過去編 第2話 5歳 原点 中編「大体、そんなことお兄ちゃんが知っている訳ないじゃない。わたしもお養父さんも知らないことを、お兄ちゃんが知っているなんてありえないだから」「……今日のお前は随分生意気だな」孤児院から養子に出される話は食糧危機以来何度かあったが、それは養父と当事者が養子先と話し合い、養子縁組が決定した後、孤児院の家族に通達されるはずだ。当事者から情報が漏らすので、通達される前に家族は全員その話を知っているのが常だが、今回は当事者のレイリアすら知らないことなので、そのケースには当てはまらない。「大体、わたしの両親は死んでいるらしいんだよ。その親戚が偶然ユアンさんだったなんて話が出来すぎている」レイリアの反論を、レンウェイはニヤニヤと受け流している。これはおかしい。レイウェイは短気で無鉄砲な性格の分、すぐ反論してくるはずなのに……。「……何で親父が話してないのかは知らないけど信じられないのはよくわかる。ユアンは良い奴だとはいえ、貧乏で社会の底辺にいる俺らとは全然違う、見栄えと先祖ばかり良い名家出身だからな。だが、レイリア。これを見てみろ。最近、親父のレイリアを見る目が違ったから調査していたら昨日、鞄の中から見つけてコピーしたんだ」レンウェイが取り出したのは書類の束だった。表紙にはレイリアちゃんへと手書きで書かれている。「まだお前じゃ読めないから、頭の良い俺が解説してやる。……これが養子縁組の紙だ。ちゃんと印鑑が押されてあるから、後はお前が承認すれば親父が印鑑を押して終了だ。事務手続きもほとんど終えているらしいぜ」レンウェイが指差すところを確認する。読めない字をレンウェイに教えてもらいつつ読んでいくにつれて、レイリアの顔色は真っ青になっていった。書類は確かにレイリアの養子縁組の内容だったが……。「……あれ、親権のところにグレン・ヴェルトって書いてある?」ユアンとグレン、書き間違えるにしては間違えすぎな気がするが……。「グレンってユアンの親で現当主様だ。すごいぞ、名家の現当主様が直々に動いているんだ。勿論、ユアンが中心になって親を説得したんだろうけど……流石、親父に目をつけるだけはあるな」「どういうこと? 知らない人の養子なんて……」「わかってないな。実際にユアンの養子にしただけじゃ保証が足りないだろ。御曹司の戯れ、次期当主の下々へのパフォーマンスなんて言われて、養子なんて使用人や親族から見下されてしまう」瞳に暗い焔を灯しながらレイウェイは言葉を続ける。レイリアはふと、レイウェイが武芸者の名家に詳しく、だから色々知っているのだと思い至った。「でも、次期当主と現当主のお墨付きがあれば話は別だ。誰も現在と未来の最高権力者を敵に回したくないからな。あいつらは犬みたいにご主人に尻尾を振るのが一番の仕事だから……。しかもそれだけではなく、現当主の奥さんや流派の師範の承認まであるんだぜ。これだけの承認を取れるなんてユアンが凄いのは勿論、お前も本当に凄いんだな」「……わたしが凄い?」「当たり前だろう。ユアンが気に入っているだけじゃあ他の人達は説得できない。お前の実力は向こうの家に‘我が家に迎え入れたい’と思わせるほどあるんだ。つまり、良いもの食って、あんなボロ道場とは比較にならないほどの良い環境で練習している名家の坊ちゃんどもが遠く及ばないほど、お前は強くなれるんだ。半端な才能なら流派に招くだけで十分だから」レイウェイは興奮気味に語る。その熱意に押されて、レイリアは少し頭が回るくらいには冷静になった。まず、養子縁組の話があること自体は事実なのだ。レイリアが話を聞いていないというのは関係ない。現実はいつも、レイリアの意志とは関係ところで進んでいくのだから。ユアンさんのことは好きだ。親切だし、あの気品溢れる姿、見せびらかしたりしないが注目を集めても、極自然体を振舞うことができる姿が本当にかっこいいと思う。偉そうにしている役人武芸者とは大違いである。