――――これまで歪であった自分
その歪さを疑う事すら無かった昔
けれども、それを知った今
このままでは駄目なんだと思った……
菜々子とお風呂に入り一緒に眠りについた鏡が、翌朝になって朝食の準備をしようと菜々子と共に居間に下りる。
居間には遼太郎達の姿はなく、サイドボードに遼太郎からのメモが残されていた。
メモには足立と共に早出なので先に出る事が書かれており、今日の帰りは遅くなるから晩ご飯は先に済ませてくれとも書かれていた。
菜々子と共にメモの内容を確認した鏡は、菜々子と共に朝食の準備に取り掛かる。
翌日が敬老の日で、連休中の予定が特にない鏡は菜々子と過ごす事に決め、朝食を摂りながら菜々子と連休中の予定を話し合う事にした。
連休中、鏡が一緒に過ごしてくれると知った菜々子は満面の笑みを浮かべて喜んでいる。
これまで事件を追い掛けていた事もあって、連休を菜々子とゆっくり過ごせるのはゴールデンウィーク以来だ。
その為、菜々子の喜びも大きく連休中は何をして過ごそうかとあれこれと思案しているようだ。
「お姉ちゃん。菜々子ね、ジュネスに行きたい!」
考えが纏まった菜々子が瞳を輝かせて鏡にお願いする。
稲羽市にはジュネス以外に賑わう場所が無く、遊ぶのならば主に隣の沖奈市へと出向く必要がある。
しかし、小学生である菜々子を勝手に遠くまで連れて行く訳にはいかないので、菜々子のリクエストに答えジュネスへと出掛ける事にする。
食べ終えた食器を片付け、今日は天気も良いので洗濯物を干してから、二人はジュネスへと向かう。
帰りに晩ご飯の材料も購入する事を考え、道すがら菜々子と献立を一緒に考えながら移動する。
ジュネスへと到着した二人は、少し早いが昼食を摂るためフードコートへと向かう。
「センセイ、ナナちゃん、いらっしゃいませクマ!」
フードコートにやって来た鏡達に気が付いたクマが、嬉しそうに二人に声を掛けてくる。
今日は着ぐるみ姿で手には風船を持っており、訪れた子供達に配っている。
クマの周りにいる子供達は嬉しそうに、手渡された風船を持ってそれぞれの家族の元へと戻っていく。
母親と思わしき人物に、嬉しそうに風船を見せる子供の姿を見た菜々子が、鏡と繋いでいた手に僅かに力を込める。
鏡はそんな菜々子の手を握り返すとクマへと挨拶を返し、菜々子に何が食べたいかを訊ねる。
菜々子のリクエストでオムライスが出たので、鏡も同じ物を注文する事にする。
「そう言えば、陽介は?」
「ヨースケは食品売り場で商品の陳列をやってるクマよ」
オムライスが出来上がるのを待っている間、ふと気になった事を鏡が訊ねるとクマがそう答えてくれた。
クマもこれから店外で風船を配らなくてはいけないそうなので、名残惜しそうにしながらもその場を後にする。
鏡はクマを見送ると出来上がったオムライスを受け取り、菜々子と共に空いているテーブルへと移動する。
「あら? あなた達」
オムライスを食べ終わり、この後の予定を菜々子と話し合っていた鏡達に声が掛けられる。
「こんにちは、瑞紀さん」
鏡達に声を掛けてきた相手は、以前に菜々子の服を買いに来た時にアドバイスをしてくれた瑞紀だった。
ジュネスで子供服専門店の店長をしている瑞紀は気さくな人物で、ジュネスをよく利用する鏡とは顔を合わせる機会が多い。
菜々子も鏡と一緒にジュネスに買い物に来ることが多いので、菜々子も瑞紀とは顔馴染みになっている。
「瑞紀さんは休憩中ですか?」
鏡の質問に『そんな所かな』と、瑞紀にしては珍しく歯切れの悪い返答が返ってきた。
その様子に鏡がどうかしたのかと訊ねると、瑞紀は菜々子へと視線を向けて少し考える素振りを見せる。
「ねぇ、急ぎの用事がないのなら、お願いしたい事があるのだけれど」
そう話し掛けてきた瑞紀のただならぬ様子に鏡が内容を聞いてみることにする。
瑞紀の説明によると、秋物の新作を発売するにあたって広告用の写真撮影のモデルを菜々子に頼みたいそうだ。
