――――文化祭も終わり、仲間内での打ち上げとなった
打ち上げの場所は温泉で
疲れた身体をゆっくりと癒し
それは、思い出というアルバムに追加される、記憶の一ページ
待ち合わせ場所に鏡と菜々子が到着すると、陽介達が二人を待っていた。
どうやら最後に到着したのが鏡達のようで、クマが待ちくたびれたと不満を述べている。
待ち合わせ時間に遅れた訳ではないが、鏡は皆を待たせた事を謝罪して、天城屋旅館へと向かう。
「いらっしゃいませ」
鏡達を出迎えてくれたのは仲居の葛西で、雪子が小学生の頃から天城屋旅館で働いている女性だ。
二十代半ばと比較的若く、雪子と千枝にとってはお姉さん的な存在でもある。
「葛西さん、お世話になります!」
千枝が葛西に挨拶をすると、陽介達も千枝に倣って葛西に挨拶する。
陽介達が葛西に挨拶をしていると、奥の方から仲居の格好をした雪子がやって来て『いらっしゃいませ』と声を掛けてくる。
雪子の姿を見たクマが嬉しそうに『ユキちゃん、湯煙温泉若女将なのね!』と声を掛けると、雪子は自分は仲居さんだと否定する。
「ごめんね、急な団体さんが入っちゃって」
雪子は屈んで菜々子に目線を合わせると、申し訳なさそうに謝る。
普段から鏡の手伝いをしている菜々子は首を振って気にしていない事を伝える。
幼い菜々子なりに、手伝いは大切な事だと理解しているからだ。
葛西が菜々子へと詫びる雪子に、自分達に任せて鏡達と一緒に行動して良かったのにと話す。
その言葉に、雪子は宴会が終わるまでは人手が必要だからと、心遣いに感謝をする。
「では、お部屋へご案内しま~す」
聞き覚えのある声に視線をそちらに向けると、雪子と同じく仲居の格好をしたあいかが立っていた。
陽介が驚きなら何をしているのかとあいかに訊ねると、少し首を傾げて『ん~、バイト?』と、何故か疑問系で答える。
あいかが居る事に驚く陽介達に、雪子が『言ってなかったっけ?』と、時々あいかが天城屋旅館を手伝ってくれている事を説明する。
その説明に完二が愛屋の方は大丈夫なのかと訊ねると、大丈夫だとあいかが返す。
「お部屋へどうぞ」
そう言って、あいかが部屋へと鏡達を案内する。
移動の際に雪子へと視線を向けると、葛西と一緒になって玄関ロビーに飾られている花の事で相談しあっているようだ。
どうやら花だけが目立って調和が乱れているので、ボリュームを減らしたり、色合いを柔らかくしたりしようと検討している。
雪子は通信教育を使い、インテリアコーディネイターの資格を取ろうとしている関係か、最近では旅館の内装にも気を配っている。
努力の甲斐あって、古くから利用しているお客からも、以前よりも寛げると評判は上々だ。
鏡達が通された部屋は景色がよく見える部屋で、日当たりも良く、急な団体客の宿泊もあって、陽介達とは部屋が離れている。
立ち去り際、あいかが鏡達に陽介達の部屋には行かない方が良いと、不可解な忠告を残して去っていく。
忠告の内容が気になるが、すぐに夕飯の時間だからと告げられた鏡達は荷物を置いて支度を調える。
鏡と菜々子は浴衣に着替え、千枝達は上着を脱いだ格好だ。
菜々子の着替えを手伝う姿に、りせと千枝は夏祭りの事を思い出し、表情を綻ばせる。
直斗も実の姉妹のように仲の良い二人の姿に、『本当に仲が良いのですね』と、少しばかりの羨望の眼差しを向ける。
二人が着替え終えてから、鏡達は指定された宴会場へと移動する。
宴会場には陽介達が先に到着しており、やって来た鏡達にクマが『遅いクマよ』と、早く座るように促してくる。
