議会は踊る。されど進まず。
皆が皆、進んで重石を背負いたいわけではない。とかく日本人は消極的だ何だと言われるけれども。その原初の気持ちが人間の中にある限り、生まれ育った環境など、大した問題ではない。
「私は反対です」
月曜日午後七時。夏の長い一日もようやく終わろうかと言う頃、麻帆良学園理事棟大会議室に於いて、厳しい面持ちで顔を突き合わせる面々の姿があった。
麻帆良の自治権は、当然ながら埼玉県麻帆良市にある。ついでここが全国的に見て比類無き規模の学術研究都市であることから、教育機関にもかなり大きな発言権が与えられている。
しかしここに集うのは、そう言った麻帆良の表の顔とは違う、表沙汰に出来ない組織を動かす面々――“関東魔法教会”に所属する“魔法先生”の会議であった。
その中にあって、渋い顔で口を開いたのは、眼鏡を掛けた黒人の男性である。
その名をガンドルフィーニという彼は、見た目と名前から察することが出来るとおりに日本人ではない。だが日本人が聞いても違和感の無いほど流暢な日本語を操り、それでもって語学の担当教師を務めている。
その彼の発言に、会議室の奥――最も上座と言えるであろう部分に座っていた、まるで仙人のような容貌の老人が応える。
「ふむ。何か問題があったじゃろうか、ガンドルフィーニ君」
「私としては何処に問題がないのかをお聞きしたいのですが、学園長」
麻帆良学園学園長――近衛近右衛門は、僅かばかりに苛立ちを含んだその声を聞き流しつつ――周囲に目をやる。
そこに顔を揃えた教師達――敢えて“魔法先生”と言い換えるべきなのだろう彼ら彼女らの表情は、一様に厳しい物である。どうやらこの会議の席に於いて、程度の差はあれ、近右衛門に味方はいないらしかった。
だが、彼はそれをまるで気にした風もなく、笑みを浮かべてみせる。果たしてその仕草にまで噛みつく者は居なかったが、部屋の空気が悪くなったような錯覚を覚えることは、容易かった。
「はて、儂は現状を鑑みて提案を行っただけじゃ。そしてこの提案には額面以上の意味はない。しかし不満があるならば遠慮無く発言を行って貰いたい」
「では僭越ながら」
対するガンドルフィーニは、机上に並べられた書類を一瞥して眼鏡をかけ直し――幾分疲れたような声で言った。
「麻帆良学園都市を防衛するメンバーから魔法先生・魔法生徒を外し――その大部分を外部に委託するとは、どういうおつもりでしょうか?」
改めて声に出したことで、彼の中でわだかまっていた何かが再び首をもたげたのだろう。凛々しい知的な光を湛えた目元を細め、彼は言う。
再び、近右衛門は周囲を見渡す。目は口ほどに物を言うとは、このことか。いちいち考えを聞いて回るまでもない。そこに席を並べる彼らがどのような事を考えているのかは、一見して明らかである。
「言葉通りの意味じゃ」
「理由を――」
「理由などと、聞くまでも無かろう。その書類に記した事実が全てじゃ」
言葉尻に噛みつきかけた彼を、近右衛門は一蹴する。
「麻帆良学園都市は、埼玉県麻帆良市の大部分を占める広大な学術研究都市じゃ。単純にそれだけを考えても、ガンドルフィーニ君、君は埼玉県警麻帆良署管内に、どれだけの警察官が勤務しておるか知っておるかね?」
「単純に、人手が足りないと?」
「それも一つの要因ではある」
彼は言った。
「現在、麻帆良学園都市の警備に関しては、“魔法先生”をリーダーとして、各々が優秀であり、実力的に適当であると判断できる“魔法生徒”複数名と共にローテーションで行われておる」
規模と人数――そして麻帆良を取り巻く“危険”を考えるならば、それは決して潤沢な人数とは言えない。だが、この町は別に彼らの人海戦術によって守られているわけではない。
当然通常の犯罪者は警察官が対処する。魔法先生が出張るのは、彼らでは対処できるはずもない、裏の世界の脅威に対してである。
具体的には――麻帆良を守る魔法の結界に、悪意を持って侵入しようとする者である。
関東魔法教会の本拠地であり、関東一円の地形的エネルギーが集中する場所であり、更にそう言った土地柄、貴重な資料や財宝なども多く保管されている――そんな麻帆良を狙う脅威は多い。
そう言う脅威に対し彼らは、教師や学生の有志によって行われている夜間警備の名目に紛れて、当然彼らでは対処できないそれらの脅威に立ち向かっているのだ。
「根本的な事をきちんとご理解しているようで幸いです」
「そこまで耄碌はしとらんよ」
ガンドルフィーニの軽い嫌味にも、近右衛門は笑ってみせる。
「ですがそれをご理解しているのなら、何故このような事を? 確かに麻帆良という都市の規模に対して、我々は数の上では潤沢とは言えない。しかし事は空き巣や変質者を相手にするのとは違う。頭数だけ揃っていれば良いと言うものではない」
彼の指摘はもっともなものである。普通の人間に、魔法使いが相手をする常識外の脅威の対応が出来るとはとても思えない。犯罪者相手には百戦錬磨の京都府警機動隊が、天ヶ崎千草というたった一人の術者が呼び出した妖怪達の群れに、手も足も出なかったように。多少腕っ節に地震がある程度の人員など、いくら集めても意味がないのだ。
「儂も適材適所という言葉の意味くらいはわかっておる。じゃが、世の中には様々なプロがおる。近頃は便利な世の中で、大概の困ったことには対応してくれるプロがおる。おあつらえ向きに、“世の中の怪異”に対応してくれるプロというものも、な」
「それは――」
「新世代の魔法使い――ゴースト・スイーパーじゃ」
刻まれた皺の奥――“何故だか”以前より随分若々しさを感じる瞳を愉快そうに細めて、近右衛門は言う。
