「――なんかなし崩し的について来ちゃったけど――大丈夫かな?」
「別に取って喰われるわけでなかろうし、結果として有田殿はあの方に助けられたわけでござるから――心配する事も無いとは思うが」
楓と二人して、コンビニ強盗を撃退した女性――気がつけば、彼女もまた現場から姿を消していたというが、その彼女と路上でばったり再会してから十数分後。彼女らは連れだって、そこからほど近い場所にあったマンションの入口をくぐっていた。
何故こんな事になったのだろうかと、楓は思い返してみる。果たしてそれは、女性の勢いに押されたからだろう。強盗を撃退した楓の事をひとしきり褒めたかと思えば、彼女は何故か妙に嬉しそうに、二人を誘うのである。
「実はあの人、何処かの国の秘密諜報部員とか。さっきのコンビニであんな事があって、咄嗟にアクションを起こしてしまったけれど――それを見てしまった私たちの口を、どうにかして封じようとしている、とか」
「有田殿、下手なテレビドラマの見過ぎでござるよ。彼女が拙者らの口を塞ごうとか考える輩であるなら、そもそもコンビニでお主を助けようとはしなかったでござろうに」
「それもそうか。んじゃなんで、あの人あんなに嬉しそうに私たちを誘ったわけ?」
「それは――拙者にも良くわからぬが」
何となく彼女の勢いに押されて、彼女の自宅であるというこのマンションにやって来てしまった二人は、“お茶でも淹れるから”の言葉と共に通されたリビングにて、そこに鎮座していたソファに並んで腰掛ける。
首を傾げながらも楓が言うように、あの女性は間違っても悪人というわけではないだろう。彼女らを自宅まで連れてきた事に、何か裏の意味があるとはとても思えない。
絵里もなんだかんだと言ってはいるが、それはわかっているのだろう。彼女があの女性に助けられたという事実もあるが、二人を自宅へと誘った彼女の表情。つまり、本当に、何故この場でそう言う表情が湧いて出るのかわからないが――その時彼女の顔に浮かんでいたのは、本当に嬉しそうな、楽しそうな表情で。
だから楓も絵里も、気がつけば彼女に誘われるがままに、このマンションの一室にやって来ていたのである。
「あの人って、長瀬の知り合い?」
「少なくとも、拙者の方に見覚えはないでござるよ?」
むろん、楓は、女性の顔に見覚えはない。“特技”の関係上、他人の顔を覚えることには多少の自信があるつもりだ。そしてどれだけ記憶の奥を漁ろうとも、彼女らしき顔は出てこない。
ただ――
(ただ――何だろう。見覚えはない。見覚えがないのは確かで、もちろん会って話をしたことも無いはずなのに、何だか、こう――)
既視感、とでも言うのだろうか。初対面であるはずなのに、楓はどこかで、彼女と言葉を交わしてような気がしてならないのだ。果たしてそれがいつだったのだろうかと、そう思って再び記憶の海を“さらって”みるのだが――
「……やはり、覚えはない――で、ござるな」
「真剣な顔で言わないでよ。長瀬がそういう顔すると、プレッシャーが半端無いんだけど」
「むむ、平静を装っていても、やはり少々“気”が漏れていたのでござろうか。拙者もまだまだ、修行が足りぬ」
「だからナチュラルに“気”とか“修行”とか言うのやめてってば」
そんなに自分は厳しい表情をしていたのだろうか。だんだんと本気で恐ろしくなってきたらしい絵里に、楓は一度肩をすくめてから、微笑み返して見せる。
「――拙者らの考えすぎでござろうよ。彼女はどう見ても悪人ではなかろうし、あのようなことがあった後でござる。拙者らの姿を見つけて、何というか、安心したのではござらぬか?」
確かに彼女は、あの強盗犯を一撃でノックアウトした“つわもの”である。とはいえ、これは楓自身にも言える事であるが――そう言うことが出来る力があることと、誰かと戦えることは、イコールでは結べない。
彼女には何か武道の心得でもあったのかも知れない。絵里の危機を前に、咄嗟に体が動いてしまったのかも知れない。かといって、まさか軍人でも警察官でもないであろう彼女が、あのような場面に慣れていたというわけではないだろう。
突然の出来事に、自然と体の方が先に動き――恐怖が後からやって来る。そういうことは、ままあるのではないか。
ならば彼女が、いつの間にかあの場から姿を消し――偶然出くわした楓と絵里を前に、妙にはしゃいだように二人を自宅に招いたという“おかしな”行動にも、説明はつく。
(……私にしたって……ね)
そう、そう考えればしっくり来る。楓は、己の実体験として、そういう事を知っている。
少し前に――麻帆良の山中で、鬼のような化け物と対峙した時がそうだった。
あの時、幼い頃から鍛え上げてきた自分の体は、自分の意思を裏切ることなく、ちゃんと動いてくれた。紛れもなく、命を落としていたかも知れない戦いにおいて、結局はただの女子中学生でしかない自分に“それ”が出来たことは、果たして僥倖だったのだろう。
ただ――その後暫く、悪夢に魘されることからまでは、逃れられなかった。
夢の中で、自分は何度となく、あの鬼の金棒に叩き潰された。目が覚めてみたら、寝間着が汗でぐっしょりと濡れていた事もある。
幸いにして、あの時の自分は――
「なるほど、そういうのも、無くはないのかもね。さすがは現役女子中学生忍者」
「何のことでござるかな」
「現役女子中学生忍者って、なんかアレだよね。深夜アニメあたりに出てきそうな。私、友達に長瀬の事話しても、多分信じて貰えないだろーね」
「犬塚殿の友人であるお主が、何を今更」
「あ、そーか。あの娘自称“侍”だもんね」
「有田殿自身とて霊能力者でござるから、人のことを言えたものではないでござる」
「えー……私、長瀬やシロちゃんほど変なキャラじゃないよ?」
「本人を目の前に言うなでござるよ。他人から見れば五十歩百歩でござる」
楓は腕を組み、わざとらしく鼻を鳴らしてみせる。
