そして翌日、六時限目。
子供先生ことネギ・スプリングフィールドが担当する英語の授業を聞き流しながら、千雨は教室の前のほうに座るのどかの後頭部をぼんやりと見つめていた。
(魔法少女ねぇ)
こうして後ろから見る姿は、今までと何も変わりない。ちょっと内気で鈍くさくてネギのことが好きな、ただの中学生だ。そうであるはずだった。しかしもう違う。自分たち以外が誰も知らない部分で変わってしまった。
のどかの様子からして、自分が魔法少女であることは絶対の秘密だろう。当然だ。キュゥべえも言っていたが、魔法少女や魔女の実在について世間に知られるわけにはいかない。秘密の戦うヒロイン……魔法少女とはそういうものだと言える。
(とはいっても……ピンとはこないんだよな、はっきり言って)
宮崎のどかという人物と戦いというものが結びつかない。荒事とはもっとも縁の遠い人種なのではなかろうか。
図書館探検部という何かが全力で間違った“肉体派文系部活動”に所属している彼女だが、実際のところはやはり千雨と同じようにインドア派であるはずだ。しかも自覚できるほど攻撃性が高い自分と違って、のどかはいわゆる草食系の性格をしている。戦いという言葉からイメージできるものと、のどかの姿はどうしても重ならなかった。
『どうかしたのかい、千雨?』
膝の上で丸くなっていたキュゥべえが顔を上げた。もちろんのどかを除いたクラスメートたちに姿は見えていないはずだし、この念話も聞こえていない。だが彼を見ながら会話するのはさすがに奇妙に思われるかもしれないと、千雨は一瞥だけすると黒板のほうへと視線を戻した。
『いや、大したこっちゃねーよ。宮崎と魔法少女ってのが、まだ実感として私の中で一本の線に繋がらないってだけでさ』
『ふぅん……気持ちの整理がつかないのかい?』
『そうなのかもな。お前と会ってから、今までの『当たり前』を覆されてばっかりだけど……今回のは極めつけだ。正直言って『魔法少女』ってのは、もっと私から遠いところにいるもんだと思ってたよ』
『そうなのかい? それはボクとしては認識が甘かったと言うしかないね』
『ああ、わかってるよ。魔女っているんだもんな、この現実に』
先日に話を聞いて以来、千雨は心のどこかで常に怯え続けていた。千雨は魔女のことを知らない。魔法少女が倒すべきもの、魔法少女に倒されるものとしか知らない。どういうものか、どこから来て、どこへ行くものなのかを知らない。未知への不安が、彼女に恐れを生んでいた。
『魔女のことが怖いの、千雨?』
『……そうなんだろうな。だって倒さなきゃいけない存在なんだろ? 危険な相手だから、お前だって魔法少女として戦ってくれる奴を探してるんじゃないのか?』
『放っておけば、君たち人間に危害を加えることになるのはたしかだね』
『だろ?』
それは予想できた言葉だ。だからきっと、誰かがやらねばならないことなのだろう。血を流してでも守りたいもののある者が、『魔法少女』と呼ばれる資格を持つのだ。千雨にはそう思えた。
(……私には、ないな)
のどかに目を向ける。この内気なクラスメートにはそれがあった──それだけの差でしかないのに、彼女に人間として一歩も二歩も先に行かれてしまったような気がする。競争相手だと認識していたつもりはないが、自分が彼女に劣る者だと思えてならなかった。あるいはそんな風に考えてしまうことそのものが、彼女と自分の差なのかもしれなかったが。
『浮かない顔だね?』
『いや、別に』
『機嫌が悪そうだけど』
『……そう見えるか?』
『ボクにだってキミの顔を見て、どのような感情を抱いているかを推測するくらいはできるよ』
『ずっと思ってたけどキュゥべえ、お前って結構理屈っぽいよな』
『君たちの言葉で言うなら『性分』ってやつだね、きっと』
『魔法の使者のくせに』
『役割と個人の資質に、直接の因果関係はないと思うな』
正論だ。適材適所という言葉はあるが、それはそうでないことが多いがゆえに生まれた言葉に違いない。
