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No.26909の一覧
[0] 魔法使いの条件(中世ヨーロッパ風異世界、日記形式)[ユアサ](2011/04/02 15:46)
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[26909] 魔法使いの条件(中世ヨーロッパ風異世界、日記形式)
Name: ユアサ◆763d16ae ID:c6ddc953
Date: 2011/04/02 15:46

   魔法使いの条件



 三月三十一日


 考えるべきことが沢山あるようにぼくには思えた。
 たとえば、文字の読み書きを習うにはどうすればよいか。
 あるいは、きちんとした職につくにはどうすればよいか。
 さらには、明日の食い扶持をどうやって稼ぐか。

 その頃のぼくはまだまだ幼かったから、右のような様々な問題をどのように解決すべきか、まったくと言ってわからなかった。
 ぼくの小さな頭にわかるのは、青くてちょっと緑色の空に、人間や動植物の息吹きの集合体のようなポッカリ大きな白い雲が、太陽の熱でジリジリ焼け焦げていくぼくらの大地とは無縁に、ユックリユックリ、ノソノソノソノソ……自由気ままに東に這ってゆくことだけである。

 ああ、暑いなあ……、腹減ったなあ……。

 ぼくは石ころのゴミ捨て場みたいな河原で、そんなことを常に考えていたのである。


 気がついた頃には、親というモノは居なかった。
 つまり、ぼくは犬畜生や、道端で人糞をむさぼり喰っているあの可愛らしい豚のような独り者だった。
 こんな動物のようなぼく(人間的にいえば、浮浪児というらしい)を救ってくれた優しくて、怪しくて、貧しい人間も、居るには居た。
 しかしそんな彼らは、残念なことに、ある一人を除いてすぐにおッチんでしまった。
 飢饉で死に、ペストで死に、喧嘩で死に、いつの間にか勝手に死ぬ。
 幸運なことに、ぼく自身はまだ死んでいない(しかし、もうすぐぼくは死ぬ)。


 ある一人を除いてとさっき意味深なことを述べたけれど、その人は教会の高い屋根から飛び降りて、ぼくを置いてどこかに行ってしまった。
 教会から飛び降りるとき、彼は、

「俺は生きたいんだ。貴族のくそったれた野郎どもを、コテンパンにしてやりたいんだ。そのために、俺は一度死ななくちゃいけないんだ。ナ! わかるよな、ウジェニー」

 と、ウジェニーことぼくの肩をギュッと握って、揺さぶって、叫んだ。
 その場所は彼が飛び降りたところ、すなわち教会の高い屋根だ。
 今でもゾッとするような恐しさとともに思い出せる。
 季節は秋。
 時刻は深夜。
 コウモリの体毛みたいなまっ暗な夜空に、白や赤や緑の、細かく光る蟻がワサワサ這いずり回っていた。
 地獄の底みたいな遠く眼下の大地からは、うそ寒い風がスゥスゥ吹きあがり、屋根の急斜面にしがみつくぼくの顔をイヤらしく撫でていた。

「イヤだよ、イヤだよ。死ぬんだったら、×××さん、あなただけでカッテに死んでよ」

 幼いぼくの眼には涙がたまっていただろうと思う。
 それでも彼はぼくの肩を離さなかった。
 そしてぼくの間近で、ジッと、動物の無垢な瞳を(彼がぼくの瞳に見ていたのは、きっと犬か豚の眼ン玉だったろう)見つめるようにぼくの瞳を覗き込んでいた。
 彼のまっ黒な眼球もキラキラ真珠みたいに輝いている。
 涙だ。
 彼もまた、恐怖と興奮で眼に涙をためていた。

