んー、っと。
「ちょっと待っててくれ、なんか拭くもの取ってくるから」
「はいは~い」
びしょ濡れの女の子を連れてきたのは良いが……いや、あんまり良くないけど。
とりあえずはまずは拭く物だよな。
濡れたまま部屋に上がられてもまずいし。
部屋に上がり、脱衣所へ。
えっと、タオルタオル、っと。
「あ、っと」
適当なタオルを数枚取り、玄関に戻る。
「はい、これ使って」
「どうも、すませんえ~」
「ん。すぐ着替えるから、ちょっと待っててくれるか?」
「はいな~」
上着でくるんでいた子犬をリビングの床に静かに下ろし、まず先に簡単に着替えてしまう。
うわ……明日、クリーニングに出さないとな。
スーツも予備のがあるから良いけど、これは痛いな。
そう苦笑し、部屋着に着替えて
「拭いたら、上がってきてくれー」
「はーい、しつれいします~」
さて、と。
この子犬……どうしよう?
とにかくまずは拭かないとな。
濡れてたら冷えて病気になるかもだし。
用意していたタオルで子犬の怪我に触れないように、雨を拭っていく。
んー……怪我は、そう酷くはないのかな?
血は出てるけど……でも、子犬だし、破傷風とかもあるかも。
「小太郎はん、どないな調子です?」
「ん?」
小太郎?
「この子の名前?」
「はい~、確かそんな名前やったかと」
「首輪はついてないけど、飼い犬なのか――?」
俺の隣に座りながら、子犬の傷口を無造作に触る少女。
「ちょちょ、痛いんじゃないかな?」
「これくらい掠り傷ですえ」
「そうか? でも、痛いのには変わらないと思うけど……」
「男の子は、その辺りは気にしないもんですえ~」
何と言う理論。
むぅ……男らしい女の子だなぁ。
「これでも、傷には結構詳しいんですえ~」
任せて下さい、と。
何だそりゃ?
傷に詳しいって……そんなに、あっさり言うような事かな?
「あーあー、まぁ、この程度なら大丈夫でしょ」
「……そうなのか?」
「多分、うちを庇った時に、どっかにぶつけたんでしょ」
うぅむ。
でもまぁ、子供の見立てだしなぁ。
やっぱり動物病院に連れていった方が良いよな。
「それより、何か食べるのありません?」
「ん?」
「お腹がペコペコなんですわ~」
ぬ……そう言えば、今何時だっけ?
携帯を手に取り時間を確認すると……確かに、もうそろそろ夕食時か。
「君は、家は?」
「ありまへん」
「ん?」
無い?
どういう事か測りかね、首を傾げると。
「京都から来たばっかりなんですわ」
「京都!? ……一人でか?」
「その子と一緒にですわ」
そう言って指差したのは、今は静かに寝ている子犬。
……子犬と京都から? 中学生、くらいだよな?
この時期に京都から……?
「誰か、こっちに知り合いは居るのか?」
「んー……近衛のお嬢様と、先輩なら、知り合い、って言えますかね?」
「近衛と……先輩?」
近衛は判るけど、先輩って誰だ?
「えーっと、刹那先輩って言えば判ります?」
「ああ。桜咲か」
「あ、判りましたか~」
良かったです~、と。
両手を軽く叩いて合わせ、本当に嬉しそうに笑う。
うーむ、しかし何と言うか……独特な喋り方をする子だなぁ。
「わざわざ京都からネギ先生を訪ねてきたのか?」
そんな事を思いながら、立ち上がる。
何か食べるのあったかな……弁当買うの忘れてたから、少し困った。
確か買い置きのパンがあったと思うけど。
「はい~。それに、こっちに来た方が面白そうでしたし~」
「何かあったっけ?」
んー……面白い事ねぇ。
もしかしたら、麻帆良祭か?