用意されていた料理は、旬の野菜を使った天ぷらに稲羽マスの塩焼き、お麩と松茸のお吸い物にかやくご飯だ。
食後のデザートはゆずのアイスクリームで、女性陣には好評だった。
食事中、クマが陽介のおかずを横取りしようとして、菜々子の前ではしたない真似をするなと千枝に一喝される一幕もあった。
『ごちそうさまでした』
食事を終え、それぞれの部屋へと戻ろうとしたところ、最後に宴会場から出てきた陽介にあいかが声を掛ける。
怪訝な表情を浮かべた陽介にあいかは一つ頷くと、そのまま仕事へと戻る。
「陽介、どうかしたの?」
「……いや、あいかちゃんに『部屋、大丈夫?』って聞かれたんだけど、何だったんだろうな?」
鏡の質問に陽介は首を傾げながらそう答える。
そう言えば、あいかから陽介達の部屋には行かない方が良いと忠告されていた事を思い出し、鏡はその事を陽介に教える。
「何か、嫌な予感しかしないのは、俺の気のせいか……?」
「私からは何とも言えないわね。情報が少なすぎるし」
何とも言えない表情で陽介が鏡に訊ねるが、鏡としても判断するための情報が少なすぎて予測も出来ない状況だ。
考えていても答えが出ないので、陽介はひとまずこの件は保留する事に決め、鏡達のこの後の予定を訊ねる。
陽介の問い掛けに雪子が手伝いを終えたので、一緒に露天風呂へと行くつもりだと答えた鏡は、りせ達の元へと向かう。
部屋へと戻って入浴の準備をしていると、手伝いを終えた雪子が着替えを手に鏡達の部屋へとやって来た。
「手伝いで一緒に居られなくてごめんね。準備は出来てる?」
雪子の問い掛けに鏡達は頷くと、着替えを手に露天風呂へと移動する。
脱衣所で着替えて露天風呂へと出ると、満天の星空と広大な景色に目が奪われる。
りせと直斗は今回が初めてなので、視界に広がる景色に感嘆の声を上げ、二回目となる菜々子も嬉しそうに鏡の手を引く。
「あいかちゃんも入ってたんだ」
雪子の言葉に、鏡達に気付いたあいかが軽く手を挙げる。
かけ湯をしてから身体を洗い、鏡達は湯船へと移動する。
「そう言えば、あいか。女装コンテストの衣装調達、ありがとうね」
「ん~、私も楽しめたから、気にしないで」
鏡のお礼にあいかはそう答えると、また何か手伝えることがあれば言ってきてと話す。
「直斗君、こっちおいでよ。広いよ」
独りだけ、隅の方で大人しくしている直斗に雪子が声を掛ける。
雪子に呼ばれた直斗が小さく返事をすると、おずおずと鏡達の方へと近付く。
「こうやって改めてみると、直斗の胸って本当に大きいよね……」
近付いてきた直斗の胸に視線を向けたりせがしみじみと呟く。
その言葉に直斗が咄嗟に胸を両手が隠すが、直斗を取り囲むように雪子と千枝も近付いてきて口々に同意の言葉を続ける。
あいかも興味があるのか、直斗の傍までやってくると、まじまじと直斗の胸を見て『……確かに大きい』と自分の胸と見比べる。
「鏡さんだって、サイズ的には僕とそう変わらないじゃないですか!」
悲鳴に近い声を上げて直斗が反論する。
その言葉に雪子達の視線が鏡へと向けられ、鏡の胸元に視線が集中する。
「そう言えば、鏡も着痩せするのか、結構サイズがあるよね」
「……私の場合は直斗と違って、身長があるのも原因だと思うよ」
千枝の言葉に、鏡がそう答える。
鏡と直斗の身長差は二十センチ近くあるため、相対的に直斗の方がサイズが大きく見えているようだ。
「ね、鏡。ちょっと、こっちに来て」
その指摘に千枝が鏡を手招きする。
