分からない。
何もかもが。
今、自分がどこにいるのか。今、自分がどうなっているのか。そして何よりも自分が誰なのか。
感覚が無い。自分の体の感覚が。手も足も、指先すら動かすことができない。だが視界だけは何故かまだ生きている。それが捉える。それは自身の体。自分のものではない借り物の体。
なんだ。そうか。感覚が無くて当たり前だ。倒れ伏している顔の近くに真っ赤な血が流れてくる。体中の傷から流れ出てきた血が。
それが今の自分の姿。そして最期の姿。
心も体も摩耗しきっている死の淵にある自分自身の。
その傍らには一つの光のカケラがある。淡い光を放っている宝石のカケラ。
次第に意識が遠のいていく。その脳裏に記憶が蘇って行く。今になって思う。あれがきっと走馬灯と呼ばれる物だったのだろう―――――
目が覚めた時、自分は自分ではなくなっていた。そんなあり得ない事態がこの身に降りかかってきた。だがそれだけならまだ良かった。それが人間であったなら。
『半妖』
人間と妖怪の間に生まれた存在。犬夜叉。それが今の自分の姿。そしてその封印を解いたのが日暮かごめという少女だった。
中学三年生、十五歳の少女。だが少女の様子もどこかおかしかった。まるで何かの戸惑っているかのように。その理由を自分はすぐ知ることになる。
『戦国時代』
今、自分がいる世界が過去の世界であることを認めざるを得なかった。当たり前だ。どんなに否定しても目の前にある光景が真実を、事実を何よりも表している。自分とかごめという少女が恐らくはタイムスリップをしてしまったということを。
加えて様々な事態が自分を襲ってくる。
自分が誰だか分からない。
おぼろげな経歴は覚えている。年齢や一般的な知識はある。だがそれ以外についてはすべて失ってしまっているかのように思い出すことができない。記憶か途切れてしまっているかのように。
代わりにこの体、犬夜叉の記憶が蘇ってくる。それはこれから起きる、起きるはずであった記憶。四魂の玉を巡る争い。その中ではかごめも深くかかわっている。かごめがここにいるのもそれに関係しているのではないかと、そう思わずにはいられなかった。
『日暮かごめ』
気の強そうな女。それが一番しっくりくる表現だろう。この状況においても取り乱すことなくいられることからもそれが伺える。村の巫女である楓によってかけられた言霊の念珠で何度も沈められるだけは納得できないが。だが今になって思う。それでもかごめという存在がいてくれたことは自分にとっては救いだったのだと。差異はあれど自分と同じ現代からやってきた少女。自分と同じ境遇の人間がいてくれたことが自分が自分を失わないでいられた理由だったと。
だがそれは終わりを告げる。
それは骨喰いの井戸。
それを通れれば現代に戻れることを自分は思い出す。あの後のことは良く覚えていない。ただこの世界から帰ることができる。その嬉しさで満ちていた。自分の体が半妖のままだったことなど気にも留めていなかった。ただ帰ることができる。その喜びだけだった。だがそれはすぐに絶望に変わる。自分だけが井戸を通ることができない。その絶望によって。
どうして、どうして、どうして―――――
何で通れないのか。記憶の中では間違いなく犬夜叉は井戸を行き来していたのに。それなのに。かごめは通ることができているのに。何で。何で。何で。どうして自分だけ。そんな黒い感情が溢れてくる。そしてそれを自分はかごめにぶつけてしまう。
それは八つ当たり、嫉妬。分かってる。かごめが悪くないことは。自分の行為がどんなにみっともない物か。だがそれでも自分はそれを抑えることができなかった。
そしてかごめはそのまま井戸の向こうから帰ってくることはなかった。
当たり前だ。かごめにとってもこの世界は危険が満ちている非日常。そして何度も行き来できる保証はどこにもない。それでも一度自分のことを気に掛けて戻ってきてくれただけでも感謝するべきだった。だがこの時の自分はそんな単純なことにすら気づくことができなかった。
それから一人きりの生活が始まる。だがそれはまさしく地獄だった。村人たちの自分に対する差別、迫害が襲いかかってくる。謂れのない、ただ人間ではないと、それだけの理由で。次第に村にいることが辛くなり、森で暮らすことが多くなった。楓は自分のことを気に掛けてくれていたようだがそれでもそれを止めることはできなかったようだ。
だがそんな扱いを受けながらも自分はこの村に留まっていた。それは他に行くあてがなかったこともあったがそれ以上に一つの大きな理由があった。
『もしかしたかごめが戻ってきてくれるのではないか』
そんな都合のいい、淡い期待。そんなことがあり得ないことは分かっている。他でもない自分自身のせいでかごめは帰ってしまったのだから。だがそれでもそれを考えずにはいられなかった。だがその時が訪れることはなかった。
そして一人の妖怪が現れる。それは逆髪の結羅と呼ばれる妖怪。見えない髪の毛を武器として使う手強い妖怪。自分は村を守るためにそれと闘った。逃げても良かった。自分が村を助ける義理など無い。でも、それでもここで逃げれば何か大切なものを失くしてしまう。そんな予感が自分を突き動かす。だが自分は手も足も出すことができない、赤子同然だった。そしてその刃によって貫かれる。その瞬間、自分は死んだ。いや、死ぬことができればどれだけ良かったか。