それでいくらか緊張感が取れたのだろうか。やおら絵里は、楓の肩を軽く叩いて、笑みを浮かべてみせる。
「ま、何かあったら私、長瀬を盾にして逃げるわね」
「お主は拙者のことを何だと思っているのか」
「だから中学生忍者」
「中学生日記的なノリで言われても」
「いざって時のために持ってないの? 手裏剣とか、煙玉とか――」
何か言い返そうと思った楓だったが、悲しいことに旗色はよろしくない。常日頃から、制服のブレザーの内側やスカートの下に何かしら“そういうもの”を携帯している自分である。
ひょっとして自分は、学生として踏み越えてはいけない一線に立っているのだろうか? 彼女の脳裏に――何故かとても良い笑顔を浮かべ、それぞれの“獲物”を抱えて手招きをするクラスメイト達の姿が浮かんだ。
具体的には――龍宮真名だとか、桜咲刹那だとか、犬塚シロだとか――
「……長瀬? どったの、凄い汗だよ?」
「有田殿。拙者、もし六道学園に受かったら――東京の有名どころで小物など揃えてみたいのでござるが、案内してもらっても?」
「……そりゃ、構わないけどさ? 何で急に」
「東京の女子高生と言えば、原宿あたりを散策しつつ、クレープでも食べ歩くものではなかろうかと」
「あんたの中の東京のイメージって何なのよ、埼玉県民」
不思議そうに首を傾げる絵里を前に、楓は何気なくジーパンのポケットに手を這わせ――指先に触れた感触に、少しだけ安堵の息を漏らした。
(“これ”はまあ――武器というか、ね)
何となくお守り代わりに持ち歩いているその“カード”もまた、非日常の代物であることには間違いはないのだが。
それは手裏剣だの“くない”だのとは別に考えるのは――年頃の少女としては“正常”なのだろうと、楓は納得することにした。
「待たせちゃってごめんなさいね。年頃の女の子が家に来るなんて滅多に無いことだから――紅茶には、お砂糖いくつかしら?」
気持ちが変われば、他人の声がこうも違って聞こえるものか。
純粋に“楽しげ”だと聞こえる声が――“暖簾”の掛かったキッチンの方から、二人の耳に届いた。
「――ゴースト・スイーパーを目指して六道女学院に、ねえ……でも、あなたは今、埼玉の麻帆良の中学校に通ってるんでしょう?」
ティーカップを片手に、柔らかな表情のまま、彼女は言った。
今更何を考えているのかと、楓は自問するが――目の前に座る女性を見て、彼女は素直に美人だな、と、思う。つり目がちだが何処か可愛らしいと思える瞳、すっと通った鼻筋に、小さな口、シャープな顎のライン。
年の頃は、二十代後半と言ったところだろうか。楓とさして変わらない長身は、細身ながらもしっかりと、女性としてのメリハリに富んでいる。小顔なのも相まって、かなりの頭身だ。モデルのような、とは、彼女のような事を指すのだろうと、楓は思った――実際、モデルだと言われても納得は出来る。
羨望の眼差しで絵里がそういう風に言えば、お世辞がお上手ねと、彼女は笑った。
聞きようによっては、それは嫌味にも聞こえてしまうだろう。さすがに彼女にそう言う意図はないのだろうけれど――
(ただ、何だろう。やっぱりこの人――初めて話す気がしない)
彼女の知り合いで、似たようなタイプ――横島やシロのように、初対面で気兼ねなく話が出来てしまうとか、そういう意味ではない。気のせいかとも思ったが、再びこうして彼女を前にすると、そう思ってしまうのだ。
緊張感が幾分取れて、彼女という人間を観察する余裕が出てくると、余計に、である。
「麻帆良学園都市と言えば、日本一の学術都市だとか。おおよそ学校と名の付くものは、何でもあるって話だけれど」
「はあ、一応先生にも調べて貰ったんですが……」
もっとも、今はそれがわからなくても大した問題ではないだろう。単純に気のせいかもしれないわけである。楓は、紅茶で唇を潤してから、女性の問いに応えた。
“学校”と名の付くものなら大概揃っている麻帆良であるが、彼女の疑問の通り、オカルトを専門に学ぶ学校というのが、かの地には意外と少ないのだ。単純に“オカルトを学ぶ”場所ならなくはないが、ゴースト・スイーパーを目指そうかとなれば、求められるのは学術的な知識ばかりではない。
「でも何だったかしら、埼玉には他にも霊能科がある学校がいくつかあったはずよ? 麻帆良からだったら――近場では確か大宮あたりに」
「え、そうなんですか?」
初耳である。ネギや新田も、それらしいことは言っていなかった。
もっとも、六道女学院はゴースト・スイーパー試験合格者数では右に出る者のない超名門校である。楓が“本気で”その道を目指そうとして名前を出したのだと彼らが受け取ったのなら、決して怠慢というわけではないだろうが。
「てゆーか、詳しいですね? もしかしてお姉さん――ゴースト・スイーパーの人?」
「いいえ、私はスポーツ・ジムのインストラクターをしているわ。そう言うことに関しては……ちょっと、調べる機会があってね」
絵里の疑問に、女性は何故か苦笑するような表情で応えた。
「ジムのインストラクターですか――それであんな、拳法みたいなの知ってたんですか?」
「あれは何というか……咄嗟に体が動いちゃっただけって言うか――ま、まあ、昔取った杵柄っていうか、ね。今私がやってるのは、普通に奥様方相手のダイエット講座だけど」
「へー……それでお姉さんみたいなカラダになれるんだったら、私も始めてみようかな」
「何を言ってるの。あなたみたいな年頃の子は、余程太りすぎて無い限りダイエットなんて考えない方が良いのよ。とかく年頃の女の子がそういう風に考えるのは否定しないけど、女の子の体ってのは、本人が思う以上にカロリーを必要としてるんだから」
「えー……何かお姉さんみたいな人に言われると、説得力ないですよ」
口をとがらせて、絵里が言う。
そんな彼女を横目で見つつ――楓は思う。彼女は先程“昔取った杵柄”と言ったが、一体その“昔の彼女”とは、何をしていたのだろうか?