「わかったよ、ウジェニー」

 諦めたようにそう言って、彼はぼくの肩からその華奢な手を離した。
 ぼくの小汚い服に彼の手形がついている。
 さっきまで温かかった肩が刻一刻と冷えていく。

 不意にニヤリと彼が笑った。そうして言った。

「賭けをしないか?」

 ぼくは彼の顔を見上げ、首をわずかにかしげた。
 彼はニヤリと笑ったままの唇で、ぼくの耳元でボソボソ話し続けた。

「飛び降りて、もし俺が生きていたら、俺のあとに続け! いいか、必ずだぞ……。しかし、飛び降りて、俺が死んでいたら、きみは自由だ。自由なんだ。俺というニンゲンから自由だ。むろんその場合、きみは永遠に奴隷で、乞食で、浮浪児で、豚で、犬で、虫けらで、そのうちすぐにその辺で死ぬ、なんとチッポケな存在なんだろう……といったゴミみたいなヤカラだ。……。まあ、それは俺の知ったこっちゃないよ。俺はそのとき死んでいるんだから。俺は、きみのためにも、俺が生きることを望むよ。俺に続くんだ。こんな醜い世の中を俺たちの手で変えていくんだ。いいか、いいか! みてろ、みてろよ!」

 そう言うやいなや、彼はパッと身を翻して暗闇に跳んだ。
 身に着けていた彼の濃紺のコートが、一瞬、上空に波打った。
 黒い山高帽子が空に跳んだ。
 そうしてすぐに見えなくなった。
 彼は叫び声ひとつ上げずに、恐怖という本能に打ち勝って、眼下数十メートルはあるであろう大地に向かって跳び下りた。

「ア――――ッ」

 と、ぼくは甲高い叫び声をあげた。
 彼の代わりに叫んだといってもよい。
 彼のために、彼の恐怖を代弁するためにぼくは叫んだのだ。
 ……読者諸兄にどうかわかってほしいのは、このときのぼくの心だ。
 ぼくももうじき彼のように跳び下りて死ぬ。
 奈落の底に向かって、しかし振り返らずに、下をみずに、ただ空に向かって跳びあがるのだ。
 そのとき、ぼくのために、誰かひとりでも叫び声を上げてくれたら、ぼくは本当に嬉しいことと思う。


 結論から言って、彼は死ななかった(マア、そのうち死ぬことになるのだが)。
 夜明けを待って、ぼくは大地に下りた。
 一睡もしていなかったぼくは緊張と疲れでヘトヘトになっていた。
 大地に足の着いた瞬間、ぼくの踵に痛みが走った。
 そのすぐあとに、何ともいえない心地よさが走った。
 それで全身がクラゲみたいにフニャフニャになってしまって……誰かに突き飛ばされたように尻餅をついた。
 まわりには誰も居ない。
 ぼくはあお向けに寝転がって空を見上げた。

 教会の尖塔が紫色の空を斜めに突っ切っている。
 尖塔は、空の紫と、朝焼けのまっ赤な光を浴びて、甘い果実のような色をしている。
 こんがり焼いてその上にソースを満遍なく塗った犬トカその辺の肉の色だ。
 その肉の窓に可愛らしい小鳥が囀りながら出入りしている。
 次第次第、空が太陽の光に溶け込んでいく。

 ぼく以外のニンゲンはどこかに消えてしまっていた。
 大気のなかに空中分解してしまっているようだった。
 いまちゃんとしたニンゲンはぼくだけ、町の真ん中の教会で、ぼく一人のニンゲン!
 それ以外はみんな、人間よりよっぽど生きることに精一杯な動物ばかり。
 そうだ、ぼくも一人のニンゲンだったのだ――。

 教会の鐘が鳴った。
 立ち上がり、ふと後ろを振り返ると、得たいの知れぬ不気味な血のりが教会の白い壁にぶちまけられていた。

「×××、××!」

 ぼくはこのあとエステラ・ド・ハビシャムという貴族の令嬢から文字を習うことになるのだけれど、文字の読み書きができるようになる頃には、教会の壁に書かれた文字はすでに掠れて消えていた。
 もう読めなかったのである。
 しかし、きっとこう書いてあるのだろうとぼくには想像できた。

