「もはやこれが最後の機会なのです!」
枢密院の議場で、ルシアス・カント枢機卿は髪を乱し目を血走らせてそう熱弁を振るったという。アルテンシア半島へ十字軍を送り込む、つまり第三次十字軍遠征を行う最後のチャンスである、とルシアスは声を張り上げる。
「改めて指摘されるまでもない」
その場にいた他の枢機卿たちはそう思ったであろう。仮に第三次十字軍遠征を行うとして、恐らくは今が実行可能な最後の時点であるということは、教会の事情に多少でも明るい者なら誰でも達しえる結論である。
少し余談になるが、第三次遠征を議題として枢密院に提出するという、いわばその遠征の口火を切る役回りをルシアスが演じたことについて少し考えてみたい。
ルシアス・カントは枢機卿となってからまだ日が浅い。グラシアス・ボルカ前枢機卿は第一次遠征失敗の責任を押し付けられる形で枢密院を去ったのだが、彼はその後釜として枢機卿の席につくことになったのである。
ルシアスはもともと「第二次遠征を行うべし」というのが持論の人物であったが、そんな彼が第一次遠征で大敗した後に枢機卿になれたのは、その遠征で利益を得たごく一部の人間の熱烈な支援があったからに他ならない。そんな彼の最初の大仕事が、第二次遠征の唱道であったのは至極当然のことであろう。
しかし十字軍はまたしてもシーヴァ・オズワルドによって敗北し、第二次遠征は失敗した。そしてその敗戦の責任を押し付けられるのは、大声でそれを唱道したルシアス・カント枢機卿、となるはずであった。
しかしルシアスが責任を取って枢密院を去るより早く、教会にとって重大な出来事が起こったのである。それが御霊送りの儀式である。
その儀式の準備のため、ルシアスはしばしの間敗戦の責任を問われることから逃れた。そして各国の要人が神殿の御前街に集まっているのを利用し、第三次十字軍遠征のための根回しを進めていたのである。
そして儀式が終わった後、最初の枢密院の会議でルシアスは第三次遠征を提唱する。彼にしてみれば、それは起死回生をかける一手であった。しかしいかにルシアスがそれを提唱してみたところで他の枢機卿たちが反対であれば、そもそも議題として取り上げられることすらない。
つまり、第三次遠征のための根回しに奔走していたのは、なにもルシアスだけではなかったのだ。テオヌジオ・ベツァイとカリュージス・ヴァーカリーを除く全ての枢機卿が、各国要人の説諭の奔走していたのである。むしろルシアスは敗戦の責任をうやむやにする代償として、彼らから口火を切る役を押し付けられたというべきであろう。
「御霊送りの儀式が執り行われれば、教会の権威は回復するでしょう。そして儀式が成功すれば、それは死後の安寧を保障するものとなります。死すれども神々の住まう園へとたどり着けるのであれば、兵士たちは喜んで殉教するでしょう。そうすればシーヴァ・オズワルドなど恐るるに足りません」
この時、彼らが各国の要人に説いた説諭をまとめれば、このようなものになる。この説諭が各国要人を動かした、と考えるのは少々甘いだろう。各国を第三次遠征に参加させた最大の要因は、教会勢力の結束力の乱れに起因する疑念である。
これまで十字軍の矛先は常にアルテンシア半島であった。腐敗と混乱の最中にあったその半島は、絶好の獲物であるように思えたからだ。しかし今やそこはシーヴァ・オズワルドという英雄によって統一され、一つの強大な国家となった。純軍事的に見て勝ち目の薄い相手であり、実際すでに二度も大敗を喫している。
「わざわざ手ごわい相手に喧嘩を吹っかける必要などないではないか」
そう考えるのは、むしろ当然のことであろう。しかしそうなれば第三次遠征の矛先はどこに向くのか。
「遠征に参加しない、教会に対して非協力的な国を標的とするのではないか」
決して口には出さないが、そんな疑念が各国に渦巻いていた。仮に十字軍の矛先が自国に向いてしまった場合、抗しえる国など一つとして存在しない。どの国も皆平等に国力を低下させており、たとえ神聖四国であろうとも一度踏み込まれれば簡単に国内の蹂躙を許してしまうだろう。そうなれば残されたなけなしの富と物資は全て奪い去られ、後に残るのは荒涼とした大地だけである。
積極的に参加したいわけではない。しかし、参加しなければ自国が危険に曝されるかも知れない。そう考えると、多くの国は消極的にとはいえ第三次遠征に参加せざるを得ないのである。
加えてアルテンシア統一王国に対する恐れがある。統一王国は二三七州の版図を誇る大国である。さらにその大国を率いているのは、英雄シーヴァ・オズワルドである。
もしもシーヴァが大陸中央部へと侵攻してきた場合、一国だけでこれに対抗できる国は存在せず、戦うならば十字軍を結成するしかない。しかしここで第三次遠征に参加しなければ、いざというときに十字軍に参加させてもらえず、あるいは結成してもらえず見殺しにされる可能性がある。
全ては可能性の話だ。しかし自分たちが思いつく以上、他の誰かが同じ事を考えていてもおかしくはない。第三次遠征に参加しなかったがために、十字軍にあるいはアルテンシア軍に狙われることはなんとしても避けなければならなかったのである。
消極的な打算により、各国の思惑は一致し三度目となる十字軍は結成された。次はその矛先を向ける場所を決めなければならない。
身内に造反者が出なかった以上、そこを目標に定めることはできない。となれば教会の影響力が弱い場所を標的にしなければならない。