何でも、本来モデルをやる予定だった少女が急な腹痛で撮影が出来なくなったらしい。
「本当なら後日改めて撮影をやり直したいのだけれど、印刷の都合で何とか今日中に撮影を済ませないといけないの」
そう言って、瑞紀は申し訳なさそうに鏡達への説明を終える。
鏡としては困っている瑞紀の手助けをしたいと思うが、実際にモデルをする菜々子の意志に任せる事にする。
「ね、お姉ちゃん。瑞紀さんのお手伝いをしても良いかな?」
菜々子も困っている瑞紀を手助けしたいと思ったのだろう。
本来なら恥ずかしがり屋な菜々子は、こういった目立つ行動を好まないのだが、困っている瑞紀を放っておけないのだろう。
瑞紀は菜々子にお礼を述べると、撮影場まで二人を案内する。
撮影場に到着すると、瑞紀は休憩をしていたスタッフ達に奈々子を紹介すると、撮影の続行を通達する。
体調を崩したモデルの子は両親に連れられ、スタッフと共に病院へと向かっているそうだ。
「じゃあ、菜々子ちゃんはこっちで着替えてもらえるかな?」
そう言って、瑞紀が菜々子を控え室へと案内する。
案内された控え室にはいくつもの衣類が掛けられており、その内の一つを手にした瑞紀が菜々子へと手渡す。
手渡せれた衣服は、柔らかい素材で出来たカーディガンと、それに合わせたブラウスとチェック柄のスカートだ。
小物にスカートと同じチェック柄のショルダーバックも手渡される。
手渡された衣服に着替えた菜々子は、続いて鏡台でメイクスタッフに軽く化粧を施される。
初めての化粧に菜々子は恐縮しながらも、嫌がる素振りは見せずにスタッフのされるがままになっている。
鏡の見ている前で、化粧を施された菜々子がメイクスタッフに話し掛けられ、緊張を解されている。
流石は子供服を扱う専門店のスタッフと言ったところか。
どちらかというと、人見知りする方の菜々子もスタッフ達との会話でリラックスしてきている。
「初めまして、うちの店長が急な頼み事をしてごめんね」
そう言って声を掛けてきたのは撮影担当の女性カメラマンで、何でも瑞紀とは高校時代からの親友だそうだ。
「酷いわね、悠。でも、撮影が中止にならなかったのだから良いでしょ?」
その言葉を聞き留めた瑞紀が、冗談めかして女性カメラマンに話し掛ける。
そんな他愛のない二人のやりとりに、鏡は互いを信頼しあっている二人の在り方を見た。
身近な人物で言うと、遼太郎と足立が近いだろうか?
あの二人と違い、互いが対等な立場で共に相手を尊重しているが纏っている空気が遼太郎達を思い起こさせる。
撮影は一着の服装に付き数回の撮影を行い、仕上がった写真から出来の良いのを選ぶようだ。
今回は撮影だけで、写真選びは撮影が終わった後で行われるらしい。
悠が他愛ないお喋りをして、リラックスした菜々子を撮影していく。
撮影の合間に用意されたお菓子を一緒に食べたりと、鏡が思っていたのとは違ったアットホームな雰囲気だ。
しかし、子供相手の撮影なのだから、こういった雰囲気の方が正しいのかも知れない。
今も悠が菜々子に以前に撮った写真を見せており、初対面とは思えないほど菜々子と打ち解けている。
「それじゃ、菜々子ちゃん。あと少し頑張ってね」
そう言って、悠が菜々子に撮影が残り少しである事を伝える。
撮影は順調に進み、最初の方は緊張していた菜々子も自然と笑みを浮かべて撮影できるまでになっていた。
どの衣服も菜々子にとても似合っており、見学していた鏡も色々な服装の菜々子を見られて楽しんでいた。
「はい、お疲れ様。本当に助かったよ」
無事に撮影も終了し、瑞紀が菜々子に労いの言葉を掛ける。
他のスタッフ達は撮影の後片付けをしており、悠もカメラをケースにしまっている。
この後で撮影したデータをチェックして広告に使う写真を選び、印刷会社へと印刷の依頼をするそうだ。
