真っ暗な暗闇の中。どこまでも続く、闇の底。
何も見えない程に周囲が暗いはずなのに、自分の身体だけは見れるという、不可思議な空間。
私は、気付けばそんなところで1人立ち尽くしていた。
(……私、どうしてたんだっけ)
頭がぼんやりとして、記憶が途切れる直前のことが思い出せなかった。
何か、大切なことがあって、すごく急いでいた気がする。
思い出そうとして、いつものように、頭痛が走る。
また未来のイメージが見えるのか、と。
せめて心構えだけでもしようとして……脳裏に映るイメージの内容に、一瞬で心が乱れた。
戦場に単身で飛び込み、兵士達を蹴散らしていく、私。
千切れ飛ぶ血肉と、潰れていく命。戦場に満ちる悲鳴と死。
見るに耐えない凄惨な光景を、無表情なまま作り出していく、私。
「あ……うぁ、いやあああ!?」
どんどん、記憶が蘇ってくる。
今流れ込んでくるイメージは、未来の光景でも、架空の幻影でもない。
全て、私がやったことだ。
私が殺した。私が壊した。私が潰した。私が――。
絶叫する私を余所に、暗闇の世界に変化が生まれた。
突然、ぐにゃりと足元に奇妙な感触がした。
何が起こったのか把握しようと足元に視線を向けて――私は「ひっ」と息を呑んだ。
床は、真っ赤な血の沼と化していた。
鮮血の沼湖からは、いくつもの人間の腕が這い出してきて、私に掴みかかろうと蠢いている。
土気色をした、骨に皮膚を張り付いただけのような、異常に細い亡者の腕。
それがいくつも、いくつも、群れとなって無数に伸びてくる。
既に数本の腕には身体を掴まれていた。
恐怖と困惑で、振りほどくための力が出せない。
さらに別の腕がいくつも掴みかかってきて、私の身体は血の沼の底へと徐々に引きずりこまれていく。
足元からあっという間に膝まで血沼に浸る。
抗う暇もないまま、胴、胸元と、身体が沈んでいく。
心がおかしくなりそうな恐怖の中、脳に直接響くかのように聞こえてくる、いくつもの不気味な声。
幾千の死者達が積み重ねる、数え切れぬ程の怨言の輪唱。
『化け物、化け物、バケモノォオ!』
『貴様は存在してはならない異端だ! 人の皮を被った悪魔だ!』
『消え去れ、人の世に貴様の居場所などない!』
そんな言葉が、いくつも、いくつも……私に向けて無数に発せられる。
私が殺した人達の怨念が、今度は私を呪い殺そうとするかのように、怨嗟の声を叫び続けている。
重なりすぎた数多の怨声は、いつしか言葉として聞き取れなくなっていく。
私へ向けられた深い怨憎の念に、私は押し潰されていた。
ただ、泣き叫ぶことしかできなかった。
やがてそれさえも、伸びてきた亡者の手に口を塞がれて、できなくなる。
声も出せない。抵抗もできない。
自分の罪に飲み込まれて、私の身体はそのまま沼底へと――。
○
「――――――――っ!!」
目を開く。
見えたのは血の沼でも死者の腕でもなく、見慣れた自室の天井だった。
心臓が早鐘を打っている。嫌な汗が頬を伝っている。
一瞬、自分が本当に生きているのか不安になり――頭蓋を貫かれても生き返った自分の異常性を思い出して、余計に眩暈がした。
(……私は、化け物だ)
その受け入れがたい事実は、私の心を締め付ける。
元々、自分が普通ではないことは嫌でも理解していた。
だけど……アルビオンで虐殺を行った私の姿は、理解の範疇を越えて、人間の域を踏み外していた。
(……やだよ。私、人間でいたい……化け物なんていやだ……!)