「ガンドルフィーニ君。そして皆の者。君らの気持ちは十分にわかる。君らがどれほど、魔法使いとしての理想に燃えておるのか、どれだけこの麻帆良の地を守れる事を誇りにしておるのか。それは重々に、の」
何せ彼自身、若き日は腕利きの“魔法先生”として、学園の防備に当たった過去を持つ。その言葉には十分な説得力があった。しかしだからこそ、何故彼がこのようなことを言い出したのか、それがわからない。
「ゴースト・スイーパー――対心霊現象特殊作業従事者を名乗る業者は、自ら怪異と渡り合う術を編み出し――高額な報酬と引き替えに、常人には対処出来ない仕事をこなす」
そう言ったのは、褐色の肌を修道女の格好に包んだ、怜悧な美貌を持つ女性――シスター・シャークティ。彼女は皆の疑問を代弁して、続ける。
「彼らの皆が皆、金に目が眩んだ利己主義者だとは言いません。そもそも彼らが言うところのオカルト現象に対処するためには、相当な金額が必要経費として掛かってくる。報酬が高額になるのは当然ですし、それを職業にする彼らとしてみれば、下手な同情や妥協を持つことはプロとして認められない」
それは、彼女自身頭では理解していた。ゴースト・スイーパーは、その業務を行うためには莫大な経費が必要となってくる。だから自然と報酬は高額なものとなってしまうし、何となればその高額な報酬は、依頼を処理するゴースト・スイーパーの“命の値段”でもあるのだ。
最悪、命さえも――もっと言えば「魂」の欠片さえも残らないかも知れない危険な仕事。
むろん、ゴースト・スイーパーと言っても色々あるだろうが、普通の人間ならば目の前に札束を積まれたところで、自分の命を危険に晒せと言われれば二の足を踏む。
「報酬の事なら心配はせんでええ。麻帆良は常に怪異に縛られる土地。その事実があれば、自治体から国を通して補助が出る。国選ゴースト・スイーパーを麻帆良の経費で揃える事も可能じゃ」
「私が言いたいのはそう言うことではありません!」
思わずシスター・シャークティは、声を大きくする。
「麻帆良学園都市――関東魔法協会の中枢であるこの場所を、我ら志を持った魔法使いが守ることに、学園長、あなたは意義を感じないのですか!?」
そうなのだ。
学園長が突然議題として持ち上げたこの案件――麻帆良の守備を、魔法使いからただの一般人にシフトさせる。その事自体は、何故にそれが今まで取り上げられなかったのかと疑問に思うほどに、当然の要求である。
ただしそれは――その守備を行う魔法使い自身の意思を無視すれば、と言う但し書きがつく。
何となれば、この麻帆良という地を守るという行為には、それ自体が“権利”だという側面がある。たとえばこの日本という国が、それ自体の防衛に『自衛隊』という組織以外を、たとえ名目上であれ認めていないように。
確かに、魔法先生、魔法生徒の負担は小さいものではない。危険もある。だが――
「魔法使いとは職業ではない――“生き方”を指す物ではないのですか? ならば、安易な効率化を喜ぶものが何処にいると!?」
強い調子で、彼女は続ける。
ここに集う皆が皆――程度の差はあれ、彼女と同じ気持ちなのだろう。それは近右衛門にもわかっているはずだ。
その彼は、シャークティの言葉を真正面から受け止め――そして、言い返す。
「なれば、問う。生き方としての魔法使いとは、何じゃね」
「無論魔法という技術を研鑽し、それでもって誰かの助けとなる事でしょう」
黒いスーツに身を包み、頭髪をオールバックに撫でつけ、サングラスを掛けた強面の男が言う。黙っていればその筋の人間にしか見えないが、当然彼も麻帆良の魔法先生の一人である。
「そも、その人を指しての“魔法使い”とは実にシンプルな形容である。魔法を使うから、魔法使い――突き詰めれば魔法とは、単なる技術に過ぎません。なれば、我々はその強大な力を何に使うのか、自らの意思で見極めねばならない」
「ふむ。では、神多羅木君の思う“それ”は何じゃね?」
神多羅木と呼ばれた強面の男は、サングラスのブリッジを中指で押し上げると、小さく息を吐いた。
「むろん――言葉にすると陳腐ですが、自らの思う正義の為――そうなるのでしょうな。残念ながら世の中には、どうしたて悪しき者が現れる。悪しき者にとて、魔法という技術は身につけることが出来る。ならば我々が正しき心を――それは非常に難しい話になりますが、せめて自分の良心に恥じないやり方でもって魔法を扱わねば、一体何の魔法使いだと言うのでしょう」
「さて、それは儂のような馬鹿者にはわからぬよ。儂には偽善も、虚栄心も、煩悩とてある。君のような若者ならばともかくとして、このジジイが今更ソクラテスの真似事が出来るとも思えんしのう」
しかしだからこそ――と、学園長は言った。
「終ぞ“立派な魔法使い”を名乗れなんだ儂じゃから、敢えて開き直らせて貰うことにする。諸君らの魔法使いとしての志、誠に素晴らしきものじゃ。しかし――儂は敢えて、その志を顧みぬ。いや、その志が時として、麻帆良を救うこともあるかも知れぬが。詮ずるところ――」
誰かが喉を鳴らした音が聞こえたような錯覚。それをそこにいた全員が感じ取る。
「この素晴らしき麻帆良の学舎を、そこで未来を目指す若者達を守るためならば、儂は手段など選ばぬ。仮にその時、魔法使いであることが枷になる事があったとすれば――儂は迷わず、“魔法使い”を切り捨てようぞ」
月曜日午後十時。麻帆良の街にも夜の帳が下りきった頃。
その日の麻帆良は、昼間から降り出した雨が、夜になっても続いていた。天気予報は梅雨前線の発達を告げ、この雨が暫く降り続くだろう事を告げている。