「菜々子ちゃんだったら、プライベートでもモデルをして貰いたいね。お姉さんと一緒に」
機材を片付け終えた悠が瑞紀の会話に交じってくる。
悠の様子からお世辞ではなく、本心で菜々子の事を気に入っているのが解る。
「そうね、今度ティーン向けの商品を販売する予定だから、その時には鏡ちゃんにもお願いしようかしら?」
悠の言葉から、瑞紀が真面目な表情で検討をしている。
どうやら鏡にどんな衣装が映えるのかを真剣に考えているようだ。
そんな瑞紀に鏡はそろそろお暇しますと挨拶をして、菜々子と一緒に撮影場から出て行こうとする。
「あ、ちょっと待って」
思索から我に返った瑞紀がそう言って鏡達を呼び止める。
瑞紀は控え室から撮影に使った衣装の中で、菜々子に一番似合っていた服を持ってくると丁寧に畳んで袋に入れ、菜々子に手渡す。
菜々子は戸惑った様子で手渡された服と瑞紀を交互に見ている。
「急な頼みを引き受けてくれたお礼」
本来なら金銭の支払いになるのだが、それだと遼太郎の同意が必要らしいので、現物支給でという事らしい。
菜々子がお礼を言うと、感謝をするのは自分達の方だと瑞紀は笑って答える。
鏡達は瑞紀や他のスタッフ達に挨拶をしてから撮影場を後にする。
「それじゃ、片付けが終わったら広告に使う写真の選別を始めるからね」
鏡達を見送った瑞紀がスタッフに声を掛けると、やる気のある返事が返ってくる。
その返事に満足そうに頷くと、瑞紀も後片付けの続きに取り掛かった。
撮影場を後にした鏡達は、その足でジュネスの店内を見て回る。
明日が敬老の日とあってか特設コーナーが設けられており、様々な商品が置かれている。
「ね、菜々子ちゃん。明日は敬老の日だから、シズおばあちゃんに何か買っていこうか?」
鏡の提案に菜々子が嬉しそうに頷く。
二人は特設コーナーへと立ち寄ると、シズに買っていく商品を探すことにする。
定番であるバラの花束から、使い勝手の良さそうな杖やお菓子などが置かれている。
大きな物ではマッサージ機能が付いたイスや、意外にもノートパソコンも置かれてあった。
思っていた以上に色々な商品が置いてあり、菜々子も目を丸くして興味深そうに商品を見ている。
かさばる物は除外して、邪魔にならない物から菜々子と一緒に選んでいく。
何気なくお菓子を見ていると、彩り鮮やかな和菓子が目に留まった。
細やかな細工が施されたそれらの和菓子は見た目にも楽しめ、食べるのが勿体ないように感じられる。
値段も手頃だったので、菜々子と話し合ってこれらの和菓子の詰め合わせを購入する事に決めた。
「お姉ちゃん。お菓子、買わないの?」
商品をレジに持っていかない鏡に、不思議そうに菜々子が訊ねる。
そんな菜々子に、鏡は今購入すると荷物になるので帰る時に購入することを伝える。
鏡の説明に納得した菜々子は鏡の腕を取ると、楽しそうに次の場所へと移動する。
その後、二人は雑貨店で小物を見て回ったりとウィンドウショッピングを楽しむ。
菜々子とこうやって目的もなく遊ぶことは希で、菜々子も終始楽しそうに色々な物に目を輝かせていた。
夕方になり、晩ご飯の食材を買いに食品売り場へと移動すると商品陳列を行っていた陽介と出会った。
陽介は鏡達に軽く手を挙げて挨拶をすると、今日のお勧めを教えてくれた。
「取り敢えず、今日のお勧めはこんな所だな。あと少しでタイムセールに入るから、もうちょい待った方がいいぜ」
「ありがとう、陽介。それじゃ、もう少し待ってみるね」
「陽介お兄ちゃん、ありがとう!」
二人のお礼に陽介は嬉しそうに頷くと、仕事の続きがあるからと言って去っていった。
タイムセールになるまでの間、菜々子と一緒に献立の内容を詰めていきながら他の食材を見て回る。
今日の献立は陽介のお勧めもあって、鰹のタタキを使った丼物を作ることにする。
それだけだと物足りないので、セールの牛肉と野菜を使った野菜炒めと、白みそを使ったなめこの味噌汁も献立に加える。