養子に入り、ユアンさんやその家族と優しさに包まれながら、ヒラヒラとしたきれいな服を着て、他者から注目を集める自分の姿を想像してみる。上流階級の憧れは確かにある。食糧危機で自分たちはこんなに苦しんでいるのに、未だに清潔感溢れる服を着て、暴動とは関係ない地区に住み、閉鎖されていない高級レストランに入る別次元の世界の人々。その世界に通じる糸が、偶然か幸福か目の前にあるのだ。「レイリア? もしかしてお前自信がないのか? 確かに思うほど強くなれなかったらまずいのかもしれないが、お前なら絶対大丈夫だ。親父もユアンも認めた、最高の素質を持っているのだから。お前は親父が60年間見た武芸者の中で最強でもなんだ。もしかして天剣授受者にも手が届くかもしれないぞ」天剣授受者とは最強の武芸者たちに授けられる称号であり、グレンダンの最高栄誉だ。その遥か遠くの栄誉の光が目の前まで近づいたことに、レイウェイは興奮している。そして、レイリアはレイウェイが興奮するほど、何かが冷めていくのを感じていた。「……お兄ちゃんはわたしがいなくなってもいいの? 寂しくないの? ……それにわたしがいなくなったら補助金がなくなって家はさらに困ることになるんじゃ……」「そんなこと、お前が心配する必要がないし、お前が思いつくことはユアンさんも当然思いついている」レイリアの心配事など小さなことを言わんばかりレンウェイは笑う。「レイリアが向こうの養子になったら、孤児院にお金が支払わられるようになっている。要するに謝礼ということだ。わざわざレイリアが遠戚の子という設定にしていて、今まで育ててくれた養育費って名目だとよ」「…………」「おいおい、親父が金に目が眩んでこの申し出を受けたとかはありえないからな」レイリアの顔色から内心を予測したのか、レイウェイがさらに補足を続ける。「レイリアの家族愛が、孤児院の仲間意識が深いのは向こうも知っている。だから、孤児院なら大丈夫だからレイリアも安心しなさいというあっち側のメッセージだ。よくわからないけど向こうも孤児院に寄付することでレイリア以外の事で得する事があるみたいだから、レイリアが裏を勘ぐる必要はない」そこで言葉を止めると、レイウェイは皮肉をこめて一言付け加えた。「ま、金持ちの慈悲って奴だな。ユアンも自分の管轄内のお金ではこれ以上孤児院を助けられないから、家の金を動かしたのかもしれないがな」言いたいことを全て終えたからか、レイウェイはレイリアから視線を外し1人で何度も肯いている。孤児院の皆を助けてくれる。しかも向こうはレイリアを冷遇するつもりはない。それどころか、名家のしがらみを乗り越えて家族として接してくれると言っている。ユアンさんは信用できるので騙される心配もない。全員が助かる。素晴らしい道だ。食糧危機以来、すっかりなくなりかけた、人の、家族以外からの温情、助けの手。そのことはとても嬉しい、今もユアンさんに対して感謝の念が溢れてくる。わたしのためにありがとう。わたしのことを最大限助けようとしてくれてありがとう。……でも、でも、それ以上に悲しく虚しい思いが湧いてくるのは何故だろう。「……おい、おい、レイリア。最後の方のページは、向こうの家族がわざわざレイリアに対して書いてくれたメッセージがあるから読んどけよ。……全く善人の親は善人ってか。ユアンの奴、顔、金、家柄、性格、実力、家族全部良しってどういうことだよ」そう言ってめくられたページは、レイリアでも読めるような簡単な言葉で書かれており、家族の特徴、ユアンが家で話しているレイリアの話を聞いてどう感じたのか、そしてレイリアのことを楽しみにしている、レイリアと早く会って色々な話がしたいという、新たな家族を迎える歓迎の言葉が、レイリアにも読めるよう簡潔に書かれていた。新しい家族からのメッセージ。レイリアのことを本当に理解、尊重してくれる温かな優しいメッセージ。レイリアが断る理由がないほどの、思いやりに満ちた選択。……家族、今の家族、騒がしく、そして今を生きることができるかわからない苦しい家族。