鏡達が二泊三日の予定で修学旅行へと朝早くから出掛けた事で、菜々子は久しぶりに独りで朝食を摂る事となった。
朝食自体は鏡が用意してくれていたので、それを暖め直してから食べる。
「…………」
いつもと同じ味なのに、何故か普段よりも美味しく感じられない事に菜々子は戸惑いを感じる。
それが、寂しさから来るものだとは気付かない菜々子は、朝食を摂り終えると食器を片付けてから学校へと向かう。
「ナナちゃん、おはよう!」
通学路の途中で、そう言って菜々子に声を掛けてきたのは二人連れの少女だった。
菜々子に声を掛けてきた方の少女は、元気で少し気が強そうな表情をしている。
「おはよう、ナナちゃん」
もう一人の少女は対照的に大人しい感じのする少女で、先に菜々子に声を掛けた少女とよく似た容姿をしている。
「みわちゃん、ようちゃん、おはよう!」
声を掛けてきたのが友達である双子の少女だと知って、菜々子が嬉しそうに返事を返す。
後から声を掛けてきた少女が不思議そうに菜々子の周りを見渡すと、いつも一緒に居る綺麗なお姉さんはどうしたの? と菜々子に訊ねる。
「お姉ちゃん、今日からしゅうがくりょこうで居ないんだ」
菜々子の説明に、双子の少女はそれぞれ残念そうな表情を見せる。
特に、鏡の事を訊ねた少女はそれが顕著だ。
菜々子は知らない事だが、双子の少女は鏡と個人的に関わり合いがあり、何度か鏡に対して頼み事を行っている。
つい先日も、大人しい少女からの頼み事で“リーフポシェット”を向こう側から持ち帰ってきている。
「そっか、それだと帰ってくるまでナナちゃんも寂しいよね」
「うん……でもね、お姉ちゃんがクマさんにお願いして、クマさんが菜々子と遊んでくれるって言ってた」
菜々子が寂しい思いをするだろうと心配した鏡が、前もってクマに頼んでいた事を話す。
その説明に、双子の少女が不思議そうに首を傾げるが、菜々子が寂しい思いをしないで済みそうな事を喜んだ。
菜々子達はそのまま他愛のない話しを続けながら学校へと向かう。
菜々子の担任は芳野遥という妙齢の女性で、生徒達からの受けが良い教師だ。
生徒達に対して分け隔て無く接してくれる担任で、菜々子の事も家庭環境を知っている分、何かと気に掛けてくれている。
鏡とも面識があり、最近では菜々子も交えての料理談義に花を咲かせる事もある。
「今日配ったプリントは、必ずお父さんかお母さんに渡してくださいね」
そう言って配られたプリントには“授業参観の開催希望日アンケート”と書かれていた。
それを見て、菜々子の心が沈む。
仕事の関係上、遼太郎はこの手の行事に対して都合が合わない事が多く、今までも遼太郎が行事に参加した事は数えるほどしかない。
どうすれば良いのか悩む菜々子にとって間が悪い事に、頼りになる鏡が修学旅行に出掛けていて相談できない事だ。
鏡が帰ってきてから相談するしかない。幸いな事に、プリントの提出期限までにはまだ余裕がある。
遥の説明も終わり、今日の授業が終わった菜々子は帰り支度を済ませると、早く帰宅しようと教室を出る。
クラスメイト達に挨拶をして、下駄箱で靴を履き替えた菜々子が校門前まで移動すると、校門の外に見知った顔を見付けた。
「ナナちゃん、迎えに来たクマよ!」
そう言って、爽やかな笑顔で菜々子に手を振っているのは待ち合わせ相手のクマだった。
大きな紙袋を片手に抱え、反対側の手を菜々子に振っているその様子は、見ようによっては不審者そのものだ。
しかし、その身に纏う雰囲気は何処か力が抜ける感じがするため、危険人物には見えない。
「こんにちは、クマさん。その紙袋は?」
不思議そうにクマの持つ紙袋を見つめ質問する菜々子に、クマはジュネスからお菓子を持ってきたと得意気に説明する。
クマは出掛ける前に陽介の父親から許可をもらい、お菓子を見繕ってきたのだ。
陽介から事情を聞いた両親は菜々子の事を気に掛け、修学旅行中は午前中だけ仕事に入ってくれればいいとクマに許可を出した。
その為、仕事を終えたクマはホームランバーを我慢して貯めたバイト代で菜々子に差し入れするお菓子を見繕ってきたのだ。