味噌汁の具材はなめこの他に刻みねぎと玉ねぎ、油揚げを使う。
買い物を済ませた鏡達は当初の予定通り、シズへのお土産を買ってから帰宅する。
帰宅して、菜々子が貰った洋服をしまいに自室へ行っている間に、鏡は買ってきた食材を買い物袋から取り出して準備する。
鰹のタタキは一口大に切り、醤油ベースの薬味を入れた漬けダレに漬け込んで、味を染み込ませる。
タタキに味が染み込むのを待つ間に味噌汁を菜々子が、野菜炒めを鏡が作っていく。
ごま油でニンニクとショウガのみじん切りに火を通し香りを出した後、漬けダレを加えて少し煮詰める。
出来上がったタレは器に移して冷ましてから丼にご飯をよそい、刻んだネギと海苔を散らした上にタタキを乗せる。
最後に大葉と白ごま、刻み海苔をたっぷり盛りつけたら完成だ。
漬けダレは全部使わずに遼太郎の分を残しており、迷ったが鰹のタタキを漬け込んでおくことにする。
菜々子から味噌汁の味見を頼まれた鏡は味見をして、菜々子に笑顔で美味しくできていると褒める。
鏡から褒めて貰った菜々子は嬉しそうに表情を綻ばせると、出来上がった味噌汁を椀によそってちゃぶ台へと運ぶ。
『いただきます』
手を合わせ唱和してから二人で晩ご飯を食べ始める。
晩ご飯を食べながら、今日の出来事を振り返る。
瑞紀が言うには、今日撮った写真は十月最初の広告に使うそうだ。
その前に出来上がった広告を送るからと言われて、その広告が届くのが楽しみだ鏡が話すと、菜々子が恥ずかしそうにする。
けれど、菜々子自身もどのような広告になるのかは気になるらしく、どんな広告なのかなと鏡に話していた。
食事を摂り終え、使った食器を片付けた二人はいつものように一緒にお風呂に入る。
明日、丸久豆腐店に行くことをりせにメールで知らせており、りせから明日が楽しみだと返信があった。
その事を菜々子に話すと、菜々子もりせとシズに会うのが楽しみだと笑顔を返す。
鏡は菜々子に明日は帰りに豆腐を買って帰ろうと話し、菜々子が豆腐を使った献立を幾つか挙げる。
菜々子が挙げた中から、明日の晩ご飯は麻婆豆腐を作ろうと楽しそうに献立を決める。
お風呂から上がり寝間着に着替えると、菜々子の髪を乾かしてから自身の髪を乾かす。
「お姉ちゃん、今日も一緒に寝て良い?」
菜々子のお願いに鏡は微笑んで頷くと、菜々子は自室からお気に入りの仔猫のぬいぐるみを持ってくる。
鏡は菜々子と手を繋いで自室へと戻ると布団を敷き、早めに休む事にする。
菜々子が寝付くまで、二人は取り留めのない話を続けるが、今日一日はしゃいでいた菜々子はすぐに寝入ってしまう。
お気に入りのぬいぐるみを抱きしめて、穏やかな表情で眠る菜々子の寝顔を暫く眺めていた鏡も目をつむり眠りにつく。
翌朝になり、先に目を覚ました鏡は菜々子を起こすと寝間着を着替える。
居間に下りると遼太郎が新聞を読んでおり、下りてきた二人に気付くと『おはよう』と声を掛けてくる。
二人は遼太郎におはようと返すと菜々子は寝間着を着替えに自室へと向かう。
「叔父さん、朝はパンとご飯どちらが良いですか?」
「そうだな、今日はパンで頼む。それと、鰹のタタキの丼物は美味かった」
遼太郎の言葉に鏡は微笑むと、朝食の準備をする。
堂島家でコーヒーを入れるのは遼太郎の役目なので、そちらは遼太郎にお願いしてトースターでパンを焼く。
パンが焼けるまでの間、手早く刻んだベーコンを入れたスクランブルエッグを作り、ちゃぶ台へと運ぶ。
ほどなくして着替えてきた菜々子も鏡を手伝い、焼き上がったトーストを運び、バターとジャムの用意をする。
それらの作業が終わる頃に合わせて遼太郎もコーヒーを入れ終わり、それぞれのコーヒーカップに注いでいる。
皆で朝食を摂る中、鏡は遼太郎に今日は敬老の日なので菜々子と一緒にシズの所に出掛けることを伝える。