その意味では、はなはだ不的確な相手のような気もしたが、聞きたいことがあったので彼にたずねてみることにした。現実問題として自分の抱える様々な疑問に答えられるのはキュゥべえしかいないのだ。
『なぁ、宮崎は……大丈夫なのか?』
『どういう意味だい?』
『危険はないのかってことだよ』
『魔法少女に危険があるのかと言われたら、ボクからはあるとしか答えられない。ゼロではないからね。心配かい、彼女のことが』
『そりゃあな。クラスメートだし……』
利己的な人間であるという自覚はある。だがそれも人並みにという言葉が前に付くだろう。そして同じように『人並み』には、クラスメートを心配する気持ちも持ち合わせているつもりだった。
『……大丈夫、だから』
『宮崎!? あ、ああそうか。これって本来は魔法少女同士の会話のためにある能力なんだっけ』
『聞いてたのかい、のどか?』
『うん、ごめんなさい』
盗み聞きのような形になったことを恥じているのだろう。のどかの声は実に申し訳なさそうな声色だった。
『いや、お前は別に悪くねーよ。こっちが忘れてただけだ。そ、それに……私の勝手な心配だし。宮崎がちゃんとやれてるなら、勝手なお節介になるし』
他人の心配をすることに慣れていない、その気恥ずかしさを誤魔化すようにぶっきらぼうな言葉を口にする。
『……ううん。さっきの千雨さんの話、嬉しかった』
『え?』
『千雨さんが心配してくれたの、嬉しかった……だから』
『そ、そうか。ま、まぁなんだ、クラスメートだしな、うん』
念話であることを差し引いても、のどかはつくづくはっきりと物を言うようになった。千雨が戸惑ってしまうほどに。
やはり彼女は変わったと思う。そして同時に変われない自分の姿を鏡で突き付けられているようで、少しだけ胸の奥が痛んだ。
「……千雨。近くに魔女がいる」
学校からの帰り道。キュゥべえからそんな言葉をかけられて、足がピタリと止まった。
言葉の意味がわからないわけではもちろんない。その言葉の持つ深刻さのせいだ。思わず足を動かせなくなるほど、その言葉は重い。
「なっ……本当か!?」
「ボクが嘘をつくメリットは特に思い当たらないね」
「……まったくもってその通りだな」
少し苛ついた。そんなことが聞きたいのではないのに。
「落ち着いてよ千雨、何も今すぐ魔女が出てくるってわけじゃない。でも近くにいるのは間違いないんだ。ほら、あの子を見て」
キュゥべえに促されて道行く人に目を向ける。その後ろ姿に見覚えがあった。
彼女もクラスメートの一人だ。どちらかと言えば影が薄い部類の──確か村上夏美という名前であったはず。
我ながら薄情なことだとも思ったが、接点のないクラスメートの認識などそんなものだろう。千雨自身だってクラスの中では目立たないようにしているのだし、他の生徒から同じような認識を持たれていても不思議はない。むしろ間違いなくそういう印象だろう、むしろそうであってほしい。
ともかく頼りない足取りで歩く夏美は、はたから見ても異常だった。道行く通行人の姿はないが、もしいれば誰かが声をかけ、通報でもしそうなくらいに。
「あいつは……!」
「知り合いかい?」
「ああ、クラスメートだよ、見たことないか?」
「記憶にはないね」
「あ、そう……で、なんであいつフラフラしてるんだ?」
「『魔女の口づけ』」
「魔女の口づけ? なんだそりゃ」
「魔女はターゲットになる人間に印をつけるんだ。狙った人を弱らせ、誘いだし、死に追いやるためにね。原因のわからない自殺や事件は、こうやって魔女に狙われたことが原因のことがよくある」
「死……!? なんでだよ!? あいつ、今日学校ではおかしくなんてなかったはずだぞ!?」
「だからこそだよ。理由もないのにおかしくなる。死にたくなったり、殺したくなったりする。それが魔女の呪いなんだ」
「マジかよ……」
死──これまでの人生で一度も縁の無かった言葉が重くのしかかる。実感はできなくても、直感に訴えかけるものがあった。彼女から目を逸らしてはならないと。
階段を登り、歩道橋を渡ろうとしている彼女を、千雨は慌てて追いかける。