千枝は呼ばれて近付いてきた鏡と、傍にいる直斗の胸を無造作に掴むとその大きさを比較する。
無造作に胸を捕まれた直斗は悲鳴を上げると、身をよじって千枝から離れて涙目で千枝を睨み付ける。
それとは対照的に、鏡は一つ溜息をついて自身の胸を掴む千枝の手を、やんわりと退ける。
「直斗君の言う通り、鏡と直斗君の胸の大きさはあまり変わらないね」
千枝の言葉に直斗は顔を真っ赤にして抗議するも、声にもならない声で何を言っているのかが解らない。
「……千枝。いきなり人の胸を掴むのは、どうかと思うのだけど?」
二人の抗議に千枝は引きつった笑いを浮かべると、ちゃんと比較するなら触った方が確実だからと弁明する。
「菜々子も、お姉ちゃん達みたいに大きくなるのかな?」
それまで鏡達の様子を見ていた菜々子が、自分の胸を見ながらそんな疑問を述べる。
その言葉に、りせ達が菜々子も自分達と同じ年齢になる頃には大きくなっているよと答える。
そんなやりとりをしてる中、あいかが雪子の方へと視線を向けると、そろそろ露天風呂が男湯の時間になる事を指摘する。
「忘れてたっ! そろそろ上がらないと、男の人達が入ってくるかも」
その言葉に鏡達は慌てて湯船から出ると、脱衣所へと移動する。
急いで身体をバスタオルで拭い、鏡は先に菜々子の着替えを済ませてから自身の着替えを済ませ、備え付けのドライヤーで髪を乾かす。
その間、一番先に着替えと髪を乾かし終えた千枝が男性客が入ってこないように、脱衣所の入り口へと移動する。
千枝が脱衣所の外へと出ると、こちらの方へと向かってくる足音と話し声が聞こえてくる。
「里中!? 何でお前がここに居んだよ! 今の時間、露天風呂は男湯だろうが!?」
「うっさい! 鏡達が今、中で着替え中なんだから、アンタらは鏡達が出てくるまでココで待ってなさい!」
「えっ!? 今センセイ達、ドキドキ生着替え中クマかっ!?」
やって来たのは陽介達で、千枝が居ることに驚いた陽介の言葉に千枝が言い返す。
二人のやりとりを聞いたクマが、急いで着替えを覗こうと脱衣所へと向かおうと駆け出す直前、浴衣の襟首を完二に捕まえられる。
「カンジっ!? 離すクマよ! センセイ達の生着替えを見るクマよ!!」
「アホかっ! 男なら、覗きなんて情けない真似してんじゃねえよっ!!」
もがきながら抗議するクマを一蹴した完二は、脱衣所へと向かえないようにクマの身動きを封じ込める。
流石に陽介もクマの行動を看過する訳にはいかず、完二と共にクマの暴走を押さえ込む。
「クマ吉……アンタには制裁が必要なようね」
完全に据わった目で睨み付けてくる千枝に、クマが青ざめた表情を見せる。
千枝の凄みに完二と陽介も身体を強ばらせていると、千枝の背後から着替えを済ませた鏡達がやってくる。
「陽介達も、今からお風呂?」
陽介達に気付いた鏡がそう声を掛ける。
湯上がり姿の鏡達に見とれていた陽介は、鏡の言葉にほんの少し反応が遅れるも、先ほど思った疑問を鏡に伝える事にする。
「あぁ、連絡があったからな。でも、今の時間は男湯の筈だろう? 何で姐御達が居るんだ?」
陽介の疑問に雪子がバツの悪そうな表情を見せる。
その様子に陽介が訝しげな表情を見せると、鏡は雪子が男湯の時間の事を忘れていて、上がるのが遅くなったからだと説明する。
「それって、クマ達がもう少し早く到着していたら、混浴出来たかもって事クマかっ!?」
鏡の説明に、心底残念そうな表情をしたクマが落胆の声を上げる。
欲望に忠実すぎるクマの発言に、女性陣から一斉に白い視線が向けられる。
