第二話『ミックスジュースは甘くない
――或いは、恐怖の水見式インセクトジュース』
俺は月で、太陽の子供だった。
月は、太陽の影を好んで歩き、それが照らさないものを、気ままに眺める事を好んでいた。
そんなある時、極寒の地に根を下ろした太陽は、周囲を暖め始める。
そこに住んでいた沢山の人たちは、太陽の暖かさで潤い、喜んだ。
死ぬはずだったものが生き、生まれないはずだったものが生まれるようになり、人々は瞬く間に増えて行く。
そして、人々の中に生まれた一人の賢人が、ついに気付いてしまった。
太陽ですらいつかは衰え、死する運命を背負っている……。
それを知って、太陽の暖かさを知ってしまった人々は、悩んだ。
今の私達が太陽を喪ったらどうなってしまうのだろう?
人々は太陽の恵みを喜びながらも、いつか消えるそれに悩み、苦しみ、
そんなある時、一人の人間が月の存在を知った。
太陽には一人息子がいて、一人夜の国を流離っている。
月はまだ若い、太陽が死んだら、彼に地を暖めてもらえばいいじゃないか。
それで人々は、夜の国に、月を探して旅に出るようになった。
ある時行き会った人たちは、沢山の食べ物を月に供えた。
月は、挨拶だけしてそれを受け取らず、ただ歩き去った。
ある時行き会った人たちは、その身で月を誘惑しようとした。
月は目を逸らすと、その場を足早に立ち去った。
何を与えようとしても月は受け取ろうとしないので、ついに人々は、月を捕まえる事にした。
一番のお金持ちと一番の職人が長い長い金の鎖を作って、一番の力持ちが、その端を持った。
その隣には一番の狩人がいて月を狙い、更にその隣には愛らしい少女がいて、引き下ろされた月を捕まえようとしていた。
残りの人達は大きな篝火の周りで派手に騒いで、いぶかしんだ月が自分達を見に来るのを待つ。
それは三日三晩続いて、疲れ果てて騒ぎが終わったその四日目に、月は現れた。
どうやら騒ぎが終わったようなので、一言注意をしようと思ったのだ。
こんばんわ、皆さん……月は疲れ果てた人たちにそう声を掛ける。
月が声を掛けた人達は、騒ぎ疲れていたけれど、狩人と力持ちと少女はその間ずっと力を溜めていた。
狩人の号令で、金の鎖が月に飛ぶ。
その狙いは正確で、鎖は過たず、月の体をグルグル巻きにした。
力持ちは、その鎖を引いて、月はだんだんと地に近付いて行く。
そして、愛らしい少女は両手を開いて、地に降りた月を抱きとめようとしていた。
違うんだ。月は太陽じゃあない! この輝きは太陽の照り返しでしかないんだ!
月はそう泣き叫んだけど、人々は誰も耳を傾けようとはしない。
暴れて身を捩ったけれど、狩人の狙いは正確で力持ちは強く、金の鎖は頑丈だった。
月は、足掻いて、足掻いて、それでもだんだん少女の腕の中へと降りて行く。
何か掴まれる物はないか――月は暴れながら周囲を探し、そして見つけた。
見たことも無いフワフワとした光が、月の目の前を飛んでいる。
……そして月は、それを無我夢中……。
◆◆◆
……じくり、じくりと、背中の傷が痛む。
ベッドで跳ね起きた俺は、全身が寝汗でびっしょりと濡れていることに気付いた。
この辺りは冬でも暖かな気候のはずなのに、お陰で体は、酷く冷え切っている。
だが、今この身が震えているのは、それだけではない。
そう、未だに、その身にかかった鎖の感触が、残っているような気がしていたのだ。
そして、手の中で儚いモノが潰れる、あのくしゃりという感触も……。
なんであんな夢を……って、まあ、昨日やった練の修行のせいなんだろうな。
俺は、引いていく背中の痛みに安堵しながらも、はぁと重い息を吐いた。
この背中の傷はなんなのだろう?
反応しているものは判りやすいのに、それを今思い浮かべても何故傷は痛まない?
そう、思い返してみれば、あれはわかりやすい夢だった。
なにしろ、夢の中で見たあの鎖は、無数の金の指輪が連なってできていたのだ。
俺をこの村に縛り付けようとする、情と欲との鎖。
それを作った金持ちと職人は、村長とその長男。
力持ちは、村長が経営する製材所の所長。
狩人は、俺を見つけたという顔見知りの猟師。
そして、少女は――俺は、彼女の顔を思い浮かべて、重い息を吐いた。
昨日の連想も、今朝の夢も、こんなにわかりやすいのに、何故、何に傷が反応しているものが判らないのだろう?
……考えてもわからないことを、頭の中で何度も反芻してしまうのは、正直、俺の悪い癖だと思う。
取り合えず、シャワーでも浴びてさっぱりしよう。
いや、昨日は、昼食以外何も食べていなかったし、食事を取るのが先だろうか?
俺は、半ば無理矢理現実へと視線を戻すと、クロゼットから着替えを取り出した。
どうせ、通り道なのだし、台所に行ってから決めよう。
取りあえず行き先を決めた俺は、部屋を出て歩き出すと――ふと気がついて、首をひねった。
……そう言えば、今朝俺はベットの上で目を覚ましわけだが、床に寝ている俺を誰がベッドに上げてくれたのだろう?
因みに、スルト(オレ)の体は、そう小柄と言うわけでもないけれど、まだ本格的な二次性徴は始まっていない。
加えて、勉強漬けで運動をしているわけでもなく、それほど大喰らいでもない俺の体は華奢で、母さんでもベッドに持ち上げられる重さだと思う。
ウチの母さんは、病院で看護士の真似事なんかもしているから、案外腕力も強いしね。
だけど、夕食を伝えに来た時なんかに、母さんが床に寝ている俺を発見してたりしたら……。
俺は、ちょっとだけ想像して、身震いした。
いや、それはないだろう。
だったら、その時の騒ぎで俺が目を覚まさないわけは無い。
なんと言うか、母さんはそそっかしくて過保護だからなぁ。
もう傷は殆ど治っていて、そんな心配ないと判っていても、昨日の今日で床に寝ている俺を見たら、倒れてるとか勘違いしかねない。
……きっと父さんが様子を見に来て、ベッドに寝かせてくれたんだろう。
そう自分に言い聞かせながら台所を覗くと、母さんが丁度、朝食の準備をしていた。
俺は、空腹に背を押されて思わずクンクンと鼻をひくつかせる。
匂いと鍋の様子からして、多分メニューは牛乳のパン粥。
この辺りの主食は小麦で作ったパンだけど、大半の家では安い種無しパンを食べている。
その上、まとめて沢山作るから古くなってしまう事なんかが多くて、だからこう言った、古くなった硬いパン――尤も、種無しパンは元々硬いが――を美味しく食べる為の料理が大いに発達していた。
でまぁ、普段種有りのパンを食べている裕福な家庭でも、夕飯用のパンの残りを次の日の朝パン粥にして食べたりする。
ウチの場合は、母さんがびんぼーな家庭の生まれだったのと、父さんがパン粥好き(……と言うか父さんは母さんの料理なら何でも好きで、母さんはこの系統の料理が一番上手い)なのが重なって、食卓におけるパン粥登場率はかなり高い。
……まあ、種有りパンのパン粥に蜂蜜いれたり、挽肉入ったりする時点で、この辺りのご家庭の一般的なパン粥とはかなり違うものなんだけどな。
前なんかの時にウチのパン粥食って、凍り付いてた奴がいたし……。
ああそうだ、ウチを離れる前に、一通りパン粥のレシピを聞いておこう。
俺は、胃袋に誘われるままに台所に入ると、母さんにおはようと声を――出そうとした瞬間、既に母さんは俺の目の前にいた。
――新手の念能力者か!?