当初は夏休みのヒーローショーの手伝いをして貰ったお礼に、費用は自身が出すと陽介の父親が話したのだが、クマがそれを断った。
菜々子への差し入れは、自身が稼いだお金で購入したいとクマが話したためだ。
もっとも、その言葉に胸を打たれた陽介の母親が、せめて半分だけでも費用を出させて頂戴と費用の半分を持つ事となった。
こうしてクマは、揚々とお菓子の入った紙袋を持って菜々子を迎えに来たのであった。
菜々子は大量のお菓子に嬉しそうな笑みを浮かべると、クマにお礼を言って一緒に帰宅する。
「あれ? 菜々子ちゃんに熊田さんが一緒って、珍しい光景……そっか、鏡ちゃん達は修学旅行だったわね」
「サキちゃん、ごきげんようクマ! センセイ達が帰ってくるまで、クマはナナちゃんとお留守番クマ」
そう言って、帰宅中の菜々子達に声を掛けてきた早紀にクマが事情を説明する。
クマとは夏祭りの時に会ったのが初めてのはずなのだが、何故か早紀はクマと会う度に懐かしい思いに囚われる。
ひょっとすると、記憶を失う前に出会った事があるのかも知れない。
そう思うも、クマの方から早紀に対して特に何も言ってこないので、確かめるタイミングを逃している状態である。
「そうなんだ。もし迷惑でなかったら、私も一緒にお留守番をしても良いかな?」
自宅に帰っても父親と言い合いになるだけなので、ダメ元で早紀が菜々子に申し出る。
突然の申し出に菜々子は目を丸くするが、すぐに表情を綻ばせて早紀も一緒に居てくれる事に大喜びする。
クマも『クマ、両手に花状態クマね!』と早紀が一緒に来る事を歓迎しているようだ。
若干クマを問いつめたい発言ではあるが、菜々子が嬉しそうなので仕方がないかと早紀はそのまま流す事にする。
三人で仲良く帰宅すると、クマの持ってきたお菓子を広げて何をしようかと話し合う。
「そう言えば、菜々子ちゃん。宿題とかは出なかった?」
ふと気になったので、早紀が菜々子に訊ねると、算数のドリルが宿題に出たらしい。
早紀は遊ぶ前に宿題を済ませようと提案して、分からない所があったら遠慮せずに聞いてねと菜々子に笑いかける。
宿題というか、勉強自体にこれまで縁の無かったクマは早紀に全て任せる事にして、自身は大人しく見物する事にする。
菜々子は鏡に教えてもらっている時と同じように、一人で考えて問題を解いていく。
計算に困ってもすぐに訊ねてこない菜々子に、早紀は感心した表情を見せる。
その事で菜々子を褒めると、菜々子は嬉しそうにまずは自分で考える事が大切だからと鏡に言われた事を話す。
答えをすぐに聞くよりも、自分で出した答えが正解だった時の方がずっと嬉しくなるからと言われたらしい。
(なるほどね。そうやって勉強が楽しいと思えたら真面目に取り組むようになるわね)
菜々子自身が真面目である事も要因の一つだが、楽しい事なら自分から率先して行うようになるだろう。
何となく鏡の思惑を感じ取った早紀は、以前の試験で鏡が上位の成績を収めていた事に納得する。
鏡自身、そうやって勉強に取り組んでいるのだろう。
さほど時間も掛からずに菜々子の宿題が終わると、ゴールデンウィークの時に遊んだカードゲームで遊ぶ事にした。
菜々子がカードゲームを気に入った事もあり、遼太郎がジュネスで菜々子と一緒に買ってきた物だ。
このカードゲームは二人から五人まで遊べる物で、三人くらいで遊ぶのがちょうど良い内容となっている。
可愛らしい絵柄のイラストが特徴で、その中の長い髪のキャラクターが描かれたカードが菜々子のお気に入りだ。
ルールは簡単で、手札から歩数の書かれたカードを出して目的地へと最初に辿り着けば勝利だ。
目的地までの必要歩数は人数で決まり、三人で遊ぶ時の必要歩数が一番手頃となっている。
参加者は、他の参加者に対して障害物や妨害カードを使って牽制する。
牽制された方は、霜害物を除去するカードや妨害カードに抵抗するカードを使って、それらに対処していく。
カードを配り、菜々子から早紀、クマの順番に始めていく。
