──かに
それは北海道のグルメ
──カニ
それは美味なるもの
──蟹
それは高価なもの
0855時 大丸水産
「おはうようございまーす!」
「おはよう」
「おっ、来たね。東雲くん」
いつもは出さないような大きな声で東雲があいさつすると、藤田は朗らかに二人を迎えてくれた。
藤田の店『大丸水産』
オホーツク海で獲れる海の幸を扱う店。その中でも特に『タラバガニ』と『毛ガニ』に力を入れている。その他の海産物も扱ってはいるがやはりメインはカニ。専門店と言っても差し支えないほどだ。それを証明するかのように、店の中央にはカニのみが泳ぐ巨大な生簀が鎮座している。他の商品は店の片隅に申し訳程度にちょこんと陳列されている。
個人経営ではあるものの、馬走では名の通った店。そして藤田はこの『大丸水産』の社長である。
「助かったよ。珍しく団体さんが立て込んじゃってね」
「はぁ、『団体』ですか……」
藤田の店は特別大きい訳ではない。どちらかというと、コンパクトにまとまった印象。
そこに『団体』といわれてもピンと来ない。
(20人くらいかな……)
漠然とめぼしをつける。
「で、私たちは何をすればいいんだ?」
やる気満々といった感じでバルクホルンが、藤田に尋ねる。
「おっ、やる気があっていいねぇ。やってもらいたいのは、発送の手伝いと掃除とかの雑用なんだわ」
「ふむ」「あっ、なるほど」
「言われた通り動いてくれればいいから。販売はウチの従業員がするし、特に難しいことはないよ」
カラカラと藤田は笑うと、従業員との面通しと仕事の説明をしてくれた。
1002時 大丸水産
「社長、お着きですぜ」
「おう!」
団体客が来るまで、事務所でお茶を飲んでいた従業員一同。
番頭から到着の報せを受け、全員が立ち上がる。和やかな顔から一転、表情に気迫がこもる。
そんな中でも空気の読めない男が一人。
(ふぅ~、この調子なら何か楽勝っぽいな~)
お茶の時間の間にすっかりほだされてしまった東雲。呆けた顔で従業員の後に続く。
「東雲、仕事だぞ。シャンとしろ」
「ん~、大丈夫だよバルクホル……ん?!」
足が止まる。
目に入った店内の光景に、我が目を疑った。
(な、なんじゃこりゃぁー!?)
声に出そうになるが、寸でのところで踏み止まる。
店内には二台の大型観光バスから吐き出された90人弱の観光客が、カニの生簀を十重二十重に囲んでいる。東雲の位置からではもはや生簀は見ることが出来ない。
店内は観光客でギッチリ。というか、あふれて入るのをあきらめた人もいる。
(何でこんな真冬に、こんなに観光客が来るんだ?!)
北海道観光と言えば夏がピーク。しかし、夏の一時だけの収入では観光業者の生活は回らない。そのためどこの自治体でも、冬に観光客を呼ぶのに必死だ。
冬の北海道観光の成功例としては『札幌雪祭り』がもっとも有名だろう。開催期間中の一週間で240万という観光客を呼び寄せている。
各自治体はこぞって二匹目のドジョウを狙うが、成果を上げたものはごく少数。
馬走も雪祭りを開催したのだが、その成果は芳しいものとは言い難い。
では馬走市は何で観光客を集めているのか?
答えは『流氷』
オホーツク海に面した馬走には、毎年一月下旬になると北から流氷が流れ着き、海岸を氷で埋めてしまう。
その氷で閉ざされた海を、砕氷船に乗って眺めるのが『流氷観光』の楽しみ方。流れ着く流氷は、アザラシなどの動物も一緒に運んでくるので、それら野生動物を楽しむことも出来る。
砕氷船から見ることは出来ないが、流氷と共に流れ着く生き物では『クリオネ』を忘れることは出来ない。『流氷の天使』のキャッチフレーズで流氷観光の一翼を担い、その愛らしい姿で人々に人気を博している。ちなみに「美味い物ではない」らしい。
「ふ、藤田さん?! 藤田さんは何処に?!」
「落ち着け東雲。あそこだ」
バルクホルンが指差すのは人垣の中心。水槽の脇に陣取った藤田が、威勢の良い声で観光客に売り込んでいる。
「さあっ! 奥さん! 一つどうです! うちのカニは馬走一だよ!! ほら試しに食べてみて!」
「んまっ! 美味しいわぁ~」「タラバは一味違うわねぇ~」「でも、やっぱりお高いわ~」
試食として出された細切れのタラバガニを、瞬く間に食べ尽くすと、チラと水槽を覗く中高年のおば様軍団。
水槽の中には一杯ごとに値札を着けたタラバガニが悠々と泳ぐ。そしてその値札には『10000』とか『8000』とか書かれているのである。
「奥さん! 大丈夫! ウチね、足だけでもやってるから!」
首尾良く用意しておいた冷凍タラバガニの足を、おば様軍団の前に出す。
「ねっ! これならお値段も半分!」
「あら~、じゃあ一ついただこうかしら」「私もいただくわ」「でも、せっかくだから私は一匹モノにするわぁ」
「毎度っ!」