晴信主体の精神が、一瞬そんな馬鹿な思考を浮かばせるほどの勢いで、母さんはオレの前に移動。
俺を思い切り抱きしめると、『痛いところ無い』とか『お母さんを驚かせないでよ』とか『ちゃんとベッドで寝なさい』とか、息吐く間もなく連続でまくし立てた。
――いや、母さんのその抱擁が一番苦しいんですけど……。
俺は、そうぶっちゃけたくなる自分を抑えながら持っていた着替えを手放すと、母さんの腕を体から離そうとする。
「…………あ?」
そして俺は、今までは全く脱出できなかった魔の抱擁から、すんなり逃れられている自分に、正直驚いた。
念能力侮りがたし……まさか、ガリ勉貧弱君なスルト(オレ)の体で、体格で上回る現役無資格看護士の腕を振り払えるとわッ!?
俺は、暫しの間呆然としてから、それ以上に唖然としている母さんにこう言った。
「あの、母さん、鍋大丈夫?」
いや、別に、変な匂いとかがしているわけじゃないけど、この気まずい雰囲気は、早い所どうにかしたい。
そんな俺の言葉に、母さんは呆然としたまま『ああ、そうね』とか言って、自慢のシステムキッチンへと歩いていった。
俺に振りほどかれた事がそんなにショックだったのだろうか?
アレでは、パンがグチャグチャになってしまうと思うのだが、母さんはただ等間隔でレードルを廻し続ける。
注意すべきなのかしないほうがいいのか?
「……スルト。
朝食までもう少し掛かるから、その間にシャワーでも浴びてらっしゃい」
悩む俺の視線の先で、暫し無言で鍋をかき回していた母さんが、不意に気付いたようにそう言った。
「昨日から風呂に入っていないんだから、体もちゃんと洗うのよ」
肩越しに振り返り、俺を見た母さんの目に、ほんの少しだけだが寂しそうな色がある。
「……あ、うん」
俺は、その問いに生返事で応えると、落としたままだった衣類を取り上げ、母さんに背を向けた。
甘いと言うか、なんと言うか、やはり俺には情の鎖を断ち切ることができないらしい。
ふん、どうせ俺は具現化系自罰タイプだよ……。
自虐的に、昔、友達に誘われてやった念能力判定を思い出しながら、俺は手早くシャワーを浴びた。
……さっさと朝食を食べて、水見式を試してみよう。
幸い、母さんは俺に甘いし、背の切傷を知っている父さんも、一日二日だったら学校を休ませてくれるだろう。
そんな事を思いながら、今度は直接、食卓に向かう。
俺は、携帯端末を使ってネットの新聞を読んでいた父さんにおはようを言うと、まだ乾ききっていない延びかけの黒髪を掻き揚げながら、自分の席に座った。
「おはよう。
……スルト、学校はどうするんだ?」
そして、俺が席に着くなり、単刀直入に尋ねてきた父さんに、うんと頷いて口を開く。
「ズル休みするみたいで悪いけど、二・三日は休ませてもらおうかと思ってる。
背中の傷の事もあるし、なんで崖から落ちたのかも思い出せてないし……」
そう答えると、父さんは目を細めてうんと頷いた。
父さんは、考え事をする時によく目を細める。
顔は整ってはいるのだけど、体格も良く、どちらかと言えばいかつい風貌をしている父さんがそう言う表情を作ると、なんだか妙な威圧感があって怖いんだが、俺には未だ嘗て、一度もそれを指摘できた例が無かった。
そんな表情のまま、父さんは二・三度頷くと、こう口を開く。
「そうだな、それがいいだろう。
学校とダグさんにはそう伝えておく」
因みに、ダグさんとは村長の名前、ダグ・クラン、それがフルネームだ。
村長にも話を通すと言う事は、この件の事件性を考えての処置なんだろうな。
けど、そうすると、今日は確実にアイツが来るか……。
学校が終わる時間までには、念の修行を終えなければならんなと考えていると、台所から鍋を持った母さんが歩いてくる。
「……母さん仲間はずれにして、なに親子差し向かいで悩んでるの?」
拗ねたようにそう言いながら、テーブルの真ん中に鍋を置く母さんに、父さんはちょっと驚いたような表情で口を開いた。
「いや、大事をとって、スルトを何日か休ませるか、とな……」
口ぶりからして、背中の傷の事は母さんには話していないんだろう。
まあ、話してたら母さんが、僕の傍を離れる訳も無いしな……。
「時期も時期だし、中学にも受かったんだから、もうずっと休ませちゃってもいいんじゃないかしら?
ザパン市に行ったら、中々遭えなくなっちゃうんだし、引越しの準備とか、向こうで住む家の話とかもあるから……」
でも、その割りに、俺が一人ザパン市に出る事に大して反応していないのは、母さんの中では、俺が医者になる為にノグ村を出るのは、生まれた時からの決定事項だからだ。
まあ、中学はこっちの学校に行くと思ってたらしくて、父さんと私立中受ける相談してた時には凄い取り乱しようだったけど。
「……流石にそれは無いよ。
それに俺は、ルスタ付中の寮に入るつもりだから、準備も荷物もそんなにいらないし、入らないけど」
のほほんと、かなり凄い事を言う母さんに、俺がそう突っ込みを入れると、父さんが露骨に視線を端末に落とした。
鍋つかみから手を抜いていた母さんが、怪訝な表情で俺を見る。
「え?
スルトは、ザパンじゃマァハちゃんと一緒に暮らすんでしょう?」
……はい?
そんな母さんの言葉に、俺は思わず唖然と口を開いた。
マァハというのは村長の娘で、俺の幼馴染のような存在。
実際のところは……まぁいい。
村長は、俺とマァハを結婚させたいようで、小さい頃からずっと、できるだけ二人一緒の時間が増えるように計らっていた。
その延長で、彼女も俺同様ルスタ付中への進学希望を出しているが、正直言って今のマァハでは、普通クラスへの入学試験も受かるかどうか怪しいところだ。
そりゃあ、俺も試験勉強は手伝ってるし、村長にも面倒見てやって欲しいと頼まれてはいたけれど、何で同居?
「……あれ、言ってなかったっけ?
