リズ・クライス・フラムベインは不意に文字を書く手を止めた。
夜も更け、自分の部屋には誰もいない。机に広げた日記には今日あった事、学んだ事、やるべき事を書き込んでいる。いわば、この日記はリズの歩む道だ。
その中の一つ。今日、出会った面白い男を思い出しながら、リズは日記を引き出しの隠し場所にしまう。
考え事ついでに森を散歩していると、その男は変な服装で武具も持たずにコリストと対峙していた。侵入者か、と息を潜めて見ていたが、どうやら本当に襲われていたらしい。
よくよく見ればクジュウの民らしく、髪と瞳は黒かった。クジュウの民はフラムベインではとても珍しい。
しかし、リズが彼を面白い、と思うのは、決して彼がクジュウの民だからでは無い。
彼は殴ったのだ。獣の太い腕が、今まさに命を刈らんとするその瞬間。絶望的な体重差や腕力の違いを無視して、あがき続けたのだ。
それは誰にでも出来る事ではない。少なくともリズは、死ぬ寸前になっても瞳に光を宿し続ける人間を初めて見た。
もしかしたら、本当に一般人かもしれない。だが、あの容姿と心の在りようは、自分のこれからに必要だ。
固まった背筋を伸ばし、ベッドに向かう。脱いだ服が軽やかな音を立てて床で重なる。リズは下着姿になってシーツにくるまった。
国とは何か。そして、自分がやらなければいけないこと。
早速、彼には明日から働いて貰おう。
リズは広いベッドで、小さく丸まって眠った。
このフラムベイン帝国の首都アリスナは、首都の名に恥じない豊かさを誇っている。
貴族はこの地の西部に本家を置く事が一種のステータスであるし、南部にはフラムベイン帝国で二番目の規模を誇る歓楽街。東部には大陸最大の商会、ミスラム商会の本部が置かれ、それに伴うように商人が店を出す。
当然、全ての人間が裕福な訳では無い。貴族などの富裕層とは別に、普通の住民も大勢いる。
リズの住む皇居がある中央部から北に歩くと見えてくる、雑多な人ごみと人の熱。
英二はそんな人々の活力に圧倒されながら、隣を歩くラミに話しかけた。
「す、凄い人だな。いつもこんななのか?」
「そうですよっ。ここは首都の中で一番人の多い、居住区ですから」
使用人用の制服ではなく、私服を着たラミが楽しそうに頷く。
大通りには露天商が並び、そこかしこで笑い声が響く。店の名前は読めないが、中を覗けば昼間から陽気に酒を飲む人。
行く人行く人が英二の顔を見ていくが、もう慣れた。それほどクジュウの民とやらは珍しいのだろう。
でも、とラミは指を立てる。
「今日は休日なので、どちらかといえば多い方ですかね」
「そう、休日だから私もついてきているんだ」
「……リズ、おまえ偉い人なのに大丈夫なのか?」
問題無い、とリズは落ち着き無く周りを見渡しながら答える。最初見た高貴な服ではなく、安っぽい男物の服だ。
長い髪は変わらず高い場所で結われ、癖の無い前髪の下には黒い瞳が輝いている。
そう、紅ではなく黒い瞳が。
「不思議なもんだよなぁ……」
「簡単なものだよ。まあ、確かに使える人は珍しいけどね『魔術』は」
こともなげに言うリズの瞳はやはり黒。紅い瞳は皇族の証らしく、そのままでは流石に街を歩けないらしい。英二は出立前に変化するその瞬間を見せられても、まだ信じられなかった。
魔術。漫画とか映画とかフィクションの中の想像の産物。つい最近まではそうだったはずだ。
喜びとかそういう感情より、とんでもない世界に来たもんだ、と諦めの感想が先に出る。
そうこうしていると、リズがふらふらと輪から外れて行く。どこに行くんだ、とラミと一緒についていくと、美味そうな匂いの漂う出店の前にリズは止まった。
「おじさん、これ五つ下さい」