そして生徒の姿が無くなり、当直の警備員や教師を残して大人の姿も消えた麻帆良学園本校は、静寂の中にある。時折窓を叩く雨滴の音以外には、古い歴史を持つ重厚な石造りの校舎に飲み込まれてしまう。
その麻帆良学園本校の奥――麻帆良学園理事棟もまた、宵闇に包まれていた。
否――その片隅に、光のこもれ出る一部屋がある。
『宿直室』のプレートが掛けられたドアの向こうには、六畳ほどの和室と、簡便なキッチン、トイレがある。むろんプレートにあるとおりには、ここは本来、理事棟に泊まり込んで見回りを行う警備員の為の部屋である。
今宵、雨音がかすかに響くその部屋の中には、一人の男が座っていた。
年の頃は四十歳程。眼鏡を掛け、あまり整えられていない髭を生やした中年の男である。しかしスーツの上からでも何となくわかる鍛え上げられた体と、キッチンの椅子に腰掛けて煙草をくゆらせる姿が妙に絵になるその風貌は、彼を見た目よりも随分若く感じさせる。
ふと――ただ漠然と煙草の煙を目で追っていたその男は、何かに気がついてドアの方に目をやった。彼にはそれがわかっていたように、ドアが開く。
「校内は全館禁煙の筈じゃがのう」
入ってきたのは、彼よりも随分若い青年だった。年の頃は三十前と言ったところ。すらりとした長身を仕立ての良い和服に包み、頭髪を後頭部でひとまとめにした優男――実は“オカルト技術”により、数十年前の姿に若返った麻帆良学園学園長、近衛近右衛門その人である。
むろん、簡単に表沙汰にできる所以ではなかった。ゆえに、彼は普段、これまた“オカルト技術”によって作られた変装道具により、己を老人と偽っている。
もっとも年齢的に彼が老人である事には変わりないので、もはや何と言うべきか。
「まだ何か仕事が残っていたのですか、学園長先生」
「これで学園長というのも中々忙しい仕事での。おまけに残業代も付きはせん」
それに――と、青年・近右衛門は、男の側にあった小さな机に、行儀悪く体を預けた。
「どうにも、夜に降る雨は苦手じゃ」
「後でご自宅までお送りしましょう」
「言葉に甘えさせて貰おうか、高畑君。しかし――」
高畑と呼ばれた壮年の男が、煙草を携帯用の灰皿にもみ消すのを横目で見遣り、近右衛門は言った。
「“出張”から戻ってきたばかりの君が、どうしてわざわざ当直に?」
「僕の予想が当たっていたからですよ」
「と、言うと?」
「しがない英語教師が、誰の目も気にせずに学園長と話をするというのは中々難しいものでしょう」
「君は儂を何だと思っとるのかね」
それこそ自分が若い頃は、用もなく学園長の部屋に押しかけては、勝手にコーヒーでも淹れていた――と、近右衛門は苦笑する。
「そうでもないでしょう。その姿を晒せるまでの状況というのも、そうそうありはしない」
「木乃香には思いの外評判が良かったのう。孫に格好が良いと言って貰えるとは――ああ、生きていて良かったと思えるわい」
「……何故、あんな事を?」
「賢いやり方だとは思っておらん。じゃが、儂の本心をと言えばああなる。高畑君。儂は――もはや、身内と腹の探り合いをするのは御免被る」
麻帆良の魔法使いは馬鹿ではない。だが時として、魔法使いとしての高潔な理想が、彼らの視野を狭める事になるかも知れない。数十年前の近右衛門達がそうだったように。ならば彼らの耳に優しい言葉を選び、自分の思うように学園の舵取りをする事は、今の近右衛門になら可能かも知れない。
いや――麻帆良学園都市を治める人間として、“そう”でなければ困るのだ。
「高畑君、今更儂一人がどう思われようと構わぬ。それこそ、清濁併せ呑むなどと言い訳をして、他人に対して誇れぬような事もやって来た。そんな儂が今――皆を傷つけたくないなどとは――君は儂を軽蔑するかね?」
「……いえ」
「魔法先生の志がどれだけ高潔なものであろうが、その志に酔ってはならぬと――あの時気がついた筈だったのじゃが。そう、犠牲の上に成り立つ平和など、あってはならぬ。仮に平和を築くために犠牲が避けられぬものであったとしても――そんな時代は、とうに終わりを告げておるのじゃ」
高畑は、一人言葉を紡ぐ彼に何も言えない。
彼とて――大切な誰かを守るために、自分を犠牲にしてきた人間なのである。だから、ただこう言い返した。
「学園長。あなたは、魔法使いとしての生き方を選んだことを後悔しているのですか?」
「そうは言わぬ」
はっきりと、近右衛門は首を横に振る。
「儂の人生は、思い返せば間違いだらけもいいところじゃ。じゃが、どう足掻いたとて過去は変わらぬし、今こうして、儂はここに立っておる。懺悔しきりの人生じゃからと言って、儂は今更過去をやり直したいとは思わぬし、別の人間になりたいとも思わぬ」
責務でもなく、後悔からでもなく。ただ自分がここにいるという事実を持ってしてそう思う、と、彼は言った。
「まあ――ジジイの戯言はどうでもええ。ともかく儂は、多くの魔法使いが傷つく事を強いられる現状を、これ以上黙って見ている事は出来ん。魔法使いとは、イコール戦士ではないのじゃよ」
「理想のために強くあれ――“立派な魔法使い”を志す人間には、受け入れがたいでしょう」
「戦うための強さなど、大した問題ではない。本当の強さとはそういうものかね? 高畑君、君とてそういう風に思っているわけではあるまい。我々から見ればちっぽけな脅威に立ち向かう世の人々は、果たして“弱い”のかね?」
「学園長の言いたいことはわかりますが――しかし今のやり方では」
「単なるジジイの気まぐれ、我が儘と、そう取られるじゃろうな」
