――――平穏な日常が過ぎていく
もう事件は起こらないのだと
そう信じて疑っていなかった
異変が忍び寄っているのに気付く事もなく
八月も半ばを過ぎ、ここ数日は肌を焼くような日差しが続いている。
鮫川渓流でも川遊びをする人々が増え、それぞれが涼を取るべく行動している。
ジュネスでのバイトを終えた鏡達も、陽介の提案で辰姫神社で行われる夏祭りに行く約束をしている。
せっかくだからと、夏祭りには浴衣で行こうと雪子が提案して、女性陣は天城屋旅館に集まって着付けの真っ最中だ。
「雪子、帯がずれるんだけど、どうしたらいいの!?」
「ちょっと待って。菜々子ちゃんの着付けが終わったら行くから」
「雪子、千枝の方は私が見るよ」
着付けが上手く出来ず、雪子に助けを求める千枝の着付けを鏡が手伝う。
普段から和服を着る事の多い雪子はともかく、鏡も着付けが出来るため二人で手際よく着付けを進めていく。
りせは先に着付けをすませて貰ったので、千枝と菜々子の着付けの様子を見学している。
「鏡も着付けが出来るなんて、ちょっと意外だったな」
着付けを手伝って貰った千枝がそう話す。
容姿もあって、鏡の浴衣姿が上手くイメージできないのが主な理由だが、制服以外ではジーンズ姿が多いのも要因の一つだろう。
「母さんから色々と教わってるからね。もっとも、私はジーンズとかの方が好きなんだけど」
千枝の言葉に苦笑い気味に鏡が答える。
その言葉に、りせが凄く似合いそうなのに勿体ないと心底残念そうに話す。
皆の着付けを終えた雪子と鏡も自身の着付けを行う。
浴衣の生地は全て巽屋で仕立てた物で、鏡の浴衣は雪子の母親の物らしい。
菜々子が着ている浴衣は雪子が子供の頃に着ていた物で、大切に保管していたため新品同様の状態を保っていた。
「鏡お姉ちゃん、綺麗~!」
手慣れた様子で着付けを終えた鏡の姿を見て、菜々子が感嘆の声を上げる。
銀糸のような鏡の髪と、黒地に落ち着いた色合いで染め抜いた浴衣姿が相まって、大人びた印象を与える。
浴衣姿に合わせて髪を結い上げているのも、大人びた印象を強くしているのだろう。
菜々子に褒められた鏡は微笑むと、菜々子の浴衣姿もよく似合っていると褒める。
鏡の言葉に菜々子は嬉しそうに笑うと、鏡の手に自分の手を繋ぐ。
「鏡が手伝ってくれたから、待ち合わせの時間には余裕を持って行けそうだね」
そう言って雪子が鏡にお礼を述べる。
着付けが出来るのが雪子一人だけだったのなら、もっと時間が掛かって待ち合わせの時間に遅れる所だった。
雪子のお礼に鏡は気にしないでと話すと、辰姫神社へ移動しようと提案する。
「菜々子ちゃん、慣れるまで草履だと歩きにくいから、ちゃんと手を繋いでいてね」
「うん!」
鏡の言葉に菜々子は嬉しそうに返事を返すと、繋いだ手に力を込める。
稲羽中央通り商店街行きのバスに乗り、鏡達は車内で他愛ないおしゃべりを楽しみながら到着を待つ。
バス停でバスから降りると、辰姫神社へと向かう。
普段と違い、夏祭りに向かう人々で商店街の大通りが賑わっている。
「事件のせいかな? 去年より人が少ないよね」
「それでも事件が解決した事で、以前よりは人が増えてるよ」
去年より少ない人通りに千枝がそんな感想を述べ、雪子がそれに答える。
閑散とした商店街しか知らない鏡からすると、充分に人通りが多く感じられるのだが、やはり少し違いがあるのだろう。
辰姫神社へと到着すると、境内には出店が軒を連ねており、家族連れの姿も見掛けられる。
「あっ、わたあめ!」
出店でわたあめを見付けた菜々子が嬉しそうな声をあげる。
菜々子と共に出店へと移動した鏡達の目の前で、わたあめが作られていく。