東は駄目だ。東に向かって進めば、アルジャーク帝国に出くわすことになる。アルジャークまで敵に回すことになれば、教会は統一王国とあわせて東西の雄をまとめて相手にしなければならなくなる。そうなれば教会の命運は風前の灯だ。
それに東で戦っている最中に、西から統一王国が攻めてくるかもしれない。シーヴァが動かない理由は思い浮かばないが、動く理由ならばいやというほど思いつく。だが後方の備えをしておくだけの余力は、もはや教会勢力には残されていない。無防備な背中を襲われれば一巻の終わりである。
であれば背中は襲われる心配のない東に向けておかなければならない。そうなると矛の向く先は西になる。
もちろん、西方には統一王国以外の、教会と関係の薄い国はある。しかしそのような国を標的にした場合、標的にされた国はまず間違いなく統一王国に助けを求めるだろう。統一王国が出てくるのであれば、最初に攻撃を仕掛けた国の分、最終的な敵の戦力は増えることになる。
だが最初から統一王国だけを標的にしておけば、わざわざ十字軍とことを構えたがる国はないであろう。つまり統一王国だけを相手にするのが最も敵が少ない、ということになる。ちょうど良く因縁もあり、宣戦布告の正義には事欠かない。もっともその正義とやらは完全に教会の主観であり、統一王国にしてみればただの言いがかりかそれ以下のやっかみに過ぎないのだが。
こうして第三次遠征の行き先もまたアルテンシア半島に決定された。ただ、これまでの過程において、「果たして勝てるのか」という議論がなされたのかはなはだ疑問である。というよりなされなかった、というのが歴史家たちの一般的な見方だ。とある歴史家が、この時期の教会と各国について、著書の中で次のように記している。
「第三次遠征における教会の目的は、一言でいえば『行動を起こすこと』そのものだったように思える。権威を発揚し、教会はいまだに絶大な権勢と影響力を誇っているということを、大陸中に知らしめることが目的だったように思えるのだ。
逆の見方をすれば、知らしめなければならないほどに教会の権威は地に落ち、その影響力は弱まっていたということである。実際この時期に教会勢力下にあった各国の要人たちが日記などで吐露しているように、それらの国々が第三次遠征に参加したのは攻撃あるいは排斥の口実を教会に与えないためである。さらには教会といかにして手を切るかを模索している国さえもあった。
子供っぽい表現になるが、第三次遠征とは教会が目立ちたいがために始めたことであり、その勝敗は最初から度外視されていた。いや、勝てるという前提で、つまり自分にとって都合のよい結果になると夢想して教会は遠征に邁進していったのである。
ただその遠征に参加し、実際に兵を出す国々の反応は極めて消極的であった。アルテンシア半島へは二度十字軍が派遣され、そして二度大敗を喫している。今まで勝てなかった相手に、戦力がまるで回復していない十字軍が今回三度目の戦いを挑んで勝利を得られるというのは、はっきり言って夢物語の域を出ない。狂信的に旗を振る教会に比べそれらの国々は比較的冷静で、それゆえに悲劇的だった。勝てないと分りきっている戦いに、しかしそれでも兵を送り出さなければならないのだから」
思惑や熱意に多大な差はあれど、こして十字軍は三度目の結成に向けて動き始めた。しかし第三次十字軍遠征が開始され、この軍がアルテンシア半島に向けて進軍を開始することはなかった。
十字軍が動くよりも早く、アルテンシア統一王国が、シーヴァ・オズワルドが動いたのである。
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「もはや見るに堪えず」
居並ぶ群臣を前にして、シーヴァはそう切り出した。
教会が第三次遠征を行うことを決定し十字軍を集結し始めた、という情報はすでにシーヴァのもとにもたらされている。これは統一王国の大陸中央部における諜報能力が優れていたからではなく、教会が物事を秘密裏に運ぶ当ことをしなかった、もしくはできなかったからだ。
そのせいか、シーヴァは第三次遠征が決定されるまでの一連の流れをかなり詳細に把握していた。教会の思惑や各国のおかれた立場、そしてなぜ統一王国に矛先が向けられたのか。その全てを、把握していたといっていい。
――――見るに堪えない。
シーヴァのこの言葉は、一連の流れに対する彼の感想だ。自らの虚栄心を暴走させもはやまともな判断が出来ていない教会。その教会との関係を断つに断てず一緒に滅亡に巻き込まれていく各国。まともな政治感覚を持っているのかと疑いたくなる。
いや、教会とその勢力下にある国々がどうなろうともシーヴァの知ったことではない。むしろそれらの国々は二度にわたりアルテンシア半島に対して侵略を行った、怨敵とも言うべき相手である。彼らが内輪でもめて自滅していく分には、シーヴァとしても関わる気はなかった。
しかし、その余波とも言うべき第三次十字軍遠征の矛先が統一王国に向くというのであれば話は別である。
神殿の御前街や神聖四国などに潜ませた斥候からの情報によれば、遠征に参加する各国の士気は低い。加えてゼーデンブルグ要塞がある。第三次遠征軍をはね返し追い返すだけならば、何も問題はない。
しかし、もしも教会が第四次、第五次の遠征を計画したら?