……家族、新しい家族、レイリアの心配事を全て解決できる家族、優しさと思いやりに満ちた家族。優しすぎる、恨む理由が、孤児院の仲間から外れる悲しみと怒りをぶつける対象がないほど……。優しすぎる、その優しさがレイリアの今までの我慢を全て溶かすほどに……。閉じ込めていた我が侭を曝け出すほどに……。「……いや」声が出る。我が侭が、皆に遠慮して言えなかった言葉が飛び出してくる。「皆を助けて欲しい、助けたいと思ったことはあるけど、新しい家族が欲しいと思ったことないもん。お母さんなんてよくわからないもん、今の家族が大好きなんだもん、ユアンが孤児院に来ればいいんだよ」想いが溢れる。感情のみの脈絡のない言葉が次々と溢れてくる。「ユアンさん達すごすぎるよ、優しすぎるよ、ズルすぎるよ。わたしたちが皆で知恵を絞っても解決できなかった問題をこんな一瞬で解決して……。何が大ファンだ、レイリアはすごいだ、わたしなんてユアンさんの足元にも及ばないし、わたしの力じゃ全然家族を助けられなかった」「おいおい、落ち着けよ。名家が俺たちより凄いって当然だろ、何訳分からないことを言っているんだ?」涙でほとんど目が見えていないレイリアは、声をした方向を向くと、今度はそちらに対して矛先を向けた。「大体レイウェイも全然わたしの気持ちがわかってない。フクザツな女心がわかってない。普段は養子の話になれば真っ先に反対する癖にわたしに養子に行け、行けと……」レイリアは家族を愛している。親がいない分、それだけいっそう家族を愛している。例え家族のために加えて、自分が不幸になることはないといっても、家族に引き止めて欲しかった。だが、その想いを相手は理解することができなかった。「一体、何が不満なんだ? 善人の武芸者の名家だぞ。そんなの孤児院で大和撫子が生まれるくらい珍しいんだぞ」レイウェイは、信用できる知り合いが助けてくれると言っているのに拒否するレイリアが理解できない。そして、それがどれだけ貴重で運が良いのかわかっていないレイリアに掛ける声も、自然と険がこもってしまう。「そんなの欲しいと思ったことない! お母さんやお爺ちゃん、お祖母ちゃんなんていうよくわからないものなんていらない。お兄ちゃんたちとお養父さんだけいれば十分だから」「何馬鹿なことを言ってやがる!? 人見知りが激しいにも限度がある! その程度で甘えるな。ユアンは好きなんだろ。なら、そのユアンの信用している人くらい簡単に会えるだろう」簡単に??? わたしの気持ちも知らないで…………と、レイリアは自分が何に恐怖しているのかも分からず声を荒げる。「簡単? わたしはお兄ちゃんたちみたいに優秀じゃなくて、役立たずなんだもん。そんなのできっこないよ」「俺たちが優秀? お前が役立たず?? 何を言ってやがる、この話が来たのだってお前が優秀だからだろう。俺たちじゃ天地がひっくり返っても、こんなことはあり得ないからな」あり得ない。こんな話が来るのは天才だけで凡人以下の人間にはあり得ない。レイウェイは義妹に対する嫉妬を隠しながら、冷静な声を維持しつつ言い聞かせたが、レイリアには効果がなかった。「お兄ちゃんたちはすごいんだもの。わたしには理解できない話し合いをして、色んな物を手に入れてるもん。それに比べてわたしは、何もできなくていつも家にいるし、武芸だって基本しかできない分、役立てたことなんてほとんどない。それに痛みが怖くて基本以外の練習がしたいって言う勇気さえ持っていないし……」さっきまで、レイウェイを怒っていると思ったら、今度は自虐し、ぽろぽろと涙をこぼす。義妹のわけわからなさにレイウェイは面倒くさくなって、とりあえず説得ではなく行動に身をまかせることにした。言い換えれば、キレて問題を先送りしたともいえる。「あー、うじうじするな鬱陶しい。お前は孤児院の皆を過大評価している。お前は自分が役立たずといっているが、孤児院の皆も基本的に役に立っていない。