筋や家柄、そして財産などだ。一個の人格としての尊厳が無視されていると言ってもいい。
「綺麗な人形。最高のトロフィー」
今の時代の女性、特に上流階級と呼ばれるな女性たちは究極的にはそういう風に見られているのではないか、とアヌベリアスは思う。
そしてだからこそ、女性が戦場に出て行く必要などないのだ。そこでしのぎを削り血を流して歴史の趨勢を奪い合っているのは、男たちである。望む未来を力ずくで手に入れようとしている以上、その結果が敗北であるのなら受け入れなければならない。それが己の才覚で歴史に名を残そうとする男の責任であり覚悟なのだ。
しかし女性にそのような責任と覚悟は求められていない。安穏とした箱庭に押し込められる代わりに、その箱庭の中で平穏を享受する権利が彼女たちには与えられているのである。
戦場に立つのは男の仕事、いや責任である。女であるシルヴィアがそれを肩代わりする必要ない。彼女には別の仕事があるのだから。
「それよりも、やはりお前はアルジャークに行け」
無論、人質として、そして将来的には皇帝クロノワの妃として、である。アヌベリアスはシルヴィアを送ることで、停滞しているアルジャークとの交渉にテコ入れをしようと考えたのだ。ベルベッド城を落とされて切羽詰っているこの状況なら、他の三国も「自分だけ助かるつもりではないのか」などと言いがかりを付けてくることもないだろう。
「私がアルジャークに赴いたとして、果たして間に合うでしょうか」
「どういう意味だ?」
「これはわたくしの勘ですが、おそらくシーヴァ・オズワルドは神聖四国内にかなりの数の諜報員を潜ませているはず」
これまでシーヴァは進軍の速度をかなり抑えていた。そのおかげで教会と神聖四国は今の今まで生きながらえてこられた、とも言える。また周辺の村や町の人々は十分な余裕を持って避難することが出来ている。
ただ、それがシーヴァの目的でないことは明らかだ。彼は遠征の難しさをよく知っており、兵士たちが常に余力を残せるようにしているのだ。
しかし、シルヴィアはそれだけが理由ではないと見ている。シーヴァはアルテンシア軍が十字軍を撃破し進軍していく様子を、教会勢力の国々に見せ付けているのだ。そうやって恐怖を煽るのと同時に降伏になびく時間を与え、教会勢力を分裂させようとしている、というのがシルヴィアの見立てだ。
しかしここでシルヴィアがアルジャークに行くことになれば、どうだろうか。サンタ・シチリアナ内にもアルテンシア軍の諜報員は潜り込んでいる。彼らはすぐにそれを察知してシーヴァに伝えるだろう。
このタイミングで神聖四国の姫がアルジャークに赴く理由など、一つしかない。すなわちアルジャーク軍への派兵要請。シルヴィアはそのための人質である。
シーヴァ・オズワルドであれば、その程度のことはすぐに見抜くであろう。そして見抜いた後、これまでどおり速度を抑えた遠征を続けてくれる保証は無い。
「アルジャーク軍が来る前にアナトテ山を落とす」
そう決断し、まるでアルテンシア同盟に対する革命初期のような疾風怒涛の勢いで進撃を開始するかもしれないのだ。そうなったとき、アルテンシア軍を止められる戦力は、もはや教会勢力には残されていない。
「しかしそれは全てお前の憶測であろう?」
アヌベリアスの言うとおりこれらはすべてシルヴィアの憶測であり、なんら確証のあるものではない。当る可能性もあれば、外れる可能性もある。その程度のものでしかないのだ。
シルヴィアの言うとおりサンタ・シチリアナにもアルテンシア軍の諜報員は紛れ込んでいるだろう。どの程度の諜報活動をしているのかは分らないが、それはアヌベリアスも感じ取っている。しかしだからと言って、彼らに気づかれずにシルヴィアをアルジャークに送る方法が無いわけではないのだ。
「しかし、それでも時間が足りるかは疑問です」
シルヴィアがアルジャークに行くまでの時間。そしてアルジャークが軍を組織し、その軍が極東から大陸中央部まで来るのにかかる時間。それだけの時間が果たして教会勢力に残されているだろうか。
父と娘の視線が擦れる。ため息をつき先に視線を外したのはアヌベリアスの方だった。
「なぜそうまでして戦場に出たがる?先ほども言った通り、お前が戦場に立つ必要はないのだ」
「必要はないかもしれません。ですが、理由はあります」
わたくしは祖国を愛しています、とシルヴィアは言った。
「女の身でありながら戦場に立つ理由は、それで十分ではありませんか」
もちろん打算や思惑は色々とある。しかし結局のところそれは想いを正当化するための理論武装に過ぎない。
「愛する祖国を守りたい」
それがシルヴィアの根っこにある想いである。
アルテンシア統一王国が一方的に悪であるとは思わない。二度も十字軍遠征を仕掛けさらには三度目を画策した教会勢力にも大きな非がある。しかしだからといって、それは祖国が蹂躙されるのを許す理由にはならない。ましてや自分だけがアルジャークに逃れるなど、言語道断である。
「わたくしはこのサンタ・シチリアナに育てられて、いえ、生かされてきました。ならばこの命、祖国を守るために使いとうございます」
「………アルジャークに行くことも、祖国を守ることに繋がるのだぞ?」
もはや無駄と知りつつ、アヌベリアスは説得を続けた。
「確かにその通りでしょう。ですが、自分の手で祖国を守りたいのです」
仮に祖国が滅ぶのならば、この身もまた共に。シルヴィアはそう言って自分の覚悟を述べた。
シルヴィアとて自分が戦場に立てばシーヴァに勝てる、などとは思っていない。恐らく、いや確実に負けるであろう。しかし勝てないことを前提にすれば、時間を稼ぐような戦い方はできるはずである。
ルシアス枢機卿がアルジャークの協力を取り付けるまで時間を稼ぐ。それがシルヴィアの目的だった。
「………まったく。今ほどお前が男であれば、と思ったことはないぞ」
椅子の背もたれに体を預け、苦笑を漏らしながらアヌベリアスはそういった。
「女の身なればこそできることもありましょう。たとえそれが戦場であっても」
「そう願いたいものだ」
そういってひとしきり苦笑すると、アヌベリアスは背もたれから体を起こして立ち上がり、国王としての顔をシルヴィアに向けた。部屋の雰囲気が一気に厳粛なものへと変わった。
「シルヴィアよ」
「はっ」
国王アヌベリアス・サンタ・シチリアナの呼びかけに、シルヴィアは片膝をついて臣下の礼を取り答えた。
「汝に命ずる。シチリアナ軍を率いて十字軍に合流し、アルテンシア軍の侵攻を防ぐのだ」
「御意」
「………シルヴィア」
頭を下げる娘にアヌベリアスは再び声を掛けた。その声は王ではなく父親としてのもので、それを聞き取ったシルヴィアも臣下の礼をといて立ち上がる。
「教会と神聖四国を頼む」
「はい。お任せください、父上」
こうしてまた歴史という舞台の上に役者が上がる。果たして彼女が演じるのは喜劇かそれとも悲劇か。