「……このクマ、やっぱり始末した方が」
ぼそりと小さく呟く雪子に、流石に犯罪だから拙いと直斗が宥める。
直斗の件で少しは自重するかとも思えたが、どこまで行ってもクマは己の欲望に忠実である事に変わりないようだ。
「クマ、このままココで話していたら時間が無いから、さっさと風呂に行くぞ」
そう言ってクマを促した陽介は、鏡達にこれから露天風呂に入ってくると告げて脱衣所へと向かう。
クマは名残惜しそうにしているが、首根っこを完二に掴まれているので、抵抗空しく脱衣所へと連れられて行く。
陽介達と別れた鏡達は、自宅へ帰るあいかをロビーまで見送りに行くと、飲物を購入してから自分達の部屋へと戻る。
部屋へと戻ってきた鏡達は購入してきた飲物を飲みながら、文化祭での事を話し合う。
休み明けのホームルームで喫茶店の反省点を話し合う事になっているが、予め反省点をまとめるため、鏡達はそれぞれ意見を出す。
りせと直斗もお客としての視点から、気付いた事を挙げ、自分達の出し物についての意見も鏡達に訊ねる。
菜々子も文化祭を見て回った時に思った事を鏡達に話し、小さい子供から見た貴重な意見を鏡達へと伝える。
「やっぱり、飲食物を扱うと、衛生面での問題点が一番目に付くね」
意見をまとめると、一番多く出たのが衛生面の問題点だった。
今回は予め作り置きしていた物を提供する形で対処していたが、不安が全て解消出来なかったのも事実だ。
冷やして保存するのが難しかった為、生クリームを使ったケーキなどが提供できず、焼き菓子中心のメニューしか提供できなかった。
その事は訪れたお客からも指摘されており、メニューにあれば良かったとと言う意見は女性客を中心に多く挙げられていた。
「学校の出し物だと、どうしても大掛かりな機材が使えないからね」
千枝の言葉に雪子がそう答え、それでも出来る範囲の事は出来たはずだと自身の意見を述べる。
確かに、訪れた人達の反応は悪くなく、メニューが足りない事への指摘はあったが、提供していた物への反応は好意的だった。
実際に『美味しかった』という感想を多く貰っており、結果的には成功していると皆の意見は一致している。
「取り敢えず、反省点はこれで出揃ったと思うから、この話はこのくらいで切り上げた方が良さそうね」
そう言って鏡が菜々子の方へ視線を向けると、菜々子は眠そうにうつらうつらしている。
時計を見ると、いつもなら菜々子はもう眠っている時間だった。
話し合いに集中していたせいか、時間がかなり経っている事に気付かなかったようだ。
「私達には少し早いけれど、菜々子ちゃんを休ませてあげないとね」
雪子の提案で鏡達は布団を敷き就寝する事にする。
「菜々子ちゃん、クマから貰った仔猫のぬいぐるみが本当にお気に入りなんだね」
ぬいぐるみを抱きしめて離さない菜々子の姿に、千枝が表情を綻ばせて話す。
「一緒に居るように心がけてはいるつもりだけど、どうしても菜々子ちゃんを独りにさせている時間が多いからね」
表情を僅かに曇らせて鏡が呟く。
手元から離さないという事は、それだけ独りでいる事を寂しく感じている心の表れなのかも知れない。
鏡の呟きに、千枝がまたこうやって集まる機会を作れば良いと提案する。
「冬になって雪が積もったら、皆でスキーとかしようよ」
稲羽市は山々に囲まれた土地柄、冬には雪が積もる事が多い。
その事もあり、冬になると雪景色を楽しみながら露天風呂に入る事を目的とした常連客も居るほどだ。
「だったら私、皆でかまくらを作りたいな」