ダグさんが、寮とは言え子供の一人暮らしは不安だろう、私も何もできないマァハを寮に入れるのは不安だから、この際、二人を同居させて、使用人を一人つけたらどうだろうか……って」
……確かに、この地域は貧しい、それは事実だ。
金持ちといわれるウチでも、外部進学で私立なら特待目指すくらい、この地方には金が無い。
だが、村長の家は、そんな『普通の』金持ちではなかった。
ノグ村とその周辺の貨幣経済は、クラン家があって始めて成り立つ――そういわれる位の、それこそ山を幾つも持っているような、正真正銘の金持ちである。
実際、この辺りの外部交易は村長が一手に担っていて、ある意味、この地域の専制君主と言っても過言ではない状態だ。
だから、そんな村長の家なら、確かに二人に家一件ポンと与えられるし、使用人をつけるのも簡単だろう。
けどだからと言って、これから思春期で第二次性徴を向かえる餓鬼二人を同居させようとは……見るからに既成事実狙いだよな、マァハは、村長の意思に反対できるような性格してないし。
俺がさっき露骨に視線を逸らした父さんをじろっと見ると、がっくり項垂れてからこう口を開いた。
「……母さんがな」
確かに、母さんはマァハの事も気に入ってるし、俺らの事を完全に子供だと思ってるから、その申し出はホイホイ受けちまうだろうなぁ。
そして、この村でも数少ない、村長と対等に話せる常識人である所の父さんは、実は母さんには滅法弱い。
相思相愛だし、普段は父さんが主導権を握っているのだけれど、ここぞと言う時の母さんのおねだりに、父さんが抗しきれた例は実は無いのだ。
そりゃあ、お目付け役の人が実は煽り役になるかもしれないとあらば、母さんも反対――するのかなぁ。
しないかも知れないのがちょっと怖いな。
兎に角、母さんを説得するのはちょっと難しいだろうから、家探しの時に村長に直談判するか……。
なんだかんだ言って、俺は村長に結構気に入られている――いや、そう見せかけてるだけかもしれないけどさ。
だから、俺が正論で掛かれば、なんだか譲歩は引き出せるだろう、多分。
「なによ、二人で母さんを悪者にして……」
そんな俺と父さんの姿を見て、母さんはぶつぶつと呟きながら台所に料理の残りを取りに行ったようだった。
母さんの、年に似合わぬ拗ねたような姿を見送って、俺は口元に苦笑を浮かべる。
「……スルト、ちょっと雰囲気が変わったな」
そんな俺を見て、父さんはそう言った。
「え?」
内心、ドキッとした俺が何とか驚きを隠してそう言うと、父さんはその口元に有るか無しかの微笑を浮かべた。
「いや、なんだか張り詰めた感じがなくなっている。
中学に合格したから……じゃないな。
お前の事だ、入学したら入学したで悩みは増えるだろうしな」
そう言う父さんは、良く俺を理解していると思うし、そんな父さんが俺にそう言った理由も、よく判る。
今までは張り詰めたものが緩んだのは、晴信の記憶を得たスルトが、それに満足してしまったからだ。
或いは、目の前にいるのが、スルトの記憶と肉体を持つ晴信だから、か……。
どちらが正しいのかは、まだ判らない――いや、既に今の俺は、どちらでもないのだろう。
当初は晴信が強い様に感じられていた俺だが、今ではごく自然に、目の前にいる医師、ディン・マクシェイと、台所で食器を扱っているらしいケイト・マクシェイを両親だと感じている。
また、スルトとしての俺も、晴信としての記憶を、自分の延長上にある物として確かに受け入れているようだった。
勿論、今の自分を繋いでいる、このねじくれた鎖を解きたいという気持ちはまだある。
単純に危険だという事もあるし、真相を知りたいという気持ちも、向こう側に返りたいという気持ちも、ちゃんと自分の中に残っていた。
だが、それを力尽くで解くには、今の俺はもう甘すぎる。
少年の潔癖で、一直線に突き進めたスルトは、もうここにはいない。
そう言った部分は、晴信の記憶の中に、飲み込まれて消えた。
この世界そのものを嫌っていて、どうやってでも帰りたいと思っていた晴信も、また、同じ。
スルトとしての情を得た晴信には、その鎖を切り捨てる事がどうしてもできなかった。
「うん、変な話だけど、なんだか、崖から落ちてから肩の力が抜けた気がする。
大きな怪我とかすると人生観変わるって言うけど、俺の場合、良いほうに変わったみたいだよ、父さん」
そのお陰で、少し螺旋繰れていたスルトよりも、今の俺の方が素直に、両親と接する事ができているように思う。
「……そうか、お前にとって俺は、余り良い親ではないのだろうと思うが……」
だから俺は、そう言って目を伏せた父さんに、笑顔を向けることができた。
「そりゃあ、息苦しいとは思うけどね。
父さんが父さんで無くなったら、それは父さんじゃないよ」
そして、俺はそう言いながら、ふと、H×H本編でジンがゴンに残したメッセージを思い出す。
『だがその間、絶対に変わらないものがある。
オレがオレであることだ』
父さんは、ジンと同様絶対譲れない自分を持っている人間で、だからこそ父さんなのだ。
尤も俺には、ゴンのように父さんを追うつもりは無いのだけれど……。
「…そうか、それはそうだな。
確かに俺が俺じゃなければ、俺じゃない。
当然ここにもいなかったし、お前の父さんでもなかったか」
そんな俺の言葉に、父さんは父さんにしては珍しく、はっきりわかる笑みをその顔に浮かべる。
「さっき、母さんも言っていたが、たったの一日で本当に大きくなったな」
そして、ポツリと付け加えた言葉に、俺はちょっとだけ驚いた。
俺の――晴信とスルトの人生経験を足し合わせれば、父さんのそれとそんなに変わらない数字になる。
勿論、世間の荒波に揉まれていない分、世間知らずではあるのだろうけど……でも、だから父さんが俺を大きくなったと評するのには、そんなに不思議は無かった。
けれど母さんには、昨日目覚めて以来、心配ばかりをさせている気がする。
なのに何故?
そんな俺の疑問が、表情に出たのだろう。
父さんは笑みを苦笑に帰ると、こう続けた。
「母さんが言ってたぞ、まだまだ小さな子供だと思っていたら、あっさりと振り払われた……とな。
ああ見えても、母さんの腕っ節は中々たいしたものなんだがなぁ」
まあ、無資格看護士として毎日力仕事してるからなぁ。
……って事は、さっきのアレは傷ついたわけではなかったって事か?
微妙にほっとするものを感じながら、俺は気のないような顔でふーんと頷いた。
まあ、一足飛びに人生経験二十年追加されてしまったスルトとしては、これは受け流すしかない話題だって事もある。
丁度そこに母さんが、小皿とおかずを持ってきたこともあって、その話はここで終わりになった。
父さんも、母さんも、今朝はそうのんびりしていられない。
元々、人口に比べて医者の数が少なすぎる事もあるし、昨日回状が廻っていた関係で今朝の来院者は増えるだろう。
そんなわけも会って、その後の朝食は特に話題が出る事もなく、黙々と進んだ。
母さんのパンのミルク粥と自家製ドレッシングのサラダはとても美味しく、何時も通りに父さんがそれを誉めたり、珍しく俺が誉めて母さんに熱がないか心配されたり……何の変哲もないスルトの日常は、極ゆっくりと流れていく。
それが妙に懐かしく感じられるのは、スルトにとってこの経験は、二十余年の長い旅の果ての帰還、だからなのだろうか?
この場で答えが出ないと判りきっていたけど、でも俺は考えずにはいられない。
……晴信(オレ)が、父さんと母さんからスルトを奪ったのか、或いは、それとは逆なのか?
それ以前に、榊晴信の体は今どうなっているのだろう。
生きているのか、死んでいるのか、動いているのか、止まっているのか、そもそも初めから存在しないのか?
例えば、晴信の記憶の中の世界が現実で彼をスルトが呼び込んだとして、肉体に記録されているデータをダウンロードしたとか、そう言う事なら、向こう側には何も変わらぬ俺生きている――そういう事になるだろう。
もし、魂を奪ったとか、俺の魂がスルトの体に入り込んだとか、そう言うオカルティックな事ならば――それならば、そもそも魂とはなんなのだろうと言う話になる。
肉体はスルトのものだから、その記憶は当然そこに記されているとして、晴信の記憶は、一体何処にあるのか?
そう言えば、今の状態になってから晴信の記憶が、古いものや小さなものでも奇妙に思い出しやすい傾向があるが、それは今の晴信の記憶が、肉体ではなく、例えば、オーラに焼き付けられた情報といったものになっているからなのかもしれない。
考えてもわからない、だから行動しなければ……けれど、こう言った空隙の時間はいつでも何処でもあるのだろうし、そういった時に俺は、それを考えずにはいられないだろう。
そう、俺が、俺である限りは……そんな否定的な連鎖に陥りかけて、俺は手に持ったスプーンを握りなおした。
もう、十分に冷めているパン粥を、口の中に豪快に運ぶ。
――父さんたちの前でこんなこと考えてはいけない。
それがスルトの杞憂であれ、真実、晴信の罪過であれ、『そうしてはいけない』事に変わりはない。
だから俺は、スルトにしては珍しく朝食を口にかきこむと、ご馳走様でしたと両手を合わせた。
そうして顔を上げると、そんな俺を怪訝な顔で眺める父さんと母さんの姿――そういえば、この辺りには食後に両手を合わせる習慣はなかったか?
