マークは先ほどから自分にひっつく小さな生き物を見下ろした。こちらが身じろぎをしてもちょっとやそっとでは動じない。
なんと言っても体ごとべったりとひっつかれて、なかなか抜け出すこともできない。
「ねーねーまたやろうよ!」
さっきから口をついて出るのは無邪気なお誘いの言葉。自分の姿を見つけた途端、どかっと渾身のタックルを決めてきた相手は、彼がうんと頷くまで解放するつもりはないだろう。
「だから言ってんだろ。俺は今からやることがあるんだからな」
にべもなく言い放った言葉にすかさず盛大なブーイングが起こる。非常にやかましい。
「いい加減に一人で弾けよ」
「だってまだあんなに速く動かないもん!」
「それができるように、一人で頑張るんだろ?」
「やだ! マークのとうへんぼく!」
「とう……なんだって?」
聞き慣れない単語にマークは目をぱちぱちと瞬かせた。腰元の小さな友人が自分の知らない語彙を持っているはずがないのだ。
年上としてのプライドが働く前に呆気にとられてしまった。
「わかんないけど。父さんが言ってたよ!」
「ジョージが……変な言葉を覚えてんじゃねーよ」
「一回だけ! 一回だけ!」
マークは思わず天を仰いだ。以前も一回だけ、と言って一時間以上も付き合わされた記憶がまだ浅い。
しばらく反応しないでいると、がっちりと服を掴みながらぴょんぴょんと跳ね始めた。
この粘っこさには感服してしまう。この根性が数々の音楽を呑み込む貪欲さと合わさって、天才だとか何とかと言われるのだろう。
そのしつこさは、身をもって理解させられている。マークはそっと溜め息をつくと、視線を再び下に降ろした。
「わかった。だが、カヌー。本当に一回きりだからな! お得意の『もう一回』を言い出したら二度とやらない!」
「わかってるよ! だって本当に一回だけだもん!」
ぱぁっと瞳を輝かせて声を立てて、腰を掴む力が消えた。マークはぱっと自分を放して離れた小さな生き物を見る。
にこにことこちらを見上げる年下の少年。立花・M・夏音は少年というには可愛らしすぎた。
フランス人形館あたりに紛れ込ませても何の違和感のないくらい精緻に縁取られた芸術品のような造り。
鼻、目、睫毛、唇、耳。
人々が思い描く白人の美少女、物語のお姫様。そういったものを全部まるごと詰め込んだような容姿を備えていた。
お人形、というには生気に満ち溢れすぎているが、彼を表すのにちょうど良い表現だ。大人しくしていれば。
マークは夏音ほど美しい生き物を見たことがなかった。いや、正確には美しい幼児、だが。
この少年は彼の母親によく似ていて、並ぶと娘と母にしか見えない。よく聖母子像、と評されていて、スループ家に訪れる数々の音楽家たちに評判だ。
夏音の両親はマークの父親の大親友で、マークが母のお腹に発生する前からの付き合いだ。
マークが物心ついた時から当たり前のように側にいた夫妻にもやがて子供ができたわけだ。
夏音が生まれた時、マークは四歳。夏音のおしゃぶりがやっと外れて未知の言語を喋りだした時期には五歳。
アメリカでいう義務教育まで二年の猶予しか残されていなかった。マークは文字の読み書きができたし、特別な教育など無くとも、その辺の幼児レベルかもしくはそれ以上にしっかりとしていた。
マークにとってABCの歌なんかを他の園児たちと混じって口ずさむことは、苦痛を伴う荒行以外の何でもないということが体験入園の時に判ってから、幼稚園には通っていない。
だが、小学校は通わなければならない。
それこそが、どうしようもなく気が滅入って鬱になる原因だったりした。
その年で鬱になる幼児も珍しいが、音楽から離れる時間が増えるのは歓迎できるはずもなかった。
