0012時 馬走湖畔
「…………」
バルクホルンは無言で夜空を見上げていた。
そこは彼女がこの世界に現れた場所。ただその一点のみを見続ける。
空にはどんよりとした雪雲が広がり、夜空に瞬く星々を見ることは出来ない。
(……やはり、もう……)
バルクホルンの顔が曇る。
この世界に来て早一ヶ月。
毎日この夜空を見上げ続けた。
しかし夜空は変わることはなかった。雲が空を覆い、雪を降らせるだけ。
(……帰れないのか)
帰りたい。
妹のいる元の世界。宮藤のいる元の世界。仲間のいる元の世界へ。
帰りたい。
強くなる願い。薄れゆく記憶。
この世界に来てからというもの、毎日が驚きと衝撃の連続だった。
時代のギャップ、文化のギャップ、技術のギャップ。どれもこれも彼女の常識の範疇を越えていた。
それに追いすがり、知識を蓄え、生活をこなすだけでも頭がパンクしそうだった。
日々新しい情報が濁流のように流れ込み、古い記憶を押し流す。そんな生活が続いた一ヶ月。
元の世界での生活が遠い昔のような、幻のようにも感じるようになってしまった。
──あきらめ
その一言がバルクホルンの心に浮かぶ。
この世界に流れ着いて一ヶ月。そう一ヶ月も経ったのだ。
それだけの間、行方不明になっているのだ。元の世界ではもう捜索も打ち切られ、『未帰還』として死者と同じ扱いになっているだろう。
バルクホルン自身、過去にそういった者たちを見てきた。どのように思い、扱ったのかもわかっている。
そしてその度に自分が何と言ってきたかも。
だが、当事者の心までは分からなかった。
そして今ならそれが痛いほど分かる。
──私はここにいる
見付けて欲しい。
ここにいることを伝えたい。
だが、その術がない。
空を飛べなくなった身が何と無力なことか。
くやしさに涙腺が緩む。
「うぅぅ~、さみぃ~……」
背後から東雲の声と雪を踏みしめる音。
バルクホルンは素早く目元を拭うと、振り返る。
「バルクホルン、一通り回ってみたけど特に変わったところはなかったよ」
「……そうか」
いつも通り間の抜けた声での結果報告。
気付かれてはいないようだ。
「……戻るか」
「そうだね。早く帰って暖まろう」
いそいそと車へ向かう東雲。
その後をバルクホルンはとぼとぼと付いて行く。
そして車に乗る前に、もう一度、夜空を見上げた。
1209時 第二学生食堂
「終わった~っ!」
学食の座席に座るなり、力尽き、机に突っ伏す東雲。
たった今、期末テストの全日程を終えたのだ。内容はともかく、受けるべきテストを全てこなした。
「よぅ、東雲。どうだった?」
「あ~、何とか答えだけは埋めてきたよ」
一足先に学食に着いていた山崎たちに、戦果を聞かれる。
元々勉強が好きな方ではない上に、バルクホルンとの生活が始まってから、なおさら勉強に割く時間が減っていた。
山崎たちからコピーさせてもらったノートのおかげで、一通り解答欄は埋めることができた。
後は野となれ山となれだ。
「とにかく、これでしばらく休める……」
期末テストが終わってしまえば、成績発表まで授業はない。
その成績発表まではかなり間が開く。追試さえなければ、このまま春休みに入っても問題はないぐらいだ。
「東雲、この後暇だろ?」
「まぁ、暇っていや暇だけど」
「テストも終わったことだし、みんなでカラオケ行こうぜ」
「おっ、いいね。行くよ」
「よし、決まりだ。バルクホルンさんもちゃんと連れてこいよ」
山崎にしてみれば、バルクホルンはもはやサークルの仲間だ。当然のように言い添える。
「わかってるって」
東雲にしても最初から連れて行く気である。
弾むような声で答えると、バルクホルンの待つアパートへ帰るため、いそいそと仕度を始めた。
1639時 カラオケ店
「だぁぁぁぁぁぁぁー!!!」
絶叫と共にアニソンを歌い上げる東雲。