「オレノ、カチ!」

 それは確かに彼の血で書かれた文字であったのである。
 赤黒いシチューの文字。
 その足元に、ポツネンと、彼の黒い山高帽子が忘れ去られていた。
 首をノコギリ引きされる囚人のように、地面からニョッキリ頭を突き出している。
 ぼくはそれを拾って、十分品定めしたのち、ニヤリと笑って自分の頭に乗せたのである。



 彼との思い出話はこれくらいでいいだろうと思う。
 彼という人間はぼくにとって重要だった。
 エステラ・ド・ハビシャムという素晴らしい女性に対してぼくが抱いていた大きな愛情と、大きな憎しみは、きっと彼の影響によるものであろう。
 ぼくは貴族というものが嫌いだった。
 だって、「賭け」で彼に負けたのだから、それは当然であろう。
 ぼくは「賭け」に負けた。
 したがって、彼のあとに続くのである。
 いつか彼と再会したら、ぼくは彼に着いていく心積もりであったし、そのための準備として日ごろから貴族の「クソッタレども」を嫌悪するに十分な練習を積んでいたのである。

 彼の帽子をかぶったぼくは、彼に教えてもらったとおりのやり方で、乞食をやった。
 泥をからだ中に塗りたくって、毛髪も砂でグシャグシャに掻き混ぜて、人間というよりも自然そのものといった感のあるソンザイとなり、オナサケをいただいて生活した。
 ミジメなものである。
 太っちょで、何不自由していないであろう貴族から、さも憐れそうに金品をイタダクのは、ほんとうにミジメなものである。
 自分がいかにも安っぽい人間に思えて仕方なかった。
 自分の価値は、ぼくたちの大地のうえにズゥゥットいっぱいある空気ほどもないようであった(つまり、タダ以下ってことだ)。
 ぼくの腹部を誰かナイフで突き刺したなら、ポン! と心地よい音を耳に残して、ぼくは一瞬にしてはじけ飛んでしまいそうであった。

 が、彼のやったとおり、ぼくもやってやった。
 金品をイタダき、にっこり微笑したあと、路地裏にサッと引き下がると、ぼくは大声で太っちょの貴族を罵るのである。
 女の人が、無様な男を罵るように罵ってやるのである。
 アア、あのデブハゲめ、おれのことバカにしやがって。
おれのこと、哀れみやがって。
みてろ、みてろよ、……いつかお前なんて、ぶっ殺してやるんだからナ……。


 さて、その頃、ミニョンという、ちょっと頭のオカシな子供とぼくは出会っている。
 この女の子は、エステラ・ド・ハビシャムと同じくらいぼくの人生を一変させた人間であるから、やはり早いうちに登場させたいと思うところである。
 しかし、もう自分の書く文字すら見えなくなった。
今日はココマデ。


―――――


 四月一日


 エステラ、きみは何も言ってくれなかったね。
 サッキ、きみはただサメザメと泣いてぼくを見つめているのみだったけれど、ぼくはきみの声が聞きたかったのだ。 

 きみは一言も喋らなかった。
 後ろ暗い感情を抱えた人間のように、チラチラ背後の看守を窺っていた。
 鉄格子の窓から差し込む光が、きみのまっ白な顔の皮膚に、黒い線を三本落とし込んでいた。
 一本の黒い線はきみの青い右の眼球にかかり、真ん中の線は、絵の具で塗りつぶすように、涙で赤くなった鼻を灰色がかったピンク色にしていた。
 最後の一本の線は、きみの青い左の眼球に走っていた。
 きみの眼球が時々背後を向いて、時々ぼくを見ていた。
 そしてきみは何か言おうと口をポッカリ開けていたけれど、ベロをなくしてしまった人間が無理して発声するときのように、顎を変な形に突き出しただけで何も言わなかった。
 きみの白い手がフウワリ、フウワリと――時々ビクビク痙攣し、虚空に波打っていた。