菜々子は山からカードを一枚引くと、手札から五歩の歩数カードを場に出す。
続いて、早紀も山場からカードを引き菜々子と同じく五歩の歩数カードを場に出す。
手札に五歩の歩数カードを持たないクマは少し遅れるも三歩の歩数カードを場に出す。
このゲームは、ゴールまでの必要歩数が半分を過ぎた辺りから妨害が始まる。
一回の行動で出来る事は一度だけで、歩数を進めながら妨害行動は出来ない。
同じように、妨害された状態では歩数カードを出す事が出来ず、妨害カードに対処するまではその場で足止めされる事になる。
カードの中には出された歩数カードを無効化するカードもあり、どのタイミングでこれらのカードを使っていくかが勝敗を決める鍵となる。
菜々子は妨害カードなどを使うタイミングの取り方が上手く、絶妙なタイミングで仕掛けてくる。
出遅れたクマが妨害カードや特殊カードを駆使してトップに躍り出るも、その直後に菜々子からの反撃に遭いすぐに追い越されてしまう。
それを勝機と見た早紀がクマに追撃を掛け、更にクマの進みが遅れてしまう。
「サキちゃん! そこで、そのカードは酷すぎるクマよ!」
早紀からの追い討ちにクマが悲鳴を上げる。
そんなクマに対して、早紀は素知らぬ顔で『弱点は突かなきゃね』と話す。
最初のゲームは僅差で早紀が勝ち、クマが最下位という結果で終わった。
クマも千枝と同様に考えている事が顔に出やすく、また行動も単純だ。
手札に数値の高い歩数カードがあれば迷わず使い、妨害カードも考え無しにトップの相手に使っている。
このゲームでは、敢えて歩数の少ないカードで相手を油断させ、妨害カードで足止めした隙に一気に歩数を稼ぐ方法もある。
菜々子もどちらかというと、後から一気に追い上げる戦法を好んでいる。
その為、相手との歩数の差を正しく把握しており、それなりに計算も上手に行っているようだ。
何度かゲームを終え、トップは僅差で菜々子。クマは負けが込み一度も勝つ事が出来なかった。
それでも、菜々子や早紀が楽しそうにしている姿を見て嬉しそうにしている所を見ると、勝敗自体にはあまり拘りが無いように見える。
ゲームを終えると時間も夕方になっており、菜々子は晩ご飯の用意をしなくちゃと席を立つ。
「菜々子ちゃん、料理できるの?」
そう言って意外そうな表情を見せる早紀に、菜々子は鏡から手解きを受けている事を説明する。
冷凍庫から鏡が用意してくれたハンバーグを取り出すと、レンジで解凍する。
「早紀お姉ちゃんもクマさんもご飯、食べるよね?」
菜々子の質問にクマは即答で食べると答えると、『ナナちゃんの手料理♪』と全身で喜びを表している。
早紀はどうしようか少し迷ったが、早く帰宅しても気まずい雰囲気の中で過ごす事になるので、申し出を受ける事にする。
無断で食べて帰ると、父親に文句を言われるのが解っていたので、早紀は母親に連絡を入れるために携帯電話を取り出す。
アドレスから母親の携帯電話の番号を選び電話を掛ける。
早紀は電話に出た母親に手短に事情を説明すると、通話を終えて菜々子に『これで大丈夫』と笑いかける。
早紀としては、お呼ばれするだけだと心苦しいので、菜々子に申し出て一緒にご飯の支度をする。
それを見たクマも、何か手伝うことが出来ないかと菜々子に訊ねると、それならばと食器の用意を菜々子がお願いする。
菜々子にお願いされたクマは、嬉しそうに食器の準備を行う。
穏やかで楽しい様子に、早紀は久方ぶりに自分が楽しんでいる事を自覚する。
記憶を無くしてからの周りが自分を見る目は、腫れ物に触るかのようにぎこちない。
あまり親しくない知り合いからも気の毒そうに接されるので、息苦しさをずっと感じていた。
これで鏡達までもが同じように自分に接していたら、恐らく自分は耐えきれなくなっていただろう。
幼いながらも、しっかりしている菜々子を鏡が大切にしているのも納得がいく。
自身も菜々子との何気ないやりとりで心が軽くなっているのを感じているのだから。
『いただきます』
出来上がったご飯を皆で唱和してから食べ始める。