肉体がある分、癖なんかはスルトの方が強かろうと考えていたのだが、どうやらそう言うわけでもないらしい。
俺は、どうしたのと言うように軽く首をひねると、そのまま席を立った。
変わってしまったとはいっても、その肉体も、精神もスルトのそれが基盤である。
ならば、変に誤魔化すよりも普通に流してしまったほうがいいだろう。
「じゃあ父さん、学校を休む話、さっき父さんと話してた線でお願い」
まずはそう言って、ああと生返事を返した父さんに頷き返すと、俺は台所に向かった。
カモフラージュも兼ね、手近にあったピッチャーに水をなみなみ汲み入れると、大き目のサイズの硝子のタンブラーを手に取る。
そして、直ぐに食堂へ取って返し、二人にこう言った。
「必要ないと思うけど、一応言っとくけどさ。
俺、今日はちょっと集中して勉強したい事があるから、暫く声を掛けないでもらえるかな?
……昼時迄には一段落させるから」
そして、そんな俺の言葉に、母さんはむぅっと膨れて、父さんは無言で頷く。
結構酷い言い草だけど、母さんははっきり言わないと判ってくれない人なんで、ウチでは昔からこういう感じだった。
まあ、午前中は父さんも母さんも忙しいから、特に心配は要らないとは思うのだけど、うっかり練の最中に抱きつかれて母さんの精孔が開いちまったよ……なんて事になったら困る、本当に困る、始末に困る。
いや、遺伝的に考えれば素養持ちである可能性は高いし、あっさり纏を成功させるかもしれんけどさ。
念に開眼されたらされたで、非常に困る事になるのは目に見えている。
……いや、いっその事家族全員念能力者を目指すってのも、手段としては面白いかもしれないけどね。
爆弾魔一味じゃないけれど、三人で制約を分担すれば、かなり複雑な念能力でも大丈夫そうだしさ。
けどまぁ、面白いからって実行に移す事じゃないよな。
少なくとも、今は……俺は、ちょっとだけ馬鹿なことを考えると、口元に浮かびかけた笑みを隠すように食堂に背を向けた。
水と器は確保。
残りの木の葉については、ちょうど部屋の窓から手を延ばして届く位置に、庭木が植わっている。
まあ、そこらで調達するより、部屋に篭もってからちょちょっと手を延ばして取ったほうがよかろう。
……俺は、水を零さないようにしながら小走りで部屋に戻ると、扉の鍵を閉めた。
すぐさま机の上にタンブラーを置き、ピッチャーの水を表面張力の限界ギリギリまで注ぐ。
窓を開けて木の葉を二・三枚折り取り、そのうちの一枚をタンブラーに浮かべ――そして、俺は気付いた。
……考えてみれば、あれから練を試してねぇよ。
流石にぶっつけで試すわけにもいかないので、少しばかり怯えながらも俺は姿勢を整え、二・三度深呼吸した後、息吹を始める。
吸って、吐く、取り込んで、吐き出す。
口、肺、心臓、血液、細胞、グルグル廻る、生命のサイクル。
その過程から力を汲出し、丹田へと蓄える。
溜まっていく、溜まっていく、溜まっていく。
出口のない溜池、注ぎこまれる力。
力は注ぎ口から水流に沿って渦を巻き、どんどん成長していく。
俺は、それが充分に育つのを待ってから、蓋を開いた。
イメージは遠心分離機、洗濯機の脱水でも可。
遠心の力によって、旋回する水は外へと逃げていく。
全身から爆発的に吹き出るオーラ、俺は息吹を止めながら集中して纏を行った。
纏の領域がキュッと窄まり、次の瞬間それは、内側から湧き上がる力に押し広げられる。
どうやら、練自体に問題はないようだった。
或いは、あの最初の試みで暴走を齎した何かは吐き出されてしまったのか?
一度目と比べ明かに弱い、しかし、滑らかなそれを眺めて、俺はほぅと安堵の息を吐いた。
そう言えば、あの時は微妙に黄味がかって見えたオーラも、今は普通の空気の揺らぎのように見える。
色々と興味は尽きないが、今はそれより、水見式を試みる方が先だ。
練が薄れるのを待ってから、両手でタンブラーを挟む。
纏の領域の大きさには個人差があるが、大体数mmから数cm程度の範囲だとかハンター本編で言っていた。
絵では、明かに30cm以上の領域があるように思えるが、アレは多分、漫画的な表現って奴だろう。
俺の纏の領域はと言えば、通常時2cm、集中して1cm、練使った時で4cm程度――練使った時の感じからいって、器が小さいと言うよりは念を引き付ける力が強いんだろう。
……で、何が言いたいのかと言えば、今の俺の纏でワイングラスを覆うのはかなり難しい。
葉っぱ乗せる関係で大きめのタンブラー持ってきたけど、縦長のソレでも普通にやったのでは覆えず、俺は練を始める前に、色々と試行錯誤しなければならなかった。
普通なら、ちょっと纏を緩めたりすれば事足るのだろうが、俺の場合、そもそもどうすれば纏を解けるのかすら判らない。
寝ても覚めても慌てても何時も普通に纏してるし、ぶっつけで錯乱してても練に成功するしで、実は俺は特質系で、これが俺の特質能力なんじゃないの?…とか、くだらない事を考えてしまいそうな勢いだからな。
取りあえず、両掌をくっ付けてそれを覆う纏の領域を繋げると、今度はそれが切れないように離していく。
丁度、両手にくっ付けたシャボンの泡を、切らないで延ばすような感覚で俺はゆるゆると両手を開いていった。
念は、使い手の意思に反応する。
頭の中に纏の領域が繋がったまま開いていく様をできるだけ克明に描きながら、試行錯誤を繰り返す事30分余――俺は、漸くタンブラーを纏の領域内に収める事ができた。
どうやら俺は、纏が強固な代わりにその領域を広げるのが苦手らしい。
AOPはかなり期待できそうだけど、円とかは使うの難しそうだなぁ……。
今回にしても、最後は周の出来損ないみたいな感じで、半ば無理やりタンブラーを纏に収めたんだが、まぁ、取りあえずは問題はなかろう……うん、多分。
俺は、タンブラーを介して繋げた纏が途切れないようにと注意しながら、練を始めた。
二回の試行でコツがつかめたのか、三回目の今回は前二回より遥かに容易く、オーラを高める事ができた。
できたんだが……。
「……切れた」
どうにも気が逸れると、タンブラーに纏わせた纏が途切れてしまう。
しかも、一度成功させて纏の内にタンブラーを収める筋道が判ったとは言え、元々纏を拡げるのが苦手な俺のこと、水見式の状態まで再び持って行くのにも、それなりの手間と時間が必要だった。
張って、途切れて、張って、途切れて、張って、途切れて―― 一時間で六度の失敗を重ね、俺は疲れて床にへたり込む。
……水見式って、こんなに難しいものだったのか?
荒い息を吐き、ピッチャーから直に水を飲みながら、俺はそんな事を思った。
いや、まぁこれは、どっちかといえば俺の念の特性の方に問題があるのだろうが……。
俺は、はぁと息を吐いてピッチャーを掴んだ両手を見下ろし――タンブラーより太いピッチャーが、今、俺の手の中に納まっている?
「は、ははははは、はぁ……」
それに気付いた瞬間、俺は、自らのあまりの間抜けさに脱力せずにはいられなかった。
H×H本編では、全員が全員グラスに手を翳して水見式行っていた為、『そう言うものだ』と思い込んでいた俺だが、よく考えてみれば、単にタンブラーに手が触れないようにしながら纏で覆えば、それでいいのではないだろうか?