ただ何人もの役立たずの犠牲の下に、成功者が1人いるだけだ」「……お兄ちゃんも失敗しているの?」「五月蝿い、黙れ」レイリアを殴って黙らすと、レイウェイは歩き出した。「ついて来い、実地訓練だ。お前に現実というのを教えてやる。現実を知ったらさっさとお偉いさんにゴマをすって俺たちに腹いっぱい食わすって約束しろよ」レイウェイは言いたいことを言うと、レイリアの様子を見ずに外へ出て行く。唐突な展開に唖然としたレイリアだが、置いていかれそうなことに気付くと、「ま、待ってよ」慌ててレイウェイの後を追いかけていった。「えっと……ここを迂回すれば、怖そうな人は避けられるけど」「待て、ここで迂回するのはまずい。隠れてやり過ごすぞ」レイウェイの指示通りに近くの隙間に隠れ、刺青をしたいかついおじさんが通り過ぎるのを、息を殺して待った。「あんな怖い人に会ったら何されるかわからないから、早く帰ろうよ~」「危険なのは承知でここに来ているだよ。これは俺たちには必要なことだ。怖くて帰りたいならさっさと帰れ。そして、養子の話を受けにユアンのところまで行ってろ」「……意地悪、酷いよ、人でなし」レイリアが承諾できない提案をするレイウェイに、レイリアは文句を言うが相手に無視された。ここは貧乏人たちが多く住む地区……レイウェイはスラムと言っていた……の中でもかなり奥の方だ。無秩序に立てた建物や廃棄された倉庫、工場の所為で道は入り組んでいて狭い。しかも、養父が危険だから用があっても近づくな、と厳命していた場所でもあった。レイリアが住む地区も、貧乏人ばかりできれいなところとはいえないが、それでもここよりはマシだ。工場跡から漂う気持ち悪い匂い、所々に道場で見るような傷のあるぼろい家々、ときどき見かける派手な格好をした怖い集団とその怒鳴り声。レイウェイが平気な顔をしていなかったら、レイリアは全力で逃げ出していると断言できるほどだ。「……ねえ、何でさっき迂回しなかったの? それと何処に行くの?」「質問は1つにしやがれ。……迂回しなかった理由はな、向こうに嫌な奴がいるからだ。あいつに会うぐらいなら怖い連中とすれ違う方がマシだ」知り合いがいると聞いてレイリアは驚いた。近所の怖いおばさんの10倍は怖そうな人々と知り合いになれるなんて、レイリアには絶対にできないと思ったからだ。「おい、向こうにいる奴と俺が仲が良いなんて勘違いをするなよ。あいつも孤児で偉い奴にはヘコヘコしている癖に、唯一の年下の俺には威張り散らしてくるムカつく奴だ。……クソ、親父が五月蝿くなければ絶対にボコボコにしてやるのに」「……? その人わたしたちと同じ孤児なの? なら仲間同士助け合いはできないの?」「孤児で仲間なのは一緒に寝食を共にする奴だけだ。他の奴らは互いに寝首をかいたり、少しでも相手の優位に立とうと必死なんだ。他の孤児なんて全て敵だと思っておけ、いいな」孤児が敵、仲間じゃない。そのことについて、レイリアの反発しそうな内心を読み取ったのか、レイウェイは強く念を押した。「……とにかく、お前はだれか近づいてくる人を教えてくれれば十分だ。なんていっても一般人の俺には気配を読むなんていう不思議な真似はできないからな」「一般人を探すのに気配を探るなんて言わないよ。気配を探るは隠れた武芸者を発見するっていう意味だよ」「そんな細かいところどうでもいい。武芸者用語なんて聞きたくないから」一般人の場所を探るなら、活剄で耳の感覚を強化すれば十分である。それだけで、半径100メル内の足音をしっかりと聞き取れるのだから。その後も隠れたり、迂回をしながら、数十分ぐらい歩いたところでレイウェイは止まった。近くに人がいないのに止まった姿を見て、レイリアは不安になった。まさか、色々入り組んだ道を歩いた所為で、迷子になってないかと……。「おい、レイリア、着いたぞ」「え、何もないけど」周りを見渡しても今までと何も変わっていない。入れそうな建物すらない。誰か隠れている人がいるかと思って気配を探っても、やはり誰もいない。