溶解した砂糖を遠心力で吹き飛ばし、冷えて糸状になった砂糖を棒に巻き付けていく。
その光景を楽しそうに見つめる菜々子に、鏡は出来立てのわたあめを購入して菜々子に手渡す。
手渡されたわたあめを見て、菜々子は満面の笑みを浮かべて鏡にお礼を述べる。
「お~! センセイ達みんな、浴衣クマ!」
鏡達より少し遅れて到着した陽介達の中で、クマが一番最初に鏡達を見付けて嬉しそうな声を上げる。
「浴衣かぁ、それで女子だけ天城んとこに集まっていたんだな」
そう言って、陽介が納得したような声を上げて鏡達の方へと移動してくる。
「今晩は、鏡ちゃん」
見ると、陽介の隣には涼しそうな色合いのワンピースを着た早紀の姿があった。
先ほど偶然会って陽介が誘ったらしい。
はじめは遠慮していた早紀も、菜々子が喜ぶからと言われて一緒に来ることにしたそうだ。
「早紀お姉ちゃん、こんばんは!」
「うん、菜々子ちゃんも今晩は。浴衣すごく可愛いよ」
「えへへ~」
早紀に浴衣姿を褒められた菜々子が照れ笑いをみせる。
そんな菜々子の姿に早紀は微笑むと菜々子の頭を優しく撫でる。
「よう……面倒見てもらって、すまんな」
そう言って、仕事を終えて来た遼太郎が鏡達に声を掛ける。
「そう言えば、ゴールデンウィーク以来っすね」
「言われてみればそうだな。あの時と違って随分と人数が増えたようだがな」
陽介の言葉に遼太郎はそう答えてカラリとした笑いを見せる。
菜々子は遼太郎に先ほど鏡に買って貰ったわたあめを見せ、後で一緒に食べようと誘う。
嬉しそうに話す菜々子に、遼太郎は一緒に食べる約束をする。
「こっからは菜々子は引き受けよう。町が賑わうなんて年に何度も無いからな。お前らも、楽しめよ」
「叔父さん、せっかくなんですから一緒に見て回りませんか? 私達も菜々子ちゃんと一緒に遊びたいんですから」
鏡達に遠慮する遼太郎に鏡がそう話す。
陽介達も鏡と同じ気持ちで、ゴールデンウィーク以来だからと一緒に見て回ろうと遼太郎を誘う。
皆の心遣いに遼太郎は礼を述べると、鏡達と一緒に見て回ることにする。
手始めに遼太郎が菜々子に射的をするかと誘うと、陽介達も一緒に射的を行う事にする。
料金を払い、それぞれがコルク銃のレバーを引きシャフトをシアーに装着してコルク栓の弾を込める。
安全性を確保しているのか、レバーは引いたままでなく元の位置に戻っている。
これならば、小さい子供が使ってもレバーに指を挟むことは無さそうだ。
「せっかくだから、誰が一番的を倒せるか勝負しませんか?」
そう言って、陽介が遼太郎に射的の勝負を提案する。
本職の刑事である遼太郎相手に賭け事は挑めないので、純粋に勝負を楽しむのが目的だ。
賭け事でないとの陽介の言葉に、遼太郎は勝負を受ける。
完二とクマも勝負に参加して皆で射的を行う。
「お父さん、頑張って!」
菜々子の声援に遼太郎は頷くと、コルク銃を構えて狙いを付ける。
引き金を引くと圧縮した空気に押し出されたコルク弾がポンという乾いた音を上げて撃ち出される。
狙ったのは小さめの駄菓子の箱で、命中したコルク弾によって見事に倒される。
「おっ、流石ですね」
そう言って、陽介も負けじと遼太郎と同じく小さめの景品に狙いを定める。
陽介が狙った物は、遼太郎が狙った物よりも縦に長いお菓子の箱で、上手く上部に当ててバランスを崩して景品を倒す。
「ヨースケ、そんな小さいのを狙うなんて駄目クマ。男なら、大きな景品を狙わないと!」
遼太郎や陽介が小さい物を狙ったのに対して、クマはそう言うと仔猫のぬいぐるみに狙いを定める。