でも、まだ結構先だしなぁ。
使っていないキッチンに行き、パンを探す。
えーっと、確か……あったあった。
「パンで良いかな?」
「ええんですか?」
「おー。少し食べたら、近衛の所に連れて行くよ」
その時ついでに、那波と話すか。
病院を探すのは、パン食べてる時にでも……。
そう考えながらリビングに戻ると、
「……………………」
「あ、すいません~」
えーっと……。
あれ?
俺の目がおかしくなったのかな?
目頭を揉み解し、もう一度見る。
……あれ?
「どうかなさいましたか、センセー?」
「あー、いや……誰?」
なんか、女の子の隣に、男の子が寝てた。
裸で。
……いや、本当に誰?
「小太郎はんですえ~」
え? いや……あれ?
それって子犬の事じゃ……え?
「パン貰ってええですか~?」
「あ、うん。どうぞ……こんなのしかなくて悪いな?」
「いえいえ~、貰えるだけで御の字ですわ~」
突っ立ったままそう返事を返し、茫然と寝ている少年を見てしまう。
苦しいのだろう、明らかに顔色悪いし。
汗もたくさんかいている。
それに――
「あ、ジャムかなんかありません?」
「へ? あ、ああ……キッチンの方に」
「失礼しますね~」
俺の脇を抜け、キッチンに向かう少女を目で追い……もう一度少年を見る。
名前は、小太郎と言うらしい。さっきまでいた子犬と同じ名前である。
……いやいやいや。
そう首を振り、周囲を見渡す。
――やっぱり、子犬の姿は何処にも無い。
無いのである。
消えてしまった……代わりに、この男の子。
「っと」
まずは、そんな事を考えてる場合じゃ……あるんだけど、今は良い。
顔色も悪く、汗をかいている少年を見る。
まずは拭いて……服も着せないとな。
俺ので良いか。かなり大きいだろうけど、裸よりはマシだろうし。
「どこにあります~?」
「あ、えっと」
少女にジャムの場所を口で説明しながら、再度脱衣所へ。
新しいタオルを数枚用意し、それで少年を拭いてやる。
「ありました~」
「ちょ、ちょっ!? もう少し、向こうに行っててくれるかな?」
「? わかりました~」
びっくりしたぁ。
あの子、羞恥心とかないのかな?
一応、裸の男が居るんだけど……と、今は良いか。
この子も同年代の女の子に裸なんて見られたくないだろうし。
急いで着替えさせよう。
服は……っと。
これは困ったな――なんか、変な事になってきた。
犬が男の子になったんだ。
……那波にどう説明しよう? 逃げたってでも言おうかな?
と軽く現実逃避しながら、小さく溜息を吐く。
信じてもらえる訳ないよなぁ……。
・
・
・
ガツガツと、まさにそう表現できる勢いで、コンビニから買ってきたおにぎりやらパンやらが少年の胃袋に消えていく。
……良く食うなぁ、と。
その光景をテーブルを挟んだ反対側から眺めながら、心中で呟く。
「お茶っ」
「ほら」
一緒に買ってきたボトルのお茶を手渡し、小さく溜息。
「さんきゅ、兄ちゃんっ」
本日何度目になるか、もう両手の指で足りない数は吐いたはずの溜息を、吐く。
ちなみに、この犬少年と一緒に居た少女は、その隣に座っておにぎり二つ目である。
良く食う子達だ……。
「なー……えっと」
「そう言えば名乗ってまへんでしたね。ウチは月詠ですえ」
「月詠? フルネームは?」
「んー。今はただの月詠と、そう呼んで下さいな」
? どういう事だろう?
まぁ、本人がそう言うなら、そう呼ぶけど。
「寒くないか?」
「大丈夫ですえ、拭きましたし。ありがとうございます~」
なら良いけど。
流石に女物の服は無いからな……ご飯食べ終わったら、早くネギ先生の居る女子寮の方に行くか。
最近は暖かいけど、濡れた服着てたら風邪ひくだろうし。
まぁそれは置いておいて。
で、と。一言挟み。
「なぁ、月詠。犬って人間に変身するのか?」
「なんや兄ちゃん、もしかして一般人なんか?」
……一般人?