あるいは、と、近右衛門は目を細める。
「木乃香や相坂君の可愛さに目が眩んで、形振り構わず戦いから逃げようとしていると、その評価は決して的はずれではあるまいよ」
「それが何かいけないことですか?」
高畑は火のついていない煙草をくわえ、強い調子で言った。
「それは僕にしても同じ事だ。何せ“あの子”が平穏に暮らすことが出来ればと、だから僕は、あの人は――」
「落ち着け、高畑君。儂の言い方が悪かった」
「……」
「いかんのう、どうもこういう夜は――考えが纏まらぬ。何にせよ――」
――力をなくして理想は語れない。それは残酷な現実だよ。
ぞくり、と、背中を何かがはいずった様な錯覚を覚えた。一瞬にして近右衛門と高畑は、部屋のドアから距離を取り、全身を緊張させる。
――あるいは君たちの言葉は、耳に優しい。運命に抗う孤独な人々を、誰も笑うことは出来ないだろう。だが、その結末は大抵、悲劇と呼ばれるものとなる。
落ち着いた、年齢を感じさせる男の声だった。その声は柔らかく、低くしかしよく通り、優しささえ覚えるものである。しかし、その場の空気と言えば――まるで肉食獣の檻の中に閉じこめられたかのようなものであった。
――悲劇は良い。魂の底からの慟哭は、私にとって非常に甘美だ。だが、ただ恐怖に震える子猫を踏みつぶしたところで、果たしてそれが悲劇と言えるかね? 私としてはそのようなものは、胸焼けがする。
廊下で、何か小さな音がした。その音が何なのか、部屋の中にいる二人にはわからない。今ドアを開けて確認するには、危険が大きすぎる。
高畑は油断なく構えを取りつつ、自然に近右衛門を庇える位置に立つ。
――なれば、私の手で私好みの悲劇を書き上げてみようと思ったのだよ。今宵はその招待状を持参した。私が作り上げる悲劇を堪能してくれることを、心から期待している。
「……何者じゃ」
近右衛門の問いかけに、声の主は柔らかく笑う。
――慟哭を糧に生きる、しがない悪魔だよ。
「生憎儂は、娯楽の基本はハッピーエンドじゃと疑っておらんでな。さて悪趣味な悪魔とやらよ。儂の持論を聞いていくといい」
――残念だが、今宵は挨拶に伺ったまでだ。しかし君と趣味について語り合うのも悪くはない。そうだ――こういうのはどうだろう?
高畑と近右衛門の表情が、小さく動く。
――私はこれより、私の悲劇を完成させる。君らはそれを、喜劇なりハッピーエンドになり書き換えら得られるよう足掻いてみると良い。私と君と、どちらの持論が納得できるのかは、その果てにわかるだろう。
もっとも――と、声は言う。
――変えられぬ運命を前に無駄なあがきを繰り返すと、そういうのもまた、悪くないと私は思っているのだがね?
その声を最後に、部屋の空気が一変した。呼吸をするのも忘れるほどの重苦しい重圧は、まるで嘘だったかのように消え去り、部屋の中には先程までと同様に、静かな雨だれの音が響くのみ。
近右衛門は小さく息を吐き、無造作に足を踏み出した。
高畑が我に返ってそれを止めようとしたときには、既に彼は廊下へ通じるドアを開いていた。当然――と言うべきか。ドアの向こうには、誰も居ない。
ただ、一枚の封筒に入った何かが、床の上に落ちている。近右衛門は、それを拾い上げた。
「学園長、うかつに――罠かも知れません」
「これが罠なら打つ手はありはせんよ。それに、この場で罠を仕掛けるようなやり方は、どうも奴さんの好む所では無さそうじゃしのう」
「しかし――それは、一体?」
封筒の中に入っていたのは、便せんだった。流麗な筆記体で、何かの英文が書かれている。高畑も、元は近右衛門も英語の教師であり、それ以上に出自からすればそれを読むことに問題はない。
そこに目を通そうとしたところで、近右衛門は封筒の中に、何かもう一枚別の紙が入っている事に気がついた。
それは果たして――一枚の、写真だった。
目の前を、白銀の塊が行ったり来たり。それを何となく目で追いながら、白髪の青年はぽつりと呟いた。
「そりゃま……色々思うところはあるけどよ」
「? 何か言ったで御座るか、先生?」
その呟きに、犬塚シロは振り返る。台所で夕食の支度をしつつ、機嫌が良いのか「今夜は中華スープ」云々と調子はずれの歌を口ずさみつつ、手元では味噌汁に入れる具を刻む。
その格好は、Tシャツにハーフパンツを履き、その上からエプロンを付けただけの簡単なもの。いつもの和服姿でないのは、今日は体育があって汗を掻いたと、帰ってきてすぐにシャワーを浴びたからである。いくら落ち着くと言っても、この季節、一度汗を流した後で風通しの悪い格好に着替えたくは無かったらしい。
先程から横島が目で追っていたのは、シャツとハーフパンツの境界線から顔を出してゆらゆらと揺れる、彼女の尻尾である。
「つうか久々に見たな“それ”――タマモにあれこれ習って消せるようになってたんだろ?」
「その時の馬鹿狐の顔と言ったら、今思い出しても殺意が湧くで御座るが」
歯ぎしりをしつつ、シロは言う。彼女は翼を持つクラスメイトの少女とは違い、自分が誇り高き神狼の血をその身に宿す一族であることを誇りに思っている。とはいえ、彼女が人間ではないその証拠――腰から伸びる、頭髪と同じ白銀の尻尾は、人間の日常に於いてはそれなりに邪魔になる。
つまり、収まりどころに困るのである。感情が高ぶると半ば自分の意思と無関係に動く事も多々あるそうで――それに関しては横島とて何となく彼女を見ていればわかるが――そんな時に、女学生の制服であるスカートは殊更都合が悪い。