大きさは実物大ほどあり、白い毛並みの可愛いぬいぐるみだ。
クマは狙いを定めると引き金を引く。
発射されたコルク弾は見事ぬいぐるみに命中するも、ぬいぐるみを倒すまでには至らなかった。
その事にクマは文句を言うも、陽介にコルク銃の威力が高くないのだから、上手く当てないと駄目だと諭される。
陽介に諭されたクマに完二は手本を見せてやると言って、少し大きめのお菓子の詰め合わせに狙いを定める。
完二が狙ったのはお菓子の方ではなく、それを支える台の方だ。
コルク銃から発射されたコルク弾は横合いから台をずらす事に成功して、支えを失ったお菓子の詰め合わせが見事に倒れる。
その光景にクマが尊敬の眼差しを完二へと向ける。
「ようは景品を倒せば良いんだよ」
そう言って、完二はゲットしたお菓子の詰め合わせから目当てのお菓子を取り出すと、鏡達に残りは好きに食べてくれと言って手渡す。
完二からお菓子を渡された鏡達は、それぞれ好みのお菓子を取り出すと、お菓子を食べながら射的勝負を観戦する事にする。
「男の人って、こういう勝負事が幾つになっても好きなのね」
そう言って、早紀が表情を綻ばせている。
言葉自体は呆れた様子を含んでいるが、その表情からは楽しんでいるように見受けられる。
その様子は以前と違って穏やかなものだ。
「正直に言うとね、花ちゃんに誘われて嬉しかったのだけど、鏡ちゃんと菜々子ちゃん以外の人とどう接したらいいか迷ってたの」
鏡の視線に気付いた早紀がそう話す。
三年生は自分一人で、鏡と菜々子、陽介以外はそれほど親しい訳ではない。
他は小さかった頃の完二くらいしか見知った顔が無かったので、自分がいる事でかえって鏡達の邪魔になるのではないかと思ったそうだ。
けれど、真摯に誘ってくれた陽介と、初対面の筈なのにどこか懐かしいクマの言葉を受けて付いてきたそうだ。
初対面のはずであるクマが、早紀を見るなり元気そうで良かったと嬉しさのあまりに涙ぐみ、早紀を慌てさせる一幕もあったとか。
そんな陽介とクマを見て、早紀は遠慮するのもどうかと考え直したのだ。
完二も子供の頃の事を覚えていたのか、早紀の前では借りてきた猫のように大人しかったとか。
その時の様子が目に浮かぶようで、鏡は表情を綻ばせる。
鏡が早紀と話している内に、射的勝負の勝敗が付いたようだ。
勝ったのは手堅く倒せる的を狙い続けた遼太郎で、一度も外す事なく完全勝利だ。
次いで遼太郎と同じく、手堅く小さな景品を狙い続けた陽介。
完二は得た景品の量だけならトップだったが、目当てのお菓子がそれほど多くなかった事もあり三番手だ。
最下位はクマで、最初に狙った仔猫のぬいぐるみが一つだけ。
クマはそのぬいぐるみを菜々子に手渡し、勝敗よりも菜々子にぬいぐるみを渡したかったと笑顔で話す。
「クマさん、ありがとう!」
ぬいぐるみを手渡された菜々子は満面の笑みを浮かべてクマ仁お礼を述べる。
嬉しそうにクマにお礼を述べる菜々子に、遼太郎は良かったなと表情を綻ばせて話し掛けると、クマにありがとうとお礼を述べる。
遼太郎からもお礼を言われたクマは照れ笑いを浮かべると、出店で何か買って食べようと提案する。
クマの提案に小腹が空いていた事を思い出した面々が同意して、それぞれが食べたいものを購入しに行く。
少し多めに買ってきたそれぞれの食べ物を、皆で食べながら楽しい一時が過ぎる。
菜々子は鏡に買って貰ったわたあめを嬉しそうに遼太郎と一緒に食べ、鏡達にも食べるように勧める。
鏡達はそれぞれ菜々子にお礼を言って一口分ずつわたあめを貰う。
その後で鏡達は露天を見て回り夏祭りを楽しむ。