それと合わせ、先日ジュネスへと出掛けた際に広告撮影のモデルをした事と、その報酬に洋服を一着貰ってきた事を伝える。
鏡から経緯を聞いた遼太郎は事情は理解したが、今後は自分へと連絡を入れてからにして欲しいと鏡に伝える。
「それとな。大丈夫だとは思うが、あちらに迷惑を掛けるんじゃないぞ?」
遼太郎はそう言葉を続けると、コーヒーを飲み干して立ち上がる。
何事もなければ今日は早く帰れそうだと遼太郎は鏡に伝えると、そのまま仕事へと出掛ける。
遼太郎を見送った二人は朝食を摂り終えると、使った食器を片付けてから洗濯などの用事を済ませてから出掛ける準備をする。
せっかくだから、先日の手伝いで貰った服を着て出掛けないかと鏡は菜々子に提案する。
鏡の提案に菜々子は頷くと自室へ服を取りに行く。
瑞紀から貰った洋服は、フレンチベージュという少し薄めの茶色を基調に黒のリボンでアクセントを付けたワンピースだ。
同系色のボレロがシルエットに変化を与え、単調なデザインにならないように工夫がほどこされている。
菜々子はまだリボンを自分で上手く結べないので、鏡が着替えを手伝い、代わりにリボンを結ぶ。
着替えを終えた菜々子と共に、先日ジュネスで購入した和菓子の詰め合わせを持ち、鏡は丸久豆腐店へと向かう。
道中、犬の散歩をしている近所の主婦から新しい洋服を褒められた菜々子が照れていたが、その様子を鏡が表情を綻ばせて見ていた。
菜々子が褒められた事を自分の事のように嬉しく思え、瑞紀の見立てが正しかった事に感嘆する。
「先輩、菜々子ちゃん、いらっしゃい! 菜々子ちゃん、その服、とっても良く似合っているよ!」
「二人ともいらっしゃい、おやまぁ、本当に菜々子ちゃんに良く似合っているねぇ」
丸久豆腐店に到着した二人を出迎えたりせとシズが、菜々子の事を嬉しそうに褒める。
二人からの称賛に、はにかんだ表情を見せながらも菜々子は『ありがとう』と二人にお礼を述べる。
鏡はシズに持ってきた和菓子の詰め合わせを手渡すと、『わざわざ気を使わせてすまないねぇ』とシズに感謝された。
和菓子の詰め合わせは後で食べる事にして、今日は鏡達も丸久豆腐店の手伝いを行う。
普段はシズとりせの二人で行われる作業を鏡達が代わりに行う。
流石に、豆腐を作る事自体はシズの手がないと無理なので、鏡達は主に出来上がった豆腐の陳列や会計での手伝いになる。
普段と違って鏡達、特に菜々子の存在が大きかったのか、訪れる客達が口を揃えて菜々子の事を褒めていた。
それだけでなく、多めに商品を買ってくれる人も居たために、普段よりも早く売り切れる事となった。
鏡が必要な分は予め確保済みだったので、今晩の献立を変更する事にならなかったが、早い段階での完売にシズも驚いていた。
「それじゃ、鏡ちゃん達が持ってきてくれた和菓子を皆でいただくかねぇ」
そう言って、シズがお茶の準備をする。
お茶の準備が出来る間、りせが和菓子の入った箱を開けて中身を取り出す。
中から出てきた和菓子の彩りの鮮やかさに感嘆の声を上げながら、りせがシズにどの和菓子が食べたいかを訊ねる。
シズはりせ達が先に選ぶと良いと答えると、『おばあちゃんの為に先輩達が買ってきてくれたのだからと』、りせが返す。
それならばと、シズは栗の餡をそぼろ状に細工した落ち着いた色合いの『錦秋』という和菓子を選ぶ。
続いてりせが『洛北』という、ザラメで黒餡を包んで焼き上げたカリっとした食感が楽しめる和菓子を選ぶ。
菜々子が選んだのは和風カステラと言った感じの『浮橋』という上は小豆で下が抹茶の層で出来ている和菓子だ。
最後に鏡が選んだのは『菊慈童』という粒あんを芯に、つくね芋と白小豆の餡で包んだ淡い黄色の素朴な見た目が特徴だ。
和菓子に合うようにと、シズが少し濃いめに淹れたお茶を皆の前に置き、菜々子には苦かったら薄められるようにと白湯も一緒に出す。
皆で『いただきます』と唱和して和菓子を一口食べる。