また、妙な言い方だなぁ、と。
普通はそんな言い方はしないだろう――まぁ、普通は、だけど。
その一言が、余計にこの子達が、少しだけ“違う”のだと、教えてくれる。
多分、小太郎の中ではちゃんとした線引きがされてるんだろう。
一般人と、少し違う人達との線引きが。
「ああ」
だから、特には何も聞かずに頷いておく。
まだの子達の事を何も知らないんだし。
……知って手遅れになったら、と聞かれたら――まぁ、何とか逃げるかな、と。
ここは職員寮だし。
そう目立った事もしないだろう、と思うのはきっと楽観的すぎる考えなんだろうけど。
「あかんあかん。何やってたんや、月詠」
「怪我して倒れてたのは、小太郎はんの方やけどな~」
「……ぐ、誰のせいやと」
「あんさんが弱いからですわ~」
いや、2人で勝手に話を進めないでくれないか?
俺も、最後のおにぎりを食べながら、もう一度心中で溜息。
普通は、犬は人間に変身しないと思うんだがな……漫画や映画じゃあるまいし。
これじゃまるで――物語の中の狼人間である。
でも、この2人をそう危険に感じないのは何でだろう?
子供だからか?
いや……それでも、この二人は危ないと思うんだけど……むぅ?
「どないしたん、兄ちゃん?」
「あー、いや。それで、小太郎の方は怪我は大丈夫か?」
「ん? ああ、まだ結構痛いけど――」
「よわ……」
「なんか言うたか、剣も持ってない役立たずがっ」
「いえいえ~、女の子一人も守れない番犬さんには何も~」
「……ぐっ」
……仲良いなぁ、と。
なんか、神楽坂と雪広に似てる、と思ってしまった。
何となくだけど。
「あー……なぁ、2人とも?」
「なんや?」
「なんです?」
はいはい、こっちを睨むなよ。
でもそれをあんまり怖いと感じないのは――マクダウェルに慣れたからかなぁ?
……それはそれで失礼だな、すまんマクダウェル。
心中で頭を下げながら、なんか学校の続きをしているように感じるのは、何でだろう?
やっぱり、この2人が子供だからだろうか?
「物を食べる時は、あんまり喋らないように」
口の中の飛び散るから。
特に小太郎。
お前は酷い。
とりあえず、すでに飛び散ってしまったご飯粒を布巾で拭いていく。
「う、わ、判った」
「失礼しましたえ」
まったく。
これじゃ本当に、子供の世話だ。
色々聞きたい事はあるけど、とりあえずは食べてしまうまで待つ事にする。
急いで聞いても、この調子じゃ上手く話してくれないだろうし。
俺も、まだあんまりさっきの小太郎の事を信じ切れてないし……俺も落ち着きたいのだ。
窓から外を見ると、雨粒が窓を叩いている。
結構ひどいみたいだ……これは、明日まで続くかな。
テレビを付けて、天気予報にチャンネルを変える。
「明日も雨かぁ」
「雨は嫌いです?」
ん?
小太郎の隣に座っていた月詠が、そう聞いてきた。
まぁ、話題を振ってきただけ、とも思うけど。
「いや、好きだけど……明日も学校だからな、雨だと服が汚れる」
休みの日は汚れても問題無いんだけどなぁ、と。
そう言ったら、クスクスと、笑われた。
「面白い人ですね~」
「そうか?」
「普通は皆さん、雨は嫌いですえ――汚れますから」
いやまぁ、その通りだけどさ。
「まぁ、そうだけどさ……」
んー、と。
「何だっていつかは汚れるもんだし、いつも汚れるの気にしてたら何も出来ないだろ?」
「それでも誰も、汚れたもんは嫌なもんですえ」
そうかな?