出店で何かを焼いていた中年の男性は、弾けるような笑顔を浮かべ、ねーちゃん美人だから、とおまけに一つ多く商品を差し出す。
ありがとう、と礼を言って勘定を済ませ、リズは振り返って両手いっぱいのそれを英二達に見せた。
「これ、美味いぞ。二人とも一つどうだい?」
「一つどうだって、六個もあるぞ。俺はそこまで大食漢じゃないし……」
「いらないのかい? エイジはもったいないことをするな。ほらラミ、一つ取って」
「ありがとうございますっ。これ、ナルバ焼きですよね? 私も好きなんですよ!」
ラミはそのナルバ焼きとやらの包装紙を剥がす。中には出来立てらしいパンと、カリカリに焼けた肉厚のベーコン、そして一切れの野菜。
そういえばこっちに来てからまともなものは何も食べていない。食べたのは昨日のシアとのお茶会での菓子くらいで、夜は気付いたら寝てしまっていた。
急にお腹が空腹を主張し始める。昨日のクッキーみたいな菓子を食べた限り、こっちの食べ物も基本的に元の世界と大差ない筈だ。
ラミがナルバ焼きにかぶりつく。小さな口がパンと肉と野菜を同時に持っていく。軽く溢れた肉汁がラミの手を汚す。それに気付いたラミが、口の中のナルバ焼きを喉を鳴らして飲み込んで、細い指の間に付着した液体を舐め取った。
扇情的ともとれるその光景でも、英二の意識は形を変えたナルバ焼きだ。ナルバが何かは知らないが、めちゃくちゃ美味そうに見える。
「……あの、リズ、いや、リズさん。俺にも一つくれません?」
「敬語禁止」
「うっ。……お願いだから一つくれ。凄い美味そうだ……」
ジト目から笑顔に変えて、リズは腕の中のナルバ焼きを英二に差し出す。奢られる、という事実に少し腰が引けるが、欲求には勝てずに英二はナルバ焼きを一つ取った。
包装紙を剥がし、かぶりつく。確かな歯ごたえと、シンプルが故の直球で訴えかける肉とタレの味。
「美味いだろ?」
リズの言葉に視線だけで肯定を返して、英二は食べ続ける。
「よし。そろそろ私も食べようかな」
英二は夢中でナルバ焼きを貪る。ラミもお腹が空いていたのか、ぱくぱくと食べる。
そして包装紙の底に残っていた肉片まで食べ、英二は吐息と共に声を漏らした。
「はぁ、美味かった」
「うん、美味しかったです」
ラミも満足そうに包装紙を丸めている。
若干の喉の渇きを覚えながら、英二はリズに視線を向けた。
「リズ、ご馳走様」
「いや、気にしなくていいよ。ラミ、あそこで飲み物を買ってきてくれないかい?」
そう言ってリズが袋からお金を渡すと、ラミは素直に買いに行く。その姿は主人と使用人というより、仲の良い友達に見えた。
しかし、英二は違和感を覚える。何かが変だ。
少し考えて、英二はその正体に辿りついた。
「なあ、リズ。残り四つのナルバ焼きはどこに行ったんだ?」
「ん? 変なことを言うね。食べ物なんだから、食べたに決まってるじゃないか。さ、腹ごしらえもしたし、そろそろ目的地に向かおうか」
「あ、ああ……」
帰ってきたラミから飲み物を受け取るリズの両手は、綺麗さっぱりなにも無い。汚れすらついていない。
さ、行こうか、と先導するリズの背中にそれ以上何も言えず、英二は受け取った飲み物を一口飲んだ。果実の甘い後味。
「こ、これも美味いけど……なんだかなぁ」
魔術もリズもこの世界は不思議だらけだ、と英二は独り言を零した。
「私の分は適当に、上品というよりは……そうだね、少し派手な方が良い。うん。……ああ、エイジ、ちょっと来てくれ」
裏路地の奥の看板も出ていない店。リズに連れられて入ったそこには、所狭しと布が置かれている。
この店の店主らしい、恰幅の良い女性と話していたリズに呼ばれ、英二は手に持っていた紫色の布を棚に戻した。