りせの提案に雪子も楽しそうと乗り気になり、冬になったら実行しようと皆で約束を交わして眠りにつく。
翌朝になり、早くに目を覚ました鏡達は、眠っている菜々子を起こさないように部屋から抜け出すと、露天風呂へと向かう。
早朝とあって、昨夜と同じく貸し切り状態となっている温泉に浸かり、ゆっくりと身体を温める。
「外は少し寒いけれど、温泉に浸かっていると丁度良い感じだね」
鏡の言葉に皆が頷く。
「そう言えば、隣の部屋に柏木先生と大谷さん、泊まってたよ。ビックリしちゃった。仲良いんだねー」
千枝の言葉に、雪子が辛い事があると時々泊まりに来ては二人で泣いているのだという。
今回はコンテストで優勝出来なかった事が、泊まりに来た理由なのかなと零す千枝に、鏡が僅かに困惑した表情を見せる。
「あの二人、良いコンビだよね」
鏡の隣にいるりせがそう言って笑うと、鏡も表情を和らげてその言葉に同意する。
「そう言えば菜々子ちゃん、今日はこの後で学校に行くんでしょ? さっき葛西さんが車で送ってくれるって」
文化祭の振り替え休日で鏡達は休みだが、菜々子は登校日であるため、ノンビリとはしていられない。
そのため、朝食を摂り次第帰宅する予定だったのだが、うっすらと霧がかかっているため、葛西が気を使ってくれたようだ。
「ありがとう、雪子。葛西さんにも、後でお礼を言わないとね」
鏡のお礼に雪子は笑って頷く。
もう少しゆっくりしていたいが、そろそろ上がって菜々子を起こさないと時間が足りなくなるので、鏡達は入浴を切り上げる事にする。
身支度を調え部屋へと戻ってくると、鏡はまだ眠っている菜々子を優しく起こして服を着替えさせる。
菜々子が着替え終わるのを待って朝食を摂りに大広間へと向かう途中、何やら勝ち誇った表情を見せる柏木達とすれ違った。
千枝から聞いた話ではかなり落胆していた筈なのだが、普段と変わらぬ自信に満ちあふれたその様子に、鏡は面食らう。
「何か良い事でもあったのかな?」
鏡同様、柏木達の様子に面食らっていた千枝がそう零す。
心なしか、二人の肌が艶やかな状態になっているように見えた。
しかし、真相は鏡達に判るはずもなく、気にはなったが朝食を摂るために大広間へと急ぐ。
「……おはようさん」
大広間に到着すると、妙に疲れ切った表情をした陽介が鏡達を出迎えた。
見れば陽介だけでなく、クマと完二も疲れ切った表情をしており、クマにいたっては心なしか顔が青覚めて見える。
目の下には隈ができており、見るからに寝不足といった様子だ。
「何だか疲れ切っているようだけど、どうかしたの?」
鏡が訊ねると、陽介は『……色々とあったんだよ』と、言葉を濁らせる。
「……女の恨みって根深いんだな」
しみじみと呟く陽介に鏡は戸惑った表情を浮かべると、雪子へと視線を向ける。
鏡から視線を向けられた雪子は思わせ振りな笑みを見せると、朝食が冷めない内に食べてしまおうと鏡達を促す。
朝食は出汁巻き卵に塩焼きした魚の切り身。お味噌汁の具材は大根で、出汁巻き卵と塩焼きした切り身には、好みで大根おろしをかける。
あっさりとした味付けがされており、物足りなさを感じる常連客は、生卵を頼んで卵かけご飯にしているようだ。
朝食を摂り終えた鏡は菜々子と共に、葛西の運転する車で一足先に戻る事になる。
陽介達は朝食後に風呂へと入ってから帰宅すると言い、千枝とりせ、直斗の三人は一休みしてから帰宅する予定だ。
「葛西さん、わざわざ送っていただき、ありがとうございます」
運転する葛西に鏡がお礼を述べる。