頭の中に浮かぶ数人……筆頭は神楽坂……は、多分あんまり気にしないんじゃないかな、と。
そう内心で苦笑してしまう。
ウチのクラスは、何だかんだ言っても、楽しい事は心底から楽しむからなぁ。
そう言う所は、多分他のクラスにも無い所だと思う。
……学生としては、ちょっと問題なのかもしれないけど、だ。
「そうでもないと思うけどなぁ」
そう苦笑する。
まぁ、それがこの子の価値観なんだろうけど。女の子だし。
やっぱり汚れるのは好きじゃないんだろう。
「食べ終わったかー、小太郎?」
「もうちょっとタンマ」
「急がないから、ちゃんと噛んで食えよ?」
「オカンか、あんたは」
むぅ、食い物やったのに何と言う事を。
誰がオカンだ、誰が。
まったく。
「礼儀のなって無い野良犬やなぁ」
「いきなり食いもん強請る女も相当やと思うけどな」
「はいはい、良いからまず食べてしまえ」
はぁ……何でお前らそんな喧嘩ばっかりなの?
別に良いけどさ、見てる分には楽しいから。
ただ、用事があったんじゃないんだろうか、とは心中でだけ呟く。
なんだかなぁ……。
変な子供の二人組。
通報しないだけマシかな、とも思ってたけど、この子達なら誰でも気を許すかもなぁ、と。
殺伐してないし。
良くテレビでやってる少年犯罪とかとは無縁そう、と感じるし。
学校の先生やってるからそう感じるのか、それともこの子達の雰囲気がそう感じさせるのか。
そう聞かれたら、多分後者だろう。
特に、小太郎は嘘が吐けなさそうだし……こうも感情的じゃあなぁ。
・
・
・
「何くつろいでるんや、月詠。早ぅ、行くで」
とは、ご飯を食べ終わって、横になっている小太郎である。
お前が言うな、お前が。
一番くつろいでるの絶対お前だから。
月詠を見てみろ、礼儀正しく正座して茶を飲んでるぞ。
「……どこに行けばいいか判らんでしょうに」
「別に、お前が覚えてるからええやろ?」
「覚えてるって……何だ?」
「ん? あー、っと。なんか、頭にモヤかかったみたいに、ちょっと思い出せんのや」
それ、結構大事なんじゃないのか?
大丈夫なのかな?
「病院行くか?」
「んや、別に良い」
「……はぁ」
月詠と2人で、溜息を吐いてしまう。
なんて楽天的な。
もし月詠の言っている事故で、頭でも打ってたらどうするのか。
ネギ先生への用事がなんだか知らないけど、時間があるようなら後で病院に連れて行こう。
……この場合、動物病院と普通の病院、どっちが良いんだろう?
「えっと、それじゃ2人ともネギ先生に会いに来たのか?」
「ええ。センセーなら、場所知ってますやろ?」
「おー。どうする? 雨降ってるけど今から行くか?」
「是非に」
そうか、と。
「一回連絡入れとくから、出る準備しといてくれ」
とりあえず、先に連絡入れとくか。
そう思い携帯を取り出し、小太郎と月詠は玄関へ向かう。
一応、財布も持っていくか。
携帯で登録してあったネギ先生の番号に連絡する。
「……出ないなぁ」
もしかしたら、ご飯食べてるのかもな。
まぁ、居る場所は判ってるんだし、もう少ししてから掛ければ良いか。
そう思い、俺も玄関に向かう。
「どないやった?」
「ん、ちょっと繋がらなかったけど、住んでる場所は判るから連れて行くよ」
「そか、すまんな兄ちゃん」
「そう思うなら……まぁ、別に良いか」
もう少し言葉遣いを、と言いたくなるが、我慢する事にする。
初対面の少年に言う事でもないだろうし。
多分、小太郎みたいなのはそういうのは嫌がるだろうし。
それじゃ行くか、と玄関を開けた時だった。
