気づけば、春の匂いも感じられない時期になっていた。
月日は五月になり、もうすぐ梅雨の季節。桜は散り、空には雨雲が何時もよりも多くなってきた。ジメジメとした季節はもうすぐで、こんな季節に結婚式を挙げようとする物好きがマリッジブルーだと口ずさむ。
そんな何処にでもある風景、何処にでもある光景が広がる街は、この日本で二つしかない人妖隔離都市、名は海鳴という。
この街には沢山の人妖が住んでいる。もちろん、人間もいるが、割合的に人妖が圧倒的に多い。それだけ人妖という人種は人々から忌み嫌われ、隔離されている。巨大な壁で、壁の外には銃を持った厳つい者達が立ち、その周囲には人妖という存在に憎悪と侮蔑の念を浮かべる人間達が今日も元気に呪詛をまき散らす。
しかし、それは外であり内ではそんな光景など関係ないと言わんばかりの日常がある。
高町なのはとスノゥ・エルクレイドルの事件から数週間が経った海鳴という街の様子は、特別代わった様子はない。
何時もの様に騒がしく、何時もの様に静かで、何時もの様に人妖達が日々を謳歌する。
「――――あ~、バニングス、ちょっといいか?」
「何よ、虎太郎」
「先生を付けろ」
「何よ、虎太郎」
「先生を付けろ」
「なによ、虎太―――ッミギャッ!?」
この様に、生徒に平気で拳骨を落す風景も、何時もの光景だ。
「あ、アンタ、殴ったわね!?生徒に体罰振るう教師なんて、PTAに訴えてクビにしてやるんだからね!!」
「言いたきゃ言えばいいさ。だが、その前にもう一発いくぞ」
握り拳に息を吹きかける姿に、アリサは頭を押さえて後ずさる。
「まったく……少しは教師を敬うという心を知らんのか、お前は」
「虎太郎が煙草を止めたら敬ってあげるわ。というか、一体一日に何本吸えばそんなに煙草臭い体臭になるのよ。むしろ、アンタ人間じゃなくて煙草じゃない。身体の殆どが煙草で出来てんじゃないの?」
「そんな人妖はいない―――いや、いないのか?いたらいいな。いたらというか、俺がなりたい」
「そんな変なのになったら、二度と私に近づけない位にボッコボコにしてやるわよ――――で、何の用?私、これでも忙しいんだけど」
「掃除をサボって逃げようとする様なお前に忙しいという単語は不釣り合いだ」
「ワタ~シ、ニホンゴワッカリマセ~ン―――ッヘブシ!?」
さっきよりも威力三割増しの一撃。簡単に説明したら手を石化した拳骨。
「おーけー、おーけー、ちょっと悪ノリし過ぎたわ……謝るからもう殴らないで」
「反省しろ、馬鹿者。それで、話というのはこれだ」
虎太郎は取り出すはレポート用紙。
「これ、なんだかわかるか?」
「あれでしょう、社会科見学のレポート。今日中に出せって五月蠅いからちゃんと出してあげたんじゃない」
「あぁ、出したのは良い。他の生徒よりも良く出来ている……出来ているが、却下だ」
「何でよッ!?」
「どこの世界に余所の家の防犯装置に挑む事を社会科見学にする馬鹿がいるんだ?というか、これはどう見ても月村の家の防犯装置だろうが」
「あれを防犯装置というのはちょっと抵抗があるわね。幾ら全開じゃないとはいえ、私が屋敷の入口前で退却する事になるとは想ってもなかったわ」
「あぁ、そうだな。俺も翌日になって全身包帯だらけのお前を見るなんて想ってもなかった……お前、実は馬鹿だろ?」
「馬鹿じゃないわよ。いい?これは私の社会科見学と一緒にすずかの家の防犯装置―――防衛システムがどれほどの物か試しに行ったのよ。大事な友達の家の防衛システムがザルみたいな感じなら、安心してすずかをあの家になんて住ませられないわ」
「それで、感想は?」
「久しぶりに死ぬかと思ったわ」