確かに俺の体はそう大きくはないし、それに比例して指もそれほど長くはないが、こう、両手で輪っかを作ってその中に纏を張るようにすれば、タンブラーの一つくらい覆えるだろう。
……俺は、最後に一つ溜息をつくと、息を整えて両手を合わせ、両掌の纏を確りと結び合わせた。
次いで、指を繋げたままに掌を離し、両手で輪を創る。
「……よし」
取りあえず、ここ迄は順調――指が繋がっているせいか、両手を覆った纏は途切れる事なく、一つの大きな塊になったままだ。
予想通りの結果にほっとしつつも、俺は深呼吸をして気を引き締める。
問題はここからだ。
今のままでは、まだ間接一つ分くらい足りない空間を、どうにかして作り出さなければならない。
俺は、頭の中に纏の理想的な変化を思い浮かべながら、そろりそろりと指先を離していった。
ちょうど、両掌で纏の玉を挟んでいるような状況をイメージし、そうなるように、そうなるようにとただひたすらに念じながら、ゆっくり、ゆっくり、指の間を開いていく。
そして……慎重に指を開いて行く俺の掌の間で、オーラが動いた。
「え?」
両手の間に開いた纏の空間に、両手からかなりの勢いで念が流れ込み、右巻きの渦を描く。
驚く俺の目の前で、流れ込むオーラは纏を内側から膨らませ……
「ストォォォォップ!」
俺は、思わずそう叫びながら両手に力を込めた。
きゅっと、一回りくらい纏の珠が縮み、オーラの流動が止まる。
……ええと、なんなんでしょう、これ? 幾らなんでも特殊すぎませんか?
俺は、手の中にある球形の纏を眺めながら、そんな事を思った。
取りあえず安定しているみたいだし、サイズ的に丁度タンブラーが入るくらいなんだが、これって大丈夫なんだろうか?
形成された念弾…とかじゃないよね、ちゃんと繋がってるし……。
俺は、手を動かしながらそれを矯めつ眇めつしていたが、どこからどう見ても形が変わっただけのただの纏だった。
試しに、パソコンデスクの椅子に近付けてみたが、触れると極普通に透過する。
次に両手を離してみると、伸びが限界に達したところで左右にちぎれた珠は、そのまま掌を覆う纏に戻っていった。
さっぱりわけが判らない――が、取りあえずこれでなんとか水見式はできそうである。
確かめる意味も有って、俺はもう一度同じようにやってみた。
両手を合わせて、次いで輪にする。
そして、接した両手指を離し……ああ、膨らんでく、膨らんでく。
そのまま行ったらどうなるのかと眺めてみると、纏の珠は膨らみが一定に達したところで破け、縮んで両掌の纏に吸収されていった。
中に入っているのがオーラなのであのような勢いはないが、ちょうど、水を入れすぎた水風船が破れたような雰囲気である。
ええと、纏を延ばすとそこにオーラが流れ込んで、膨らんで爆発するのか?
まあ、爆発っても、念弾みたいな破壊力があるわけじゃないけど……。
なんか、纏が破けて空気が抜けてくみたいな?
で、力を入れると膨らむのが止まる。
力、あの、練ん練習の時みたいな感じで、止まれ…って?
ふと思いついて、俺は練をしてみた。
特別力をいれずに、練でひねり出したオーラを垂れ流しにしてみる。
纏とか、引き出す力の強さとか、そう言う事に拘らなければ、練はそれほど難しいものではない。
殆どタイムラグもなく体表からオーラが湧き出し、その圧力に張りっぱなしの纏の面積が倍ほどにも広がっていった。
ふむと、頷きながら全身を覆うオーラを眺め、次いで力を入れると纏がきゅっと縮まる。
纏の――オーラを押さえつける――力が強まり、体表近くに圧縮したのだ。
その状態で、もう一度両掌を合わせ、先ほどと同じようにやってみる。
掌の間の珠は、先ほどに倍する速さで広がり、そして、弾けた。
「……圧力かよ」
その、予想通りの結果に、俺は溜息を付く。
つまり、こういう事だ。
俺は素の纏の力が強いので、その体を覆うオーラは、常に圧力が掛かった状態にある。
そんな状態で俺が局所的に纏を拡げようとすると、オーラの薄い空間ができる上にその部分の纏の力も弱くなるので、周囲からオーラが流れ込んできて風船のように膨らんでしまうのだ。
恐らく、両掌を合わせて纏を拡げようとしていたときの失敗も、同様の理屈によるものだろう。
あの失敗の時、俺は纏を引き伸ばす事に失敗しているとばかり思っていたが、実際には、引き伸ばされて弱くなった纏の、補強を怠っていたのだ。
幸いな事にと言うか、禍福は糾える縄の如しと言うか、俺は纏を強くするのは得意である。
少しずつ、纏に力を加えながらそれを引き伸ばして行くと、纏の空間は面白いように広がっていった。
尤も、体から離すやり方は感覚的によく判らないので、手足等を介して引き伸ばさないと広げられなかったのだが……。
今や、人差し指と人差し指を合わせれば、ヒソカのように釣り橋をかけることも出来たし、もっと集中して練習すれば、スペードも髑髏も出せそうな感じはある。
って事は、俺って変化系なのかね?
そう言えば、最初に練を成功?させた時にも、ちょっとオーラに黄味が出ていたような……。
ネットの性格判断だと具現化系だったけど、変化系よりなのかもしれないな――って、俺、なんか忘れてはいないか?
気が付くと、水見式を試し始めてから、既に二時間が経過していた。
いかん、調子に乗りすぎだ、俺。
俺は、一人ぽつねんと机の上に佇んでいたタンブラーに近付くと、両手の間に纏を拡げる。
昼食までに時間はまだ暫く有ったが、やってみたい事も考えたい事も数多い。
俺は、タンブラーを纏の内に収めるとオーラを練り始めた。
纏を維持する事に不安がなくなった以上、練を加減する必要はないし、今後生き残る為にも、俺が今ここでこうしている原因を探る為にも、早いうちに、確実に自分の系統を知っておきたい。
元の肉体の能力差が大きいだけに、ゴン達ほどのオーラが望めないだろう俺だったが、初めから纏が強固であり、練の際に、オーラを高める事のみに集中できると言うアドバンテージも持っていた。
だから、限界まで搾り出して、限界まで維持すれば、初期のゴン達位の変化ならば得られるはずだ。
……いや、できる。
こんな特異な状況に自分を置ける程のポテンシャルを秘めているはずなのだ、この体は……。
ネオン護衛団のリーダー、ダルツォネは言っていた。
『お嬢様が本気で怒ったら我々では手におえませんよ』
マフィアのお嬢様で、特別体を鍛えていなかった筈のネオンがそれだけのオーラを秘めているのなら、肉体的な強靭さは念の強さの絶対条件ではないはずだ。
搾り出せ、全身の力を……念の力には、その時の人間の精神状態や嗜好が大きく影響するという。
だから、今だけでいい、信じろ、自分を……。
そう、フォースの力を信じるんだッ!