そこで彼は、もうすぐ平日の日中を学校という牢獄に閉じ込められるようになってしまう前にたくさん遊びたいと考えていたのだ。
やはり世間一般の基準とはかけ離れた幼児だが、スループ一家は基本的に大らかで、最終的に音楽で食っていけばいいさという意見の者ばかりだった。
しっかり家庭環境に影響されたともいえよう。
さらに何だかんだで学校には絶対に行った方がいい、と強く主張したのは立花夫妻だったというのだからどうしようもない。
とにかく、一日が自由に使える残りわずかな期間を謳歌しようと思っていた矢先。
夏音と一番年が近いマークにお目付役が下ったのは災難であった。少なくともマークにとっては。
少し前まで床でハイハイしていたと思いきや、周りの大人達に最高のおもちゃにされてしまった夏音はありったけの音楽を詰め込まれていた。
常に音楽が満ち溢れる環境で育ったマークも同じような道を辿ったというか現在進行形で辿っている最中であるが。
彼もまた、まるで永久に鳴り響くのではないかと思われる楽器の音を子守がわりに育ち、とりわけ最も得意なギターは少なくとも同年代の子供とは次元を逸しているほどの技術を持っている。
それに比べても周りの人間たちの可愛がりようは異常だ。
一を教えたら十を吸収する才覚に夢中になるのはわかるが、指の皮がむけてぼろぼろになるくらいに楽器を触らされる幼児を見ているのは流石に不憫だった。
とはいえ、少し前までは自分が同じような場所にいたのに、入れ替わり立ち替わりに夏音をかまっていく大人達を見て面白くなかったというのが本音であった。
偏向的に大人びた一面があるマークも所詮は子供なのだ。
そんな大人たちの手から解放された夏音が真っ先に向かう先がマークだった。
何とも懐かれたものだと悪い気はしなかったし、末っ子の自分にもむしろ妹(少なくとも弟には思えない)ができたような気分で誇らしかったりもした。
それは今でも変わってはいないのだが、問題は夏音という子供の特異性に起因するのだ。
夏音が天才と呼ばれる片隅で、マーク自身も負けているつもりは一切ない。 夏音が覚えた楽器は当然ながら演奏することができるし、実力も雲泥の差だ。ちょっとやそっとじゃ追いつかれるはずはない、とタカをくくっていたのだが。
「こないだの弾けるようになったよ!」
と満面の笑みでギターを抱えてきた夏音が、つい先日に弾けなかったフレーズを完全に再現してしまったのをきっかけに考えを改めた。
驚異的な集中力をもって夏音は音楽を吸収していく。才能、という要因が大きいのだろうが、やはり異様な速度で音楽を修めていく姿はマークの背筋をぞくりとさせるものがあった。
さらに技術的な面は努力でカバーするという非の打ち所がない姿勢に、最近はマンネリっぽくなっていた自分の技術面を危ぶむきっかけにもなったのだ。
それからマークは必死に練習するようになった訳で、夏音から尊敬の眼差しをかろうじて受けることになった。お兄ちゃんも必死なのである。
そんなある日。つい戯れというか、遊び半分の気持ちで一つのギターを二人で弾くギター連弾をやったのだ。
ちょうどその時、左手が間に合わなくて弾けないフレーズがあるという夏音がピッキングを担当。
左手で弦を押さえるのをマークが担当した。Tico Ticoのパフォーマンスや、自分の家族や親類たちの連弾を見て以来、自分もやってみたいという願望があったので、マークとしても些か興奮を隠せなかった。
初めはつっかかりながら、ぎこちなく。次第に息を合わせていくうちに、素晴らしい演奏になった。
楽しかった。
だが、それ以上に楽しかったらしいのが夏音であった。