その言葉に葛西は微笑むと、お礼を言うのはむしろこちらの方だと言葉を返す。
「今まで千枝ちゃんだけが雪ちゃんにとって友達と呼べる相手だったけど、鏡ちゃん達と出会ってから本当に良く笑うようになったのよ」
葛西から逆にお礼を言われて戸惑う鏡に、笑いながら葛西が説明する。
実家の手伝いをしているので気付きにくいが、雪子は仕事以外では若干ながら人見知りする部分があるそうだ。
言われてみると、知り合った当初の雪子はどこか一歩引いた様子を見せていた事に気付く。
「それにあの子、人前では結構ネコを被っているでしょ? 実家の関係上、必要以上に砕けた様子を見せられないのは仕方ないけど……」
年相応に振る舞えない環境に閉じ込めてしまって、雪ちゃんには辛い思いをさせているでしょうね。
そう呟く葛西の表情が僅かに曇る。
気は配っていても、同世代でない上に実家の従業員である葛西達には雪子自身、実家に対する愚痴を零す事は出来ないだろう。
葛西の言葉に、鏡は雪子が抱えている実家に対する複雑な思いに葛西が気付いているのだと理解する。
「私達には言えない事でも、鏡ちゃんになら結構、打ち明けているんじゃないかな? 出来ればこれからも雪ちゃんの事、お願いね」
「えぇ、雪子は私にとっても大切な友人ですから」
「菜々子も雪子お姉ちゃんの事、大好きだよ!」
葛西の言葉に、鏡はそう言って頷きを返し菜々子も満面の笑みを浮かべてそう話す。
そんな二人の姿に葛西は満面の笑みを浮かべると、それなら安心だと満足そうに頷く。
「それじゃ、私は戻るね。菜々子ちゃん、今日は霧が出ているから学校に行くときは気をつけてね」
堂島家に到着し、車から降りた二人に葛西がそう声を掛ける。
雨が降った後ではないが、うっすらと霧がかかっており、通学するには気をつけないとならないだろう。
「今日は休校日ですから、小学校まで送って行こうかと思います」
葛西の言葉に鏡はそう返し、菜々子も葛西の言葉に『はーい』と可愛く返事を返す。
鏡の言葉に葛西は安心した様子を見せると、二人に軽く手を振ってから車を発車させる。
去っていく車を見送った二人は鍵を開けて家に入ると、前日に用意しておいたランドセルを鏡が菜々子に手渡す。
「それじゃ、遅れないうちに出掛けましょうか?」
鏡の言葉に菜々子は満面の笑みを浮かべて頷くと、鏡と仲良く手を繋いで小学校へと向かう。
小学校に到着すると、鏡と同じように家族に連れられて登校してきた児童の姿が多く見られた。
世間的には連続殺人事件は解決された事になっているが、やはり不安に思っているのだろう。
原因不明の霧に対して、稲羽市住民の不安が募っているとニュースでも報道されている。
「それじゃ菜々子ちゃん、学校が終わる頃に迎えに来るから、一緒にジュネスへ買い物に行こうね」
「うんっ! 行ってきます、お姉ちゃん!」
鏡の言葉に笑顔で頷くと、菜々子は鏡に手を振って校門をくぐっていく。
校舎へと入る菜々子を見送った鏡はそのまま帰宅するのは勿体ないので、河川敷を少し散歩してから帰宅する事にする。
河川敷へと向かう途中、鏡は稲羽市ではあまり見掛けない黒塗りの乗用車とすれ違う。
どことなく場違いに見える車は、菜々子の通う小学校に向かっているようだ。
引っ掛かるモノを感じたが、たまたま小学校の方角に向かっているだけかも知れないと考え、鏡はそのまま河川敷へと向かう。
鏡とすれ違った黒塗りの乗用車の後部座席で、二人の男性が今後の予定を確認していた。