次々に客をさばく藤田。他の社員も皆、懸命に売り込んでいる。
それもそのはず、タラバガニや毛ガニの値段は高く、常日頃からポンポン売れるものではない。だが『観光客』は比較的財布の紐がゆるい。『せっかくだから』とか『旅の思い出に』と考え、高価なものでも『その地の名物』には金を払いがちだ。
だから藤田たちにとって、財力があり、金払いの良い『中高年の観光客』は上客中の上客。一人たりともおろそかにすることは出来ない。
「俺たちもアレ……やるの?」
「販売は社員がやると言っていたはずだが……」
呆然と東雲がつぶやき、バルクホルンが渋い顔を作る。
二人とも考えることは同じ。いきなり藤田のマネをして、売れと言われても出来るものではない。
どうしたものかと思案にくれていると、後ろから声を掛けられた。
「おう! 若いの!」
「あっ、番頭さん」
「お前ら二人とも、これ持って社長の脇に行け」
この店の番頭である初老の男性が、東雲とバルクホルンそれぞれにクリップボードを押し付ける。
「いいか? ここにお客さんの『名前』と『住所』を書いてもらえ。それとこの欄に注文を書くんだ」
発注書と書かれた紙に目を落す。
紙には『名前』『住所』『注文』の他に、『到着指定日』の項目がある。
売れるとは言っても、そのまま持ち帰る観光客は極わずか。その日のうちに帰るならいざ知らず、彼らはこの後も色々と見て回るのだ。生物であるカニを持って歩く訳にはいかない。だから彼らが家に帰る日に合わせて、宅急便で送る必要がある。
「売るのは社長がやる。お前らはお客さんにこれを書いてもらうだけでいい」
「は、はぁ」
「書き漏らしがないか、よく確認しろ。わかったな?」
番頭がきつく念を押す。
発注書に記載ミスや漏れがあれば、一大事。発送が出来ないという事態にもなりかねない。
お金はここで払ってもらうので、そうなれば詐欺である。店の信用問題に関わる一大事なのだ。
「すまない。私は扶……日本語の読み書きが出来ないのだが、どうすればいい?」
(あっ! 忘れてた……)
番頭にハッキリと伝えるバルクホルン。
日本語が読めないのでは確認のしようがない。
虚を突かれた番頭は、しばし顔を歪ませた。
「仕方ねぇ。嬢ちゃんには何か別な仕事をやってもらう。若いの! テメェはとっとと社長んとこ行きやがれ!」
「は、はいっ!」
観光客の群れに突撃を敢行する東雲。
目指すべき藤田がいるのはこの向こう。この人垣を越えなくてはならない。
だが、観光客の人ごみに、もみにもまれて流されて、行き着く時はいつになるやら。前に進めず右往左往。
「あれは……大丈夫、なのか?」
「嬢ちゃん、彼氏が心配かい? 大丈夫だよ。すぐ慣れらぁ」
「別に心配している訳では……!?」
普通に受け答えようとして、はたと止まる。
えも言われぬ、むずがゆい表情を番頭に向ける。
「っ、誰が『彼氏』かぁっ?!」
「違ったのかい?! 俺ゃまたてっきり」
日本語の『彼氏』には『恋人』の意味があることを、思い出したらしいバルクホルン。
反射的に番頭に食って掛かる。
「断じて、違う!」
「かぁ~、見た目通りに情けねぇ野郎だなぁ。俺があと30……いや、20若けれりゃ嬢ちゃんみたいな子を放っとかねぇのに。手ぇ出さねぇとか、ふてぇ野郎だ」
「出さなくていい! 第一、今は仕事の話をするのだろう!」
「おっといけねぇ。じゃあ、こっちに来てくれ」
1139時 大丸水産 店内
「若いの! カニが茹で上がるぞ! ざる持って来い!」
「はいっ!」
「バイト! 氷だ!」
「はいぃぃ!」
「発泡スチロールも持って来い!」
「はひぃぃぃぃ!」
観光客も引けて一段落。
などと言うことはなく、店内は別の仕事で慌しい。
今度は発送の準備に取り掛かる。今、準備しているのは先程の観光客の分ではなく、それ以前に注文をもらった分。
段取りの分からない東雲。まごつく。段取りどころか、店の配置すら掌握しきれていないのだ。スムーズな仕事が出来る訳がない。
「早くしろっ!」
「すんません! ……あっ!」
──足がもつれた
社員に煽られ、慌てるあまり足元がお留守になっていた。バランスが崩れ、視界が傾く。
(や、ば……)
手が伸びる。
寸でのところで、バルクホルンが東雲の体を受け止めてくれた。
右手一本で受け止めたバルクホルン。そのまま東雲をまっすぐに立たせる。
東雲がゆっくりと振り返ると、ビニール製のエプロンと長靴に身を包んだバルクホルンが、咎めるような眼差しを向けていた。
「気をつけろ東雲。これは私が持って行くから、お前は他の物を用意しろ」
「う……うん」
東雲が持っていた、ざるの山を持ち上げると、バルクホルンはさっさと社員のところに行ってしまう。
あとには立ち尽くす東雲だけが残された。
(……情けないな……俺)