「ここからが俺の仕事だ。簡単に言えば決められた範囲を歩いて回り、誰がいるのかを報告するんだ」「……それって警察の仕事じゃないの?」つまり、怪しい人がいないか、街中を歩いて探すということだろう。しかも、誰がいるのかと言われてもこの町の人など、よそ者のレイリアたちはほとんどわからないのに……。「警察がこんなかび臭いところに来るわけないだろう。まあ、見回りと考えていれば良いが、怪しい誰かを見つけても声を掛ける必要はないぞ」「どうして?」「孤児の俺たちが怪しい奴を見つけてもどうにかできるわけがないだろう、返り討ちにあうだけだ。誰かいたらその人の特徴を覚えて通り過ぎればいい。別にまとめて報告すれば構わないと言っていたしな」「……つまり、決められた場所を歩くだけ?」「その通りだ。チンケでやりがいのない仕事だが、所詮孤児がやる仕事ってことだろう。給金も安すぎて涙が出てくるが、それでも貰えるだけでマシだ」お偉いさんの考えることはわからん。これもポーズの一種か……と呟きながらレイウェイはレイリアの手を掴んで路地裏の道の向こうへ足を進めた。仕事を開始してから30分。レイウェイは本当に説明した通りのことしかしていなかった。覚えた道順に沿って歩く。途中で人を見かけても、その簡単な特徴――性別、髪型、服装――をメモするだけだ。話しかけていないから、こちらがメモした特徴も正しいかはわからない。レイリアはこれで大丈夫か、これでお金を貰えるのかとますます不安になったが、レイウェイはいつもこの内容で提出し、文句や問題は発生していないらしい、今のところは。「後、1時間ぐらい歩いてノルマは終了だ。レイリア、俺の仕事だって全然大したことしてないだろう。給金だって本当に子供の小遣い以下だし……」「そんなことないよ。わたし1人じゃ、こんな怖そうな道、絶対1人じゃ歩けないし……」「俺だってレイリアみたいに武芸者の才能があれば、もっといい仕事を探せるのに……。今だって見回りをしているけど、気配を探れる武芸者を1人雇った方がよほど効率的じゃないか。レイリアでも最低で俺の数倍の効率だ」レイウェイの言葉には、自らの無能に対する嘆きとレイリアの働きの賞賛がこもっている。そんなことないと言おうして、レイリアの唇は止まった。レイウェイが見たことのないような怖い顔をしている。普段の怒鳴っている顔ではなく、もっとおどろおどろしい何かに囚われた暗い闇を宿した眼差しで、レイリアの後ろの方を覗き込んでいる。背後に誰かいるわけではないのに……。レイリアは、レンウェイから武芸についてほとんど聞かれたことがないのを思い出した。レンウェイが武芸の家系に詳しいのに関わらず……だ。兄は武芸のことを嫌っている?それなのに何故、レイリアに武芸者の家の養子に行くことを勧めたのだろう?新たに見つけたレイウェイの側面に混乱しつつも、その足は止まらないため、止まってじっくり考えることもできない。そして、強化した感覚が拾った新たな音が、レイリアの思考を止めた。聞き間違えたかと思って耳を澄ますが、音の発生源は変わらない。「お兄ちゃん、あそこに誰か隠れているよ。息遣いが聞こえる、それに緊張している」レイリアが指差したのは、数十メル先にある細い隙間だ。大人が通るにはやや厳しい、そんな子供の抜け道じみたところだった。「レイリア、他にも人はいるか?」「……1人だけみたい。他の人はいないと思う」レイリアの報告にレイウェイは警戒心を露にした。何しろ、ここは周りに人は住んでいなく、見るからに治安の悪そうな場所。不審者に対し、警戒しすぎることはないのだ。敵は、子供程度で1人、おそらく一般人。レイウェイは逃げるか対峙するか迷ったが、今は仕事中、給金が貰えないのは困ると考え、対峙することにした。「おい、そこに隠れている奴出て来い。俺たちに用事がないなら、さっさとそこからいなくなれ」意識して高圧的な声を出す。何が目的かはわからないが、隠れている相手を気付いているという優位があるのだから、弱気だけは出さないつもりだ。