「結局、俺は何をすれば良いんだ?」
「とりあえず今は、そこに立つこと」
言われるがままに立ち止まると、恰幅の良い女性に採寸される。あらかた採り終えると、女性は店の奥に入っていった。
「なあ、いい加減教えてくれたって良いだろ?」
「焦らない。物が出たら話すよ」
それだけ言ってリズは黙る。大丈夫かよ、と思いながら英二は腕を組んだ。
程なくして、女性は両手に服を携えて戻ってきた。暖色系の薄いドレスと、ゴテゴテとした軍服らしき一式。
リズはその暖色のドレスを受け取り、目の前で広げた。
「うん、こんな感じだ。やっぱり君は優秀だよ」
もったいないお言葉です、と女性は一礼した後、英二に軍服を渡す。しっかりとした生地。現代の洋服とは違い、ずしりとした重量感がある。
「リズ、物っていうのはこれか?」
「ああ、そろそろ説明をしておこう」
こういう状況には慣れているのだろう。女性は何も言わずに店の奥に入っていく。
リズはドレスを英二に見せながら、人差し指を立てた。
「今から行うのは、言わば潜入捜査だ」
潜入捜査、という言葉だけなら英二にも分かる。英二は黙って頷いた。
「これから私たちはこの服に着替えてある場所に行く。なに、今回は危険は少ない筈さ。それに、もしもの時は私が守るよ」
危険が少ない、と言うなら文句は無い。小心者な思考だが、身を守る手段の無い英二にとっては大事なことだ。
「それにはラミも行くのか?」
名前を呼ばれて、今までリズの後ろで黙って控えていたラミが首を横に振る。
「いいえ、私はお供出来ません」
「これは私と君でしか出来ない事だからね。ラミはこの後、城に戻って仕事がある」
気にかけて貰って嬉しいのか、ラミは視線で礼を言ってくる。そこまで深い意味は無かったのだが、英二は片手を上げて返しておいた。
二人のやり取りに気付いたリズが、どこか怪しい笑みを浮かべる。
「なんだなんだ。いつの間に二人は仲良くなったんだい? 妹のシアといい、エイジは女性を誑かすのが上手いね」
「そ、そんなんじゃありませんよっ」
慌てたラミが敏感に反応する。無論、英二にもそんな気は毛頭無い。
片側に緩く括った亜麻色の髪が、ラミの動きに合わせて横に揺れる。英二はラミ・モルドナーに、女の子らしい女の子という印象以上を持っていない。
布ばかりの空間を包んでいたさっきまでの緊張感が、どこかへ消えていく。きちんと説明の続きはしてくれるのだろうか。
まあ時間はあるんだろう、と英二は仲良くじゃれあう主人と使用人をよそに、手の中の見慣れない軍服を興味深げに眺めた。
「…………本当に大丈夫なんだろうな?」
「大丈夫。私に抜かりは無い」
英二は不安げに目の前の建物を見た。
読めない文字で書かれた看板。リズが言うには『ミスラム商会』と書かれているらしい。
ミスラム商会はこの国最大の、商人のための組織だ。他の街からの入ってくる品物の管理。商人同士の取り決めや、取引の仲介。他にも様々な場面でミスラム商会は動く。 それだけ聞けば良いことばかりだが、働くのは人間。やはり賄賂や密輸等の裏の側面はある。
だが、それでもやはり自治体としての機能や抑止力は大きい。世の中は綺麗事だけで回る筈がないのだ。
しかし、リズの耳にある情報が入る。このミスラム商会で今度大規模な密輸があるらしい。そしてその品物は――
「奴隷、か」
英二はテレビで聞き慣れた、これまでの人生で全く関わりのなかった言葉を呟いた。
奴隷。人を物として扱う行為。日本で育った英二にはあまり良い響きでは無い。