“氣”と呼ばれる神秘の技術を使い、ただの人間として出せる以上の力を操る楓だから、気がついた。あれは、いくら武芸を修めていようが、彼女のような細腕から繰り出せる威力の技ではない。
そんな彼女は――ただの、ジムのインストラクターだという。
余計に、謎だ。本当に彼女は――一体何者だろうか? 楓には、わからなくなる。
「私のことはとにかく――コンビニ強盗を撃退するのを見てたけど。やっぱりゴースト・スイーパーになって、悪霊を相手に戦いたいの?」
「いえ……これは何と言いますか、うちの里に伝わる古武術みたいなもので――今になって修めていて良かったと思えますが、特に昔から、ゴースト・スイーパーを目指していたわけじゃ」
「好きな人が業界にいるから、一緒に戦いたいんだよね?」
思わず紅茶を吹き出してしまった楓を、誰が責められようか。咳き込みながら女性に詫び、テーブルの上に飛び散った飛沫をハンカチで拭いつつ、彼女は背中をさすろうとする絵里の手を払いのけた。
「ひどい。ホントのことじゃない」
「仮にそうだとしても、見ず知らずの人の前で言うことでござるか!?」
絵里を怒鳴りつけてからもう一度女性の方に向き直ってみれば――彼女はさも愉快だ、と言う風に、目を細めて笑みを浮かべていた。
ああ――もしかして、彼女もまた、この新しい友人と同じタイプの人間なのだろうか。
「何を何を――コイバナが嫌いな女の子なんて、いるわけないでしょ?」
「さあ、どうでしょうかねえ。何かウチのクラスとか、そう言う手合い、結構いそうですけどねえ」
具体的には三度の飯より戦うことが好きな中国人留学生だとか、お金に目がない甘党スナイパーだとか、何かに没頭し始めたら髪の毛から異臭がしても気づかないマッド・サイエンティストだとか。じっとりした目線を思わず女性に向けてしまった楓は、当然そこまでは口に出さないけれども。
「とにかく、私だってそこまで――自分の将来を、軽く決めてる訳じゃ」
「私はそういうの、悪くないと思うけれど?」
楓が言いかけた言葉を遮って、女性は言う。
「確かに私にはあなたが、将来のことを軽々しく決めてるようには見えないわ。けれど同時に、それが誰しもを唸らせるような、そんな“立派な”理由である必要はないと思う。ううん――恋も憧れも、十分立派な理由じゃない」
「そんな――でも、私はちゃんと真剣に」
「“真剣に恋した”あなたを、誰が笑えるって言うの?」
そう言った女性の瞳には――間違いなく“真剣”な光が宿っていた。
「自分の能力を活かしたいだとか、世のため人のためだとか――確かにそういうのは、真剣で立派な目標だけれど。結局それだって利己的な理由でしかない。自分の能力を活かして、何をしたいの? 世のため人のためになる仕事が出来れば――あなたにとって、メリットは何?」
「……それは――そんなの、わかんない、です」
そう応えたのは、楓ではなく絵里だった。
彼女もまた、自分の進路に悩む若者なのだ。彼女の場合――まず自分自身が先に進める地盤を造らなければならない。周りを見ることすら、今は出来ない。そんな彼女だから、その女性の言葉は、心に響いたのかも知れない。
立派な目標は、確かにある。ただその裏にある、自分への利益――そんなことを堂々と口に出せるほど、二人の少女は大人でない。
「ごめんなさい――別に、意地悪が言いたかった訳じゃないわ。老婆心って奴かしら。あなた達より無駄に人生を生きたオバサンの――ね」
彼女はそう言って、「おばさん」などというには余りに若々しい笑みを浮かべ、ティーカップを傾ける。そして幸せそうな吐息を一つこぼすと、それじゃあがらりと話題を変えて、と前置きして、楓に向き直った。
「その“業界にいる好きな人”――彼との馴れ初めなんかを、聞かせてもらえないかしら?」
「ちょっ――そこに戻るんですかっ!?」
テーブルを叩く勢いで、楓は叫ぶ。顔が酷く熱いのが、自分でもわかる。多分今の自分は、首筋の辺りまで真っ赤になっているに違いない。が、それを自覚したところで何が出来るでもない。
「あ、私もそれはちょっと聞いてみたいかも」
「有田殿は少し黙るでござるよ」
もはやこの場に自分の味方は居ないのかも知れない。隣に座る少女など、先程まで目の前の女性を危険人物扱いしていたのではなかっただろうか?
