―――――月詠
ふわふわと。
まるで波間に漂うように。
今まで生きてきた中で、この数カ月は――とても落ち着いた眠りに堕ちている。
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「おはようございます~」
そう朝の挨拶をすると、
「おー。おはよう、月詠」
そう返ってくる。
それがどれだけの意味を持つのか……それに、どれだけの意味があるのか。
今までの生活には無かった事。
でも、今はすぐ身近にある事。
「ん? どうかしたか?」
「……いえ~」
そう首を振って否定し、机を挟んで、お兄さんの正面に腰を下ろす。
テレビを見ていたんだろう、邪魔にならないように少し避けて。
「いつも、朝はお早いですね~」
「そうか?」
「はい~。御迷惑をおかけします~」
そう思うなら少しは手伝いの努力をしてくれ、という声を聞きながら、机の上の急須から、お茶を注ぐ。
その声は、事の他優しくて、耳に残る。
お人好しの善人。
だが、誰よりも弱いお兄さんを見ながら、注いだ茶を一口啜る。
「それより、学園の方には慣れたか?」
「あ~……まぁ、それなりには……」
そこは、少し歯切れが悪くなってしまう。
どう接すれば良いのか判らない、というか。
どこまで接して良いのか判らない。
「珍しく、歯切れが悪いな」
「そうでしょうか~?」
「いつもは、もっと駄目なら駄目ではっきり言うだろう?」
そうだろうか?
――そうなのかもしれないな、と心中で呟き、茶を啜る。
「そうでしたか~?」
「まぁ、俺がそう思っただけなんだけどな」
気を悪くしたらすまん、と一言謝り、その視線は私を向く。
私の眼を見ながら、このお兄さんは話す。
どんな些細な事でもだ。
私の眼を見て、私に話しかけてくる。
それが、少しだけ――何と言うか、心地良い。
今まで、そうやって話してくれた人が何人居ただろうか、と考えなくても判る事を考えながら、意識を逸らす。
――そうやって見られると、何もかもを知られそうで。
実際は、そんな事はお兄さんには出来ないのだけれど。
「友達は出来たか?」
「……良くお話をするような人なら~」
「そうかそうか」
そりゃよかった、と。
「ま、ここの手伝いより、学園生活を楽しんでくれれば、それで良いか」
「……ええんですか?」
「それが学生の仕事だからな」
良く判りません、と呟きお茶請けの煎餅を袋から一枚取り出し、齧る。
「朝食前にお菓子を食べるのは止めるように」
「……はぁい」
早くあの犬は起きてこないのか。
最近は本当に、朝が遅くなったと思う。
いや、ちゃんと気は張ってるんだろうが――気が緩んでいる。
それも、ここが麻帆良……一人じゃないからか。
そう思うと、小さく溜息が出てしまう。
……何時までも、ここに居られるわけでもないのに。
「今日の朝はなんですか~?」
「それは、小太郎が起きてきてからのお楽しみだ」
残念です~、と呟き……手持無沙汰に、床に落ちていた本を一冊手に取る。
……何かの教材何でしょうけど、何の教材なのかは判らない。
「どうかしたか?」
「……数学、じゃありませんよね?」
「…………科学だよ」
「はー」
科学ですか~、と。
……お兄さん、数学の先生ですよね?
「何で科学の教科書なんて持ってるんですか~?」
「そりゃ、お前も小太郎も、勉強が全然だからなぁ」
「? どうして、ウチと小太郎さんの名前がそこで出てくるんでしょうか~?」
そう首を傾げると、小さく溜息。
……変な事は………言ってない、と。
そう心中で呟くが、続いてお兄さんに小さく笑われて、むっとしてしまう。
「そりゃ、俺は教師で、お前達二人の保護者みたいなもんだからな」
「?」
「今まで勉強なんてしてこなかったんだろ?」
「……はぁ」
必要ありませんでしたから~、と。
学校での勉強なんて、役に立たない世界で生きてきた。
足し算引き算、そしてある程度の語学力。
生きていくのに必要最低限だけの知識は、生きているうちに、何とか手に入れた。
それを教えてくれた師は、もう居ない。
ウチを斬ろうとしたから、私が斬った。
小太郎さんが、知識というものをどうやって身につけたのかは知らない。
もしかしたら親が居るのか。
それとも、ウチみたいに誰かに教わったのか。
「折角一緒に暮らしてるんだからな」
「なるほど~」
「……迷惑か?」
そう聞くくらいなら、最初に聞けば良いのに、と思うのは変だろうか?
それとも、ただ単に、いま思いついただけなのか。
まぁ、そのどちらでも――そう変わらないか。
「ウチは別に構いませんえ~」
「そうか?」
「はい~。クラスの皆さんと一緒に居るのは楽しいですし~」
勉強が出来るなら、もう少しは楽しくなるでしょうし、と。
そう言うと、嬉しそうに笑われてしまう。
……お兄さんは、こういう所は――何と言うか、大人らしくない。
そう思う。
子供っぽいとは思わないが、大人らしくない。
ウチが知ってる大人とは違う。
そんな感じ。
汚くて、自己中心的で、腹ん中が真っ黒な人ら。
それがウチが知ってる大人。
そんな大人ばっかりやないとは判っているが、少なくとも、今までウチの周りに居た大人は皆そないな人達。
だから、お兄さんはお兄さんで。
だから、お兄さんは大人らしくない。
「でも、ええんですか~?」
「ん?」
「お仕事、大変なんやないんですか?」
そう言うと――また、嬉しそうに笑う。
「大変なんかじゃないから、気にしなくて良いよ」
「そうですか~?」
「そんなの気にしなくて良いんだよ」
そう簡単に言いますが、お仕事大変なんやないですか?