一体どれだけの強化をしたのかはわからないが、アリサにこう言わせるほどの防犯装置。内心、ちょっと試してみたいと思ったのは秘密だ。
「ともかく、こんなのは駄目だ。もっとちゃんとした場所に行ってこい」
「なによ、差別する気?人妖差別?それとも友達差別?」
「差別じゃない。こんな内容を廊下に張り出してみろ。月村が卒倒するぞ」
「大丈夫。家に入った時点で一度卒倒させてるかッブヘラァ!?」
それから数日後。
授業中の事。
「――――さて、この問題は……月村、解いてみろ」
「わかりません」
「即答か。少しは考えてモノを言え」
「はい……………わかりません」
「そうか、廊下に立ってろ」
「え!?」
「というのは冗談だが、これは昨日もやったところだから、ちゃんと復習しておけよ――それじゃ、バニングス、解いてみろ」
「ZZZZZZZ……」
「…………」
「ZZZZZZZ……」
「…………」
「ZZZZZZZ……」
爆睡しているアリサに近づき、轟音を響かせる。
ドガンッという擬音と共に、机ごとアリサの頭を粉砕する。
「――――これでも起きんか、見上げた根性だ」
「あの、虎太郎先生……アリサちゃん、気絶してるんじゃないですか?」
「ん、そうか?……む、いかん。息をしてない」
「アリサちゃんッ!?」
アリサ・バニングスと加藤虎太郎の関係は概ねこんな感じだ。
基本的に優等生なアリサだが、どうも虎太郎の事を教師として見てない節が多々あるせいか、この様に虎太郎から愛の鉄拳を喰らう事が日常となっている。
かと言って、アリサが虎太郎の事を嫌っているというわけでもない。
虎太郎の事を先生を付けずに呼び捨てにするのは、彼女なりの接し方の一つなのかもしれない。それも他の教師よりもずっと親しい存在という様にも見えない事もない。現にこれだけ拳骨を喰らいながらも、アリサは虎太郎に手を上げる事もしなければ、わかりやすい嫌悪の表情も見せない。
「どっちかと言うと、漫才コンビって感じだよね?」
と、すずかは語る。
「どつき漫才にしてはちょっと見てる方としては心臓に悪いけどね」
と、苦笑交じりにすずかは語る。
少なくともこんな光景が毎日の様に続けば、皆も慣れるのだろう。これが無ければなんだか一日が始まっていない様な気はするし、これがないと物足りないと感じる生徒も多数だ。
もっとも、やられている本人からすれば溜まったものじゃない。
「だったら拳骨される様な事を言わなければ良いんじゃないの?」
すずかが尋ねると、
「嫌よ。なんか、アイツの言う事を聞いてるようじゃ、負けた気分がするじゃない」
「どこら辺が負けてるのかはわからないけど……でも、アリサちゃんって虎太郎先生の事が好きだって事はわかるよ」
「…………なんでそうなるのよ?」
「見てればわかるよ」
「眼科行きなさい。良い眼科の先生を紹介してあげるから、その眼球交換してきなさい」
これも日常。
人狼な少女と人妖先生の日常。
次はこんな日常。
「あの、虎太郎先生」
「ん、どうした月村?」
ある日の放課後。
「お姉ちゃんが虎太郎先生を夕食に招待したいって言ってるんですけど……今日、予定はありますか?」
「特にないが。だが、どうしたんだ急に」
「えっと、ですね……私にもよくわからないんですけど、姉ちゃんがどうしてもって言ってるんで」
「ふむ……なんか裏がありそうな気がするな」
と、冗談交じりに言うと、
「ありますね、確実に」
まさかの妹が肯定した。
「うん、あると思います。絶対にありますね。最近、お姉ちゃんずっと部屋に籠って何か作ってるんですけど……多分、お姉ちゃんの事だから虎太郎先生の身体を実験台にして何かを作ろうとしているのかも」