むざむざと惨敗を喫するようなことは恐らくない。少なくともシーヴァ・オズワルドという英雄が健在なうちは。またこれらの遠征が短期間のうちに、つまり十字軍の戦力が回復する前に行われれば、統一王国の勝率はさらに上がると見ていい。
しかし、アルテンシア統一王国はまだ建国したばかりの若い国だ。軍を動かすというのは、それだけで大変に金がかかる。復興に力を注がなければならない統一王国は金が幾らあっても足りず、そんな中でたびたび遠征を仕掛けられては内政に十分な力を注ぐことができない。
まあ小難しい話は抜きにして、早い話シーヴァは教会の稚拙な陰謀に飽きたのである。この先ずっと教会からちょっかいをかけられるくらいならば、自分が健在なうちに叩き潰して後の憂いを断っておこうと考えたのだ。
「軍を催し、教会を討つ」
そうと決めたならばシーヴァの行動は速い。十字軍の集結には時間がかかっているようだが、わざわざそれが完了するのを待ってやる理由もない。シーヴァは全国に勅命を下し、統一王国の建国以来初めてとなる遠征軍を組織させた。
その数、およそ八万。これに加えて補給などを担う後方部隊やいざというときに援軍として駆けつける予備部隊などがいて、これら全てをあわせれば全体の規模は十二万程度といったところだろうか。そして遠征軍の目指すのは、教会の総本山であるアナトテ山である。
ただ、例えばアルジャーク帝国などが遠征のたびに実際に戦闘を行う部隊だけで十万以上の、時には二十万近い軍勢を動員していたことを考えると、今回の遠征軍は規模が小さい。しかし、現在の統一王国にとっては、これが精一杯の規模である。国としてまだまだ未熟な統一王国では、これ以上の規模を長期間にわたって維持することはできないと判断したのである。
第二次十字軍遠征の時にはアルテンシア軍は十五万の兵を動員したが、それはゼーデンブルグ要塞に籠って戦えたからであり、同じ規模の軍勢をアナトテ山まで連れて行くことは無理だった。それほどまでに遠征とは困難で金のかかるものなのだ。
だがその軍の兵士たちは素晴らしい。皆、二度にわたって十字軍と戦い、そして勝利を収めてきた精鋭たちである。さらに、総勢五千のゼゼトの民の戦士たちが遠征軍に加わっている。巨人といわれるほどの巨躯とそれにふさわしい怪力を誇る彼らは、遠征軍の中にあって間違いなく最強の戦士たちだ。
そして彼らを率いるのは、言うまでもなく建国の英雄シーヴァ・オズワルドである。彼の手には漆黒の大剣「|災いの一枝・改《ディス・レヴァンテイン》」が握られている。威風堂々と軍勢の前を進む彼に、アルテンシア軍の兵士たちは信仰にも似た信頼を持っている。
そしてそれはゼゼトの戦士たちも同じである。上に立つのがシーヴァだからこそ、未だに確執を抱える二つの集団が協力し合えるのである。余談になるが、アルテンシア半島を統一したのがシーヴァでなければ、ゼゼトの民と友好な関係は築けなかったか、あるいは築くのに百年以上の時間がかかっていたであろうとさえ言われている。まさに彼は歴史が求めた英雄だったのだ。
さらにアベリアヌ公、ガーベラント公、ウェンディス公、リオネス公、イルシスク公という革命の当初からシーヴァに協力していた五人の公爵も、それぞれの軍を遠征軍に加えている。実際には国内に残り内政や補給を監督する公爵もいるので、五人全員が遠征軍とともにアナトテ山を目指すわけではない。しかしアルテンシア統一王国がその総力を挙げてこの遠征を戦うつもりであることに、もはや疑問の余地はない。
「教会はこれまでに二度、この半島に略奪軍を差し向けてきた」
大陸暦1566年7月16日、ゼーデンブルグ要塞に集まった遠征軍を前に、シーヴァは出陣前の演説を行った。兵士たちの士気は高く、自分たちの正義を信じている。いい状態だ、とシーヴァは心の中で思った。自らが率いる軍に頼もしさを感じる。
「そして今また、教会は三度目の略奪を計画している。もはや教会が張り巡らす陰謀を黙って見ていることはできない!」
シーヴァが声を張り上げると兵士たちの中から、「そうだ!」とか「教会を許すな!」といった声が上がる。
「祖国を、そしてそこに秘められた希望と可能性を守るため、アルテンシア統一王国は教会とそれに組する国々全てに対して宣戦を布告する!」
シーヴァが高らかに宣言すると、兵士たちは割れんばかりの歓声をあげた。こして教会勢力とシーヴァの三度目の戦いは、攻守と戦場を入れ替えて行われることになったのである。
**********
「いやいや、まったくをもって予想外だよ」
楽しそうに、それでいて嬉しそうにイストは笑った。彼は自分の予想を超える出来事が起こったのが楽しくて嬉しくて仕方がないのだ。
教会が動くとは思っていたし、その動き方が第三次十字軍遠征だったのも予想通りだ。ただシーヴァが動くとは思わなかった。いや、第三次遠征の標的がまたしてもアルテンシア半島である以上、彼がそれにあわせて動くのは分っていたことだ。ただシーヴァが半島を出て、あまつさえアナトテ山を目指すなど思っても見なかった。
「それで、この先どうなると見る?」
「さっぱり分らん」
ジルドの問いに対して、イストはあっけらかんとそう答えた。シーヴァの遠征はあっさりと終わるような気もするし、逆に泥沼にはまり込むとしても不思議ではない。
「ま、一番焦ってるのは教会と神聖四国だろうけどな」
なにしろ歴史が大きく動くことを望み、その願望を予測に混ぜることをいとわないイストにとってさえ、今回の事態は想定外だったのである。攻めることしか考えていなかった教会と神聖四国は大慌てだろう。イストは笑っているが、彼らは悲鳴でも上げているに違いない。
「それにしても、シーヴァはどういう形で決着を付ける気なのだろうな?」
「あ、それはわたしも気になります」
ジルドとニーナの疑問は、教会が国家ではなく宗教組織であるが故のものだ。