楽しい時間も過ぎ、菜々子が少し眠そうな様子を見せている。
「もうこんな時間か。菜々子もそろそろ疲れてきたようだな」
時計を確認した遼太郎がそう話すと、鏡達もそろそろ引き上げようかと話す。
「雪子、借りた浴衣は明日持っていけばいいかな?」
「うん、それで構わないよ。今から着替えに家に来る訳にも行かないからね」
鏡の確認に雪子がそう答える。
千枝は一人だと浴衣を脱ぐのも大変だから、このまま雪子の家に着替えついでに泊まる予定だそうだ。
りせはシズが居るので自宅で着替える事にして、鏡同様に翌日返しに行く事にする。
遼太郎が仕事帰りで商店街北側の外れにある駐車場に車を駐めているそうなので、移動がてら早紀を送っていく事にする。
すぐ側が自宅の完二は鏡達に付いていき、バス停に向かう雪子と千枝、そして帰る方向が同じりせを陽介とクマが送っていく。
辰姫神社の前でそれぞれ別れの言葉を述べて解散して、陽介達と別れた鏡達はそれぞれ今日の事を話しながら帰路へと付く。
「それじゃ、先輩お疲れ様っス!」
自宅前で完二が鏡にそう挨拶をして自宅へと戻る。
はしゃぎ疲れた菜々子はぬいぐるみを抱きかかえたまま眠っており、遼太郎が抱っこしている。
その寝顔は穏やかで、早紀と鏡はその寝顔に表情を綻ばせている。
「送ってくれて、ありがとうございました」
そう言って、早紀が遼太郎に頭を下げる。
そんな早紀に遼太郎は菜々子の面倒を見てくれてこちらこそ助かったとお礼を返す。
「先輩、機会があったらまた一緒に遊びましょうね」
鏡の言葉に早紀は表情を綻ばせると、機会があれば是非にと答える。
我は汝……、汝は我……
汝、絆の力を深めたり……
絆を深めるは即ち、まことを知る一歩なり
汝、“刑死者”のペルソナを生み出せし時
我ら、更なる力の祝福を与えん
いつもの声が鏡の脳裏に響く。
今日の事でまた少し、早紀の心に近づけたような気がする。
記憶の方は未だ回復の兆しを見せてはいないようだが、以前ほどは気にしていないようにも見える。
とはいえ、以前に鏡が聞いた通り早紀自身ではなく周りの方が気にしていると、早紀自身は心中穏やかではないだろう。
自分達と遊ぶことで少しでも気晴らしになればと鏡は思う。
早紀と別れて駐車場へと到着した所で鏡が遼太郎から菜々子の事を任させる。
車の鍵を開け、後部座席に乗り込んだ鏡はシートベルトを締め、菜々子が落ちないように抱きしめる。
運転席に乗り込んだ遼太郎は、菜々子が起きないように気を配りながら車を発車させる。
普段以上に安全運転を心がけて遼太郎は車を走らせる。
「鏡、今日はありがとうな。菜々子も楽しんでいたようで、俺も、その……久しぶりに楽しめた」
「そんなに改まらないでください。私達だって楽しんでいたんですから」
遼太郎の言葉に鏡が笑顔で答える。
仕事が忙しく、家の事や菜々子の事を鏡に任せっきりにしている事を遼太郎は申し訳なく感じているのだろう。
鏡としてはあまり気にしなくても良いのにと思う。
菜々子の事は本当の妹のように思っているし、菜々子と一緒に行う家事も楽しいと感じている。
食事も、美味しいと言って食べて貰うと嬉しいし、なによりも菜々子と一緒に献立を考えたり料理をするのが楽しくて仕方がない。
その事を遼太郎に伝えると、そうかと言ってそれきり遼太郎は何も言わなくなる。
しかし、バックミラー越しに見える遼太郎の表情はどこか嬉しそうにも見える。
我は汝……、汝は我……
汝、絆の力を深めたり……
絆を深めるは即ち、まことを知る一歩なり
汝、“法王”のペルソナを生み出せし時
我ら、更なる力の祝福を与えん
遼太郎の想いが伝わったのだろうか?