「いや、流石にそれはないと思うが……」
「いいえ、あります!!私のお姉ちゃんですからッ!!」
力強く力説するのはいいが、それは同時に自分の地位を陥れていると気づいているのか疑問だ。
「そうですよ、そうですよね!?虎太郎先生、やっぱり家に来ちゃ駄目ですよ。来たら先生、改造されちゃいますッ!!」
妹にここまで言われる姉は、果たして自業自得なのか、それとも不憫に思うべきなのか、判別に苦しむ所だ。
「そんなショッ○ーじゃあるまいし」
「お姉ちゃんの卒業文集に、将来は仮面ラ○ダーを作る事だって書いてました」
「それ、何時のだよ」
「高校の時です」
「…………そうか、高校の時か」
途端にすずかの言う事に真実味が帯びて来た。
もちろん、そんなわけはない。
単に好きな男性の気を惹く為に食事に招待しただけなのだが、まさか敵が身内にいるとは想ってもみなかっただろう。ちなみに、その敵はまったくの無自覚である。無自覚故の善意である。
ある意味、救いようがない。
「そういうわけで先生、しばらく家には近づかないでくださいね」
「あ、あぁ……いや、そうか?なんか違うくないか?」
「いいから、返事はッ!!」
「はい、わかりました……」
そんな二人を見ながら、傍観を決め込んでいたアリサはポツリと、
「―――――あの子、天然?」
呆れ顔で呟いた。
本当に、救いようがない。
それから数日後。
梅雨の季節に入りに、外は毎日の様に雨が降る。
「おはよう……」
何故かずぶ濡れになって登校してきたアリサ。
「どうしたの、アリサちゃんッ!?」
「ちょっとね……」
心底疲れたという表情でタオルで頭を拭く。綺麗なサラサラな髪は濡れた事によってサラサラではなくバサバサになってしまっていた。
「あれ、なんか顔が粘々してるね」
「―――――ねぇ、すずか。こんな雨の日に犬を散歩させる馬鹿は死ぬべきだと思わない?」
その一言でなんとなく想像ができた。
「もしかして、また?」
「えぇ、またよ」
普段、アリサはすずかと同じ通学バスを利用している。だが、毎日ではない。通学バスは決められた時間に決められたコースを走る。それ故に乗り遅れれば当然置いて行かれる。
「アリサちゃんって朝弱いよね」
「朝が弱いんじゃないの。夜に寝るのが遅いだけ」
「なら早く寝ようよ」
遅刻の常習犯とまではいかないが、通学バスにちゃんと乗ってくるという事は少ない。夜遅くまで起きているせいで、必然的に朝起きる時間は遅い。そうなってしまえば、時間は当然ギリギリ。始業ベルが鳴る五分前に登校など普通だ。
「そうね、毎日こんな感じじゃ私の身が持たないわ」
無論、走れば間に合う。
だが、走って間に合うからといって必ず穏便に、平穏に学校に到着できるわけではない。
「どうしてどいつもこいつも、私を見れば群がってくるのかしら……」
彼女の人妖能力が関係あるかは不明だが、アリサは犬に好かれる―――いや、好かれすぎる。
そのせいで今日も雨の日に散歩していた犬がアリサにじゃれついてくるわ、犬小屋にヒモも着けずに飼っている家の犬が塀を飛び越えてじゃれついてくるわで、結局アリサは子の様な状態になっている。
「ちょっと羨ましいな」
「だったら代わる?言っておくけど、下手すれば死ぬわよ」
「死ぬの!?」
「大型犬にじゃれつかれたら死ぬわね。アイツ等は甘噛みのつもりでも、こっちはかなり痛いのよ」
「そうなんだ……あ、でも家の猫達も時々そんな風にじゃれついてくるよ」
「猫ならいいわよ。小さいし、可愛いし」
「犬も可愛いと思うよ」
「犬なんてデカイし荒いだけだっつの……」