エコーのかかった歌声が部屋の中に木霊する。
部屋の中には総勢9人のサークルの仲間たち。山崎がその後も誘い続け、都合の付く者たちで来ていた。
「ぷひぃ~、叫んだ叫んだ」
「東雲、うるさいぞ~」「ぞ~」
中川と小泉がブーイング。とは言っても顔はにこやか。いつもの東雲いじりである。
東雲もそこは心得ていて、わざと苦い顔を作ってお茶らけている。
「東雲さんマイクもらいますよ」
ちゃっかりとバルクホルンの右隣に陣取っている服部にマイクを渡すと、東雲は彼女の左隣に腰を下ろした。
部屋の中は和気藹々。仲間と共に過ごす時間を皆楽しんでいる。
バルクホルン以外は。
彼女は紅茶の入ったコップを包むように両手で持ったまま、ぼんやりと歌詞の流れる画面を見ていた。
「あ、そういや東雲」
「ん?」
ふと何かを思い出した山崎が、対面の東雲に声を掛ける。
「明日、空港まで送ってくれない?」
「ん、いいけど。もう実家に帰るのか?」
「バカ! 春から就活しなきゃなんないだろ。その準備だよ」
どうやら山崎は就職活動の下準備を、早々にすませる腹積もりのようだ。
確かに理に適った話ではある。
成績発表の後には、追い出しコンパがあり、卒業式では卒業生を見送らねばならないし、それが終われば自分たちの就職活動を始めねばならない。
日程は飛び飛びで、遠方から来ている者は実家に帰るタイミングがつかみづらい。であるならば、ここで早々に帰っておくのも一つの手だ。
「……帰る?」
山崎の言葉に反応したバルクホルンが、無意識にポツリとつぶやく。
「え? どうしたのバルクホルン?」
「……はっ!? いや、なんでもない」
東雲がバルクホルンの顔を覗き込む。
いつものように小動物のような目を向けている。
バルクホルンは慌ててその場を取り繕う。幸い何を言ったかまでは聞かれていないらしい。服部の歌声がかき消してくれたようだ。
「バルクホルンさん、何も歌ってないけどカラオケって初めて?」
バルクホルンの表情から、何かを感じ取ったらしい山崎が、優しく声を掛ける。
「ああ、初めてで……勝手が分からなくてな……」
「簡単よ! 画面の歌詞を曲に合わせて歌うだけだから」
「そうそう。歌ってみると楽しいもんだよ」
小さくなるバルクホルンに山崎と東雲が口々に薦める。
しかし、バルクホルンは益々小さくなるばかりだ。
「その……まだ、この国の字は読めないし……私の知っている歌もなさそうだ……」
((しまった!!))
東雲と山崎の顔が苦虫を噛み潰したものになる。
山崎は思い出す。スーパーでの一件を。字が読めなくて困っているバルクホルンに付き合って、買い物を助けたのは他ならぬ山崎自身だ。
東雲も思い出す。バルクホルンは現代の人間ではないことを。今のカラオケに入っているような曲など、知っている訳がないのだ。ましてや異国の歌ともなればなおさらである。
共に過ごすようになって一ヶ月。あまりにも自然にコミュニケーションが取れるので失念していたが、バルクホルンは実在しない国の、実在しない人間なのだ。
「すまんな……私のことは気にせず、楽しんでくれ……」
ぎこちない笑顔を東雲と山崎に向け、そして詫びる。
「…………」
「…………」
二人とも何と返して良いのか、わからなかった。
この一画だけが重苦しい空気に包まれる。服部は歌うの夢中で気付いていない。他のメンバーもこちらに目を向けていない。
バルクホルンのぎこちない笑顔があるだけ。ただ、その顔はいつもよりさびしげに見えた。
(クソッ!)
やおらリモコンをひったくるように後輩の荒井から奪うと、東雲は曲を探しだす。荒井は何事かといった目を向けてくるが、答えない。気にしている余裕などない。
(何か……何か……)
文字列を打ち込んでは消し、また打ち込む。
(あった! ……けど……ええい! ままよ!)