リズとラミが落ち着いた後、説明はちゃんと続けてくれた。正直、そんな危なそうな事には関わりたくなかったが、やると言ったのは自分だ。それに危険は少ないと言っていた。そう自分を納得させる。
よし、と迷いを振り切って、英二はミスラム商会に向かって進もうとする。
「エイジ、こっちに行こう」
リズは英二の手を引っ張り、隣の店に入った。
存外に強い力で引かれ、英二は抵抗出来ない。
「ちょっ、なんだよ」
「まあまあ。とりあえずご飯を食べよう。ナルバ焼きから結構時間がたってるし、お腹が空いてしまった」
有無を言わさずに席に着くリズ。
さっきまでいた北部の居住区の店の多くは、軽食や大衆食堂だった。このミスラム商会のある東部は北部と違い、高級な店や大規模な店舗が多い。分かりやすく言えば、北部は庶民的、東部はお高い店が多いのだ。
しかし、この店は東部にしては雑多な印象を受ける。英二が軽く見た他の店とは違い、入っている人間はうるさいくらいの声量で話し、店自体もこじんまりとした質素な風体だ。
英二は少し迷ってリズの対面に座る。
「そんな呑気でいいのか?」
「うん。時間はまだあるから大丈夫だよ」
リズは黒い目を細めて笑った。
男装ではない、ゆったりとした淡い暖色のドレス。長い金髪は美しく編まれ、大人っぽい色気を演出する。
化粧も年齢を上げて見せる妖艶な仕上げ。おかげで今のリズは実年齢より五つほど高く見える。黒い目は魔術でそう見せているだけだ。
品物を頼み始めたマイペースなリズを横目に、英二は頬杖をついた。
この世界には魔術がある。リズは目の前で実演してくれた時には思わなかったが、少し時間が経った今、その魔術とやらに興味が出てきた。
一体魔術とは、どんな事が出来るのだろう。リズに聞こうとするが、英二は思い直して止める。
魔術を使える人間は少ないらしい。人の多いこの場所で聞けば、リズの正体が周りにバレるかもしれない。これは潜入捜査。下手なことは止めておくべきだ。
英二がそんな心配をしている間に、リズは手早く店員に注文を頼んでいた。
「文字は読めないんだろう? とりあえず適当に注文しておいたよ。ここの料理は絶品なんだ」
文字が読めない。文化も分からない。リズにはある程度、自分の事情を話してある。勿論、異世界云々は伏せて、世間のことが全く分からない田舎から来た、と嘘をついて。
食べる事が好きなのかリズは無邪気に笑う。ちくり、と自分の嘘が胸を刺す。
ありがとう、と誤魔化すように英二は礼を言った。
確かに食事は美味かった。名前も知らない肉のステーキは分厚く、肉汁とタレが絡み合って濃厚だったし、デザートの果実は味だけでなく見栄えも良かった。
「それにしたって、食い過ぎだろ」
初めて食べたライチのような果実の皮を皿に投げて、英二は目の前の惨状を眺める。
大きな皿から小さな皿まで、多種多様にテーブルを埋め尽くす。あの細いお腹のどこにそんな量が入ったのだろう。
最後の一皿を上品かつ迅速に食べていたリズは、綺麗になった皿を満足げに置いた。
「こんな食べ方はめったに出来ないからね。本当は家でもこのくらい食べたいんだけど」
北部で食べたナルバ焼きが消えた理由。今になって英二は納得がいく。
尋常じゃない早食いと大食い。流石に少し苦しいのか、僅かに膨らんだお腹をさするリズ。
英二はドレスを指差した。
「もしかして、自分だけゆったりした服を着てきたのはこのためか? 食べ過ぎの腹を隠すためだけに」
「君だって、お腹が大きな婦人を連れて歩くのは嫌だろう?」
返しづらい問いに英二は言葉に詰まる。
リズは気にした風も無く続ける。
「大丈夫。君の服も似合ってるよ」
「…………それはどうも」