先ほどの早紀と同じように鏡の脳裏に声が響く。
それと共に鏡の心を暖かい力が満たしていく。
「事件が解決したとはいえ、今までと変わらず遅くなる事が無くなる訳じゃない。すまないが菜々子のこと、よろしく頼む」
遼太郎の言葉に鏡は頷くと、以前に直斗が事件の事で何やら悩んでいたようだったので、力になって貰えないかと話す。
鏡の言葉に遼太郎は表情を曇らせると、直斗の事は以前から気になっていたので、出来る範囲で気に掛けておくと答える。
遼太郎自身にも立場やら色々とあるのだろう。
無理強いは出来ないので、鏡はお願いしますとだけ答えるにとどめる。
遼太郎が運転する車が自宅へと到着すると、遼太郎が菜々子を抱っこして家の中へと連れて行く。
「すまんが、着替えた後で菜々子の浴衣を着替えさせてくれないか?」
着付けが分からない遼太郎が鏡に頼む。
それでなくとも、眠っている娘の着替えに抵抗があるのだ。
困った様子で頼んでくる遼太郎にすぐに着替えてくると答えて鏡は自室へと移動する。
着替えた浴衣はシワにならないように綺麗にたたんでから菜々子の着替えのために下へと降りる。
鏡は半分寝ぼけた様子で起きた菜々子の浴衣を脱がせると、汗を拭いてから寝間着に着替えさせる。
本当ならお風呂に入れたいところなのだが、このままお風呂に入れるのは危険だと判断したためだ。
明日の朝にでも菜々子をお風呂に入れようと判断した鏡は、そのまま布団を敷いて菜々子を寝かし付ける。
クマから貰ったぬいぐるみを大切に抱きかかえたまま、菜々子はすぐに可愛い寝息を立てて眠りにつく。
菜々子を寝かし付けた鏡が居間へと戻ると、遼太郎が鏡にお礼を述べる。
「私も今日はシャワーだけ浴びて早めに休みますね」
「あぁ、解った。……今日は本当にありがとうな」
遼太郎のお礼に鏡は微笑みで返すと、着替えを取りに自室へと一度戻り、脱衣所へと移動する。
脱衣所で衣服を脱ぎ、そのまま浴室でシャワーを浴びる。
汗を流した鏡は脱衣所で寝間着を着ると、結い上げた髪を解く。
居間へと移動して上がったことを遼太郎に伝えると、そのままお休みなさいと挨拶して自室へと戻る。
眠るまでの時間を使い、宿題を進めてから布団へと入り就寝する。
宿題自体はそろそろ終わりが見えてきているので、一日か二日ほど宿題に充てれば終わらせる事が出来そうだ。
特に予定が無いので、鏡は明日一日は宿題を片付ける事にしようと決めて就寝する。
――翌日
遼太郎と三人で朝食を摂り、仕事に向かう遼太郎を見送った後で、鏡は菜々子をお風呂に入れる事にする。
お風呂から上がると、鏡は菜々子に今日は自身の宿題を済ませるために家にいるので、何かあったら声を掛けるように伝える。
鏡の言葉に菜々子も一緒に宿題をすると言ってきたので、鏡は菜々子と一緒に宿題をする事に予定を変更する。
宿題と参考書を取りに、鏡は自室へと一度戻る。
その間に菜々子も自室から宿題と仔猫のぬいぐるみを居間へと持ってくる。
ちゃぶ台の空いた場所に仔猫のぬいぐるみを置くと、菜々子は宿題を広げて取り掛かる。
菜々子が置いた仔猫のぬいぐるみは、二人を見守るような感じで置かれており、鏡は微笑ましさを感じた。
鏡も宿題を広げて自身の宿題へと取り掛かる。
蝉の鳴き声をBGMに、鉛筆で宿題を書き込む事が静かに流れる。
合間を見て、用意しておいた麦茶で喉を潤し黙々と宿題を進めていく。
途中、菜々子が宿題の分からない所で悩んでいると、鏡がそれを見て菜々子にヒントを与える。
考え方などが解らない所は解答を直接教えるのでなく、どうすれば良いのかだけを教える。
菜々子自身飲み込みが良く、鏡のヒントだけで宿題の答えを埋めていく。
鏡自身も菜々子の宿題を見ながら、自身の宿題を片付けていく。
「菜々子ちゃん、そろそろお昼の準備をしようか?」
時計を見ると、そろそろ正午に差し掛かろうとしていたので、鏡は菜々子にそう声を掛ける。