さりとて、白旗を揚げてしまうと言う選択肢は、楓にはない。自分と“彼”の馴れ初めなど、自分自身が思い出したくもないものだ。彼女の脳裏に、顔を真っ赤にして慌てふためく青年の姿が、鮮やかに蘇る。
そんなことを、目の前の彼女らに言えるはずもない。
「そんな必死に隠すような事でもないじゃん。何て言うかアレ? 一目惚れとかって奴?」
「あらまあ」
「あの状況で目の前の相手に一目惚れが出来るなら、拙者はただの痴女でござるよ……」
「は?」
「いや――何でもござらぬ――何でもござらぬから!!」
今更ながらに、あの時の軽率な行動を悔いても意味はない。
少し前に級友の早乙女ハルナから、“結果として今の自分は恵まれているのだから文句を言うな”と言った意味合いの言葉を賜ったりもした。
だがどうしても、あの頃の自分はどうしてああも慎みに欠けていたのだろうかと、そんな風に思うことが、最近多く感じられるのだ。
(ああ……これが俗に言う、黒歴史と言う奴なのかしら――)
半ば現実逃避気味に顔を手で覆い、机に突っ伏すように上半身を折り曲げてみる。彼女の長身では、それにさしたる効果は無いだろうが。
「いいわねえ、何て言うか、青春の悩みって奴ね」
「昼間にも似たようなフレーズを聞きましたけど――青春ってのは厳しいんですね」
「当然よ。ま、人間いくつになっても青春だとかキラメキだとか、何の喩えでもなくそういうものは確かに存在すると思うのだけれど――それでもやっぱり、あなた達の年の頃って言うのが、一番毎日が輝いて見えるんじゃないかと思うのね。だからこそ、子供なら何にも思わなくて、大人ならくだらないことだと笑い飛ばせるような事も、あなた達は全力で悩まなきゃならない」
「はあ……何か良いこと言ってるのはわかるんですけど、目の前でこんだけ悶えてる人間を見ると、何か複雑です」
好き勝手にものを言う二人を意識の外に追い出し、楓はどうにか、自分の中で過去の記憶に折り合いを付けようと、無駄に努力を費やすのであるが。女性はそれを満足そうに見やると、カップに残っていたお茶を喉に流し込み、立ち上がった。
「さて、いい加減おしゃべりに興じすぎて良い時間になっちゃったし――折角だから晩ご飯でもご馳走しようかしら?」
「え、いや――さすがにそこまでお世話になるわけには」
当然、その誘いに、絵里は遠慮気味に手を横に振る。
先程まで悶え苦しんでいた楓も、彼女と目を見合わせて、小さく首を横に振った。まだ頬が少し赤いのは、ご愛敬と言うものである。
女性が怪しい人物でないというのはある程度はっきりしたが、だからといってそこまでして貰う義理も、楓と絵里にはなし、第一気が引ける。
「私も、そろそろ電車の時間が」
終電までにはまだまだ時間があるし、楓は電車の指定席を確保していたわけではない。ただあまり遅くなってしまうと、麻帆良に戻ってから寮までの道のりが億劫になってしまうのも、また確かだ。
誰が何と言おうがまだ中学三年生の自分が、深夜の町中を歩くというのも、あまり褒められたものではないだろう。麻帆良の自警団にでも見つかれば、聞きたくもないお説教に付き合わされる危険性だってある。
「そう? 遠慮はしなくて良いし、何だったら泊まっていっても良いのよ? いやね、パートタイムの主婦の日常ってのは結構殺伐としててね。ほら、あなた達みたいな若い子とおしゃべりしてると――何だか若返った気分になれるのよ」
「お姉さんが言うと何か嫌味に聞こえるんですけど……失礼ですけど、歳はいくつですか?」
「ふふ……ひ・み・つ」
呆れたように言う絵里に、女性は口元に人差し指を当て――悪戯めいたウインクをする。
――のだが、当然えも言われぬ沈黙が、場の空気を支配した。
「……思ったより――その……歳、いってるんですね」
「出来れば今のは忘れて頂戴」
さすがに冗談とはいえ、自分がどういうリアクションをったのか。遅れて理解したのだろう彼女は、小さく咳払いをする。楓には何だか、その心中が理解できた。したくもなかったが。
「あんまりはっきりは言いたくないんだけれど――世の中で“おばさん”って呼ばれる年齢なのは、確かね」
「さっきはああ言いましたけど、見えないです。下手したらその、長瀬の方が――って、痛い痛い痛い!? あ、頭が潰れるっ!? 本気で出る、何か中身が出るっ!?」
「キジも鳴かずば撃たれまいって言うけれど――これが若さかしらねえ。ほらほら、こっちの子も悪気があって言ったわけで無し、あなたの握力じゃ、ホントに頭蓋骨に穴が開いちゃうわよ?」
仲が良いのは結構だけれど、などと言いながら、女性は手を打ち鳴らし――苦笑しながら続けた。
「本当よ。これでも私、いい年の息子がいるし――そうだ、遅くなるのがアレだったら、あの子が帰ってきたら、車で送らせるわ。それならあなたも、安心でしょう?」
「いえ、ですからそこまでして貰うわけには――……はあっ!?」
絵里の頭を握りしめたまま、楓は素っ頓狂な声を上げた。
この女性は、今何と言った? 息子に車で自分たちを送らせる? それはつまり――言い換えれば、「車を運転できる歳の子供」が居ると言うことになる。最低でも、彼の年齢は十八歳。
目の前の女性が、たとえ二十歳前後で子供を産んだのだとしても――
「り……理不尽――世の中は、何という理不尽でござるか……!」
「理不尽とか格差社会って言うなら、私も長瀬には色々言いたいことが――あるから、とにかく、頭離して――今、こめかみの辺りが“めき”って音立てた……」
ひとしきり騒いでいると、玄関の方から物音が聞こえた。
ややあって、廊下をやって来る足音が。先の話に出た“息子”だろうか? 何にせよ、この女性の家族が帰宅して、見知らぬ少女二人が喧嘩まがいの事をしていたら、もはや不審であるとかそう言う話ではない。楓は慌てて、絵里の頭部から手を離し、身なりを正そうと――
「――何やってんの母さん、そんなバタバタ騒いでたら下の階に響いて――あ?」
「え?」
扉の影からひょいと顔を出したのは、一人の青年。果たして彼の顔を見て、楓と、当の青年と――双方の動きが、凍り付いたように止まった。
何故なら、その青年というのが他ならぬ、
「か、楓さん?」
「けっ……ケイ、殿? な、何で――」
慌てて女性の方を振り返ってみれば――彼女は、それこそ悪戯が成功したときの子供のような、満面の笑みを浮かべていた。
「ふふっ――だから謝ってるじゃない。それに、あのコンビニで鉢合わせたのは、本当に偶然なのよ? だからこそ、ついからかってみたくなっちゃって。それは素直に反省するけれど」
「……いえ、別に私も、怒ってるわけじゃありませんから」