そう言いながらも誰がどう見ても犬が好きなアリサ。すずかも犬が好きだが基本的には猫派。彼女の家には沢山の猫がおり、周りからは猫屋敷とも言われている。
「やっぱり猫の方が―――」
「猫は良いぞ……あぁ、猫は良い」
「うわっ!?」
何時の前にか現れた虎太郎。
「アンタ、何処から湧いて出て来たのよ」
「人をボウフラみたいに言うな。いやな、猫という単語が聞こえたものな」
「虎太郎先生は猫が好きなんですか?」
「好きだな。断然猫だ。犬なんかよりも猫だ」
そう断言する虎太郎に、
「――――い、犬だって猫に負けてないわよ」
わんこ代表、アリサ・バニングスが食いつく。
「どうだか。犬なんぞデカイだけで無駄に飯食って散歩しなければならないという手間がある。だが、猫は違う。猫は小さいし食べる量も少ないし、勝手に散歩する」
「それだけでしょう?犬はね、ご主人様の言う事をちゃんと聞くのよ。猫なんて飼い主を飼い主と思わない冷徹外道じゃない」
「自由奔放と言って欲しいな。鎖に繋がれたまま大人しくしている犬よりも、常に自由を求める猫の方が良いに決まってる」
「はんっ、どうだか。大体ね、猫なんか好きな奴は自分はカッコいいと思ってるナルシストばっかりなのよ。アンタもその口でしょう?」
「それこそ勘違いだな。それ以前に、猫にはハードボイルドな一面がある。その一面から時に反対の可愛らしい素顔を見せるあの瞬間、あのギャップ―――だが、犬にはそれが無いッ!!」
「あるわよ、そのくらい。というか、そんなオッサンのアンタが猫について語ったところでキモイのよ。うわぁ、キモッ!!キモいのが移るからあっちに来なさいよキモ太郎」
「貴様……人の名をそんな漫画○郎先生が生み出したキャラみたいに言うなッ!!」
「うっさいッ!!アンタなんか犬の尻尾にモフモフされて死ねッ!!」
「そういうお前は猫の肉球にプニプニされて萌え死ねッ!!」
「あの、二人とも……その辺で」
わんこ派とにゃんこ派の闘争は何とも虚しいものだった。
「私はどっちも可愛いから好きだけど」
だから、そんなどっち付かずな発現は虚しい矛先を変換され事になる。
「すずか、アンタ猫派の癖に犬派の私の肩を持つっての?」
「月村。お前のそういうどっち付かずな所は感心しないな」
「うわぁ、二人とも面倒臭いなぁ……」
月村すずかと加藤虎太郎の関係は概ねこんな感じだ。
アリサと虎太郎の喧嘩というかじゃれ合いを収める時もあれば、二人の間に挟まれて困惑したり呆れたり、それでも最後まで付き合い続ける関係。
何時の間にかすずかは虎太郎の事を加藤先生ではなく虎太郎先生と呼んでいる。それが何時からそうなったのかは本人もわからない。だが、そう呼ぶにふさわしい誰かだと言う事だけは確かだ。
虎太郎が来て、彼女は変わった。
彼女が変わったから、周りは変わった。
小さな変化は周りを巻き込む大きな変化となり、その結果が今という日常を作り出す。この物語に主人公という存在を作るのなら、恐らくは月村すずかという少女が主人公だったのかもしれない。
ただ、誰もそんな事は望まない。
すずかも、その周りの皆もだ。
特別な存在は要らない。欲しいのは親しい存在だけでいい。そんな存在を作り続ければ、何時しか大きな輪になって誰もが笑って過ごせる毎日が生まれる。
「ねぇ、すずか」
「なに、お姉ちゃん?」
しかし、
「なんか、最近先生が私を見る目がちょっと変な気がするんだけど……気のせいかな?女性を見る目になってくれたら嬉しいんだけど、なんか近寄りがたいというか、近寄っちゃいけないというか……ともかく、何か私を避けてる気がするんだけど、何か知らない?」
「う~ん……わかんない」
「そっか、そうだよね……おかしいなぁ、変な事はしてないんだけど」