この国のきっちりとした、隙の無い軍服。話によればリズの私物らしい。リズと英二の身長はほとんど変わらないため、サイズはぴったりだ。あの裏路地の家は、リズがお忍びで街に出るときの隠れ家だったらしい。あの女性も元は皇族ご用達の仕立て屋だったそうだ。
英二は、窮屈そうに首元のボタンを外した。
「俺ももうちょっと、そういう余裕のある服が良かったな」
「軍服がだらしなかったら問題だよ」
「そうだけど、首周りが特にきつ……」
途中で英二は固まる。視線はリズの胸元。
大きく開いたそこには、暴力的な膨らみ。多分、片手では収まらない。しかしそれでもこの手に収めたい、と思わせるような形の良さは、服の上からでも明らかだ。
ああ、とリズはすまなさそうに言った。
「ドレスっていうのは、多かれ少なかれ男性の視線を集めるためにある。ここが強調されるのは仕様だよ」
「いや、その……ゴメンナサイ」
意外なほど大きな胸。男装の時は分からなかったが、かなり大きい。
罪悪感でなんとなくテーブル上を片付け始めた英二に、リズは今までとは違う声色で話しかけた。
「ここから先は分かってるね?」
最後の皿を重ねて、英二は落ち着いて返した。
「分かってるさ」
英二は頭を切り替える。ここから先はゲームや漫画みたいな遊びじゃない。気を引き締めろ。
そんな英二の様子を見て、リズは一つ頷いて立ち上がった。
そして、英二の手を取る。今度は店に入った時のように強引にでは無く、まるで恋人にでも接する甘さを含めて。
「じゃあ、ここは私が払うよ。エ・イ・ジ」
英二は頬が引きつるのを必死でこらえて、リズをエスコートする。
「あ、ああ。じゃあそろそろ行くか。マ、マイハニー」
言えって言ったのはお前だろ、と英二は小さく噴き出した偽の恋人を、口に出さず恨んだ。
薄暗い大きな部屋。中央奥にあるステージには誰も立っていない。
いくつもあるテーブルには、身なりの良い人達が座っている。だが、顔までは暗くて見えない。
テーブルの上には豪勢な料理。しかし、英二は目の前の料理に、手をつける気にならなかった。店で食べて正解だ。
隣に座る仮初めの恋人を見て、英二は説明を思い出す。
『話がそれてしまったね。初めから言おう。これは下調べの潜入捜査だ。事を荒立てるつもりは無い。一応、荒事に自信はあるが君もいる事だしね』
裏付けを取る。その後に奴隷購入者を全て捕まえる。それが今回、リズがやろうとしている事。
フラムベイン帝国は、半年前に奴隷の所持を禁止とした。当時の文官、今は宰相であるラック・ムエルダ主導の、皇帝の認可を得た人道的政策だ。
この政策は国民の大半から絶大な支持を持って受け入れられる。つい一年前まで続いていた、隣国『クレアラシル』との戦争は国民の生活を荒れさせ、それにつけこんだ貴族が無理やり娘を連れていく、という話も少なくなかったからだ。
それに奴隷の多くは隣国『クレアラシル』の人間だ。国民にとってこの政策は、長く続いた隣国との戦争の、完全な終結を意味していた。
しかし、昔から続いている習慣はそうそう変えられない。貴族や豪商の大半が所持しているままだ。それだけ奴隷は便利である。国民とは逆に、貴族達からの政策に対する反発は大きかった。国も全ての貴族を罰する訳にもいかない。政策は緩やかに浸透させる、と半年前にラック・ムエルダは方針を調整した。半年後までに全ての奴隷の所持を禁止。それまでに貴族は奴隷の解放、もしくは雇用への変更を。当然、解放の場合は国から保証金が出る、と。
半年後の現在、奴隷の売買、および所持は禁止されている。表向きは、だ。
実際、この首都アリスナで行われている奴隷の売買は黙認状態だ。ラック・ムエルダの奮戦虚しく、未だに奴隷は根強く残っている。ただ、国民の見えにくい場所へ移動しただけ。