両手で自分を抱きしめる。けど、震えが止まらなかった。
化け物みたいな魔力を持つ少女、ではない。自分は、本物の化け物だ。
それはもう、どう足掻こうと逃れられない事実だった。
「っ、……ふぇ……うぅ……!」
堪えきれず、涙が溢れた。
泣いたってどうにもならないことは分かっている。
多くの人命を奪った自分に、泣く資格なんてないと思う。
けど、泣き止むことはできなかった。
自分のことが怖くて。事実と罪を認めることが辛くて、嗚咽が次々に漏れ出してくる。
しばらくして、ドアをノックする音が聞こえた。
とっさにシーツを頭までかぶり、全身を覆い隠した。
誰が入ってくるのか分からないけど、今は心がひどく乱れていて、人と会話なんてできそうになかった。
かちゃり、と。鍵を開く音が聞こえた。
足音が聞こえる。扉を開けた来客は、静かにベットに歩み寄ってきているようだ。
それが誰なのか考えてとして……言い知れぬ不安に襲われる。
もし。もしも、その入室者が、アルビオンでの私の凶行を知っているだろうルイズやキュルケ達で。
「化け物」とか。「あなたは怖い」とか。「もう私達に関わらないで」とか。
そんなことを彼女達に言われたら――。
「ぁ……ぅぁ……」
そのことを想像するだけで、悪寒が全身に走った。
かちかち、と音が聞こえて何かと思えば、自分の身体の震えで歯がぶつかり合い、音を鳴らしていた。
静かにしていないと、寝ていないことがばれる――そう頭で考えてはいても、震えが止まらない。
(だ、め……『普通』に、しなくちゃ……)
自分自身に、そう強く言い聞かせる。
『普通』を装うことは、今までの人生で何度も繰り返してきたことだ。
上手くできているかなんて自分では分からない。
けど、それでもやらなくちゃいけない。
(私は、普通。私は、普通。私は、普通……!)
自分に暗示を掛けるように、心の中で何度もその言葉を唱える。
やがて、足音はすぐ近くで止まる。
舞台の幕が上がるように、シーツがゆっくりと取り払われて――。
○
アルビオンからトリステイン魔法学院へ帰還して、早2日。
着替えや身体の清拭など、男性陣に任せられない仕事が多いため、女性陣が中心で看病を行ってきたが、その間リースが目覚めることはなかった。
今日もまだ意識は戻らないのだろうか、と考えていたルイズとシエスタは、リースの部屋に入った時、変化に気付く。
胸元までしか被せていなかったはずのシーツが、リースの全身を覆っていた。
シエスタとルイズがゆっくりとシーツを取り払う。
シーツの中で横になっていたリースは、しっかり目を開いて、ルイズ達に視線を向けていた。
「……リース! 目、覚めたのね!」
「うぅ……ぐすっ、よか、よかったです、リースさん……!」
ルイズが喜び、シエスタは涙ぐむ。
そんな2人の様子を見ながら、リースは身体をゆっくりと起こした。
「……心配かけて、ごめん」
俯きがちに、呟くような声で謝るリース。
あまり元気の感じられない声だった。
元々、静かに過ごすことが多いリース。だが今は、普段よりさらに大人しい感じだった。
やはりまだ疲れているのだろうか、と感じたルイズ達は「まだ横になって休んでいないと」とリースに休息を勧めた。
その時、くぅ~と音が鳴った。どうやらリースの腹の音らしい。
2日間眠り続けたのだから空腹になるのは当然のことだろう。
シエスタとルイズは厨房で何か食べやすいものを用意してもらおうと考えて、部屋を出ることにした。
部屋を出る前、ルイズはベットの方を振り返り、上半身を起こしてルイズ達を見送っているリースに声をかけた。
「リース。……その、私……話したいことがあるの。
だけど今は、ゆっくり休んでね。リースが元気になったら、話すわ」
ルイズは、リースに謝りたいと思っていた。
自分達を助けるために、ひどく怖い目に遭わせてしまったこと。
内乱中の他国へ向かうなんて無茶な任務を、無力な自分が請け負ったこと。
……自分達のせいで、リースに殺人をさせてしまった、らしいこと。
ルイズは、自責の念で押し潰されそうになっていて、今すぐにでも謝りたかった。
けど、まだ回復していないらしいリースには何よりも休息が必要だろうと考えて、後回しにすることにした。
申し訳ない――そんな気持ちで心がいっぱいになっているルイズは、リースをじっと見ていることができず、言葉を伝えるとすぐに部屋を出て行った。
だから、ルイズは気付かなかった。
リースが、その言葉にどのような意味が込められているのか推測を巡らせて、『もしも、もう関わるなとか言われたら――』などと考えて、苦しんでいることを。
○
アルビオン大陸、ニューカッスル城。