家族の恋路を無意識に邪魔しているのは、救いようがないとも言える。
もっとも、それはまったく関係のない些細なことだ。
これも日常。
月村という少女と人妖先生の日常。
そして、最後の一人の日常を語るとしよう。
誰もいない。
嵐が過ぎ去った道場には何もない。
時間が経っても残っていた道場も、ようやく家に追いついた様に朽ち果てて行くだろう。この先、この場所を訪れる事があるかはわからない。だけど、それは明日の事だから誰にもわからない。
私にも、みんなにも、神様だってわからないかもしれない。
それでもいい。
わからないけど、今は歩いてみようと思える。
ゆっくりと、一歩一歩、自分の足で歩いて、誰かの隣を歩こう。
私は一人じゃない。
一人ではいられない。
「だから、さようなら」
別れを告げる。
この場所に戻って来れないとわかっているから。家族のいない家は、ただの廃屋でしかない。そんな場所にいつまでも引きこもっても意味はない。ないないずくしで、一つもありにはならないだろう。
記憶の中にある光景は綺麗な我が家。だけで、私の家の記憶はあっても家族の記憶はない。いつかは思い出すかもしれないけど、心の何処かできっと思い出しはしないと決めつけている。
それが悲しい……でも、それでいい。
「それで、いいんだよね?」
「―――――それはどうだろうな」
朝日が昇り、道場の窓から光が差し込む。その光を浴びて、白髪隻眼のオジサン、九鬼耀鋼というオジサンが立っていた。
煙草を咥え、どこから買ってきたのか缶コーヒーを飲みながら。
「…………どういう事ですか?」
「お嬢ちゃんは、もう此処には持って来れないと思ってるのか?」
私は、頷いた。
「此処には、何もないですから。思い出も何も無い。私の家族の記憶も……もうすぐ消えちゃうかもしれない。だったら此処にいる意味なんて、ないですよ」
オジサンは違うと言った。
「あるさ。意味はある。お前さんがどれだけ何かを忘れても、忘れようとしても、多分それはずっと後ろを付いて歩いてくる」
「思い出せないのに、ですか?」
「思い出せないからといって、消えたわけじゃないだろう」
煙草を缶コーヒーの中に捨て、私に歩み寄る。
「人間の記憶っていうのは曖昧だ。コンピューターの様に知識や記録をいつまでも頭の中に鮮明に残す事はできない。忘れる生き物だし、忘れようとする生き物だ」
しゃがみ込み、視線を私に合わせる。
「だが、同時に俺達は―――忘れたくないと思う生き物だ」
大きな手で、私の頭を撫でてくれた。
「忘れたくないと思う限り、消えはしない。消去しようとゴミ箱に捨てよと、俺達は何時の間にかゴミ箱を漁り、大切な記憶を掘り起こそうとする。そうやって足掻いて足掻いて、結局見つからなくて堕ち込んで……また、掘り起こす」
「諦めないんですか?」
「諦めたいさ。誰だって辛い。在る筈の物がなく、消えない筈の物が消えていく。そんなのは誰だって辛い。それがどれだけ大切なのか、わかっているからな」
私は思い出す。
オジサンは言っていた。
例え話だろうと思っていたけど、その時のオジサンの顔は―――辛そうだった。
心がわからなくても、今の私はそれが何となくだが想像できた。
「オジサンもそうなの?」
「…………わからない」
少しだけ辛そうな顔をして、すぐに元に戻す。
強がっている様に見えるけど、本当に強いのかもしれない。
「わからないが、多分お嬢ちゃんと同じだ……忘れようとしたけど、忘れられない。忘れた方が楽になるが俺自身がそれを許せない。忘れずに引き摺って、何時しか逆にそれに引き摺られている事にすら気づかずに、こうして生きてしまった」