口ではそういう風に言いつつも、内心のやるせなさは隠せない。具体的には、入浴後の火照りとは別の朱を頬にさしたまま、気持ち唇をとがらせるように、楓は目の前に座る女性に視線を向ける。
彼女の“友人”であるところ、ゴースト・スイーパー見習いの青年――藪守ケイの母、藪守美衣に対して。
彼女は最初からわかっていたらしいのである。今自分の目の前に座るこの少女が、時折――時には少なからぬ騒ぎを伴って――藪守親子の話題に上った“長瀬楓”であることに。
道理で彼女と話したときに、初めて出会った感じがしないわけだと、楓は嘆息する。
確かに、直接彼女と顔を突き合わせるのは初めてだ。しかし楓は以前、美衣と偶然に、電話越しに会話をしたことがある。そう言う意味で言えば、彼女が何者なのかに気がつかなかった自分の方が悪いのかも知れないが。
「途中からあまりにも面白くなっちゃったものだから。趣味が悪かったのは素直に認めるわ――それに、フェアじゃ、ないしね?」
「……?」
「だって、あなたは声以外で私の事を何も知らなかったわけでしょう? けれど、私はそうじゃないもの。あなたのことを――ウチの息子から、そりゃもう色々と聞かされてますから」
「――!」
一気に顔が熱くなるのを、楓は感じた。肩から首筋の辺りを、電撃が走り抜けるような錯覚。ああ――自分は今、どんな顔をしているのだろうか? せめて目の前の彼女に、“見せられる”ような顔であればいいのだが。
「大丈夫よ。今のあなた――とっても素敵な顔をしてるもの。それがうちの息子に向けられたものだと思うと、母親としてはとても鼻が高いわ」
「あ……う……そ、その……私は」
もはや、自分が何を言いたいのかがわからない。
今この場にケイが居ないが幸いだった。こんな所を見られたら、自分は今すぐこのマンションのベランダから飛び降りたくなるに違いない。
彼は今――わけがわからないままに絵里を家まで送り届けている最中だろう。
あの後、どれほどの騒ぎがここ藪守家のリビングで繰り広げられたのかは、あえて言うまい。具体的には、長瀬楓という少女の名誉のために。
気がついたときには、楓がここで一泊することがなし崩し的に決められ、反論する暇もないままに、ケイは絵里を送っていくことを命じられた。果たして目の前の彼の母親、藪守美衣女史によって。
「あ、あの――有田殿と、ケイ殿は――お知り合いだったんですか?」
「あら? あの娘から聞いていないの? だってあの娘――シロちゃんのお友達でしょう?」
ああそうか、と、楓は納得する。
シロの友人であるという事は、当然ある程度、彼女の交友範囲にも顔が利くと言うことだ。絵里は彼女の“先生”であり、思い人でもある横島忠夫の事も知っていた。ならばその彼女が、彼と家族同然の付き合いであるというケイの事を知っていても、別に不思議ではない。
「――気になる?」
「え? 何が――ですか?」
「うちの馬鹿息子の交友関係とか、その他諸々。おキヌさんやシロちゃんの事もあって、ああ見えて意外と、異性の友人は少なくないから」
「う」
楓は思わず、言葉に詰まる。そう言われてしまえば、気にならないわけがない。
とはいえ――目の前でニヤニヤとした笑みを浮かべる彼の母親に、そんなことを素直に聞ける程、楓は剛胆な神経の持ち主ではない。
だから、ふと思い出した疑問を、代わりに彼女にぶつけてみることにする。
「その割には」
「ん?」
「その割には――ケイど……ケイさんは、随分女の人に対して卑屈になってるように思いますが」
「ああ――まあ、それは――否定できないわねえ」
「何でも、凄くモテるお友達がいるとかって」
「真友君の事? まあ確かに――あの子はね。実際、大学に通いながら芸能事務所にも所属してるって聞いてるし。今はまだ雑誌のモデルに毛が生えたみたいなものだとか、何だとか――それでも、普通の人からすれば十分“イケメン”だと思うけど」
その言葉自体には、楓も納得する。
少し前に、タマモの発案で、彼女と自分とケイ――それに、その“真友”なる人物と顔を合わせた事がある。
その彼の印象はと言えば――一言で“いい男”だった。
まだ中学生、それも、お世辞にも一般の感性を持ち合わせているとは言えない楓にだって、そう思えた。すらりとした長身、中性的な美形、センスの良い服装にヘアスタイル。おまけに、性格には嫌味の一つもなく、自身の容姿や活躍を、鼻に掛ける事もない。
タマモと並び立てば、思わず溜め息がこぼれそうな好青年だったと、お世辞でも何でもなく、楓はそう思う。
「とはいえ――その真友君から愚痴を聞かされたことは、一度や二度じゃ無いけどね」
苦笑しながら言う美衣に、楓は顔を上げた。
「それはつまり――」
「身内の自慢をする訳じゃないけれど――うちの息子もね、ああ見えて人並み以上に、女の子から人気はあるのよ?」
ただね、と――突然影を背負ったように調子を落とした彼女に、楓は思わず言葉を飲み込んでしまう。
「……本人が絶望的なまでにアレだから、あの子は自分がどう思われてるかなんて、ホント、全く何もわかってないんでしょうけど。真友君がウチの子を見てて胃が痛くなってくるって言うのも、何となくわかるわ」
「何でまた――い、いえ――決して、自覚して欲しいわけじゃないですけど」
腕を組んで、何やら頷いている美衣に、楓は遠慮がちに問うしか出来ない。
ただ、疑問に思うのも当然である。楓は以前、ケイに対して、自分では気づいていないだけで、彼に好意を寄せる女性は居るのではないか、と、言ったことがある。あの時は、まだ、明確に自分の中に存在する気持ちに気がついていなかったから、特に憚ることも無く口にすることが出来たが。
藪守ケイという青年は、楓が言うのも何だが、見た目は悪くない。
中性的というよりは女性的で、何処かあどけなさを残す顔が、その長身とのアンバランスを感じさせるきらいはあるが――それでも、美男子と形容できるかはともかく、容姿に限って言えば及第点だろう。
性格に関しては、言わずもがなである。見た目以上に人の好みを選びそうな性格であるとは言え――少なくとも、自分は彼の見た目ではなく、中身に惹かれたのだと、楓はそう思っているのだから。
「……原因と言えそうなものは、無い訳じゃないのよ」
小さくため息をついて、美衣は言った。
「一つは横島さんが――あの子が兄と慕うあの人が、あまりにも魅力的だから」
「……」
楓自身は、彼の本当の魅力はわからない。ただ一見して、面白そうな人だと思う程度である。だが、実感できないまでも、納得はできる。美衣が言うほどの人物でないならば、ケイがあそこまで彼を慕い、シロがああまで彼に恋い焦がれる理由がわからない。