二人はちゃぶ台の上を一度片付けると、お昼ご飯の準備に取り掛かる。
献立は暑さで食欲が低下しないように、薄く切って冷しゃぶにした豚肉とオクラ、トマト、なめこ、キムチを具材に使ったそうめんだ。
茹でたそうめんは冷水でしっかり締めて水気を切って器に盛り、ボールに具材を入れて塩胡椒で味付けして仕上げにごま油を掛ける。
器に盛ったそうめんに具材を乗せ、真ん中に卵黄を乗せる。
野菜が少し足りなく感じたので、そうめんの周りに刻んだ生野菜を盛りつける。
麺つゆに酢とごま油を加え、良く冷やした冷水で薄めてタレを作ると、具材の上からまんべんなく掛けていく。
出来上がったそうめんをちゃぶ台に並べ、麦茶とごはんも一緒に並べる。
『いただきます』
唱和して二人は仲良くご飯を食べながら、互いの宿題の進み具合の確認と、昨日の夏祭りの事でおしゃべりをする。
クマに貰った仔猫のぬいぐるみの事がよほど気に入ったのか、菜々子はいつも自分の傍に置いている。
流石に、食事中は汚れるとぬいぐるみが可愛そうだからと鏡に言われて、菜々子は少し離れた所にぬいぐるみを置いている。
食事を摂り終えた二人は、食器を洗って一服してから宿題の続きに取り掛かる。
菜々子は読書感想文を書くために、小学校の図書室で借りてきた本を読んでいる。
本のタイトルは『さびしい王様』という本で、本を読み終えた菜々子が感想文を書いている。
「ねえ、お姉ちゃん。お姉ちゃんも、ひとりだと、しあわせ?」
読書感想文を書き終えた菜々子が、鏡にそう訊ねてくる。
「独りきりだと寂しいから、幸せじゃないね。でも菜々子ちゃんが居て、今の私は幸せだよ」
「そっか……菜々子といっしょだね!」
鏡の言葉に菜々子は嬉しそうにそう答えると、少し表情を曇らせて『お父さんももっと居てくれたら良いのに』とポツリと呟く。
刑事という職業柄、仕方がない事とはいえ、菜々子としては遼太郎にもっと傍にいて欲しいのだろう。
「菜々子ちゃん、夕方になったら雪子の所に浴衣を一緒に返しに行こうか?」
鏡は先日の夏祭り用に借りた浴衣を一人で返しに行こうと思っていたのだが、予定を変更して菜々子も連れて行く事にする。
宿題が一段落したところで二人は出掛ける準備をすると、雪子に連絡を入れてから、先日借りた浴衣を持って天城屋旅館へと向かう。
日が陰ってきたとはいえ、日中の炎天下で熱されたアスファルトにこもった熱が蒸し暑さを感じさせる。
二人はバス停に行くまでの間に自動販売機で購入した飲み物を飲みながら、バスの到着を待つ。
暫くして到着したバスに乗り込むと、車内は冷房がほどよく効いており、菜々子は鏡に『涼しいね』と楽しそうに話す。
「いらっしゃい。菜々子ちゃん、来るとき暑くなかった?」
天城屋旅館に到着した二人を出迎えた雪子が、そう言って菜々子に声を掛ける。
菜々子は雪子に『少し暑かったけど大丈夫だったよ』と笑顔で答える。
二人は雪子の部屋に案内されると、雪子が二人の着替えた衣服を持って来る。
「二人の衣服だけど、そのままなのも何だから洗濯をしておいたよ」
勝手にやっちゃってごめんなさいねと謝る雪子に、鏡は逆に気を使わせた事を謝りお礼を述べる。
千枝は先日は雪子の部屋に泊まって朝一番に帰宅して、りせは午前中に浴衣を返しに来たらしい。
「鏡は今日は何をしていたの?」
「菜々子ちゃんと一緒に宿題を片付けていたよ」
そう言って菜々子と笑い合う鏡達の姿に雪子は表情を綻ばせると、宿題をちゃんとやって偉いねと菜々子を褒める。
雪子に褒められた菜々子は顔を赤くして照ると、持ってきた仔猫のぬいぐるみに顔を隠すように抱きしめる。
菜々子が抱きしめているのがクマに貰ったぬいぐるみだと気付いた雪子が、鏡に『お気に入り?』と訊ねる。
雪子の質問に鏡は眠っている時も宿題をしている時も片時も傍から離そうとしない事を話す。
「頑張って手に入れたクマさんが聞いたら喜びそうね」
鏡の話に雪子がそう言って微笑む。