参加者は未だ奴隷を買おうとしている貴族や豪商。リズは殆ど独断でこの会合を潰す決意をした。
『私は奴隷を認めたくはない。さっきまで一緒に居たラミ。彼女は奴隷経験者だよ。運良くこの家の侍女長に引き取られたから良かったものの、また悪い商人にでも引っかかっていたら、と思うとぞっとする』
本人は強い子だから立ち直れたけど、と言うリズの表情は、嫌悪に溢れていた。英二は詳しくは聞いていないが、きっとよほど酷い扱いだったんだろうと思った。
『この会合には高い入場料がいる。それと身分証。つまりは金持ちしか入れない。しかし、奴らも馬鹿では無い。あまりに怪しい人間は入れないだろう。そこで君の出番だ』
そもそも、クジュウの国は本当に遠く、英二のクジュウの民のような容姿は殆どフラムベイン帝国では見ない。情報すらあまり伝わっておらず、クジュウの民はそれこそ神秘のベールで包まれている。
『君はかの国の王子様になって貰う。私はその恋人。なに、完全に嘘だがバレはしないよ。誰も知らない、私すら知らないんだから。この入国証にも偽の情報が載ってある。相手も王族ならば無碍には出来ないだろう。後は私が何とかする。あ、ちゃんと捜査の間は恋人のフリをしてくれよ? そうだね、マイハニーとでも呼んでくれ』
英二がそこまで思い出した所で、ステージに明かりが点いた。
「エイジ、始まるぞ」
怪しがる受付の男に、入場料の五倍払って黙らせたリズが、くい、と英二の袖を引っ張る。
英二は黙ったままステージに集中した。
「今夜はお集まり頂き光栄です」
ステージに上がったのは、背の高いがっしりとした体格の男。
「あれが商会の実質的な経営者、トワイロ・ガリアンだ」
リズは英二の耳元で囁く。端から見れば、睦み合っているようにしか見えない。そう見えるようにしているから当然だ。
トワイロが長ったらしい口上を述べ、今回の奴隷市の説明をする。英二は人間を商品として説明するその声に眉をひそめた。
オークションである奴隷市の説明を終えたトワイロは、一層声を張り上げる。
「そしてなんと! 今回はあのクジュウの民の少女も出品されます! 当然、まだ使用済みではありません。自分好みに調教するもよし。あえて手を出さず愛でるもよし。皆様、どうか奮って入札下さい」
おお、と会場にどよめきが走った。それ程までに珍しく、希少価値があるのだろう。
これはリズも知らなかったらしく、目を丸くしていた。
リズの話では伝わらなかった部分。人間の欲望が直に伝わってくる。
英二はやりきれない感情を、目をつぶる事でやり過ごした。
トワイロがステージから降り、最初の人間が出品される。
浅黒い褐色の肌の男。服は何一つ無く、人間の尊厳すら無い扱い。
あっさりとその男は落札された。引き渡しは後らしい。札らしき物を落札した貴婦人が受け取る。
英二はリズに小声で話しかけた。
「暗いけど、誰が誰だか分かるのか?」
「ああ、今は暗い所が見える魔術を使っている。それより、大丈夫かい? 顔色が真っ青だよ」
英二は自分の顔を軽く叩いて、ステージに視線を戻した。
褐色の男は、無表情でステージから降ろされる。
「大丈夫。ちょっとこういうのには慣れてないだけだ」
リズは何も言わずに英二の背中をさすった。
オークションは進んでいく。老若男女、肌の色も問わず、淡々と。
そしていよいよ本日の目玉。クジュウの民の少女がステージに上がる。
闇に煌めく黒い髪。意志の強そうな黒い目。肌の色はリズとはまた違う、クジュウの民独特のきめ細かな白。彼女だけは檻に入れられ、体の線の透けて見える薄いベールを着せられている。
彼女は怒りに満ちた視線で会場を見渡す。