だから彼女は、以前に不倶戴天の敵である筈の少女に頭を下げてまで、どうにかそれを誤魔化す術を会得していたのである。何せ相手は、“獣の姿”ならば自分の体ほどもある巨大な尻尾を跡形もなく消し去るどころか、どのような姿も思いのままに取れる、変化のエキスパートである。
シロと同じ人狼の一族が、狼から人間に“変身”するのは、一種の生得的な本能であり、妖狐の“変化”とは似て非なるものであるが、やっていることは根っこの部分では同じ。果たして――“オカルト技術”と、人間はそれを呼ぶ。
「とはいえ、家の中でくらい時には気を抜かねば――何というか落ち着かぬので御座るよ」
「ふうん……そんなもんかね」
「ヨコシマにだって覚えがあるはずですよ?」
そう言ったのは、床に寝転がってテレビを眺めていたあげはである。彼女はさほど熱心に見ても居なかったテレビ画面からあっさり視線を外し、転がるようにして上半身を起こす。
「何で俺が? 俺には尻尾なんてありゃしねーぞ」
「ほら、あれですよ。よく言うじゃないですか。男の人はアレの置き場に時折困ると、その名もずばり」
「ギルティ」
「はぶっ!?」
にやにやしながら何かを言おうとした彼女の顔面を、横島の振り抜いた紙製鈍器――「ハリセン」が殴打する。彼がそれを何処から取り出したのかは、多分聞かない方が良いのだろう。
「女の子がそーゆー事を言うもんじゃありません」
「むう、自称煩悩の塊にだけは、そう言うことを言われたくはありません。大体その程度可愛いものではないですか。家族の間ではよくあることです」
大したダメージは無いだろうに、大げさに鼻を押さえて、あげはは不満げに言う。
「せ……拙者の尻尾が、先生の――い、いやそれは――……新たな何かに目覚めそうで御座る……」
「目覚めんでええわいっ!! お前も何を訳のわからんことを言っとるか!?」
「中々に高度なプレイですね。人狼限定尻尾――」
「頼む、お前もう喋るな」
「拙者はあげは程頭の中身がアレでは御座らぬが――」
「喧嘩売ってるならいつでも買いますよこの繁殖欲丸出しの発情狼が」
自分で横島をからかう分には構わないが、他人から言われると不条理な怒りを覚えるらしいあげはが、口を尖らせて睨み付ける。それを涼しい顔で聞き流し、シロは包丁を振るいながら言う。
「先生の口と行動が一致せぬのは前々からの事であるとは、拙者も思っているで御座るよ?」
「俺が煩悩の塊だって割には身持ちが堅いってか? それこそ喧嘩売ってんのかお前は。モテないのと身持ちが堅いのは違うだろうがよ」
「先生はそれを本気で仰っておられるか?」
「本気でも冗談でも悲しくなるわ。何で俺がお前ら相手に格差社会を感じなきゃならんのだ――俺知ってんだからな、お前六女に通ってた頃、他校の男からラブレター貰った事あるだろ」
「丁重にお断りいたしたが」
「あげはだってこの間男の子と帰ってきただろ。小学生で異性と下校とか……あり得んだろ……」
「二人っきりならともかく他にも友達が居たのを見てなかったんですか? そもそも、私は子供に興味はありません」
「そんなお前らに俺の気持ちがわかってたまるか。俺だってこんな身持ちの堅さなんぞさっさとブチ壊してしまいてーよ。おい、もうちょっとしたら俺はネギとは別の意味で“魔法使い”になっちまうぞ?」
とん、と、シロの手元で包丁が立てる音が止まる。果たして彼女は、花が咲いたような笑みと共に振り返った。
「拙者であればいつでも、先生が“魔法使い”となるのを阻止する助力を致しますが? 何なら今夜にでも、その“身持ち”とやら、拙者が崩して差し上げようでは御座りませぬか」
「俺は犯罪者にはなりたくねえっつの」
「ミカミへの覗きがバレては近所の交番のお巡りさんに“またお前か”と言われていた男とは思えない言いぐさですね」
「やかましい。あの魅力的すぎる肢体がいかんのじゃ」
「犯罪者にはなりませぬよ。何となれば先生、その手の犯罪は親告罪故に。拙者が黙っておれば何の問題も無いのです」
「何でお前はそんなことを知っている」
「いい加減ヨコシマがそれを理由に言い訳をするのも聞き飽きましたし。まあ女性を襲う不逞の輩が居ることを考えれば良し悪しな法律である気もしますが、若年層の自由恋愛まで国が制限する事ではないと考えれば、妥当な落としどころでしょう」
「法律家にでもなったらどうっすかあげはさん。いや、だってお前らなあ……」
ふと、何かを言いかけて。
横島の言葉が途切れた。いつもなら、顔を赤くした彼が喚き散らして、シロとあげはが便乗して悪のりをして――そう言う流れになるはずの所である。
「先生?」
「ヨコシマ?」
「……あ、いや――何でもねえ」
彼が言葉を止めたのは、今日の昼間の事が頭を過ぎったからである。昼間に出会って、とりとめもない事を話したあの少女――シロのクラスメイト。
彼女との会話の中で結局、横島は言ってしまった。“それ”を、言葉に出してしまった。
自分は、一つ屋根の下に暮らすこの少女達の気持ちに、気がついている。それはもう、誤魔化しても仕方がない。それこそ脳に重度の問題を抱えていない限りは、気づかない方がおかしい。方々でどう言われていようが、結局の所横島は“まとも”なのだ。
けれど、少なくとも今――シロを、もちろんあげはもであるが――恋人にしようとは、思えない。いや、思うことが、出来ない。
(……俺は)
辛い、別れがあった。
かつて己の上司や同僚の少女には、間違いなく男として好意を持っていた。それが薄っぺらなものであったわけではない。馬鹿馬鹿しいけれども、胸を張ってそう言える。
けれど――彼女に抱いた想いもまた、本気だった。血の涙を流してまで一度は彼女の元を去ろうとしたのは、何のためだった?