帰りのバスが到着するまで、鏡達は雪子と他愛ないおしゃべりで時間を過ごす。
「それじゃ、またね」
バス停まで見送りに来てくれた雪子に別れを告げて、鏡達は帰宅する。
帰宅して、いつものように菜々子と晩ご飯の準備を行う。
昼はそうめんだったので、晩ご飯は少し味付けを濃くした野菜炒めと、ポークランチョンミートと切り昆布の炊き込みご飯だ。
炊き込みご飯にはワタを取り、火を通したゴーヤも加える。
定時で帰宅する事が出来た遼太郎が戻ってきた頃には準備も整い、三人で食卓を囲む。
ここの所は書類整理の仕事が多い遼太郎も、流石に暑さで参っていたらしい。
濃いめの味付けに対して特に何も言ってこなかったので、発汗で塩分が失われていた分、身体が必要と感じているのだろう。
「ゴーヤが入ってて、もっと苦いかと思ったが、そうでも無いんだな」
炊き込みご飯を食べてみた遼太郎が、そう感想を述べる。
ゴーヤ自体に火を通した事と、ご飯を炊く際に鰹節の煮汁を使って炊き込んだ事によって苦みはかなり緩和されている。
その事に加え、ポークランチョンミートと切り昆布から出汁と旨味が出ているのが最大の理由だろう。
遼太郎の感想に、鏡と菜々子は顔を見合わせて上手に出来上がった事を喜び合う。
食事を終え、仲良く食器を片付けた鏡達が入浴している間、遼太郎は新聞を読みながら鏡に頼まれた直斗の事を考える。
今日も署で調べ事を続けている直斗にそれとなく話しをしてみたのだが、今までと違いどことなく直斗の雰囲気が変わっていた。
遼太郎は直斗に根を詰めすぎて体調を崩さないように話すと共に、機会があればまた食事をしに家に来るように勧める。
直斗は機会があればと返すと、遼太郎に事件について意見を求める。
遼太郎は個人的見解だがと前置きして、直斗と同様に久保の事件は春先に起きた事件の模倣殺人だと考えている事を話す。
その上で遼太郎は、表だっては行動できないが直斗の捜査に協力する事を申し出る。
遼太郎の申し出に直斗は驚くも、自身に協力して大丈夫なのかと訊ねる。
心配する直斗に遼太郎は、上に睨まれないように何とかするさと答える。
それよりも、直斗自身の方こそ健康管理は大丈夫なのかと遼太郎は訊ねる。
僅かだが、根を詰めすぎて直斗の顔色が少し悪くなっているように感じられたからだ。
遼太郎の指摘に直斗は苦笑気味になると、今日の所は大事を取って早めに帰宅すると話す。
それならばと、遼太郎は自身が定時で上がるので、ついでだから家まで送っていくと提案する。
その提案に直斗はそこまでして貰うわけにはいかないと断るも、暑い中を歩いて帰らせる方が心配だといって押し通す。
「堂島さんも、意外に押しが強いんですね」
「……頼れる内は遠慮せずに頼っておけ」
直斗の言葉に、我ながら柄にもない事をしている自覚がある遼太郎が、視線をそらしてそう返す。
そんな遼太郎の様子に直斗は僅かに表情を綻ばせると『それではよろしくお願いします』と申し出を受ける事にする。
(以前に比べるとアイツも結構、柔らかくなったよな)
何が切っ掛けなのかは解らないが、直斗の変化を遼太郎は好ましく思う。
今後の予定を聞かされて驚くこともあったが、その事が直斗にとって良い方向に働くことを願うばかりだ。
「お風呂、お先に頂きました」
そう言って、寝間着姿の鏡が菜々子と共に居間へと戻ってくる。
冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに自分の分と菜々子の分を注いで水分を補充する。
使い終えたコップを洗って片付けると、時間も遅いので菜々子を寝かし付けてから鏡も自室へと戻る。
宿題の残りがあと少しなので、就寝する前に鏡は宿題を終わらせるために机へと向かう。
残っていた宿題もすぐに終わり、鏡は勉強道具を片付けると布団へと入り目を閉じる。
菜々子の宿題はまだ終わっていないそうなので、明日も菜々子の宿題を見ることに決め眠りにつく。