だが、それでも良いと、オジサンは言った。
「どうやら、俺も自分で思っていた以上に人間だったらしいな」
苦笑した顔は少しだけ愛嬌を感じる顔だった……少し、怖いけど。
「お嬢ちゃんは人間だ。人間だから―――諦めたつもりになって生きるな。そうやって生きてもつまらない。どうせなら最後の最後まで、何も思い出せなくなるまで頑張って、そして思い出す必要が無くなった時になったら……ちゃんと、忘れてやれ」
記憶は積み重なる。
積み重なると同時に、下層にある記憶は押しつぶされる。
それはとても悲しい事かもしれない。だけど、押しつぶされた記憶は本当に必要な物なのかは私には理解できない。
だから、私は下層を、記憶のゴミ箱を漁っている。
「私は忘れたくない……大切な、家族の記憶なんです」
「なら、忘れようとしなければいい。忘れてはいけないという強迫概念に囚われるのではなく、少しだけ肩の力を抜いて、忘れないようにしよう……出来るだけ、忘れないようにしよう……そんな風に思うだけで良い」
「それでいいのかな?」
「あぁ、いいだろうさ。じゃないと、お嬢ちゃんは後ろばかり見て、前を見ようとしない。ゴミ箱を漁るあまり、横から何かを差し出される事に気づけない」
そう言って、おじさんは後ろを指さす。
そこには、アリサちゃんとすずかちゃんが背中を合わせて眠っていた。その隣で虎太郎先生が煙草を吸っている。よく見れば肩を同じ感覚で上下させている所を見るからに、煙草を吸いながら寝ているのかもしれない。
「お嬢ちゃんの過去は見えなくとも、これから思い出になってくれる大切なモノはすぐそこにあるだろう?なら、時々は手を止めて、手を綺麗に洗って、頭を切り替えて、心の赴くままにあのお嬢ちゃん達と一緒にいる記憶を作れば良い」
捨てるのではなく、忘れない様にすればいいだけ。
諦めるのではなく、覚えていようとすればいいだけ。
覚悟も何も必要が無い。
肩の力を抜いて、時々記憶のゴミ箱を見つけて漁れば良い。でも、誰かに呼ばれたら手を洗ってその人の元に行って、新しい記憶の上層を作り出す。
その結果、もしかしたら記憶の下層にあるモノは消えてしまうかもしれない。だけど、そんな時がきたということは、その記憶はきっと忘れても構わない記憶になったのかもしれない。
「―――――だったら、私は忘れない様にします。出来る限りで、周りを心配させないくらいに、のんびりと」
「それが良い。俺みたいなオッサンになったら嫌でも物忘れをして記憶の発掘をするんだ。それを子供の頃からするべきじゃないな」
そう言ってオジサンは突然私を抱え上げ、肩に乗せる。
大きなオジサンだから、肩の上から見た景色は凄く高かった。
「――――お嬢ちゃん、俺に依頼しないか?」
「依頼、ですか?」
「あぁ、依頼だ」
オジサンと私は壊れた道場、そして私の家を見る。
「俺はこれでも一応は建築会社の社員でな。時々は家のリフォームとかもしてる。だから、もしもお嬢ちゃんが家族の事を忘れず、思い出す事ができて、またこの家に戻って来たいと思うのなら―――それまでに、俺がこの家を直しておいてやる」
「……いいの?」
「と言っても、お嬢ちゃんに料金を請求するわけにはいかないし、会社としての仕事と言う事も無理だ。だから、これはあくまで俺の日曜大工、趣味の範囲での作業だ。完全に元通りとはいかないかもしれないが―――誰かと一緒に暮らせるくらいには、戻して見せるさ」
時間は掛るだろう。
すぐには元には戻せないだろう。
だけど、
「お願い、します……」
「あぁ、任された」
何時かは戻る。