曲の予約。
荒井はまだ予約していなかったようで、すんなりと次の曲に収まった。
と、ちょうど良いタイミングで服部も歌い終わる。次に歌う予定だった荒井にマイクを渡そうとしたところで、東雲が声を掛けた。
「服部。マイクもらえるか?」
「え? あれ? だって東雲さん、さっき……」
「悪いな」
すまなさそうに後輩たちに詫びる。
服部は首をひねりながらも、マイクを渡してくれた。
そして東雲は受け取ったマイクを、静かにバルクホルンに差し出す。
「ねぇ、バルクホルン。一曲だけ、歌ってみてくれないかな?」
やさしく、静かに、諭すようにバルクホルンに語りかける。
「しかし、私は……」
バルクホルンが拒絶の言葉を言おうとした時、その曲の演奏は始まった。
今まで皆が歌っていた騒がしい曲とは違う、やさしい音色が部屋を満たしていく。
──ドイツ民謡『眠りの精』
バルクホルンの目が見開かれる。
聞き慣れた曲。昔よく聞いた曲。妹によく歌い聞かせた曲。
ウィッチとして軍に入る前の記憶が、濁流となってあふれ出す。
最愛の妹ととの思い出。
妹と駆けた野原。
妹と遊んだ小川。
妹と過ごした部屋。
「~♪ ~♪ ~♪」
無意識のうちに歌っていた。
その思いを形にするように歌を紡ぐ。
最愛の妹クリスに、その思いを伝えるように。
「~♪ ~♪ ~♪」
バルクホルンは歌い続ける。
やさしく、慈愛に満ちた歌声で。
さびしく、郷愁を誘う歌声で。
母国の言葉で歌い続ける。マイクも持たず、あふれ出る記憶に身を任せ、己の声を広げていく。
マイクを差し出したはいいが、受け取ってもらえなかった東雲。
バルクホルンの予想外のリアクションに呆気に取られる。それでも歌う彼女を見て、満足気に目を細めると、モニターに目を移した。
「~♪ ~♪ ~♪ …………」
バルクホルンは歌い上げる。妹への、仲間への、故郷への想いを胸に抱き。
そして東雲たちは拍手をもって彼女を迎えた。
「いや、よかった~、バルクホルンの歌える曲があって。探してみたけどドイツの曲って子守唄しかなくてさ……」
そこまで言って東雲が振り返り、止まった。
「馬鹿者……これも子守唄だ……」
──泣いていた
バルクホルンが。
開かれた双眸からは一滴また一滴と涙が流れる。拭うこともせず、ただ流れ出るに任せている。
それでも弱々しい声で東雲を叱る。
「バルクホルンどうしたの?!」
東雲が驚きの声を上げ、皆がバルクホルンの異変に気付く。一様に心配そうな顔を向け、口々に気遣いの言葉を掛けてくる。
バルクホルンもそれでやっと気付いたらしい。自分が泣いていることに。
「その、何でもない……顔を洗ってくる」
消えそうな声でそう言い置くと、ふらりと部屋を出て行ってしまった。
皆が呆気に取られていた。何が起きたのか、事態を把握することが出来ず呆然と見送る。
「……東雲。行け」
「へ?」
唐突に山崎が東雲に命じる。
何がどういうことなのか、理解できない東雲のマヌケ面。
そのマヌケ面が山崎の怒りに火を点ける。
「いいから! バルクホルンさんを追う!」
「え、でも……」
「バルクホルンさんは多分『ホームシック』なんだよ! さびしいんだよ! お前が選んだ曲が原因だろうがっ!!」
「そ、そうなの?!」
山崎から考えてもいなかったことを言われ、素っ頓狂な声を上げる東雲。
本当にそうなのか疑問に思う。他の人の意見を聞こうと皆を見回すが、皆も同じ意見らしい。語らずとも目がそう言っている。
「そーだよ! だから……とっとと行けーっ!!」
「は、はいーっ!」
山崎の剣幕に押された東雲は弾かれたように立ち上がると、ドタバタと部屋を出て行った。
「ったく、世話の焼ける……」