例えば相手が国家であるならば、戦争を決着させる形というものには幾つかのパターンがある。それは賠償金や領地の割譲であったり、あるいは完全な併合や属国化という選択肢もあるだろう。人質を取ったり今後の不可侵を誓わせるという手もある。
では教会が相手であればどうだろうか。教会には割譲できる領土はないから、賠償金を請求することになるのだろう。または教会の非を認め、金輪際統一王国に手を出さないという誓約書にサインさせることもできる。
しかし、それでは教会という組織が残ることになる。シーヴァがどこまでやる気なのかは分らない。しかし彼に一度会ったことのあるイストとしては、シーヴァならば徹底的に叩き潰そうとするだろうな、と思っている。ジルドとニーナも、その意見には賛成していた。
「しっかし、教会を完全に叩き潰すとなると、パックスの街を落とす以外になにか方法なんてあるのか?」
教会の教義、信者を集めるための正当性は御霊送りの神話に依存している。パックスの街を落とすことでそれが全て嘘であったことを証明すれば、教会を叩き潰すことはできるだろう。
しかし、シーヴァがその選択肢を知っているとは思えない。たしかにシーヴァのもとにはオーヴァ・ベルセリウスという“|根源の摂理《オリジン・ロウ》”の一端に触れた人間がいる。しかし彼がその結果から逆算して、イストと同じように「空間構築論」にたどり着いているとは思えない。
なぜならば、イストは「空間構築論」にたどりつくためにロロイヤが「狭間の庵」に残した資料を片っ端からあさっている。しかしオーヴァはその資料を見ることができない。イストに比べれば、どうしても解析に時間がかかってしまう。
イストは、現時点においてオーヴァの解析はまだ終わっていない、と見ている。これは勘というよりも、同じ解析をした人間としての推測だ。彼自身ロロイヤの残した資料がなければ、いまだに頭を悩ませて唸っていた自信がある。オーヴァにしてもある程度の予測は立っているのかもしれないが、確証のないものにシーヴァが頼るとも思えない。
では、シーヴァはどうやって教会を叩き潰すのだろうか。いや、シーヴァが本当に教会を叩き潰すことを目的にしているのか、それさえも今ははっきりとしていない。だからこれはどうしても仮にの話になるのだが、シーヴァはどうやってそれを達成するつもりなのだろうか。
「見当もつかない」
イストは正直にそういった。これが国であれば話は簡単だ。政治の中枢を掌握し、国土を実効支配すればよい。法を変えて税を納めさせ、その代わりに国民を庇護すれば以前の政府にとって変わることは可能だ。いやそれ以前に、国を治める資格を持つ者(多くの場合、王族と呼ばれる者たち)を皆殺しにすれば、それだけで国を潰したことになる。
しかし、教会は何度も言うとおり宗教組織である。そもそも宗教組織はどうなれば潰されたことになるのだろうか。神殿を制圧し神子や枢機卿を殺害すれば、大きく力をそぐことはできるだろう。しかしその教えを信じる信者たちがいれば、それだけで教会という組織はまだ存続していることになるのではないだろうか。
実際問題として、宗教組織を人力で潰すことが可能なのか。無論、イストのように教会のアキレス腱を知っていれば可能だ。しかしそれを知らないシーヴァに可能なのか。最後の決め手を運に任せるかのような、そんな不確実な手でシーヴァが動くのだろうか。
「まあいい。この問題で悩むべきはシーヴァだ」
そういってイストは考えるのをやめた。煙管型禁煙用魔道具「無煙」を吹かして白い煙(水蒸気らしいが)を吐き出すと、彼は目を細めて表情を真剣なものにする。途端、彼の雰囲気が変わり、そばにいたジルドとニーは息を呑んだ。
「だけどまあ、このタイミングでシーヴァが動いたとなると、オレも流れをしっかりと見極めないとだな………」
いつパックスの街を落とすのがもっともインパクトがあるか。それを見誤るわけにはいかない。見誤ったが最後、一切合切を遠征のために利用され、おいしいところは全部シーヴァに持っていかれるだろう。そうなればイストはただの道化(ピエロ)だ。オーヴァは爆笑するだろうし、イストに道化(ピエロ)を演じる趣味はない。
歴史を創るだの、名前を残すだの、そんなことにイストの興味はない。しかし世紀の一大イベントを起こすのであれば、それに相応しい舞台を見誤りたくはない。十全にすべてを揃えてこそ、やりきったという達成感を味わえるのだ。
(それに………)
それに、パックスの街を落とすことは、当初イストが想定していたよりも大きな意味を持つことになるかもしれない。
シーヴァ率いるアルテンシア軍がアナトテ山の目前まで迫ってくれば、教会は必ずやアルジャーク帝国に、クロノワに援軍を求めるだろう。そして恐らく、クロノワはそれを断れない。
アルジャーク軍がアルテンシア軍に簡単に負けてしまうとは思わない。しかし、完全に退けることも難しいだろう。下手をすれば東西の雄がぶつかることで、戦況が泥沼化してしまうことも考えられる。
イストとしては、それで困ることは何もない。しかし海上交易の発展に力を注ぎたいクロノワは困るだろう。そしてクロノワが困るのであれば、イストとしてもそういう事態は避けたい。パックスの街を教会の権威もろとも地に叩き落すことが、あるいはそのための鍵になるかもしれないのだ。
ゆえにイストは見誤るわけにはいかない。自分が手にしたジョーカーを切るタイミングを。自分が楽しむため、そして友人が困らないようにするために。
(さあて、面白くなってきたねぇ………)
喉の奥を鳴らすようにしてイストは笑う。シーヴァが動いたことで難易度は格段に上がったといえる。しかしそれさえも面白いとイストは思っていた。ギリギリの緊張感。心臓の鼓動が大きくなるたびに頭が冴えていくかのような、あの感覚。
(さあ、どう動く?)