今日の献立は仕上げに溶けるチーズをのせたハンバーグに、具材に玉ねぎを使ったコンソメスープ。
蒸し野菜のサラダに、ハンバーグの付け合わせはマッシュポテトだ。
「それにしても、菜々子ちゃんって小学生とは思えないほど料理が上手だね」
ご飯を食べながら早紀がそんな感想を漏らす。
自分が菜々子と同じくらいの頃は、こんなにも料理が出来ただろうかと思う。
「本当に、ナナちゃんは料理が上手クマね。あ、サキちゃんも上手だと思うクマよ!」
早紀とクマに褒められた菜々子は照れ笑いを浮かべると、鏡といつも一緒に作っているからと答える。
こうやって褒められる事は嬉しい反面、慣れていないために照れている菜々子の姿に、早紀とクマは表情を綻ばす。
「ただいま」
ご飯を食べ始めて少しして、遼太郎が帰宅する。
鏡からクマが来ている事は知っていた遼太郎は、早紀が同席していた事に僅かばかり驚く。
「二人とも、菜々子の相手をしてくれてすまないな」
そう言って、内心の驚きは表情に出さずに二人にお礼を述べる。
「いえ、私の方こそ一緒にお邪魔させてもらって申し訳ありません」
遼太郎の言葉に早紀がそう答える。
元々クマは来る事になっていた所に、自分が押しかけたような状況だ。
そう言って恐縮する早紀に、遼太郎は菜々子が嬉しそうにしているから気にしないでくれと返す。
実際、鏡が来てくれてから菜々子は明るくなり、以前よりも笑うことが多くなっている。
鏡の友人達も何かと菜々子の事を気に掛けてくれており、良き友人に恵まれた事に内心では安堵している。
姉から鏡の事を頼まれたは良いが、自身が鏡に対してどれだけの事が出来たのだろうかと思うほど、鏡から貰ったものが大きい。
「お父さんの分もすぐに用意するね!」
菜々子がそう言って遼太郎の分のハンバーグを用意する。
その間に遼太郎は洗面所で手を洗ってくると、クマ達も手伝って遼太郎の分の食事が用意されていた。
手伝ってくれた二人にも礼を述べてから遼太郎もご飯を食べ始める。
菜々子は遼太郎に今日、クマ達とどんな事をしたのかを楽しそうに話す。
遼太郎も菜々子の話に頷いたりして、改めて早紀達に礼を述べる。
ご飯を摂り終え使った食器を片づけて時計を見ると、そろそろ帰宅する時間になっていた。
遼太郎が二人を送っていこうかと申し出るも、そうすると菜々子が独りになるから一緒に居て欲しいとクマ達が返す。
「サキちゃんはクマが責任を持って送っていくクマよ!」
「今日はありがとうございました。それじゃ菜々子ちゃん、またね」
そう言って、二人は堂島家を後にする。
遼太郎は菜々子をお風呂に入らせると、自身は新聞を読みながら帰って行った二人の事を考える。
確認をした訳ではないが、早紀の記憶はまだ戻っていないようだ。
事件の犯人が捕まったとはいえ、未だに証言に曖昧なところが多い。
早紀の記憶が戻りさえすれば、全ての事件が同一犯かどうかが判るのだが、それを望むのは早紀に対しても酷というものだろう。
何より、記憶を失って一番大変な思いをしているのは当人なのだから。
それでも、菜々子と接している早紀が笑っていた事に遼太郎は内心で喜んでいるのも事実だ。
以前、夏祭りで早紀を見たときは何処か無理をしている様子があって気にはなっていた。
しかし、刑事である自分が早紀に関わる事によって、周りから風評被害に晒される可能性を考えると迂闊には手が出せない。
ただでさえ、稲羽では噂が広まるのが早いのだ。
ままならない状況に遼太郎は重い溜息をつくと、改めて新聞へと視線を向け続きを読む事にした。
堂島家を後にて早紀を送る間、クマ達は菜々子の事について話していた。
あの年でしっかりしている事もそうだが、家事もちゃんとこなしている事を二人して褒める。
「サキちゃんも元気そうで安心したクマよ」
そんな中で出たクマの何気ない一言に、早紀が驚いた表情を見せる。
「センセイからサキちゃんの無事は聞いていたけど、元気な姿を見るまで心配だったクマよ」
クマの何気ない言葉に違和感を覚える。
自分の無事を聞いて?