本気で、好きだった。ずっと一緒にいたいと、想っていた。けれどそれは叶わなかった。
(……)
けれどそれは、吹っ切った。
忘れられない。忘れられるはずがない。けれど、それが何かいけないことなのか? あの思い出を忘れることが正しいと言うのならば、彼は敢えて間違いを選ぶ。
過去は、変えられない。忘れることだって出来ない。けれど――自分は今、生きている。
あの日々を糧に、僅かばかりの力を得て、どうにか次の未来を目指し、守りたい者だって出来た。
そんな今を悔いることはしない。今を悔いて過去に縋るなど、馬鹿げたことはしたくない。
けれど、彼女たちから見ればどうなのだろうか。
(結局何が違うんだって、そう言うだろうな)
だから、そう言うことではないのだ。この、命を賭けても守りたくて、自分のような馬鹿でスケベな男のことを、臆面もなく好きだと言ってのける彼女たちを――それでも、男として見られない――いや、“見たくない”のは。
「――あー、風呂わいてたよな? 飯の前に入ってくるわ」
だが、それを彼女たちの前で言う事に意味はない。言うべきではない。そんなものは、自分らしくない。何を馬鹿なと言われるかも知れないが、それは存外、横島にとっては大事なことであった。
無理なんかすることはない。いつも自分らしく、自分の思うようにしていればいい――
改めて自分の現状を思い知った事で調子が狂ったが、まだ、許容範囲であるはずだ。
「何か釈然としないものを感じますが――背中、流してあげますね」
「妙な義務感なら要らん」
「私がそうしたいからするだけです」
「……なら、頼むわ」
「はい、喜んで」
「……うぐ……」
少なくとも少し前までならあり得なかった横島の返答に、あげはは満面の笑顔で頷き――反面台所のシロは、柄が砕けそうな程包丁を握りしめて悔しげに彼女を睨む。
「どうしてこうなった」
あれは確か、京都での一件。ネギ達を助けに行くことに、あげはがゴーサインを出す条件が“それ”だった。つまりは「一緒に入浴して体を洗って欲しい」というのは。そうそれは、ただの条件の筈だった。
そこでどれほどの騒ぎがあったのか、敢えては記さない。結果に関して、シロがあげはの叱責を受けたのは、致し方のない事だった。彼女自身、いつも彼自身の事を気遣いながら、あれはあってはならない事故だったと、思う。
ただ――その後が問題だったのだ。
「……どうして……こう……なった……っ!」
いや、問題があったようで無かったというべきだろうか。シロにとっても、あげはにとっても。
そんなこともあって、半ば強引にそれは強行された。だがむしろそれは、「男女の混浴」などという、何処か色気のある字面とはほど遠い、どちらかと言えばただの“介護”に近いものであった。
そしてそれが――いけなかったのだろう。
麻帆良に帰り着いてからこちら、あげはは自然に“それ”を行うようになった。
そしてシロも横島も、それを止められなかった。実に馬鹿馬鹿しい理由によって。
――ヨコシマが私の体に興味が無いというのは残念ですが――それなら、何の問題が?
一度は“出来てしまった”事だ。ここで無理に拒否をすれば、やはり横島はロリコン――そうでなくても、あげはに対して何かしらのよからぬ思いを抱いているという証明になる。
実際彼女はまだ子供なわけで、なら何の問題がある?
拒否したいならすればいい。無理にとは言わない。だが――そうするならば、“認めた”と考えて良いのだろう? と。
神の名を持つ魔物の娘は、笑顔で選択を迫った。
果たして結果がこれである。当然、問題となるような事は何も起きていないし、実際毎度毎度、色気のあるようなものではないらしい。あげは曰く、であるが。彼女としては不満らしいが。
彼女がもう少し成長すれば問題も出てこようが、逆に言えばそれまでは、理屈では彼女を止められないのだ。犬塚シロにしてみれば。
――いやそれ、何か色々麻痺してない? いいの? 確かに駄目じゃないのかも知れないけどさ、え? いいの?
彼女の友人であるところの朝倉和美などは、幾分困惑気味にそう言ったが、シロにだってどうすればいいのかわからないのだ。
横島はもうこの事に関しては慣れてしまったようで、だからシロにとってもあげはにとっても――『問題はないがだからこそ問題なのである』わけだ。その言葉は二人にとって正反対の意味ではあるが。
「……あげは、お主――」
横島が先に脱衣所に向かい、鼻歌を歌いながらタオルの用意をしているあげはに、シロは腹の底から絞り出したような声を掛ける。ただ、常人なら――少なくとも友人達なら顔を真っ青にするだろう彼女の殺気が、目の前の少女に通じるかと言えば、答は否だ。
「私としては残念ですが、シロが思うような事は何も起こっていませんから。横島がロリコンでないと言うのもまあ――“確認済み”ではありますし」
「ちなみにその確認とはいかなる手段で?」
「いやですね、それを乙女の口から言わせますかシロは」
「堂々と“○○ポジ”がどーとか言う奴に言われたくは無いで御座るよ!? ああもう拙者にもその“確認”させては下さらぬか先生!?」
「……シロは何だか近頃ヨコシマに似てきましたね?」
「ああもう、ああもう! 拙者があの時超回復で幼年期をすっ飛ばしてしまったが故に! 拙者だって子供の大義名分で先生と混浴とかアレコレとかしたかったで御座るのにっ!! 」
「いやあの、それってあなたにとっては大事件だった筈ですよね? あなたがそうならなかったら、多分あなたもヨコシマも死んでますよね? 私が言うのも何ですが、お父上が草葉の陰で泣いていますよ?」
頭を抱えて床に突っ伏すシロに、呆れたような視線を送り、あげはは溜め息混じりにタオルを持って立ち上がる。どうやら本気で悔し涙にくれているらしいシロに、彼女は――