シーヴァ、クロノワ、教会、そして歴史。それらの流れがどうなるのか、イストは見守る。静かに、しかし隙の無い鋭い視線で。自分の一手で、自分が望む展開を得るために。
*******************
「父上!お話がございます!」
神聖四国の一国、サンタ・シチリアナの王城の一室の扉が勢い良く開けられた。その部屋はサンタ・シチリアナの国王アヌベリアス・サンタ・シチリアナの執務室である。彼はすぐには頭を上げずサインをして印を押した書類を侍従にわたし、少し冷めてしまった紅茶を一口飲んでから開け放たれた扉のほうに視線を向けた。そこにいたのは、思ったとおりの人物であった。
「シルヴィアか。何のようだ」
シルヴィア・サンタ・シチリアナ。アヌベリアスの長女で、今年で十七歳になる。王族や貴族の姫は十四・五で嫁ぐことも珍しくなく、十七ともなれば嫁いだ先で子供の一人や二人産んでいてもおかしくはない。行き遅れといわれるような年齢ではまだないが、そろそろ婚約を決めなければ、と父親のアヌベリアスは思っていた。
(いや、婚約はしていたのだがな………)
シルヴィアはもともと、王家とも遠い姻戚関係にある公爵家の嫡子との婚約していた。政治の世界にありがちな政略結婚であり、当人たちの意思や好みとはまったく関係のないところで決められた話であったが、二人ともそれほど忌避してはいなかった。小さいときから決められていたことで、そうなるのが当然と感じていたのだろう。
しかし、その婚約者殿が第一次十字軍遠征の時に戦死してしまった。当然、シルヴィアの婚約は解消になり、今年挙げるはずであった式は取りやめになってしまった。
「統一王国が、シーヴァ・オズワルドが軍を率いアナトテ山を目指していると言うのは本当でございますか」
ちっ、と舌打ちしたくなるのを眉間にシワを寄せることでアヌベリアスは堪えた。いずれ耳に入ることとはいえ、もう少し手を回し外堀を埋めてからにしたかった。
「………事実だ」
とはいえ嘘をつくわけにもいかない。苦い表情のままアヌベリアスはそう答えた。
「シャトワールとブリュッゼは戦わずして降伏したとか」
「………そこまで知っているのか」
シルヴィアの得ている情報は事実であった。半島の付け根辺りに位置し、アルテンシア統一王国と直接国境を接しているこの二カ国は、宣戦布告がなされアルテンシア軍が国土に足を踏み入れた直後に戦わずして降伏したのだ。
シャトワールとブリュッゼが降伏した第一の理由は、単純にアルテンシア軍と戦って勝てる見込みが無かったからだ。この二カ国は二度の十字軍遠征、特に第二次遠征のさいに物資を強制的に供出させられたことによる疲弊がひどく、とてもではないがシーヴァと正面切って戦うだけの戦力を集めるのは無理であった。戦えないのであれば、降伏するしかないではないか。
しかしシャトワールとブリュッゼが降伏した理由はそれだけではない。より大局的な理由として、彼らは教会と手を切りたかったのである。
第二次遠征のさいの物資の強制的な供出は、これらの国家とその国民の双方に教会に対する反感を抱かせた。その上、第三次遠征を行なおうというだ。その時にも金とモノをせびられるのは目に見えている。このままでは教会に食いつぶされてしまう、という危機感が国内に漂っていた。
それを避けるには教会と手を切らなければならない。しかし下手にその勢力下から逃れようとすれば、今度は自分たちが十字軍の餌食になってしまう。そうならないためには、教会勢力に匹敵するかそれ以上の庇護者が必要になる。
シャトワールとブリュッゼが選んだその庇護者こそ、アルテンシア統一王国でありシーヴァ・オズワルドであったのだ。
「異教徒に、しかも戦わずして降伏するとは何たることか!」
そういう非難の声は確かにあったが、実はそれほど大きくは無い。シャトワールとブリュッゼの信者たちは教会のせいで生活が厳しくなったことで、はっきりと反感を抱いている。それに彼ら自身、信仰まで捨てたという意識は無い。国も国民に対し、「アナトテ山にいて無茶な要求ばかりしてくる枢密院を見限ったのだ」と説明している。
シーヴァも信仰を捨てろとは要求せず、その分野に関しては口出ししなかった。つまり敵は教会の教義や信者たちではなく、その信者を戦いに向かわせる枢密院、あるいは神子であるという立場を明確にしたのだ。
この二カ国の選択は正しかったと言えるだろう。シーヴァは降伏したそれらの二カ国に対して領土と主権を安堵することを保障し、そのうえ友好国として遇することにしたのである。はっきり言って破格の対応でだ。
さて、今度は教会の側からこの二カ国の降伏について、少し考えてみたい。今回の件は、教会にしてみれば身内から造反者が出たということになる。つまりそれだけ教会の威光に陰りが生じ、勢力全体としても力が低下し結束が乱れてきているということだ。