最後になんか、照れ隠しの変なのが混じったが、まぁそれはいい。
微かな頭痛、ふらりと頭が揺らめき、俺は念ずる力を緩めた。
どくりどくりと、眉間で血管が鳴っている。
頭に血が昇りすぎていて、重いくらいだった。
これ以上念じても、維持できないかもしれないな――そう感じた俺は、はぁと息を吐き出しなが、意識を鳩尾の辺りに落とす。
そこには、力強い流れが、円環を描いていた。
最初の練の試みに匹敵する勢いで、しかし、あの時の様に制御を失う事無く流れるさまは、何故か流麗な指輪のようにも感じられる。
そう、瑕疵も無い、金無垢の……いや、考えるなその先は、少なくとも今は。
今は、そんなことより、自分の属性を知る事のほうが重要なのだ。
……解き放つ。
堰を外された流れは、自らの宿す勢いによって形をなくし、四方八方へと飛び散って行く。
俺はその本流を纏で閉じ込め、そして……。
一分が経過した。
五分が経過した。
……俺は、疲れきって後ろに倒れた。
どうやら俺は、強化系でも操作系でも放出系でも具現化系でもないらしい。
すると、ビスケやヒソカ、キルアなんかと一緒か。
まぁ、変化系ベースで、放出系、具現化系を組み合わせれば幽体離脱ができそうな気もするから、これはある意味順当……なのか?
いや、放出系は相性が良くないから難しい気もするんだが、ビスケのクッキィちゃんも操作系使わないと無理だろうし、強化系だったりするよりは説得力も……と、中の水をぺろりとなめた俺の、体が思わず硬直した。
……味がしない。
ちょっと待て、目立った変化何も無いぞ!
俺のオーラってそんなにへなちょこなのか?
俺も、脳の血管はちきれるんじゃないかと思うくらい集中したし、それに、あの鳩尾に感じたオーラの流れは、どう考えてもモタリケ級には達していたはずだッ!
……ッ、Be Cool、Be Cool。
オーケィ、まずは落ち着こう、素数でも数えるんだ。
まあ、よく考えてみれば、ゴンたちが最初に発の修行を受けたのは、最短でゴン対リールベルト戦の翌日なわけだから、彼らも最低一ヶ月は練やら凝の修行をした後の筈で、そう考えると今日の水見式は単に時期尚早だった――そう言うことなのだろう。
そうだな、今日から一ヶ月、地道に練と凝の修行をしよう。
あー、けど、凝しても成功しているのかどうなのか微妙に判らんし、功防力の移動の修行の方がいいかな?
凝と攻防力の移動は、基本的にはオーラを目に移動させるか、目以外の場所に移動させるかの違いな訳だし、鏡で自分の目を見ながら凝の修行ってのは、ちょっとばっかりごめんこうむりたいし……俺は、へたばった体を横たえたまま、取りとめもなく今後の予定を考えていた。
……やっぱり師匠は欲しいな。
なにより、自分の持っている情報が正しいかどうか判らないのが一番つらい。
極端な話、俺が四苦八苦して行ったこの水見式が、実際には存在しないでたらめな手法である可能性すらあった。
……いや、逆だな、『出鱈目なのかも知れない』と心の奥底で思っていたから、早々に水見式が行いたかったんだ。
ほぅと息を吐く。
息も整ってきたし、もう一度水見式を行ってみようか?
H×Hの描写を信用するならば、水見式で水に現れた変化は、儀式の終了後にも残留しているようだった。
ならば、一度では目に見えない小さな変化でも、幾度も繰り返せばわかるほどに濃くなるかもしれない。
そうだ、今度は練で高めた念を、両手に集める練習を併用してみよう。
へなちょこらしい俺の念の出力でも、それで多少は……そう思った俺の視界の端を何かが掠めて言った。
おや、と頭を上げると、タンブラーの上に浮かんだ葉っぱに、一匹の蝶が止まっている。
どうやら、葉を取った時に開け放したままだった窓から、迷い込んできたようだが、これはまた変なところに止まったものだ。
……悪いが、このままでは水見式を続けられない。
俺は、追い払うつもりでタンブラーを持ち上げたが、蝶は何故か揺れる葉の上で微動だにしなかった。
え?
驚く俺の手元に二匹目の蝶が舞い降り、やはりタンブラーに浮かんだ葉の上に降りる。
タンブラーは、俺が手に持っているのに、だ。
「……まさか!?」
俺が窓の外を見ると、そこには蝶が舞っていた。
それも一匹や二匹ではない。
晴信が昔テレビで見た、熱帯雨林に飛ぶ蝶の塊のようなモノが、種族の別を超えてこちらに向かい寄り集まってくる。
まだ、二月の初め……暖かいこの辺りでも、それほど沢山の蝶が舞う季節ではないのに、だ。
俺は、手元のタンブラーに視線を落とす。
三匹の蝶が、小さな葉の上に止まっていた。
違う種類の蝶だと言うのに、仲良さそうに、身をすり合わせて……俺は慌てて窓に駆け寄ると、外に水を捨てる。
べしゃり。
タンブラーの水が、上に乗った葉とそれに止まった蝶毎、地面に叩きつけられる。
その上目掛けて、部屋の内外の、窓周辺にいた蝶が降りていった。
それを見届けた俺は、ぴしゃりと窓を閉める。
全身に水を被った状態で、地の上に投出されたあの三匹の蝶は、もう二度と飛べはしまい。
……だが、そんなことは問題ではないだろうな……。
窓に背を向け床に蹲り、俺は頭を押さえながらそんな事を考えた。
ごうごうと、轟く音が聞こえる。
それは蝶の羽音だ、一つ一つは聴こえないほど微かな、バタフライエフェクトの語源にもなったそれが、一体どれだけ集まればこの轟音になるのだろう?
その源が、あの僅かな水の、或いは葉の上に降りていったら、一体どんな惨状になるのだろう?
背中一面を、冷たい汗が滴っていた。
「よりによって、特質系、かよ……」
しかも、蝶だ。
空飛ぶ蝶を、宙を遊ぶ魂に喩える場所は、結構多かったように思う。
確か日本でも、そう言った喩えは有ったはずだ。
また、夢と蝶を結びつける話も多い。
こちらは、荘子の胡蝶の夢がその典型か……。
そして……俺の手の中に、か細い何かを握りつぶしたあの夢の最後の感触が蘇る。
あの夢が、事実を表しているとは限らない。
その解釈も幾通りもあるだろうし、単に俺の恐怖や危惧が形となって現れた、それだけのものなのかもしれない。
だけど、一つだけ確実な事があった。
『……あれは、蝶だったんだ』
夢の中で、俺が握りつぶしたものは……。
俺は、頭を抱えていた手をあわてて離し、床に掌を幾度もこすりつけると、脱力して全身を壁にもたせかけた。
壁越しに、耳障りな音と振動が伝わってくる。
酷い、吐き気が、した。
・
・
・
・
羽音は、それから十分程で止まった。
あの水から発散されていたものが蝶の亡骸の壁に遮られてしまったのか、或いは、時間が過ぎて、水見式の影響が消えたのか?
後に残されたのは潰れた蝶の堆い小山と、その上でのたうつ飛び立つ力を失った蝶達、壁とガラスに跳び散った、無数の鱗粉……。
流石にこの騒ぎは見過ごせなかったのか、母さんが看護服のまま部屋の戸を叩いたけれど、扉からちょっと顔を出して二・三話しただけでただけでなんとか許してもらい、俺はこの部屋の中でずっと蹲っていた。
母の言うように、この部屋を離れれば――或いは、ヘッドフォンか何かで耳を塞ぐだけでもすれば――随分気も楽になるだろう。
でも、今俺が、ここを離れる事は許されない、なぜだかそんな気がしていた。
アレは、俺だ。
嘗てのスルトの写し身であり、晴信が遭ったかもしれない事。
でも俺は、自分の半身が自分を傷付けたかもしれない事を、誰にどうやって抗議すればいいのだろう?
その時の俺に出来た事はといえば、潰れていく蝶たちの音を聞き届ける事と、彼等の為に自分自身を傷つける事――単なる自己満足の為の、代償行為だけだった。
大体、本当に贖いの心算があるのなら、俺は自分の目でそれを見届けなければならなかったのではないだろうか?
