1651時 カラオケ店 洗面所前
「バルクホルン!」
バルクホルンがちょうど洗面所から出てきたところで、東雲は声をかけた。
心配そうな目を向けてくる東雲。その眼差しが今のバルクホルンには痛い。
「東雲か……その……すまない……」
目を伏せ、弱々しい声音で謝罪するバルクホルン。いつもの覇気がない。
その表情は悲しみと、寂しさに満ちていた。
「バルクホルン、一体……」
『どうしたの?』と続けようとして、山崎の言葉を思い出す。
心配で見に来た東雲まで、悲しい顔になる。彼女が元の世界に帰れないことを一番知っているのは自分自身だ。そのことを思い出し、言葉を飲み込む。
「要らぬ心配をかけたな、さあ、戻ろう」
これ以上、心配をかけまいと笑顔を作るバルクホルン。だが、その笑顔は作り物。歪に歪んだ笑顔からは、悲しさしか見て取ることができない。
痛々しい笑顔。
それが東雲の心をえぐる。
「…………バルクホルン」
「……なあ、東雲。……お前も故郷に帰るのか?」
「…………」
顔を逸らし、ボソリとつぶやくように聞いてくる。
その姿にいつもの彼女の面影を見ることは出来ない。
東雲は答えに窮した。
春休みには実家に帰ると、両親に約束していた。もとより帰るのが普通だと思っていた。
だが、東雲が実家に帰れば、バルクホルンは一人きりになってしまう。東雲以外、頼る者もなく、不慣れなこの世界で生活せねばならない。
そして東雲の頭の中で、先程の山崎の言葉が繰り返される。
──ホームシック
──さみしい
普段のバルクホルンからは想像できない単語。
しかし、それは今、現実のものとなっている。
その引き金を引いたのは東雲自身だ。
「…………」
「帰れる所があるなら、帰ったほうがいい……」
「……バルクホルン。俺は……」
「つまらない事を聞いたな。すまない。忘れてくれ……」
蚊の鳴くような小さな声。
バルクホルンは顔を背けたまま、東雲の横を通り抜けようと歩き出す。
「待って! 待ってバルクホルン!」
呼び止める。
『このままじゃいけない』『何とかしなきゃ』その想いだけが東雲を突き動かす。
何か考えての事ではない。ただ咄嗟に声が出た。
ビクリと、バルクホルンの動きが止まる。
「…………」
(ど、どうしよう?! どうすればいいんだ俺?!)
東雲の思考が高速回転。
答えを求めて動き出す。
(バルクホルンは『ホームシック』で、だからさびしくて、元の世界に帰れるのが一番いいんだろうけど、それは出来ないから、何か代わりになるものでさびしさを紛らわさなきゃいけなくて、俺が帰るとなおさらさびしくて、連れていくにしても旅費が足りないし、父ちゃんに説明しにくいし、そもそもバルクホルンはついて来てくれるのか?! ああああぁぁぁぁぁ……)
高速回転の末のオーバーヒート。
状況を整理しきれないまま脳みそをぶん回したので、思考はぐちゃぐちゃ。浮かぶ答えはネガティブばかり。
「……東雲、先に戻るぞ」
「待った。少し待って」
深呼吸。
荒ぶる脳細胞を鎮めると、決然とした眼差しでバルクホルンを見据える。
本当は答えなんて分かっていた。ただ欲張ろうとしただけ。
何かを得ようとすれば、何かを失う。当たり前の等価交換。
あれもこれもと得ようとしても、東雲の腕は短くて、全てを抱えることなど出来はしない。
ため息を一つ。
ゆっくりと携帯電話を取り出すと、東雲は電話をかける。
「……あ、母ちゃん? 俺、浩二だけど」
『浩二、どうしたんだい? お前からなんて珍しい』
「ん……ちっとね……」
電話先は実家。
東雲から電話をすることは稀だ。そのため東雲の母は少し驚いていた。
『そういえばそろそろ春休みだろ? いつ帰ってくるんだい?』
心なしか弾んで聞こえる母の声。
我が子の帰省を心待ちにしていることは、想像に難くない。
兄は勤務地が遠く離れているため、実家を出て一人暮らし。父も日中は仕事で家にいない。
母もまた寂しいのだ。
「そのことなんだけど……」
言いよどむ。
母の置かれた環境が、心内が察せられるだけに言い辛い。
それでもバルクホルンをもう一度見つめ直すと、息を吸い込む。
「ゴメン! その……サークルの都合で帰れなくなっちゃったんだ……」
『え? 帰って来れないのかい?』
「うん。ごめん。追い出しコンパの準備とか、卒業する先輩たちの引越しを手伝わなきゃいけなくなって……」
つらつらとそれらしい理由を並べ立てる。
東雲の母は黙って一通り聞き終えると、嘆息一つ。
『仕方ないね……世話になった先輩さんたちにはちゃんとご恩返しするんだよ』
了承すると静かに電話を切った。
東雲はゆっくりと携帯をしまうと、バルクホルンに向き直る。
「バルクホルン。俺、帰らないよ」
「な!?」
東雲が選んだのはバルクホルンとの時間。