「おい村上!」
「……」
夏美は答えなかった。聞こえていないかのように、ただ歩道橋を真っ直ぐ歩き続ける。そして道の半ばほどに来てから、ようやく立ち止まった。
「お、おい……?」
夏美の顔は、まるで熱病にでも冒されているかのようだった。彼女はどこも見ていない。ただ『何か』に導かれるまま、そこにあるだけで──まるで誘蛾灯に誘われる蛾のようでもあり、あるいは水に飛び込もうとする旅鼠のようでもあった。
まずい。イヤな予感がした。いや違う、イヤな予感しかしなかった。
ダラけていて走り慣れていない身体を叱咤して、歩道橋の上を疾走する。その手が夏美の服の袖にかかったのと、彼女が歩道橋の外に身を躍らせようとしたのはほぼ同時のことだった。
「ぐうッ!?」
千雨の華奢な両腕に、重力に引かれた夏美の全体重がかかる。すんでのところで間に合い、夏美は歩道橋からだらりとぶら下がる形になっていた。
「お、重い……!」
それは普段ならば冗談交じりでしか使わないような言葉。特に年頃の少女に向かっては。だが冗談でないこの状況では、切実な意味を持った言葉となる。
はっきり言えば千雨は非力だ。不健康で運動不足で不健全な引きこもりのインドア派女子中学生だ。そんな人間が、自分と同じくらいの体重のある相手を容易に支えられるか──? もちろん答えはNoだ。不可能である。
そう、平均値以下の体力しか持たない千雨の身体は今、限界まで酷使されていた。辛うじてと言わんばかりに彼女の腕は小刻みに震え、歩道橋の欄干が食い込む肋骨がきしむような悲鳴を上げていた。
「か、肩が抜けそうだ……! 村上、村上ぃっ!!」
呼びかけても何の反応もない。この脱力した感じは、意識を失っているとしか思えなかった。だからこそ余計に重い。今の彼女は人型の荷物でしかないのだ。
こんなことなら身体を鍛えておくんだった。そう後悔してももう遅い。夏美を掴んだ手が痺れてきて、感覚がなくなりつつある。せめて手を握り替えしてくれればと思うのだが、それすらしない。夏美はまるで生きることを放棄しているかのようだった。
だがそれでも、千雨に『見捨てる』という選択肢はない。当たり前だ。ここで諦めてしまったら、きっと一生後悔する。彼女のためだけでなく、自分自身のためにも見捨てることなどできるわけがない。
「くっ……そぉぉぉっ!」
力がなくなりきる前に足を踏ん張り、渾身の力を込めて夏美を引き上げながら、後方へと勢いをつけて倒れ込む。荒っぽいが他に方法はなかったのだ。
手が緩めば夏美は死ぬ。絶対に離すものかと力みながら、歩道橋へと倒れ込む千雨。一瞬遅れて、まるで重い荷物のように夏美の身体が彼女の上へとおぶさった。実に重い。だがそれこそは安堵の重さだった。
「や、やった……危なかったぁ……!!」
「大丈夫かい、千雨?」
「キュゥべえ!? どこ行ってたんだよ、手伝ってくれれば、もっと楽に……」
「あいにく、ボクは君よりもずっと非力だからね。役には立てなかったさ。それより、のどかに連絡を取っておいたよ。もうすぐ来てくれると思う」
「そ、そうか……」
夏美を抱き起こしながら、大きく息をつく。まだ心臓は早鐘のように鳴っているし、腕の痺れも取れない。だが夏美から感じる体温は、自分がやり遂げたことを教えてくれる。得も言われぬ達成感があった。
「なぁキュゥべえ、こいつどうしちまったんだ? 『魔女の口づけ』ってのは……」
「誰の心の中にもある、潜在的な破滅願望を刺激されたんだ。衝動的な自殺を誘発するタイプの魔女だね」
「なんで、そんなことを……」
「それが魔女なんだよ、千雨。言ったろ、魔女は災いと呪いをまき散らす存在だって」
「……!」
実感した。魔女がそういう存在であることを。このときこそ千雨は初めて実感できた。魔女は私の──私たちの敵だと。
息せき切ってのどかがやってきたのは、それから十数分ほど経ってからのことだった。
「千雨さん、キュゥべえ!」
「来たね、のどか」
「村上さんは?」
「なんとか私が助けたよ。今は眠ってる」