「……? シロ」
「何で御座るか!? 拙者は今この世の不条理に――」
「馬鹿を言ってる場合ではありません。あなた――“匂い”ませんか?」
「……申し訳御座らん。泣いたせいで鼻が詰まってしまって」
「本当に肝心なところで役に立ちませんねこの駄目犬は!?」
あげはは目を閉じ――小さく息を吸ってから、意識を集中させる。
途端、何処からともなく十匹ばかりの蝶が姿を現した。薄く緑色に、蛍火のような燐光を放つ蝶――当然、何処かに隠れていたわけではない。
あげはが腕を一振りすると、その蝶は部屋から飛び去っていく。障子や窓があろうとも、幻のようにその中に吸い込まれていく。
それを見てシロは慌てて立ち上がると、包丁を台所に戻し――とりあえず、台所のキッチンペーパーで思い切り鼻をかんだ。この際、同居人の冷たい目線は気にしない。人狼の嗅覚――魂の波動さえ捕らえる彼女の霊感覚が、周囲の状況を――
「? 特に、おかしな匂いはしないで御座るが……」
「……気のせいでしょうか? 辺りに妙な物はありませんね。しかし今、確かに――ん?」
あげはは何かに気がついたように、小さく眉を動かした。
「何でしょうこれは……手紙?」
「おお……こらうまい。ホンマ、こっちメシは味が濃ゆうてたまらんから、救われた気分やわ」
「味付けの問題やさかい、こっちの料理が塩気が濃い、言うワケでも無いんやで?」
「俺が健康に気ィ遣っとるように見えるか? こっちに来てからうどんも蕎麦も食えたもんやないからなあ……今度ウチ来て蕎麦でも作ってくれへんか?」
「何で当たり前のようにあんたがウチにいんのよ」
同日午後七時。麻帆良学園本校女子寮。神楽坂明日菜・近衛木乃香の部屋――何故だかそこに居て夕食に同席している関西弁の少年――犬上小太郎に、明日菜はじっとりとした目線を向ける。
場所は女子寮である。男の彼が入って良いような場所ではないし、そもそもどうして彼がここで、自分と一緒に木乃香の作った夕食を食べているのか。変わらずのほほんとしたその同居人本人は、料理を褒められて満更でもないようだが。
「文句があるんやったらそこの子供先生に言うてくれや。俺は連れてこられただけやで」
「はあ? ネギ、何だってこいつを? あんたわかってないかも知れないけど、こいつ結構な不良よ? そんなのを女子寮に入れるって――」
「新田先生には連絡を入れていますし、寮母にもそちら経由で許可は取っています。迎えには月詠さんが――僕はただ、彼に言いたいことがあっただけです」
「どういう話をしたんか知らんが、それで易々と男の俺がここに入れるのもどうかと思うけどな。まあ、お前がここに間借りしとる事実に比べたら些細なモンか。せやけど何やねん。京都の話やったら、俺は謝らんで」
つまらなそうに言う小太郎に、ネギは首を横に振る。
「あの時は――僕も普通じゃなかったから。君に何かを言えるような立場じゃないよ」
「せやったら何やねん」
「僕はただ、君の行動に納得がいかないだけだ」
明日菜はテーブルの上で、彼専用の小皿に盛られた料理にがっついてるカモに目をやったが、彼はただ黙って首を横に振った。
果たしてその問いに答えたのは、木乃香だった。
「何や、麻帆良の“魔法生徒”と喧嘩したんやて」
「喧嘩と呼べるようなモンでもないわ」
もはや木乃香は魔法世界の事を知っているから、この場で隠し事をするような必要はない。苦笑しながら言う彼女の言葉に、小太郎は鼻を鳴らした。
「何。また何かやったわけ? この間新田先生にボロ負けしたってのに、まだ懲りてないの?」
「あれは俺かてまだ全力やのうてやな」
「そういう中二病臭いのはいいからさ」
「中二病言うなや! ことある事にお前らは、ウチの実家になんや恨みでもあるんか!?」
「そう言うよりはあんた個人にかな。ネギはどうだか知らないけど、京都の一件では私、思うところが無くはないのよ」
「うぐ……」
京都で彼は、自分の信念に従い、天ヶ崎千草に手を貸した。自分を納得させられるだけの理由はあった。けれど結局、それは褒められるべき事ではない。
「と、ともかくや。俺はあんな連中と喧嘩するほど暇やない」
「だったらどうしてあの人達ともめていたのさ」
「イチから説明すんのも面倒なんやけどな……俺が名目上“保護観察”で、あのオッサンの所に厄介になっとるのは知っとるやろ? その都合でな、俺、この間から麻帆良自警団に顔出しとんねん」
食事を口に押し込みながら、小太郎は言う。
「まあ、つまらん仕事やわ。月詠の姉ちゃんは喜々として出かけて行きよるが――俺はあのアホとは違うて、マトモな神経の持ち主やからな」
「何を言うのさ。月詠さんは立派な志の持ち主じゃないか。一度は道を踏み外しかけたって、彼女はきちんと前を向いて歩き始めた。それは責められるべきじゃない」
「……お前な」
『まあ、兄貴はそう言う奴なんだ。あんたに理解できるとは思ってねえが』
「お人好しここに極まれりやな」
カモの言葉に、彼は首を横に振る。
「それでこの間の事や。俺がまあ面白うもない“夜回り先生”の真似事をしよったら――何や、ただごとでない気配を感じてな。急いで行ってみたらまあ、俺とそう年の変わらん“魔法生徒”とやらが、化け物と戦っとったわけや」
ごくりと、明日菜の喉が鳴る。
麻帆良は、関東魔法協会の本拠地。そして、関東一円の地形的エネルギーが収斂する場所。そこを狙う不逞の輩は多く、その力に引きつけられる魑魅魍魎もまた、数多い。
そんな麻帆良の裏の姿を知ることになった明日菜と木乃香の表情は、軽いものではない。
「言っておくが、今回俺は何も悪いことはしとらんで? そいつらの代わりにサクっとその化けモンを退治して、その場はまあ面倒やったからそのまま帰ったんやけどな。今日になって、戦っとったそいつらとばったり出くわして」