しかし事態はそれだけに留まらない。シーヴァ率いるアルテンシア軍はさらに東へ東へと進んできている。そしてなにより、降伏したシャトワールとブリュッゼの扱いが破格であったことが問題だ。降伏しても失うものが無い、あるいは少ないというのであれば、シャトワールとブリュッゼに続く造反者が出ることは十分に考えられる。
降伏したその二カ国の内部から、その判断に対する非難があまり出なかった、と言う話はつい先ほどした。それに加えて、表向き教会よりの立場を取っている国々からも、そういう非難の声は多くは上がらなかった。それはまるで降伏するタイミングを見計らっているかのようにも見える。
つまり、教会勢力は楔を打ち込まれてしまったのだ。教会は、次は誰が造反するのかと疑心暗鬼に捕らわれている。そして疑われていると知れば、そのまま統一王国の側になびく国も出てくるだろう。打ち込まれた楔は確実に亀裂を生じさせ、教会勢力は分裂しようとしている。
「それで、我がサンタ・シチリアナはいかように動くおつもりですか?」
「知れたこと。十字軍に参加しアルテンシア軍と雌雄を決する」
アヌベリアスはそう言い切った。「聖(サンタ)」の名を冠する国家してそれ以外の選択肢などありえない。神聖四国の一国としてサンタ・シチリアナは最後まで教会の味方となり、その勢力の分裂を防ぐために尽力しなければならないのだ。
「父上………」
「ならん」
「………まだ何も言っておりませぬが」
「言わずともわかる」
父親にそういわれてしまったシルヴィアは、どこか拗ねたような顔をする。王族として教育された彼女は普段から大人びているが、そういう顔だけは歳相応だった。しかしその顔はすぐに消して、シルヴィアは両手を机につくと父親に迫る。
「でしたら話は早い。わたしをサンタ・シチリアナ軍の総司令官にしていただきたい」
サンタ・シチリアナの王女たるシルヴィアが十字軍に参加するということは、そのまま十字軍全体を率いることにも繋がる。しかし、アヌベリアスの答えは否定的だった。
「ならんと言った」
「ですが………!」
「それよりも、お前はアルジャークに行け」
シルヴィアの次の婚約相手としてアヌベリアスが考えているのは、最近急速に版図を拡大したアルジャーク帝国の皇帝クロノワ・アルジャークである。神殿の御前街で会談したストラトス大使にその旨を伝えたから、そちらから話は伝わっているだろう。またこちらからも正式な使者を立てたが、いまだ正式な婚約には至っていない。どうにも返事をはぐらかされている、というのが現状だ。
(流れを見極めたいのか、あるいは見限られたのか………)
どちらにしても、今はまだ動きたくないというのがアルジャークとクロノワの意思だろう。しかしサンタ・シチリアナとしては、いや教会勢力としては今動いてもらわなければ困るのだ。
そこでアルジャークを引っ張り出すためにアヌベリアスが考えた手が、娘のシルヴィアを送りつけることだ。
分りやすく言えば人質である。人質を差し出し、サンタ・シチリアナひいては教会勢力に対するアルジャークの影響力を保障することで、アルテンシア軍に対抗するための武力を貸してもらおうと言うのである。
サンタ・シチリアナの王女シルヴィアが人質にいくのだ。人質であったとしても、彼女ならばアルジャークも粗略には扱うまい。さらに正式な婚約はしていないとはいえ、彼女はクロノワの妃候補である。その彼女をアルジャークに送り込むことで他の候補たちを牽制し、婚約話を先に進めてしまおうというアヌベリアスの思惑もある。
将来的に正式にクロノワとの婚約がまとまり同盟関係が結ばれれば、人質を出したサンタ・シチリアナは、しかしアルジャークに“恭順”するのではなく“協力”して国を立て直して行くことができるだろう。
アヌベリアスとしては今回の戦争のみならず、その後のことも見越してこの策が最善であると判断した。しかしシルヴィアの意見はどうも違ったようだ。
「それは承服いたしかねます」
「なに………?」
アヌベリアスの眉が不快げにピクリと動く。父の視線をシルヴィアは真っ直ぐに受け止めた。
シルヴィアは自分の身可愛さに人質に行くことを拒むような姫ではない。王女としての自分に求められることならば、政略結婚だろうが人質だろうが全て受け入れよう。しかしそれは国のためになるならば、だ。
「我が国が単独でアルジャークに接近すれば、他の三国はこう思うでしょう。『サンタ・シチリアナは自分だけが助かるつもりなのではないか』と」
他の三国、とは無論サンタ・シチリアナ以外の神聖四国のことである。アルジャークと同盟を結ぶことでサンタ・シチリアナは今回のアルテンシア軍の侵攻に傍観を決め込むのではないか。自分が人質に行けば、他の三国がそういう疑念を持つとシルヴィアは指摘した。
アルテンシア軍の目的があくまでも教会である以上、アルジャークの後ろ盾がある状態で傍観を決め込めば、シーヴァとてそう簡単に手は出してこないだろう。しかもサンタ・シチリアナはアナトテ山よりも東に位置している。アルテンシア軍にしてみれば、神殿を落とすためにどうしても戦わなければならない相手、というわけでもない。
「そのような疑念をもたれれば、神聖四国は割れてしまいましょう」