少し濃いめに淹れたお茶が和菓子の甘さを引き立たせ、それぞれが和菓子の美味しさに表情を綻ばせる。
「和菓子、美味しいね」
菜々子が嬉しそうにそう話すが、その表情はお茶の苦さで少し曇りがちで我慢しているようにも見える。
「菜々子ちゃん、その白湯を私に少し分けてくれるかな? 私にはちょっと苦いみたい」
そう言って鏡が菜々子に声を掛けると、快く菜々子が鏡に白湯の入った急須を差し出す。
お礼を言ってお茶を薄めた鏡が菜々子も薄めるか訊ねると頷いたので、菜々子の湯飲みに鏡が白湯を注ぐ。
そんな二人の様子をシズが目を細めて微笑ましそうに眺めている。
「二人とも、本当に仲が良くてちょっと焼けちゃうな」
りせが冗談めかしてそんな言葉を二人に掛ける。
そんなりせに菜々子が自分の和菓子を一口分とり、『りせお姉ちゃん、あ~ん』と言って、りせの口元へと差し出す。
菜々子の行動にちょっと恥ずかしそうな表情を見せながらも、しっかりとりせは差し出された和菓子を食べる。
りせも菜々子と同じように自身の和菓子を一口分とって菜々子へと差し出す。
差し出された和菓子を嬉しそうに食べた菜々子が、表情を綻ばせてりせの和菓子も美味しいねと話す。
のんびりと和菓子を味わいながら、他愛のない世間話に花を咲かせる。
シズも楽しそうにしているりせの姿に自身も楽しそうに過ごしているようだ。
楽しい時間も過ぎ、そろそろ帰る時間となったので、鏡達は今晩の食材である豆腐を持って丸久豆腐店を後にする。
帰宅して、菜々子が普段着に着替えるの待ってから麻婆豆腐を作り始める。
先日作った味噌汁もまだ残っているので、そちらは軽く暖めておくに留める。
麻婆豆腐は木綿豆腐に挽肉、白ネギ、ニンニク、ショウガの他に茄子も加え、菜々子似合わせて辛さは抑えめに作る。
挽肉は肉から出る油が透明になるまで炒め、ソースを二、三回かき混ぜた後はそのままじっくりと煮込む。
水溶き片栗粉でとろみを付けてからごま油を入れ再加熱し、とろみが中途半端につかないように気を配る。
「ただいま」
晩ご飯の支度が出来る頃に合わせて遼太郎が帰宅してきた。
タイミング良く遼太郎が帰宅してきたので、鏡は遼太郎の分の麻婆豆腐を器によそう。
花椒は好みに合わせて使うように別に用意してあり、遼太郎はこれを自分の麻婆豆腐に振り掛けている。
遼太郎は麻婆豆腐をご飯に掛けて食べており、鏡と菜々子はそれぞれ別々に食べている。
食卓を囲みながら、菜々子が今日あった事を遼太郎に話す。
菜々子の言葉に遼太郎が頷きながら、先方が喜んでくれて良かったなと相槌を打つ。
食事を終え、シズの手伝いで疲れている菜々子をお風呂へと入れて寝かし付ける。
鏡自身も翌日に備え、遼太郎にお休みなさいと挨拶をしてから自室へと戻る。
布団を敷き、休もうかとしたところで携帯電話の呼び出し音が鳴り響く。
ディスプレイを確認すると登録していない相手からで、誰からだろうと思いつつも通話状態にする。
「はい、神楽です」
『夜分に済みません、白鐘ですが……鏡さんですか?』
そう言って遠慮がちに聞こえてきた声は直斗のものだった。
雪子達に送ってもらった際に、鏡の携帯番号を聞いたのだと直斗は説明する。
『遅くなりましたが、先日は助けていただいてありがとうございました』
そう言って、直斗が鏡にテレビの中から助け出してくれた事への礼を述べる。
感謝の言葉に鏡は気にしないでと返し、体調の方はどうかと直斗へと訊ねる。
直斗の説明によると、連休中にしっかり休養した事もあり、明日から復学するとの事だ。
『その事について、鏡さんにお願いがあるのですが……』
遠慮がちな直斗の申し出に、鏡は自身が出来る事ならと返す。
その言葉に安堵した様子で直斗が『ありがとうございます』とお礼を述べ、鏡に対してある頼み事を行う。
翌朝。
通学中の陽介は、前方を歩く雪子と千枝の姿を見付けると、駆け寄って声を掛ける。
「二人とも、おはようさん!」