先の戦闘で激しく損傷した城内を、土くれのフーケは歩いていた。
ニューカッスル城内は、ひどい惨状だった。
度重なる砲撃と魔法攻撃により瓦礫の山が築かれ、さらには至る所に王党派と貴族派、双方の死体が何体も散乱している。
財宝漁りにいそしむ『レコン・キスタ』の兵士達は、味方だろうと敵だろうと、金目の物を身につけた死体があれば物色して、魔法の杖や装飾品を見つけては大声ではしゃいでいる。
(ちっ……まったく、嫌になるね。据え膳を好き放題に喰い散らかして、はしゃいじゃって)
盗賊として生きてきたフーケにも、それは好ましくない光景だった。
己の美学に基づいて盗賊を続けてきたフーケには、金になるなら何でもいいという見境のない連中の行為は、唾を吐きつけたくなるような嫌悪感を覚えた。
(ワルドのやつも行方が知れないし、あのクロムウェルってやつの『虚無』も怪しいもんだ。
……隙を見てとっとと、とんずらするのが吉かしらね)
『レコン・キスタ』総司令官を名乗るクロムウェル。
彼が礼拝堂で見せた『虚無』と思われる魔法は、たしかに凄まじいものだった。
何せ――死んでいたはずのウェールズが、生き返ったのだから。
死者を生き返らせる。そんな魔法は聞いたことがない。
実際に見せられた以上、クルムウェルが何らかの強大な力を行使できることは、信じざるを得ない。
だが、フーケが磨いてきた盗賊としての感覚が、クロムウェルは怪しいと捉えていた。
クロムウェルの瞳は、嘘をついている人間のものだった。
ワルドの安否を気遣いながら「余に考えがある、安心して任務に望んでくれ」などと調子のいいことを言っていたが、彼自身がその言葉を信じていない――そんな雰囲気をフーケは感じ取っていた。
自分自身を信じられない者の言葉に、重みなんて宿らない。
フーケは既に、『レコン・キスタ』を見限ることを決めていた。
後はタイミングと、演出である。追っ手はかからず、『家族』にも危害を加えられない。そんな状況を生み出すためには、自分は戦場で死んだと思わせる必要がある。
例え総司令官がどんな人間であろうとも、『レコン・キスタ』が戦力を持っていることに変わりはない。
その力を、守るべき『家族』に向けられることは、絶対に避けなければならなかった。
信用にも信頼にも値しないクロムウェル。
だが、彼の話の中にも、気になることはあった。
(兵士達が見たという、『紅眼の悪魔』か……)
戦場に突如現れて、多くの兵士を虐殺したという『悪魔』。
生き残った兵士達の証言からは『紅い眼をしていた』『いくつもの魔法を使いこなしていた』『見た目は少女だが、中身は恐ろしい存在だ』といった情報が確認されたらしい。
生存者の中には、その時の恐怖から気が触れたり、錯乱して自殺する者まで現れているそうだが、フーケの知ったことではない。
ただ、その悪魔のことに、何となく心当たりがあっただけだ。クロムウェル達には伝えていないが。
(……けど、まさかね。あいつはワルドが“始末した”と言っていたし、あの娘のはずがない)
以前、魔法学院の宝物庫から『破壊の杖』を盗んだ際に、戦闘を行った少女の1人。リース・ド・リロワーズ。
紅い目で、様々な魔法を使いこなして……と、特徴はいくつか合っている。
だがワルドは、リースがアルビオンへ辿り着く前に暗殺したと言っていたはずだ。
そのことを語る時のワルドに、嘘をついている様子はなかったし、間違いはない……はず、なのだが。
(……それならそれで、恐ろしいことだね。
あんなとんでもないのが、2人もいたってことになる)
リースと敵対した際に見せ付けられた規格外の魔法の凄まじさを思い出して、フーケは身震いした。
振るう力も凄まじい。だが、それ以上に恐怖を覚えたのが、その眼光だ。
学院に『ミス・ロングビル』として忍び込んでいた時には、弱々しかった目。
だが戦闘の際に突如、変貌してからのリースの目は、裏の社会で生きてきたフーケも滅多に見たことのない、恐ろしいものだった。
物陰に潜んでゴーレムを操り、彼女らの様子を遠くから探っていただけだったフーケにも分かる程の、狂気。
ただの狂気ではない。その瞳に宿るのは、純粋で澄み切った、人として破綻した者が宿す類の狂気だ。
子供が純粋な遊び心で虫を殺すような……そんな感覚で人を殺せるものだけが持つ、人としての領域を突き抜けた狂気。
(この先どうなろうと、あんなのとやりあうのだけはごめんだね)
もしその『悪魔』が、今後も『レコン・キスタ』を襲うというのなら、彼らの掲げる目標である『聖地奪還』どころの話ではなくなるだろう。
やっぱり早く抜けた方が良さそうだ、とフーケは決意を新たにした。
○