何となれば、ケイもシロも――非常に癖は強いながらも――とても魅力的な人間だから。楓から見て、素直にそう言える人物だからだ。
「横島さんに寄せられる女性からの好意が、あの人の側にいたケイには、“異性からの好意”の基準になっちゃってる節があるのよ。あの人は特別製だって、あの子も頭では理解してるんでしょうけど――」
「ああ……それは、もう」
楓は思わず、額に手を当てそうになって、慌ててそれを押さえ込んだ。
犬塚シロにせよ、芦名野あげはにせよ、氷室キヌにせよ――横島忠夫の周りにいる女性が、彼に寄せる思いは、もはや言葉にする事など出来ないほどのものである。
巷に溢れる愛だ恋だの手合いが、決して全て薄っぺらなものであるとは言わない。けれど――もしもケイが、そういうものの基準を彼らに見ているのだとすれば。
「世の中の人間、どれだけ世紀の大恋愛を経験してるのよ」
「そうですね……」
「もっとも――あの子にそれが出来るのなら、是非にという所なんだけれどね?」
「……あの、意味深な視線を向けるのはやめてください」
美衣の目が、すうっと細められる。楓は何だか、自分が肉食獣の檻にでも放り込まれたような気分になった。
「それともう一つは――あの子自身の問題――かしらね」
「ケイ殿自身の、問題ですか?」
楓は、突然変化した美衣の雰囲気に、努めて気がつかない振りをしながら、オウム返しに訊ねてみる。ややあって――彼女は静かに、口を開く。
「あの子はね――自分の事を、幸せになっちゃいけないって思ってる。そんな節が、あるからね」
一夜が明けて、翌土曜日。午前九時。
楓の姿は、それほど離れていない駅に向けて朝の道を走る、一台の軽自動車の中にあった。彼女の隣で車のハンドルを握るのは、果たして藪守ケイその人である。
近頃の軽自動車の快適性は、一昔前とは別次元の進歩を遂げている。とはいえ、やはり長身の彼にとって、その運転席は少しばかり窮屈そうに見えてしまう。
やたらとその事を彼が気にして、この自動車が母親である美衣のものであることを強調していたのを思い出す。何というか、彼がそう言うことを気にするのは意外だった。男が軽自動車に乗るなどみっともないと――あるいは彼は、そう言った前時代的な事を気にする性格なのだろうか?
それはそれで、何だか可愛らしい気がしなくもないけれど。
「昨日はよく眠れた? 何だかごめんね――うちの母さん、突っ走り始めると歯止めが効かないところがあるから。近頃その傾向が一段と強くなってる気がするんだよね。何かもう、昔と比べたら別人だよ」
「そうなの? まあ……色々からかわれたりはしたけれど、私、お義母さんの事は、嫌いじゃないよ?」
「……何か、今とんでもないこと言った? いやその……言葉のアクセントとか何とか――まあいいや」
「私は枕が変わっても何処でも寝られるから平気。でも――昨日の夜中、一体何を騒いでいたの?」
「い、いや……あれは、その――」
何故か頬を染めて、ケイは首を横に振る。もちろん安全は確認しているのだろうけれど、運転中にそのリアクションはいただけない。
「……母さんがそのさ、さんざん人をからかうもんだから」
「ああ……ケイ殿も被害者なのね」
「楓さんが浸かった後のお風呂に興奮しちゃダメよなんて言うもんだから」
「それは――ケイ殿も、そんな馬鹿な話にムキにならなくてもいいのに」
一体人が寝ている間に、藪守親子の間にどれほど馬鹿げた遣り取りがあったというのだろうか。楓は呆れ半分に、無意味に苦悶に満ちた表情を浮かべるケイを見遣る。
しかし果たして――楓は昨晩、彼が帰ってくる前に、美衣から聞かされた話を思い出していた。
――幸せになってはいけないと思いこんでいる――ケイ殿が、ですか?』
思わず、楓は問い返した。
この場には――そして、あの青年には、まるで似つかわしくない、重苦しい言葉である。一体何がどうして、そんな言葉が、目の前の彼の母親から飛び出したのだろうか?
美衣はじっと楓の顔を見つめ、ゆっくりと、言葉を紡いだ。
『あなたは、あの子から何処まで聞かされてる? ゴースト・スイーパーの、横島忠夫さんの事を』
どこまでと、言われても。
かの面白い青年は、ケイの兄貴分のようなもので、シロと同様、随分長い付き合いであると――その程度である。
そして彼が何故今話に出てきたのか、楓にはわからない。
『私とあの子はね、ずっと前に、彼に助けられた事があるの。もののたとえでも何でもなく、差し迫った命の危機から』
『――』
突然、命の危機とは――何とも穏やかではない。けれど、美衣の瞳は真剣だった。
『私たちは――ある事情を抱えていてね。あるいは、あの時私たちの前に現れたのが彼でなかったとしたら、きっと私もケイも、今頃この世にはいなかった』
『……』
ケイがかの青年を慕っていることは知っていた。だがまさか、彼らの間にそこまで重い過去があったとは思わなかった。
『私達が私達であるというだけで向けられていた悪意から、あの人は私達を守ってくれた。そしてあの子は、自然と彼の背中を追うようになった。あの人の辿った道を、自分も目指すようになった』
『それは、ゴースト・スイーパーになると言うことでしょう? それが、何か……』
美衣は、口をつぐんだ。
自分が幸せになれないと思っている――そんな馬鹿げた意識を、ケイが持っていると言う事実。そして、彼ら親子が以前、その横島忠夫という男に命を救われたという事実。それがどう繋がるのか、楓には、到底分からない。
それがわかるだけの何かを、美衣はまだ話していない。
『……本当の――一番、奥にある部分は。いつかきっと、あの子の口から、あなたに話すことになると思うわ』
どれだけか流れた沈黙の後に、美衣はそれだけ言った。
『だから、今から言うことの、それが“どうして”なのか、あなたにはわからないと思うけれど』
そう言って、彼女は――うつむき加減で、口を開く。
その冷涼な美貌に、いくばくかの苦しみを湛えた表情で。
『あの子が彼の背中を追うと言うことは――あの子がかつて、自分に振り下ろされそうになった刃を、今度は他人に向ける。そう言うことに、他ならないから』
彼女は、言った。
『あの子は、彼ほどには“誰からも”好かれる性格じゃないし、常識もある。何よりも、ただの一人の男の子でかない。出来ることには――限界が、あるの』
限界などとは、主婦が口にするには大層な物言いである。
しかし――楓は思う。そんなものは、誰だって同じだろう。どんな人間からも好かれる人間など、恐らくこの世に居ないだろう。出来ることに限界がない人間など――言わずもがなである。どうしてそれが、いけないことなのか?