戻らない時は戻るわけがない。時間の針は後ろには進めない。前に進む針と一緒に歩き出して、未来へと向かう。
「あ、でも……私も手伝います。此処は、私の大切な家ですから」
「それは助かるな。俺一人なら何時まで経っても直せないかもしれないから、お嬢ちゃんの手が在ったらすぐに元に戻せるかもしれないな」
そうして私は歩き出す。
オジサンと一緒に歩き出す。
みんなを起こして、学校に行こう。
遅刻しないように、急がずゆっくりと、学校に行こう。
加藤先生―――虎太郎先生とすずかちゃんとアリサちゃんと、一緒に学校に行こう。
「ところで、その間は何処に住み気だ?」
「あ、考えてなかったです」
前まで通りに一人で生活するのは、きっと無理だ。
「………行く所がなかったら、俺の部屋くるか?」
「そこまでしてもらうのは……」
「構わんさ。子供がいらない事を考えるな。こういう時は大人を頼れ」
「―――――それじゃ、お願いします」
こうして私はオジサンの家に厄介になる事になった。
なったん、だけど……
「―――――どうしてこうなった?」
「俺が聞きたいよ」
オジサン――九鬼さんは顰めた顔してお茶をすすり、向かい側に座った虎太郎先生も同じ様に顰めた顔をしながら煙草を吸い、私は苦笑しながらお菓子を食べる。
私達は今、虎太郎先生の部屋にいる……というより、虎太郎先生の部屋に厄介になっている。
「高町が此処にいるのはいい。だが、九鬼とやら。なんでお前さんが此処にいる?」
「気にするな。同じ死地を潜り抜けた仲じゃないか」
「そんな関係は知らん。どうしてこの狭い部屋にお前みたいな無駄にデカイ男と一緒に寝床を共にせにゃならんのだと聞いている」
「だから気にするな……ところで、今日の朝飯の味噌汁だが、少々味が薄いな。もっと味を濃くしろ」
「人の話を聞け」
どうして私達、九鬼さんと私が此処にいるかと言えば、理由は簡単なんだけど複雑なのです。
あの後、学校に行った後で私は荷物を持って九鬼さんの家に行きました。
「帰ったぞ」
「おじゃまします……」
ドアを開けると、綺麗なおばさ―――訂正、お姉さんが私を出迎えた。
「おかえり、九鬼さん。昨日はどうしたんだ?忘れモノをしたからって言って急に出て行ったけど―――――」
お姉さん、飯塚薫さんという人は九鬼さんと私を見て、固まった。
「あぁ、あの後色々とあってな。今日は直接会社に行ってきたんだ……」
「九鬼さん、その子は……」
気のせいだろうか、薫さんの顔が能面みたいな感じだ。きっと、前の私もあんな顔をしていたのかもしれない。
「今日から一緒に住む事になった」
と、簡単に説明し、靴を脱ぎ始める九鬼さん。
そして、肩をプルプルと振るわせる薫さん。
「―――――九鬼さん」
「ん、どうした?」
あれ?
なんか室内なのに風が吹いてる―――というか、なんか嵐な感じ?
その時、私は見た。
鬼を見た。
綺麗な鬼を見たんです。
「一体何処で……何処でそんな子を作ったんですか……」
「何を言っている?」
「私の知らない間に……私に内緒でこんな子が……こんな可愛い女の子がいたなんて……」
「いや、だから何の話を――――」
普段は運動が苦手な私だが、この時だけはそれこそ猫みたいな身軽な動作で外に飛び出した。
「出てけ、この浮気者ぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおお――――ッ!!」
九鬼さんの身体が宙を舞いました。
「どういうわけか、同居人にお嬢ちゃん、なのはが俺の子供だと勘違いされてな」
「それで追い出された、と……その同居人、お前さんのコレか?」
小指を立てて虎太郎先生は尋ねる……どうして小指を立てるんだろう?