そうなれば十字軍を結成できるかも危うい。シルヴィアはそういった。それだけならばまだ良い。疑念が排斥へとつながり、サンタ・シチリアナは裏切り者として十字軍の標的にされてしまうかもしれない。そして、そうなったときにアルジャークが助けてくれる可能性は、現状では低いと言わざるを得ない。
無論、アヌベリアスに教会を見捨てるような意思はない。教会の権威が失墜すれば、「聖(サンタ)」の名を冠していることで今まで得ていた特権的地位を失うことになる。それはアヌベリアスにとっても、望む未来ではなかった。
ちっ、とアヌベリアスは舌打ちを漏らした。これまで神聖四国は平等であった。平等であったがゆえに神聖四国という枠組みの中で共存して来られた、とも言える。しかし同時に平等であるがゆえに足並みが乱れたり、どこか一国が突出したりするのを嫌う傾向がある。今はそれが裏目に出ているようにアヌベリアスには思えた。
しかしシルヴィアが言うような神聖四国が割れてしまう事態は、なんとしても避けなければならない。それは教会勢力存続のためには必須の事項だ。
「………分った。お前をアルジャークにやるのはひとまず保留にしておこう」
アヌベリアスはそう判断を下した。そして、嬉しそうに微笑むシルヴィアが「では」と言うよりも前に、「だが」と言葉を続ける。
「それとお前が戦場に出ることは別問題だ。大人しくしておれ」
反論は許さぬ、と言う思いを込めてアヌベリアスはシルヴィアに視線を向ける。しかし彼女は臆することなくその視線に対峙した。
「十字軍が寄せ集めのままでは、アルテンシア軍には決して勝てませぬ。国軍という枠を超えて十字軍を一つにまとめるには、神聖四国の王族の誰かが先頭に立って導くほかありませぬ」
シルヴィアの言うことには確かに一理ある。神聖四国の王族から誰かが立てば、それは十字軍を一つにまとめるためのこの上ない象徴になるだろう。
「それは男の仕事だ、シルヴィアよ。それとも四国のうちに誰一人として男の王族がいないがために、女の身であるお前がやらねばならぬとでも言うのか」
「それは………」
シルヴィアは言葉に詰まった。これまでの歴史の中で女性が戦場に出た例は、無いわけではない。しかしそれはあくまでも例外で、多くの場合無視され先例とはみなされない。戦場に立つのは男の仕事。やはりそれが常識的な価値観だ。
団結のための象徴、と言う意味では女という性別はデメリットにはならない。甲冑を纏った姫というのは見栄えがするし、実務を取り仕切る人材が揃っていれば問題はない。
しかし十字軍となると、少々話が異なる。当然のことながら十字軍にはサンタ・シチリアナ以外からも軍が参加している。サンタ・シチリアナの将兵たちは、自国の王女であるシルヴィアを粗略に扱うことは無いだろう。しかしそれ以外の軍ではそうもいくまい。早い話が、女性であるがゆえに嘗められるのだ。何か目立った武功でもあれば違ってくるのだろうが、あいにくとそんなものはない。
シルヴィアは決して愚昧な姫君ではない。しかしだからこそ自分が十字軍をまとめることは恐らくできない、と分かってしまう。
「分ったならば大人しくしておれ」
「………承知しました」
不承不承といった感じで、ついにシルヴィアは折れた。その様子にアヌベリアスはそっと忍び笑いを漏らす。
「暇ならば、この機会に花嫁修業でもしたらどうだ?クロノワ殿は淑やかな女性が好みと聞くぞ」
無論これはアヌベリアスの冗談で、そのような話は聞いたことが無い。
「それでしたら心配はご無用」
「ほう?分厚い猫の皮はすでに用意してあるか」
「いえ。わたくし如きじゃじゃ馬を御しきれぬ方が、東方の覇者になれるはずもございませんので」
いけしゃあしゃあとシルヴィアは言った。あまりに堂々とした娘の言葉に、アヌベリアスも苦笑を漏らす。
「まったく、口の減らぬ娘だ」
**********
「………報告は以上です」
「ご苦労。下がれ」
報告を終えた部下が一礼して下がるのを見送ると、シーヴァは一人になった部屋の中で窓際に立ち、そこから見える城下町を眺めた。
アルテンシア統一王国建国以来初めてとなる遠征が始まり、シーヴァがゼーデンブルグ要塞を出立してから今日で十二日目。アルテンシア軍はブリュッゼの王都で三日ほどの足止めをくっていた。
とはいっても、何か問題が起きたわけではない。むしろ遠征としては幸先が良い。シャトワールとブリュッゼ。統一王国とも国境を接しているこの二カ国が、早々に降伏を申し入れてきたのである。
この二カ国が戦わずして降伏してきた理由や背景というものを、シーヴァは正確に見抜いている。それを踏まえたうえで、彼はこの二カ国を統一王国の友好国として遇し、将来的には同盟を結ぶことも考えていた。
これは、はっきりと破格の扱いであると言える。思惑や理由はどうあれ、シャトワールとブリュッゼは二度の十字軍遠征に協力している。つまり統一王国にしてみれば、因縁の怨敵ともいえる。普通そのような相手が降伏してくれば、屈辱的な要求をしたくなるものだが、シーヴァはそれを全て腹の中に収め表には出さなかった。