すっかり連弾にハマってしまったのか、ことある毎に夏音はマークにそれを求めてくる。よっぽど楽しかったんだな、と微笑ましかったのは最初のうちだけである。
今では、そう。うんざりという言葉がぴったりだ。
正直、あれは神経がすり減るのだ。実力が釣り合っていないと、顕著に難易度が上がる。
「ほら、とっととギターを持ってこい」
「うんっ!」
だだっと駆けていった夏音を見送ってから、マークは踵を返した。
向かう先は玄関。
この隙にばっくれようという魂胆である。
しかし、とマークは足を止めた。過去のトラウマが彼の足に自動的にブレーキを施したのだ。
以前、同じようなことをして自分がどんな目に合ったかを忘れてはいないだろうか。
ある時、マークに放っぽられた夏音は大泣きどころではない、スコールのような大号泣で周囲の大人を驚かせた。
泣きわめく理由を訊いても答えない夏音に、何かの病気ではないか。大変だ、救急車を。と大騒ぎにまで発展してしまった。
後々、落ち着きを取り戻した夏音の口からマークの名が飛び出た後の彼が受けた被害は筆舌に尽くしがたい。
あの時の自らの顛末が脳裏にフラッシュバックしたマークは玄関からばっと飛び退った。
危ない。
トラウマを繰り返すところであった。人間は学ぶもの。寸でであったが、マークは同じ失敗を繰り返さない。慌てて居間に戻って夏音を待った。
「持ってきたよ!」
とことことアコースティックギターを抱きかかえるように持ってきた夏音はコミカルに映る。
いたって普通のサイズのギターなのだが、小さな体には不釣り合いなバランス感を呈している。
マークが居間のソファに座るとポテポテと走り寄ってくる。そのまますぐ横に座ると、マークはネックを左手で握った。
同じソファに座っているので、よっぽど体を密着しなければならない。ふにん、とやわらかな感触にマークは僅かにたじろいだ。
「ジャンゴ、だろ」
「そのとーり!」
ジプシーギターの押さえ方は特殊で指使いも通常で覚えるものとは違う。しかし、問題が一点。
「おかしいだろ」
「何が?」
「俺からすれば右手の方が難しいぞ」
「どうして?」
夏音は質問の意図がわからない、とでも言うかのように首を傾げた。
「どうして、って俺が訊いてるんだろ」
「むぅー」と口を尖らせてうなる夏音。
「だって、できるんだもん」
「よしわかった。やっぱり、お前はおかしい」
「おかしくないもん!」
このくりくりと愛らしい瞳をつり上げて憤慨されても何一つ怖くない。
マークは鼻で笑うと、左手を指板の上に走らせた。タッピングだけで音を出すと、パーカッシヴな音色が生まれ出す。
「オーケー、やろう」
「何やるかわかる?」
「部屋から駄々漏れになってたからわかるさ。インプロヴァイゼーションだ」
にっこり笑って大きく頷いた夏音がマークの指を置いた弦をなぞる。
短く、ふっと互いの吐息が漏れた。
バラバラと音階を辿り、メロディーに紡いでゆく。
まだグルーヴとか、ノリなんてものはない。
触る触る、といった感じに息を合わせてゆく。
一瞬だ。
どこからどうそれがシフトしたのかは定かではないが、二人の音楽が始まった瞬間がわかった。
嗅覚、聴覚、そんな次元を超えたところにある感覚がこの場にある音楽をがっちり掴んでしまうのだ。
分散和音とマイナーキーのスケール展開を叙情的にこなす。
何小節か進むと歯切れの良いストロークの連続、突風のごとく、それがやわらぐ、刹那に影となった激しさの代わりに再び物悲しい音の粒が上へいったり下にいったりする。
何年経っても色褪せることのないジャンゴの音。
人は、後に生きる人にとんでもない音楽を遺していくものだとマークは思う。
まさに静と動。
ジャンゴはスィングジャズとジプシー音楽を融合した初の人間と言われているが、やはり彼の根幹にはジプシーの音が大きく存在している。