「香西先生、本日のスケジュールですが、これから向かう小学校を訪問した後で、稲羽市立病院の視察となっております」
秘書風の男が話し掛け、恰幅の良い神経質そうな男が鷹揚に頷く。
世間を騒がせた猟奇殺人事件の舞台となった稲羽市。
事件は犯人である男子高校生の逮捕で幕を閉じたが、原因不明の霧に対する市民からの不安の声が多く上がっている。
自身が代表を務める“環境を考える会”としては、環境問題とも言えるこの問題に対して、行動を起こす必要があった。
正義感はもちろんだが、次の選挙に向けた活動も行わなければならない。
理想だけでは何も成せないのは理解しているが、打算的な思惑を伴った自身の行動に嫌気がさす。
そんな事を思いながら、香西は何気なく視線を車外へと向ける。
「それにしても、本当に何もない場所なのだな。稲羽市と言う所は……」
車内から見える、うっすらと霧がかった風景に香西はそう呟く。
香西の呟きに、秘書は陶芸品と老舗の温泉旅館くらいしか見る物がない田舎町ですからと答える。
「そうか、こういった事ではなく温泉旅行で訪れたかったものだな……」
秘書の説明に香西はそう答えると、自身の手元にある今日の予定表に目を通してこの後の事へと意識を切り替える。
その姿を確認した秘書は香西の邪魔にならないように、スケジュール帳を閉じてこれからの事に備える。
菜々子を小学校へと送り、河川敷を軽く散歩して帰宅した鏡は、菜々子を迎えに行くまでの時間を宿題へと充てる。
途中、軽く昼食を摂ってから宿題を済ませて時計を見ると、菜々子を迎えに行く時間になっていた。
戸締まりを済ませ、今日の献立を考えながら鏡は菜々子を迎えに行く。
鏡が小学校へと到着すると、校門前で菜々子が鏡の到着を待っていた。
「ごめんね、菜々子ちゃん。待たせちゃった?」
「ううん、菜々子もさっき来たところだよ!」
鏡の言葉に菜々子が笑って答えると、鏡は菜々子と手を繋いでジュネスへと向かう。
今日は霧が出たせいか少し肌寒いので、今晩の献立はカレーライス作る予定だ。
ジュネスに到着した二人は、顔馴染みである坂井に挨拶すると今日の献立を話して、お勧めの食材を教えてもらう。
「今日は挽肉がお薦めだから、ハンバーグカレーとか良いかも知れないわね」
坂井の薦めで鏡達はハンバーグの材料とカレーの材料を購入して帰宅する。
鏡が玉ねぎを炒め終え、ハンバーグ用の挽肉を捏ねている間、菜々子がカレーの具材を調理していく。
今回はハンバーグを使うため、カレー自体には肉を入れず、野菜中心の具材だ。
手際良く調理を進めていき、鏡がハンバーグの準備を済ませてから菜々子の調理を手伝う。
今回は坂井からのアドバイスで、ハンバーグのつなぎにお麩を使って肉汁を多く残せるように一工夫が加えられている。
カレーの具材に火を通し煮込んでいる間に、馴染んだ挽肉でハンバーグを作り、フライパンで焼き上げる。
ここでも坂井からのアドバイスで、両面を軽く焼いたハンバーグの下に薄く切ったニンジンとジャガイモを敷く。
そして、ハンバーグが浸からない量のお湯を入れ、蓋をして蒸し焼きにする。
こうする事で、ハンバーグに触れてお湯に戻った水蒸気の凝縮熱を利用して、効率よく全方位から加熱する。
出来上がったハンバーグを、炊き上がったご飯の上に乗せ、その上から出来上がったカレーをかける。
遼太郎から、県庁への出張が手間取り帰宅が遅くなるとの連絡があったので、鏡達は先に晩ご飯を食べる事にする。
『それでは、次のニュースです。“環境を考える会”代表の香西氏が、市内の小学校を訪れ、霧の影響を現地調査しました』