陽介の挨拶に雪子と千枝がそれぞれ挨拶を返すと、陽介が直斗の様子について訊ねる。
雪子が今日から登校してくる予定だったはずだと説明すると、半分呆れた様子で陽介が感心している。
直斗同様に、向こう側から救出された雪子達が復学してくるまで、あるていどの時間が掛かった事に比べると、直斗の復帰は早い。
事件捜査に携わっている関係上、身体を鍛えているからかも知れないが、それでも回復が早すぎるようにも思える。
無理をしていなければ良いのだけれどと雪子が心配するが、流石にそこまで無茶はしていないだろうと千枝が返す。
「先輩達、おはよう!」
「……チーッス」
そんな事を話していると、背後からりせと完二が陽介達に声を掛けてくる。
りせはいつも通りの様子なのに対し、完二は少し落ち込んでいるように見える。
その事を不審に思った陽介が理由を聞いてみる。
「もぉ~花村先輩、聞いてくださいよ。完二のヤツ、直斗の事が心配すぎてさっきからずっと、こんな調子なんですよ!」
「ルッセ! そんなんじゃねぇよ!!」
必死に完二がりせの言葉を否定するも、その様子から完二が直斗の事を心配しているのが手に取るように伝わってくる。
陽介がそんな完二に『そんな様子じゃ、説得力ねえじゃんか』とからかうと、完二が狼狽する。
「おはよう、皆。朝から騒がしいけれど、どうかしたの?」
「おはようさん! 聞いてくれよ姉御、完二のヤツが……さ」
遅れてやって来て陽介達に声を掛けてきた鏡へと振り返り、話し掛けた陽介の言葉が途中で止まる。
鏡の隣に、見慣れない小柄な女生徒の姿があった。
いや、正確には見慣れないどころか見知った顔だ。
その姿がただ、記憶にある姿と掛け離れているために、目の前の人物と情報が一致しないのだ。
「……まさか、直斗、なの?」
りせが唖然とした様子で訊ねる。
「改めて、この間はありがとうございました」
「いいって。つかお前、その制服……」
直斗のお礼に陽介がそう答えるも、どう反応したら良いのか解らないといった様子だ。
それは陽介だけでなく鏡以外の面々にも言える事で、皆の視線が直斗の一部に集中している。
「で、デケェ……」
完二の呆然とした声に陽介が無意識に頷いて同意する。
それは女性陣、特に千枝に衝撃を与えたらしく、直斗と自身の胸を呆然と見比べていた。
「……今までどうやって、そんな大きな胸を誤魔化していたのよ?」
りせが同じく唖然とした様子で直斗に訊ねる。
その質問に直斗が恥ずかしそうに顔を赤らめて、特製のコルセットを使って締め付けていた事を説明する。
直斗の説明で、男装していた時と比べてウエストが細くなっている事に雪子が気付く。
どうやら胸を締め付けると同時に、ウエスト部分に厚みを持たせて体型を誤魔化していたようだ。
「でも、急にどうしたの?」
「鏡さんにも説明しましたが、自分自身の性別も含めて、全てを受け入れようと思ったんです」
雪子の質問に直斗がそう答える。
もう一人との自分との対話や鏡の存在が、本当の自分を受け入れて最初の一歩を踏み出す切っ掛けになったと、直斗は話す。
そんな直斗の言葉を聞きながらも、男性陣の視線が直斗の胸に釘付けになっており、その視線に気付いた直斗が鞄で胸を隠す。
「……その、あまりそうやってジロジロと見られると、流石に恥ずかしいというか」
そう言って鞄で胸を隠しながら、頬を赤くした直斗が鏡の背に隠れるように移動する。
「……ヤベェ。色々と反則だろ、それ……」
陽介の言葉に完二が鼻を押さえながら同意する。
どうやら鼻血を出したらしく、その姿にりせが呆れた様子を見せている。
「……確かに、直斗君の今の姿を見たら、学校中が大騒ぎになりそうだよね」
唖然とした様子で話す千枝の言葉は、すぐに現実のものとなる。
その日、女子の制服を着て登校してきた直斗の姿に、八十神高校が騒然となったのだった。
2011年11月30日 初投稿