ジプシーの音楽には何とも哀愁漂うエッセンスが盛り込まれている。
いや、人が哀愁と呼ぶものに似た情感を掻き立てられるだけで、他の何に置き換えるような言葉はないのかもしれない。
ひたすら、これがジプシーの音楽だ。魂だと理解するしかない。
彼らの音楽を知るということは彼らを知ることであって、マークは一生かかってもそこに辿り着くことはないだろうと直感で理解していた。
その表現に限りなく近づけること、は可能だろうが。
なりを潜めた激しさが徐々に表に出てくる。
急に烈しい三連符が雪崩れのように始まると収まり、六連へと膨らむ。高速のトレモロ。弦を引き千切りかねない激情でストロークをする夏音とマークは一体となっていた。
お互いの呼吸がつながり、息を吸ったらどこからそれを吐くか。そんな考えずともわかる自然の行為に等しい次元までシンクロしていた。
激しさの裏に静けさが訪れる。一度高まったものを鎮める行為、暴走しないようにコントロールするのは至難の業だ。
忍耐と情熱をもって生み出される音楽は小学校にも上がっていない幼児達には早すぎた。
マークは相方の、否、自分の右手が収まりきるはずがないと頭の隅で冷静に理解した。それと同時にテンション爆発で全力パッション中の音に酔いしれていた。
途中でピックがぶっ飛んで素手でストロークをする夏音も同じく、目の前でこの狭い部屋を支配する音楽に夢中になっている。
ビンッ!
「アッ!!」
狂ったダンプカーのように突っ走っていた二人は、今の自分達にふさわしくない音に集中を削がれた。
三弦と一弦が切れた。それも同時に。
気が付けば荒い息をしていた夏音は「ふへぇ~」と背もたれに倒れ込んだ。ギターを隣に乱暴に置くとへらへら笑い出す。
「何だよ」
同じようにトランス状態から解放されたマークもソファにもたれながら、にやにや笑う。
「たのしかったぁ~」
本当に幸福そうに笑う。マークはその笑顔にしばし見惚れ、言葉を失った。
それから頭を押さえて、夏音の腹の上に足を乗せて溜め息をついた。
「疲れた……」
「ねーまたやろうよ!」
マークの足を押しのけて、腹の上にのし掛かってきた夏音がマークの胸の上で頬杖をつく。美少女顔にはお似合いの格好だ。
それが花畑などであったならば。
「ええいっ」
マークは全力で夏音を押しのけた。結果、小さい妹分(弟)はソファの下に転げ落ちた。
「一人で弾けるようになれ!」
「え、もう今のくらいは弾けるよ」
「さっき弾けないって言っただろう!」
「弾けないのは他の曲だもん。マークがこの曲を指定したんじゃないかー!」
「こ、の……」
マークの褐色の肌に青筋が浮き上がる。 夏音は大好きなお兄ちゃんの短気な面を知っていたが、これくらいは許されるだろうと甘い考えでさらに付け加えた。
「本当はやりたい曲あったんだから。もう一曲くらい、いいよね?」
「いいわけあるかーっ! このボケナスが!」
大爆発だった。
夏音は耳を押さて飛び上がると、部屋を脱兎の勢いで飛び出ていった。素晴らしい逃げ足、逃げ様だった。
マークは肩で息をしながら、夏音が置いていったギターをちらりと一瞥した。
「……ヤバイな。どんどん上達してきている。異常速度だ」
ぷるぷると震える左手をぐっと押さえた。
たった一曲なのに、とんでもない集中と握力を持って行かれてしまった。
あと一曲なんてとんでもない。
「くそっ。こうしちゃいられない!!」
兄としては、常に年下に対する威厳を保っていなければならない。
マークは夕飯まで部屋を出ない、と心に誓って自分の部屋に向かった。
※十六話とあわせて投稿です。十六話が短すぎたので、こちらとあわせて勘弁してつかーさい。