1524時 コーポ長島
(今日は何にし~よ~う~かな~♪)
スキップしそうな勢いで本棚へと向かう東雲。
足取り軽く跳ねて行く。身も心も軽く、今まで鬱屈していたのがウソのように心晴れやか。満面の笑みを浮かべている。
(どれどれ~。……ん?)
にこやかに棚を覗き込む。
が、ここで困った。
エロ同人を収めていたスペースに、エロ同人が一冊もない。代わりに教科書が鎮座している。
(しまった!?)
思い出す。
バルクホルン対策にエロ同人全てを隠したのだ。今は押入れの奥の奥。最深部のダンボールに収められ、カモフラージュとして詰められた夏物衣類の下に眠っている。
(だが、うろたえない! 日本の大学生はうろたえない!)
踵を返し、敷きっぱなしのせんべい布団へ。
やおら布団の下に手を突っ込むと、二冊の同人誌を取り出す。
先日、荒井から受領したばかりの同人誌。封も切られていない真新しい同人誌。受け取った時から、そのままの状態。
(切り札は最後まで取っておくものさ)
ニヤリと笑う。
全ては自分の行動の結果なのだが、そんなことは気にしない。
手には『エイラーニャ本』と『バルクホルン本』。迷うことなくエイラーニャ本のビニールに手を掛ける。
そして東雲はビニールを破いた。
待ち焦がれた時。
ビニールが破ける音は歓喜の声。勝利へのファンファーレ。
その音が東雲の心に染み渡る。
ついにこの時が来たのだ。
同時刻 東雲水力発電所 ※イメージです
(まだか……)
男は窓の外を見続ける。
視線の先にはダムに貯められた水。それは今もなお増え続けている。
一週間前から猛烈に降り始めた『欲望』という名の雨は、未だ衰えることなく降り続けている。
貯水量は当の昔に100%を越え、いつダムが決壊してもおかしくない状況。
このダムの建造が始まったのが21年前。稼動が始まったのが10年程前。男の人生はこのダムと共に在り続けた。
だが、未だかつてこのような状況は目にした事がない。男にとって初めての経験。
一刻も早く放水しなければならない。
だというのに放水命令は下されない。
男は焦っていた。
危険だ。
もし決壊するようなことがあれば、どれだけの被害が出るか想像もつかない。
(まだか……)
「東雲所長!」
「来たか?」
「ハイ! 放水できます!」
待てど暮らせど一向に下されなかった放水命令。それが今、下されたのだ。
男たちの顔に安堵の表情が浮かぶ。
しかし、彼らの本当の仕事はこれからなのだ。
所長と呼ばれた男が、顔を引き締める。
「行くぞ東雲くん! 放水準備だ!」
1529時 コーポ長島
「むふ♪」
読みふける。
一心不乱にエイラーニャ本を読みふける東雲。
同人誌の出来は期待に違わぬものだった。わざわざ通販を頼んだ甲斐があったというもの。
エロさ的には実用度の高いものではないが、そこがサーニャらしさをかもし出し、大変雰囲気が良い。かわいらしい絵柄と相まって、初々しさが出ている。
グッとくる。
東雲的に満足のいく一品。
出来栄えを確認すると、東雲は腰を浮かせた。
──第一拘束具 解除
──第二拘束具 解除
──第三拘束具 解除
東雲を縛り付ける理性を、一つ一つはがしていく。
あとは獣になるばかり。
「あ、あれ?」
間抜けな声。
獣になるはずだった東雲が、体の異変に気付く。
同時刻 東雲水力発電所 ※あくまでイメージです
「発電用タービン起動しません!」
「何ーっ!?」
予想外の事態に、発電所全体が浮き足立つ。
貯水量は十分、水門は開放済み。
だというのにタービンが起動しない。発電が始まらない。
想定外もいいところ。
「バカな!? そんな……そんなはずはない!」
1531時 コーポ長島
「何故だ……」
愕然とした表情で発電用タービンを見下ろす東雲。
今までこのようなことは起こったことはない。
「何故!? 何故!? 何故!?」
顔に浮かぶは恐怖の色。
脳裏をよぎるは、最悪の可能性。
──発電不能
それは男としての終焉。
男としてあってはならない不測の事態。それは死刑宣告にも等しい。
焦る。
焦る。焦る。焦る。
何度も何度もエロ同人を読み直し、タービンの再起動を促す。
好きなキャラ、好みの絵柄、好みのシチュエーション。不足しているものなど何もない。
しかし、動かない。
強制起動も試みるが反応がない。
「動け! 動け! 動け! 動いてよ! 今動かなきゃ……ん?」
その時、もう一冊の同人誌が目に留まる。
──『いや~ん お姉ちゃんのいちゃ×2ラブ×2 妹地獄』
後輩から渡された同人誌。
バルクホルンのエロ同人。
(もし……これでも動かなかったら……)
恐怖。
恐ろしい。動かないことが恐ろしい。
しかし、今は試すしかない。
確かめるしかない。
修理可能な故障なのか、それとも修理不可能な故障なのかを。
怖い。
確かめるのが怖い。
本当に動かなくなっていたら、この先どのように生きていけばいいのか、見当も付かない。
一縷の望みを託し、東雲は震える手でビニールを破った。
同時刻 東雲水力発電所 ※くどいようですがイメージです
「タービン起動しました!」
「よーし! 一気に発電しろ!」
発電開始。
生み出された電力は、加速度的に増え続ける。
無事、起動したタービンに所長以下全員が安堵と恍惚の表情を浮かべている。
発電量を示すメーターは順調に上がっていく。
「東雲所長。もうじき100%になります」
「早いな」
「随分溜まってましたから」
「貯水量はどうなっている?」
「もう一回発電できるだけの水量があります」
「うむ。ではもう一回だ」
1718時 コーポ長島
「……い、今帰ったぞ」
玄関からバルクホルンのかすれた声。
よろよろとふらつく足取りで部屋に入ると、倒れ込むように膝を着く。
「バルクホルン!? どうしたの!?」
東雲が慌てて駆け寄るが、急ブレーキ。
あと一歩で手が届く距離だが、入れない。その距離に入れない。
先程までの自分の行いが、頭の中でフラッシュバック。東雲の顔がマグマのように赤くなる。
「ま、まさか、フォークとスプーンが……あのような汚れた関係だったとは……」
「はあ?!」
心配そうに覗き込む東雲。
うわ言のようにつぶやくバルクホルン。
どうやらバルクホルンは、山崎たちの毒気にあてられSAN値をごっそりと削られたようだ。目はうつろ、顔色も悪く、うつむいて顔を上げられない。
「あ、あ~、バルクホルン?」
赤面したままの東雲が、それでもバルクホルンを気遣おうと、何とか声をかける。
その声でバルクホルンは失いかけた正気を手繰り寄せた。
東雲の声。男の声。そう『男』。
(ぬあぁぁぁぁぁぁぁあ!!!)