無論、シーヴァにとて思惑はある。先例を作っておくことで、これから戦う敵が降伏しやすい環境を整えておく。この遠征において、それは大きな意味を持ってくるだろう。ともすれば教会勢力を分裂させることも可能かもしれない。
だがしかし、シーヴァは遥か先をも見据えている。アルテンシア半島が十字軍に狙われたのは、そこが混乱していたこともあるが、それ以前の問題としてそこが大陸中央部とは異なる宗教や文化を持っていたためだ。人間は自分のとは異なる価値観を排除することを躊躇わない。しかもその際には、普通では考えられない蛮行さえも正当化されてしまうのだ。
だからこそシーヴァはシャトワールとブリュッゼを完全に併合するのではなく、主権を保障し友好国として扱ったのだ。似ているとはいえ微妙に異なる文化を持つ国を無理に従わせようとすれば、必ずや軋轢を生む。それは将来、必ずや戦乱を巻き起こす火種となるだろう。
それに加え、シーヴァは半島の入り口を友好国で固めておきたいと考えたのだ。それらの友好国を間に置くことで、大陸との接触を緩やかに行おうと考えたのだ。それに半島の入り口に統一王国の友好国があれば、シーヴァが半島から出てまで版図の拡大を目指してはいない、ということを各国に伝えることもできる。
「まあ、そう全てが上手くいくことなどないだろうが………」
問題が起こらず全てが上手くいく、と夢想できるほどシーヴァは子供ではない。問題は必ず起こる。それを一つ一つ片付けていくことで、国同士の関係は成熟していくものなのだろう。
「先のことをこれ以上考えても仕方があるまい。今は遠征のことだ」
そう呟き、シーヴァは頭を切り替える。友好国として遇することを決めたとはいえ、降伏したばかりのシャトワールとブリュッゼを放任しておくわけにもいかない。補給線が通る以上、少なくともこの遠征の間中は監視役の人間を置いておく必要がある。そこでシーヴァが選んだ人物が、五公爵の一人でもあるイルシスク公であった。
(これで遠征軍についてこられるのは二人だけか。少ないがまあ、仕方がない)
最年長であるアベリアヌ公は王都ガルネシアでシーヴァの代わりに内政を取り仕切っている。ゼーデンブルグ要塞で補給や予備部隊といった、後方部隊の全てを預かっているのはウェンディス公である。ここでイルシスク公が抜ければ、シーヴァと共に行けるのはガーベラント公とリオネス公の二人だけである。
言うまでもないことだが、アルテンシア統一王国の歴史は浅い。そのせいか人材不足が否めない。シーヴァはもともとアルテンシア同盟の将軍だったから、武官についてはそれなりの数と質を維持することができている。しかしその反面文官が不足しており、今回のように内外を問わず国単位の物事を監督できる人材となると、五公爵ぐらいしかいないのが現状だ。そこがシーヴァの数少ない弱点と言えるかもしれない。
「人材も育てねばならぬな………」
復興とその先の発展へと進むにつれ、仕事と問題は山ほど出てくるだろう。それを遅滞なく片付けていくためには、どうしても人材を集めてさらに育てることが必要だ。どれだけ有能で力があろうとも、一人の人間にできることなど限られている。
「そのためにも………」
そのためにもこの遠征に長々と時間をかけて、労力と資金を無駄遣いするわけにはいかない。短期間のうちに「教会を無力化する」という目的を達成しなければならない。
しかし、どうやって教会を無力化するのか。
「神子をアルテンシア半島へと連れて帰る」
それがシーヴァの出した結論であった。
ようは、神子と教会を切り離そうと言うのである。神子がいなくなれば、教会は信仰の対象としてその正当性を失う。そうなれば信者たちは教会から離れていくだろう。
偽者の神子を仕立て上げることは出来ない。なぜなら、「世界樹の種」がはめ込まれた腕輪が無ければ、御霊送りの儀式を行うことが出来ないからだ。そのような“神子”を信者たちは神子とは認めないだろう。
「神子を奪還すべし」
と言う声が上がり、そのために十字軍が結成されるかもしれないが、そこに軍を出す各国が疲弊している現在であればさほどの脅威にはなるまい。さりとて戦力が回復するまで待っていては、教会の権威はその間に失墜してしまう。
それにアルテンシア半島がまずいのであれば、これまで教会の勢力下にあり、宗教や文化が同じであるシャトワールかブリュッゼに置いておくという選択肢もある。そもそもシーヴァに宗教を弾圧しようという気は無い。統一王国に敵対的な教会が、信者全体に対する影響力を失えばそれでいいのである。
無論、これは今現在シーヴァが思い描いている、遠征の終着点の一つに過ぎない。最も良いと思ってはいるが、かといってこれに固執する必要もない。重要なのは、アルテンシア半島が再び狙われるような憂いを後に残さないことである。
「それが最も難しい」
まったく、ただ敵を叩き潰すだけでよいのならどんなにか楽だろう。そう思いシーヴァはそっと苦笑を漏らした。