間一髪で理多を助ける事ができたエヴァは、内心で密かに喜びを噛み締めながら、宙に浮かぶ一樹を見上げた。
少し前までは勝ち目など微塵もなかった相手だが、"登校地獄"が解けて力を完全に取り戻した今、脅威を感じる事はない。
相手が真祖の吸血鬼であろうと、例え神に等しい存在である古龍であったとしても、今は誰にも負ける気がしなかった。
一方、予想外の出来事に呆然としていた一樹は、エヴァの視線を受けてハッとすると、慌てて事態の把握を開始した。
仲間が傷付けられている様子を見ている事しかできなかった無力なエヴァが、何故本気で放った自分の一撃を防ぐ事ができたのかと。
魔力があればそうする事も可能だったのかもしれないが──と思い、そしてようやく、エヴァの魔力が復活している事に気付くのだった。
エヴァが魔力を取り戻した事によって理多達は希望を抱いたが、一樹が抱いたのは、死を前にしたかのような絶望だった。
何せ、裏の世界で知らぬ者は居ない、最強にして最凶の真祖の吸血鬼"闇の福音"を相手にしなければならなくなったのだから。
魔力がない時はただの小娘にしか過ぎないと見下せていたが、優位性を失った事により、一樹は完全に怖気付いてしまっていた。
そんな弱気な自分に気付いた一樹は、私は一体何をやっているんだと、恐怖を払うように頭を振って自らを叱咤する。
"闇の福音"の復活に思わず動揺してしまったが、今は自分も真祖の吸血鬼で、エヴァと同じく強大な力をこの手にしているのだ。
故に対等であり、恐れる必要はどこにもないのだと、一樹は自身が劣っている要素から無自覚に目を逸らし、そう信じ込んだのだった。
「なんだ、どうかしたのか? あぁ、怖いというなら、肩慣らしの相手は無理にとは言わないぞ」
「──ッ! だ、誰がッ……!」
なかなか攻めてこようとしない一樹に痺れを切らしたエヴァが、腕を組み、鼻で笑いながら判り易い挑発を口にする。
冷静であれば挑発に乗ったりはしなかったのだろうが、図星であった事もあり、一樹はカッと頭に血が上って反応してしまう。
魔力を乱雑に集束し、怒鳴り声で詠唱を謳い上げると、先程易々と弾かれた事も忘れ、"闇の濁流"をエヴァへ向けて放った。
一樹の放つ魔法は、どれも並みの実力の魔法使いでは防ぐ事が難しい、必殺と言っても過言ではない破壊力がある。
しかし今のエヴァを傷付けるにはあまりにも非力であり、障壁を張るどころか身構える必要もない程度のモノでしかなかった。
エヴァはその場から一歩も動かず右手に魔力を纏わせると、まるで虫でも払うかのように軽々と光線を弾き飛ばしてしまう。
心底苛立たしげにギリッと歯を食い縛る一樹へ向けて、今度は不適に笑うエヴァが、ゆっくりと右手をかざした。
そして真祖の力はその程度ではないぞと、最初からそこにあったかのように一瞬で手の平に膨大な魔力を集束させ。
手本を見せてやろうと口元を吊り上げると、命の危機を感じ取った一樹が反応を表すよりも先にそれを放った。
「──"闇の濁流"」
気負った様子のない、呟くような一言でエヴァから放たれたのは、先程一樹が放った魔法と同じモノ。
その筈なのだが、一樹と違い詠唱を破棄していたにも拘らず、比べものにならないほどの威力を持っていた。
だが端から当てるつもりはなかったのだろう、闇色の光線は一樹の横を駆け抜けると、空へ溶けるように霧散した。
頬を掠めていった光線の余波に冷や汗が流れ、恐怖心がよみがえるが、一樹はそれを無視して攻撃を再開する。
桁外れの魔力で詠唱を無理やり破棄し、両手に作り出した"闇黒の槍"を投げては作りを繰り返して手数で攻めた。
"闇の濁流"にこそ威力や範囲は劣るものの、貫通力が非常に高く、連続して放たれればエヴァとて弾く事は難しいだろう。
そう一樹は思っていたが、相手が常識の通用する存在ではないという事を、まだしっかりと理解できていなかった。
エヴァは"闇の濁流"と違って後ろに居る理多達に被害が及ばないと見ると、驚く事に全ての槍を身体で受け止めたのである。
それは自殺行為にしか思えないような行動であったが、しかし、エヴァは常に身に纏っている魔力障壁だけで防ぎ切っていた。
「──"魔法の射手"」
もはや驚愕した表情が基本形になりつつある一樹に対し、エヴァは手数で攻めるならこれくらいやれと言ってそう呟く。
すると、エヴァの周囲に数え切れないほどの氷の射手が浮かび上がり、指を鳴らす合図でもって一斉に解き放たれた。
あまりにも数が多過ぎて豪雨どころか壁のようになり、別の魔法と化してしまっている射手は、一樹を押し潰そうと追い詰める。
吸血鬼の特技の一つである"霧化"を使えるようになっていれば話は別なのだが、とても避けられるような量ではない。
早々に回避する事を諦めた一樹は、押し寄せる壁へと両手を突き出すと、念の為強めに障壁を張ってやり過ごす事にした。
凄まじい量ではあるものの、所詮は初級魔法の威力のない射手であるし、同じ真祖なのだから十分防ぎ切れるだろうと。
しかしそんな考えは、エヴァを相手にしていながら甘過ぎたという事を、一樹はようやく身をもって思い知る事となる。
最初こそ問題なく防げていたのだが、しばらくすると障壁にヒビが入り、終いには突破されて蜂の巣にされてしまったのだ。
何をどうすればそうなるというのか、エヴァの放つ射手はたった一矢だけで、通常の魔法使いの中級魔法並みの威力があった。