「違う。俺とあの人はそんな関係じゃない」
「なら、どうしてこんな事になってるだ?」
「勘違いされたと言っているだろ」
「今すぐ事情を説明して帰れ」
「帰りたくても帰れなくてな。部屋の鍵はいつの間にか替えられてるし、電話は着信拒否。外から入ろうとしたらトラップの嵐だ……流石に諦めたよ」
フッと、カッコよく笑ってるのはいいのですが、なんかそれが逆にカッコ悪いです。
「だから、それまでは厄介になるさ」
「何で上から目線なんだよ、お前は」
「俺は客だぞ?客の俺を追い出すのか、アンタは?」
「客なら客らしくしろ……」
二人の間にバチバチと火花が散っているのが見えます。とてもじゃないけど、私にどうこう出来るレベルじゃないので、とりあえず傍観する。というか、傍観以外は出来そうにない。
「まぁ、あれだ。食費くらいは出す。だから泊めろ」
「断る。高町を置いて出ていけ」
「おいおい、なのはは良くて俺は駄目なのか?」
「当たり前だ。第一、この部屋を見てもわかるが俺には金がない。金がないからお前が幾ら食費を出そうとも水道光熱費その他諸々、色々と足りんのだよ」
「ふむ、そうきたか……」
九鬼さんはそう言って懐から茶封筒を取り出す。
「とりあえず、当面の食費だ」
ドンッと置かれた茶封筒の中には―――ぎっしりと詰まった札束。
「よし、居ていいぞ」
「早ッ!?」
「むしろ、ずっと居ていい。何時までも居ればいい。毎月この位払ってくれるのなら、何時までも居ていい」
「虎太郎先生……」
あの夜のカッコ良かった虎太郎先生が幻に思えてきました。
「助かる……さて、そういうわけでなのは。これからしばらく厄介になる身だ。色々と必要になる物があるから買い物に行くぞ――――その前に、掃除でもするか」
「その必要はない。いや、しなくていい。炊事洗濯は全て俺がやるから、お前は……いや、アナタはさっさと買い物に行ってくれ」
なんか、急に下手に出だした虎太郎先生……この人、本当に先生なのかな?
「いいのか?俺は客だぞ?」
「ははははは、客に掃除などさせたら俺の名が廃る」
既に廃っているとは、とても言えませんよね。
人と人妖と妖
三人の少女達を、こう呼んでもいいだろう。
「なのは、すずか、この後ゲーセンに寄ってかない?」
人と人妖。
「いいけど、その前に本屋さんによって良いかな?新しいお菓子のレシピが欲しいの」
人妖と人。
「あ、私も欲しい本があるんだった」
人と妖。
「それじゃ、本屋の後にゲーセンね。ふふふ、私の壁際ハメコンボが今日も火を吹くわよ」
時に笑い、時に涙し、時に支え合い、時に手を取り、時に共に歩む。
「お前等、俺の前で寄り道の話し合いするのは勝手だが、掃除はちゃんとしろよ」
ここは海鳴――――人妖隔離都市
「虎太郎、そういうアンタもサボってないで掃除しなさいよね」
「サボってない。俺はこれから職員会議で教頭とバトルするから、その為に精神集中してるんだ―――今度こそ、喫煙所の設置を了承させてやる
「虎太郎先生、まだ諦めてなかったんだ」
「諦めればいいの……」
「まぁ、虎太郎先生だし」
「そうね、虎太郎だし」
「虎太郎先生だからね、しょうがないよ」
「お前等、何気に俺の事を馬鹿にしてるだろ?」
此処に住まう人。
此処に住まう妖
此処に住まう人妖。
何時までも始まりで、何時までも終わらない。
そんな物語を紡ぐ人々を、こう呼ぶ。
【人妖編・後日談】『あやかしびと』
あとがき
人妖編・完結!!
やっと終わりましたよ、人妖編。というより、なのは編がやっと終わりました。平均が40ページくらいだったんで、気づけば200ページくらいいったかもね。
しかも、最後の三話が無駄に長くなった。長くし過ぎたので、色々とカットしたシーンも多くありました。
カット1:デビット&鮫島VS暴走忍
カット2:アリサ(本気モード)VSスノゥ
カット3:すずかVS影の剣士
余計なシーンが沢山あったのに、これだけ削りました。
特にバニングス家が完全にカットの対象になったので、何処かで活躍させましょうかね。
そんな感じで今後の予定。
予定では【閑話】もしくは【教育実習生編】。
閑話では
【人狼少女と必殺技】【神沢市と天狐】【サムライ少女と地球】の三つ。
教育実習生編は
【教育実習生とバトル高校(仮題)】【教育実習生と生徒会長(仮題)】【教育実習生と孝行娘(仮題)】【氷の死神と金色屍】
の四つです。
でも、教育実習生編は多分最後の一話だけ書けば次回につなげられる感じっすね。
それが終われば【弾丸執事編】です。
それまでに全部書くと、辿りつける気がしないね、うん。
そんな弱音を吐きながら、次回は閑話Or教育実習生編でお会いしましょう。
それでは~