「……私、熊田さんとは夏祭り以前にも会った事があるの?」
そう呟いた瞬間、早紀の脳裏に覚えのない声が聞こえる。
『サキちゃん、大丈夫クマか?』
『本当に、それで嫌な事から逃げられると思ったの?』
声に合わせて浮かぶのは、深い霧に包まれた世界。
それらが脳裏を過ぎった瞬間、早紀は突然の頭痛に襲われる。
「サキちゃん! 大丈夫クマか!?」
(……私、この声を知っている?)
頭痛に顔をしかめながらも、早紀はそんな事を考える。
突然の頭痛も暫くすると治まってきて、早紀は自身を心配するクマに大丈夫だと答える。
早紀の言葉にクマは辺りを見渡すと、見付けた自販機からジュースを買ってきて早紀に手渡す。
「サキちゃん、大丈夫って言っても顔色が悪いクマよ。取り敢えず、これを飲むクマ」
そう言って手渡されたジュースを飲み終える頃には、頭痛はすっかり治まっていた。
さっきの声と浮かんだ風景は何だったのか?
ひょっとすると、無くした記憶に関係があるのかも知れない。
これ以上の心配を掛けたくない早紀はクマに笑いかけると、心配してくれた事とジュースを買ってきてくれた事にお礼を述べる。
早紀からのお礼にクマは照れた様子を見せるが、早紀の言うとおり大丈夫そうなので安心する。
「それじゃサキちゃん、念のために無理せず早く休むクマよ」
「えぇ、熊田さんも、送ってくれてありがとう」
自宅に付いた早紀にクマが心配げにそう告げる。
早紀自身も体調を崩して父親達からあれこれ詮索されたくは無いので、クマの申し出に素直に従うことにする。
先ほど浮かんだ光景と聞こえてきた声の事は気になるが、今は無理せずゆっくりと考えれば良い。
クマと別れた早紀は自身にそう言い聞かせて自宅へと戻る。
ちゃんと連絡していたため、父親からも特に何も言われなかった早紀は入浴をすませると自室へと戻り早く休む事にする。
――翌日
昨日と同じく、クマが菜々子を迎えにやって来た。
差し入れてくれたお菓子はまだ残っているので、今日は飲物を持ってきたようだ。
菜々子はクマと手を繋いで仲良く帰宅すると、昨日と同じく先に宿題を終わらせる事にする。
今日出た宿題は、授業で習った漢字を新聞から捜すものというモノで、クマと一緒になって新聞から文字を捜し出す。
見付けた文字に赤丸を付けていくという内容のため、使う新聞は先日以前のモノを使用する。
この宿題は課題の文字を全部見付け出す事が目的でなく、家族と一緒になって行う事によるコミュニケーションが目的だ。
意外に探し出す事は大変なのだが、クマと一緒になってゲーム感覚で菜々子は楽しそうに宿題を済ませる。
印を付けた新聞紙を一枚だけ提出すれば良いとの事なので、クマも気負わず菜々子と一緒に楽しそうに手伝う。
宿題を終え、クマの差し入れたお菓子を一緒に食べながら、クマは菜々子から学校での事などを聞く。
向こうの世界では意思疎通が出来る相手が居なかったクマにとって、学校というのは興味が惹かれるものらしい。
十月には文化祭という行事が陽介達の学校であるらしいので、クマはそれを今から待ち遠しく思っている程だ。
菜々子とのお喋りを楽しみ、先日と同じように今日も堂島家でクマは晩ご飯を食べて帰る事にする。
今日の献立は先日作った蒸し野菜の残りを使ったサラダパスタで、醤油ベースの餡をソースにしたものを掛けている。
先日作ったコンソメスープも残っているので、これに刻んだベーコンを混ぜたスクランブルエッグを付け加える。
ご飯の準備が出来た頃に遼太郎も帰宅したので、三人で食卓を囲む。