母のことが気掛かりではあるが、今はバルクホルンと過ごしたい。自分が彼女の寂しさを少しでも埋められるなら、埋めてあげたい。
「何をやっているんだ貴様は!」
バルクホルンが怒鳴り、東雲に詰め寄る。
ネウロイに奪われた祖国、帰れない元の世界。奪われ続けた帰るべき場所。故郷の有り難味を、否応なく実感せざるを得なかったバルクホルンの心の叫び。
帰れる故郷があるにも関わらず、帰らないなど許し難い暴挙。それが東雲にぶつけられた彼女の怒り。
バルクホルンの剣幕に東雲が押される、かと思いきや、東雲はバルクホルンにやさしく微笑みかける。
「俺が帰ったら、バルクホルンが生活出来ないじゃん」
「何だと!? 貴様、バカにして! もうこの世界にも慣れた! 一人でも生活出来る! 大体、誰が食事を作っていると思っているんだ!」
「でも字、読めないじゃん」
「ぐ……」
「電話も使えないし」
「ぐぬぬぬ……」
「ね?」
「もういい! 好きにしろ!!」
顔を真っ赤にして怒鳴り散らすと、背を向ける。
バルクホルンだって分かっている。東雲がいなければ、この世界で生活できない事を。
そして気付いてもいた。東雲の気遣いに。
ただ、自分が原因で気を使わせるのが嫌だった。
でも、その気遣いは今のバルクホルンにとって、
「……ありがとう」
感謝。
ポツリと、東雲に聞こえるか聞こえないかぐらいの、小さな声でつぶやく。
東雲はその後姿を静かに見つめていた。
バルクホルンは一歩、また一歩と歩き出す。ゆっくりと部屋へ向かって歩き出す。
と、少し進んだところで急に振り向いた。
「東雲。頼みがある」
2358時 農道
「コンタクトッ!」
唸る。
魔導エンジン『Juma213A-1』に一ヶ月ぶりに火が入る。
その唸りは今まで動かしてもらえなかった鬱憤を、晴らすかのように荒々しい。
ここはバルクホルンが一ヶ月前に不時着した農道。彼女は開け放たれた車のリアハッチに腰掛けながら、久しぶりに穿くストライカーユニットの感触を確かめていた。
──獣の咆哮
その形容こそがふさわしい。
バルクホルンはその咆哮に目を細めて聞き入る。
頼もしい愛機の声に心が安らぎ、そして昂ぶってくる。
──飛びたい
──飛ぼう
──空高く
甲高く唸る咆哮は彼女にそう語りかけているようだった。
バルクホルンもそう聞こえた。機械が語りかけてくるなど、有り得ないことだが、そう聞こえたような気がする。
もしストライカーユニットにしゃべる機能があるならば、間違いなくそう言っていただろうと思った。
「クリアード、フォー、ランウェイ!」
東雲がマグライトを振って、周囲に人、車両が来ていないことを知らせている。
バルクホルンの顔が上がる。
その表情は決意に満ちていた。
「油圧……正常。電圧……正常。フラップ……問題ナシ」
飛行前の点検項目を一つ一つ確認してゆく。
隣には心配そうな東雲の顔。何かに怯えたように固い表情で覗き込んでくる。
「……バルクホルン」
「そんな顔をするな。大丈夫だ」
「いや……その……戻ってくるんだよね?」
「? ああ、すぐに戻る」
東雲が何を心配しているのか分からず、不思議そうに返す。
バルクホルンからその答えをもらい、東雲は安堵の表情を浮かべた。
「東雲、離れていろ」
東雲が小走りに距離を取る。
バルクホルンが腰掛けていた車のリアハッチから腰を浮かせた。
──ホバリング開始
バルクホルンの手が車から離れる。
地面をなめるように浮き、滑走路たる農道の中央に移動する。
はずだった。
──転倒
不様に、これ以上ないくらい不様にバルクホルンが転ぶ。
宙に舞うはずだったストライカーユニットは、浮くこともなく重力に従い地面に着いた。
歩くことを前提としていない航空歩兵用のユニットで歩行は不可能。
バルクホルンも予想外の事態に反応が遅れ、そのままバランスを崩し、倒れた。
「!? バルクホルン?!」
東雲が駆け寄る。
倒れたまま動かなくなったバルクホルンを、手早く抱え起こす。
「バルクホルン! 大丈夫?!」
「……東雲……私は……今、飛べたか?」
「っ!? …………」
呆然と、虚空を見上げるバルクホルンの問いに、東雲は咄嗟に答えることが出来ない。押し黙り、目を背けることしか出来なかった。
「……そうか……もう、私は飛ぶどころか……浮くことさえ……」
バルクホルンの足から、ストライカーユニットが剥がれ落ちる。
無機質な音を立て、地面に転がるストライカーユニット。
それが引き金だった。
堰を切ったようにバルクホルンが涙を流す。東雲の胸に顔を埋め、声を上げて泣き出した。
今まで己が築き上げてきたもの全てをかなぐり捨てて、泣いた。
恥も外聞もなく、己の無力を嘆き、涙を流し続ける。
東雲はどうすることもできず、腕の中のバルクホルンが泣き止むのを、じっと待つことしかできなかった。