 残念だった。
きみはぼくの罪をやはり許してくれなかったんだね。
 ぼくとナナが炎と喧騒の中で命がけできみを探したときも、きみはぼくたちゲヘナの人間の本性を恐れて、家屋が燃えゆく破滅の音を暗い路地に聞きながら、息を切らして(だけど誰にも見つからないように忍び足で)遠く遠くへ逃げていった。
 そしてやっとの思いでハビシャムの屋敷にたどり着くと、きっときみは何もかもゴゾンジのアリサに出迎えられたのだろう。
 アリサは冷たい微笑できみを迎えたはずだ。
そしてきみは何か照れたような、一時の激情と同情によってぼくたちゲヘナの住民に迎合したことを悔いたような、そんな表情をしたはずだ。
 まっ暗闇でも、アリサはきっとその表情を読み取った。
そしてアリサはこう言っただろう。

「お帰りなさいませ、お嬢さま。サア、早く何もかもお忘れになってください。はやくお着物をお着替えになって、あったかいベッドでお休みになってください。お嬢さまは、あの二人が今晩何をしたかなんて、まるっきりご存じないのですから。わたくしも、もちろん何も存じ上げておりません」

「…………」

 きみはこうやって、ちょっと照れた顔でモジモジからだをくねらせたあと、上目遣いでアリサの表情をうかがい、じっと沈黙したであろう。
 いや、そのあときみはこう言ったかもしれない。

「ありがとう、アリサ」

 そう言って、疲れた足取りで自室へと引き取ったかもしれぬ。
 そのあとをピッタリと、アヒルの子の幽霊のようにアリサは付き従ったであろう。

 ぼくはアリサを恨みはしない。
きみも見ていたと思うが、あのとき警察が来るのがあまりに早すぎた。
 きっと、ミニョンの棺おけを目の前にしながら(きみも覚えているだろう? ミニョンの棺おけの前で、ぼくたちは約束したじゃないか。貴族のクソッタレどもをブチ殺してやるって)アリサはぼくたちの蛮行をいつ警察に通報したものだろうか……とまるでノンキなことを考えていたに違いない。

 しかし、ぼくはアリサを恨みはしない。
 アリサはアリサだ。
 アリサは昔っからぼくたちから一線を引いていた。
 むしろ、きみを徐々に感化してゆくぼくたちを憎んでさえいるようだった。
 ぼくはアリサがきみを実の母のように慕っているのを知っている。
 アリサはきみより二歳ほど年上だったと思ったけれど、でも、アリサはきみを母と思っていたらしかった。
 しかしきみはアリサを子とは思っていなかった。
 きみにとってアリサは一人の友人に過ぎず、そしてぼくら(ぼくとナナのこと)のほうがより親密な友人だったに違いない。
 アリサがぼくたちナラズモノを地獄に落としいれようとするのは、至極自然なことである。
 アリサと仲良くできなかったのが、ぼくにとってすこし心残りだけれど、マア仕方ないだろう……。

 ぼくたちはきみが教えてくれたすべてのことを忘れないし、きみがぼくたち貧者のために学校にまで通わせてくれたことを、どうしたって忘れやしない。
 ぼくはきみが教えてくれた文字によって、いまはじめてジブンノコトを誰かぼく以外の人間に伝えようとしているのだ。
感謝している!

 ああ、しかしきみはぼくたちを裏切ってしまった。
 裏切ってしまったのだ、とやはり思ってしまっている(とくにきょうのきみの態度は、ぼくには本当に残念だった)。
 裏切っていないと思いたい。
 きみの行為は、心底からの裏切りではなく、ただちょっとぼくたちが恐くなってしまっただけの、一時的な気の迷いだったことをぼくたちは求めている。
 ああ、でも覚えているよ。
 きみはぼくと約束してくれた。
 「魔法使いになろう」と約束してくれた。
 ぼくはいまでもそれを覚えている。
 このときの様子も、あとでこの紙面に書くはずだから、ここでは詳しく述べないことにしよう。
 しかし、そうだ、そうだった。
 きみはぼくたちを裏切ったかもしれないが、きみは「ぼくを」裏切っていないのだとぼくは信じたい。
 魔法使いになるのだ、エステラ、きみと一緒に、ぼくは魔法使いになるのだ!