その声に反応して1人の少年が出てくる。レイウェイと同じやせ衰えた体に、物質的にも精神的にも餓えた猛獣のギラギラした目つき。ある意味ではレイウェイと似ていると言えるだろう。だが、違う点が2点。1つ目は向こうの方がやや年上のため、一回り体が大きいこと。2つ目は向こうの手に握っているもの。身長の三分の一ほどの棒。剄を感じなく武芸者ではないから、そんなに重たいものは持てない。あの棒は中が空洞の鉄パイプといったところか。「死ね、俺は最初からお前が気に入らなかったんだよ」「俺だって、小物なお前が気に入らなかった」鉄パイプを持って、こちらへ走りこんでいる少年に対し、レイウェイは気迫で負けないよう睨み返し、全身に力をこめた。互いに瞳に宿るのは近親憎悪というべき憎悪と蔑視。レイウェイの同僚で隣の地区の担当者、同じ孤児で初めて会ったときからの犬猿の仲。孤児が孤児に対しその頭を潰そうと、容赦なく鉄パイプを振り下ろした。「おい、何のつもりだ。お前も見回りの時間じゃないのかよ……」容赦なく振り下ろされた鉄パイプをかわしたレンウェイは呟いた。鉄パイプで思い切り地面を叩いたときの反動で、敵の動きが止まっている。敵の馬鹿さ加減に、少しだけ感謝するレンウェイだった。「より美味しい仕事があれば副業だってこなすのが俺たちだろう」「副業?」「ああ、いくらお前のことが気に入らなくても、金が関わらなきゃこんなことはしない」鉄パイプを持った少年は不適な笑みを浮かべて余裕を見せている。武器という新たな力による優位と、暴力の行使という名の麻薬。それらが、少年の容赦と自制という精神を駆逐していた。「待って、あなたも孤児じゃないの、何でわたしたちを襲うの? 人違いじゃないの?」目の前で突然、始まった暴力劇を前にレイリアは叫んだ。暴力とはレイリアにとって、稽古の時間のみに発生する別次元の出来事だった。習っている武芸だって、暴走して他人に迷惑を掛けることがないようにするもの。基本技を覚えたのだって、そうすれば褒められるからであり、それを使うこと、すなわち実戦、暴力については想定したこともない。「お前は誰か知らないが、関係ないから黙ってろ。ずっと震えたままでいればいいんだ」言われて初めて気がついた。レイリアの足が、手が、体が恐怖で震えていることに……。目の前の喧嘩や稽古とは全く違う暴力の迫力は、体の状態に気付けないほどレイリアから現実感を奪っていた。「レイリア、お前はさっさと逃げろ」逃げろと言われても、レイリアの足は相変わらず震え、地面に固定されたかのように動かない。動けないレイリアを無視して事態は進んでいく。振り回される鉄パイプを必死で避けるレイウェイ。近くに武器はないか目をせわしく動かしているのを見て、敵が嘲笑混じりに忠告した。「武器を探しても無駄だ。事前に全部片付けて置いたからな」「くそが! 本当に嫌な奴め」笑いながら鉄パイプを振り回し、人の体を砕くのに全く躊躇を見せない少年に、レイリアはさらに身が縮こまったことを自覚したが、同時に気付いたことがあった。「ひどい……体力温存? 違う、甚振ろうとしている」攻撃の仕方が鉄パイプを思い切り振り下ろすことから、軽く振ったり、牽制の突きを織り交ぜたものに変わっている。だから、レンウェイは鉄パイプが何度か命中していても無事なのだ。体重を乗せた鉄の塊で殴られれば、人間など簡単に破壊されてしまう。「くそ、それだけ振り回しているのだから、いい加減体力が尽きろってんだ」レンウェイは悪態をついたが、戦況は既に傾きつつあった。今まで鉄パイプを振り回しにくい空間に逃げるなどして、何とか凌いでいたレンウェイだが、足が震え限界が近くなってきている。鉄パイプを振り回したことによる消耗と、振り回される鉄パイプを恐怖と共に避けたときの消耗。後者が前者を上回り、レンウェイが負けつつあることを、レイリアの優秀な戦況眼が見極めてしまう。「くそ、レイリア」レンウェイが大きく叫ぶ。