「失礼、学園の先生」
その人は、玄関前に立っていた。
「え?」
本当に――本当に突然、後ろに引き倒され、玄関の段差の所に腰を打ちつける。
痛いと思う前に、驚きが先に来る。
俺を引いたのは、多分小太郎。
そう、小太郎なのだ。
ほんの中学生くらいの少年が、大の大人の俺を引き倒し、玄関前に居た人と対峙していた。
月詠と2人、俺の前に立つように。
「やあ、狼男の少年。それと神鳴流……少し探すのに手間取ったよ」
「全然匂わへんかった……」
「野良犬の方が鼻が効きそうですね~」
立っているのは、老人。
黒衣の衣装に身を包んだ――老人、なのに。
「えっと、ど、どちら様?」
「これは失礼、ですが挨拶はしない方がお互いの為でしょう」
……怖い、と思った。笑っているのに、明るい声なのに。
なんだろう――そう、目が、怖い。
その目を見てしまったから、判ってしまう。
この老人は、危ない、と。
教師として3年とちょっと、過ごしてきた。
色々な人達を見てきた。
でも……この人のような眼をした人を、見た事が無い。
黒い瞳に、白髪、黒衣の老人――その眼は、どう表現すれば良いのか。
――濁っている。
失礼だけど、そう表現するのが一番ピッタリなんじゃないか、と思った。
「しかし、ここの結界も良いのか悪いのか……」
「け、けっかい?」
って、何?
「不幸だな、先生。結界が無かったら、もしかしたら巻き込まれずに済んだかもしれなかったのに」
「それって――」
どういう事? と聞く前に、小太郎が真横に吹き飛ばされた。
備え付けの下駄箱を粉砕しながら壁に叩きつけられ、地に落ちる。
何が起こったのか判らなかった。
ただ本当に、一瞬で小太郎が真横に吹き飛び――気絶した。
「お痛が過ぎるな、狼男。そして――」
慌てて月詠の服を掴み、力一杯引く。
さっき小太郎がそうしたように、こちらに引き倒し、その反動で立ち上がる。
ここで綺麗に立てたら格好良いんだろうけど、残念ながら腰が半分抜けていてフラフラと立ってしまう。
「ほう……なるほど」
「ちょ、ちょっと――」
そして黒衣の老人は一つ、何か納得したように頷き、その眼が……また俺を見る。
深く、黒く、暗い……底の見えない濁った海のような眼が。
「結界が無くても、結果は変わらなかったのかな?」
へ? と。
そこで、意識が途切れた。
殴られた――それが、最後の思考だった。
・
・
・
ズキ、と。
頭の芯が痛んだ。
偶にある二日酔いとか、風邪とかの頭痛じゃない。
初めて感じる鈍痛で目を覚ました。
「起きたかね?」
「――――――」
そう、だ。
……夢じゃ、なかったのか、と。
そう内心で思い、声は出さずに身じろぎする。
良く見ると、なんか、両手両足が変なので縛られてる。
なんだこれ? 少し力を入れたくらいじゃ、全然ビクともしない。
「生きてるようで安心したよ」
「……ここは?」
「世界樹の下だよ、学園の先生」
世界樹?
――良く見渡すと、そこはよく知った学園の中央にそびえる巨木の下のステージ。
底に無造作に転がされていた。
……寒い。
雨で濡れてるのか、髪が張り付いて気持ち悪いので縛られた腕で拭うと……赤かった。
「…………血?」
「すまないね。少し力加減を間違えた」
「……え?」
ズキリ、と、また頭の芯が痛む。
――俺の血なのか?
現実味が無い現実なのに、この痛みと、この血の温もりは、やけに現実的だ。
その濁った眼が、見下ろしてくる。
「まぁ、そうすぐには死にそうにないから、もう少し頑張りなさい」
……死ぬ?