 ※



 ミニョンと出会ったのは、きのう書いたように彼と別れたあとであった。
 彼と別れたのが秋口で、ミニョンと出会ったのは春頃である。
 はじめ出会ったとき、ぼくたちはゴミ山のなかにいた。

 ゲヘナの外れのゴミのなか(ゴゾンジない方もいるかもしれないが、ぼくたちのようなアワレでミットモナイ人間が住んでいる地域のことを、この町では「ゲヘナ」と言った)――近くに川が流れていて、動物や人間の死骸がプカプカ浮いている。
 たまに、死骸の腹にたまったガスが腹を突き破り、ボンと弾ける音が聞こえる場所だった。
 いつもいつも透明なくさいガスが天に向かって浮上している地獄じみたところだったけれど、そのガスを吸うとペストにかかるというのがもっぱらの噂であった(しかし、ペストの流行は、あのガスとは無関係のようにぼくには思える)。

 健全な人々はゲヘナの周囲に寄り付かない。
 しかし、町の清掃員などはゲヘナ周辺地域を清掃する義務もあったから、ハーブを包んだハンカチを口鼻に当てて作業していた。
 だから、清掃員は町の人に嫌われていた。
 裕福な身なりをした女性たちから、顔をしかめられ、眉をひそめられ、軽蔑の眼差しを受け、そうしてたまに罵られ、唾を吐かれるのである。
 彼ら清掃員は、もしかするとぼくたちゲヘナの住民よりミジメであったかもしれない。

 町のなかは当然人糞で溢れかえっている。
 その人糞を豚が食って綺麗にしている。
 そして豚の糞は、清掃員が路地の中央に流れている小さなミゾにいそいそと詰め込むのである。
 ああ、汚い町、汚い町。
 実はぼくたちゲヘナの人々のほうが、綺麗好きかもしれない。
 ぼくたちゲヘナの住民のからだはかつてあまりに不潔だったから、その不衛生が恐ろしい病気をもたらすことを感覚的に知っているのだ。
 だから一週間に一度は水浴びをするし、出来るだけ人糞や尿は路地にばらまかないようにしている。
 ゴミはしっかりゴミに……すなわちゴミ山へともって行くのである。

 その日も、ぼくは例の山高帽子をかぶっていた。
 そして物乞いに失敗していた。
 何度も失敗していた。
 失敗しているうちに夕暮れになった。
 往来から、マトモな人間が消えた。
 不良やゴロツキ、娼婦や貧しい洗濯女がアワレな眼つきで酒屋に向かって消えていった。
 仕事にならないので、ぼくはゲヘナに帰った。
 いつもの川原に戻った。

 寂しい夕日が川の水面にキラキラ反射している……。
 豚や犬や虫やらと一緒に、ひそひそ相談しあいながらごそごそゴミをあさっていると、白い幼児がヒョコヒョコ片足を引きずるような格好でやってきたのだ。
 幼児はぼくを遠くに見つけると、ピタリと足を止めた。
 じっとぼくを見つめているようだった。
 暮れなずむ川原の赤黒い景色に、微動だにしない四、五歳の子供。
 幽霊のようだった。
 あるいは風景画の主人公のような、平面的なソンザイカンを醸したヤツだった。
 彼女がアンマリ動かないので、ぼくは心配になって声をかけた。

「ねえ、どうかしたの」

 すると幼児はふたたびヒョコヒョコ歩きはじめ、ユックリユックリ近づいてきた。

 この幼児は、ボロボロの衣服を宮廷女官の綺麗なお召し物であるかのように大切に着込んでいた。
 垢がベットリこびり付いた黒々した肩紐がずり落ちそうになると、ピタリと立ち止まり、ヨイショというような繊細な手つきで肩紐の位置を直していた。
 また、この幼児の髪はとても珍しい色をしていた。
 まっ白であった。
 近寄ってくるにつれて、その瞳の色もナンダカ赤っぽい色をしているように思えた。
 いや、それだけじゃない。
 近くになってわかったけれど、ナンダカ彼女は異様ににおうのである。
 彼女の皮膚は茶色っぽい色をしていたが、ドウヤラそれはなにかの糞らしかった。
 時々彼女はその糞を擦るようにすくいとって、口のなかでモゴモゴやっていた。