こんな壁一枚越しに、それも背を向けて、これが俺の自己満足以外のなんなのだろう。
そんな風に、自分の心を自分で斬り付けながら、俺は羽音が消えるまでの数分を、ただ座って過ごした。
それが已んでから部屋を出て、台所からマッチと食用油とを持ち出し、そして今、俺はこうして蝶の死骸の山の前に、立っている。
そして俺は、まだ生きてもがいている蝶達の上に、無言で油を振りかけた。
幾度も、幾度も、斑が無い様に、下まで染むように、壜の中の油がなくなるまで、何度も……。
また、そんな状況の変化に、今までは動いていなかった下の方の蝶達も動き出し、結果油に覆われた蝶の小山そのものが蠢動する様は、まるで悪夢のように思えた。
動くたびに、壊れていく。
その度に蝶の羽が欠け、もげ、鱗粉交じりの油はグチュグチュと汚らしくも卑猥な音を立てる。
……酷く現実感のないその様を、俺は一体どれだけ眺めていたのだろう。
俺は、未だ蠢いているその塊の上に、のろのろと火の点いたマッチを落とした。
初めは弱く、次第に強く、火は燃え上がる。
火は炎へ、下にある悪夢の山を黒く縮ませながら、それは鱗粉の火の粉を吹き上げる。
これだけ盛大に火を焚いても誰も近付かない事に疑問を抱きながらも、俺は焼け死んでいく蝶をただ見つめ続けた。
湿った昆虫の死骸は、嫌な匂いを立てる上に焼けにくく、更には、時々パチパチと爆ぜて火の粉を宙に飛ばす。
けれど、そんな不快の間近にあっても、俺は全く何も感じていなかった。
……いや、感じてはいたのだ。
この煙で燻された服を見て母さんはどう思うだろう…とか、そんな事が心の隅を横切った事を、俺は覚えている。
けれど、その時の俺には、受容したそれを認識して対応する余裕がなかった。
ただ機械のように、火が燃え広がらないように、蝶が燃え尽きるようにと、対処する。
俺が、そんな機械のような状態を脱したのは、やがて黒い塊になってしまった蝶の山を、庭に埋葬し終えた後の事だった。
いや、脱したと言うと語弊があるか?
俺は、素手で固い土に穴を掘り、燻る小山を埋めた。
いかに念で補強されているとは言え、俺の体は極普通の――いや、余り強靭とは言えない――子供のものである。
切り傷と火傷の存在を疼痛で訴え続ける両掌を眺め、動いていない頭に『さて、どうしようか』等と思い浮かべた俺を、母さんが背後からぎゅっと抱きしめたのだ。
「か、母さんッ、苦しいッ!?」
一瞬で、その腕の感触が母のものであると気付いた俺(スルト)は、次の瞬間にはもう何時もの自分に戻っていた。
母からの力任せな抱擁に加えて、掌の痛みも認識してしまったからもう苦しいの二乗……いや、手の痛みは二種類だから、三乗か?
けれど、俺はそれを振り払うことなく、ただ両手の傷にふーふーと息を吐く。
なんつーか、俺も精神的に弱ってたとか、母さんを心配させた自覚があったとかってのもあるんだが、それ以上に、抱きしめられた瞬間、その感触が母さんだとわかったのがショックだった。
抱きしめられた感触でそれとわかるくらい、俺はスキンシップ慣れしてたんだなぁ……とね。
俺は、俺(スルト)と、俺(晴信)とが入り混じってしまった今でも、父さんのスペアみたいに見られる事や、そう言った立場目当てで近付いてくる連中にはほとほとうんざりしていたし、逆にそれを羨んで遠巻きにする連中にも複雑な感情を抱いたままだ。
けど俺は、環境には恵まれてないけど、家庭には恵まれているんだよな、それも、充分すぎるくらい。
まあ、それはただのスルトだった時にも判っていた事なんだが、晴信が足しあわされた後で再認識したっつーか、俺って餓鬼だったんだなぁって、そんな事をしみじみ思ってしまった。
そうなるともう恥かしくて居た堪れないんだが、だからと言って、母さんの手を振り払ってこの場から逃げるわけにもいかない。
まあ、逃げていい状況でも逃げないけどな――なんか母さん、俺抱きしめて泣いてるみたいな雰囲気だし。
「……ん?」
……と、そんなわけで俺は母さんの腕の中に固まっていたんだが、ふと、近付いてくる足音がある事に気付いて後を見た。
抱きしめられた姿勢と、母さんの肩越しと言う悪条件は重なっていたけど、それで見逃すにはその人影は大柄に過ぎる。
俺は、意外じゃないんだけど意外な、そんな人の姿を見上げて、目を大きく丸くした。
「……父さん?」
視線の先には白衣を着たままの父さんがいて、母さんの腕の中の俺を怖い顔で見下ろしている。
まあ、ここはウチの庭で普通患者さんの入ってくる場所じゃないし、だからそこにいたのが父さんだったのは、別に意外でもなんでもないのだけれど、今はまだ、時間的には病院の診察時間だし、父さんが白衣を着たままこう言う所に出てきたのなんか今まで見たことがなかったしで、その時の俺が相当な間抜け面をしていただろう事は、想像には難くなかった。
けれども父さんは、そんな俺の表情と問いに何も答える事無く、ただぼそりとこう告げる。
「……見せてみろ」
そして父さんは、俺に答える間を与えず問答無用で両手を取ると、一瞥してふむと頷き、ぴしゃりその両手を叩いた。
「いっ、いったッ!」
母さんの腕の中、抗議の視線で見上げる俺を、父さんは怖い顔のままで見下ろす。
「だったら、一人で火遊びなんかするな。
それに、一昨日の怪我と比べれば無いような物だ」
その後、食堂に連行される道すがらに聞いた話だが、どうやら母さんは蝶の騒動とその時の俺の対応に不審を覚えて、昼休みを前倒しにして俺の様子を見に来たらしかった。
しかし、部屋に言っても俺はおらず、外からはパチパチと何かが燃えるような音と、きな臭い匂いが漂ってくる。
そこで母さんは、未だ午前の診察の後片付けをしていた父さんを引っ張り出して、二人でここに来た。
それが、どうやら火が燃え尽きる直前の事だったらしい。
両親は、俺が燃え殻の後始末を始めたのを見て、すぐに止めようとしたのだけれど、なぜか体が硬直して近寄る事ができない。
これは多分、天空闘技場でゴンとキルアがヒソカの結界の中に進めなかったのと、同じ現象だと思う。
念は使い手の精神状態に強く反応するものだし、あの時の俺は相当テンパっていた上に、誰にも近寄られたくないとも思っていた。
ならばそう言うこともあるだろう――そう俺は辺りをつける。
で、まぁ、後は大体わかると思うんだが、埋葬し終えた事で気が緩んだ俺に、自由を取り戻した母さんが突撃かまして、その後に父さんが続いた、と……。
そんなわけで俺は、両親に食堂まで連行されて、母さんが簡単な昼食を作る間、父さんの治療を受ける事になった。
「それで、一体何があったんだ?」
流石に、親としてはこの奇現象と怪行動の連鎖を捨て置くわけにも行かないのだろう。
父さんは俺の手に膏薬を塗りながらそう尋ねるが、こちらとしても本当のことを話すわけにはいかない。
……まぁ、本当の事と言っても、何か判ったわけじゃないんだけどな。
わかった事はといえば、ただ、『蝶は魂、或いは夢の象徴として扱われる事が多く、そう言った知識を持っている俺の水見式が、蝶を引き寄せると言う素敵な効果を持っていた』というだけだ。
見た目にも明らかな特質系判定、変化内容は、匂いの変化と言ったところだろうか?