再生が追い付かないほどボロボロになった一樹は焦りを自覚しながら、回復を待たずがむしゃらに攻撃を続ける。
それでも一つひとつが必殺の威力を持っているのだが、その全てをエヴァは軽々と防ぎ、更には苛烈な反撃を加えてきた。
ここまでくると一樹もエヴァとの圧倒的な実力差を認めざるを得ず、気付かぬ振りをしていた恐怖心に飲み込まれてしまうのだった。
「……どうして、そいつらを守っているんですか。力が戻ったのなら、関東魔法協会への体裁など気にする必要はないでしょうに」
そんな中、逃げる隙を求めて一樹が問い掛けた事は、今思い付いた事を言った訳ではなく、ずっと気になっていた事だった。
その突然の問いに、エヴァは手に纏っていた全てを断ち切る"断罪の剣"を消すと、腕を組んで探るように一樹を見据える。
その表情からは何も読み取る事ができなかったが、心なしか、そう質問される事を待っていたような雰囲気を一樹は感じ──
そしてそれは、正解であった。
エヴァは瞬く間に一樹を倒す事ができたが、目的の為に戦闘を長引かせるよう肩慣らしをなどと言ったのである。
その目的とは、力に溺れてしまっている一樹の思い上がりを叩き潰し、冷静で真っ当な思考を取り戻させる事だった。
以前の理多と同様、自分と似た血塗られた人生を歩もうとしている一樹を、完全な闇の世界へと沈み込ませない為に。
傷だらけの理多や刹那、ネギ、そして安否不明の直人達の事を考えれば、即座に決着をつけるべきだったのだろう。
理多と出会うキッカケをくれた恩人ではあるが、最低でも理多とさつき、二人の人生を大きく狂わせた悪人でもあるのだから。
しかし光に生きると誓った今、一樹を見捨てて自分だけが闇の世界から抜け出すというのは、どうも違うように感じたのである。
故にエヴァは、一樹との会話を求めたのだった。
「……確かに真祖の力があれば、好き勝手に生きる事ができるだろう。いや、"できた"と言った方が良いか」
「そ、そうだろうな。この力があれば、何だってできる。だから私はまず復讐を果たし、その後は思いのままに──」
「──そして、最後に残るのは永遠の孤独と退屈だけだ」
同意を得て見逃してもらおうと企んでいた一樹の言葉を断ち切り、エヴァは確信を持ってそう強く断言した。
無限に思える欲望も、永遠の生の中ではいずれ尽き果て、何をしても満たされなくなる事を知っていたからである。
そして、力による強引な方法で満たした欲望がもたらす快楽は、一時のモノでしかなく、自身に何も残さないという事も。
私にはそれが耐え難い苦痛だったが、全員が全員そう思う訳でもなし、どう生きる事を選ぶのかは貴様の自由だがな。
そう言ってエヴァが一樹に背を向けた直後、辺り一帯にむせ返るほどの濃い魔力が満ち始め、急激に気温が低下し始める。
その唐突な変化は、上級魔法の前触れである事は明らかで、一樹は次の一撃で終わらされるのだという事を察したのだった。
「まぁ、時間は腐るほどある。今一度、どう生きていくのかを良く考えると良い。私が言いたかった事はそれだけだ」
「……わ、私は、私はこの力で……! あああ、あああああああああ──ッ!!」
私はお前とは違うと言い切るつもりだったのだが、説得力のあるエヴァの言葉を前に、一樹は言い返す事ができなかった。
真祖としての絶対的な格の違いを見せ付けられ、まともな思考を取り戻した結果、エヴァの言葉に納得してしまった事もあって。
だがそれを認めてしまう事はとても許せるものではなかった為、手遅れで無意味な事だと判っていながら、自棄になって飛び掛った。
真祖の反則染みた身体能力と後先を考えない動きによって、一樹は図らずも限界を超えた速さでエヴァへと肉薄した。
これなら敗北という結果は変わらずとも、背を向けている隙だらけなエヴァに対し、意地の一太刀浴びせられるかもしれない。
などという考えが一樹の頭を過ぎったが、エヴァに通用する筈もなく、触れる事すらないまま決着の魔法が放たれるのだった。
「──"永遠の氷河、凍る世界"」
一五〇フィート四方の空間をほぼ絶対零度にして凍結させ、対象を半永久的に氷柱へ封じ込める最上級の連続魔法。
どちらも詠唱を破棄している為に威力や範囲は格段に落ちてしまっているが、それでもエヴァの誇る最強の切り札である。
白銀の冷気が渦巻くようにして一樹を包み込んだかと思うと、抵抗する暇を一切与えず、一瞬の内に氷漬けにしてしまうのだった。
それは、最強種である真祖との戦いの決着にしては、あまりにも呆気なさ過ぎる地味な最後だった。
しかし割りと目立ちたがり屋なところのあるエヴァは、そんな決着に対して不満を抱くどころかむしろ満足そうで。
月明かりに輝くダイヤモンドダストが舞う中理多達の無事を改めて確認すると、ホッと胸を撫で下ろして笑顔を浮かべた。
「……あぁ、光に生きる事を選んだ時は私の所へ来ると良い。その時は、一緒に光の中で足掻こうではないか」
大きな氷のオブジェと化して地面に突き立つ一樹に、エヴァはふと振り返ってそう言うと、理多達のもとへ歩き出す。
その言葉は辛うじて一樹の耳に届いており、一樹はそれも良いかもしれないなと思いながら、眠るように意識を手放した。
こうして、真祖の吸血鬼となった一樹の起こした歴史に残る大騒動は、様々な人達の活躍によって終わりを迎えたのだった。