千雨はそう言いながら、バス停のベンチに寝かされている夏美を目で指した。いまだに彼女は目を覚まさない。もっとも寝苦しそうにしているというわけでもないので、単純にまだ眠っているだけなのだろう。
もっとも、それで安心はできない。彼女の首筋には、魔女によって刻まれた『魔女の口づけ』がまだ残っている。魔女がいるかぎり、彼女に忍び寄る死の影は決して消えることがないのだ。
「村上は助かるのか?」
「今は小康状態だけど、魔女の口づけを受けた人間は衝動的な自殺を繰り返すようになる。近いうちに必ず死んでしまうだろうね。彼女を救いたいのなら、方法はたった一つだ」
「……魔女を倒せってことか」
「その通りだよ。わかってきたね、千雨」
賛辞とは思えないキュゥべえの言葉を無視して、のどかに目を向ける。彼女はさきほどよりソウルジェムを取り出すと、それをかざしながら周囲の様子を探っていた。
「何やってんだ、宮崎?」
「魔女の気配を探してます……この近くにいるはずだから」
「そ、そうか、そうだったな」
その事実を思い出して、身をこわばらせる。
元はといえば、夏美がこんなことになったのも全ては魔女のせいなのだ。魔女に狙われている、いつ狙われているのかわからない。そんな未知への恐怖が心を縛る。
ならばすがるものはただ一つ。“魔女の敵”である魔法少女だ。そして今ここには魔法少女──宮崎のどかがいる。だがこのときの千雨は彼女に頼ってしまってよいものかと、疑念を抱かざるを得なかった。
もともとのどかはどこからどう見ても、頼りがいのあるタイプではない。むしろ頼りない雰囲気の持ち主だ。それどころか、守ってやらなくてはと思うことさえある。たぶんA組の生徒の誰に聞いても、返ってくる答えは同じになるだろう。軽んじられている──とまで言うと言葉としては大げさかもしれないが、事実としては間違っていない。宮崎のどかは軽んじられていたし、軽んじていた、千雨も。
だが今はどうだ。『魔法少女』という肩書きが一つ増えただけで、頼りないと断じていた相手でありながら彼女に頼り、全てを任せてしまおうと思っている自分がいる。恥ずかしかった。何よりもそれを「自分は魔法少女ではないのだから当然だ」と割り切り、納得しようとしている自分の性根がイヤになった。
「……最低だ」
「はい?」
「いや、なんでもねーよ」
無意識のうちに出てしまった声を、慌てて誤魔化す。こんな醜い気持ちを、他人に知られたくはない。何よりも、まともにのどかの顔が見れなかった。心配そうにまじまじと見つめられるのがいやで、話を逸らす。
「それより魔女は見つかったのか?」
「見つかりました。このすぐ近く、歩道橋の……あそこです」
のどかが指差したところにあったのは弔花だった。小綺麗な、だが真新しい花束だ。何を意味しているのかは考えるまでもなくわかる。
「ああ、そういえば……」
弔花を見て思いだした。この歩道橋が出来た謂われを。
かつて一年ほど前、ここには横断歩道があった。交通量の多い道に似つかわしくない、死角が多く粗末で見通しの悪い横断歩道だ。そんな横断歩道で事故が起こらないわけがない。
犠牲になったのは一人の母親だったと聞いた。「我が子を守って」という悲劇的で感動的な話であったから、少し話題になっていたことを覚えている。
もしかしたらその人が犠牲になったのも、魔女のせいであったのかもしれない。そんな風に思える。なんでもかんでも魔女にこじつければいいというものでもないのだろうが。
「千雨さん、こっちを見てください」
「これは……なんだ? 魔法陣とか、そういうのか?」
それはナデシコの花にも似た奇怪な紋様だった。インクのようなもので歩道橋の裏側に直接書かれている。見ているだけで得も言われぬ不快な気持ちになる紋様──千雨はその感覚に覚えがあった。
「グリーフシードと同じ感覚がする……?」
「これもまた、魔女が残した痕跡なんだ。ここは魔女の結界の入り口。この奥に魔女は潜んでいるんだ」
「この先に、魔女が……」
「そしてもう一つ」