昆虫類は所謂知性を持たず、その行動は、基本的に刺激に対する反射の組み合わせによって決定されている。
無論、キメラアントと言った生物が存在するH×Hの世界では必ずしもそうだとは限らないわけで、これには『晴信の故郷では』と言う注釈が付くのだが、これはまぁ余談だ。
取りあえず今問題なのは、昆虫とは、概ね外部からの刺激によって操作可能な存在であり、状況から判断して今回の場合には匂いが使われている可能性が高いと言う事。
匂いとは、その元となる存在が大気中に放散する化学物質なわけで、所謂フェロモンなんかもそれに含まれる。
これの組み合わせで昆虫を集めるのは可能だろうし、水見式を行ってから目に見える効果が現れる始めるまでのタイムラグやら、蝶が飛来した方角、集まり方なんかを考えるにそれで間違いないだろうと俺は思った。
匂いを変えるという特性は、見た目変化系に近いように感じられるが、もし水中に化学物質を生成しているのであれば、その効果はむしろ具現化系のカテゴリーに近いだろう。
しかし、ただでさえ念に関する情報が足りないと言うのに、よりによって、中でも最も情報の不足している特質系とは始末が悪い……と、思考が逸れたな、元に戻そう。
特質系、蝶、そして、引き寄せる、固定すると言ったキーワードを、俺の現状に差し込めば、開いた先にあるモノは明らかだ。
『向こう側』が夢か、現か――それはまだ判らないが、晴信をこの世界に引き釣り込んだのは間違いなくスルトであり、そして恐らく、俺にはそこに帰る術はないという現実……。
勿論、まだそうと決まったわけではないのだけれど、あの蝶の山を見た俺は、そうなのだと確信してしまった。
俺の念能力は、向こう側に飛ぶものではないのだと。
……念には、使い手の精神状態やらなにやらが強く作用する。
仮に、俺の念能力が本当は『向こう側』に飛ぶものであったとしても、俺自身が『そうではない』と、こうも強く確信してしまっては、使い物にはならないだろう。
いや、確信していなくても同じか?
物体移動ではないとは言え、異世界に存在を飛ばす能力など、人間の能力で発動できるとはとても思えない。
虚仮の一念岩をも通すと言うが、もしそうなのだとすればアレは、念に関して非常に高い素養を持っていたスルトが、死の淵で思い詰めたからこそ発動できた怨念に近い『超』能力なのだろう。
メルエムのような隔絶した存在ならともかく、ただの人間一人が使うにしては、その能力は規格外に過ぎる。
いや、俺が人類の規格外で、自由に行き来できてしまったりすれば、それが一番楽なんだけど、まあ、そりゃいくらなんでもありえないよね。
そんなわけで、それを認識して俺が抱いた二つの思い……
帰れない、ここで生きるしかない――そんな、晴信に根ざす思い。
同じ立場に追いやってしまった――そんな、スルトに根ざす思い。
それが重なって、わけがわからなくなってしまったと言うのが、俺が取ったあの奇行の原因だ。
過剰なストレスによる逃避行動の一種、かな?
けれど、そんな事はとても言えないし、父さんに嘘も付きたくはない。
だから俺は、本当の事を、言えることだけを言う事にした。
「わからないんだ」
一昨日の晩から昨日の朝にかけての事は思い出せない。
今日勉強していたら、タンブラーの水の上に蝶が落ちた。
それを捨てたら、なんだか大量の蝶が群がってきて恐ろしかった。
あの蝶の死骸の山をどうにかして処分したかった、焼く事しか思いつかなかった。
後の事はよく覚えていない。
そんな事を父さんに、訥々と話す。
今の俺はそうでもないけれど、本来のスルトは純粋で潔癖で、人付き合いが余り得意ではない人間だ。
そう言った、今の俺と過去の俺とのギャップがどうやらうまく働いたらしい。
「嘘は、ついていないようだな」
手に、包帯を巻き終えた父さんは、ポツリとそう呟いた。
信じているのか、それとも、見通した上でそう言っているのか?
それは判らないけれど、取りあえずこの場ではこれ以上追及する気はなさそうだった。
なんつーか、ここまで来ると物分りが良過ぎるっつーか、もう放任レベルなんじゃねとか思わなくもないけれど、今はありがたい。
まさか、父さんは、そこまで読みきって……いや、まぁ、流石にそれはないか。
俺は、父さんの顔をジッと見ると俯いて息を吐いた。
「……父さん、父さんにお願いがあるんだ」
そして、すぐに顔を上げ、そう続けた俺に、父さんは真面目な顔をして頷く。
「言って見ろ」
俺は、そんな父さんの目を正面から見返して、こう続けた。
「あのさ、父さんの指輪……普段つけてない、盗まれたほうの結婚指輪。
その、向こうに行く時、お守り代わりに貸してくれないかな」
父さんと母さんの結婚指輪は、実は二組ある。
一つ目は、結婚した時に作ったもの、二つ目は、母さんの方の片割れが盗まれた時に新調した物だ。
父さんは、母さんに合わせて新しい方の指輪を嵌めているので、古いほうのそれは、大事に仕舞い込まれている。
「いいだろう。
ちょっと待っていろ」
拒否されるか、すぐには答えが帰ってこないと思っていた俺は、そんな父さんの言葉に、唖然口を開いた。
「良いの、父さん?」
腰を浮かせかけた父さんにそう尋ねると、父さんはああと頷く。
「確かに今のお前には、お守りの一つも必要なようだからな」
そう言った父さんの目は、俺の心の奥のほうまで見通しているように見えた。
沢山の人を、毎日見ている父さんだったら、その位の眼力は持っているのかもしれない。
そう思って、口を噤んだ俺を、父さんは一瞥するとそのまま部屋を出て行った。
入れ違いに、大皿に盛ったパスタを持って入ってきた母さんの、小言を聞きながら待つ事十分余……。
「……またせたな」
そう言って父さんが差し出した指輪は、銀の鎖で繋がれていた。
「あなた、それは……」
鎖に繋がれたそれを、驚きの顔で見やる母さんに、父さんは頷く。
「最近、いろいろと良くない事が起こっている。
コイツをスルトに、お守り代わりにもたせてやろうと思ってな」
……どこに、自分の結婚指輪をお守りに持たせる親がいるよ?
まるで、自分から申し出たように言う父さんに、俺は内心突っ込みを入れると、その手の上の指輪を取った。
銀の鎖で繋がれたそれは、鎖を通して尚、俺の指に嵌められるほど大きい。
しかし、その割に不恰好に感じないのは、その余りに滑らかな曲線とバランスの良さのおかげだろうか?
掌に乗せて指で転がしながら、その指輪を矯めつ眇めつしていると、俺は、自分が本当にフロド・バキンスになったかのような、そんな心持がした。
勿論、今の俺の心情は、フロドがビルボから指を受け継いだ時の晴れがましさとは程遠いものがあるだろう。
冒険への期待や、背負った重責への自負と言ったものは、今の俺の中には全くありはしなかった。
今の俺にあるのは、かちゃりと体に絡みつく、優美にして優しい、金の鎖の感触だけだ。
だが、きっとこの金の指輪は、俺を縛るかわりに力をくれる。
鳩尾で旋回する黄金の円環と、夢の中の金鎖、重なる一つの指輪の心象――それらに加えて、水見式と『向こう側』で行った念能力判定の結果を総合すれば、もう間違いないだろう。
多分俺は、この指輪を具現化するのが一番いい。
勿論、それが単なる思い込みだったり、特質系独自の特殊な相性である可能性もあるので、当面は練、凝の修行に加えて放出系と変化系のレベル1修行を試し、その発展の度合いで能力を決定する心算ではあったが、俺の中には、もう間違いないと言う確信があった。
この指輪を手に入れた俺が、フロドになるのが、ゴクリになるのか、或いは、トム・ボンバディルになれるのか?
「ありがとう、父さん」
俺は一言そう礼を言うと、指輪を繋いだ鎖を、その首にかけた。