クマは陽介の自宅で食べるご飯も美味しいが、菜々子の作る料理も美味しいと笑顔で褒めている。
菜々子に気を使ったのか、陽介の母親を出さない辺りに小さな気遣いを感じる。
その事に菜々子は気付いていないようだが、遼太郎はその事に気付いており、クマに対して『気を使わせて済まないな』と小さく話す。
その言葉にクマは笑って返し、菜々子と今日やった宿題の話題を出す。
「そう言えば、センセイが帰ってくるのは明日クマね」
食後のお茶を飲みながらクマがそう呟く。
その言葉に菜々子は嬉しそうな笑みを浮かべると、『お姉ちゃん、早く帰ってこないかな』と待ち遠しそうに呟く。
「こうやってナナちゃんのご飯を食べるのが最後だと思うと、ちょっと残念クマよ」
心底残念そうに話すクマに遼太郎は苦笑を浮かべると、機会があったらまた食べに来ると良いとクマに話す。
驚くクマに遼太郎は『熊田は菜々子にとってお兄ちゃんみたいなものだろう?』と笑って話す。
その言葉に菜々子も、お兄ちゃんが出来て嬉しいと笑顔で話す。
二人の言葉にクマは感激すると目尻に嬉し涙を浮かべて、そう思ってもらえる事がたまらなく嬉しいと話す。
陽介の家庭ではクマは末っ子という立場なので、菜々子のような下の兄妹という存在は、クマに新鮮な感動を与えたようだ。
菜々子に対しては良いお兄ちゃんで居ようと、クマは密かに決心する。
鏡達と出会って色々な事があったが、今日の出来事もクマにとっては思い出深い経験になった。
時間も遅くなってきたので、クマは菜々子達に別れを告げて堂島家を後にする。
花村家に戻ったクマの嬉しそうな様子に、陽介の母親が何か良い事でもあったのかと訪ねると、クマは今日の出来事を伝えた。
クマの話に陽介の母親は『それは良かったわね』と微笑み、その話を一緒に聞いていた陽介の父親も嬉しそうにしている。
見ず知らずの自身に対して、本当の家族のように接してくれる陽介の両親にクマは自身が幸せである事を噛み締める。
何だかんだと言って自分に対して気遣いを見せる陽介も、両親の影響が大きいのだろうとクマは考える。
鏡達と出会った事で、クマの世界は広がった。そんな恩人である鏡達も明日には帰ってくる。
菜々子同様、クマも早く明日になれば良いのにと思う。
そうしたら、また皆との楽しい日々が過ごせるのだから。
鏡達が帰ってくる日になって、早くに戻ってきた菜々子達ががテレビを見ていると大きな紙袋を持った鏡が帰ってきた。
「あっ、おかえり!」
いち早く鏡の帰宅に気付いた菜々子が鏡へと駆け寄る。
「センセイ、お帰りなさいクマ!」
一緒にテレビを見ていたクマも鏡の元へとやってくる。
「ただいま。クマ、菜々子ちゃんの事、ありがとうね。はい、これお土産」
そう言って鏡から手渡されたお土産には“巌戸台まんじゅう”と書かれていた。
どうやら中身はお菓子のようで、鏡が自身の好みに合わせて選んでくれたようだ。
その事にクマは感激して全身で喜びを示していると、鏡は表情を綻ばせている。
「それで、こっちが菜々子ちゃんと叔父さんへのお土産ね」
「ありがとう、お姉ちゃん! すごーい! かっこいー!」
鏡から受け取ったお土産は提灯で、稲羽ではあまり見掛けない物に菜々子が満面の笑みを浮かべてお礼を述べている。
その後、少し遅れて帰宅した遼太郎と共にクマは今日も堂島家でご飯を食べていく。
今日は鏡が菜々子と一緒にご飯を作るため、クマはお手伝いをする事なく遼太郎と話しながらご飯の出来上がりを待つ事にする。