突如、猛烈に頭をかきむしるバルクホルン。
脳裏を駆けるは、山崎たちに教え込まれた『特殊な掛け算』。掛けてはいけない者同士を掛ける禁断の算術。
目の前の人物も数式に当てはめることが出来る。
「だ、大丈夫? 何かあったの?」
「……問題ない」
おろおろと、どうしたらいいのかうろたえる東雲。
そんな東雲を落ち着かせようと、深呼吸で心の平静を取り戻し、邪気を払うと、バルクホルンはゆっくりと顔を上げた。
そこにあったのは、いつも通りの情けない東雲の姿。
目元からは野生が抜け、チワワかプードル、いやハムスターかと思うぐらいに大人しい目になっている。
思わずおかしくなって口元が緩む。
「え? な、何?」
「大丈夫だ……なんでもない……」
東雲に向けられる安堵と慈しみの眼差し。
元に戻った東雲に安心感を抱く。
「!?」
不意に向けられたバルクホルンの弱々しい笑顔。
東雲の胸の奥が熱くなる。
再び思い出す。先程までの己の痴態。
後悔と恥ずかしさと罪悪感がごちゃ混ぜになって、東雲を苛む。
(お、俺は! なんてことを!)
自己嫌悪。
仕方なかった、必要悪だったと己を正当化する心を、バルクホルンの笑顔が打ち砕く。
東雲は自らの行為に恐れ、慄いた。彼女の顔をまともに見ることが出来ない。
そんなこととは露知らず、元に戻った東雲を見て、バルクホルンも落ち着きを取り戻し始める。
自分の定位置に付こうと立ち上がる。いつまでもへたり込んでいる訳にはいかない。
と、部屋の様子が微かに違うことに気が付いた。
「東雲、何故換気扇をつけているんだ?」
「え!?」
先ず気付いたのが換気扇。
ガステーブルの上、風呂場、室内用、部屋に取り付けられた全ての換気扇が全力稼動している。真冬であるにも関わらずにだ。
そのため室内はいつもより寒い。
「ふ、冬でもたまに換気したほうがいいかなぁ~と……ほら! また風邪ひくと悪いし」
「…………」
内心滝のような汗をかきながら、適当に思いついたことを口に出す。
誤魔化せたのか分からないが、バルクホルンの追撃はない。
しかし、彼女の目は忙しなく動き続ける。
心臓の鼓動が跳ね上がる。
これ以上何かに気付かないようにと、ビクビクしながら祈った。
が、
「……何か匂う」
「!?」
バルクホルンの鼻がひくりと動いた。
「にお……い? ど、ど、どん……」
「……ミントか?」
心臓に悪い。
跳ね上がった鼓動が急停止。未来永劫動かなくなるのではないか、という勢いで止まるところだった。
バルクホルンが気付いたのは消臭剤の香り。それに含まれていたミントの成分。
帰り際に大学の購買で買ってきた消臭剤。東雲はそれをまるまる一本、部屋にばら撒いたのだ。気付かない訳がない。
「そう! ミント! ミント! 冬場は寒くて換気出来ないだろ? 匂いもこもるし! だから匂い消しを!」
「匂う……か?」
「うんうん」
「そう……か……」
バルクホルンの顔がどんよりと曇る。
理由は分からないがバルクホルンが落ち込んでゆく。
「あの、バルクホルン?」
「……つまり貴様はこの二時間、部屋の換気をしていたと?」
「……ま、まぁ」
「それも私に隠れてだ!」
「い?! ちょ?!」
一転、烈火の如く怒り出すバルクホルン。
話のつながりが見えず、うろたえる東雲。
「臭いなら臭いと何故言わんのだ!」
「な、何?! なんの話?!」
「東雲! 私はこれから風呂に入る!」
「え???」
「さっさと向こうに行かんかぁーっ!」
怒鳴り散らして東雲を追い払うと、天井からぶら下がるシーツこと『ベルリンの壁』で部屋を区切る。
「え?! 何?! 何なの?!」
訳も分からず追い払われた東雲。そのまま呆然と立ち尽くす。
だが、バルクホルンは東雲の疑問に答えることもなく、さっさと風呂に入ってしまった。
(馬鹿者が!)
その日、バルクホルンの風呂はいつもより長かった。