ゾクリ、と背筋が震えた。
死ぬのか……と。
それは一層現実味は無くて、でもこの老人は俺に嘘は吐いていないだろう、と。
その濁った眼が、俺に向けられる。
――ああ、だから俺はこの人が怖いのか。
それは、俺を見ていない。
きっと、ただそこに在るモノを映しているだけの眼なんだ。
「それより、聞きたい事があるんだ。エヴァンジェリンとネギくんの教師よ」
「……マクダウェルとネギ先生?」
何で、そこでマクダウェルとネギ先生の名前が出てくるのか。
関係無いじゃないか、今は。
なのに……何で?
「君は、2人の事を……いや、この街の事をどれだけ知っている?」
「麻帆良の事……?」
それは――どういう事だ?
「これほど、世界にも無いほどの巨木を不思議に思った事はないかね?」
え?
「どうしてネギ君ほどの子供が、普通に教師をしていると思うのかね?」
……それは。
「何故、エヴァンジェリンのような化け物が、生徒として居るのか……疑問を抱いた事はないかね?」
「……化け物?」
何で。
「何で、マクダウェルが化け物なんだ?」
「知らないのか? それとも本当に気付いていないのか……知っていて、知らないフリか」
どういう、事だ?
だって。
「なるほど――隠し通してきたわけか、あの魔女は」
「隠す?」
マクダウェルが俺に?
……いや、違う。
それはきっと、俺が知らないだけの事……。
「彼女が何者か知らないのかね?」
「……知らない」
貴方からは聞きたくない、と。
そう言うと、笑われた。
「よっぽど、この結界に侵されているようだね」
俺の隣に腰を下ろし、この老人はさも可笑しそうに喋りはじめる。
「アレは魔女だよ。数多の死を撒き散らし、永遠を生きる魔女だ」
「――――――?」
何を、言っているのか。
理解できなかった。
死? 永遠を生きる?
ズキリ、と頭が痛む。
雨が、血が、体温を奪っていく。
「先生、世界は不思議に満ちていると思わないかね?」
「……なに?」
「不思議だよ。知らないかね? 世界の奥地に生きるシャーマンを、超能力を使う異能者を」
「テレビとかである?」
「そうそう」
そう、嬉しそうに――笑う。
それが、どうしたと言うのか。
それとマクダウェルが、どう関係していると言うのか。
「あれが本物だと思うかね?」
「さぁ――どうだろぅ」
呂律が回らなくなってきた。
寒い……指先の感覚も、今はもうほとんど感じない。
「もしあれが本当だと信じているなら……君は、吸血鬼を信じるかね?」
「きゅうけつき?」
それは――映画や漫画で良く見る、アレか?
血を吸い、人を操り、命を奪う。
そして、人に退治される。人の敵とよく言われる。
「そう、それだよ」
まるで、俺の思考を呼んでいるかのような、言葉。
――その濁った眼が、俺を覗き込んでくる。
怖い。
本当に……俺自身を見られているようで。
「エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは吸血鬼だ」
「……は?」
一体何を、と。
そう思った。
マクダウェルが吸血鬼?
あの――吸血鬼?
突拍子も無い……笑い話にもならない。
なのに。
「先ほどの狼男の少年の事を見たんじゃないのかね?」
「……小太郎?」
そうだ、小太郎は無事かな?
ひどく吹き飛ばされて、ぶつけてたけど……怪我、酷くないと良いけど。
そして……その小太郎が、子犬から変身したんだったか。
その現実味の無い事が、やけに頭に残る。
……人間じゃ、ない。
「超能力者も狼人間もいるなら――魔法使いや吸血鬼も居ておかしくないと、思わないかね?」
「……マクダウェルが、吸血鬼だと?」
「そう」
そう言って、この老人は帽子を脱いだ。
その顔を俺の目の前に持ってきて――“擬態”を、解いた。
そこに在ったのは、ひたすらに恐ろしい……“化け物”。
「“私”と一緒だ」
そう言った。
「え?」
「エヴァンジェリンは私と同じだと言う事だよ」
帽子をかぶると、そこには濁った瞳の老人が居た。
……さっきのは……。
「アレも私と同じ、化け物だ」
もう一度、言う。
その――耳障りな声で。
「違う」
「違わないさ。本人に聞いてみると良い――吸血鬼か、と」
それは、後で試す。
聞くのは俺の仕事だ――アンタに言われるまでも無い。
そう楽しそうに喋る老人を、精一杯睨みつける。
ズキリ、と頭が痛む。
視界が霞むのは出血からか、寒いからか。
でも、
「違う、マクダウェルは、バケモノなんかじゃ……」
「違わないよ、人間。アレは人間以外の化け物さ。私と同じな」
「……違う」
もしそうだったとしても、マクダウェルが吸血鬼だったのだとしても。
――あの子は化け物なんかではない、と。
何でそう思うのか。
マクダウェルが吸血鬼だなんて信じてないから?