声にはかなり焦りが含まれており、顔は緊張と疲れから青白くなっていた。「随分と無様だな」「武器を持っても俺を倒せないお前ほどじゃない」「長引けば長引くほど、お前の必死で苦しそうな顔が見られるから、僕としても今を十分楽しんでいるよ」そう言うと、少年は鉄パイプを構えつつも一度足を止めた。「ところでそこの女の子は誰なんだい? 君とはかなり毛色が違う人種のように思えるけど、ひょっとして幼稚園児までカツアゲの対象にでもする予定なのかな?」「馬鹿にするな、レイリアは家族だ」家族……その言葉でレイリアの震えは弱まり、心に温かい何かが湧き出るのを感じた。「はははははははっ、家族? 仲間!? 笑わせてくれる。お前、僕の攻撃から逃げることしかしてないじゃん。そりゃあ、僕の目的は君だけで彼女は関係ないと言えるけど、君が僕の慈悲に期待するとはねえ~」語尾を上げてレンウェイの無様さをじっくり眺めるという、あからさまに馬鹿にした態度を取った後、馬鹿に物事の道理を教えるかのように言い加えた。「彼女の安全を考えるのならダメージ覚悟で僕に突っ込むべきだったんだよ。……まあ、一撃を食らわせれば素手でも僕が9割勝てるから、それでも構わなかったけどね。それか君だけの安全を確保するならさっさと逃げればよかったんだよ。僕は君がこの場所に来ないようにする、できればボコボコにするよう頼まれただけだから、尻尾をまいて逃げれば大笑いして追わなかったかもよ」そう言って、少年は高笑いをした。少年のレンウェイを心底馬鹿にした態度にレイリアを腹が立つのと同時に、初めてレンウェイのことを考える余裕ができた。何故、兄は逃げなかったのか? わたしは武芸者の卵、肉体強化をすれば鉄パイプで武装した一般人くらいなんともない。常人には耐えられない打撃だって余裕で耐えることができる。……答えは1つしかない。わたしのためだ。わたしが武芸者なのに恐怖で震えていたから、兄が囮の役目をした。鉄パイプが目の前を通り過ぎる恐怖と戦いながら、わたしに逃げろと言ってくれた。わたしは天才武芸者、希望の星と言われているのに、この無様さは何だ。いくら褒められたって、戦えない武芸なんて何の価値もない。「待ちなさい」のんびりしていて争い事が嫌いな自分とは思えないほど鋭い声が出た。恐怖からの震えを剄で打ち消しつつ、レイリアは精一杯少年を睨んだ。「お、お兄ちゃんをこれ以上虐めるのは……」虐め……そのレベルの暴力ではないが、あえて虐めということで、目の前の暴虐の敷居を下げる。「武芸者であるわたしが許さない。逃げるのなら追わない。まだここにいるつもりなら今すぐにボコボコにしてやるのだから」レイリアの啖呵に、少年はつまらなさそうに一瞥した。「ずっと震えていたのに今頃になって何をいっているのだか……。さっさと逃げるべきだったのに……大体、武芸者であることが本当でも、まだ子供じゃ制御できないのに強がっちゃって」制御……その言葉にレイリアは自分が何に恐怖していたかわかった。鉄パイプを振り回している姿が怖かったのではない、稽古ではあれの十倍は速いのだから。容赦ない暴力の雰囲気も怖かったが、それと同時にその空気に呑まれて手加減できなくなることが怖かったのだ。剄の制御はできている、だから武芸者の恐ろしさもよくわかる。ほんのちょっと力を込めただけでミンチのように潰したり、壁まで吹き飛ばすようなことになるのかもしれない。一般人に対する力加減など知らない、全く知らない。力の制御を散々叩き込まれ、一般人に迷惑をかけるなと教え込まれたレイリアにとって、一般人相手に力を振るうことは禁忌に等しいのだ。……だが、その禁忌も兄を守るためなら乗り越える勇気が湧いて出る。家族のために自分の力を使いたいと、ずっと考えていたのだから。「手加減してやるから立ち上がるなよ」素っ気ない一言とともに鉄パイプが振り下ろされる。普通の5歳児には避けられない速度。肉体強化したレイリアには遅すぎる速度。