キュゥべえはそう言って眠っている夏美の側に行くと、彼女の後ろ髪をかき分ける。そこには大きさこそ目立たないほど小さいが、歩道橋にあるものと同じ紋様が刻まれていた。
「間違いない、同じ魔女だ」
「わかるのか?」
「この印は魔女ごとに違う形をしているからね。同じ形の印であれば、それは同じ魔女の支配下にあるってことさ」
「なるほど」
要はパーソナルマークだと理解すればいいのだろう。
「さあ、出番だよのどか」
「うん……わかってる」
キュゥべえの言葉に、のどかははっきりと頷いた。その表情には若干の緊張がありつつも、固い決意が見て取れる。千雨にとっては初めて見る表情だった。
「い、行くのか、もう? 準備とかいいのか?」
「魔女の結界は結構すぐに移動するんです。見つけること自体が大変だから……」
「このチャンスを逃すと、次はいつになるのかわからないんだ」
「そうなのか……」
彼女たちがそう言うのならば、正しいのだろう。だが唯々諾々とうなずいて見送ることしかできない自分がなんとも歯がゆく、情けないものがあった。
「どうかしたのかい、千雨? まさか一緒に行きたいとか?」
「い、いや……私なんかがついてっても、何の役にも立たないだろう」
「それはそうだね」
はっきり言われると多少はショックがある。なるべくそれを顔に出さないよう、押し隠して話を続ける。
「けど、それでも何かできることないかって思ってさ」
「ふぅん……」
キュゥべえはのどかを見上げた。選択を委ねたのだろう。戦うのは彼女だ。どうするにしろ、決定権が彼女にあるのは当然だった。
「……千雨さんは、ここで待っていてください」
「え」
「必ず戻ってきますから、ここで待っててください。それで、村上さんと一緒に帰りましょう。だから……」
「宮崎……」
一瞬、拒絶されたのかと思った。しかしすぐに、のどかの言わんとするところがわかった。
きっと彼女も心細いのだろう。もしも千雨が魔法少女であったなら、すぐにでも同行を頼んだに違いないほど。だが千雨は魔法少女ではない。力を持たない一般人、キュゥべえと親しいだけの単なるクラスメートにすぎない。
そんな千雨を危険な魔女の結界の中に連れて行くことはできない。心配する気持ちだけもらっておく。のどかはそういうつもりに違いなかった。
「行ってきます」
「気をつけろよ。私はそう言うことしかできないけど、ホントに気をつけてくれ。イヤだからな、クラスメートの葬式に出るのなんて」
「……はい!」
そんな会話を交わして、キュゥべえを連れたのどかを見送ってから、はや三十分。
日も暮れ始めたころ、千雨はベンチで寝かせた夏美の隣に座り、落ち着きなく爪を噛んでいた。結界の中の様子はまったくわからないのだから、不安にもなる。
そもそもどれほど危険なのかということすらわからない。問いただすことすら恐くて、キュゥべえにたずねようとしなかった。
ただ──自分が思っていたよりも、はるかにずっと危険な存在ではあるようだ。『魔女の口づけ』を受けただけの夏美が、あんなにもあっさりと死にそうになったのだ。魔女本体があれよりも甘いわけがない。
「……私は」
やはり一人で行かせるべきではなかったのかもしれないと、千雨は後悔し始めていた。あの時点では確かに自分が一緒に行っても、役に立たなかったのは事実だ。ならばあそこで『役に立つように』なっていればよかったのではないか。そんな風に考えてしまう。
自分がキュゥべえの言うことと真面目に向き合ってこなかったばかりに、みすみすチャンスを逃し、クラスメートを独り死地に送ることになってしまったのではないか。そんな後悔が胸を苛んでいた。
自罰的すぎるのはわかっていたが、「待っていてほしい」と言ったのどかの顔が、脳裏に焼き付いて離れない。もしもあれが最後の記憶になってしまえば、千雨は悔やんでも悔やみきれないだろう。
そして本当にそうなったとき、自分がそれに「仕方がなかった」と言い訳をしている姿まで想像できるのだ。その想像がおそらく間違っていないことが何よりも悔しく、情けない。