「コンバンハ」

 と、赤い瞳をこちらに向けて、幼児は言った。

 ぼくより弱いこの種のソンザイを無視するわけではなかったけれど、ぼくは思わず眼をつぶって首を横に振った。
 なんとかこの臭気から逃れようとしたのである。
 するとこの幼児は、あの「サル」とかいう動物が人間の真似をするみたいに、ギコチナク……

(いや、あまりに激しい彼女の動きは、ギコチナイというかなんというか、そもそもニンゲン的ではなかった。むしろニンゲンと敵対する生物とも思えた。この本能的な動きをもってすれば、きっとこの幼児でもニンゲンなどは簡単に殺せるように思えた)

 ……ギコチナク、ぼくの動作を真似たのだ。
 首を猛烈に横に振って、そしてぼくが呆気にとられて彼女を見守ると、ピタリと彼女もぼくを見つめた。
 そうして、なんと彼女は言ったか? むろん、

「コンバンハ」

 と、ぼくをジットみつめて、ふたたび繰り返したのである。

「こんばんは」

 と、ぼくも言った。
すると

「コンバンハ」

 と、彼女はまた言った。

 首を上下左右に動かすと、彼女もそれをした。
 腕を色んな方向に曲げ、からだを折ると、彼女はそれをした。
 彼女のまっ白な頭に山高帽子を乗せてやると、彼女はそれをぼくの頭に乗せかえした(もちろん、彼女はそうするのに背が足りなかったので、ぼくは彼女のために腰をかがめてあげた)。
 次第に景色が暗くなっていった。
 空は赤黒い血のりみたいな色から、死の気配が感じられる濃紺の色彩へとかわり、最後には天が閉じてまっ暗闇になった。
 その暗闇のなかで、ぼくたち二人は鏡のように、お互いがお互いのポーズを取って遊んでいた。

 ぼくたち二人の間に光はいらなかった。
 熱とにおいでお互いの動きが手に取るようにわかるのである。
 ああ、ぼくはまだ無知であり幼かった。
 所詮十歳程度の子供で、無邪気だったのである。
 いまのぼくが、もしミニョンと初めて出会っていたなら、このような頭のおかしな遊びは出来ないであろうし、ミニョンと親密な関係にはなれなかっただろう。
 そうすれば、ミニョンはぼくのために死ぬことにはならなかったのである。
 ぼくとナナはサツジンという恐ろしい罪を犯さなくてすむはずである。
 エステラとずっと仲良くやっていけたはずである。
 いや、そもそも……しかし悔いてばかりいては話が進まない。
筆をトっていこうと思う。


 彼と別れたのが秋口で、ミニョンと出会ったのがその翌年の春頃と先に述べた。
 夜になると一気に空気が冷え込み、水はとても冷たかった。
 死骸の浮かぶ川に、鳥肌を立てながらソゥッと入り、ミニョンのからだを洗ってやった。
 彼女はボンヤリぼくをみつめ、空や大地やあらぬところをみつめていた。
 そして時々くすぐったくなるのか、キャッキャッと爆発するように笑い出すのである。
 笑うとき、彼女は暴れる。
 水が跳ね飛び、川のなかでヒョッコヒョッコ追いかけっこがはじまる。
 暗い川である。
 黒い川である。
 あたりにはまっ黒な死骸が浮いていて、時々誤って死骸の頭や腹を踏みつけてしまう。
 彼女はぼくの真似をして、死骸をやたらめったら踏みつける、何度転んだって踏みつける(すると可哀想なことに、死骸の肉が崩れ、骨が露出する)。
 そのあまりに苛烈な様子に、「ゴメンネ」と死骸に向かってぼくが謝ると、彼女も「ゴメンネ」とさもシンミリした感じで言うのである。