菜々子の宿題は暇を見て遊びに訪れた陽介達の協力もあり、日記以外は全て終わらせる事が出来た。
手先が器用な完二の手伝いで、図工の工作は小学生のものとは思えない作品が出来上がった。
菜々子は完二が作品を作っている間中、見慣れた物が違う姿に変わる様を興味津々といった感じで見ている。
牛乳パックで作られた車の上には、毛糸で作ったクマの編みぐるみが座っており、その出来映えは元の材料が解らないほどだ。
出来上がった物を見た菜々子は瞳を輝かせて完二にお礼を言うと、満面の笑みを浮かべている。
菜々子のお礼に完二は照れたのか、大したことじゃないとぶっきらぼうに答える。
陽介やりせが照れている完二をからかったりする一幕もあったが、それを鏡が窘める。
夏休み最後の日。
遼太郎が知人からスイカを貰って来たのだが、三人で食べるには量が多いので、鏡に陽介達も呼んで皆で食べようと提案する。
鏡からの連絡で、堂島家へと訪れた陽介達は誘ってくれた遼太郎にお礼を述べる。
切り分けられたスイカを手渡され、裏庭で食べる者と室内で食べる者とに別れて食べる。
完二は持参した塩を振りかけて、かぶりつくようにスイカを食べており、種は豪快に吐き出している。
クマは初めて食べるスイカに目を丸くしており、陽介と雪子に食べ方を教わり美味しそうに食べている。
「これだけ人数が居ると、流石に手狭に感じるな」
集まった面々を見渡して、遼太郎がそう話す。
菜々子は、大勢でスイカを食べる事が嬉しくて終始笑顔を見せており、千枝達も楽しそうだ。
今度は海でスイカ割りをしたいよねと話す千枝に、時期的には無理だから来年になったら皆で海に行こうと陽介が提案する。
「らいねんも、菜々子と遊んでくれる?」
心配そうに訊ねる菜々子に、鏡達はもちろんだと快く返事する。
その言葉に菜々子が安心した表情を見せると、遼太郎が菜々子に『良かったな』と言って優しく頭を撫でる。
こうしてまた一つ、菜々子にとって大切な思い出が増える。
遼太郎が居て、鏡が居て、鏡の友達達が自分の事を気に掛けてくれる。
こんな日がいつまでも続けばいいなと、菜々子は思いながら手にしたスイカを美味しそうに食べるのであった。
夏休みが終わり、新学期を迎えた九月の初め。
通学路を歩く生徒達から、休みが終わった事を残念に思う声が聞こえてくる。
校門前に鏡が到着すると、後ろから千枝と雪子に声を掛けられる。
「うーす。来るとき、道間違えたー」
千枝達と話していると、遅れて登校してきた陽介がそう言って鏡達に声を掛けてくる。
陽介の言葉に雪子が『休み、長かったからね』と同意すると、千枝がそれはどうなのかと二人に突っ込む。
このまま校門前で立ち話をしている訳にもいかないので、鏡達は教室へと向かう。
「おはようございます」
そう言って鏡達に声を掛けてきたのは八十神高校の制服を着た直斗だった。
直斗の登場に驚いた陽介がとっさに名前を思い出せずに直斗の事を“チビッコ探偵”と呼ぶ。
その言葉に直斗が思いつきで変な名前を付けないで下さいと辟易した様子で抗議する。
「警察への協力は終えましたが、事件には、まだ色々と納得できない点があります」
ちょうど家の方の事情もあるため、暫くこちらに留まる事にしましたと話す直斗に鏡達は驚きを隠せない。
面識のある鏡達に一応、挨拶をしておこうと思って待っていたと直斗は話す。
「それではこれで。宜しくお願いします、先輩方」
そう言って、直斗は校舎の方へと歩いていく。
「……先輩方?」
唖然とした表情で千枝が呟く。
事件は解決したが、まだまだ問題は有りそうだと直斗の登場にそんな思いを抱く。
鏡はそれよりも、直斗がいつまでかは解らないがこうやって学校へと通う事を嬉しく思う。
同世代の生徒達と接する事で、何かしらの影響は有るだろう。
それが、直斗にとって良い方向へと働けばと良いと鏡は思うのだった。
2011年08月14日 初投稿