意識を取り戻した時には全てが終わっていた。血に濡れた自分の両手。破壊しつくされた村。傷ついた村人たち。彼らの怒りと恐怖の視線。この瞬間、自分は全てを失った―――――
それから村を離れた自分はただその日その日を生きることしか頭にはなかった。人里に下りることもできない。だが森の中での生き方など分からない。ただ手探りでも、やって行くしかなった。だがそんな中、ある存在が現れる。
『殺生丸』
犬夜叉の異母兄弟。その存在を自分は完全に失念してしまっていた。いや、違う。そんなことを考えるほどの余裕すらなかった。
『鉄砕牙』
それが殺生丸の狙いだった。話し合いも、言い訳をする暇もなく自分は完膚なきまでに敗北する。それに、その力に抗う術など無い。だが自分は命を奪われることはなかった。りんという少女のおかげで。何故少女が今殺生丸と共にいるのかは分からない。だが自分はそのおかげで助かった。だがそのことに喜びはなかった。もしかしたらこの頃には自分は既に壊れかけていたのかもしれない。
黒真珠を使い犬夜叉の父の墓を訪れた。殺生丸はその結界によって鉄砕牙を抜けないことを悟るとその場をすぐに去って行った。自分もそれを抜くことはできなかった。いや、そんなことは分かり切っていた。この刀は誰かを守りたいという強い想いがなければ扱えない刀。それを自分が抜くことなどできるはずもなかった。だが人間であるりんがそれをあっさりと抜いてしまう。それは人間であるりんだからこそできたこと。りんはそれを自分に渡した後、少し考えるような表情を見せながらも殺生丸の後を追って行った。そしてこの手には鉄砕牙が残された。唯の錆びた刀。それでも妖怪化を抑えるためだけに自分はそれを捨てることもできなかった。
そこからの記憶は曖昧だ。ただ生きる。それだけの毎日。だがそれは最後のよりどころだった。このまま死ぬわけにはいかない。何故自分がこんな目に会っているのか。自分がこの世界に来た意味、自分が誰なのかも分からないまま死にたくない。だがそれすらも、そんな願いすらもこの世界は自分には許してはくれなかった。
『四魂のカケラ』
それを自分は偶然手に入れる。いや、それは偶然ではなかった。自分は感じたことのない気配を感じ、それに導かれるようにこのカケラを見つけた。そしてそのカケラを手にした瞬間
自分は『全て』を理解した、知ってしまった。
自分が犬夜叉の体に憑依した理由、自分の正体、そして自分が消えてしまう運命を。
「あ………」
なんだ。そうか。要するに自分は文字通り『犬夜叉の代わり』であったらしい。ただそれだけ。それだけのために自分はここにいるらしい。
「あ……あ……」
そんなことのために自分はこんな目に、地獄にいるらしい。こんな狂った世界に。たった一人、孤独の中で。その中で死に、消えていくことが自分の定められた運命だった。
「あ……ああ………あああああああああああああっ!!」
この瞬間、少年の心は砕け散った。
絶叫し、慟哭することしかできなかった。
憎い、憎い、憎い―――――
全てが、自分をこんな目に会わせた全てが。四魂の玉が。犬夜叉が。人間が。何よりもなにもできない自分自身が。無力な自分自身が。
少年はそのまま自らの首に掛けられている言霊の念珠に手を掛け、それを引きちぎろうとする。それは自分にとっての運命の象徴。決して逃れることのできない、変えることができない呪われた運命の。
少年は自分の全ての力を持ってそれを引きちぎろうとする。それができればきっとこんな狂った運命を変えられると、そう信じるかのように。その手がその力に耐えきれず深紅に染まって行く。その鮮血が両手を真っ赤に染めていく。それでも少年は絶叫しながら首飾りを引きちぎろうとあがき続ける。だがそれは為し遂げられることはなかった。まるでその運命を変えることができないと、そう告げるかのように―――――
ふと、目を覚ます。
どうやらまだ生きていたらしい。こんな体でも生き汚さだけはあるらしい。だがもうすぐそれも終わる。
無数の傷。四魂のカケラを狙って来た妖怪たちによって受けた傷。どうやら最後の最期まで自分は四魂の玉に弄ばれる運命にあったらしい。
唯一残っていた視覚も失われていく。そんな中、その視界が歪んでいく。まるで涙を流した時の様に。だがそれは涙ではなかった。それは雨。それが次第に自分の体を包み込んでいく。
そうだ。涙など流れるはずがない。そんなもの、とうの昔に枯れ果ててしまったのだから。
体の感覚が無いはずなのにその雨の冷たさが伝えてくる。これが自分の最期なのだと。森の中、一人野たれ死ぬ、ある意味道化である自分に相応しい最期かもしれない。
だがもういい。もう疲れた。これでやっと解放される。この狂った世界から、運命から―――――
瞬間、音が聞こえてくる。
聞こえてくるはずのない音が。
それは足音。
それが自分近づいてくる。
薄れゆく意識の、刹那の間にその姿を見る。
刀を腰に差し、鎧を身に付けた見たことのない男の姿。
少年はそれを見つめながらも意識を失って行く。
それが少年と瑪瑙丸の出会いだった―――――――