『かつてあの子が脅かされた力を――今は自分が使うことに、あの子は心の奥底で怖がっている。ゴースト・スイーパーを続けるうちに、自分でも気がつかないうちに、罪の意識に苛まれているの。自分が――こんなに幸せでいて、いい筈がない、って』
『わかるんですか?』
『わかるわよ。だって私は、あの子の母親ですもの』
楓は、俯いた。もたらされた情報はあまりに少なく、そして意味がわからない。
ケイが、自分にはわからない何かに苦しんでいる。それだけは何となく伝わったけれど、正直なところ、これだけを聞かされて、一体自分に何が出来るというのだろうか。
だから、陳腐な言葉を、美衣に返した。
『どうしてそれを――私に聞かせようと?』
『息子とあなたが、とても仲が良さそうだから、じゃあ、ダメかしら?』
『さすがにこんな話を聞かされた後に、お茶目な振りで誤魔化されても……』
『本当に、他に理由は無いんだけれどね。強いて言えば――母親の直感、よ』
『直感?』
『そう。あなたなら――あの子の助けになってもらえる。迷惑な話でしょうけれど、私、直感的にそう思っちゃったのね』
迷惑などとは言うつもりはない。だが、根拠のないその期待に、応えられる自信もまた、楓にはない。
『私は一体、どうしたら?』
『何もしなくていい』
『え?』
『ただ思うがままにあの子の側にいて、やりたいようにしてくれればいい。もしもそれであの子に嫌気が差したなら、私としては残念だけれど、きっぱり別れてくれていい』
別れるも何も自分たちはまだ付き合っているわけでは――と、慌てふためく楓の様子は、無視された。けれど願わくば、と、美衣は続ける。
『でも今は、ただあの子の手を握っていて欲しいの。いい年して息子離れ出来ない親バカだとは、自分でも思うけれど。お願いしても――いいかしら?』
「――さん、楓さん」
「は? あ……な、何?」
「いや、急にボーッとしてどうしたのかなって、車に酔ったんなら、何処かに駐めるけど」
「あ、いや……そういうわけじゃないの。少し、考え事をしていて」
「そっか。まあ、受験の事でこっちに来てたんだから、そりゃ考えることもあるよね」
回想から引き戻された楓の様子に、ケイは一人納得する。
……こういうところを見ていると、本当にこの朴念仁は、と、思ってしまうのは悪いことだろうか? 自分で言うのも何であるが、楓自身は、自分の感覚が世間一般の女子中学生から大きくズレていることくらいは、自覚している。
その自分をして、こんな風に思わせてしまうこの男は――いや、それも、昨日の話にあった心の闇とやらのせいなのか?
(……多分、コレに関しては違うんだろうなあ……)
ケイに気取られないように、楓は小さくため息をつく。
二人を乗せた車は、程なく駅の駐車場へと滑り込むのだった。
間もなく発車する電車のデッキに立ち、楓は後ろを振り返る。ドアの外、ホームには、何となく寂しそうな笑顔で立つ、ケイと――有田絵里の姿。
気を利かせて、美衣が彼女に連絡を入れたらしい。昨日出会ったばかりだというのに律儀な事だと思ったところで、楓は思い出す。そう言えば目の前の少女は、犬塚シロの友人であった。
あの誰の心の中にも、自然と入っていける、不思議な少女の。
「それじゃ長瀬――勉強、頑張ってね?」
「あと半年以上もあるんだから、楓さんなら楽勝だよ」
純粋な二人の言葉が、地味に胸に痛かったりはする。が、それは仕方ないだろう。
引きつった笑みと共に、楓は手を振る。
「ケイ殿――有田殿。また――また近いうちに、必ず」
「大げさだって。電車でちょっとじゃん? 私今度、麻帆良に遊びに行くから」
発車のベルが鳴り響く。絵里は、僅かに電車に歩み寄る。楓がそれを危険だと制止しようとしたところで、彼女は不意に言った。
「……でも、ホントに、楓がケイさんと知り合いだったなんて。凄い偶然」
「犬塚殿の共通の友人であるのだから、不思議ではなかろうと思うが」
「ちぇー、ケイさんと私じゃ、露骨に喋り方変えちゃってさ」
「……麻帆良の友達にも言われたけど、やはり変でござるか? どうにも……」
いやまあ、それは別に良いけど、と、絵里は悪戯めいた笑みを浮かべる。
ベルが鳴り終わり、車掌の笛が響き――ドアが閉まる寸前に、彼女は楓にささやきかける。
「私たち――ライバルだかんね」
「!?」
楓はその切れ長の目を精一杯に見開く。
今のは――一体、どういう意味だ? 同じ学校を目指し、目的は違うとは言え同じ道を歩こうとする若者同士――そう言う意味合いだろうか? いや、それは普通、ライバルとは言わないだろう。
彼女は思わず聞き返そうとするが、既にドアは閉まっていた。
窓ガラスに顔を押し当てる勢いでホームを見れば、わざとらしくケイの腕にしがみつき、手を振る友人の姿。
かの青年はと言えば――困ったような顔で、力なく、また彼女に向かって手を振っている。
何かを叫ぼうとも、既にドアは閉じられ、電車は動き出した後。
「あ……有田、殿ぉ――!?」
楓の絶叫は、ただ電車のデッキに虚しく響き渡った。
何だか精神的に非常に疲れた、一泊二日の小旅行を終え、楓は麻帆良駅の出口で大きく息を吐く。
(なるほど――本人は気づいていないけれど、あれでウチの息子は人気がある、かあ)
気づきたくもない事実だったが、どのみち自分が六道に通うようになれば、嫌でも思い知らされるだろう。そう――嫌でも。