この老人が気に食わないから?
……きっと、そのどちらでもない。
「何か理由でもあるのかね? それとも、ただ生徒を信じているだけとでも?」
「――は」
そんなんじゃない。
そんな、綺麗な理由じゃない。
「化け物な貴方とマクダウェルは違う」
「違わない」
「違う」
ズキリ、と――視界が霞む。
……その痛みが、意識を繋ぎ止めてくれる。
まだ生きていると、喋れると教えてくれる。
その濁りきった眼を、睨み返す。
「マクダウェルは、アンタみたいに濁った……死人のような眼はしてない」
「――――――は」
無造作に、胸倉を掴み上げられた。
片手で――やっぱり、この老人は人間じゃないな、と再確認。
「死ぬのが怖くないのかね? それとも、自分は死なないとでも?」
「ま、さか」
死ぬのは怖いし、死なないなんて思ってない。
現に、もう手足の感覚は酷く鈍い……。
頭から流れる血が、掴み上げられたせいで右目に入って痛い。
でも、左目でその眼を見返す。
「なんで、俺にそんな事を教えた……?」
「……私はな、先生。強いのを育てるのが好きだ」
?
どういう――。
「そして、それと同じくらいに、強い者を手折り、潰すのも好きなのだ」
掴み上げる手に、力が込められる。
首が、少しずつ締まる――息が、出来ない。
「言いたまえ。エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、化け物だと」
「――――っ」
「死ぬのは怖いのだろう?」
言外に、言わなければ殺す、と。
そう言う、事か……。
「美徳に死ぬか? 醜く生きるか、選びたまえ」
教師に憧れた。
子供の頃に出逢えた先生のようになりたいと思った。
いつか、胸を張って俺は教師なんだと、そう言える先生になりたかった。
――死ぬのは、怖い。
きっと、少し力を込めるだけで、この老人は俺を殺せるのだろう。
そして……その事に躊躇いなんて、欠片も無いのだろう。
その濁りきった瞳に、俺は写っていても、俺は居ない。
……この老人にとっては、俺の答えなんて、きっと意味は無いのだろう。
だから。
だからこそ、俺は――。
「マクダウェルは、俺の生徒だ。自分の生徒を悪く言う先生がどこに居る?」
「ははは――きっと、世界に溢れているだろうよ」
そう高らかに笑い、俺を持ち上げる腕に力が込められる。
殺される。
そう思い目を閉じ……覚悟を決める。
死ぬのは怖いし、やりたい事だってまだまだたくさんあった。
なにより、俺はまだ自分が受け持った生徒達の卒業式を見ていない。
でも――それでも、自分の生徒を裏切れなかった。
信じたかった。
それが、俺が憧れた“先生”だったから。
「なるほど、召喚主の勘違いだったか……ま、それも終わりだ」
瞬間、その手が弾けた――ように感じた。
ステージの上に落とされ、慌てて息を吸う。
い、生きてる?