「何でそれで喧嘩になんのよ」
「せやから俺は喧嘩なんぞしたつもりはないっちゅうねん」
最初は、相手も小太郎に対して友好的だったという。自分たちの窮地を救ってくれた相手なのだから、当然だろう。
「俺は本当の事を言うただけや。お前らのような雑魚が身の丈に合わん相手に真剣勝負なんざ、命がいくらあっても足りへん、言うてな」
「……あんたね」
「俺がそない上品な物言いが出来る男に見えるんか?」
ため息をつく明日菜に、小太郎は肩をすくめる。
「言うとるのはホンマの事や。あいつら自分の実力もわかってへん。自分が退いたら麻帆良は、言うて、退くことさえままならん。退かんかったとて、自分らがやられるだけやったら何の変わりもないっちゅうねん。そんなこともわからん連中にアホ言うたかて、ホンマの事やん?」
「だけど、言い方があるだろう。京都のことをあまり言いたくはないけど――」
そう前置きして、ネギが言った。
「君の言葉は間違ってない。けど、正しいわけでもない。それをわかっているのに、君は相手の事を何も考えずにものを言う。それが相手にとってどういう意味を持つかも考えずに」
「せやから、何で俺がそこまでやってやる義理があるんや?」
「魔法使いには、信念がある。僕は今でこそ、それを守り抜く方法は一つじゃないと気づくことが出来た。けれど君はあの時、魔法使いはただの乱暴な生き方に過ぎないって、そう言った」
「俺がそう思っとるだけや。お前が違う思うなら、それでええやんか。何やお前は、俺の事を嫌っとる割に、俺を釈迦か何かと勘違いしとるんか?」
少なくとも自分なら、嫌いな奴の言葉にそこまで重みは見いだせないと、小太郎は言った。相手の事を批判する割に物言いが悪いなど――単なる言い訳ではないか。彼はお茶を啜ると、乱暴に湯飲みをテーブルに置いた。
「そもそもあいつら、何がしたいんやねん? 魔法使いっちゅうのは、何やねん? 魔法っちゅうのはただの技術ちゃうんか? そこで何がしたいのかは、そいつの勝手やろ? 俺はそのやり方が間違っとる、言うてやっただけや。感謝こそされても、責められる道理はないっちゅうねん」
「確かに――うん、僕みたいなのに言われる筋合いは無いだろうけれど――“彼女たち”が君に抱いた怒りは、理不尽なものだったかもしれない」
ぴくりと、カモの耳が動く。
同時に、明日菜も思う。
本当にこいつは全く――変われば変わるものである、と。以前の彼なら、同じように小太郎の乱暴な態度を批判したとしても、どう出るかは全く違ったものであっただろう。
「けど君は、あそこでああいうことを言えば彼女たちがどういう風に思うか、わかっていたはずだ」
「……せやから、何で俺がそこまで――」
「僕が言いたいのは、“そこ”だ。君はずっとそうなんだ」
「……あん?」
「僕が言いたいのは、君が言っている様な事じゃない。魔法使いがどうだとか、状況がどうだとか――そんなことは、どうだっていい」
「な、何を――言うとるんや?」
「君は、君にとっての正解がわかっていた。なのに敢えて、喧嘩に持って行こうとした。それが僕は認められない」
君は不良だ、と、ネギは言った。
「社会に、親に、教師に反抗して非行に走る――僕のような子供が、彼らの抱える闇を一概には否定できない。けれど、今回僕はやっぱり認められない。君が――“君自身の正しいと思う心”にすら反抗し続ける君の態度が、教師として僕は認められない」
「は……い、いや……“魔法生徒”連中のアレコレは――」
「僕のような半人前で、しかも子供の魔法使いが、“魔法使い”の信念ややり方になんて口を出せるわけがないだろう。そういう事に対しては、しかるべき人がそうすればいい。でもこれは、教師として、僕自身として譲れない。どうして、どうして君は――もっと、自分に素直にならないんだ!?」
小太郎は、目線で二人の少女と一匹の小動物に助けを乞うた。
同時に、目をそらされた。
魔法“先生”として何かのスイッチが入ったネギは――京都で戦った“魔法使い”だった頃の彼よりも、余程の強敵であるらしかった。
「あら木乃香。ポストで何か音がしたわ。手紙が来たんじゃないかしら?」
「ホンマかいな? せやけどウチ、食後のお茶を淹れようと思ってたんやけど」
『だったら俺っちが取って来ますよ』
「何を華麗な連係プレーしとるんやオノレらは!?」
わめき散らす小太郎の脇を抜けて、白いオコジョは明日菜の元に、ポストに入っていたのだろう手紙を持って走る。明日菜はそれを芝居がかった様子で受け取り、カッターナイフで恭しく封を切る。
そして――
「――ネギっ! 木乃香っ――! 私――警察呼ぶから、みんなに伝えて!!」
中に入っていた“もの”を見るなり、椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
木乃香もカモも――喚いていたネギと小太郎も、呆然と彼女のほうを見つめる。
明日菜の手の中には、握りつぶされた一枚の写真があった。
腰程までの水かさがある、水牢のような場所。そこに打たれた杭に、鎖で縛り付けられた、下着姿の少女。
目隠しと猿ぐつわ、濡れた彼女自身の頭髪で、顔が半分隠されているが――それでも、見間違える筈もない。それは、彼女たちのクラスメイトだったから。
麻帆良学園本校女子中等部、三年A組出席番号2番――明石裕奈の姿が、そこには映し出されていた。
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なんだか文字入力が安定していない気がします。
一応見直しはしていますが……
誤字脱字はあまり気にせずに読み飛ばしてくれると助かります。