「あ、この人、がっこうに来たよ」
画面に映った香西の写真を見た菜々子がそう呟く。
『調査を終えた香西氏は、コメントを発表しています』
ニュースの中で香西がある生徒と話した事を挙げ、風評に惑わされず自分の言葉で話していたと褒めちぎっていたそうだ。
香西のコメントに対して集まった保護者から、選挙に向けた人気取りと言う評もあり、反応は賛否両論のようだ。
「……っくしゅ!」
ニュースの内容が気になったが、突然の菜々子のくしゃみに鏡が視線を菜々子へと移す。
見ると顔が少し赤くなっており、頭が痛いと鏡に訴える。
鏡は菜々子の額に手を当て熱を測る。
「菜々子ちゃん、酷い熱じゃない!? 薬を飲んですぐに休まなきゃ!」
そう言って、鏡は救急箱から風邪薬を取り出すと菜々子に飲ませて、すぐに休めるように布団を敷く。
鏡は菜々子を布団に寝かせると、寝付くまで傍にいる事にする。
「ね、お姉ちゃん……春になったら、かえっちゃうの……?」
菜々子の質問に、鏡は咄嗟に言葉を返す事が出来なかった。
「もうすぐ、冬になっちゃうね……雪がふったら、お姉ちゃんと、雪だるま作る……」
「……そうだね、一緒に雪だるまを作ろうね。でも、その前に風邪を早く治さなくちゃ」
菜々子の言葉に鏡は無理に笑顔を作ると、そう言って早く元気になるためにも休むように促す。
鏡の言葉に、菜々子は眠るまで傍にいて欲しいとお願いする。
「大丈夫、菜々子ちゃんが眠るまで傍にいてあげるから」
そう言って、鏡は菜々子のお気に入りである仔猫のぬいぐるみを菜々子の枕元に置き、この子も一緒だからと菜々子を励ます。
枕元に置かれた仔猫のぬいぐるみを抱きしめ、菜々子は嬉しそうに目を閉じると薬が効いてきたのか、ほどなくして眠りにつく。
菜々子が寝付いた後でも、鏡は暫く菜々子の傍にいて様子を見る。
特に苦しそうな様子も見せていないので、鏡は菜々子を起こさないように自室へと戻る事にする。
(菜々子ちゃんの質問に答えてあげられなかった……)
鏡が堂島家に来て、もう半年が過ぎようとしている。
元々、一年間という限られた時間である事は解っていた。
けれども、菜々子や遼太郎、陽介達と過ごす時間が、今となっては鏡の中で大きな比重を占めている。
その事に鏡は充実した時間を過ごしていると実感すると共に、いずれ訪れる別れに対して寂しさを覚える。
(けど、その前に事件の真犯人を捕まえないと……)
今だその影すら掴めない事件の真犯人。
自分が稲羽を去る前に、何としても捕まえないと。
そう気持ちを新たにしていると、携帯電話から着信を告げるメロディーが流れ出す。
誰からだろうとディスプレイを見ると、相手は陽介のようだ。
「はい、もしもし」
『あ、姉御か!? 今、時間いいか?』
鏡が携帯電話を通話状態にすると、陽介が切羽詰まった様子で話し掛けてくる。
「どうかしたの?」
「大変な事が起きた、文化祭での姉御とりせの様子が、どういう訳か週刊誌にスクープされてんだ!」
陽介から告げられた内容に、鏡の思考が停止する。
『詳しい事は明日、学校で話す。ったく、何でこんなタイミングでスクープなんてされんだよ!』
陽介自身も、気持ちの整理が付いていないのだろう。
言葉の端々に憤りが滲み出ている。
取り敢えず、鏡自身も状況が理解できていないので、事情は明日の学校で聞く事を約束して通話を終える。
鏡達の知らないところで事態は動きだし、その影響が予測できない事態に鏡は戸惑いを覚えた。
2012年05月25日 初投稿