「ふむ……少し時間を掛け過ぎたかな?」
「え?」
その視線の先。
雨のカーテンの先――そこに、見慣れた顔触れがあった。
「――マクダウェル」
それに、ネギ先生や近衛、桜咲達まで……月詠と小太郎も無事だったのか。
「これはこれは。招待客以外はご退席願えないかな、吸血鬼?」
「………………」
その瞳が、俺に向く。
マクダウェル。
吸血鬼だと言われた、マクダウェル。
…………。
「マクダウェル」
届かないと判っていても、その名を呼んだ。
その眼を見て。
この老人とは違う、ちゃんと前を、人を見ている瞳を見返して。
――――――エヴァンジェリン
ああ、と。
その声は、確かに届いた。
マクダウェル、と。
いつもの声で、いつもと同じように――吸血鬼と呼ばれた私の名を、呼んでくれた。
これで別れになるかもしれない。
もしかしたら受け入れてくれるかもしれない。
だが――その思考は、置いていく。
それは、後だ。
今は……その声が聞けただけで、十分だ。
「駄犬、それに神鳴流」
「な、なんや?」
「はいな」
ふぅ、と小さく息を吐く。
「あの人を死なせるな。そうすれば、許してやる」
「……わいらから関わったんやないのに」
「なんか言ったか?」
「なんもないわ」
そう言い、先ほど掴み上げた首を大袈裟にさする。
ふん……一般人に関わっておいて、その程度で済ませた私に感謝しろ。
まったく――先生の携帯でまさかお前達から連絡を貰うなんて思わなかったぞ。
連絡を受けた木乃香も驚いていたし。
おかげで、勘違いでこの2人を捻り潰す所だった……。
「ウチは、アレと戦えるなら何でもやりますわ~」
そう言い、刹那から借りた夕凪を抜き放つ月詠。
「木乃香」
「ウチは、先生の所に?」
「ああ。刹那とその神鳴流を連れていけ」
「はいっ」
さて、と。
「ぼーやと駄犬は私と、だ」
「は、はいっ」
「そう気負うな」
静かに、静かに言葉を紡いでいく。
茶々丸は明日菜を寮に送らせた。
そのまま、このゴタゴタが終わるまで護衛につくように言ってきた。
龍宮真名は、もうどこかに潜んでいるのだろう。
先ほどの狙撃も、十分過ぎるタイミングだった。
世界中の下のステージに足を進めながら、周囲に気を配る。
何か居るみたいだな……。
「私は本気を出せないんだ――お前に決めてもらうからな」
「わ……判りました」
ああ、と。
静かに――静かに、本当に静かに、言葉を紡ぐ。
「いい先生に出逢えたようじゃないか、吸血鬼」
「そうだろう?」
喋るな、と言いたかった。
今すぐその首を刎ねてやりたかった。
思い付く限りの殺し方で、殺してやりたかった。
だが、それは叶わない。
まだ先生は奴の手の中で、私の力は学園の結界に半分近く封じられている。
だから、その全ては叶わない。
「来たまえ」
「――――ふん」
少し離れた位置で、対峙する。
ゾクリ、と身の内に在るソレが泡立つ。
――これは、知っている。
ずっと昔から、私が飼っていたモノ。
私が600年間育ててきたモノ。
そして……ここ数カ月で、枯れようとしていたモノ。
これは――。
――怒りだ。
――――――チャチャゼロさんとオコジョ――――――
「ねぇ、チャチャゼロさん? エヴァ達大丈夫かな?」
「ンア? アア、問題ネーダロ」
「先生無事かな?」
「ドウダロウーナ」
そこは現実的なんすね。
明日菜の姉御の部屋で、窓にへばりついたままの姉御の背を見ながら、溜息。
茶々丸の嬢ちゃんも、座ったまま微動だにしないし。
帰って来てから、ずっとだよ、この2人。
「マァ――俺ハドウデモイイワ」
「そうなんすか?」
「オオ。結果ハ判ッテルシ」
「……はあ」
それは。
「同情スルネ」
「……同情っすか」
「オオ」
ケケケ、と。いつもの人をくった様な笑い声。
「……同情スルゼ、先生」
え、そこは悪魔にじゃないの?