何だか暗澹とした気分で、早く帰りたいと思った。しかし寮に戻ればあの双子を宥め賺す役割が待っている。もともと昨日のうちに、学校だけを見て帰ってくるつもりだったから、土産物などは用意していない。
日頃見た目にも精神的にも中学生には見えない彼女らの姉貴分を気取ったりはしているが、今はそのことに、多少の後悔を覚えていたりもする。
しかし帰らないわけにもいかないのである。重い足取りで市電に乗り換え、麻帆良女子寮近くの駅で下車した彼女だったが――そんな彼女に、声を掛ける者が居た。
「お、楓」
振り返れば、褐色の肌に、太陽のような金髪と、溌剌とした表情。
クラスメイトである中国人留学生の古菲(クー・フェイ)が立っていた。ジャージに身を包み、額の汗をタオルで拭っている所を見ると、またぞろ、得意とする中国拳法の鍛錬に精を出していたのだろう。
「夕べは何処いてたアルか? 鳴滝の双子、随分騒いでいたアル」
「……志望する高校の見学でござるよ。本当なら夕べ戻ってくる筈だったのでござるが、少し知り合いに出会って。そのことは電話であの二人には伝えている筈でござるが?」
「それでも何となく想像、つかないアルか?」
「ありありと目に浮かぶから困るのでござるよ……」
肩をすくめて、楓は首を横に振る。
「そう言う古こそ、日曜日と言うのに鍛錬でござるか?」
「何を言うアルね楓。こういうのは一日サボる、取り戻すに三日かかる、アルよ」
そう言われて楓は、自らの事を思い出す。もう随分と、キャンプと称した山中行軍は行っていない。
“氣”を扱える彼女は、身体能力がずば抜けているとは言え、一般人の域を出ていない古に比べれば、体力の衰えは少ないだろう。だが、それでも鈍っている可能性は否めない。
ゴースト・スイーパーを目指すのであれば、学力だけでなく戦う力を鍛える必要もあるだろう。幸いにして、そちらの方向に関しては、楓は恵まれている方なのだから、伸ばさない手はない。
いつもはあまりに気性が激しすぎて、相手にするのを躊躇ってしまうこの留学生の相手も、暇を見てしてやっても良いかも知れない。彼女はそんなことを考えつつ――
「それに真っ向から“あの人”打ち倒すに、怠けてらんないアル」
「……あの人?」
「ホラ、修学旅行で、アレ、アルよ。朝倉の……ああ……楓は、思い出さないが、よかたアルか?」
「……出来れば忘れて欲しいでござるが、あれがなにか?」
ポケットの中の感触を手で確かめながら、楓は顔を赤くする。
「その藪守サンアルよ」
「……え?」
「私あの時、少なくとも、“試合”レベルでは手、抜かなかたアルね。目潰しとか、金的とか、そう言う事まではしなかたアルが……それをあの人、全く本気も出さないで軽く私を……ん……イカせたね」
「それを言うなら“いなした”でござる」
確かに目の前の少女は日本人ではないが――あまりにあまりな言い間違いに、楓は自然と、頬が引きつるのを感じた。
「あの人間とも思えない体捌き、身のこなし――感じたアル……」
「待て古、お主本当に言い間違えて居るのでござろうな?」
「だからっ!」
何故か頬に手を当て、艶めかしく腰をくねらせるクラスメイトに、楓は細い目を更に細めて、冷たい視線を向ける。だが相手はそれがわかっているのかどうなのか、何故か楓に向けて、人差し指を突き出しながら、彼女は言う。
「私、あの人を目標にする、決めたアルよっ! 次に会ったときには、絶対に前みたいには、いかないアルね! 真正面からブッ倒して、私の事、認めさせる、アルっ!」
「……」
ああ、ひょっとしてそうなのか。
そう言うことなのか。見方を変えてみれば、自分の周りはこうも変わって見えるのだろうか。
それは単なる思い違いなのだろうか? 否、昨晩美衣の言葉を聞いた楓には、とてもそうは思えなかった。
「古」
「ん? どしたアル」
「いや、拙者もしばらくは勉学に気を取られて、体を動かしておらんと思ってな。この後鍛錬に付き合ってはくれぬか?」
「……それ、もちろん大歓迎アル……が、どしたアルか? いつも私が勝負を挑んでも、やる気がない楓が……?」
「いやなに」
楓は荷物が入った鞄を肩に掛け、古に微笑みかけてみせる。
もっともその笑みがどのような類のものであったのかは――彼女の名誉のために、伏せておいた方が良いのだろう。
「鈍っていると感じていたのは確かでござるし――古のそのような姿を見せつけられては、じっとしてはいられまいよ」
「おおっ! そういうことなら、勝負アルよ、楓っ!」
幸か不幸か、純真な中国人留学生は、その笑みの裏に隠された、彼女の気持ちに気がつかない。
麻帆良市近郊の山中に、とある留学生の絶叫が響き渡るのは、それから一時間後の話であった。
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腕が鈍っているのは作者の方だと小一時間(略)お久しぶりです。
言いたいことは上記の言葉に集約されますが、書きたいことがありすぎて禁断症状を起こす寸前でした。
とはいえオリジナルに近い美衣さんの扱いには手を焼いて。
ケイの扱いにしても、僕と同じで漫画家の上山兄弟のファンである方なら、「あれが元ネタか」と思うオマージュがあったりしますけれど。
亀の歩みですが、前々から述べている通り更新停止はしませんので、よろしくお願いします。