その姿は籠の中の鳥にも見えるが、鳥と言うにはあまりにも殺気立っていた。
英二は彼女と目が合った気がして、反射的に目を逸らす。
「では、始めましょう! 一千万から!」
トワイロの声でオークションは始まる。どんどんつり上がっていく値段。
英二には一千万がどれくらい高いのかは分からなかった。しかし、さっきまでの奴隷達の最終価格より十倍以上高い値段だ。
少女は動かない。その代わりに全てを呪う眼差しで、自分に値段をつける人々を睨む。
黒目黒髪。自分と似た容姿の少女を見て、英二はリズに囁きかける。
「なあ、どうにかこの場で助けられないのか?」
リズは悲しげに首を横に振る。
「無理だよ。この場で動けるのは私一人。もしここで暴れても、その間に証拠を消されれば意味がない。またこの会合は開かれるだろう。雑草は、根から抜かなければいけないんだ」
理解は出来るし、その通りだとも思う。
けれど、行き場の無い憤りが英二の胸で暴れる。
「……悪い、ちょっと頭を冷やしてくる」
ああ、とリズはオークションから目を離さずに頷く。
英二は最後にステージの少女を目に焼き付けて、静かに会場から出た。
会場はミスラム商会の地下にある。そして地下には、会場とは別に休憩所や歓談所など、目的を果たした貴族や豪商などが交流を深めるための施設もある。
ここまで大きなオークションが国に伝わらない筈がない。現にリズは知っている。
しかし、リズは自分達以外にそれらしい動きは無いと言う。それはやはり、このオークションが国からほぼ黙認されている、ということだ。
故に、笑顔を浮かべて人脈を作る商人や貴族に罪の意識は無い。
当然だ。国が認めているのに悪であるはずがない。
そんな空気の中、英二は一人掛けの椅子に座って俯いていた。話しかけるな、と言わんばかりに。
(これが、この世界の普通なんだ。多分、金持ちの中じゃリズが異端なんだろう)
英二は顔を上げて笑いながら話す人々を眺める。
命に値段をつけた者達。じゃあ、お前の命の値段はいくらになる?
思った以上に繊細だったらしい自分に苦笑して、英二は立ち上がった。
リズは目を逸らさなかった。現実を受け止めて、それを打開しようとしている。
よし、と気合いを入れて英二が歩き出そうとすると、目の前に男が立っていた。
短く逆立った赤毛の髪。他の貴族たちと同じような高そうな服をだらしなく着崩している。精悍な顔立ちには友好的な笑みが浮かび、鍛えられているであろう片腕が上げられると同時に、通りの良い独特な声が響いた。
「よう、久し振りだな!」
明らかに自分に向けられた言葉。しかし、英二に見覚えは無い。
「え? あ、ああ」
とりあえず合わせとくか、と右手を上げた英二の首に、短剣が突きつけられる。
男は剣を突きつけたまま、英二の横に回った。
「さあて、皆様、今宵はお集まり頂きありがとうございます。今からの主催はトワイロ・ケルビンに代わりまして、このライヤー・ワンダーランドがお送りいたします、っと」
一瞬の沈黙の後、悲鳴と共に逃げ惑う貴族達。しかし、剣を持った何人かが出口を塞ぎ、貴族達に静まるよう命令する。
この会場に入る際、危険物は全て取り上げられる。よって、貴族達に対抗する術は無い。血色の良かった顔を青ざめさせて、次々に命乞いをする。更に別の人間が剣を振り上げて、その喧騒を黙らせる。
そんな姿を見て、ライヤー・ワンダーランドは可笑しそうに英二に話しかけた。
「悪いね。あんたに恨みは無いけど、少し付き合って貰うぜ。クジュウの王子様」
よく見れば、剣を携えた者達の手首に赤い布。ライヤーはゆっくりと懐から赤い布を取り出し、手首に巻く。
英二はゆっくりと、もう片方の手も上げた。