軌道を見極め、体を半歩ずらして避け、鉄パイプの振りおろしが地面に一番近づいた瞬間を見計らって思いっきり踏む。予期せぬ衝撃がかかったことで、鉄パイプは持ち主の手から簡単に離れ、道路に食い込む。武芸者が思い切り踏み込みをすれば、道路など簡単に陥没するので、これは当たり前の結果であった。突然の手の痛みと、鉄パイプのめりこむ音に呆然とする少年を、レイリアは一喝した。内力系活剄の変化、威嚇術。威嚇術は剄を込めた声を発する術だ。それにより、より重圧感を相手に与えたり、声の衝撃を何十倍にも増幅して大気ごと正面を吹き飛ばしたりできる技である。レイリアの渇を浴びただけで、少年は軽く吹き飛ばされ尻餅をつく。本物の武芸者の迫力に触れてしまった少年は、腰が抜けてしまってただ呆然としていた。一番穏便に制圧できたので、レイリアは安堵の息を吐いた。「レイリア、お前は本当にすごいな」レンウェイが格好よかったぞといいながら近づいてきた。それに笑顔で応えようとして、レイリアはまだ自分の体が強張っている、いや恐怖で震えていることに気がついた。おかしい、戦いは終わった。目の前で怯えている少年が実は演技で、余力や奥の手を残していると感じはしない。戦いの余韻が今になって現れているのだろうか……。恐怖とはセンサーだ、大切にしなさい。稽古中、どうしても相手の気迫に呑まれてしまうレイリアに養父が言った言葉だ。敵を前に怖がることは決して悪いことではない。勿論、恐怖を前に勝機を逃すのは問題だし、その点、お前は戦う前から気持ちで相手に負けているというのは改善すべき欠点だが、お前はそれ以上の良い点がある。それは観察眼だ。お前の感覚は観察眼による分析結果を一番信じている。その観察眼が相手の実力を全て見抜く、自分より優れた点を見てしまうからからこそ、お前は恐怖を感じているのだ。恐怖を感じたら、何に対して恐怖しているかよく考えなさい。感覚が正しいことを伝えても、心がそれを無視したら意味がない。自分を正しく把握する。難しいかもしれないが、頑張ってみなさい。そうだ、精神的の、一般人と戦うことに対して恐怖をしていたのでない。今、恐怖しているのはもっと即物的、稽古でいつも感じていたもの。レイリアは一度目を閉じ、恐怖に、体が伝えてくれる情報に正面から向き合う。耳を肌を研ぎ澄まし、自分の感覚が伝えようとしていることを読み取ろうと意識を集中する。音は聞こえない、風の流れは感じない、でも、これは……これは……視線?「伏せて」レイリアはレンウェイの腕を引っ張ると叫んだ。声と同時に響くのは、3発の銃声と何か硬いものを砕いた音。「あ」伏せたレイリアの目に、赤い何かが映る。どんどん地面に広がっていくそれにより、肉体強化をしなくても生臭い匂いが広がっていくことがわかる。「な、何なんだよ、これは……」初めて聞くレンウェイの弱弱しい声。だが、レイリアにはそちらを注視している余裕はない。もっと直接的な恐怖が、暴力の具現が目の前に迫っているのだから。「君、幼児とは思えないぐらいすごいね。まさか剄を使っていないのに、攻撃が読まれるとは思わなかった」男は場違いな明るい声と共にこの場に降りてくる。高さ十数メートルから飛び降りて無傷の男。手には銃が握られている。「一般人の犯行に偽装するために剄を込められない一般用の銃を使ったが、その攻撃タイミングを読むとは本当にすごい、俺じゃあ攻撃されてから弾くので精一杯だよ」男は銃を捨て、腰から小さな金属を取り出すと小さな声で呟いた。「レストレーション」男の手の平に、まるで手品のように突然剣が現れ、握られる。そして、それがレイリアたちに向けられる。「こっちも仕事なんでね……。子供相手とはいえ、全力を尽くさせてもらうよ」つい先ほど、少年1人を殺したとは思えないほどの冷静さで、男は生き残った子供たちに宣戦布告した。後書き次回、錬金鋼付き熟練武芸者VS学生レベルぐらいの錬金鋼なしの幼児武芸者。ちなみに、襲い掛かってきた少年は、ヘッドショットされました。