 ぼくはジブンの子供が出来た気分であった。
 この子供を育てるのがぼくの使命のように思えてきた。
 「彼」がぼくを導いたように、ぼくもこの幼児を導いてやらねばならぬと、不思議に思ったのである。
 ほんとのことを言うと、ぼくはお兄さん面したかっただけなのかもしれない。
 しかしとにかく、ぼくはこの頭のおかしな幼児をぼくの手で育ててやろうという気になったのである。

「名前は?」

 と、聞くと、

「ナマエハ?」

 と返ってくるので、話は進まなかった。
 ぼくは問答を諦め、彼女がジブンから何か話すのを待った。
 「コンバンハ」と言えるのだから、なにか他のことも言えるのだろうと思ったのである。
 するとそのうち、彼女はしきりに「ミニョン」と言いはじめた。

 ミニョン?
 ミニョンとはなんだろうか。
 ぼくは首をかしげた。

「ミニョン、ミニョン」

 そう言って、彼女は自分を指差すのである。
 そうしてぼくの顔を指差して、同じように、「ミニョン、ミニョン」と言うのである。

 この「ミニョン」という言葉にはあれこれ考えさせられたけれど、どうやら人の名前を指す何らかの法則のように思えた。
 ためしに、ぼくはジブンを指差して、「ウジェニー」と言ってみた。

 するとどうだろう。
 あれほどまでシツコク「ミニョン」と発音し、ぼくを指差していた彼女は、ぼくの顔をじっと見つめながら、

「ウ、ジェ、ニー」

 とニッコリ微笑んで、さも嬉しそうに言ったではないか!
 その次に、ジブンのほうを指差して、「ミ、ニョ、ン」と言う。
 ニッコリ微笑している。
 暗闇のなかでも、彼女の嬉しさが伝わってくる。
 このミニョンという幼児にとって、ニンゲンの喉が発声する一音一音の言葉は偉大なる奇跡のようであった。
 まるで魔法使いが口にする呪文のようであった(アア……あの素晴らしい魔法使いたちが呪文を口にするなんてこと、シュテッテンの先生は言ってなかったけれど)。

 ぼくは喜び勇んで、彼女の小さな手を握った。
 そうして首を縦に振った。
 彼女は手を握り返し、同じように首を縦に振った。
 二人ともまだ水に濡れていた。
 寒さで手が震えていた。
 ……ウジェニーとミニョン。
 ウジェニーとミニョン……。
 ぼくはミニョンを抱き締めて、裸同士で暖をとった。
 そうしてゴミ山のなかで眠った。


 ※


 ナナの裁判が昨日済んだとサッキ知った。
 あいつはやはり死刑だったのだろうか。
 …………。
 あいつはぼくを逃がしてくれた。
 ぼくだけでも貴族のクソッタレどもから救おうと、ほんとに頑張ってくれた。
 恩返しをしなくてはならない。
 死ぬ前に、ぼくは何かあいつのためにしなくてはならない。

 しかし、あさってぼくの裁判が始まる。
 ぼくはどんな刑罰を受けるのだろうか。
 でも、そうだ、ぼくはジブンから飛び降りると決めたじゃないか。
 ぼくはジブンから飛び降りるのである。
 誰から指図されるのではなく、ジブンから奈落の底に向かって、空に向かって跳び立つのである。
 それを忘れてはいけない。
 そのときこそ、ぼくは本当に、乞食で、虫けらで、ちっぽけな、ゲヘナを住処とする犬畜生のごときニンゲンから、自由になるのだ。
 ニンゲンのなかのニンゲンとなるのだ。
 なにもかも、生まれ変われるのだ。
 アーメン。



―――――

 あとがき

 日記形式ですすめようと思っております。
 徐々に情報が補完されていくという形を目指しておりますので、ちょっとミステリーっぽいかもしれません。


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