帰ってくるのも生徒のウチらより遅いですし。
夜は遅くまで起きてますし。
朝は早いですし。
そのうえでウチらの勉強を見る?
「勉強できないと、補習とかで居残りもあるだろうし」
「居残りは嫌ですね~」
「だろ?」
お姉さんの別荘で修行が出来なくなりますし。
それは小太郎さんも嫌だろう。
何だかんだで、口は悪いが、お姉さんは一級の魔法使い。
学ぶ事は多い。
麻帆良に来て良かったと思える事の一つだ。
「という訳で、今夜からでも、少し勉強するか?」
「今夜、ですか?」
「晩ご飯の後に、少しずつな」
なるほど、と。
それならそう時間を取られずに済む、と内心で頷く。
「ウチは構いませんえ~」
「そりゃ良かった」
後は小太郎か、と。
その呟きを聞きながら、
「疲れません?」
ふと、そんな事を聞いてしまった。
「ん?」
無意識にか。
それとも心底からそう思ったのか。
「ウチらの相手、疲れません?」
「この生活がか?」
「この生活も、です」
生活も、付き合いも。
家族と呼ぶには遠く、
他人とも――今はもう、呼べないような、曖昧な関係。
この関係を聞かれるなら……第三者からは、どう見えるのか。
だが、そう聞くのも変だろう。
だから、この“変な関係”は――。
「月詠、マクダウェルか、女子寮か……別に暮らすか?」
「……どうして、そないな答えが出るんですか?」
「いや、やっぱり男と共同生活は嫌なのかな、と」
……その答えに溜息を吐き、冷めかけたお茶を一口啜る。
「ウチの事やなくて、お兄さんの事ですえ?」
「俺?」
「……ウチや小太郎さんみたいな物騒な子供と一緒で、気が疲れません?」
「ああ」
そこでやっと、得心が言ったように一つ頷き、
「そこは、月詠と小太郎を信用してるからな」
「……はぁ」
そう、一つ息を吐き、
「信用するにも、限度があるでしょうに」
――そう言い、視線をお兄さんに向ける。
そこには……お茶を飲みながら、少し考え込むお兄さん。
言い過ぎたやろか、と。
だが、言わずに居られなかったのでしょうがないと言い聞かせ、視線をお兄さんに向けたまま、次の言葉を待つ。
しかし、そこにあまり慌てた様子が無いのが――。
ウチも、小太郎さんも。
十二分に怪しいと思う。
この共同生活が始まって、それなりの時間が過ぎたが……いまだに、殆ど自分らの事は喋って無いし。
「なぁ、月詠」
「なんですか?」
「……信用する、信用しないは人それぞれの自由だと思うんだ」
「はぁ」
そうですね、と。
「だから、まぁ。これは俺の考えなんだが」
そこで言ったん言葉を切り、
「信用する事に限度なんかあるのか?」
「―――――どうでしょうか?」
信用する。
その事に限度があるかどうか、と。
普通の人は、信用するのは一度だけだろう。
二度目は無い。
――それが、きっと当たり前だ。
それか、一度も、誰も信用しないのか。
「信用してもらえないなら、信用してもらえるようになれば良い」
「……極論ですえ」
裏切るような大人なんか、世に溢れているというのに。
裏切ろうと、信用を得ようと、嘘で固まった大人が多いのに。
「裏切られたらどないするんですか?」
「そこは、俺の人を見る目次第だなぁ」
そう、またウチの眼を見ながら。
「……お兄さんの目が、節穴じゃない事を祈っときますわ」
ウチらは、お兄さんを信用しきれていない。
そして、お兄さんはウチらから信用してもらおうとしている。
それだけの事。
――なんだと思う。
「そうしてくれ」
その声を聞きながら、冷えてしまったお茶を一口啜る。
信用の限度。
それは、どれほどなのか。
どれほど――お兄さんは、ウチらを信用してくれるのだろうか。
嘘だらけの大人。
嘘の無い子供。
――そのどちらでもない“お兄さん”。
「……小太郎の奴、全然起きてこないなぁ」
「まったくですね~」
ウチは、いつかお兄さんを裏切るんだろうか?
……馬鹿らしい、と一笑する。
「起こしてきましょうか~」
「んー?」
その視線が、時計に向き、
「もう少し時間には余裕があるけど、腹減った?」
「女の子にそんな事を聞くのはマナー違反ですえ~」
「そりゃ失敬」
そう言って、立ち上がるお兄さん。
そのまま小太郎さんの部屋の方へ歩いていくから、起こしに行くんだろう。
その背に視線を向けながら、ぼんやりと――。
「お兄さん」
「ん?」
どうしてそう呼んだのか。
……きっと、無意味な事だ。
そう。
意味の無い、呼びかけ。
でも、その呼びかけには、確かに返ってくる“声”がある。
「何でもありません~」
「? とりあえず、小太郎を起こしてくるぞ?」
「お願いします~」
お兄さんが信用できるか、出来ないか。
今はまだ、判らない。
でも――。
「……おはよー」
「相変わらずネボスケやねぇ、お犬は」
「うるへ……挨拶くらい返せんのか?」
「はいはい」
起き出した小太郎さんの後ろで、苦笑いのお兄さん。
「おはようございます、小太郎さん」
「……おー」
こうやって挨拶のある毎日。
今はまだ、この毎日があるならそれで良いか、と。
そう思う。