出来上がったご飯を食べながら、菜々子が鏡に出掛けていた間の事を報告する。
鏡も修学旅行で珍しい授業を受けた事を話すと、遼太郎が今の高校はそんな授業をするのかと、関心半分呆れ半分の感想を述べる。
「それじゃ、俺は熊田を送ってくるから、後の事は任せたぞ」
そう言って、今日は鏡が帰ってきているので、遼太郎がクマを車で送り届ける事にする。
助手席に座り、シートベルトをした事を確認して遼太郎は車を出す。
「熊田、改めて菜々子の事、ありがとうな」
車を運転しながら遼太郎がクマにそう話し掛ける。
「クマの方こそ、ご飯を御馳走になったし、こうやって送ってもらえてありがとうクマ」
そう言ってクマはお礼を述べると、自分にとって鏡や菜々子と過ごす時間は何よりも大切だからと笑顔で話す。
見た目と違い、何処か素直な子供を思わせるクマに遼太郎は、最近の若者にしては珍しいなと思う。
物事に対して一喜一憂する様子は、初めて見た子供のそれと変わらない。
そんな、ある意味において純粋なクマに遼太郎は改めてこれからも菜々子と仲良くしてやってくれと話す。
「もちろんクマよ! センセイ達もナナちゃんの事が大切だから心配無用クマよ!」
遼太郎の言葉にクマは得意気にそう返す。
確かに、鏡や友人達も菜々子に対して実の妹のように接してくれている。
遼太郎はその事に気付くと僅かに苦笑する。
「堂島さん、送ってもらってありがとうクマね!」
「こっちこそ、菜々子の相手をしてくれて助かった。それじゃ、おやすみ」
花村家に到着して車から降りたクマにそう言って、遼太郎が帰っていく。
遼太郎が運転する車を見送ったクマが花村家に戻ると、リビングに帰ってきた陽介が居て寛いでいる。
「お、クマも帰ったか。菜々子ちゃんの相手、お疲れさん」
「ただいまクマ、陽介も修学旅行お疲れクマ」
「あ、それとコレ、お前へのお土産な。姉御と被るから饅頭じゃなくて悪いけど」
そう言って陽介がクマに手渡した土産は『巌戸台』と書かれたTシャツだ。
陽介からもらったお土産にクマはお礼を述べると、鏡からもらったお土産を皆で食べようと陽介の両親にも声を掛ける。
「せっかく貰ったのだから、クマ君が全部食べても良いのよ?」
「それじゃ駄目クマよ。皆で食べるのが一番美味しいから、皆で食べるクマ」
そう陽介の母親に返したクマの言葉に、それならばとお茶の用意をする。
皆で食べた饅頭はどこか懐かしい味がして、クマは終始嬉しそうな様子を見せていた。
「そう言えば、お前。ちゃんと菜々子ちゃんの相手が出来たのか?」
「バッチリクマよ! 最初の日はサキちゃんも一緒に菜々子ちゃんと遊んだクマよ」
「なッ!? 小西先輩も一緒だったのかよ! ちょっと、そこの所を詳しく教えろ!」
クマの話に陽介は驚愕の表情を見せると、鬼気迫る様子でクマへと詰め寄る。
陽介の豹変振りに慌てたクマが、しどろもどろになりながらも説明する様子を、陽介の両親達は楽しそうに見つめている。
クマが来てから、陽介も随分と明るくなったと両親は思う。
以前はどこか鬱屈していたものを感じさせていたが、春先から徐々にそう言ったモノが薄らいできた。
クマが来てからは鬱積した様子は姿を見せなくなり、毎日クマと何かしら言い合いとかをしているが楽しそうだ。
陽介の両親に対してクマが感謝の念を感じているように、陽介の両親もまた、クマに対して感謝をしていたのだ。
何気ない日常のやりとり。
そんな日々が続けばいいと、陽介に詰め寄られながらもクマは心から思うのだった。
2011年10月10日 初投稿