「でも、な……無理だ。無理だよ、そんなの」
嘲笑めいたものが口元に浮かぶ。
そこで踏ん切りを付けて様々なハードルを飛び越えることができるほど、千雨は思いきりのいい人間ではなかった。
「ああ、くそっ! どうすりゃいんだよ……」
世の中どうにもならないことはある。口癖のように常日頃思っていることだ。けれども、その言葉が意味するところを、本当に理解できたのは今が初めてだった。どうにもならない、どうにもできない。そういう無力感が何よりも辛い。しかしどうすることもできずに、ただ時間だけが過ぎていった。
「はぁ……お?」
「う……」
何度目になるのか、数えるのも忘れたほどのため息をつく千雨。その横で、夏美が小さくうめき声を上げた。
「やっと目を覚ましたか……このまま目覚めないかと思ったぜ」
「ん……あれ? 長谷川……?」
状況がわかってないのだろう。あくびなどしながら目をこする夏美の姿は、のんきなものだとしか言いようがない。もちろん彼女が悪いのではなく、むしろ被害者でしかないのだから、責めようなどなかったが。
「まだ調子悪いだろうから、大人しくしとけ。宮崎が戻ってきたら一緒に帰ろう」
「……うん? ああ、それはダメかも」
「なんでだよ、用事でもあるのか? でもお前先に帰らせるわけにもな。つか、今お前から目を離したらマズ……いッ!?」
いきなり夏美に押し倒され、ベンチから転げ落ちた。何が起こったか理解できないうちに、彼女の両腕が襟元へと伸びてくる。息が詰まり、言葉を失った。何をされているのか、一瞬わからなかった。首がとにかく苦しくて、混乱と戸惑いだけが意識を埋め尽くす。殺されると思った。
(な、何を……!?)
自分の首を絞める夏美の腕に手をかけるが、非力な千雨では引きはがすこともできない。おまけに上にのしかかられて、ろくに身動きすら取れなかった。
「ダメだよ長谷川。なんで邪魔したの。ねぇ、なんで?」
「じゃ、邪魔……?」
「なんで邪魔するの? 私は私らしくしたいだけなのに。だから私は……」
夏美が何を言っているのかが理解できない。おそらくは彼女の中でそうなった過程はまとまっているのだろうが、所詮は狂人の理論に過ぎないははずだ。きっと聞いても納得できない。何よりもこの理不尽な状況では、理解も納得もありはしない。
「ぐ……ぎ……ああっ!!」
身体を折り曲げ、夏美の首に両脚を引っかける。反対側からではスカートの中身が丸見えになっているはずだが、今この状況でそんなことを気にしていられる余裕もない。
いかに千雨がただの少女とはいえ、腕の力と脚の力で比べれば、どちらが上かなど考えるまでもないことだった。背筋を使って背骨を反らせた夏美の後頭部を、力任せに地面へと叩きつける。手加減など出来なかった。
「あぐっ……ううっ!」
「げほっ、あ、ぐあ……!」
後頭部を抱えて転げ回る夏美の横で、大きく咳き込む。空気が足りない。今ので身体中の酸素を使い切ってしまったような気さえした。
「む、村上ぃ! なにを……!?」
「逝かなきゃ……呼んでる、から……」
「村上!?」
もはや千雨の言葉など目に入っていないかのようだった。夏美は後頭部を押さえながら立ち上がると、まるで夢遊病者のような足取りで、歩道橋へと歩いて行く。
「馬鹿! やめろ、止まれ! 村上! 止まるんだ!」
「逝か……ないと……!」
なんとか止めようとしがみついた千雨を引き摺り、夏美は歩き続ける。もはやそこに千雨がいるということを、認識していないかのようだった。
彼女の進む先にあるのは歩道橋。だが、昇ろうとしているのではない。目指しているのは土台となる柱──つまりは魔女の結界だった。
そのことに気付いた千雨の顔色が変わる。だが全力で手足を突っ張り、彼女を引きとどめようとしても、夏美は止まろうとしない。
「おい、馬鹿よせ! よせって言ってるだろ、村上っ!」
信じられないような力で引き摺られながら、千雨が叫ぶ。だがその叫びごと彼女の身体は、夏美と共に魔女の結界へと飛び込んでいた。