リースが目を覚まして、数日が経った。
「宝探しっていうのはどう? ロマンがあると思わない?」
ばっさー、と机の上にいくつもの古ぼけた地図を広げるキュルケ。
その中から一枚を指して、タバサが静かに呟いた。
「……こういう場所は、猛獣やオーク鬼などの住処になりやすい。戦闘になる可能性大」
「え、そ、そうなの? じゃあ、今回は止めといた方がよさそうね」
そのやりとりを見て、ルイズが声を荒げる。
「キュルケ! もうちょいマシな案出しなさいよ!」
「うるさいわねえ。そういうあんたは、何か案があるのかしら?」
「うっ……そ、それは、まだだけど……」
「だったら偉そうに怒鳴らず考えなさいよね。それともヴァリエールは、人に頼らなきゃ何もできないのかしら」
「な、なんですってー!?」
ぎゃあぎゃあわめくルイズと、それをさらに挑発して煽るキュルケ。
そんな感じで、彼女らの会議は中々成果を上げなかった。
今話し合われているのは、『最近なんだか元気のないリースを元気づけよう』というものだった。
初めは疲労が原因と思われていたが、数日経って顔色が良くなってからも、どうにも活力の感じられない様子が続いていた。
そうなると次に思い浮かばれるのが、アルビオンでの戦闘のこと。
礼拝堂からの脱出には、リースの掘ったトンネルの途中からウェルダンディが掘り抜いた別ルートのトンネルを通ったため、ルイズ達はニューカッスル城内の様子を直接は見ていない。
だが、ニューカッスル城内でキュルケ達が見た光景は、とてつもなく凄惨なものだったということは、ルイズ達にも口頭で伝えられている。
そんな光景を自分で作り出したとすれば、とてもではないが平静でなんていられないだろう……とは誰もが思っていたことだ。
けど、リースはアルビオンでのことのほとんどを『覚えていない』と言った。
フーケとの戦闘の時と同じく、気付けば意識が飛んでいて……何があったのか思い出せない、のだと。
リースのついた、嘘だった。
しかしルイズ達には、それが嘘だと断じることはできなかった。
リースのように、瞳の色や能力が急に変貌するような現象は、他に例がない。
だから『その時の記憶がないはずがない』と証明することなんて、できないのだ。
もしもリースが本当に忘れていた場合、無理に問い正して辛い記憶を呼び覚ますより、忘れたままにさせておいた方がいいという意見もあって、深い追求は行われていない。
ルイズとサイトはリースのことを信じようとしている。
キュルケは少し疑っているものの『人には隠しておきたいこともある』というスタンスで、嘘なら嘘で構わないと考えていた。
どちらにしても、今の会議で重要なのは『覚えていない』ことが嘘かどうかではない。
リースが落ち込んでいるからなんとかしたい、というのがその会議の主題だった。
会議の出席者は、ルイズ、才人、キュルケ、タバサ、ギーシュの、アルビオン行き組。
そして1年前からリースの友人だというシエスタを加えた6人だ。
「リースって、猫好きだよな。こう、野良猫とか集めてくるってのはどうだ?」
「その猫達、世話は誰がするのよ? リースに任せたら、たぶん自分のことそっちのけで世話するわよ」
「そ、そこは俺達が協力すれば……」
「……学院の近辺に野良猫はあまりいない。
仮にいたとして、誰かの飼い猫だと後で問題になる」
才人の『ぬこぬこ作戦(仮名)』はルイズとタバサに却下された。
発想自体は合っているのかもしれないが、そのために必要な準備を才人は考えていなかった。
あーでもない、こーでもないと会議はまとまらなかったが、やがてシエスタが意を決したように、発言した。
「あ、あの……よければ、私の故郷の村に来られませんか?」
「シエスタの? それってどこなんだ?」
「えっと、ラ・ロシェールの向こうです。タルブ村といいまして……。
広い草原があって、のんびり過ごすには良い所だと思うんです。ワインが特産物なんですよ」
ワインが特産物、という言葉にキュルケが「あら、いいわね」と反応した。
「ワインを飲みながらピクニックとかどうかしら? リフレッシュするにはちょうどいいと思うわよ」
「……あんたが飲みたいだけじゃないの?」
「失敬ね。ちゃんとリースのこと考えてるわよ。まあワインは飲みたいけど」
他に案もなく、良さそうなアイデアだったので、会議は『タルブ村でピクニック。ただしまずはリースの意思確認』ということでまとまった。
後日、リースは彼女達の誘いを受けた。
ルイズ達は学院長オスマンから外出許可を(半ば無理矢理に)入手して、タルブの村へ出掛けることになる。
――その向かう先で、どのような出来事が起こるのか。知る者はまだ誰もいない。